上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 渋川市・北群馬郡


渋川市伊香保町水沢の五徳山水澤寺の2回目。
(その1は「渋川市伊香保町水沢・五徳山水澤寺」参照)

水澤寺2 (1)
水澤寺2 (2)
龍王弁財天。弁天池には龍王弁財天が鎮座している。なぜか後ろには千手観音。この水は水澤観音の霊泉のため、金運・健康運など様々な運気を高めてくれるという。

水澤寺2 (3)
霊泉には多くのお賽銭が投げ込まれている。

水澤寺2 (4)
山水に棲むガマ(蝦蟇)の陰霊を祀る豊家一神。食糧難の時代に、この一帯に多く棲んでいたカエルを食べることで難を逃れたことから、その感謝と慰霊のために祀られている。

水澤寺2 (5)
カエル像に水をかけることで願いが叶うとされる。

水澤寺2 (6)
水澤寺2 (7)
水澤寺の鎮守とされる飯綱大権現。非常に急な石段(84段)を上っていく。古い石段にありがちな小さい(狭い)踏み石なので、かなり怖い(特に下り)。

水澤寺2 (8)
水澤寺2 (9)
お社(覆屋)は平成6年(1994年)の新築建立。本殿は江戸時代のものとされる。

水澤寺2 (10)
詳細は不明だが境内社・末社も祀られている。

水澤寺2 (11)
十二支守り本尊。子年の千手観音から亥年の阿弥陀如来まで、それぞれの守り本尊があるとされる。自身の守り本尊にお参りすることで、開運招福・諸願所寿を得ることができると言われている。

水澤寺2 (12)
水澤寺2 (13)
弘法大師堂。その名の通り弘法大師を祀る。水澤寺と弘法大師の繋がりは分からない。単に一般的な大師信仰かも(宗派関係なしの)。

水澤寺2 (14)
水澤寺2 (15)
如意輪観音が鎮座する池。多くのお賽銭が投げ込まれているが、詳細は分からない。モニュメントに何か書かれていたが読めなかった。

水澤寺2 (16)
水澤寺2 (17)
水澤寺2 (18)
清昌稲荷神社。詳細は分からない。

水澤寺2 (19)
盗難除け・魔除けの石碑。水澤寺のお札(図柄)をそのまま石碑にしている。天台宗の良源(慈恵大師・元三大師)が、疫病が流行った時に夜叉の姿に化身し疫病神を退散させたという逸話にちなんでいるようだ。良源の千年忌記念で、昭和59年(1984年)の造立。

水澤寺2 (20)
水澤寺2 (21)
水澤寺2 (22)
最後に、お寺なので石仏や仏塔など。十一面千手観音像や薬師如来像など。

あまり中身のない記事になってしまったが、水澤寺(水澤観音)の「諸願成就」の御利益の参考になれば。


渋川市伊香保町水沢の五徳山水澤寺。

水澤寺 (1)
水澤寺の創建は不詳だが、寺伝では推古天皇の勅願により高句麗僧・恵灌が開山したと伝わる。創建当初は御堂の数30余宇、御仏の数1,200体にも及んだが、再三の災火により焼失。現在の堂宇は大永年間(1521~28年)に仮堂を建立し、宝暦(1751~64年)から天明(1781~89年)に至る33ヶ年の大改築により完成している。板東33観音霊場の第16番札所であり、水澤観音の名で親しまれている。

現在地の南東700mにある水沢廃寺が、前身の寺院跡だといわれる。10世紀とされる山岳寺院跡で、標高580m程の緩傾斜地に4段の平坦地を造成している。古瓦が散布し一部礎石も残っている。

水澤寺 (2)
水澤寺 (3)
仁王門は天明7年(1787年)の建立。昭和44年(1969年)に茅葺きから銅板葺きに改修されている。

水澤寺 (4)
水澤寺 (5)
仁王像は平成6年(1994年)に修理が行われ、平成13年(2001年)に完成した釈迦堂に移され保存されている。そのため、写真の像は入れ替え時の新規造立となる。

水澤寺 (6)
水澤寺 (7)
風神像は昭和35年(1960年)、雷神像は寛永19年(1642年)の造立。平成7年(1995年)に修理が行われている。

水澤寺 (8)
狩野探雲の天井絵。探雲が85歳の時のものらしい。平成6年(1994年)に再彩色されている。

水澤寺 (9)
仁王門の2階には釈迦三尊像(脇侍は普賢菩薩と文殊菩薩)が安置されている。三尊像も平成6年(1994年)に修理、仁王像同様に釈迦堂に移し保存されている(写真の三尊像は新規造立)。

*釈迦堂は休館中だったので、残念ながら釈迦三尊像などは参拝できなかった。

水澤寺 (10)
仁王門2階の十六羅漢像。

水澤寺 (11)
水澤寺 (12)
本堂(観音堂)は天明7年(1787年)の建立。昭和35年(1960年)に屋根を茅葺きから銅板葺きに改修している。本尊の十一面千手観音像は平安時代末の造立とされる(秘仏)。この十一面千手観音像は上野国司・高野辺家成の3女 伊香保姫のご持仏であったと伝わる。

高野辺家成の3人の娘たち(淵名妃・赤城姫・伊香保妃)には、群馬県にかかわる伝説が残っているが、それは別の機会に。

水澤寺 (13)
水澤寺 (14)
水澤寺 (15)
向拝の天井絵。龍を2枚の天女が挟んでいる形になっている。意味があるのかなどは知識がないので分からない。

水澤寺 (16)
水澤寺 (17)
水澤寺 (18)
虹梁上の2頭の虎と林和靖の浮き彫りなど、素晴らしい彫刻も施されている。

水澤寺 (19)
六角二重塔は天明7年(1787年)の建立。

水澤寺 (20)
水澤寺 (21)
下層部は六面に向けて地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間界・天人界の六地蔵尊(青銅製)を棚の上に安置し、芯を軸に回転することができる。左に3回廻してお参りすることで、より良い世界に生まれ変われるといわれる。別名開運六角地蔵尊と呼ばれており、多くの人が廻していた。

