上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 渋川市・北群馬郡


渋川市赤城町持柏木の赤城神社。

持柏木赤城神社 (1)
持柏木赤城神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)に旧持柏木村内(当時は横野村)の神明宮、大山祇神社、鹿島宮などを合祀している。

灯籠は文政13年(1830年)の奉納。

持柏木赤城神社 (2)
持柏木赤城神社 (3)
石段を上ると一の鳥居。天明2年(1782年)の建立。

持柏木赤城神社 (4)
鳥居の扁額が横書き。数多くの神社に行ってきたが、初めて見たような気がする。ちょっと日差しの関係で写真が見づらくて申し訳ないが、そのまま書くと「社神城赤」とある。

持柏木赤城神社 (5)
参道というか畑(休耕)の中というかを行く。この写真を見ると相当山の中を想像するかもしれないが、そんなことはないので(念のため)。

持柏木赤城神社 (6)
持柏木赤城神社 (7)
二の鳥居。手前に一本道が横切っている。

持柏木赤城神社 (8)
持柏木赤城神社 (9)
持柏木赤城神社 (10)
社殿の建立などは不明。なお、当地は旧神明宮の社地である。

持柏木赤城神社 (11)
拝殿の横にも入り口がある。元々は舞台だったのかもしれない。

持柏木赤城神社 (12)
持柏木赤城神社 (13)
社殿裏側の鳥居。寛政3年(1791年)の建立。

持柏木赤城神社 (14)
松尾芭蕉の句碑。芭蕉が元禄7年(1694年)に詠んだ「松杉を ほめてや風の かをる音」。持柏木出身の俳人(文人)・狩野花交の建碑。

持柏木赤城神社 (15)
狩野花交の句碑。「雨晴れて 寒さの残る 梢かな」。弟子たちが花交の23回忌に際し建碑したもの。狩野花交は「庚申塚の道しるべ」の道歌の作者。また、弟子たちが建てた筆子塚(供養塔)が極楽院にある。

狩野花交 関連
 「渋川市赤城町持柏木・庚申塚の道しるべ
 「渋川市赤城町持柏木・柏木山極楽院


渋川市赤城町持柏木の柏木山極楽院西善寺。

極楽院 (1)
極楽院は応永3年(1396年)臨済宗の僧・義禀の開創。義禀が諸国巡錫のおり眼病に苦しんでいたところ、当地で目を洗ったら治癒したという。そこで堂宇を建立し、本尊に薬師瑠璃光仏を安置したとされる。寛永元年(1624年)16世・寂翁 のとき、天台宗に改宗している(寂翁を中興開山としている)。

極楽院 (2)
本堂などは宝永5年(1708年)落雷にて焼失、宝永7年(1710年)に再建されている。その後寺勢が傾き、昭和31年(1956年)に遂に取り壊しとなった。跡地には仏堂兼公民館が建設され現在に至っている。

天台宗の公式HPで寺院検索を行なうと極楽院が出てくるので、寺院として存続しているようだ。本尊仏などは公民館内に安置されているのだろうか?

極楽院 (3)
極楽院 (4)
山門前の六地蔵石幢。

極楽院 (5)
百万遍念仏供養塔。これは狩野花交の弟子たちが建てた筆子塚になる。慶応2年(1866年)の建立。寺子屋の生徒のことを「筆子」と言ったため。狩野花交は持柏木出身の文人・俳人。「庚申塚の道しるべ」の道歌の作者。
(「渋川市赤城町持柏木・庚申塚の道しるべ」参照)

極楽院 (6)
石仏が並んでいるが、双対道祖神が2体あった。右のものは宝暦12年(1762年)の造立。

極楽院 (7)
公民館の裏(少し高くなっている)に歴代住職の墓域がある。そこにも石仏・石塔類(地蔵像、観音像、青面金剛塔、念仏供養塔など)が多く建っている。元禄(1668~1704年)、享保(1716~36年)、延享(1744~48年)、宝暦(1751~64年)の銘が確認できた。


渋川市赤城町持柏木の庚申塚の道しるべ。

庚申塚の道しるべ (1)
庚申塚の道しるべは、元はすぐ前の旧沼田街道六叉路の中央に埋め込まれていたもの。昭和37年(1962年)に道路改修工事のため、現在の庚申塚上に移設されている。庚申塚上に移設されたので「庚申塚の道しるべ」となっていると思われるが、本来の「旧沼田街道の道しるべ」の方がふさわしいと思うけど。

庚申塚の道しるべ (2)
安山岩の表面を円形に平たく磨き、そこに道しるべとしての情報が刻まれている。中心に「心」の文字、その周りに方位、その外側に「赤城三里半 日光十八里余 前橋三里半 高崎六里余 榛名六里 沼田五里半」と六方面の行き先と道程が放射状に刻まれている。

その外周には「よつの方 むつのちまたにわかるれど こころしづかにたづねてぞゆけ」との道歌が刻まれている。道歌の作者は、当地の文人で俳人である狩野花交(周兵衛)。花交の没年は慶応2年(1866年)なので、沼田街道への道しるべの設置(埋め込み)は幕末と考えられる。

庚申塚の道しるべ (3)
現物は「心」は分かるのだが、他は「何か文字がある」くらいになってしまっているので、詳細は案内板の図から。

庚申塚の道しるべ (4)
現地では五叉路にしか見えなかったのだが、帰ってきてから地図を再確認したところ、細い道がもう一本あり確かに六叉路になっていた。

「庚申塚の道しるべ」は渋川市(旧赤城村時代から)の重文に指定されている。渋川市の解説文では、狩野花交は道歌の作者と書かれているだけで、道しるべ自体の作者とはなっていない。しかし横野村誌には、道しるべ自体を花交が作ったと書かれている(横野村は持柏木地区が含まれる旧村。敷島村と合併し赤城村となっている)。


渋川市北橘町八崎の赤城神社。

八崎赤城神社 (1)
八崎赤城神社 (2)
八崎赤城神社の由緒は不詳。平将門の乱時、平貞盛が戦勝祈願を行ったとの記録があり、当時既に創建されていたと考えられる。平将門の乱は承平5年(935年)から天慶3年(940年)。明治40年(1907年)村内の琴平宮、日枝神社、大山祗神社などを合祀している。

