上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 渋川市・北群馬郡


北群馬郡吉岡町小倉の日枝神社。

小倉日枝神社 (1)
小倉日枝神社 (2)
小倉日枝神社の創建年などは不詳。社伝では最澄が船尾山に大伽藍寺院を創建した時に、その麓の村々に山王社を21社勧請した中の1社が当社とされる。これによれば、創建は弘仁年間(810~24年)となる。鳥居は元文4年(1739年)の建立。

小倉日枝神社 (3)
小倉日枝神社 (4)
小倉日枝神社 (5)
社殿は明治38年(1905年)の建立。

小倉日枝神社 (6)
ご神木のもみじ。平成20年(2008年)に伐採。記念として幹を残している。この木の実生が2代目として植樹されている。数十年後には大きなご神木となるだろう。

小倉日枝神社 (7)
石宮と山王大権現と刻まれた扁額。他の日枝神社も合祀されているのかもしれない。

小倉日枝神社 (8)
境内社・末社群。詳細は不明。

小倉日枝神社 (9)
庚申塔や念仏供養塔。二十二夜塔(如意輪観音)は寛政5年(1793年)の銘がある。

小倉産泰神社 (1)
小倉産泰神社 (2)
境内社の産泰神社。前橋市下大屋町の産泰神社からの勧請。

小倉産泰神社 (3)
祠内にはご神体の板碑が鎮座する。「吉岡町文化財マップ」によると、板碑には阿弥陀三尊が刻まれているということだが、なぜ阿弥陀三尊? 元は別の仏教関係の板碑が、いつの間にかご神体になったというかな。


北群馬郡吉岡町上野田の滝泉神社。

滝泉神社 (1)
滝泉神社の創建年などは不詳だが、上野国神名帳記載の「正五位上 泉矢明神」とされる。当地は稲作が盛んであったため、水口神として祀られたといわれる。いつの頃からか滝泉明神と呼ばれるようになり、明治3年(1870年)に滝泉神社と正式に改称している。

滝泉神社 (2)
参道の途中から杉並木となっており、その最初の2本は特に巨木で「鳥居杉」と呼ばれる。樹高20mほどで、目通りは5m前後。樹齢は4~500年とされる。

滝泉神社 (3)
向かって右の鳥居杉は、根元に大きな樹洞ができている。

滝泉神社 (4)
左の鳥居杉は落雷でもあったのか、幹先端を大きく剪定している。幹途中も保護シートで覆われている。害虫の治療中?

滝泉神社 (5)
杉の巨木に囲まれた参道を歩くのは心地良い。

滝泉神社 (6)
滝泉神社 (7)
鳥居は元禄16年(1703年)の建立。扁額が「正一位」になっているのは、元禄11年(1698年)に白川家より正一位の神階をを受けているため。この時期には滝泉大明神と既に呼ばれていたと思われる。

滝泉神社 (8)
滝泉神社 (9)
滝泉神社 (10)
社殿建立などは不明。

滝泉神社 (11)
社殿裏の境内社・末社。これ以外に石尊大権現や衣笠大神の石塔があった。

滝泉神社 (12)
社殿裏の袂石と呼ばれる巨石。これはご祭神・弥都波能売神(罔象女神)が垂迹し、袂裡から取り出した数個の石を郷の鎮めにと置いたもの。それが年々成長し、現在の姿になったと伝わっている。


北群馬郡吉岡町下野田の子育て地蔵尊。

下野田子育地蔵尊 (1)
下野田子育地蔵尊 (2)
下野田の子育て地蔵尊は享保6年(1721年)の造立。お堂は昭和10年(1935年)ころ、各戸が20銭ほどの寄進をし建立されている。

子育て地蔵尊は幼時の夜泣きや疫病を封じる願を掛け、お礼に赤や白の布地で作ったよだれ掛けを奉納した。現在も多くの参拝があるようだ。


北群馬郡吉岡町下野田の野田神社。

野田神社 (1)
野田神社 (2)
野田神社は稲作の守護神として稲荷神社として創建されている(創建年などは不詳)。明治40年(1907年)に村内の野田大明神、見城社、八幡社と合併、野田神社と改称されている。

鳥居は昭和7年に(1932年)に旧野田大明神からの移設。よって扁額は「野田大明神」。寛保2年(1742年)の建立。

野田神社 (3)
社殿前の灯籠は昭和7年に旧見城社からの移設の。文政13年(1830年)の奉納。

野田神社 (4)
野田神社 (5)
社殿も同じく昭和7年に旧野田大明神からの移設。扁額に文化4年(1807年)の文字が見えるので同年の建立かもしれない。また、正一位野田大明神の下に太々御神楽とも書かれているので、神楽が伝わっていたようだ。

