上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 渋川市・北群馬郡


渋川市白井の愛宕神社。

白井愛宕神社 (1)
白井愛宕神社 (2)
白井愛宕神社の創建は不詳だが、白井城の雷神・防火神として祀られたと考えられる。白井城の築城時期の詳細は不詳だが、室町時代中期(1450年前後)と推定されている。

白井愛宕神社 (3)
白井愛宕神社 (4)
白井愛宕神社 (5)
社殿は比較的新しく、近年に改修されたと思われる。

白井愛宕神社 (6)
拝殿の彫刻。鶴と松の彫刻で縁起が良い。

白井愛宕神社 (7)
ご神木の大ケヤキ。樹齢約600年と推定され、神社創建と同時に植樹されたと考えると年代的にも辻褄が合う。

白井愛宕神社は、住所は白井だが吹屋地区が管理している。以前紹介した峯薬師も、住所は白井だが吹屋地区が管理していた(現在は源空寺が管理)。
(「渋川市白井・鳳来寺峯薬師堂」参照)

吹屋地区は旧長尾村、白井地区は旧白郷井(しらごうい)村(両村が合併して子持村)なので、合併時の地割りの関係かな。


渋川市中村の早尾神社。

中村早尾神社 (1)
中村早尾神社 (2)
中村早尾神社の創建は不詳だが、上野国神名帳に記載の「家尾明神」とされる古社である。「家尾」が「早尾」に訛ったといわれる。これは前回紹介した半田早尾神社と同様(「渋川市半田・早尾神社」参照)。どちらが本社だろう?

また伝承によると、豊城入彦命が当地を治めた際、上村・中村・下村と名付け中村の地に自ら勧請したともいわれる。豊城入彦命は第10代・崇神天皇の皇子で、東国を平定し上毛野氏の始祖とされている。

その他にも、創建は白鳳3年(674年)との伝承もある。この白鳳という年号は私年号(日本書紀に出てこない年号)。

中村早尾神社 (3)
中村早尾神社 (4)
中村早尾神社 (5)
社殿は平成20年(2008年)の改築。正徳3年(1713年)に「奉再興遷宮正一位早尾大明神」の祈祷札が現存しているので、このとき再建されているようだ。

中村早尾神社 (6)
中村早尾神社 (7)
ご神木の大ケヤキは根元周り11m、目通り7.3m、高さ19m。以前はもっと高かったが、幹の空洞化が進み危険になったので平成8年(1996年)に、9mのところから伐採し治療を行っている。樹齢は600年とも1000年ともいわれる。実はこのケヤキは2代目で、初代は枯れてしまい切り倒されている。なお、初代は豊城入彦命が当社を勧請した際に、手植えしたとの伝承がある。

社宝として武田信玄が白井城攻略の際に奉納したという備前光忠作(とされる)刀一口が残されている(実際に白井城攻略にあたったのは真田氏)。


渋川市半田の早尾神社。

半田早尾神社 (1)
半田早尾神社 (2)
半田早尾神社 (3)
半田早尾神社の創建は不詳だが、上野国神名帳に記載の「家尾明神」とされる古社である。「家尾」が「早尾」に訛ったといわれる。

半田早尾神社 (4)
池の水は干上がっていた。

半田早尾神社 (5)
半田早尾神社 (6)
拝殿前には昭和11年(1936年)建立の獅子山がある。

半田早尾神社 (7)
本殿は文化4年(1817年)の建立で、こけら葺き。見事な彫刻は熊谷の小林源八正信の作といわれる。小林源八は石原流2代目・石原常八の弟子。

半田早尾神社 (8)
半田早尾神社 (9)
上は孔子の故事かな。孔子が陽虎と間違われた場面。下は坂田公時。金時が母と別れる場面。ガラス越しなので、ちょっと写りが悪くて申し訳ないです。

半田早尾神社 (10)
境内にはいろいろな碑が建っている。明治天皇が行幸された際に、休憩されたようだ。

半田早尾神社 (11)
夫婦ケヤキ。樹齢500年を超えるとされ、2本のケヤキが繋がったもの。夫婦がてをつないでこの間を通ると子供が授かるといわれる。全体を撮ろうとして、逆に分かりづらい写真になってしまった(手前の木の方が目立っている)。


渋川市渋川(辰巳町)の辰巳稲荷神社。

辰巳稲荷神社 (1)
辰巳稲荷神社は明治27年(1894年)に、羽鳥安五郎氏が屋敷神様として京都伏見稲荷の分霊を勧請。大正15年(1926年)に旧渋川町東南部の鎮守として公衆化。

辰巳稲荷神社 (2)
辰巳稲荷神社 (3)
辰巳稲荷神社 (4)
社殿は大正15年の建立。昭和42年(1967年)に現在地の遷座。昭和54年(1974年)に改修されている。