鳥居は昭和58年(1983年)の建立。

八崎赤城神社 (3)
社殿前の灯籠は昭和3年(1928年)の奉納。平成23年(2011年)に修復されている。

八崎赤城神社 (4)
狛犬は昭和14年(1939年)の奉納。

八崎赤城神社 (5)
八崎赤城神社 (6)
社殿は戦乱や火災などに罹災、その都度再建されている。現在の社殿は明治26年(1893年)の建立。

八崎赤城神社 (7)
八崎赤城神社 (8)
神輿庫。神輿はビニールに包まれていた。

八崎赤城神社 (9)
境内社末社群。地神社、春日神社、八坂神社など。

八崎赤城神社 (10)
八崎赤城神社 (11)
社殿裏側の鳥居。享和元年(1801年)の建立。この鳥居は橘北小との境界(壁)側を向いている。昔はこちら側にも参道があったのだろう。

境内に平貞盛が戦勝祈願に植えたとされる大杉があったという。明治27年(1894年)には切り株が残っていたというが、現在はそれらしきのもはない。


渋川市北橘町分郷八崎の八幡宮。

分郷八崎八幡宮 (1)
分郷八崎八幡宮 (2)
分郷八崎八幡宮の由緒は不詳。天正年間(1573~92年)に不動山城主・長尾氏の崇敬が厚かったとされるので、創建はそれ以前となる。明治41年(1908年)に村内の神前神社、神明宮、諏訪神社などを合祀している。

一の鳥居は村道改良工事のため平成11年(1999年)現在地に移動のうえ新規建立。

分郷八崎八幡宮 (3)
旧鳥居の扁額が保存されている。ちなみに、旧鳥居は昭和9年(1934年)の建立だったようだ。

分郷八崎八幡宮 (4)
分郷八崎八幡宮 (5)
二の鳥居をくぐり石段を上っていく。分郷八崎八幡宮は山の西斜面に鎮座している。

分郷八崎八幡宮 (6)
分郷八崎八幡宮 (7)
分郷八崎八幡宮 (8)
社殿の建立年などは不明。平成22年(2010年)に改修されている。

分郷八崎八幡宮 (9)
境内社の秋葉神社。石宮は宝暦8年(1758年)の造立。

分郷八崎八幡宮 (10)
半分土に埋まっている石宮があった。詳細不明。

分郷八崎八幡宮 (11)
分郷八崎八幡宮 (12)
分郷八崎八幡宮 (13)
手水舎には奥側から湧き水を引いているようだ。以前は清水として飲む人もいたみたいだが、令和4年(2022年)の水質検査では「飲用不適合」だったようだ。


渋川市北橘町下南室の金刀比羅宮。

下南室金刀比羅宮 (1)
下南室金刀比羅宮の由緒は不詳。口碑では下南室赤城神社と同じころの創建と伝わる。赤城神社の創建は大同2年(807年)とされているので、口碑通りなら金刀比羅宮も相当の古社となる。(赤城神社は「渋川市北橘町下南室・赤城神社」参照)

下南室金刀比羅宮 (2)
十二山(標高350m)の山頂に鎮座しているため、ちょっとした山登り(言いすぎかな)になる。参道は整備されているが、それなりに足には堪える。

下南室金刀比羅宮 (3)
社殿は昭和63年(1988年)の建立。

下南室金刀比羅宮 (4)
下南室金刀比羅宮 (5)
猿田彦大神の石塔と石宮。石宮には文政5年(1822年)の銘があった。境内に諏訪社の石宮があるとのことなので(北橘村誌)、これかもしれない。

十二山というくらいだから、元々は十二宮社が祀られていたのかもしれない。一般的には山の神信仰で、山々に宿るとされる「十二柱の神様」を祀っている場合が多い。


渋川市北橘町上南室の南室山正善寺。

正善寺 (1)
正善寺は嘉暦元年(1326年)僧・一空の開基、創建と伝わる。元和2年(1616年)僧・円道が中興、天台宗に改宗したとされる。創建年から旧北橘村最古の寺院となる。明治初年に現在地に移転したという。

正善寺 (2)
正善寺 (3)
門柱の表札は「天台宗 南室山正善寺」と「上南室農業者研修施設」の2枚が掛かっている(ちょっと見づらいが)。

正善寺 (4)
正善寺はたびたび火災に見舞われており、特に大正12年(1923年)の大火では本堂・建物・什宝などもほとんど焼失している。このとき、檀家の方が炎の中からご本尊(釈迦如来像)を救出したという。

庫裏は地区の集会所となっていたが、昭和55年(1980年)に地域農政特別整備事業の一環として、本堂兼用の上南室農業者研修施設が建設され現在に至っている。

正善寺 (5)
正善寺 (6)
境内(というか庭なのか)にはブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

現在の北橘町上南室と下南室は、往事は一村(南室村)であったが天正年間(1573~92年)に上・下の二村に分かれたとされる。分村の理由は定かではないが、何か事件があり紛争になったからとされる。分村する際、上南室は寺(正善寺)を取り、下南室は二叉の堤を取ったのだという。

正善寺は当時は下南室村内にあったが、上記のように上南室村のものとなったため、寺一帯は上南室村の飛び地となっていた。明治5年(1872年)に当時の住職が入寂し無住となったため、その後現在地へ移転したとされる。

その際に寺関係の遺物(僧侶の墓や仏塔・石仏類)を遷したのが、上南室赤城神社の社殿脇にある仏教系遺物のようだ。(「渋川市北橘町上南室・赤城神社」参照)


渋川市北橘町上箱田の神明宮。

上箱田神明宮 (1)
上箱田神明宮 (2)
上箱田神明宮の由緒は不詳。明治41年(1908年)に村内の諏訪神社を合祀している。

上箱田神明宮 (3)
上箱田神明宮 (4)
高台の南面に参道があるので、けっこう急な石段を上っていく。途中の灯籠は大正9年(1920年)の奉納。

上箱田神明宮 (5)
二の鳥居。

上箱田神明宮 (6)
上箱田神明宮 (7)
社殿は大正9年(1920年)の建立。平成20年(2008年)8月の集中豪雨で被害を受けたが、すぐに地元の方々の浄財で復旧・修復されたようだ。それだけ地元の方々の崇敬を受けているということ。