水澤寺 (22)
上層部(2階部)に「大日如来」の扁額がかかっているが、これは大日如来が祀られているから。

水澤寺 (23)
水澤寺 (24)
水澤寺 (25)
鐘楼と梵鐘。梵鐘は「大和(だいわ)の鐘」と呼ばれる。昭和50年(1975年)の鋳造。ちなみに誰でも撞くことは可能だが、志納金として一打100円也。

水澤寺の主な施設はこんなところだが、その他にも多数の付属的施設もあるので、次回紹介する。と言うことで、つづく。


渋川市赤城町棚下不動尊と棚下不動の滝。

棚下不動尊と不動の滝 (1)
棚下不動尊と不動の滝 (2)
棚下不動尊の由緒は不詳だが、伝承では推古天皇15年(607年)に東国開拓の勅命により当地に来た大仁鳥臣が、暴蛟(みずち:水と関係があるとされる伝説上の龍や蛇など)を退治し沼地を良田にすることができた。大仁鳥臣が大願成就を祈願した不動滝の岩屋に、村民が不動明王を招魂したのが始まりとされる。

ちなみに、殺害された暴蛟の頭部は大頭竜神社(渋川市中郷)、尾は早尾神社(渋川市半田)に祀られているという。また、大仁鳥臣の伝承(東国開拓、新田開発、神社創建)は前橋市上増田・近戸神社、前橋市下増田町・今宮八幡宮などにも残っている。

棚下不動尊と不動の滝 (3)
棚下不動尊と不動の滝 (4)
訪問時はちょうど桜が見頃だった。

棚下不動尊と不動の滝 (5)
棚下不動尊と不動の滝 (6)
駐車場にある不動明王が彫られた大岩は、平成23年(2011年)の東日本大震災時に滝近くの断崖から落下してきたもの。その大岩に沼田市で建設会社などを営む方が「震災を忘れないために」と不動明王像を彫刻している。令和元年(2019年)の完成。

棚下不動尊と不動の滝 (7)
棚下不動尊と不動の滝 (8)
棚下不動尊と不動の滝 (9)
参道の坂道を上っていくと、さらに高いところに石宮が祀られていた。石段の途中には鬼子母神の石碑がある。詳細は分からない。

棚下不動尊と不動の滝 (10)
石宮横から下を覗くと、利根川が荒々しく水しぶきを上げながら流れていた。けっこう高いので怖い。

棚下不動尊と不動の滝 (11)
棚下不動尊と不動の滝 (12)
棚下不動尊と不動の滝 (13)
旧不動堂は文化6年(1809年)の建立で、大工の棟梁は勝保沢の星野幸右衛門、彫刻は花輪の星野慶助、原茂吉らによる。星野幸右衛門は勝保沢・宗玄寺の十一面観音堂を手がけたことでも知られる。しかし、昭和56年(1981年)に火災により焼失。

現在の不動堂は昭和58年(1983年)に地元の方々の発起により、多くの寄付・寄進を受け再建されている。

棚下不動尊と不動の滝 (14)
棚下不動尊と不動の滝 (15)
境内には多くの百番供養塔や廻国塔などがある。

棚下不動尊と不動の滝 (16)
鳥居横の斜面にあった石仏(?)。風化で異様な感じになっているが、カラス天狗のような気がする。

棚下不動尊と不動の滝 (17)
境内から見える棚下不動の滝。これは通称「雄滝」と呼ばれる。落差37mで断崖を一気に流れ落ちる。「日本の滝百選」の一つに選ばれている。

さて、不動堂を過ぎると本格的な上り道(遊歩道が整備されているが)だが、滝まで行くことができる。棚下不動の滝編は次回ということで。

追記
 棚下不動の滝編 「渋川市赤城町棚下・棚下不動尊と棚下不動の滝 その2


渋川市赤城町溝呂木の桂峯山大蓮寺跡

大蓮寺跡 (1)
大蓮寺の由緒は不詳。かなりの古刹であったとされる。明和8年(1771年)に勝保沢の名工・星野幸右衛門の父・三郎兵衛が本堂を再建した記録が残る。江戸時代末から無住となり、寺運も大きく傾き檀徒との関係も希薄になってしまった。

明治27年(1894年)に三原田の興禅寺に合併され、翌年には山門、本堂、須弥壇、本尊の阿弥陀如来までも興禅寺に移されている。また、庫裏のみ残して地区の公会堂とした。現在は「溝呂木構造改善センター」となっている。他にも消防団分署の詰所などがある。
(興禅寺は「渋川市赤城町三原田・三原田山興禅寺」参照)

大蓮寺跡 (2)
大蓮寺跡 (4)
大蓮寺跡 (3)
大蓮寺跡 (5)
大蓮寺跡 (6)
旧参道には寺跡であることを思い起こさせるように石仏・仏塔類が並んでいる。この石仏群は廃寺以降、永年草土に埋もれてしまっていたのを昭和56年(1981年)に地元の人々が整理したもの。

延享9年(1752年)造立の信州高遠の石工の手による百番供養塔や、天保12年(1842年)片品村出身の名筆家・萩原賢和(藤賢和)の筆による馬頭観音石塔などがある。

大蓮寺跡 (7)
墓地には長井坂城主・狩野隠岐守祐範の墓がある。狩野氏は藤原氏の出とされる。北条早雲以下北条氏に仕え、天正(1573~92年)の始めころ長井坂城主に任じられたようだ。
(長井坂城は「渋川市赤城町棚下・長井坂城跡」参照)

天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めで長井坂城は落城。時の城主である狩野隠岐守祐範は当地に土着・帰農している。


渋川市赤城町見立の見立の五輪塔。

見立の五輪塔 (1)
見立の五輪塔 (2)
見立の五輪塔。立派な五輪塔が2基並んでいる。伝承では見立城主・見立権太郎清平の墓と伝わる(もう1基は奥方か?)。

清平に関しては記録がほとんど残されてなく、関東管領・上杉憲顕の配下として「見立城に見立権太郎居れり」、また他では「見立城主見立権太郎清平は奥州見立権太郎家定の末孫である」と記載されている程度である。