辰巳稲荷神社 (5)
社殿前の石碑は大正10年(1921年)に羽鳥家で建立した屋敷神様当時のもの。

渋川駅近くの一角にあるので境内含め広くはないが(と言うか非常に狭い)、地域の方々に崇敬されている。


渋川市白井の金光山玄棟院春日寺。

玄棟院 (1)
玄棟院は天正3年(1575年)白井城主・長尾憲景が開基、雙林寺10世・操芝英旭禅師の開山。寺名は憲景の法名・梁雄玄棟院殿から。

玄棟院 (2)
玄棟院 (3)
本堂と庫裏が合体したような造りになっている。本堂部分は平成24年(2012年)、庫裏部分は平成16年(2004年)に大改修が行われている。

玄棟院 (4)
玄棟院 (5)
鐘楼は昭和58年(1983年)の建立。

玄棟院 (6)
本堂脇の閻魔大王は、長尾憲景の護持仏と伝えられる。

玄棟院 (7)
玄棟院 (8)
玄棟院 (9)
境内の山水庭園はきれいに整備されており、池には立派な錦鯉がわんさと泳いでいる。ところで、長尾憲景の築園とされる「信玄造り」といわれる枯山水庭園があるということだが、どこにあるのだろう。

玄棟院 (10)
玄棟院 (11)
探してみると、本堂裏にこぢんまりとした枯山水庭園があった。これが長尾憲景築園の庭園なのかは不明。

玄棟院 (12)
玄棟院は高台にあるため、吾妻川や市街地を下に、背景には榛名山という素晴らしい景色が見られる。


渋川市有馬の満行山泰叟寺。

泰叟寺 (1)
泰叟寺の由緒は不明。山号から榛名権現(伊香保)との関連性があると考えられる。前回紹介した「若伊香保神社」のすぐ隣りにある。若伊香保神社の隣りと書いたが、年代的には泰叟寺の隣り(もしかしたら寺域)に若伊香保神社が遷座してきた(昭和23年:1948年)のだと思う。

泰叟寺 (2)
石段脇の六地蔵。最近増えてきたかわいい系のお地蔵さん。

泰叟寺 (4)
泰叟寺 (5)
泰叟寺 (6)
本堂前で狛犬が守護している。狛犬というと神社のイメージが強いが、元々は仏の守護獣なのでお寺にあるのが普通。明治期の神仏分離、その後の国家神道化などで、狛犬は神社の方に多くが移されたのではないか? と勝手な想像。

泰叟寺 (6)
本堂の入り口前に2体の石像が見える。見覚えのある人気キャラ。

泰叟寺 (7)
泰叟寺 (8)
ドラえもんとアンパンマンの石像。どういう意図で置いてあるのか分からないが、これはこれで親しみがあっていいのでは。

これを見ると、ドラえもんとアンパンマンは可愛く石像化するにはもってこいのキャラだと思った。


渋川市有馬の若伊香保神社。

若伊香保神社 (1)
若伊香保神社 (2)
若伊香保神社の創建は不詳だが、「日本三代実録」に記される「若伊賀保神」が若伊香保神社のことだと境内の由緒碑にはあった。貞観5年(863年)にその名が出てくるので、それ以前の創建となる。ちなみに、群馬郡誌には貞元2年(977年)の創建とある。

また、社名から伊香保神社との関連が想定され、伊香保神社が三宮神社(現、伊香保神社の里宮)に遷座した際、旧地に祀られたのが若伊香保神社であるという説もある(このへんのことは「渠口神社」の記事でも書いた)。

一ノ鳥居の扁額は「若伊香保神社」(写真では分かりづらいが)。鳥居手前の社号標も「若伊香保神社」。

若伊香保神社 (3)
若伊香保神社 (4)
若伊香保神社 (5)
石段を登ると二ノ鳥居。扁額は「正一位 若加保大明神」とある。若伊香保ではないし、若伊賀保でもない。

若伊香保神社 (6)
二ノ鳥居から、さらに石段を登ると社殿がある。

若伊香保神社 (7)
若伊香保神社 (8)
若伊香保神社 (9)
社殿は安政4年(1857年)に全焼し、明治43年(1910年)に諏訪社を合祀した際に再建。しかし、昭和22年(1947年)の台風により倒壊、翌23年に現在地に移築・再建されている。

拝殿の扁額は「若加保神社」で二ノ鳥居と同じ。「伊香保神社」が上野国神名帳では「伊加保大明神」と表記されていることを考えると、若加保の表記は伊香保神社の旧地という説も満更ではないかもと思わせる。

若伊香保神社 (10)
境内の子種安産の大石。

若伊香保神社 (11)
社殿奥の石柱にも「若加保大明神」とあった。狐像が置かれており、稲荷さま扱い?