野田大明神の右には縦書きで「椿名神社」ともある。榛名神社のことと思うが、詳細不明。

野田神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。詳細は不明。

野田神社 (7)
青面金剛と二十三夜供養塔。青面金剛は明和6年(1769年)の造立。

稲荷社時代から隣接する華蔵寺から奉仕と庇護を受けてきた。華蔵寺歴代当主は社殿を再建するなど、別当寺のような役割を果たしてきたようだ。
(華蔵寺は「吉岡町下野田・法雲山華蔵寺」参照)


北群馬郡吉岡町下野田の法雲山華蔵寺。

華蔵寺 (1)
華蔵寺は永正16年(1519年)元山法印の開山。

華蔵寺 (2)
山門前の中の島に弁財天が祀られている。石祠は宝永5年(1708年)の造立で、高さ132cm、棟幅75cm、奥行き86cm。

華蔵寺 (3)
華蔵寺 (4)
屋根の棟(左右とも)にふっくらした鬼面が彫られている。鬼面は高さ15cm、幅12cm。鬼と言うがふっくら顔で優しい目をしており、口元は微笑んでいるように見える。本当に鬼?

南下の下八幡宮にも鬼面の彫られた石祠あがある。(「吉岡町南下・下八幡宮」参照)

華蔵寺 (5)
華蔵寺 (6)
観音堂。祠の扉が閉まっており詳細不明。

華蔵寺 (7)
庚申塔が並んでいる。どれかは分からなかったが、角田無幻の書によるものがあるらしい。角田無幻は華蔵寺の生まれの書家。(無幻の詳細は「角田無幻道人の遺髪塚」参照)

華蔵寺 (8)
中央の青面王・一石庚申塔は万延元年(1860年)の造立。

華蔵寺 (9)
本堂は老朽化しているようだが、現役なのかな。他に本堂らしき建物はなかったと思うが。

華蔵寺 (10)
8世・浄聖院亮衍(りょうえん)の墓。亮衍は修験者(山伏)であり、国学者でもあった。和漢の知識に秀でており、また稀代の蔵書家でもあった。国学者・塙保乙一が編纂した「群書類従」の編集に携わったと伝わる。

亮衍は角田無幻の兄であり、無幻とともに京都で修験学則の選定などに尽力している。文化3年(1806年)京都で没している。

華蔵寺 (11)
亮衍が創設した獅子園書庫。聖教類(仏教関係書)を含む、貴重な典籍や古文書など多くの資料を収蔵している。建屋じたいはまだ新しい。

亮衍は本居宣長や屋代弘賢らとも親交がある傑出した国学者であったが、修験者であったためその存在が疑問視されていた。この獅子園書庫の発見が亮衍の実在を証明することとなった。


北群馬郡吉岡町漆原の川原田山不動尊。

川原田山不動尊 (1)
川原田山不動尊の創建年などは不詳だが、鎌倉時代末に僧・舜海が人々の暮らしを豊かにしたいとの願いから創建したといわれる。

写真は吉岡町側(西側)からの境内入口だが、元は名前の通り川原地区(現在の前橋市川原町)の人々により祀られていた。

川原田山不動尊 (2)
そのため利根川側からの参道(石段)は川原町方面を向いている。しかし寛文年間(1661~71年)と享保年間(1716~36年)の利根川大洪水により川の流れが現在のように変わり、川原地区とは利根川で分断されてしまった。

川原田山不動尊 (3)
水路からの水で水車が回っている。

川原田山不動尊 (4)
吉岡町側と利根川側(こちらも現在は吉岡町)からの参道が交わり、最後の鳥居をくぐると不動堂。

川原田山不動尊 (5)
川原田山不動尊 (6)
現在の不動堂は昭和36年(1961年)の建立。堂内には本尊である石造不動明王像が安置されている。江戸中期の造立とされる。江戸期以降、利根川の水害防止祈願が強くなっている。

川原田山不動尊 (7)
川原田山不動尊 (8)
参拝者などから奉納された不動明王像。

川原田山不動尊 (9)
毎年1月28日が縁日で、その際はお堂が開き本尊・不動明王像を見ることができる。しかし新型コロナの感染拡大により、令和2年(2020年)から自粛しているようだ。その代わりなのか、堂内の写真がシャッターに貼ってあった。