上杉憲顕が上野国で戦をしていたのは観応2年(1351年)のことなので、古記録を信じるなら南北朝初期のころの人物のようだ。

清平がなぜ奥州から当地に来て城主になり得たのかは不明だが、この墓を古くから上屋を作り守ってきたのは奥州出身の一族(藤原秀衡の末裔といわれる)のようなので、旧見立村には少なからず奥州藤原氏の縁者が移り住んで来ていると考えられる。

ちなみに、見立城とは戦国時代に不動山城と呼ばれ、見立と樽・宮田の境界の山中にあった城のこと。城趾は渋川市(旧赤城村)の重文に指定されている。渋川市の解説では、築城は永禄年間(1558~70年)としている。


渋川市赤城町見立の見滝神社。

見滝神社 (1)
見滝神社 (2)
見滝神社は元は八幡宮で、その由緒は不詳。明治41年(1908年)に旧見立村、旧滝沢村(いずれも当時は横野村)の赤城神社、稲荷神社、神明宮、菅原神社などを合祀し、見滝神社と改称している(見立の「見」と滝沢の「滝」で見滝神社)。さらに昭和20年(1945年)雷電神社を合祀している。

一の鳥居は旧十二神社(扁額は「十二宮」)のもの。十二神社は元八幡宮の境内末社。

見滝神社 (3)
見滝神社 (4)
二の鳥居は旧赤城神社のもの。

見滝神社 (5)
狛犬はまだ新しく、平成22年(2010年)の奉納。

見滝神社 (6)
見滝神社 (7)
見滝神社 (8)
社殿は昭和3年(1928年)の建立。昭和48年(1973年)に改築されている。拝殿の扁額は「神楽殿」。扁額には万延元年(1860年)とあった。以前は神楽殿があり扁額だけ拝殿に移し替えたのか、神楽殿を拝殿に改修したのかなどは分からない。

見滝神社 (9)
見滝神社 (10)
神輿庫の横に招き猫がいた。まあ、意味はないのだろうが。


渋川市赤城町三原田の八幡宮。

三原田八幡宮 (1)
三原田八幡宮 (2)
三原田八幡宮の由緒は不詳。口碑では元久年間(1204~06年)に三浦義村の家臣で三原田城主の三原田義高が鎌倉・鶴岡八幡宮の分霊を勧請したと伝わる。明治40年(1907年)に旧三原田村(当時は横野村)の諏訪神社、大山祇神社などを合祀している。

鳥居は平成20年(2008年)の建立。

三原田八幡宮 (3)
灯籠は昭和2年(1927年)の奉納。

三原田八幡宮 (4)
三原田八幡宮 (5)
拝殿は昭和58年(1983年)に銅板葺きに改築、平成18年(2006年)にも幣殿などと併せ修理を行っている。本殿も同年に再建されている(覆屋内で見えないが)。

三原田八幡宮 (6)
拝殿の彫刻。

三原田八幡宮 (7)
三原田八幡宮 (8)
境内社・末社。琴平神社、赤城神社、天甕星神社、神明社など。

三原田地区には獅子舞が伝承されている。元は八幡宮に合祀された諏訪神社に奉納されていた。諏訪神社が八幡宮に合祀されてからは八幡宮の例祭時に奉納されて来た。昭和13年(1938年)に途絶えてしまっていたが、昭和57年(1982年)に復活している。渋川市の重要無形民俗文化財に指定されている。


渋川市赤城町三原田の西之堂。

三原田西之堂 (2)
三原田西之堂 (1)
三原田西之堂 (3)
三原田西之堂は永禄年間(1558~70年)に長岡家の先祖・永岡刑部左衛門が、一族の安泰と繁栄を願い十一面観音を祀りお堂を建立したもの。江戸時代に入ると、勢多三十三所観音霊場の二十一番札所となり、以降近郷の信仰を集めてきた。昭和59年(1984年)に関越自動車道の建設に伴い、現在地に移転・再建している。

三原田西之堂 (4)
三原田西之堂 (5)
三原田西之堂 (6)
観音堂裏に石仏・仏塔、供養塔が集積されている。

永岡刑部左衛門は白井城主・長尾実景の家臣で、八崎城東廻り10騎に数えられる武将。天正3年(1575年)に没している。興禅寺に墓がある。
(「永岡形部左衛門の墓・三原田山興禅寺 その2」参照)

天正18年(1590年)に長尾氏が実質滅ぶと、永岡氏は形部左衛門の妻の旧姓・室田を諸田と変えて名乗っていたが、明治になって長岡に復姓している(永岡を長岡にした理由は分からない)。


渋川市赤城町上三原田の八幡宮。

上三原田八幡宮 (1)
上三原田八幡宮 (2)
上三原田八幡宮の由緒は不詳。明治40年(1907年)に旧上三原田村(当時は横野村)の大山祇神社、神明宮などを合祀している。

鳥居の扁額は「八幡大神」。写真ではまったく見えず、すみません。

上三原田八幡宮 (3)
灯籠は明治10年(1877年)の奉納。

上三原田八幡宮 (4)
上三原田八幡宮 (5)
二の鳥居から南面となる(一の鳥居は東面)。

上三原田八幡宮 (6)
狛犬は昭和17年(1942年)の奉納。

上三原田八幡宮 (7)
上三原田八幡宮 (8)
上三原田八幡宮 (9)
社殿の建立などの詳細は不明。

上三原田八幡宮 (10)
境内社・末社群。赤城神社、菅原神社、秋葉神社、稲荷神社、火明神社、水分神社、天甕星神社。


渋川市赤城町上三原田の赤城山天龍寺。

天龍寺 (1)
天龍寺は大同元年(806年)吉祥坊臨海の開山と伝わる。当地における最古の寺院とされる。勢多郡138ヶ村の総鎮守であった大洞赤城神社の別当を元和年間(1615~24年)まで務めていた。