ところで、由緒碑には若伊香保神社は上野国五之宮だと書いてあった。一般的には伊勢崎市の大国神社が五之宮とされている。調べてみると、「上野国神名帳」も「総社本」「一宮本」「群書類従所収本」があり、多少内容が違っていた。確かに「若伊香保神社(若伊賀保大明神)」が五之宮になっているものもある。

平安末の「上野国交替実録帳」には、玉殿1宇・幣殿1宇・鳥居2基・向屋1宇・鳥居2基・向屋1宇・美豆垣1廻・荒垣1廻・舞人陪従屋1宇・厨屋1宇との記述があり、五之宮であっても不思議ではない規模を窺わせる。



渋川市有馬の渠口(みぞぐち)神社。

渠口神社 (1)
渠口神社 (2)
渠口神社の由緒は不明。上野国内神名帳に「従四位上 有馬渠口明神」と記載されているので、平安から鎌倉時代には創建されていたと考えられる。「渠」の名からも田んぼへの水利(新田開発など)祈願の神社と思われる。

渠口神社 (3)
渠口神社 (4)
参道を進むと右に二ノ鳥居。

渠口神社 (5)
渠口神社 (6)
渠口神社 (7)
現在の社殿は江戸時代後期の建立とされる。平成10年(1998年)に銅板葺に改修されている。

渠口神社 (8)
多くの末社・境内社が祀られている。

ご祭神の阿利真公は豊城入彦命の6世孫とされており、孝徳天皇の御代(645~54年)に天皇の宮まで水を通した功から、後に「利水工事の神」「建設の神」、転じて「五穀豊穣の神」とされた。

また、阿利真公はその読みからも分かるように有馬氏の祖とされる。有馬氏は「いかほ神」(山岳信仰)を信仰し、伊香保神社を奉祭したといわれる。現在の伊香保神社は温泉街の石段上にあるが、元は三宮神社が本宮であったとされ、さらにそれ以前は有馬氏の名を冠する当地に鎮座していたとされる。現在はそこに若伊香保神社がある。(もちろん異説あり)


渋川市有馬の慈眼山神宮寺。

神宮寺 (1)
神宮寺 (2)
神宮寺 (3)
神宮寺は寛弘年間(1004~11年)の開創と伝わる。山門は昭和63年(1988年)の新築。

神宮寺 (4)
本堂は享保11年(1726年)に焼失したが、享保19年(1734年)に再建。以降改修を重ねた後、昭和56年(1981年)大改修を行っている。

神宮寺 (5)
神宮寺 (6)
聖観音を祀る観音堂。聖観音は恵心僧都の作といわれる。謂れは不明。なお、富岡市の寿福寺にも恵心僧都作といわれる十一面観音像がある。
(「富岡市富岡・小幡山寿福寺」参照)

神宮寺 (7)
神宮寺 (8)
観音堂前のふれ愛観音。金ピカな観音様。軒に掛かっている、同じく金ピカの三鐘とセットなのかな。どうでもいい話だけど、中学の同級生(女の子)にすっごい似てるんだなぁ。

神宮寺 (9)
山門脇の大日如来坐像。元禄15年(1702年)の造像。有馬地区内に鎮座していたが、明治の初めに山中に遷され、昭和に入ってから神宮寺に遷っている。

神宮寺 (10)
観音堂となりのとげぬき薬師。とげぬき薬師石仏は室町時代の作といわれ、滝沢川の氾濫時に水澤方面から流れ着いたと言い伝えられている。大正3年(1914年)に神宮寺に遷されている。でも、どの石仏が肝心の薬師如来像か分からなかった。


渋川市北橘町真壁の渋川市北橘総合支所2Fにある渋川市埋蔵文化財センター。

渋川市埋蔵文化財センターは、平成25年(2013年)の開館。3部屋(展示室)の小規模なもの。オレが行った時は2部屋のみの展示だった(第3展示室は空っぽだった)。

渋川市埋蔵文化財センター (1)
第1展示室入り口前に、金井東裏遺跡から発見された「甲を着た古墳人」のレプリカが展示されている。

渋川市埋蔵文化財センター (2)
従来未公開だった浅田遺跡3号墳出土の鹿角装鉄剣が展示されていた。

渋川市埋蔵文化財センター (3)
渋川市埋蔵文化財センター (4)
同じく浅田3号墳から出土の鶏形埴輪と土器。

渋川市埋蔵文化財センター (5)
渋川市埋蔵文化財センター (6)
渋川市埋蔵文化財センター (7)
中ノ峯古墳出土の鉄刀など。

渋川市埋蔵文化財センター (8)
渋川市埋蔵文化財センター (9)
渋川市埋蔵文化財センター (10)
榛名山の噴火により埋没した中筋遺跡の復元模型と出土物。

渋川市埋蔵文化財センター (11)
渋川市埋蔵文化財センター (12)
同じく、榛名山の噴火により埋没した黒井峯遺跡の出土物。ちなみに、6世紀初頭の噴火で埋没したのが中筋遺跡で、6世紀中頃の噴火で埋没したのが黒井峯遺跡。