渋川市横堀の薬師堂。

横堀薬師堂 (1)
横堀薬師堂 (2)
横堀薬師堂の由緒は不詳。お堂は昭和57年(1982年)に屋根の改修が行われているようだ。

横堀薬師堂 (3)
お堂内は真っ暗だが、何とか写った写真には石仏(木造か石造かは分からないが)が多く見える。厨子のようなものもあり、本尊の薬師如来像はその中かな。

横堀薬師堂 (4)
宝篋印塔と石造五重塔。宝篋印塔は安永8年(1779年)、五重塔は昭和58年(1983年)の造立。

横堀薬師堂 (5)
聖観音(?)石塔。明和元年(1764年)の造立。

横堀薬師堂 (6)
石仏が数多く並ぶ。

横堀薬師堂 (7)
墓域があり、その入口には地蔵像が建つ。墓域と多くの石仏・石塔類があることを考えると寺院跡だと思う。


渋川市石原の大山祇神社。

石原大山祇神社 (1)
石原大山祇神社の創建は不詳。大山津見命の他12神を祀り、昔から十二鎮守と呼ばれてきた。口碑によれば、宝永7年(1710年)に村内12氏族の祖霊を祀ったといわれる。

石原大山祇神社 (2)
石原大山祇神社 (3)
鳥居前の灯籠は明治26年(1893年)の奉納

石原大山祇神社 (4)
鳥居の横には秋葉大権現、青面金剛、石尊大権現の石塔(左から)。

石原大山祇神社 (5)
石原大山祇神社 (6)
すこしづつ石段を上って行くが、この灯籠から先は急な石段になる。

石原大山祇神社 (7)
石原大山祇神社 (8)
石段を上りきったところに「神足石」との表示の石があった。良く見て来なかったのだが、もしかしたら「足跡」がついていたのかも。横の灯籠は正徳2年(1712年)の奉納。

石原大山祇神社 (9)
石原大山祇神社 (10)
石原大山祇神社 (11)
社殿は昭和27年(1952年)の改築。これは講和条約記念とあった。また平成2年(1990年)にも改修されている。

石原大山祇神社 (12)
祭龍祠。明治2年(1869年)に岩鼻県・前知県事の大音龍太郎を祀ったもの。石原村は昔から水利の便が悪く年貢の納付に苦労していた。大音は明治元年(1868年)に石原村の年貢を10年間にわたり3分の1に減免したことに村民が感謝したもの。

ついでの話として、大音は知県事時代(実質6ヶ月弱)「大音の首切り政治」と呼ばれるくらい次々に斬首刑を言い渡している(博徒がほとんどだが)。

こんな話もある。ある農夫が畑の手入れをしないで雑草がぎっしり茂っていたのを見た大音は「これは怠け者だ」として、その首をはねたという。さすがにやり過ぎと免職になった。伊藤銀月著「人物の神髄」に書かれているエピソードだが、もちろん真偽不明。


渋川市行幸田の甲波宿禰神社。

行幸田甲波宿禰神社 (1)
行幸田甲波宿禰神社 (2)
行幸田甲波宿禰神社は文安年間(1444~49年)に川島の甲波宿禰神社からの勧請とされる。(川島甲波宿禰神社は「上野国四之宮・甲波祝禰神社」参照)

鳥居は平成12年(2000年)の建立。

行幸田甲波宿禰神社 (3)
行幸田甲波宿禰神社 (4)
社殿は平成13年(2001年)に修復されている(完了年)。社殿前の狛犬は大正14年(1925年)の奉納。

行幸田甲波宿禰神社 (5)
行幸田甲波宿禰神社 (6)
行幸田甲波宿禰神社 (7)
拝殿の水引虹梁や海老虹梁に見事な彫刻が施されている。

行幸田甲波宿禰神社 (8)
行幸田甲波宿禰神社 (9)
行幸田甲波宿禰神社 (10)
本殿にも彫刻が施されてるが、壁面彫刻は防護ネットが付けられており見づらいのは残念。まあ保護のためには致し方ないけど。

行幸田甲波宿禰神社 (11)
行幸田甲波宿禰神社 (12)
明治42年(1909年)に合祀された各社を石碑に記し祀っている。東諏訪神社、西諏訪神社、八坂神社、前田窪稲荷神社、二本木稲荷神社、北野神社、大名持神社など。

