上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 館林市・邑楽郡


群馬県・埼玉県・栃木県の3県境。群馬県の当該場所は邑楽郡板倉町海老瀬。

三県県境 (1)
3つの県が交わる県境は全国で40ヶ所以上あるといわれるが、そのほとんどが山中だったり河川中だったりする。そんな中、気軽に歩いて行ける3県境はここだけ。

3県境となっているのは、群馬県板倉町海老瀬・埼玉県加須市斧袋・栃木県栃木市藤岡町となる。もともとは3県境は渡良瀬川の中だったが、明治から大正にかけての改修工事により沼地となり、沼地の埋め立てにより耕地(水田など)になったころには県境はほぼ分からなくなっていたようだ。

三県県境 (2)
平成28年(2016年)に3県境に接する2市1町は協議・測量を行い3県境を確認・確定させ、コンクリート製の杭を打ち記念のプレートがはめ込まれた。

三県県境 (3)
現在は遊歩道も整備され、テーブルやベンチも置かれている。この水路はもとは渡良瀬川と谷田川だったことになる。この水路に沿って3県を3歩で行き来できる。実際にやってみた(笑)。

三県県境 (4)
この写真は栃木県から、群馬県(左上)と埼玉県(右上)を眺めていることになる。

三県県境 (5)
ボックスの中に記念スタンプやノートが置いてあった。スタンプは記念に押してきた。

3県境の記念プレートと記念スタンプは、それぞれ1度盗まれてしまったようだが再設置されている。こういういたずらは絶対にやめよう。いたずらではないな、盗みは犯罪だ!

3県境が観光資源化された発端は栃木県側の地権者さんが、個人的に自作の看板を立てて3県境をPRしたから。それが3自治体を動かしたことになる(主導したのは栃木市のようだ)。


邑楽郡板倉町海老瀬の長良神社。

海老瀬長良神社 (1)
中新田長良神社は明治3年(1870年)針ヶ谷七左衛門らが、水害から耕地を守るため瀬戸井村(現千代田町瀬戸井)長良神社を勧請したもの。瀬戸井長良神社は邑楽郡長良神社の本宮とされている。

海老瀬地区には複数の長良神社があるため、旧字名の中新田を用いた。当社は東洋大の南側に位置する。地元で実際にどう呼ばれて(区別されて)いるかは分からない。

海老瀬長良神社 (2)
海老瀬長良神社 (3)
海老瀬長良神社 (4)
社祠は小さいながらも彫刻が施され着色もされている。覆屋は昭和49年(1974年)に改築されている。

海老瀬長良神社 (5)
境内社・末社。右から浅間神社、御嶽神社、子権現。浅間神社の石宮は明治22年(1889年)の造立。

海老瀬長良神社 (6)
海老瀬長良神社 (7)
十九夜塔や青面金剛塔など。別記事でも書いたが、邑楽郡では「十九夜塔」が多い。月待信仰(講中)の地域性を感じる。


邑楽郡板倉町海老瀬の大杉神社。

海老瀬大杉神社 (1)
峯大杉神社は天保13年(1843年)大塚六左衛門が嶺耕地を代表し、茨城県稲敷郡桜川村の大杉神社から分霊を勧請したものである。天保11年(1841年)に渡良瀬川が決壊し洪水となり、多くの田畑が荒れ地と化したことからのようだ。

覆屋は昭和62年(1987年)の建立で、狛犬もその時に奉納されたようだ。

海老瀬大杉神社 (2)
神輿型をしたお社。神輿型というか神輿である。大杉神社の伝統芸能「大杉囃子」の神輿の渡御を兼ねているからかと思う(大杉さまの神輿をもって地区内各家を巡行して歩く)。

「大杉囃子」の元は大杉神社本社の「あんば囃子」で元和3年(1617年)ころの始まりとされる。醤油の醸造の成功祈願だったらしいが、「悪疫除け囃子」と称され各地域で独自に変化し、疫病・農作物の病虫害・流行病等の入村封じ込めなど、現在も多くの地域で伝承されている。

以前は地区内の家々を大杉さま神輿を担いで回ったが、昭和35年(1960年)ころから神社前で大杉囃子を囃すだけになったようだ。

海老瀬大杉神社 (3)
海老瀬大杉神社 (4)
峯大杉神社は峯住民センター敷地内の一角にあるが、同敷地内には宝塔や十九夜塔、青面金剛塔などもある。大杉神社の境内に住民センターがあるのか、住民センターの敷地内に大杉神社あるのかは不明。

板倉町海老瀬地区には複数の大杉神社(境内社含む)があるため、旧字名の峯を用いた。


邑楽郡板倉町海老瀬の一峯神社。

一峯神社 (1)
一峯神社 (2)
一峯神社は天平宝字8年(764年)勝道上人により二荒山別行所として二荒山権現を勧請し、嶺権現社としたのが始まりとされる。その後、藤原魚名により藤原氏の祖先神である天津児屋根命が奉斎され一峯神社となっている。天慶年間(938~47年)には藤原秀郷が当地に道城を築いて平将門の調伏祈願を行ったとされる。