渋川市埋蔵文化財センター (13)
金井丸山古墳出土の鉄剣3振。

渋川市埋蔵文化財センター (14)
渋川市埋蔵文化財センター (15)
空沢遺跡の出土物。首飾りは46号墳。

市役所支所庁舎内のため、平日しか見学できないの難だが、渋川市内の貴重な出土品を見ることができる。オレは昼休み時間に行ってしまい、ちょっと迷惑を掛けた。でも、文化財保護課の職員さんが快く対応してくださり感謝。


渋川市北橘町小室の厄除け観音別所堂。

厄除け観音別所堂 (1)
当所は平安時代からの寺院跡で、往事は十三仏を祀るお堂や塔が建っており、この観音堂はその中で唯一現存するものだといわれる。寺院の中心(本堂など)は、この観音堂から西方に残る真常庵跡だという。

厄除け観音別所堂 (2)
現在の観音堂は昭和48年(1973年)の建立で、半分は地区の生活共同館(公民館みたいなもの?)となっている。

厄除け観音別所堂 (3)
鰐口は弘化5年(1848年)に、女性7名の女人講が奉納したもの。

厄除け観音別所堂 (4)
本尊の観音像は60cm弱(一尺二寸五分)の木像で、厄除けの霊験あらたかと近郷近在はもとより、遠方からも御利益を求めて多くの参拝者が訪れるという。ただ、残念ながら平安時代の木像とは、とても思えない。

現在も地域の方々からの信仰が厚く、1月の例大祭では露店が多数出店し大いに賑わうという。


渋川市北橘町小室の郷蔵。

郷蔵 (1)
郷蔵 (2)
郷蔵は江戸時代、年貢を一時的に貯蔵するために造られたもので、小室郷蔵の建設年は不明だが、他村の例などから寛延2年(1749年)以前と考えられている。

現在の郷蔵は平成16年(2004年)の修理・復元。間口3間半、奥行3間半で土壁造り。旧北橘村地区ではこの郷蔵のみが現存し、県内でも6例が残るだけの貴重なものである(渋川市のHPから)。

ところで、過去に前橋市・上泉郷蔵とみどり市・桐原郷蔵を訪問したのだが、その際に調べた郷蔵の数が微妙に違う。

前橋市のHPでは「現在残っているものは少なく県内には3例があるだけです」。みどり市のHPでは「群馬県内に現存する郷蔵は4つが文化財指定を受けている」。

まあ細かいところを突つく気はないのだが、前橋市HPに従えば県内の郷蔵には行き尽くしたことになるが、みどり市・渋川市HPに従えばまだ行ってない郷蔵があることになる。と言うことで調べてみると、片品村に「幡谷郷蔵」と「上而郷蔵」があり、いずれも村の重文に指定されていた。

上泉、桐原、小室、幡谷、上而で5つ。みんな違うぞ(笑)。

関連
 「前橋市上泉町・上泉郷蔵
 「みどり市大間々町・桐原郷蔵


渋川市北橘町上箱田の石田伍助の供養塔。

石田伍助の供養塔
石田伍助は旧北橘村に2名いたとされる男性助産師。取り上げられた子どもたちが「産子(うぶこ)」として、明治43年(1910年)に建立したもの。台座には建立に関わった192名の名前が刻まれている。

現在は「保健師助産師看護師法」の第3条に、「この法律において『助産師』とは、厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、褥婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子をいう」と規定されており、男性は助産師資格を取得できない。当然、助産師国家試験の受験資格も「女性」のみとなっている。


渋川市北橘町上小室の宝篋印塔。

井上家墓地の宝篋印塔 (1)
井上家の古い墓地に、五輪塔や板碑など中世の石造物がまとまっている。

井上家墓地の宝篋印塔 (2)
井上家墓地の宝篋印塔 (3)
その中に応永15年(1408年)銘のある宝篋印塔がある。高さ99.5cmだが、中央の石質が違うように見えるので、数多くあったものから整理し1基にしたと思われる。他の五輪塔なども同様ではないか。

但し、笠の部分の耳状突起の反りや相輪の形状などは、室町時代の特徴をよく表している。

井上家墓地の宝篋印塔 (4)
双体道祖神も2基ある。こちらは年代的にはもっと新しい。

当該宝篋印塔の由緒などは不明であるが、かつて当地に寺院があったといわれている。


渋川市赤城町樽のいなり塚古墳。

いなり塚古墳 (1)
いなり塚古墳 (2)
いなり塚古墳は墳丘径約20mの2段築造の円墳と考えられている。墳丘には河原石による葺石と幅1mほどのテラス面が見られる。築造は6世紀中期の榛名山噴火による軽石堆積から間もない頃と考えられ、利根川上流域の後期古墳とされる。

石室は現存全長6.14mの自然石乱積の袖無型横穴式。埋葬部入口の天井には楣石が突出し、奥壁は2石の巨石から構成されている。石材には輝石安山岩の転石や壊石が使用され、壁面には赤色顔料が塗布されている。