行幸田甲波宿禰神社 (13)
各社の鳥居扁額も保存されている。

明治26年(1893年)に当地で近衛機動演習があり、明治天皇が親閲された。それを記念し字名を湯ノ上から行幸田に変更(当時は豊秋村)するとともに、境内に桜の木を植樹している。

また翌年勃発した日清戦争時に、勝報に接する毎に一株ずつ桜を増やしていった。さらには日清講和条約(下関条約)締結日である4月17日を例祭日に追加している。

良い悪いではなく、そう言う時代だったということ。


北群馬郡吉岡町漆原の漆原神社。

漆原神社 (1)
漆原神社 (2)
漆原神社 (3)
文永6年(1269年)に当時の村内八宇に、一宇づつ八社(神明宮・稲荷神社・諏訪神社・北野神社など)を奉祀したのが始まり。明治43年(1910年)に諏訪神社社地に八社を合併・合祀、漆原神社としている。

漆原神社 (4)
玉垣や新しい灯籠は「合祀100周年記念」の平成22年(2010年)に奉納されたもの。

漆原神社 (5)
漆原神社 (6)
漆原神社 (7)
社殿は大正2年(1913年)の建立。社殿前の狛犬は昭和15年(1940年)の奉納。

漆原神社 (8)
神楽殿。春の例祭時に巫女の舞、太々神楽が奉納される。その他、地域の踊りや和太鼓の披露、福餅が投げられ福を授かることができる。

漆原神社 (9)
漆原神社 (10)
神社東側にも鳥居が建っている。平成21年(2009年)の建立。

漆原神社 (11)
元々の8社の16末社(浅間社・八幡社・少彦名社・琴平宮・日枝社など)もすべて合祀されている。

漆原神社 (12)
御嶽山大神、意和羅山大神など。意和羅山は伊和羅山や意波羅山と書くことが多いような気がするが、木曽御嶽三神の一神。

漆原神社 (13)
漆原神社 (14)
青面金剛像や庚申塔。庚申塔は多数あり、百庚申かな。

漆原神社 (15)
ご神木(と思われる)イチョウの大木。

8社創建当時の領主・桃井義胤は各社を厚く崇敬し、祭祀の際には幣帛料を供進していたとされる。それに対し領民からは生漆を奉納したことから、漆原の村名を賜ったという。

ちなみに、桃井氏は足利氏2代・義兼の2男・義助が桃井郷(現、榛東村周辺)に桃井(西)城を築き、桃井姓を名乗ったのが始まりとされる。義胤は義助の子にあたる。子孫には新田義貞とともに鎌倉攻めに参陣した尚義、足利尊氏とともに六波羅探題を攻めた直常などがいる。


北群馬郡吉岡町北下の蚕神社の石碑。

蚕神社 (1)
蚕神社 (2)
蚕神社は正徳2年(1712年)に養蚕家・馬場重久が自宅屋敷内に板宮を建て、蚕・蛾の老廃したのを集めて祀ったもの。現存しているのはこの石碑のみであり、「三太夫重久建立」と刻まれている。また、現在の石碑の台石が当時の板宮の台石だったといわれている。

正徳2年は馬場重久が「養蚕育手鑑」を刊行した年にあたる。「養蚕育手鑑」は民間の養蚕書としては国内で最も古い。

蚕神社 (3)
隣に石宮があるが、詳細は不明。

関連
 「吉岡町北下・諏訪神社
 「養蚕家・馬場重久の墓


渋川市横堀の大鳥神社。

大鳥神社 (1)
大鳥神社 (2)
大鳥神社の由緒は不詳。ご祭神が日本武尊であることから、和泉国一宮である大鳥大社からの勧請と推定される。吾妻郡を中心に群馬県内には日本武尊の伝説が多数残されており、当地にも何らかの伝承があるのかもしれない。

例えば吾妻川の対岸にあたる東吾妻町の奥田白鳥神社は、日本武尊が東征のおり休息された場所だとされる。また、安中市の飽馬神社は日本武尊が乗馬に飽きて、馬から降り休息した場所だとされる。(「東吾妻町・奥田白鳥神社」「安中市西上秋間・飽馬神社」参照)

大鳥神社 (3)
石段途中の灯籠には安永2年(1773年)の銘があった。

大鳥神社 (4)
大鳥神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

大鳥神社 (6)
大鳥神社 (7)
天満宮(写真上)などの境内社・末社群。

大鳥神社 (8)
大鳥神社 (9)
境内の日露戦役紀念碑と支那事変・大東亜戦争記念碑。いずれも昭和58年(1983年)の建立(日露戦役碑は再建)。戦没者供養塔である。