上箱田神明宮 (8)
上箱田神明宮 (9)
皇居と伊勢神宮方面を示す方向板があり、遙拝できるようになっている。ただ、形状がどちらを指しているのか分かりづらい。


渋川市北橘町小室の三柱神社。

三柱神社 (1)
三柱神社 (2)
三柱神社は元は赤城神社で、貞享3年(1686年)三夜沢赤城神社からの勧請と伝わる。明治41年(1908年)に八幡宮、白山神社を合祀、三柱神社と改称している。

三柱神社 (3)
社殿前の灯籠は明治16年(1883年)の奉納。

三柱神社 (4)
三柱神社 (5)
三柱神社 (6)
社殿は大正8年(1919年)の建立。

三柱神社 (7)
境内社の雷電神社。

三柱神社 (8)
双体道祖神には安永3年(1774年)の銘があった。

三柱神社 (9)
三柱神社 (10)
境内東側の鳥居。

なお、北橘町箱田の木曽三柱神社とは別神社である。


渋川市北橘町真壁の愛宕神社。

真壁愛宕神社 (1)
真壁愛宕神社 (2)
元は愛宕山十輪寺という神仏混淆のお寺であった。十輪寺が迦具土命(火産霊)を祀っていたが、明治初年の神仏分離・廃仏毀釈より廃寺となっている。山門は取り壊され仁王像は渋川市・良珊寺へ、本尊は旧赤城村・興禅寺に移されている。現在は真壁上多目的研修会施設(地区の集会所)となっている。

十輪寺廃寺後、迦具土命(火産霊)を祀る愛宕神社として整備されている。鎮座地は愛宕山と呼ばれる丘くらいの山頂である。鳥居は平成15年(2003年)の建立。

真壁愛宕神社 (3)
杉木立の中、緩やかに登っていく参道。

真壁愛宕神社 (4)
社殿前の灯籠は平成8年(1996年)の奉納。

真壁愛宕神社 (5)
真壁愛宕神社 (6)
社殿は平成15年(2003年)に整備改修されている。

真壁愛宕神社 (7)
真壁愛宕神社 (8)
境内社・末社の三峰神社、竈神社、疱瘡神社、熊野神社、雷電神社など。

真壁愛宕神社 (9)
神仏混淆時代の唯一の名残かな。

愛宕神社は愛宕山の南面に参道があるが、その東面と北面は「愛宕山ふるさと公園」となっている(西側は北橘中)。

愛宕山ふるさと公園 (1)
太陽をイメージしたモニュメントがシンボルのようだ。夏場は水が流れ、小さい子らが水遊びもできる。

愛宕山ふるさと公園 (2)
園内の水車小屋。しかし水が流れていないので、水車は回っていなかった。水を流すこともあるのかな?

愛宕山ふるさと公園 (3)
愛宕山ふるさと公園 (4)
ロングローラーすべり台やブランコ、ザイルクライミングなどの遊具もあるので、子どもを遊ばせるものにも良い。また、四季折々の草花が楽しめるので散策してもいいし、のんびり真壁調整池の野鳥を眺めてもいいかな(双眼鏡もあるし)。


渋川市北橘町真壁の厳島神社。

真壁厳島神社 (1)
真壁厳島神社の由緒は不詳。明治42年(1909年)に真壁赤城神社に合祀されたが、大正末期に分祀・再建されている。その際、名称を弁財天宮から厳島神社と改称している。

真壁厳島神社 (2)
真壁厳島神社 (3)
鳥居は昭和45年(1970年)の建立。扁額は「厳嶋神社」。安芸厳島神社のように水面に映る鳥居は綺麗だ。

真壁厳島神社 (4)
社殿側から見た鳥居。こちら側にも扁額が付けられている。「伊都岐島神社」。

真壁厳島神社 (5)
真壁厳島神社 (6)
真壁厳島神社 (7)
社殿は分祀時の建立。社殿前は数メートルですぐ池。

真壁厳島神社 (8)
厳島神社の後ろ側は真壁東多目的集会施設。ここは元北橘村の初代役場があったところ。明治22年(1889年)の北橘村誕生から明治37年(1904年)まで15年間役場であった。その後は現在まで地区の集会所となっている。


渋川市北橘町真壁の神現山泉城寺跡。

泉城寺跡 (1)
泉城寺の由緒は不詳。上杉謙信の家臣で厩橋城主であった北条高広が元亀2年(1571年)に出した書状に「泉浄寺」の名が見え、これは泉城寺とされる。そのため戦国期以前の創建と考えられる。真壁赤城神社の別当寺であったが、明治初年の神仏分離(廃仏毀釈)により廃寺となっている。

泉城寺跡 (2)
泉城寺跡 (3)
歴代法印供養塔と歴代住職の墓と思われる無縫塔。

泉城寺跡 (4)
泉城寺跡 (5)
供養のための石仏。塔婆もあることから、どこかのお寺で法要(供養)を行っているようだ。

泉城寺跡 (6)
五輪塔など、石塔の一部。寺院跡であることを思い偲ばせる。

泉城寺跡 (7)
「真壁小学校跡」の標柱。当地に明治7年(1874年)に真壁学校が置かれている。明治6年(1873年)の真壁村の記録に泉城寺は記載されていないので、廃寺になった後に学校が置かれたようだ。

泉城寺跡 (8)
榛名山をバックに佐久発電所の「サージタンク」がよく見える。とにかく見晴らしが良い。

旧北橘村は廃仏毀釈運動が強力に押し進められたらしく、現存するお寺は4寺しかない。真壁地区は5寺の記録が確認できるが、現在は桂昌寺の1寺のみ。明治の一時期には全村が神葬祭になったと言われるほどだったようだ(もちろん、良い悪いの類いの話ではないが)。


渋川市北橘町真壁の蚕養(こがい)神社。

蚕養神社 (1)
蚕養神社 (2)
蚕養神社 (3)
蚕養神社は昭和31年(1956年)日立市の蚕養神社から分霊を勧請し、真壁厳島神社の社殿内に祀られた。その後、昭和35年(1960年)に真壁赤城神社境内に社殿を建立し遷座している。

養蚕が盛んであった当地の養蚕農家では、繭がたくさん採れることを願って講を作り、日立市の蚕養神社へ詣でていた。一方、つくば市の蚕影神社に詣でていた講もあり、両者が合流し橘豊蚕講(約800戸)となった。そこで日立市の蚕養神社から分霊を勧請しお祀りしたもの。