しかし訪問時は雑草が生い茂り、石室開口部も覆われてしまっていたので、覗き込むことは断念。


渋川市上白井の御前神社。

御前神社 (1)
御前神社 (2)
御前神社の由緒は不明。子持神社の御前(おんまえ)の社という意味と解釈されている。ご祭神は子持神社と同様の木花開耶姫尊。

御前神社 (3)
御前神社 (4)
現在の社殿は文久2年(1862年)の建立。

御前神社 (5)
円形の句碑。小渕南交が文化13年(1816年)に建立したもので、花塚と呼ばれている。中央に「齋坊塔」とあり、右側に芭蕉の句「しばらくは 花の上なる 月夜かな」。左側には松露庵烏明の時雨の句を刻む。

御前神社 (6)
御前神社 (7)
神輿があった。例祭時に繰り出すのかな。

御前神社の横すぐを利根川が流れているが、この辺りを御前ヶ渕というらしく、この水と雙林寺の竜神水は結縁関係にあると碑に書かれていた。御前神社と雙林寺の関連性を言っているのか? それとも地下で水脈がつながっているとか?

竜神水は取り上げてないが、雙林寺は「渋川市中郷・最大山雙林寺」参照。


渋川市白井の大宮姫神社。

大宮姫神社 (1)
大宮姫神社の由緒は不明だが、鎌倉時代の上野国神名帳の「正三位宮姫明神」と解釈されることもある。そうだとすると、創建は鎌倉時代以前の古社ということになる。ただ、一般的に「宮姫明神」は、榛東村の大宮神社とされている。
(大宮神社は「榛東村長岡・大宮神社」参照)

大宮姫神社 (2)
社域はこんもりとした木々に覆われ、いかにも鎮守の森といった雰囲気。

大宮姫神社 (3)
境内は神門とを板塀で囲まれている。

大宮姫神社 (4)
大宮姫神社 (5)
大宮姫神社 (6)
社殿は一段高いところにある。拝殿の扁額は「牛頭天王」。もとは八坂神社なのか、それとも合祀された八坂神社の拝殿を使っている?

大宮姫神社 (7)
社殿脇の末社群。

ところで、社名からは大宮売神がご祭神かと思うが、実際は天宇受売命。天宇受売命は天照大神が天岩戸に隠れてしまったときに外で踊った女神。大宮売神は天宇受売命と同一視されることもあるようだが、一般的に大宮売神は宮殿を守る女神、天宇受売命は芸能の女神とされる。


渋川市白井の玉椿の道祖神。

玉椿の道祖神
玉椿の道祖神は高さ129cm(総高177cm)の自然石。天明5年(1785年)の建立。玉椿は当地の旧地名。

この辺りは利根川岸の渡屋を通って前橋への経路にあたり、旅客を始めとした人の往来が多くなっており、白井宿への悪霊・厄災が入り込むことを防ぐため、賽の神として祀っていた道祖神が建てられた。

「右 前橋道」とも刻まれているので、道しるべの役割も果たしていたようだ。


渋川市白井の松原の道しるべ。

松原の道しるべ (1)
松原の道しるべは、白井城跡(東)や源空寺(北)へ向かう四ツ角にある。高さ90.5cm、幅30cmの角柱で頂部に「一番」と記されている。嘉永3年(1850年)の建立。

松原の道しるべ (2)
南面に「左 ゑちご あがつま道」(西方向)。

松原の道しるべ (3)
東面に「右 ぬまた 双林寺道」(北方向)。

松原の道しるべ (4)
西面に「右 まいバ志 おほご道」(南方向)。「まいばし」って、この辺の方言のようだ。「おほご」は大胡。

ここは三国街道でも佐渡奉行街道でもない(と思われる)が、昔は旅人が普通に通った道のようだ。

渋川市白井の鳳来寺峯薬師堂。

鳳来寺峯薬師堂 (1)
峯薬師堂は慶長5年(1600年)の建立。境内の由緒碑には「鳳来寺峯薬師」とあるが、内容は源空寺の薬師堂として建立されたとなっている。
(源空寺は「渋川市白井・法然山源空寺」参照)

鳳来寺峯薬師堂 (2)
鳳来寺峯薬師堂 (3)
石仏や庚申塔類が並んでいる。とは言え、後に並べた感が見え見えだけど。

鳳来寺峯薬師堂 (4)
薬師堂は天明4年(1784年)に火災により焼失したが、天明6年(1786年)に再建されている。最近では昭和62年(1987年)に大修復が行われている。

鳳来寺峯薬師堂 (5)
本尊の薬師如来像は利修仙人の作といわれる。利修仙人は奈良時代の人で数々の伝説が残っている(存在自体が伝説とも)。愛知県新城市の鳳来寺を大宝2年(702年)に開基し、霊木から本尊の薬師如来像(峯の薬師)を作ったとされる。どうやら、この辺の話を持ってきて「鳳来寺峯薬師」と言うのかな。