明治45年(1912年)に字間田の日枝神社・神明宮、大正12年(1923年)には字頼母子の浅間神社を合祀している。

一峯神社 (3)
一峯神社 (4)
一峯神社 (5)
社殿は昭和55年(1980年)屋根を銅板葺に改修している。

一峯神社 (6)
社殿前の狛犬は文政3年(1820年)の奉納。

一峯神社 (7)
境内社・末社群。写真右端が浅間神社ということは分かったが、他は分からない。富森稲荷神社、天神社、道祖神があるという。

一峯貝塚
一峯神社の境内には一峯貝塚がある。約7,000年前のものとされる。もともと規模の小さな貝塚(径1~2m)であることもあり、現在ではほとんど痕跡不明になっている。なので、オレのような素人にはまったく何も分からなかった。


邑楽郡板倉町海老瀬の頼母子横穴墓群。

頼母子横穴墓群 (1)
頼母子横穴墓群は砂岩層をくりぬいて築かれている。昭和2年(1927年)の工事の際に2基確認され、昭和59年(1984年)に4基目が発見され内部調査を行っている。現在までに5基が確認されている(1基は個人宅敷地内)。築造時期は7世紀後半と考えられる。平成6年(1994年)に保護のため覆屋を設置している。

頼母子横穴墓群 (2)
頼母子横穴墓群 (3)
現在横穴部が開口しているのは2基(昭和2年に発見された1号墓と2号墓)。内部調査を行った4号墓は内部床面に直径1~8cm程度の河原石(榛名山二ツ岳産出の浮石質角閃石安山岩)が何層にも敷き詰められていた。玄室は奥行き2m、幅0.8m、高さ0.7mほどで、天井はドーム状になっている。

頼母子横穴墓群 (4)
板倉町文化財資料館に展示されている昭和2年出土とされる鉄製直刀(レプリカ)。副葬品があったことから「古代豪族の墓」とされている。

ところで、最初の写真でも分かるように、横穴墓の前は個人の畑となっている。また、保護のため金網柵もあり、近づいて正面から見学することができない。畑に入らないように斜めから頑張って見ることになる。

横穴墓の前に畑(私有地)があるのは仕様がないし、保護や安全確保のために金網柵を設けるのも仕様がないこと。とは言え、見る側からするとちょっと残念な状況ではある。

関連
 「板倉町海老瀬・板倉町文化財資料館


邑楽郡板倉町海老瀬の板倉町文化財資料館。

板倉町文化財資料館 (1)
板倉町文化財資料館は町内で発掘された土器や埴輪などが展示され、板倉町の歴史や水場の文化を紹介している。また、糸紡ぎ・機織りが体験することもできる。平成24年(2012年)に現在地へ移転している。

板倉町文化財資料館 (2)
板倉町文化財資料館 (3)
板倉町は利根川と渡良瀬川の合流地域あたり「水場」と呼ばれている地域が多い。その「水場」に生きる知恵などが、生活の中に取り入れられている。母屋よりも盛土で高くしたところに避難用の水塚(みつか)を作るなど。

板倉町文化財資料館 (4)
板倉町文化財資料館 (5)
板倉町文化財資料館 (6)
板倉町文化財資料館 (7)
板倉町の歴史を示すコーナーには、町内の古墳や遺跡から出土した遺物が展示されている。

板倉町文化財資料館 (8)
板倉町文化財資料館 (9)
板倉町文化財資料館 (10)
土偶や三角縁仏獣鏡も出土しているようだ。この2品はレプリカ展示。

板倉町文化財資料館 (11)
板倉町文化財資料館 (12)
板倉町には「貝塚」が多く残されており、縄文時代ころは海だったことを示している。まあ、貝塚は先史時代の人々のゴミと言われているけど。展示品は実際の貝塚の表面を剥ぎ取ったもの。ちなみに、群馬県内で貝塚があるのは板倉町だけである。

板倉町文化財資料館 (13)
「ご自由にお持ち帰りください」とあったので、栞と缶バッジをいただいてきた。どちらも板倉町を題材にしたオリジナル。いくつか絵柄の種類があった。

資料館としての規模が大きいわけではなく展示物も少ないけど、手作り感あふれる展示になっている。もちろん、良い意味で。


邑楽郡板倉町海老瀬の愛宕神社。

海老瀬愛宕神社 (1)
海老瀬愛宕神社 (2)
海老瀬愛宕神社の由緒は不詳。境内に享和15年(1730年)銘の遺物があり、それ以前の創建と推定される。

海老瀬愛宕神社 (3)
境内社・末社と思われる石宮。詳細は分からない。

海老瀬愛宕神社 (4)
海老瀬愛宕神社 (5)
下新田住民センターを挟んだところにも石塔・石碑が並んでいる。愛宕神社との関連は分からないが、十九夜塔、馬頭観音塔、伊勢神宮参拝記念碑など。

板倉町に限らないが、邑楽郡各地で「十九夜塔」を見かける。しかし、オレの住んでいる西毛地方ではほぼ見かけない。「二十二夜塔」か「二十三夜塔」がほとんど。月待信仰(講中)の地域性を感じる。

海老瀬愛宕神社 (6)
板倉町の文化財「愛宕神社境内火番小屋造り」の解説板。「小屋造り」とあるので何かの建築様式かと思い、「その小屋ってどこにあるの?」って探してしまった。よく読むと「火番小屋を造る」祭礼のことだった。