当地の養蚕農家が詣でていた蚕養神社・蚕影神社は、蚕霊神社(神栖市)と合わせ「常陸の三蚕神社」と呼ばれる。日立市(旧多賀郡豊浦町)には養蚕の起源とされる「金色姫」の伝説が残されている。

天竺・霖異大王の娘・金色姫が種々の理由により常陸国豊浦港に流れつき、姫は死後蚕になり繭を作ったとされる。そこで養蚕神として蚕霊山千手院星福寺に蚕の開祖として祀ったとされる(すっごい要約)。

他にも、孝霊天皇(第7代とされる)5年に稚産霊命が姿を現し、養蚕に関する神託を告げたので、里人は稚産霊命を日本最初蚕養の祖神として祀ったとの伝説もある(蚕養神社の始まりとされる)。


渋川市北橘町真壁の赤城神社。

真壁赤城神社 (1)
真壁赤城神社 (2)
真壁赤城神社の由緒は不詳。真壁城主・神谷三河守が神徳を深く崇敬したと伝えられる。明治41年(1908年)に大山祗神社、神明宮、稲荷神社、諏訪神社など、村内31社を合祀している。

真壁赤城神社 (3)
二の鳥居は朱色で木製。

真壁赤城神社 (4)
一の鳥居、二の鳥居前後の灯籠は天明7年(1787年)と昭和8年(1933年)の奉納。写真は二の鳥居奥(境内)の灯籠。

真壁赤城神社 (5)
真壁赤城神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

真壁赤城神社 (7)
社殿前の狛犬は皇紀二千六百年とあったので、昭和15年(1940年)の奉納。

真壁赤城神社 (8)
祭神碑。祀られているご祭神が刻されている。豊城入彦命(赤城神社)から明治に合祀された31社すべて(と思う)。

真壁赤城神社 (9)
真壁赤城神社 (10)
境内社・末社(疱瘡神社、御嶽神社、葉酸神社など)と出羽三山塔や道祖神。

現在は桂昌寺(同じく北橘町真壁)に保管されているが、真壁赤城神社の本地仏(本地垂迹説での日本の神の本地とされた仏)とされる千手観音像は、鎌倉期か室町期の造立といわれる。これを考慮すれば、真壁赤城神社の創建はそれなりに古いと推定される。


渋川市北橘町真壁の長盛山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺は元は水泉寺という律宗の寺院であったとされる(創建年などは不詳)。天正10年(1582年)に真壁城主・神谷三河守政律が半田村(現、渋川市半田)の龍伝寺2世・日山祐益を招き中興開山とし現在地に移転、曹洞宗に改宗している。

神谷三河守政律についてはよく分からないが、白井城主・長尾氏に仕えていたようだ。桂昌寺は神谷氏の居館であったともいわれる。

桂昌寺 (2)
石門は明治38年(1905年)に檀家の方が建造。

桂昌寺 (3)
桂昌寺 (4)
本堂は安政元年(1855年)、明治18年(1885年)に火災に見舞われている。特に安政の火災時は、本尊及び過去帳までも焼失している。本堂は明治35年(1902年)に再建されている。現在の本堂は近年の新築建立のようだ。

安政元年の火災時に住職であった13世・眠山宗龍は、燃えさかる本堂の中に端坐したまま寺と運命をともにしようとしたが檀徒に助け出されている。

桂昌寺 (5)
地蔵像などの石仏や仏塔類。

桂昌寺 (6)
聖徳太子塔。文化・文政年間(1804~31年)の造立。

桂昌寺 (7)
桂昌寺 (8)
梵鐘は享保12年(1727年)の鋳造であったが、先の大戦時に供出。昭和49年(1974年)に再鋳造している。

桂昌寺 (9)
除災観音。元は宮城県気仙沼市に鎮座していたが、東日本大震災時にたまたまかの地を離れており、難を逃れたことから除災観音と名付けたという。どういう経緯かは知らないが、桂昌寺に遷されている。


渋川市北橘町下箱田の鈴嶽山玉泉院。

玉泉院 (1)
玉泉院は慶長2年(1597年)に葉林春益和尚と一翁恵純和尚が開基となり、前橋市の橋林寺11世・明岩鑑察和尚を招いて開山とした。数度の火災により古記録などを焼失、詳細寺歴は不詳となっている。

玉泉院 (2)
玉泉院 (3)
本堂は昭和41年(1966年)の建立。

玉泉院 (4)
境内は広くないが、木々に覆われている。その中のお釈迦様(寝釈迦)像。

玉泉院 (5)
玉泉院 (6)
本堂前の石仏群(如意輪観音像や馬頭観音像)と百番供養塔、石宮。

玉泉院 (7)
聖観音像。平成18年(2016年)の造立。

玉泉院 (8)
玉泉院 (9)
鐘楼は新築建立のようだ。

玉泉院 (10)
経堂には大般若経600巻を保管する。明治19年(1886年)の新添。大般若経は玄奘三蔵がインドより唐の国に持ち帰ったお経として有名。


渋川市北橘町下箱田の今井堂。

今井堂 (1)
今井堂の創建年は不詳。今井の池が夜な夜な光り輝いたため、不思議に思い掘り返したところこの観音像が現れたという。そこでお堂を建て観音像を祀った。今井堂とは今井の池から来ている。また観音像は慈覚大師の作と伝わる。

慈覚大師は平安初期の高僧で円仁と言い、最澄・空海らと並び入唐八家のひとり。慈覚大師が創建したと伝わる寺院や仏堂は多い。平泉・中尊寺や浅草寺などがある。

今井堂 (2)
堂内の十一面観音像。堂内は真っ暗に近かったが、なんとか写った。

今井堂 (3)
お堂への入り口付近に道しるべがあった。年代は分からない。「東 箱田 石井」「西 渋川」「南 横室 原」「北 真壁 小室」と記されている。

ところで、「尊像は疑うべくもなく慈覚大師の御作である。霊徳は日々に新たであり、願望成就せぬことなし」とのことである。なので、俗物的なお願いをひとつしてきた。それが成就することを願っている。


渋川市赤城町樽の田中堂。

田中堂 (1)
田中堂 (2)
田中堂と呼ばれるお堂は、須田氏一族の墓地にある。田中は当地の旧字名。お堂は畳敷きの部屋などがあり、仏事などを行うことができるようになっている。昔は庵主が住んでいたこともあるようだ。以前は「慈眼寺」という扁額か掛かっていたというので、元は慈眼寺という寺院の一部と考えられる。