慶安3年(1650年)に火災により焼失。古記録や什器なども烏有に帰した。その後、享保12年(1717年)に再興されている。

天龍寺 (2)
天龍寺 (3)
現在の本堂は平成19年(2007年)の新築建立。本堂には秘仏の阿弥陀如来(木像)を祀るが、これは聖徳太子の御作とされる(本尊は薬師如来)。

天龍寺 (4)
天龍寺 (5)
境内の毘沙門堂。創建年代、由緒ともに不明。お堂は文政11年(1828年)の建立(棟札が残されている)。

天龍寺 (6)
本尊の毘沙門天(木像)は天平17年(745年)行基の御作とされる。毘沙門天像は厨子の中。

天龍寺 (7)
天龍寺 (8)
天龍寺 (9)
境内のお地蔵さん。「愚痴聞き地蔵尊」とある。このお地蔵さんに愚痴をこぼして、すっきりしろってことかな。

天龍寺 (10)
墓域の五輪塔。立派な五輪塔が3基並んでいる。造立年などは分からない。

天龍寺には阿弥陀如来像(聖徳太子作)、毘沙門天像(行基作)以外に、やはり聖徳太子の御作とされる不動明王像もある。いずれも江戸初期まで別当をつとめていた大洞赤城神社に安置されていたという。しかし、その縁起などは慶安3年の火災で焼失しており、詳細は不明である。


渋川市赤城町上三原田の地蔵塚古墳。

地蔵塚古墳 (1)
地蔵塚古墳(横野村14号墳)は東西約12m、南北約17m、高さ約1.5mの円墳。昭和10年(1935年)の群馬県古墳下一斉調査時、すでに現在のように石塔・石仏が置かれ、一部は墓地になっていたようだ。さらには墳頂に続く石段や小祠もあったとある。

地蔵塚古墳 (2)
大きな大黒天塔と庚申塔。大黒天塔は元治元年(1864年)の造立。

地蔵塚古墳 (3)
双対道祖神と地蔵像など。

地蔵塚古墳 (4)
百番供養塔(右)は天明6年(1786年)の造立。石仏はお釈迦さま(釈迦如来石像)だろうか。

地蔵塚古墳 (5)
青面金剛塔。享保7年(1722年)の造立。

地蔵塚古墳 (6)
地蔵塚古墳 (7)
墳頂の小祠には光り輝くお地蔵さま。小祠もお地蔵さまもまだ新しい。地蔵塚古墳と呼ばれている理由は、墳頂にお地蔵さまを祀ったからだろうが経緯は分からない。


渋川市赤城町持柏木の赤城神社。

持柏木赤城神社 (1)
持柏木赤城神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)に旧持柏木村内(当時は横野村)の神明宮、大山祇神社、鹿島宮などを合祀している。

灯籠は文政13年(1830年)の奉納。

持柏木赤城神社 (2)
持柏木赤城神社 (3)
石段を上ると一の鳥居。天明2年(1782年)の建立。

持柏木赤城神社 (4)
鳥居の扁額が横書き。数多くの神社に行ってきたが、初めて見たような気がする。ちょっと日差しの関係で写真が見づらくて申し訳ないが、そのまま書くと「社神城赤」とある。

持柏木赤城神社 (5)
参道というか畑(休耕)の中というかを行く。この写真を見ると相当山の中を想像するかもしれないが、そんなことはないので(念のため)。

持柏木赤城神社 (6)
持柏木赤城神社 (7)
二の鳥居。手前に一本道が横切っている。

持柏木赤城神社 (8)
持柏木赤城神社 (9)
持柏木赤城神社 (10)
社殿の建立などは不明。なお、当地は旧神明宮の社地である。

持柏木赤城神社 (11)
拝殿の横にも入り口がある。元々は舞台だったのかもしれない。

持柏木赤城神社 (12)
持柏木赤城神社 (13)
社殿裏側の鳥居。寛政3年(1791年)の建立。

持柏木赤城神社 (14)
松尾芭蕉の句碑。芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「松杉を ほめてや風の かをる音」。持柏木出身の俳人(文人)・狩野花交の建碑。

持柏木赤城神社 (15)
狩野花交の句碑。「雨晴れて 寒さの残る 梢かな」。弟子たちが花交の23回忌に際し建碑したもの。狩野花交は「庚申塚の道しるべ」の道歌の作者。また、弟子たちが建てた筆子塚(供養塔)が極楽院にある。

狩野花交 関連
 「渋川市赤城町持柏木・庚申塚の道しるべ
 「渋川市赤城町持柏木・柏木山極楽院


渋川市赤城町持柏木の柏木山極楽院西善寺。

極楽院 (1)
極楽院は応永3年(1396年)臨済宗の僧・義禀の開創。義禀が諸国巡錫のおり眼病に苦しんでいたところ、当地で目を洗ったら治癒したという。そこで堂宇を建立し、本尊に薬師瑠璃光仏を安置したとされる。寛永元年(1624年)16世・寂翁 のとき、天台宗に改宗している(寂翁を中興開山としている)。

極楽院 (2)
本堂などは宝永5年(1708年)落雷にて焼失、宝永7年(1710年)に再建されている。その後寺勢が傾き、昭和31年(1956年)に遂に取り壊しとなった。跡地には仏堂兼公民館が建設され現在に至っている。

天台宗の公式HPで寺院検索を行なうと極楽院が出てくるので、寺院として存続しているようだ。本尊仏などは公民館内に安置されているのだろうか?