大鳥神社 (10
大鳥神社 (11)
訪問時、ちょうど神社隣りの畑に生えている柚子を収穫している方がいた。写真では分かりづらいが撓わに実っており、「少し持っていけ」とくださった。もうすぐ冬至なので、お風呂に入れて柚子湯にしよう。


渋川市横堀の大山祇神社。

横堀大山祇神社 (1)
横堀大山祇神社 (2)
横堀大山祇神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)までは十二神社と称し、地元の方々は十二様と親しみ崇敬してきた。

鳥居は明治28年(1895年)の建立。扁額は「祗」(つくりの氏の下に一本棒)になっている。

横堀大山祇神社 (3)
横堀大山祇神社 (4)
現在の社殿は平成4年(1992年)の建立。旧社殿は寛保3年(1743年)の棟札が残されている。横堀地区は寛保2年(1742年)に大火に見舞われていることから、大山祇神社も被害に逢い翌年再建されたのではないだろうか。

横堀大山祇神社 (5)
神楽殿も平成4年(1992年)の建立。春と秋の例祭には太々神楽が奉納される。

横堀大山祇神社 (6)
横堀大山祇神社 (7)
境内社・末社群。塔形式は金比羅大権現。

横堀大山祇神社 (8)
社殿裏の大藤。高さ(長さ)23.3m、目通り3.4m、根元周り4.4m。樹齢は約270年とされる。以前は榎2本、杉2本、イチョウ1本の計5本に巻き付いていたが、榎が枯れ樹勢が衰えてきたため平成4年(1992年)に藤棚を設置し現在の景観となった。

大藤は横堀宿の度々の大火を免れてきたとあるが、推定樹齢から逆算すると寛保2年の大火後に植樹された計算になる。横堀宿が何度大火に見舞われたのか知らないが、寛保2年以後の大火を免れたってことかな。


渋川市白井の城山不動尊。

城山不動尊 (1)
城山不動尊の創建は不詳。白井城の櫓台跡に鎮座しているので、白井城が廃城となった元和9年(1623年)以降となる。ここは不動塚古墳と呼ばれる円墳で、直径20m、高さ5m。白井城の櫓台として使用されていたため、古墳として見れば改変されている。

城山不動尊 (3)
現在のお堂は大正12年(1923年)の建立。地域住民の疫病退散を祈願してのもの。

城山不動尊 (4)
不動明王像は像高50cmの木製で、元文4年(1739年)の造立。施主(願主)は沼田出身の高野源六吉春、仏師も沼田出身の金子右門近慶。

城山不動尊 (5)
城山不動尊 (6)
境内の納経塔は享保7年(1722年)、宝篋印塔は元文4年(1739年)の造立。

不動明王像や境内の遺物から考えるに、不動堂の創建は江戸中期の享保・元文年間(1716~41年)と推定される(個人的意見)。


渋川市白井の神明宮と明蔵院跡。

白井神明宮 (1)
白井神明宮は文治年間(1185~90年)の創建と伝わる。この地域はもともと伊勢神宮の御厨地であったため、神明宮が勧請されたと考えられる。その後、15世紀前半に白井城が築城され、城下町(白井宿)が形成されると、白井宿の鎮守となり住民からの信仰も厚くなった。

白井城の土塁・切岸上に鎮座し、白井宿から石段が築かれている。

白井神明宮 (2)
白井神明宮 (3)
質素な社殿で、地域の神社といった感じ。元禄年間(1688~1704年)の記録でも社地は120坪(約400平方m)とあり、それほど広いというわけではない。

明蔵院跡
当地には白井神明宮の別当寺であった長福山明蔵院があった。明蔵院は「白井城三院」と呼ばれた寺院のひとつ。明治初年の神仏分離、廃仏毀釈などの影響により廃寺となっている。明治6年(1873年)には廃寺となった明蔵院を使用し、白井小学校が開校している。しかし明治31年(1898年)の白井町の大火により焼失している。

現在は神明宮への石段下に墓地が残るのみである。墓地には石碑が多数建立されている他、金井家(白井宿の叶屋)の墓などがある。

ちなみに「白井城三院」とは、長福山明蔵院、留趯山多聞院、金光山玄棟院の3寺。明蔵院だけでなく多聞院も廃寺となり、現在寺院として残るのは玄棟院のみである。

関連
 「白井長尾氏の築城・白井城址
 「渋川市白井・白井宿
 「渋川市白井・金光山玄棟院


渋川市白井の白井宿の2回目。
今回は宿内の石造物などの紹介。(歴史や町並みは「渋川市白井・白井宿」参照)