須田氏は旧樽村の名家。北条家からの感状や知行書が伝わっている。また、江戸時代は材木商を営んでおり、延宝8年(1680年)沼田真田藩主・真田信利と両国橋改修用の材木調達の契約を結んでいる(最終納入先は江戸大和屋)。

結果的に真田家は材木の納入期限に間に合わず、さらに杉木茂左衛門の直訴なども重なり、真田信利は改易となったのは有名な話。
(「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)

田中堂 (3)
須田家当主は江戸時代末まで代々与兵衛を名乗っている。最後の与兵衛は豪商・中居屋重兵衛の実母「のぶ」を後妻に迎えている。当墓地に「のぶ」の墓がある。墓石には3名の戒名が刻まれているが、向かって左が「のぶ」のものである。推察するに、中央は最後の与兵衛、右は前妻ではないか。「のぶ」は明治26年(1893年)没。

田中堂 (4)
同じく当墓地にある須田門吉の墓。門吉は大前田英五郎の四天王のひとり。文久3年(1863年)没。通称「にっこり門吉」と呼ばれ、門吉がにっこり笑った時は怒りが頂天に達した時で、何をしでかすか分からないと恐れられた。

名家からも渡世人が出るんだね。それと、勘当もされないで実家筋の墓地に葬ってもらえるなんて。


渋川市赤城町樽の赤城山正念寺。

正念寺 (1)
正念寺は雙林寺11世・自然玄悦の開山。創建年は不詳だが、自然玄悦が開山した他の寺院の由緒などから、天正年間(1573~92年)あたりの創建と考えられる。

正念寺 (2)
正念寺 (3)
門前の地蔵像など。六地蔵の塔芯と上部の石仏は元は別々のものだと思う。台座には寛政6年(1795年)の銘がある。

正念寺 (4)
風化のため像容は分かりづらいがお地蔵さまかな。

正念寺 (5)
本堂などは明治24年(1891年)に焼失、昭和7年(1932年)に再建されている。

境内に石田九右衛門久金の大蛇伝説に係わる蛇塚があったが、今は平削されてその場所は分からなくなっている。九右衛門は樽村の長者で、酒造と材木商を行っていた。

その昔、寺の近くに九右衛門が営む酒屋があった。酒の味が良いと評判だったが、毎晩大蛇が現れ酒を一樽も飲んでしまうので困っていた。意を決した九右衛門は使用人らと大蛇を斬り殺した。死骸は正念寺の境内に捨てた(蛇塚)。酒屋に大蛇は来なくなったが、酒がよくできなくなり酒屋は潰れてしまったという。


渋川市赤城町勝保沢の御手洗(みたらし)の大杉と雨乞いの池。

御手洗の大杉と雨乞いの池 (1)
御手洗の大杉は樹高25m、目通り2.9m、根元廻り4.6mで、樹齢は約300年と推定される。ここは御手洗の名の通り、勝保沢諏訪神社の禊ぎの場である池があったところになる。(諏訪神社は「渋川市赤城町勝保沢・諏訪神社」参照)

御手洗の大杉と雨乞いの池 (2)
雨乞いの池と呼ばれた池跡は鉄板で覆われている。この下が池(水場)になっているのかなどは分からない。昔は諏訪神社参拝の際にはこの池で身を清めた(手を洗う)といわれる。

ある夏の雨不足のときに梵天を捧げて「池替え」(水を入れ替えること)を行ったところ、やがて豪雨なったことから霊験の池とされた。以後、雨乞いの池と呼ばれるようになった。ちなみに梵天は仏教の世界観において、最高位の一つである梵天界の主とされる。


渋川市赤城町勝保沢の諏訪神社。

勝保沢諏訪神社 (1)
勝保沢諏訪神社 (2)
勝保沢諏訪神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に旧勝保沢村(当時は横野村)の神明神社、愛宕神社、菅原神社、八幡宮などを合祀している。

鳥居は石本勝左衛門勝辰が寛政8年(1796年)に寄進・建立したもの。扁額は東江源鱗の書。吉岡町・華蔵寺出の角田無幻は東江源麟の門弟のひとりである。石本勝左衛門勝辰は宗玄寺の十一面観音堂を寄進した人物。
(勝左衛門や宗玄寺は「渋川市赤城町勝保沢・快中山宗玄寺」参照)

勝保沢諏訪神社 (3)
鳥居には今も石本勝左衛門勝辰の文字がしっかり読める。

勝保沢諏訪神社 (4)
勝保沢諏訪神社 (5)
二の鳥居は平成7年(1995年)の建立。鳥居前の灯籠は宝暦7年(1757年)の奉納。

勝保沢諏訪神社 (6)
社殿前の灯籠は明治24年(1891年)の奉納。

勝保沢諏訪神社 (8)
勝保沢諏訪神社 (9)
勝保沢諏訪神社 (10)
社殿の建立年などの詳細はは分からない。

勝保沢諏訪神社 (11)
勝保沢諏訪神社 (12)
勝保沢諏訪神社 (13)
境内社・末社群。地神、雷電神社、蚕影神社、抜鉾神社、赤城神社、厳島神社など。

勝保沢諏訪神社 (14)
勝保沢諏訪神社 (15)
勝保沢諏訪神社には太々神楽が伝承されている。大正4年(1915年)の神楽講創設と同時に神楽殿も建立されている。舞は神式舞と愛嬌舞の二座十九舞があり、現在まで存続している。

古くに勝保沢村に流行した狂歌というか地口(言葉遊び的なシャレ)がある。「勝保沢に過ぎたるものが三つあり 諏訪の鳥居におりの観音」。

諏訪の鳥居は、この諏訪神社の鳥居。観音は宗玄寺の十一面観音堂(当時は字下りにあった)。いずれも石本勝左衛門勝辰が寄進している。もうひとつの「おりの」とは、十一面観音堂造営の頭領・星野幸右衛門の孫娘のこと。「おりの(お理野)」は絶世の美人で「勝保沢小町」と呼ばれ、近郷にその名が知られていたという。