極楽院 (3)
極楽院 (4)
山門前の六地蔵石幢。

極楽院 (5)
百万遍念仏供養塔。これは狩野花交の弟子たちが建てた筆子塚になる。慶応2年(1866年)の建立。寺子屋の生徒のことを「筆子」と言ったため。狩野花交は持柏木出身の文人・俳人。「庚申塚の道しるべ」の道歌の作者。
(「渋川市赤城町持柏木・庚申塚の道しるべ」参照)

極楽院 (6)
石仏が並んでいるが、双対道祖神が2体あった。右のものは宝暦12年(1762年)の造立。

極楽院 (7)
公民館の裏(少し高くなっている)に歴代住職の墓域がある。そこにも石仏・石塔類(地蔵像、観音像、青面金剛塔、念仏供養塔など)が多く建っている。元禄(1668~1704年)、享保(1716~36年)、延享(1744~48年)、宝暦(1751~64年)の銘が確認できた。


渋川市赤城町持柏木の庚申塚の道しるべ。

庚申塚の道しるべ (1)
庚申塚の道しるべは、元はすぐ前の旧沼田街道六叉路の中央に埋め込まれていたもの。昭和37年(1962年)に道路改修工事のため、現在の庚申塚上に移設されている。庚申塚上に移設されたので「庚申塚の道しるべ」となっていると思われるが、本来の「旧沼田街道の道しるべ」の方がふさわしいと思うけど。

庚申塚の道しるべ (2)
安山岩の表面を円形に平たく磨き、そこに道しるべとしての情報が刻まれている。中心に「心」の文字、その周りに方位、その外側に「赤城三里半 日光十八里余 前橋三里半 高崎六里余 榛名六里 沼田五里半」と六方面の行き先と道程が放射状に刻まれている。

その外周には「よつの方 むつのちまたにわかるれど こころしづかにたづねてぞゆけ」との道歌が刻まれている。道歌の作者は、当地の文人で俳人である狩野花交(周兵衛)。花交の没年は慶応2年(1866年)なので、沼田街道への道しるべの設置(埋め込み)は幕末と考えられる。

庚申塚の道しるべ (3)
現物は「心」は分かるのだが、他は「何か文字がある」くらいになってしまっているので、詳細は案内板の図から。

庚申塚の道しるべ (4)
現地では五叉路にしか見えなかったのだが、帰ってきてから地図を再確認したところ、細い道がもう一本あり確かに六叉路になっていた。

「庚申塚の道しるべ」は渋川市(旧赤城村時代から)の重文に指定されている。渋川市の解説文では、狩野花交は道歌の作者と書かれているだけで、道しるべ自体の作者とはなっていない。しかし横野村誌には、道しるべ自体を花交が作ったと書かれている(横野村は持柏木地区が含まれる旧村。敷島村と合併し赤城村となっている)。


渋川市北橘町八崎の赤城神社。

八崎赤城神社 (1)
八崎赤城神社 (2)
八崎赤城神社の由緒は不詳。平将門の乱時、平貞盛が戦勝祈願を行ったとの記録があり、当時既に創建されていたと考えられる。平将門の乱は承平5年(935年)から天慶3年(940年)。明治40年(1907年)村内の琴平宮、日枝神社、大山祗神社などを合祀している。

鳥居は昭和58年(1983年)の建立。

八崎赤城神社 (3)
社殿前の灯籠は昭和3年(1928年)の奉納。平成23年(2011年)に修復されている。

八崎赤城神社 (4)
狛犬は昭和14年(1939年)の奉納。

八崎赤城神社 (5)
八崎赤城神社 (6)
社殿は戦乱や火災などに罹災、その都度再建されている。現在の社殿は明治26年(1893年)の建立。

八崎赤城神社 (7)
八崎赤城神社 (8)
神輿庫。神輿はビニールに包まれていた。

八崎赤城神社 (9)
境内社末社群。地神社、春日神社、八坂神社など。

八崎赤城神社 (10)
八崎赤城神社 (11)
社殿裏側の鳥居。享和元年(1801年)の建立。この鳥居は橘北小との境界(壁)側を向いている。昔はこちら側にも参道があったのだろう。

境内に平貞盛が戦勝祈願に植えたとされる大杉があったという。明治27年(1894年)には切り株が残っていたというが、現在はそれらしきのもはない。


渋川市北橘町分郷八崎の八幡宮。

分郷八崎八幡宮 (1)
分郷八崎八幡宮 (2)
分郷八崎八幡宮の由緒は不詳。天正年間(1573~92年)に不動山城主・長尾氏の崇敬が厚かったとされるので、創建はそれ以前となる。明治41年(1908年)に村内の神前神社、神明宮、諏訪神社などを合祀している。

一の鳥居は村道改良工事のため平成11年(1999年)現在地に移動のうえ新規建立。

分郷八崎八幡宮 (3)
旧鳥居の扁額が保存されている。ちなみに、旧鳥居は昭和9年(1934年)の建立だったようだ。

分郷八崎八幡宮 (4)
分郷八崎八幡宮 (5)
二の鳥居をくぐり石段を上っていく。分郷八崎八幡宮は山の西斜面に鎮座している。

分郷八崎八幡宮 (6)
分郷八崎八幡宮 (7)
分郷八崎八幡宮 (8)
社殿の建立年などは不明。平成22年(2010年)に改修されている。

分郷八崎八幡宮 (9)
境内社の秋葉神社。石宮は宝暦8年(1758年)の造立。

分郷八崎八幡宮 (10)
半分土に埋まっている石宮があった。詳細不明。

分郷八崎八幡宮 (11)
分郷八崎八幡宮 (12)
分郷八崎八幡宮 (13)
手水舎には奥側から湧き水を引いているようだ。以前は清水として飲む人もいたみたいだが、令和4年(2022年)の水質検査では「飲用不適合」だったようだ。


渋川市北橘町下南室の金刀比羅宮。

下南室金刀比羅宮 (1)
下南室金刀比羅宮の由緒は不詳。口碑では下南室赤城神社と同じころの創建と伝わる。赤城神社の創建は大同2年(807年)とされているので、口碑通りなら金刀比羅宮も相当の古社となる。(赤城神社は「渋川市北橘町下南室・赤城神社」参照)

下南室金刀比羅宮 (2)
十二山(標高350m)の山頂に鎮座しているため、ちょっとした山登り(言いすぎかな)になる。参道は整備されているが、それなりに足には堪える。

下南室金刀比羅宮 (3)
社殿は昭和63年(1988年)の建立。

下南室金刀比羅宮 (4)
下南室金刀比羅宮 (5)
猿田彦大神の石塔と石宮。石宮には文政5年(1822年)の銘があった。境内に諏訪社の石宮があるとのことなので(北橘村誌)、これかもしれない。