12月24日に氏子各戸が集まり「梯子・鳶口・まとい・半鐘と槌・水桶・火番小屋」をわらと篠竹で造る。愛宕神社は防火の神なので、防火関連の民俗行事。口碑によると150年ほど前から続いているという。

火番小屋
火番小屋のイメージが湧かなかったのでいろいろ探してみたら、群馬TVのサイトに写真があったので借用。「ぐんま!トリビア図鑑」で紹介されたようだ。


邑楽郡板倉町海老瀬の稲荷神社と十一面観音堂。

海老瀬稲荷神社 (1)
海老瀬稲荷神社 (2)
下新田稲荷神社の由緒は不詳だが、京都伏見稲荷大社より勧請したものとされている。社内にある扁額には安永5年(1776年)とあるので、創建もしくは社殿の建立などと関連しているかもしれない。

海老瀬地区には複数の稲荷神社があるため、旧字名の下新田を用いた。当社は東洋大のすぐ東に位置する。地元で実際にどう呼ばれて(区別されて)いるかは分からない。

海老瀬稲荷神社 (3)
海老瀬稲荷神社 (4)
海老瀬稲荷神社 (5)
社殿は平成2年(1990年)に大改修されている。

海老瀬稲荷神社 (6)
石仏塔があったが、馬頭観音だと思う。六臂あるように見えるので。

海老瀬十一面観音堂 (1)
海老瀬十一面観音堂 (2)
稲荷神社のすぐ隣にある十一面観音堂。十一面観音堂は寛政3年(1791年)観善快念法師が水害・干ばつ、疫病からの救民の場として創建したとされる。また安産・子育てにも御利益があり、地域住民からの崇敬も厚い。なお、十一面観音堂は龍海山松安寺の境外仏堂である。

海老瀬十一面観音堂 (3)
石塔、石碑が集積されている。右から2番目の石塔には「観善快念法師霊位」とあるので、観善快念法師の墓石のようだ。中央とその左の石塔は馬頭観音。

稲荷神社も含め境内整備と観音堂改修、観音像修復を平成6年(1994年)から4年の歳月をかけ実施。平成10年(1998年)に完成している。


邑楽郡板倉町板倉の雷電神社。その2回目。
(その1は「板倉町板倉・雷電神社」参照)

雷電神社 (1)
末社の八幡宮・稲荷神社。神社としての創建はいずれも不詳。社殿は天文16年(1547年)飯野城主・篠崎三河守の建立とされる。享保19年(1734年)に大改修が行われ、その後昭和35年(1960年)に復元修理が行われている。

天文16年の造営とすると約500年前の建築となる。これは群馬県内で現存する最古の木造建築物として国の重文に指定されている。

雷電神社 (2)
狛犬の造立(奉納)は不明だが、風化が進み丸みを帯びている。これが逆に歴史を感じさせる風情となっている。

雷電神社 (3)
雷電神社 (4)
雷電神社には2頭の神馬が祀られている。東の神馬は「足腰健康の守護」。赤い神馬とされるが、元は赤かったのかもしれないが、塗料は落ちてしまっているようだ。

雷電神社 (5)
雷電神社 (6)
西の神馬は「眼の健康の守護」。白い神馬。

雷電神社 (7)
雷電神社 (8)
館林七福神のうち福禄寿を祀る。諸願満足の宝玉を捧げ持ち、元気な子どもを連れている。

雷電神社 (9)
雷電神社の神の化身といわれる雷童子。ふと現れて助けてくれるという。平成29年(2017年)の造立。伝承(伝説かな)では、坂上田村麻呂が蝦夷との戦いで苦境に陥ったときに現れて助けてくれたとされる。そのため田村麻呂は雷電神社の社殿を造営したと伝わる。

雷電神社 (10)
弁財天像。手前の丸い石は卵を模している。この弁財天に卵をお供えし拝礼。その卵を持ち帰り、その日の内に焼くなどして食すると種々の霊験あるという。卵石をなでるだけでも良いようだ。

雷電神社 (11)
雷電神社 (12)
石に浮き出た手形。大相撲史上最強力士といわれる雷電為右衛門の手形だという。雷電つながりだろうが、本物かどうかは知らない。

雷電神社 (13)
雷電神社 (14)
境内の裏手側、道を挟んだところにある社務所。そこになまずの像「なまずさん」がある。なでると地震を除け元気回復、視力改善、自信が湧き出るなどのご利益があるといわれ親しまれている。


邑楽郡板倉町板倉の雷電神社。
関東地方に数多い雷電神社・雷電社の総本社となる。

雷電神社 (1)
雷電神社 (2)
板倉雷電神社は推古天皇6年(598年)聖徳太子が天の神の声を聞いて、伊奈良の沼と呼ばれる湿地帯の小島に祠を設け、天の神を祀ったのが始まりとされる。主祭神は火雷大神・大雷大神・別雷大神だが、聖徳太子像も安置されている。

一の鳥居は昭和40年(1965年)の建立。

雷電神社 (3)
雷電神社 (4)
雷電神社 (5)
社殿は坂上田村麻呂が延暦20年(801年)に建立した伝わる。延宝2年(1674年)には当時館林城主であった徳川綱吉が再建している。そのため葵紋が付いている。現在の社殿は、拝殿が文政2年(1819年)、本殿が天保6年(1835年)の建立。