渋川市赤城町勝保沢の快中山宗玄寺。

宗玄寺 (1)
宗玄寺は慶長19年(1614年)信濃の松本城主・小笠原秀政が寺領を寄進し、大中寺(栃木市)の13世・別伝存策和尚を開山に招き創建したとされる。秀政が帰依していた別伝存策が雙林寺(渋川市中郷)の住職になれなかったので、雙林寺を見下ろす当地に寺を建立したという。

別説では、元和8年(1622年)地元の郷士・斎藤加賀守安清が別伝存策和尚を開山に招き創建したとされる。宗玄寺の寺域は勝保沢城跡になる。

勝保沢城の築城年代などは不詳だが、斎藤安清が城主(在城)であったとされる。天正18年(1590年)の豊臣秀吉の北条攻めにより勝保沢城は落城。斎藤氏は当地に土着、帰農している。墓地には「宗玄開基安清宗心居士」と刻まれた墓石があり、斎藤加賀守安清の墓とされる。

宗玄寺 (2)
宗玄寺 (3)
宗玄寺 (4)
宗玄寺 (5)
立派な山門(仁王門)は平成10年(1998年)の建立。

宗玄寺 (6)
六地蔵。平成15年(2003年)の造立。

宗玄寺 (7)
本堂などは天保年間(1831~45年)に焼失、嘉永4年(1857年)に堂宇を再建している。昭和28年(1953年)に屋根を瓦葺きに改修。平成22年(2010年)にも屋根を改修している。

宗玄寺 (8)
改修前の屋根の一部(だと思う)が置かれていた。

宗玄寺 (9)
子育て地蔵。昭和57年(1982年)檀家の方の建立。

宗玄寺 (10)
立派な宝篋印塔。寛政4年(1792年)に勝保沢出身の石本勝左衛門勝辰が造立。

宗玄寺 (11)
十一面観音を祀る観音堂。宗玄寺の開基ともいわれる斎藤加賀守安清から3代目の斎藤万右衛門が小堂を建立したのが始まりとされる。現在の観音堂は寛政11年(1799年)に石本勝左衛門勝辰が寄進したものである。

元は勝保沢の字下りにあったが、明治30年(1897年)勝左衛門の百年忌にあたり、将来の管理のことなどを考慮し宗玄寺境内へ移築している(移築完は翌年)。

宗玄寺 (12)
宗玄寺 (13)
宗玄寺 (14)
宗玄寺 (16)
建築は勝保沢の名工・星野幸右衛門。四面に素晴らしい彫刻が施されている。

石本勝左衛門は勝保沢の農家の子(幼名は惣平)として生まれる。志高く江戸に出て、運良く前橋藩・酒井家家臣・石本家を嗣ぎ勝左衛門勝辰と名乗った。その後も藩の勘定方事務などで功績をあげた。晩年、地元への恩返しとして各種寄進した中のひとつが十一面観音堂である。勝左衛門は完成前年に、江戸にて73歳で没している。


渋川市赤城町宮田の宮田神社。

宮田神社 (1)
宮田神社 (2)
宮田神社は元は諏訪神社で、字沓谷戸に鎮座していた。諏訪神社の由緒は不詳だが、口碑によると建久年間(1190~99年)に星野出羽守が信濃・諏訪大社から勧請したという。

大正2年(1913年)に旧宮田村(当時は横野村)の熊野神社など全社を合祀、さらに現在地(字御嶽)に遷座し宮田神社と改称している。現在地にあった宮田不動尊が三原田の興禅寺に合併されたため、その跡地に遷ったもの。

ところが、昭和15年(1940年)に宮田不動尊が興禅寺への合併を取り消し、同所へ戻ってくることになった。そのため境内裏の急傾斜地を切り崩すなどして敷地を造成し、そこに移動している。元地には不動寺(宮田不動尊)が鎮座している。
(「渋川市赤城町宮田・宮田山不動寺(宮田不動尊)」参照)

宮田神社 (3)
長く急な石段。不動寺の石段(文化6年:1809年)より石のズレが少ない。石段の整備は社殿を移動した昭和15年(1940年)と思われる。

宮田神社 (4)
宮田神社 (5)
宮田神社 (6)
宮田神社 (7)
急な石段に合計3基の鳥居がある。三の鳥居だけ銘が確認でき、宝暦13年(1763年)の建立。扁額はすべて「宮田神社」なので、改称後に扁額のみ差し替えているようだ。元の諏訪神社の扁額は「正一位 諏訪大明神」だったという。

宮田神社 (8)
社殿前の灯籠は昭和16年(1941年)の奉納。ちょうど社殿を動かした時期。

宮田神社 (9)
宮田神社 (10)
社殿の建立年などの詳細は分からない。

宮田神社 (11)
境内の石灯籠。嘉吉3年(1443年)の造立。合祀された熊野神社からの移設。渋川市の重文に指定されている。


渋川市赤城町宮田の宮田山不動寺(宮田不動尊)。

宮田山不動寺 (1)
不動寺としての創建は昭和17年(1942年)となるが、古くから自然洞窟内に石造不動明王像を祀っており、宮田不動尊として住民の崇敬篤く信仰されてきた。写真は重要文化財であることを示す標柱。「重要文化財 石造不動明王立像」。

不動明王像については口碑として、いつのころか利根川を流れて来たものを樽村の塔が淵から拾いあげて洞窟内に安置した。宮田方面に向けても、一夜にして樽方面に向き直ってしまうとの伝説が残るのみであった。

年代は不明だが麓には仁王門、洞窟入り口には堂宇も建立され、初不動のお祭りには多くの人が参拝した。しかし明治39年(1906年)の神社合祀令(原則一村一社)の流れの中、なぜか独立仏堂であった不動堂が三原田・興禅寺に合併されることになった(仁王門やお堂は取り壊され、仁王像や鰐口などは売却された)。

宮田不動尊の境内跡地には、大正2年(1913年)に村内神社を合祀した諏訪神社が移転し宮田神社となった。不動明王像のある洞窟入り口は石垣で隠し、武尊神社とするため拝殿も作られた。

その後、昭和9年(1934年)の調査で、不動明王像は何物かにより腰部接合箇所から上半身が後方に突き落とされ、石像体内から体内物が盗み取られていた。ただその際に墨書が確認され、建長3年(1251年)に造立されたことが明確になった。