ちなみに鳳来寺は江戸時代、徳川家康生母・於大の方が鳳来寺に参詣後に家康を授かったといわれ(伝説だが)、幕府の庇護を受けている。

鳳来寺峯薬師堂 (6)
鳳来寺峯薬師堂 (7)
境内の華月堂は昭和61年(1986年)の建立。峯薬師堂は吹屋地区が管理していたが、源空寺に管理を移管する際に堂内を調査したところ、吹屋愛宕神社内華月庵の本尊・木造弥勒菩薩坐像が出てきたとかで、その安置のため建立されたようだ。

中は見られないが、本尊を納める厨子とともに華月堂内に安置されている。なお、その厨子は江戸初期の貴重なもので、渋川市の重文になっている。



渋川市赤城町溝呂木の諏訪神社。

溝呂木諏訪神社 (1)
溝呂木諏訪神社 (2)
溝呂木諏訪神社 (3)
溝呂木諏訪神社の創建年は不詳。鳥居の扁額が「十二宮」になっているので、数えたわけではないが十二宮が祀られているのかな。

溝呂木諏訪神社 (4)
溝呂木諏訪神社 (5)
溝呂木諏訪神社 (6)
社殿は正徳3年(1713年)の造営といわれる。宝暦5年(1755年)に再建・遷宮とある(旧記)ので、何らかの事情で他地から遷宮しているのか。

溝呂木諏訪神社 (7)
溝呂木諏訪神社 (8)
ご神木大ケヤキ。
樹高38m、目通り9m、推定樹齢800年の大木。以前は境内に数本のケヤキがあったが、この1本だけが残されご神木とされてきた。他のケヤキを伐採した理由は、社殿の修築などの費用捻出のためらしい。

溝呂木諏訪神社 (9)
反対側を見ると、樹洞も大きく主幹が枯れているように見える。たき火による樹洞内火災や、落枝による社殿破壊があり枝を切った影響もあるようだ。

溝呂木諏訪神社 (10)
溝呂木諏訪神社 (11)
境内社・八坂神社の神輿。
黒漆仕上げで、斗栱・垂木・貫など精巧な造りの神輿。宝暦3年(1753年)に北橘村八崎の八坂神社の神輿として造られている。

伝承によると、伝染病の流行により神輿が壊されそうになったため、狩野六兵衛という者が譲り受け、溝呂木八坂神社に寄進したといわれる。


渋川市北橘町上箱田の大クワ。

上箱田の大クワ (1)
上箱田の大クワ (2)
大クワは根元付近から3本に枝分かれしており、樹齢は約300年と推定される。

上箱田の大クワ (3)
上箱田の大クワ (4)
根元周りは約4m、それぞれの幹周り(目通り)は、2.5m、2.1m、1.6mを測る。枝張りは東西10.6m、南北12.8m、樹高は8.3m(数値は現地解説板から)。

それなりに樹洞が見られるが、樹勢は良いように見える。渋川市内では「下郷の大クワ」に次ぐ大きさで、旧北橘村では唯一の大クワである。


渋川市上白井の天霊山空恵寺。
前回訪問時(2012年)長尾氏累代の墓を見つけられなかったので、捲土重来を期し再訪。(「渋川市上白井・天霊山空恵寺 」参照)

空恵寺2 (1)
前回、本堂裏の洞窟みたいなところでくじけたが、よく見ると左に行く細い道があった。草木をかき分けてみたいな感じで坂を上って行く。途中何か分からないが建物があったが、それを無視しさらに上って行く。

空恵寺2 (2)
ありました。長尾氏累代の墓。
長尾氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。鎌倉時代末から南北朝期に上杉家の家臣となり、上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として各地に諸家を分立させ繁栄している。

空恵寺2 (3)
中央の宝篋印塔は、長尾氏祖先・鎌倉権五郎景正、もしくは白井長尾氏の祖・長尾景熙の墓といわれる。これは渋川市の解説板の内容。真偽は分からない。

調べてみたところ、鎌倉権五郎から長尾景弘(長尾氏初代)が出ているのは確かなようだ。また、白井長尾氏の祖は清景とする資料が多いが、清景と景熙の関係は分からない。

ちなみに、鎌倉権五郎を祀る五郎神社というのが伊勢崎市にある。
(「伊勢崎市太田町・五郎神社」参照)

空恵寺2 (4)
空恵寺2 (5)
17基の宝篋印塔・宝塔が並んでいるが、そのうち15基が長尾氏関係の墓とされる。景仲(3代)、景春(5代)など一部の台石には銘も残っているが、倒壊などに伴う積み替えで、原型をとどめているものはないようだ。