拝殿・幣殿内部には計230枚もの花鳥風月などを描いた天井絵が施されている。これは館林の浮世絵師・北尾重光が描いたものである。

雷電神社 (6)
本殿は正面の真ん中に一本柱が立ち、その左右に扉が付く様式。全国でも7ヶ所にしか見られな造りとなっている。雷さまの外に出ないようにしているとされる(外からは分かりづらいが)。

雷電神社 (7)
雷電神社 (8)
雷電神社 (9)
雷電神社 (10)
雷電神社 (11)
本殿には見事な彫刻が彫られている(素戔嗚、玉巵弾琴、神功皇后と武内宿禰など)。彫刻は上州花輪村(現、みどり市花輪)の石原常八主信(石原三代の二代目)の手による。

雷電神社 (12)
北東側の縁下にある彫刻は鰻を捕る子どもたち。これは北東が鬼門にあたることから、魔性を持つとされる鰻を捕まえることにより悪難を避ける方位除けとされる(ちょっとこじつけっぽいけど)。

雷電神社 (13)
雷電神社 (14)
社殿裏の奥宮。慶応4年(1868年)の建立。伊邪那美大神を祀り、縁結び・子授け安産・家内円満のご利益があるとされている。

雷電神社 (15)
雷電神社 (16)
奥宮社殿にも見事な彫刻が施されている。作者は分からない。雷電神社の拝殿・幣殿・本殿とこの奥宮までが「雷電神社社殿」として群馬県の重文に指定されている。

もう少し紹介したいものがあるのでつづく。


邑楽郡板倉町籾谷の城之宮(きのみや)神社。

城之宮神社 (1)
城之宮神社 (2)
城之宮神社の創建は不詳だが、社殿建築様式や彫刻の状況から慶長(1596~1615年)のころと推定される。大正8年(1919年)に菅原神社、神明宮、佐多彦神社を合祀している。

鳥居は平成3年(1991年)の建立。

城之宮神社 (3)
城之宮神社 (4)
社殿前の狛犬は平成13年(2001年)の奉納。

城之宮神社 (5)
城之宮神社 (6)
城之宮神社 (7)
社殿の建立年などは分からないが、平成10年(1998年)に改修されている。

城之宮神社 (8)
社殿脇に大正期の合祀に関する碑がある(左側)。この碑には佐多彦神社と神明宮のことしか記されていない。ちなみに菅原神社の合祀は板倉町のHPを参考にしている(合祀碑のとなりの碑は開墾紀念とあったので新田開発のもののようだ)

城之宮神社の主祭神は武内宿禰である。例祭時には白馬にまたがった勇壮な武将姿のご神体が開帳されるという。武内宿禰の神像だろうか。


邑楽郡大泉町東小泉の厳島神社。

東小泉厳島神社 (1)
東小泉厳島神社は、天正7年(1579年)に勢光寺開山の了海が弁天尊を勢光寺内のお堂に安置したのが始まり(当時は弁天堂と呼ばれた)。本尊の弁天象は弘法大師の作とされる。その後、寛永7年(1630年)勢光寺3世・了信が現在地に竹堂を建て勢光寺から遷している。

明治初年に勢光寺から分かれ厳島神社となり、明治41年(1908年)に菅原神社と合併。その菅原神社も明治45年(1912年)長良神社と合併、小泉神社となっている。

しかし地元の方々は、従来通り弁天尊を福徳・智慧・財宝の神として信仰し、毎年例祭も行っているという。

東小泉厳島神社 (2)
東小泉厳島神社 (3)
東小泉厳島神社 (4)
堂内には小さなお社に鏡が置かれている。鏡がご神体になっているのかな。右側には弁天像もある(こちらがご神体かな)。まだ新しそうだ。

東小泉厳島神社 (5)
境内の弁天像。平成17年(2005年)の造立。弘法大師作といわれる弁天像はいつしかなくなり、人々は虚しくお参りすることになったので、代わりに建立されたようだ。同内の弁天像も同時期の造立かも。

東小泉厳島神社 (6)
境内入口の道祖神。文化8年(1811年)の造立。

弁天さまは元々仏教の守護神である天部だが、神仏習合で神道にも取り込まれている。ここがオレのような素人には分かりづらいところ。この厳島神社のように祀られているところも多い。しかし一方で仏さまとしてお寺に安置されているケースも多い。

明治の神仏分離時に神道色の強かった弁天堂(社)の多くは神社となったらしいので、ここもそうなんだろうとしか言えない。


邑楽郡大泉町東小泉の普照山勢光寺。

勢光寺 (1)
勢光寺は天正7年(1579年)小泉城主・富岡秀親(富岡氏4代)の室・知月院が、僧・了海を招き清光寺を創建。亡夫の菩提を弔った。寛文12年(1672年)京都・知恩院の末寺になった際、勢光寺と改称している。