十二山というくらいだから、元々は十二宮社が祀られていたのかもしれない。一般的には山の神信仰で、山々に宿るとされる「十二柱の神様」を祀っている場合が多い。


渋川市北橘町上南室の南室山正善寺。

正善寺 (1)
正善寺は嘉暦元年(1326年)僧・一空の開基、創建と伝わる。元和2年(1616年)僧・円道が中興、天台宗に改宗したとされる。創建年から旧北橘村最古の寺院となる。明治初年に現在地に移転したという。

正善寺 (2)
正善寺 (3)
門柱の表札は「天台宗 南室山正善寺」と「上南室農業者研修施設」の2枚が掛かっている(ちょっと見づらいが)。

正善寺 (4)
正善寺はたびたび火災に見舞われており、特に大正12年(1923年)の大火では本堂・建物・什宝などもほとんど焼失している。このとき、檀家の方が炎の中からご本尊(釈迦如来像)を救出したという。

庫裏は地区の集会所となっていたが、昭和55年(1980年)に地域農政特別整備事業の一環として、本堂兼用の上南室農業者研修施設が建設され現在に至っている。

正善寺 (5)
正善寺 (6)
境内(というか庭なのか)にはブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

現在の北橘町上南室と下南室は、往事は一村(南室村)であったが天正年間(1573~92年)に上・下の二村に分かれたとされる。分村の理由は定かではないが、何か事件があり紛争になったからとされる。分村する際、上南室は寺(正善寺)を取り、下南室は二叉の堤を取ったのだという。

正善寺は当時は下南室村内にあったが、上記のように上南室村のものとなったため、寺一帯は上南室村の飛び地となっていた。明治5年(1872年)に当時の住職が入寂し無住となったため、その後現在地へ移転したとされる。

その際に寺関係の遺物(僧侶の墓や仏塔・石仏類)を遷したのが、上南室赤城神社の社殿脇にある仏教系遺物のようだ。(「渋川市北橘町上南室・赤城神社」参照)


渋川市北橘町上箱田の神明宮。

上箱田神明宮 (1)
上箱田神明宮 (2)
上箱田神明宮の由緒は不詳。明治41年(1908年)に村内の諏訪神社を合祀している。

上箱田神明宮 (3)
上箱田神明宮 (4)
高台の南面に参道があるので、けっこう急な石段を上っていく。途中の灯籠は大正9年(1920年)の奉納。

上箱田神明宮 (5)
二の鳥居。

上箱田神明宮 (6)
上箱田神明宮 (7)
社殿は大正9年(1920年)の建立。平成20年(2008年)8月の集中豪雨で被害を受けたが、すぐに地元の方々の浄財で復旧・修復されたようだ。それだけ地元の方々の崇敬を受けているということ。

上箱田神明宮 (8)
上箱田神明宮 (9)
皇居と伊勢神宮方面を示す方向板があり、遙拝できるようになっている。ただ、形状がどちらを指しているのか分かりづらい。


渋川市北橘町小室の三柱神社。

三柱神社 (1)
三柱神社 (2)
三柱神社は元は赤城神社で、貞享3年(1686年)三夜沢赤城神社からの勧請と伝わる。明治41年(1908年)に八幡宮、白山神社を合祀、三柱神社と改称している。

三柱神社 (3)
社殿前の灯籠は明治16年(1883年)の奉納。

三柱神社 (4)
三柱神社 (5)
三柱神社 (6)
社殿は大正8年(1919年)の建立。

三柱神社 (7)
境内社の雷電神社。

三柱神社 (8)
双体道祖神には安永3年(1774年)の銘があった。

三柱神社 (9)
三柱神社 (10)
境内東側の鳥居。

なお、北橘町箱田の木曽三柱神社とは別神社である。


渋川市北橘町真壁の愛宕神社。

真壁愛宕神社 (1)
真壁愛宕神社 (2)
元は愛宕山十輪寺という神仏混淆のお寺であった。十輪寺が迦具土命(火産霊)を祀っていたが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈より廃寺となっている。山門は取り壊され仁王像は渋川市・良珊寺へ、本尊は旧赤城村・興禅寺に移されている。現在は真壁上多目的研修会施設(地区の集会所)となっている。

十輪寺廃寺後、迦具土命(火産霊)を祀る愛宕神社として整備されている。鎮座地は愛宕山と呼ばれる丘くらいの山頂である。鳥居は平成15年(2003年)の建立。

真壁愛宕神社 (3)
杉木立の中、緩やかに登っていく参道。

真壁愛宕神社 (4)
社殿前の灯籠は平成8年(1996年)の奉納。

真壁愛宕神社 (5)
真壁愛宕神社 (6)
社殿は平成15年(2003年)に整備改修されている。

真壁愛宕神社 (7)
真壁愛宕神社 (8)
境内社・末社の三峰神社、竈神社、疱瘡神社、熊野神社、雷電神社など。

真壁愛宕神社 (9)
神仏混淆時代の唯一の名残かな。

愛宕神社は愛宕山の南面に参道があるが、その東面と北面は「愛宕山ふるさと公園」となっている(西側は北橘中)。

愛宕山ふるさと公園 (1)
太陽をイメージしたモニュメントがシンボルのようだ。夏場は水が流れ、小さい子らが水遊びもできる。

愛宕山ふるさと公園 (2)
園内の水車小屋。しかし水が流れていないので、水車は回っていなかった。水を流すこともあるのかな?