白井宿 (1)
白井宿の北の入口にあたる北木戸口すぐにある「清水下の地蔵尊」。享保元年(1716年)の造立で、総高230cmの大型比丘形。子どもの夜泣きに効くとのことから、願をかける家が多くあった。

白井宿 (2)
同じく北城戸口に鎮座する琴平宮。総高151cmの石宮は、信州・木洗馬の渡辺門司郎の作とされる。

白井宿 (3)
天台宗の学僧・尭恵法印の歌碑。文明13年(1486年)に白井城に立ち寄った尭恵が、歌の会で詠んだ「月と共に神を詠む」と題した歌。

尭恵は諸国を巡り「善光寺紀行」「北国紀行」などの紀行文を著している。白井城に立ち寄ったのは、この「北国紀行」として著された旅の途中である。

白井宿 (4)
白井町の道しるべ。白井堰の傍らに建てられており、高さ170cm・幅38cmである。建立は江戸末の嘉永2年(1849年)。

白井宿 (5)
白井宿 (6)
寛永元年(1624年)薬師の井戸掘削中に、底にまばゆく光る虎にまたがる薬師如来像が見つかった。この薬師如来像を「虎薬師」と名付け、お堂を建てて祀ることとした。以来、薬師の井戸は涸れることなく、現在も多くの家で使われている。

白井宿 (7)
羅漢水の塔(法華経供養塔)。白井宿は水利の便が悪かったため、薬師の井戸・延命水の井戸が掘られていたが、それだけでは宿全体の飲料水としては不足していた。そこで叶屋(金井氏)が私財を投じ、寛政7年(1795年)に掘ったのが羅漢水の井戸。井戸の成功を祈り十六羅漢の供養を行ったことから「羅漢水」と命名された。

また雙林寺37世・玉州大泉が「羅漢井記」を記したことから、それを刻んだ法華経供養塔を寛政11年(1799年)に建立している。

白井宿 (8)
万葉歌碑。「利根川の川瀬も知らず直渡り 波に逢ふのす逢える君かも」。

白井宿 (9)
地蔵尊石堂。北向に建てられているので北向地蔵尊と呼ばれる。建立は延享3年(1746年)。北向きなのは町への入口(木戸口)が、地蔵尊から見て北にあるからといわれる。総高296cm。

江戸末に他所に遷されていたが、明治11年(1878年)の元の場所に再建(再遷座)している。


渋川市白井の白井宿。

白井宿 (1)
白井宿 (2)
白井宿は「宿」と呼ばれているが、その西山側にあった白井城の城下町として形成されている。(白井城は「白井長尾氏の築城・白井城址」参照)

白井は吾妻川と利根川が合流し、それぞれの街道が四方に交差する交通の要所であったため、武田氏や上杉氏、北条氏が白井城をめぐり攻防を繰りひろげた。天正18年(1590年)徳川家康の関東入府により白井藩となり、本多康重・松平康長・井伊直孝・西尾忠永・本多紀貞と藩主が変わったが、元和9年(1623年)に廃藩。

寛永元年(1624年)からは旗本領として分割されたが、旧城下町は六斎市の立つ市場町として栄えている。これは先にも書いたように交通の要所(利根川・吾妻川の海運も含め)で、利便性が良かったため。

取り扱われた品目は麻・繭糸・木綿・真綿・煙草・塩・茶・米など多岐に渡り、商圏は3郡24村に及んだといわれる。元禄13年(1700年)には酒蔵も5軒あった。経済の発展とともに宿場町のように賑わったので「宿」と呼ぶ者もいた。そのため白井宿と呼ばれるようになったとされる。

白井宿 (3)
白井宿 (4)
白井宿 (5)
町並みの中央には白井堰があり、雨水などの排水溝の役割を果たしている。

白井宿 (6)
堰に沿って複数の井戸がある。薬師の井戸(写真)は寛永元年(1624年)に掘られた最初の井戸。枯渇したことがないとされ、現在も多くの家で使用されている。他は宝永年間(1704~11年)、寛政7年(1795年)の江戸時代以外にも、明治や昭和に掘られた井戸もある。

白井宿 (7)
白井宿は過去3度(江戸期2回、明治)大火に見舞われ、家並みの大半が焼失し遺構もほとんどなくなっている。土蔵造りの家並みが残っているのは2軒のみである。

現在は堰に沿って八重桜が植栽され、春には綺麗な花を咲かせる。それに合わせ、毎年4月には戦国武将などの衣装を身にまとった武者行列が行われる他、農産物・特産品を販売する六斎市が開催される(白井宿八重ざくら祭り)。

今年の八重ざくら祭は新型コロナ禍のため中止だったが、来年はどうだろう?