勢光寺 (2)
勢光寺 (3)
山門には天井絵が施されている。

勢光寺 (4)
勢光寺 (5)
門前の石仏群。お地蔵さんは延宝4年(1676年)の銘があった。

勢光寺 (6)
本堂は文化10年(1813年)に焼失。その後、庫裡を兼用の仮本堂としてきたが、本堂、庫裡とも新築されたようだ。

勢光寺 (7)
勢光寺 (8)
勢光寺 (9)
聖徳太子の線刻碑。大正10年(1921年)の建碑。聖徳太子の1300年忌とあったと思う。

勢光寺 (10)
庚申供養塔と青面金剛像など。宝永(1704~11年)、享保(1716~36年)の銘があった。

勢光寺 (11)
勢光寺 (12)
鐘楼と梵鐘。勢光寺の梵鐘は先の大戦時に供出されて以来無かったが、平成31年(2019年)に檀徒の方により鐘楼と共に寄進されている。

勢光寺 (13)
明治6年(1873年)に現在の大泉北小(当時は求道館)が勢光寺に開校した旨の記念プレートがあった。


邑楽郡大泉町東小泉の羽黒山梅梢寺。

梅梢寺 (1)
梅梢寺は元禄8年(1565年)龍泉院2世・芳庵正東が梅梢庵として開創したのが始まり。境内に梅の木が多かったので、この名称になったとされる。

梅梢寺 (2)
寺標前の地蔵像と馬頭観音石碑。

梅梢寺 (3)
本堂は昭和51年(1976年)の建立。本堂前の灯籠は昭和60年(1985年)の奉納。

梅梢寺 (4)
境内の招福観音像。平成10年(1998年)の造立。

梅梢寺 (5)
墓地入口の六地蔵。

梅梢寺の北に羽黒権現があり、当地が羽黒と呼ばれていたので羽黒山の山号になった。なお、羽黒権現は富岡氏家臣・茂木若狭が天文15年(1546年)に勧請したといわれるが、現在はその社は不明となっている。


邑楽郡大泉町上小泉の夜盗(よとう)の墓。
大泉町斎場内(道路側)にある。

夜盗の墓 (1)
夜盗の墓 (2)
その昔、間之原地区の農家(旧家)に盗賊が押し入り金品を奪って逃げたが、使用人に追いつめられ切り殺された。そのたたりを恐れ墓を建て霊を慰めた。

これを「夜盗の墓」と呼んで、今でもお参りをする人がいるという。


邑楽郡大泉町北小泉の雷電神社。

小泉雷電神社 (1)
小泉雷電神社 (2)
北小泉雷電神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)小泉神社に合祀されたが、西原地区氏子の皆さんの懇願により旧社地に再び雷電神社として祀られている。

小泉雷電神社 (3)
小泉雷電神社 (4)
小さなお社の中に神殿が鎮座している。

小泉雷電神社 (5)
境内は狭いがその大半が緑で覆われ、しかも整備も行き届いている。藤棚のように見えたので、その季節には花も綺麗だろう。

西原地区の言い伝えでは、大昔に大洪水があり雷電さまのお宮が板倉まで流され、そのまま板倉で祀られたという。そのため、西原の雷電さまは板倉の雷電神社より古く、霊験もあらたかだといわれる。


邑楽郡大泉町西小泉の小泉大神宮。

小泉大神宮 (1)
小泉大神宮の由緒は不詳。元は神明宮(社)で、正善院の山号の元になっている。
(「大泉町西小泉・天照山正善院」参照)

明治10年(1877年)富士之越(現在の富士)浅間神社の境内へ遷る。その後、旧社地に社殿を建立し祭祀している。その際に大神宮となっている。

小泉大神宮 (2)
小泉大神宮 (3)
現在の社殿は平成23年(2011年)の建立。

神霊は浅間神社に遷座後、小泉神社に合祀されていたようだが、小泉大神宮の創建に伴い分祀されたようだ。


邑楽郡大泉町西小泉の天照山正善院。

正善院 (1)
正善院は龍泉院7世・伝国正的が松原庵として創建。庵近くに神明社があり、そこから天照山の山号とした。万治元年(1658年)当地の石井家が僧・全鉄を迎え一宇を建立。その後、明和8年(1771年)に石井家が開基となり伽藍を整備し正善院となっている。

正善院 (2)
正善院 (3)
本堂は平成20年(2008年)の新築建立。

正善院 (4)
六地蔵は平成6年(1994年)の奉納。

正善院 (5)
境内の聖観音像。

正善院 (6)
正善院 (7)
延命観音菩薩像。通称ぽっくり観音とある。平成15年(2003年)の建立。

延命観音は呪いや毒害から守り、寿命を延ばす功徳があるとされる。人生最後の病に伏せりしも、延命観音の手引きによりぽっくり極楽浄土に導かれることから「ぽっくり観音」というらしい。


邑楽郡大泉町中央の瑠璃山常光寺。

常光寺 (1)
常光寺は龍泉院2世・芳庵正東の開山。芳庵正東の入寂が天正4年(1576年)なので、創建はその前となる。その後、元禄年間(1688~1704年)に現在地に移転。その際の碧天觜印を中興開山としている。