ただ、空恵寺が白井長尾氏の菩提寺で、これらの墓碑が長尾氏のものであることは間違いないこと。


渋川市赤城町津久田の角田夢幻道人の遺髪塚。

角田無幻道人の遺髪塚 (1)
入口の標識。微妙に上向きの矢印が気になる。

角田無幻道人の遺髪塚 (2)
琴平山と言うらしいが、獣道に毛が生えた程度の道を上っていく。写真では分かりづらいが、けっこう急坂だ。

角田無幻道人の遺髪塚 (3)
太古の赤城山からの噴石だろうか。大石がゴロゴロしている。

角田無幻道人の遺髪塚 (4)
角田無幻道人の遺髪塚 (5)
角田夢幻道人の遺髪塚。
角田夢幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。

寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。

文化6年(1809年)京で没し真如堂に葬られたが、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

角田無幻道人の遺髪塚 (6)
墓碑銘は聖護院・藤原利恭撰文、中山簡斎の書。他の2面には夢幻書の円頓章が刻まれている。夢幻自身も幼少のころから教学を学ぶ傍ら書にも親しみ、在京中には光格天皇に自筆の千字文を奉呈している。後に「上毛三筆」と称されている。

角田無幻道人の遺髪塚 (7)
遺髪塚の前に2つお墓がある。遺髪塚の建立者(弟子)と無幻の末裔の方のものだという。

ところで、遺髪塚にはけっこうな急坂を上って行くのだが、ここに来る直前に前回紹介した「千石稲荷神社」に行ってきたので、もう疲労困憊。


渋川市赤城町津久田の千石(せんごく)稲荷神社。

千石稲荷神社 (1)
千石稲荷神社 (2)
千石稲荷神社は、源義康が天文16年(1547年)に奉斎し、天保12年(1841年)に京都のの伏見稲荷神社から分霊を勧請したといわれる。源義康と言えば、一般的には足利義康(源義国の2男で足利氏の祖)だが、年代的に合わないので別人だろう。

清和源氏(足利氏、新田氏、武田氏、佐竹氏、今川氏、細川氏、土岐氏など)が有名だが、それ以外にも嵯峨源氏、文徳源氏、宇田源氏、醍醐源氏など21の家系があり、これらの人々はみな本姓は源なので。

千石稲荷神社 (3)
お気楽に訪問したのだが、実はこれがどんでもなかった。一ノ鳥居の先は林道が続く続く、まだ続く(苦笑)。

千石稲荷神社 (4)
千石稲荷神社 (5)
やっと二ノ鳥居が見えてきたが、その先に社殿がある雰囲気ではない。まだ先のようだ。

千石稲荷神社 (6)
山道はさらに険しくなってくる。坂も急だ。

千石稲荷神社 (7)
最後に待っていたのが急な石段。上に何か見える。もう少しみたいなので頑張ろう。

千石稲荷神社 (8)
千石稲荷神社 (9)
やっと着いた。三ノ鳥居と社殿が見えた。大げさな表現を使うと、ちょっとした軽登山だった。

千石稲荷神社 (10)
千石稲荷神社 (13)
千石稲荷神社 (11)
千石稲荷神社 (12)
山の斜面の少し平らなところに社殿は建っている。小さいながらも美しい社殿は、森の緑とよく融合している。天井も格子絵が施されている。

千石稲荷神社 (14)
境内の神石? 左側の文字がよく読めないが「神」?

千石稲荷神社 (15)
千石稲荷神社 (16)
稲荷神社らしく、大量の狐像が奉納されていた。

江戸時代後期、伝左衛門という者が絹1疋を盗まれたが、当社の霊験により盗品が戻ったことから、盗品除けの神としても崇敬を集めるようになったという。


渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台。

上三原田の歌舞伎舞台 (1)
上三原田の歌舞伎舞台 (2)
上三原田の歌舞伎舞台は、大工の永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819年)、天竜寺境内に建築したと伝えられている。明治15年(1882年)に現在地に移築されている。

舞台の特徴は、三方の板壁を外側に倒して、舞台面を2倍以上の広さにするガンドウ機構。舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せる遠見機構。平舞台いっぱいの回転部を回転させる柱立式廻転機構。二重と呼ぶ小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せり下ろすセリヒキ機構。これらの機構は全国に例を見ない特殊な機構となっている。

上三原田の歌舞伎舞台 (3)
この舞台での歌舞伎公演は途中何度か中断されたが、地元伝承委員会による舞台操作技術の伝承と古典芸能保存会による地芝居の復活により、現在も歌舞伎が公演されている。

写真は歌舞伎舞台前に設置されている平成13年(2001年)の公演の様子。

上三原田の歌舞伎舞台 (4)
今年(2018年)の公演は11月25日に開催され、こども歌舞伎や農村歌舞伎が上演される予定である。また、来年(2019年)は歌舞伎舞台が作られてから200年にあたる。何か特別な催し物があるかも。