愛宕山ふるさと公園 (3)
愛宕山ふるさと公園 (4)
ロングローラーすべり台やブランコ、ザイルクライミングなどの遊具もあるので、子どもを遊ばせるものにも良い。また、四季折々の草花が楽しめるので散策してもいいし、のんびり真壁調整池の野鳥を眺めてもいいかな(双眼鏡もあるし)。


渋川市北橘町真壁の厳島神社。

真壁厳島神社 (1)
真壁厳島神社の由緒は不詳。明治42年(1909年)に真壁赤城神社に合祀されたが、大正末期に分祀・再建されている。その際、名称を弁財天宮から厳島神社と改称している。

真壁厳島神社 (2)
真壁厳島神社 (3)
鳥居は昭和45年(1970年)の建立。扁額は「厳嶋神社」。安芸厳島神社のように水面に映る鳥居は綺麗だ。

真壁厳島神社 (4)
社殿側から見た鳥居。こちら側にも扁額が付けられている。「伊都岐島神社」。

真壁厳島神社 (5)
真壁厳島神社 (6)
真壁厳島神社 (7)
社殿は分祀時の建立。社殿前は数メートルですぐ池。

真壁厳島神社 (8)
厳島神社の後ろ側は真壁東多目的集会施設。ここは元北橘村の初代役場があったところ。明治22年(1889年)の北橘村誕生から明治37年(1904年)まで15年間役場であった。その後は現在まで地区の集会所となっている。


渋川市北橘町真壁の神現山泉城寺跡。

泉城寺跡 (1)
泉城寺の由緒は不詳。上杉謙信の家臣で厩橋城主であった北条高広が元亀2年(1571年)に出した書状に「泉浄寺」の名が見え、これは泉城寺とされる。そのため戦国期以前の創建と考えられる。真壁赤城神社の別当寺であったが、明治初年の神仏分離(廃仏毀釈)により廃寺となっている。

泉城寺跡 (2)
泉城寺跡 (3)
歴代法印供養塔と歴代住職の墓と思われる無縫塔。

泉城寺跡 (4)
泉城寺跡 (5)
供養のための石仏。塔婆もあることから、どこかのお寺で法要(供養)を行っているようだ。

泉城寺跡 (6)
五輪塔など、石塔の一部。寺院跡であることを思い偲ばせる。

泉城寺跡 (7)
「真壁小学校跡」の標柱。当地に明治7年(1874年)に真壁学校が置かれている。明治6年(1873年)の真壁村の記録に泉城寺は記載されていないので、廃寺になった後に学校が置かれたようだ。

泉城寺跡 (8)
榛名山をバックに佐久発電所の「サージタンク」がよく見える。とにかく見晴らしが良い。

旧北橘村は廃仏毀釈運動が強力に押し進められたらしく、現存するお寺は4寺しかない。真壁地区は5寺の記録が確認できるが、現在は桂昌寺の1寺のみ。明治の一時期には全村が神葬祭になったと言われるほどだったようだ(もちろん、良い悪いの類いの話ではないが)。


渋川市北橘町真壁の蚕養(こがい)神社。

蚕養神社 (1)
蚕養神社 (2)
蚕養神社 (3)
蚕養神社は昭和31年(1956年)日立市の蚕養神社から分霊を勧請し、真壁厳島神社の社殿内に祀られた。その後、昭和35年(1960年)に真壁赤城神社境内に社殿を建立し遷座している。

養蚕が盛んであった当地の養蚕農家では、繭がたくさん採れることを願って講を作り、日立市の蚕養神社へ詣でていた。一方、つくば市の蚕影神社に詣でていた講もあり、両者が合流し橘豊蚕講(約800戸)となった。そこで日立市の蚕養神社から分霊を勧請しお祀りしたもの。

当地の養蚕農家が詣でていた蚕養神社・蚕影神社は、蚕霊神社(神栖市)と合わせ「常陸の三蚕神社」と呼ばれる。日立市(旧多賀郡豊浦町)には養蚕の起源とされる「金色姫」の伝説が残されている。

天竺・霖異大王の娘・金色姫が種々の理由により常陸国豊浦港に流れつき、姫は死後蚕になり繭を作ったとされる。そこで養蚕神として蚕霊山千手院星福寺に蚕の開祖として祀ったとされる(すっごい要約)。

他にも、孝霊天皇(第7代とされる)5年に稚産霊命が姿を現し、養蚕に関する神託を告げたので、里人は稚産霊命を日本最初蚕養の祖神として祀ったとの伝説もある(蚕養神社の始まりとされる)。


渋川市北橘町真壁の赤城神社。

真壁赤城神社 (1)
真壁赤城神社 (2)
真壁赤城神社の由緒は不詳。真壁城主・神谷三河守が神徳を深く崇敬したと伝えられる。明治41年(1908年)に大山祗神社、神明宮、稲荷神社、諏訪神社など、村内31社を合祀している。

真壁赤城神社 (3)
二の鳥居は朱色で木製。

真壁赤城神社 (4)
一の鳥居、二の鳥居前後の灯籠は天明7年(1787年)と昭和8年(1933年)の奉納。写真は二の鳥居奥(境内)の灯籠。

真壁赤城神社 (5)
真壁赤城神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

真壁赤城神社 (7)
社殿前の狛犬は皇紀二千六百年とあったので、昭和15年(1940年)の奉納。

真壁赤城神社 (8)
祭神碑。祀られているご祭神が刻されている。豊城入彦命(赤城神社)から明治に合祀された31社すべて(と思う)。

真壁赤城神社 (9)
真壁赤城神社 (10)
境内社・末社(疱瘡神社、御嶽神社、葉酸神社など)と出羽三山塔や道祖神。

現在は桂昌寺(同じく北橘町真壁)に保管されているが、真壁赤城神社の本地仏(本地垂迹説での日本の神の本地とされた仏)とされる千手観音像は、鎌倉期か室町期の造立といわれる。これを考慮すれば、真壁赤城神社の創建はそれなりに古いと推定される。


渋川市北橘町真壁の長盛山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺は元は水泉寺という律宗の寺院であったとされる(創建年などは不詳)。天正10年(1582年)に真壁城主・神谷三河守政律が半田村(現、渋川市半田)の龍伝寺2世・日山祐益を招き中興開山とし現在地に移転、曹洞宗に改宗している。

神谷三河守政律についてはよく分からないが、白井城主・長尾氏に仕えていたようだ。桂昌寺は神谷氏の居館であったともいわれる。

桂昌寺 (2)
石門は明治38年(1905年)に檀家の方が建造。

桂昌寺 (3)
桂昌寺 (4)
本堂は安政元年(1855年)、明治18年(1885年)に火災に見舞われている。特に安政の火災時は、本尊及び過去帳までも焼失している。本堂は明治35年(1902年)に再建されている。現在の本堂は近年の新築建立のようだ。