常光寺 (2)
念仏供養の地蔵像。平成23年(2011年)の造立。

常光寺 (3)
六地蔵は平成元年(1989年)の造立。

常光寺 (4)
常光寺 (5)
本堂は昭和43年(1968年)の建立。

常光寺 (6)
常光寺 (7)
境内の薬師堂(瑠璃光庵)。本尊の薬師如来は厨子の中。この薬師如来像は鎌倉時代の仏師・運慶の作といわれる。

常光寺 (8)
聖観音像。

常光寺 (9)
庫裡前には埴輪が置いてあった。右側の物は有名な「倚子に腰かけた少女」(古海天神山古墳出土)だね。国の重要文化財に指定されており、実物は国立東京博物館にある。大泉町文化むらの埋蔵文化財展示室でレプリカを見ることができる。
(「大泉文化むら・埋蔵文化財常設展示室」参照)


邑楽郡大泉町中央の西宮神社。

大泉西宮神社 (1)
大泉西宮神社 (2)
大泉西宮神社は昭和23年(1948年)に小泉町(当時)商工会の総意により、兵庫県・西宮神社の分霊を勧請し創建された。商売繁盛を祈念するとともに、地域を盛り上げようとしたもの。

ちなみに、小泉町と大川村が合併し大泉町になったのは昭和32年(1957年)のこと。

大泉西宮神社 (3)
大泉西宮神社 (4)
大泉西宮神社 (5)
拝殿は創建の数年後に建立されている。

大泉西宮神社 (6)
本殿は創建時に、中島飛行機の産業報国館隅にあった神殿を商工会長が直々に富士重工(現スバル)からもらい受けたもの。

大泉西宮神社 (7)
大泉西宮神社 (8)
境内隅にある庚申供養塔。宝暦10年(1760年)の造立。西宮神社は中部公民館敷地内(鳥居の写真に写っている右側の建物)にあるので、庚申塔は元々あったものと思う。白いカップがお供えされている。

当地は正眼寺の前身である正眼庵を開創した富岡秀高の室・妙智尼の屋敷跡との説もある。
(「大泉町城之内・赤城山正眼寺」参照)

西宮神社といえば恵比須講。毎年11月19日、20日に行われる。当日は境内までの道にはたくさんの露店が並ぶ。熊手などがが売れるたびに、景気の良い手締めの音が鳴り響く。その他、大泉スタンプの謝恩抽選会、季節の果物・野菜の即売や甘酒が振舞われる。


邑楽郡大泉町富士の鹿島浅間神社。

鹿島浅間神社 (1)
鹿島浅間神社は承平元年(931)佐貫荘荘管・佐貫良綱の勧請と伝わる。同年の6月1日(旧暦、今の7月)にこの地方一帯に雪が降り、これは浅間明神の怒りに触れたと考えてのものといわれる。

鹿島浅間神社 (2)
石段は脇の巨木の根の影響か、波打っている。

鹿島浅間神社 (3)
鹿島浅間神社 (4)
石段横の富士登山33度記念石碑と馬頭観音。馬頭観音には安永4年(1775年)の銘がある。

鹿島浅間神社 (5)
鹿島浅間神社 (6)
鹿島浅間神社 (7)
社殿は富士塚の上に建つ。小さい円墳のような気がしないでもないが。

鹿島浅間神社 (8)
浅間神社(木花咲耶姫命)は安産の神・子育ての神とされる。毎年の初山祭は、赤ちゃんの額に御朱印を押して祈願するので、「ぺたんこ祭り」といわれる。写真は大泉町広報情報課の公式ツイッターから借用。

江戸時代から続いている伝統行事で、赤ちゃんの無病息災、無事成長を願うもの。男の子と女の子では違うご朱印を押す。

YouTubeに「初山祭」の動画があったので、貼り付けておきます。




館林市富士原町の富士嶽神社でも同様の行事が行われている。
 「館林市富士原町・富士嶽神社


邑楽郡大泉町城之内の社日稲荷神社。
小泉神社の境内社である。(小泉神社は「大泉町城之内・小泉神社-」参照)

社日稲荷神社 (1)
社日稲荷神社 (2)
社日稲荷神社は文化13年(1816年)長良大明神のご託宣により、長良神社(現在の小泉神社)境内に社殿を造営し社日大神を勧請、社日神社として創建。昭和48年(1973年)に京都・伏見稲荷から分霊を勧請、翌年に社日稲荷神社と改称している。

社日とは雑節のひとつで、春には五穀の種を供えて豊作を祈願し、秋にはその年の収獲に感謝するという土地の守護神を祀る日。

鳥居は昭和49年(1974年)の建立。扁額の揮毫は福田赳夫元首相。大蔵大臣とあるので、当時は大蔵大臣であったようだ。

社日稲荷神社 (3)
社日稲荷神社 (4)
社日稲荷神社 (5)
明治10年(1877年)に長良神社(小泉神社)の拝殿が再建された際、その旧拝殿を移している。明治31年(1898年)に社殿を再建。

拝殿の扁額も揮毫は福田赳夫元首相(肩書きは鳥居同様大蔵大臣)。ちなみに、小泉神社の拝殿に掛かる扁額も揮毫も福田赳夫元首相。肩書きは内閣総理大臣になっている。

社日稲荷神社 (6)
社日稲荷神社には「探湯(くがたち)神事」が伝承されている。神前に供えられている大釜中の熱湯に小笹を浸し、それを全身に浴び神に忠誠を誓い、神託を仰ぐというもの。写真は大泉町HPから拝借。