渋川市白井の白井城址。

白井城址 (1)
白井城址 (2)
白井城の築城時期は不明だが、南北朝期に長尾氏7代・忠景が白井を領し、白井長尾氏を継いだ景仲が築いたとされる。景仲が家督を継いだのが応永8年(1401年)で没年が寛正4年(1463年)なので、築城は15世紀前半あたりとなる。

その後、戦国時代に入ると白井長尾氏は武田氏、北条氏の配下となったが、天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めで没落。徳川領となると白井藩の居城となるも、元和9年(1623年)白井藩の廃藩とともに廃城となっている。

白井城址 (3)
白井城址 (4)
本丸跡。土塁を巡らせている(一部石積み)。戦国時代の遺構ではなく、本多氏入部以降に整備された形状と考えられている。

平成16年(2004年)に本丸部分が旧子持村(現、渋川市)の史跡に指定されたため、よく整備・保存されている。

白井城址 (5)
白井城址 (6)
白井城址 (7)
素人目にも堀や土塁の形状がよく分かる。

白井城址 (8)
堀は基本的に空堀だが、本丸前方東側の三日月堀は白井城唯一の水堀。これは武田氏築城法によって築かれた名残といわれる。

白井宿側から上って行ったので、二の丸・三の丸方面へは行っていないが、現在は農地化している。


渋川市八木原の諏訪神社。

八木原諏訪神社 (1)
八木原諏訪神社は、天正8年(1580年)に信州諏訪大社の分霊を勧請し創建されたと伝わる。

鳥居は元禄15年(1702年)の建立で、渋川市内最古の石鳥居である。明治22年(1889年)の暴風雨で破損したが、修理・再建されている。

八木原諏訪神社 (2)
狛犬や常夜灯は比較的新しく、近年の奉納のようだ。

八木原諏訪神社 (3)
八木原諏訪神社 (4)
八木原諏訪神社 (5)
社殿は彫刻も含め重厚で、大きくはないが威厳が感じられる。

八木原諏訪神社 (6)
手水石は元禄8年(1695年)北村九兵衛の寄進との銘がある。県内の手水石の中でも古い部類に入る。

八木原諏訪神社 (7)
境内社・金毘羅宮の常夜灯。文政4年(1821年)高遠石工・保科徳次郎珍宜の作。

八木原諏訪神社 (9)
境内社の菅原社(天満宮)。寛永7年(1630年)の銘があり、渋川市内の天満宮・石祠としては最古のものである。

八木原諏訪神社 (10)
神楽殿。毎年4月12日の春の例大祭に太々神楽が奉納される。大正11年(1922年)に桃井村(現榛東村)から指導をを受けた「須佐之男命の八岐大蛇退治」など男舞21座、乙女舞15座の計36座が舞われる。渋川市の重文に指定されている。


渋川市北牧の三国街道の道しるべ。

三国街道の道しるべ (1)
横堀方面から来た道が左右に分岐する三叉路に、石仏を刻んだ形の道しるべがある。高さ60cm、幅40cmほどの本体が、北向に台石上に据えられている。明和3年(1766年)の銘がある。

三国街道の道しるべ (2)
舟形光背の中央に半肉彫りで地蔵菩薩が彫られており、向かって右に「右 江戸道」と書かれている。

江戸への道のみを記すのは、右の道(三国街道)の方が細い道なので、間違わない配慮だという。現在の道路事情と比べることに意味はないが、現在も右の方が狭く急な下り坂になっている(写真はないが)。

旧子持村内で最古の道しるべである。


渋川市上白井の厳島神社。

上白井厳島神社 (1)
上白井厳島神社 (2)
上白井厳島神社の創建は不詳だが、境内に寛永4年(1707年)銘の石宮があるので、それ以前と推定される。鳥居は真新しく、つい最近の建立と思われる。

上白井厳島神社 (3)
鳥居横に石仏や石宮がまとめられている。寛永4年の石宮を探してみたが、年号が読み取れたのは違う年号だった。

上白井厳島神社 (4)
上白井厳島神社 (5)
上白井厳島神社は、利根川に半島のように突き出た断崖上に鎮座している。境内から見ると、利根川が眼下に見える。地図を見ても、この半島状の地形が確認できる。