安政元年の火災時に住職であった13世・眠山宗龍は、燃えさかる本堂の中に端坐したまま寺と運命をともにしようとしたが檀徒に助け出されている。

桂昌寺 (5)
地蔵像などの石仏や仏塔類。

桂昌寺 (6)
聖徳太子塔。文化・文政年間(1804~31年)の造立。

桂昌寺 (7)
桂昌寺 (8)
梵鐘は享保12年(1727年)の鋳造であったが、先の大戦時に供出。昭和49年(1974年)に再鋳造している。

桂昌寺 (9)
除災観音。元は宮城県気仙沼市に鎮座していたが、東日本大震災時にたまたまかの地を離れており、難を逃れたことから除災観音と名付けたという。どういう経緯かは知らないが、桂昌寺に遷されている。


渋川市北橘町下箱田の鈴嶽山玉泉院。

玉泉院 (1)
玉泉院は慶長2年(1597年)に葉林春益和尚と一翁恵純和尚が開基となり、前橋市の橋林寺11世・明岩鑑察和尚を招いて開山とした。数度の火災により古記録などを焼失、詳細寺歴は不詳となっている。

玉泉院 (2)
玉泉院 (3)
本堂は昭和41年(1966年)の建立。

玉泉院 (4)
境内は広くないが、木々に覆われている。その中のお釈迦様(寝釈迦)像。

玉泉院 (5)
玉泉院 (6)
本堂前の石仏群(如意輪観音像や馬頭観音像)と百番供養塔、石宮。

玉泉院 (7)
聖観音像。平成18年(2016年)の造立。

玉泉院 (8)
玉泉院 (9)
鐘楼は新築建立のようだ。

玉泉院 (10)
経堂には大般若経600巻を保管する。明治19年(1886年)の新添。大般若経は玄奘三蔵がインドより唐の国に持ち帰ったお経として有名。


渋川市北橘町下箱田の今井堂。

今井堂 (1)
今井堂の創建年は不詳。今井の池が夜な夜な光り輝いたため、不思議に思い掘り返したところこの観音像が現れたという。そこでお堂を建て観音像を祀った。今井堂とは今井の池から来ている。また観音像は慈覚大師の作と伝わる。

慈覚大師は平安初期の高僧で円仁と言い、最澄・空海らと並び入唐八家のひとり。慈覚大師が創建したと伝わる寺院や仏堂は多い。平泉・中尊寺や浅草寺などがある。

今井堂 (2)
堂内の十一面観音像。堂内は真っ暗に近かったが、なんとか写った。

今井堂 (3)
お堂への入り口付近に道しるべがあった。年代は分からない。「東 箱田 石井」「西 渋川」「南 横室 原」「北 真壁 小室」と記されている。

ところで、「尊像は疑うべくもなく慈覚大師の御作である。霊徳は日々に新たであり、願望成就せぬことなし」とのことである。なので、俗物的なお願いをひとつしてきた。それが成就することを願っている。


渋川市赤城町樽の田中堂。

田中堂 (1)
田中堂 (2)
田中堂と呼ばれるお堂は、須田氏一族の墓地にある。田中は当地の旧字名。お堂は畳敷きの部屋などがあり、仏事などを行うことができるようになっている。昔は庵主が住んでいたこともあるようだ。以前は「慈眼寺」という扁額か掛かっていたというので、元は慈眼寺という寺院の一部と考えられる。

須田氏は旧樽村の名家。北条家からの感状や知行書が伝わっている。また、江戸時代は材木商を営んでおり、延宝8年(1680年)沼田真田藩主・真田信利と両国橋改修用の材木調達の契約を結んでいる(最終納入先は江戸大和屋)。

結果的に真田家は材木の納入期限に間に合わず、さらに杉木茂左衛門の直訴なども重なり、真田信利は改易となったのは有名な話。
(「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)

田中堂 (3)
須田家当主は江戸時代末まで代々与兵衛を名乗っている。最後の与兵衛は豪商・中居屋重兵衛の実母「のぶ」を後妻に迎えている。当墓地に「のぶ」の墓がある。墓石には3名の戒名が刻まれているが、向かって左が「のぶ」のものである。推察するに、中央は最後の与兵衛、右は前妻ではないか。「のぶ」は明治26年(1893年)没。

田中堂 (4)
同じく当墓地にある須田門吉の墓。門吉は大前田英五郎の四天王のひとり。文久3年(1863年)没。通称「にっこり門吉」と呼ばれ、門吉がにっこり笑った時は怒りが頂天に達した時で、何をしでかすか分からないと恐れられた。

名家からも渡世人が出るんだね。それと、勘当もされないで実家筋の墓地に葬ってもらえるなんて。


渋川市赤城町樽の赤城山正念寺。

正念寺 (1)
正念寺は雙林寺11世・自然玄悦の開山。創建年は不詳だが、自然玄悦が開山した他の寺院の由緒などから、天正年間(1573~92年)あたりの創建と考えられる。

正念寺 (2)
正念寺 (3)
門前の地蔵像など。六地蔵の塔芯と上部の石仏は元は別々のものだと思う。台座には寛政6年(1795年)の銘がある。

正念寺 (4)
風化のため像容は分かりづらいがお地蔵さまかな。

正念寺 (5)
本堂などは明治24年(1891年)に焼失、昭和7年(1932年)に再建されている。

境内に石田九右衛門久金の大蛇伝説に係わる蛇塚があったが、今は平削されてその場所は分からなくなっている。九右衛門は樽村の長者で、酒造と材木商を行っていた。

その昔、寺の近くに九右衛門が営む酒屋があった。酒の味が良いと評判だったが、毎晩大蛇が現れ酒を一樽も飲んでしまうので困っていた。意を決した九右衛門は使用人らと大蛇を斬り殺した。死骸は正念寺の境内に捨てた(蛇塚)。酒屋に大蛇は来なくなったが、酒がよくできなくなり酒屋は潰れてしまったという。

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