文化13年の創建以来3月と9月の例祭時に行われ、家内安全・厄難除け等の神事として受け継がれている。


YouTubeに「探湯神事」の動画があったので、貼り付けておきます。


邑楽郡大泉町城之内の小泉山成就院。

成就院 (1)
成就院は元慶年間(877~85年)龍賀和尚の開山、築比地次郎良基の開基と伝わる。永正年間(1504~21年)に富岡直光(富岡氏の祖)が小泉城内へ移している。

開基の築比地次郎良基は、佐貫荘の荘官だった佐貫弾正良綱の次男である。元慶7年(883年)に小泉神社(当時は長良神社)を創建している。
(小泉神社は「大泉町城之内・小泉神社」参照)

成就院 (2)
成就院 (3)
参道の六地蔵と青面金剛像。六地蔵は昭和63年(1988年)の建立。

成就院 (4)
本堂は天正年間(1573~93年)、文政11年(1829年)に火災で焼失。現在の本堂の建立年は不明だが、昭和49年(1974年)に改築されている。本尊の不動明王は弘法大師の作とされ、数度の火災からも難を逃れたといわれる。

成就院 (5)
境内の不動明王の剣の石碑。

成就院 (6)
成就院 (7)
子育て観音。由緒などは分からない。

成就院 (8)
鐘楼には梵鐘がない。先の大戦時に供出し、再建されてないのかな。

成就院 (9)
本堂前の弘法大師像。弘法大師1150年御遠忌記念。昭和59年(1984年)の建立。

成就院は大泉町で現存する最古のお寺とされる。


邑楽郡大泉町城之内の赤城山正眼寺。

正眼寺 (1)
正眼寺は永禄2年(1559年)富岡秀高の室・妙智尼が正眼庵を開創したのが始まり。ちなみに秀高は富岡氏5代目。寛永年間(1624~45年)に僧・慈恩が一寺を建立、正眼寺となる。

正眼寺 (2)
正眼寺 (3)
門前の聖観音像と六地蔵。いずれもまだ新しい。

正眼寺 (4)
正眼寺 (5)
本堂は昭和61年(1986年)の建立。

正眼寺 (6)
正眼寺 (7)
境内の十王堂。堂内には十王の他3体置かれている。中段の奪衣婆しか分からない。

十王は道教や仏教で地獄において死者への審判を行う10王(尊)。閻魔大王が有名だ。現在も初七日から49日(77日忌)や100か日(100日忌)などの法要を行う。これらは十王の裁きを受けることに対し、死者への減罪の嘆願とされる(宗派によって様々ではあるが)。

元々ここは聖観音(小泉観音)を祀る観音堂だった。正眼寺は東上州観音霊場の第10番札所になっている。現在、聖観音は本堂内に祀られている。

門をくぐると手水舎がある(写真はないけど)。これは境内に赤城神社が守護神として祀られていた名残りと考えられる。山号の赤城山もここから来ている。赤城神社は明治初年の神仏分離により、他へ遷されたのだと思う。


邑楽郡大泉町城之内の八幡宮。

城之内八幡宮 (1)
城之内八幡宮は延徳元年(1489年)小泉城主・富岡直光(富岡氏の祖)により、小泉城本丸の西北塁上に城の守護神として祀られている。

城之内八幡宮 (2)
現在の石祠は昭和7年(1932年)の建立。

小泉城は延徳元年に富岡直光により築城されている。現在は本丸と二の丸の一部が城之内公園として整備され、町民の憩いの場となっている。
(「大泉町城之内・小泉城址」参照)

以前の訪問は平成24年(2012年)だが、相変わらず綺麗な公園だ。前回と同じような写真だが、いくつか撮ってきたので。
城之内公園 (1)
城之内公園 (2)
城之内公園 (3)
城之内公園 (4)
訪問日はちょっと暑い日だったが、芝生にテントを張って遊んでいる家族連れや木陰で読書をしている人など、それぞれの楽しみ方で過ごしていた。


邑楽郡大泉町坂田の蚕福山(こふくさん)神宮。
前回の坂田長良神社の境内社になる。(「大泉町坂田・長良神社」参照)

蚕福山神宮 (1)
蚕福山神宮 (2)
蚕福山神宮 (3)
蚕福山神宮の由緒は不詳。もとは東京三洋電機(現パナソニック)の構内に祀られていたが、中島飛行機製作所建設の際に現在地に遷している。とすると、大正8年(1919年)ころのことかな。

蚕福山神宮 (4)
蚕福山神宮 (5)
蚕福山神宮 (6)
本殿はこけら葺き、朱塗りで獅子頭や花鳥の彫刻が施されている。本殿は京都から運んだとの説がある。また、この際の受取人が平将門との伝説もある。

蚕福山神宮 (7)
社殿裏に平将門の墓(供養塔)がある。承平2年(932年)相馬小治郎とある。これは明治初年に将門の末裔とされる相馬氏が造立したもの。この供養塔も蚕福山神宮とともに遷されている。