そのため貴重な文化遺産である不動明王像を保護する目的で、昭和15年(1940年)興禅寺への合併を取り消し、昭和17年(1942年)不動寺を創建し本尊としている。(長くて申し訳ないですが、これでも精一杯短くまとめたつもりです)

宮田山不動寺 (2)
宮田山不動寺 (3)
石段は文化6年(1809年)宮田村の若者によって整備・寄進されている。当時は108段とあるが、現在もそのままだろうか。石段は通行止めになっていたので隣の宮田神社の石段を上った。

宮田山不動寺 (4)
宮田山不動寺 (5)
石段の途中の灯籠と念仏供養塔。灯籠は文化(1804~18年)の銘があった。石段と同じ文化6年かな(横から石段の途中に行くことができる)。

宮田山不動寺 (6)
宮田山不動寺 (7)
宮田山不動寺 (8)
大正2年(1913年)に諏訪神社(宮田神社)が社殿ごと移転していたため、昭和15年(1940年)神社裏の急傾斜地を切り崩すなどして敷地を造成し、そこに神社を移動させることで不動堂を建立した。このときは寺院ではなく、まだ独立仏堂としての復帰。不動寺になるのは、先に書いたように昭和17年のことである。不動寺ではお堂を奥の院と呼んでいる。

宮田山不動寺 (9)
堂内は特に仏教施設らしき構造となっていない。不動明王像のご開帳日に、ここを通って洞窟内に入るための役割。

宮田山不動寺 (10)
洞窟への入り口には赤い鉄製の門。当然、厳重に施錠されている。

宮田不動尊レプリカ(県立歴史博物館)
石造不動明王立像は1月28日の1日のみご開帳される。写真は群馬の森・県立歴史博物館に展示されているレプリカ。以前行った時に偶然撮っていた。

高さ1.66m、腰回り1.57mとほぼ等身大の大きさ。蛇紋岩質軽石凝灰岩を丸彫りしており、片目を半眼に片目をかっと開く一目諦視の忿怒相で、右手は腰に智剣をとり左手は絹索をとって垂らしている。仏師は定朝流の院隆と院快である。

墨書によると、願主は源氏義。新田氏の祖・義重の庶長子である里見義俊の曽孫にあたる。渋川市金井の金蔵寺に供養塔が建っている源(里見)義秀は氏義の異父兄になる。
(「里見義秀の供養塔?・登澤山金蔵寺」参照)

宮田山不動寺 (11)
宮田山不動寺 (12)
奥の院横の六地蔵石幢。文明3年(1471年)の造立。

宮田山不動寺 (13)
宮田山不動寺 (14)
奥の院から一段低いところに庫裏と書院がある。2階建てが庫裏で平屋が書院。不動寺の創建には樽地区出身で東京・泉岳寺42世の小坂準爾氏が協力してる(不動寺住職も永年務めていた)。泉岳寺はご存じの通り、赤穂藩主・浅野長矩や大石内蔵助など47士の墓があるお寺。

昭和20年(1945年)5月25日の東京大空襲で泉岳寺が焼失したため、小坂住職一家が数年間庫裏(含む書院)に居住していた。


渋川市北橘町八崎の大黒天広場。

大黒天広場 (1)
八崎地区の北部、上越線と利根川に挟まれた旧字船戸に石仏・仏塔などの石造物が集積されている。大黒天広場と名付けられているのは、大黒天の石塔があるからだと思う。

大黒天広場 (2)
甲子大黒天石塔。元治元年(1864年)の造立。明治10年(1877年)に八崎赤城神社に遷されたが、居心地が悪かったようで体を揺すって涙を流したという。そのため再び元の場所に戻されている(元の場所が当所なのかは不明)。

大黒天広場 (3)
石尊宮は文化9年(1812年)の造立。石尊宮は竿、火袋が欠けている。元は3mの高さがあったと考えられる。

大黒天広場 (4)
庚申塔(右)は寛政12年(1800年)、地神社宮(左)は天保13年(1842年)の造立。庚申塔と地神社宮の間のものは不明。一番左は灯籠の竿石。「大天狗」(だと思う)と刻まれている。

大黒天広場 (5)
弁財天供養塔(右)は文化6年(1809年)、天神宮(左)は天明3年(1783年)の造立。

大黒天広場 (6)
双体道祖神(右)は安永9年(1780年)、不動明王塔(中)は宝暦10年(1760年)、石宮(左)は宝暦5年(1755年)の造立。

大黒天広場 (7)
石宮(右)は宝暦6年(1756年)、天神宮(左)は安政6年(1859年)の造立。

いつ、どういう理由で当地に集積されたのかは不明だが、立派な解説板も立てられており、石造物を後世に伝えようとしている姿勢は素晴らしい。


渋川市北橘町上南室の赤城神社。

上南室赤城神社 (1)
上南室赤城神社 (2)
上南室赤城神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)に赤城山大洞の赤城神社に合祀される。しかし昭和22年(1947年)氏子中の要望により分祀されている。

上南室赤城神社 (3)
鳥居前の木が倒れかかっている。フェンスで囲われている(水源?)が、木はその中から。フェンスは鳥居前の半分くらいを塞いでいる状態。何か切れない理由があるのかな(ご神木ではないだろうし)。

上南室赤城神社 (4)
境内の灯籠は文政3年(1821年)の奉納。

上南室赤城神社 (5)
上南室赤城神社 (6)
社殿は大正12年(1923年)に焼失、翌年再建されている。この時点では赤城山大洞に合祀されているのに社殿を再建したのは、将来的に分祀するという強い意志が氏子中にあったということか。

上南室赤城神社 (7)
境内社・末社群。八坂神社、日枝神社、諏訪神社、厳島神社など。

上南室赤城神社 (8)
社殿脇に仏塔・石仏などが集積されている。僧侶の墓石もあるので、当地に寺院などがあったようだ。

上南室赤城神社 (9)
数ある仏塔類の中で、この二十二夜塔(如意輪観音)のみ解説板が設置されていた。文化2年(1805年)の造立だが、文化財指定されているわけではないようだ。その他、享保15年(1730年)の地蔵像などがあった。