ところで、tvk(テレビ神奈川)が制作し、GTV(群馬テレビ)でも放送されている「キンシオ」って知ってる? イラストレーターのキン・シオタニが街ブラをする番組で、現在は「一文字地名の旅」(関東各地の漢字一文字の地名辺りをブラブラする)というコーナーが中心になっている。それで、渋川市赤城町樽が取り上げられたとき、この歌舞伎舞台を時間を割いて紹介していた。マイナーなローカル番組だけど、けっこう面白いよ。GTVでは月曜の夜11時から放送中。

追記(2019.7.29)
「キンシオ」は土曜日の21時に移動しています。現在は「元号地名の旅」シリーズです。

追記(2022.5.16)
「キンシオ」は終了しました。



渋川市中郷の菅原神社。

中郷菅原神社 (1)
中郷菅原神社 (2)
中郷菅原神社の創建年は不詳であるが、元亀2年(1571年)に真田幸隆が白井城を攻めた際、その兵火で焼失したといわれていることから、それ以前の創建と考えられている。

中郷菅原神社 (3)
中郷菅原神社 (4)
中郷菅原神社 (5)
鳥居をくぐると、すぐにご神橋。池には祠がある。水神様かな。

中郷菅原神社 (6)
けっこう急な石段。

中郷菅原神社 (7)
中郷菅原神社 (8)
中郷菅原神社 (9)
中郷菅原神社 (10)
本殿は別当寺(長泉寺)の亮順が貞享3年(1686年)に再建したという。近年では、平成22年(2010年)に大改修が行われている。本殿は、和様・唐様の折衷様式の一間社流造りで、旧子持村内に現存する神社では最古の建築物とされる。

中郷菅原神社の由緒は、境内の由緒碑(旧子持村設置)から引用したが、真田幸隆が白井城を攻略したのは永禄10年(1567年)で、元亀2年に白井城を攻めたのは真田昌幸(幸隆3男)という説もあり。

まあ、中郷菅原神社の歴史的価値には何も関係ないことだけど。


渋川市北牧の中ノ峯古墳。

中ノ峯古墳 (1)
中ノ峯古墳 (2)
中ノ峯古墳は傾斜面に築かれた直径9m、高さ1mの円墳。6世紀初めの榛名山噴火による火山灰層の上に造られ、6世紀中ころの榛名山噴火による軽石層に埋もれていた。地学上から築造年代の分かる貴重な古墳。

中ノ峯古墳 (3)
中ノ峯古墳 (4)
中ノ峯古墳 (5)
石室は自然石乱石積の袖無型横穴式で、全長5m・埋葬部長3m。人骨5体、直刀2口、銀製飾金具、鉄鏃、玉類などが出土している。

昭和54年(1979年)軽石採取の際に偶然発見された。軽石層に埋もれていたため、きれいな原型をほぼとどめているのだが、季節がら草に覆われ残念ながらその形はよく分からず。草の枯れる秋から冬に訪れるのがいいと改めて認識。


渋川市北牧の人助けのカヤ。

人助けのカヤ
天明3年(1783年)の浅間山の大噴火(浅間押し)による泥流が吾妻川を流れ下り、流域の村々を押し流し民家・田畑に大きな被害をもたらした。

旧北牧村も例外ではなく、多くの民家が流され人的被害もあったが(50名以上)、このカヤの木によじ登ることで、数十名が難を逃れることができた。そのため、後に「人助けのカヤ」と呼ばれるようになった。

「人助けのカヤ」は高さ13m、根本の周囲3.4mの大樹。樹冠は東西10m、南北8m。樹齢は約400年と推定される。カヤの木の下にある碑には、泥流で6m埋もれていると書かれていた(と思う)。碑の写真は撮って来るのを忘れた。

このカヤの木は実と葉からくさい匂いがすることから、地元の人々は「へだまの木」と呼んでいる。


渋川市北牧の延寿山興福寺。

興福寺 (1)
興福寺 (2)
興福寺は慶長13年(1608年)空恵寺16世・斎香桂🌑の開山(🌑は見たことない漢字で読めない)。天明3年(1783年)の浅間押しにより流出。享和3年(1803年)に再建されている。

興福寺 (3)
再建本堂は嘉永6年(1853年)に火災により焼失。現在の本堂はそれ以降の再建で、昭和60年(1985年)に増改築、平成9年(1997年)に屋根の改修を行っている。

興福寺 (4)
興福寺 (5)
興福寺 (6)
六地蔵、大日如来坐像、慈母観音像。いずれも比較的新しそうだ。

興福寺 (7)
賑貸感恩碑。天明3年(1783年)の浅間押しの被害から立ち直った教訓と、幕府勘定吟味役・根岸九郎左衛門鎮衛の救済措置の恩恵を忘れないよう、浅間押しから47年目の文政12年(1829年)に建立したもの。

根岸は勘定吟味役として、河川改修、普請工事に才腕を振るったことから復興工事の巡検役に任命されたもの。後に勘定奉行、南町奉行に任命されている。

賑貸感恩碑は当地の浅間押しの被害の状況と、江戸時代の民政の一端を知る上で貴重な資料である。

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