将門が討死したのは天慶3年(940年)だが、承平2年は何だろう? 先に書いた蚕福山神宮の本殿を運ばせたのが将門で、それが承平2年なのかな。将門供養塔は遷座前の蚕福山神宮境内に造立されていることから、そんな想像をしてみた。

また相馬氏と将門の繋がりに関しては、将門の直系(将門の子・将国の子孫)とする説、将門の養子になった(とされる)平良文の末裔である千葉氏の分家とする説など、いくつかある。


邑楽郡大泉町坂田の長良神社。

坂田長良神社 (1)
坂田長良神社の由緒は不詳。千代田町瀬戸井の長良神社からの勧請と思われる。

坂田長良神社 (2)
坂田長良神社 (3)
坂田長良神社 (4)
社殿建立年は不明だが、拝殿は最近の改築のようだ、

坂田長良神社 (5)
坂田長良神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。

坂田長良神社 (7)
坂田長良神社 (8)
少し高い丘のようになっているので富士塚だと思う。邑楽郡の神社には富士塚が多いので。丘上に浅間神社(と思う)があるが、木の枝が前面を覆っていてよく見えず。枝が非常にしっかりしていたので、避けることもできなかった。

坂田長良神社 (9)
境内の隅に土俵がある。奉納相撲が行われるのだろうか。

坂田長良神社 (10)
鳥居の向かって右側(坂田長良神社の境内ではない)にある双体道祖神。もとは十字路の角の笹薮の中に隠れていたものを遷している。「推定200年前の造立」とお疲れ気味の案内板に書いてあった。

坂田の道祖神は、仲むつまじい男女2人の神様が彫られており、別名「恋道祖神」という。


邑楽郡大泉町吉田の榛名神社。

吉田榛名神社 (1)
吉田榛名神社は明治33年(1900年)に千吉氏が所有権を取得し祭事を行っていたが、大正3年(1914年)ころから近隣12名も加わり、共同で管理を行っている。

石宮には文久2年(1862年)の銘がある。ご神体は「馬に乗った武将」とのこと。

吉田榛名神社 (2)
手前には大日如来塔と庚申塔。庚申塔には「鵬斎」とあったので、亀田鵬斎の揮毫と思われる。亀田鵬斎は千代田町出身の江戸時代の書家・儒学者。
(「千代田町上五箇・愛宕神社」参照)

吉田榛名神社 (3)
榛名神社(石宮)の横には庚申供養塔。コンクリートで固められているらしく、雨水がたまっていた。

もともと当所には大きな池があり、その池の中央の島に石宮は祀られていた。その裏側には大きな藤の古木、参道には大きな松の木が枝を張って厳粛な雰囲気であったという。


邑楽郡大泉町吉田の青麻神社。

青麻神社 (1)
青麻神社は元亀元年(1570年)吉田村の鄕氏・田沼源内清房が磐城国の青麻神社から分霊を勧請。以来、吉田村や近隣の人々から崇敬されている。

清房が中風を患った際、霊夢で磐城国青麻神の霊験に触れ、はるばる青麻神社を参拝し中風平癒の祈願を行った。すると、21日にして全治したことから青麻神を勧請したという。

青麻神社 (2)
青麻神社 (3)
青麻神社 (4)
社殿は昭和51年(1976年)の建立。扁額は「青麻三光宮」。

青麻神社 (5)
社殿横の庚申塔。寛文9年(1669年)の造立。金剛五仏と三菩薩が印刻され、その上に日月、下に二鶏・三猿が陽刻されている。大泉町最古の庚申塔。

青麻神社 (6)
地蔵像。「子守多美子地蔵尊」とあった。

青麻神社 (7)
二十二夜供養塔(如意輪観音)や青面金剛像。如意輪観音は明和4年(1767年)、青面金剛は享保元年(1716年)、三猿は延宝8年(1680年)の造立。

青麻神社は由緒のように「中風除けの神様」として、現在も多くの方が参拝する。明治の末には境内に風呂をたて、湯治を兼ねた信心が人気を集めたという。

同じように中之条町四万には「中風除けの寺」青麻山薬王寺がある。
(「中之条町四万・青麻山薬王寺」参照)


邑楽郡大泉町吉田の長良神社。

吉田長良神社 (1)
吉田長良神社は長柄神社(邑楽町)からの勧請と伝わる(年代不詳)。邑楽町の長柄神社は邑楽郡の一宮。(邑楽町篠塚・長柄神社」参照)

吉田長良神社 (2)
鳥居が2基並んでいるが、前の赤鳥居は平成25年(2013年)建立の新しいもの。後ろの石鳥居は大正10年(1921年)建立。

吉田長良神社 (3)
吉田長良神社 (4)
社殿の建立年などは不明。拝殿は境内より少し高く、弊殿・本殿はさらに高くなっている。

吉田長良神社 (5)
吉田長良神社 (6)
境内社の羽黒神社や諏訪神社などと青面金剛像。

吉田公園 (1)
吉田長良神社の裏手は吉田公園になっている。神社との境もないので、境内の一部なのかもしれない。

吉田公園 (2)
ブランコ・滑り台・雲梯などの定番遊具の他に、ゾウとタコのオブジェ? があった。ゾウの方は背中に乗れるので遊具かもしれないが、タコはどう遊ぶのだろう?

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