上南室赤城神社 (10)
鳥居脇には松尾芭蕉の句碑がある。「猶見たし 華に明行く 神の顔」。明治20年(1887年)の建碑。


渋川市北橘町上南室の相ノ田地蔵尊。

相ノ田地蔵尊 (1)
相ノ田地蔵尊は木曽義仲四天王のひとり楯六郎親忠の末裔がお堂を建立し、地蔵尊を安置したのが始まりとされる。楯親忠は地蔵尊を厚く信仰していたという。親忠は寿永3年(1184年)の宇治川の戦で討死している。

義仲四天王とは一般に樋口兼光、今井兼平、根井行親、楯親忠を言う。根井行親の6男が楯親忠である。また、樋口兼光と今井兼平は兄弟で、巴御前の兄とされる。

相ノ田地蔵尊 (2)
相ノ田地蔵尊 (3)
地蔵堂は火災で焼失してしまったが、新たに石造地蔵尊を建立し地域の人々が子どもの成長や病気治癒祈願を行なってきた。団子や焼餅をお供えしていたため、いつしか焼餅地蔵尊と呼ばれるようになった。

火災後、長らく露座の状態だったようだが、大正14年(1925年)にお堂が再建されている。地蔵尊は風化したようで、お顔の凹凸などがほぼ無くなっているようだ(かわいい前掛けにばかり目が行ってしまうが)。

楯親忠の末裔と当地との関係はと言うと、義仲や親忠討死後に今井兼平の次男・兼之や根井行親の妻などが、義仲3男・義基を匿い北橘村箱田に落ち延びたとする伝承がある。そのため旧北橘村には木曽義仲やその一族に関する伝説・伝承が多く残っている。

渋川市北橘町箱田の木曽三柱神社境内にあった朝日塚古墳(現在は削平されてしまった)は義基の墓と伝わる。同じく木曽三柱神社の本殿が建っているのが将軍塚古墳で、こちらには義仲の首と遺品が納められていると伝わる。
(「渋川市北橘町箱田・木曽三柱神社」参照)


渋川市北橘町赤城山の硯石。

硯石 (1)
硯石 (2)
硯石は赤城山の噴火により噴出した大石。約80トンの重量という。石の上面にはいくつかの凹みがあり、そこにはいつも雨水が溜まっているので、その様子から「硯石」と呼ばれている。

硯石には以下の伝説がある。当地にやってきた親鸞がこの石の凹みに溜まった水で墨をすり、歌を一首詠んだといわれている。このことにちなんで「硯石」と名付けられたともいわれる。この伝説は浄土真宗関係者が広めたといわれる。

ちなみに当地は「硯石地区」(昔の小字)と言い、硯石が地名になっている。

硯石 (3)
上部はよく見えず、凹みはあるが水が溜まるほどなのか分からなかった。

ところで、硯石は数年前までは地中に埋もれ、その上部がわずかに見える程度であった。硯石がある土地は渋川市の市有地であるが草木が伸び放題で、特に管理をしていなかったようだ。

現在は草木が刈られ整地もされ、しかも硯石が地表上に出ている。令和元年(2018年)7月に掘り出されている。これにはいろいろ経緯があるようなので詳報しないが、市有地を正式な手続き無く掘ったやら、埋め戻す義務があるとか無いとかで揉めているようだ。


北群馬郡吉岡町小倉の日枝神社。

小倉日枝神社 (1)
小倉日枝神社 (2)
小倉日枝神社の創建年などは不詳。社伝では最澄が船尾山に大伽藍寺院を創建した時に、その麓の村々に山王社を21社勧請した中の1社が当社とされる。これによれば、創建は弘仁年間(810~24年)となる。鳥居は元文4年(1739年)の建立。

小倉日枝神社 (3)
小倉日枝神社 (4)
小倉日枝神社 (5)
社殿は明治38年(1905年)の建立。

小倉日枝神社 (6)
ご神木のもみじ。平成20年(2008年)に伐採。記念として幹を残している。この木の実生が2代目として植樹されている。数十年後には大きなご神木となるだろう。

小倉日枝神社 (7)
石宮と山王大権現と刻まれた扁額。他の日枝神社も合祀されているのかもしれない。

小倉日枝神社 (8)
境内社・末社群。詳細は不明。

小倉日枝神社 (9)
庚申塔や念仏供養塔。二十二夜塔(如意輪観音)は寛政5年(1793年)の銘がある。

小倉産泰神社 (1)
小倉産泰神社 (2)
境内社の産泰神社。前橋市下大屋町の産泰神社からの勧請。

小倉産泰神社 (3)
祠内にはご神体の板碑が鎮座する。「吉岡町文化財マップ」によると、板碑には阿弥陀三尊が刻まれているということだが、なぜ阿弥陀三尊? 元は別の仏教関係の板碑が、いつの間にかご神体になったというかな。


北群馬郡吉岡町上野田の滝泉神社。

滝泉神社 (1)
滝泉神社の創建年などは不詳だが、上野国神名帳記載の「正五位上 泉矢明神」とされる。当地は稲作が盛んであったため、水口神として祀られたといわれる。いつの頃からか滝泉明神と呼ばれるようになり、明治3年(1870年)に滝泉神社と正式に改称している。

滝泉神社 (2)
参道の途中から杉並木となっており、その最初の2本は特に巨木で「鳥居杉」と呼ばれる。樹高20mほどで、目通りは5m前後。樹齢は4~500年とされる。

滝泉神社 (3)
向かって右の鳥居杉は、根元に大きな樹洞ができている。

滝泉神社 (4)
左の鳥居杉は落雷でもあったのか、幹先端を大きく剪定している。幹途中も保護シートで覆われている。害虫の治療中?

滝泉神社 (5)
杉の巨木に囲まれた参道を歩くのは心地良い。

滝泉神社 (6)
滝泉神社 (7)
鳥居は元禄16年(1703年)の建立。扁額が「正一位」になっているのは、元禄11年(1698年)に白川家より正一位の神階をを受けているため。この時期には滝泉大明神と既に呼ばれていたと思われる。

滝泉神社 (8)
滝泉神社 (9)
滝泉神社 (10)
社殿建立などは不明。

滝泉神社 (11)
社殿裏の境内社・末社。これ以外に石尊大権現や衣笠大神の石塔があった。

滝泉神社 (12)
社殿裏の袂石と呼ばれる巨石。これはご祭神・弥都波能売神(罔象女神)が垂迹し、袂裡から取り出した数個の石を郷の鎮めにと置いたもの。それが年々成長し、現在の姿になったと伝わっている。

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