上白井厳島神社 (6)
上白井厳島神社 (7)
断崖上なので境内も狭く、社殿もこぢんまりとしている。鳥居の新しさとは違い、境内を囲む金網フェンスは背が低い上に老朽化しており、利根川を見るために身を乗り出すと、倒れそうでちょっと怖い。

上白井厳島神社 (8)
境内入口から利根川に降りられる道がある(旧参道かな)。覆っている竹が一部倒れていたため難渋した。4枚目の写真はここから降りて行って撮った。


渋川市村上の作間神社。

作間神社 (1)
作間神社の創建は不詳だが、観応元年(1350年)藤原季長が屋敷神として祀ったものを、季長退去後に村民が作間神社としたと伝わる。藤原季長は当地を治めていた守護。岩井観音堂を再興した人物とされる。(岩井観音堂は「渋川市村上・岩井堂観世音御堂」参照)

作間神社 (2)
鳥居扁額の揮毫は金井之恭。金井之恭は金井烏洲の4男で貴族院議員。

作間神社 (3)
鳥居の脇には、寛保元年(1741年)銘のある双体道祖神。

作間神社 (4)
作間神社 (5)
作間神社 (6)
社殿は延宝5年(1677年)に再建、享保4年(1719年)火災の記録が残る。現在の社殿の建立年などは分からず。

作間神社 (7)
本殿は平成18年(2006年)に改修が行われている。

作間神社 (8)
神楽殿。村上の太々神楽は、享保4年に焼失した社殿が再建された祝典に奉納されたのが始まりといわれる。

作間神社 (9)
昭和40年(1965年)に神楽殿を修理した際には、小渕恵三元首相も寄付をしている。寄付当時は当選1回の新人議員だけど。

作間神社 (10)
作間神社 (11)
「天然記念物 作間神社の大けやき」という標柱が玉垣に囲まれた中に建っており、近くのケヤキ(?)を撮影してきた。でも鳥居の両側に立っているケヤキの方が、幹も太く樹齢も長そうだったけど。社殿裏にも立派なケヤキがあった。もしかしたら特定の木じゃなく、神社境内の複数本の「群」的な指定なのかな。

ところが帰ってから調べたら、群馬県の「県指定文化財一覧」に「作間神社の大けやき」ってないんだよね。何らかの事情で取り消されている?


渋川市小野子の七社神社。

七社神社 (1)
七社神社 (2)
七社神社は大同元年(806年)の創建と伝わる古社。坂上田村麻呂の征蝦時、上野国から募兵に応じた小野金善(京から配流されていた)が大功を立てた。その金善が許され帰京するに際し、郷民に贈った天之御中主の像を七社大明神として祀ったのが始まりという。

七社神社は、後に西の沢、富士山、三田野、如意庵、金善寺、甲里の6ヶ所に分霊し、それぞれ七社神社として祭祀したので、本宮(当社)と合わせ7ヶ所にある。

七社神社 (3)
七社神社 (4)
急な石段を登っていくと石灯籠が見える。境内に着いたぁ~と思ったら、そこには民家が。

七社神社 (5)
七社神社 (6)
民家の脇を廻ると二ノ鳥居。扁額に七社大明神とともに八幡大神の名もある。八幡神社(宮)が合祀されているようだ。

七社神社 (7)
参道脇には杉木立。

七社神社 (8)
七社神社 (9)
七社神社 (10)
社殿前の石灯籠には応永の文字が読み取れた。応永は1394~1427年。

ところで、先に書いた七社神社の由緒の年代は疑問だ。天之御中主は実態のない神とされ、信仰の対象となったのは近世に妙見菩薩と習合されるようになってからとされる。北斗七星の本地である北極星の神格化が妙見菩薩。本宮(当社)を北極星として、他の6社を合わせて北斗七星を模したんだと思う。なので、別神を祀っていたが秩父神社あたりの影響から妙見信仰が発生し、七社神社になったのではと勝手な想像。

ついでに、小野金善から旧小野子村の名はついている。ちなみに、金善とともに田村麻呂の征蝦軍に従軍した村上平太から旧村上村の名はついている。小野子村と村上村が合併し旧小野上村(現渋川市)になっている。


渋川市祖母島のキンモクセイ

祖母島のキンモクセイ
祖母島のキンモクセイは、主幹は根元周り2.7mで、地上0.8mで5支幹に分かれている。各支幹周りは0.8mから1.1m。樹高は8.5m、樹冠東西8.6m、南北9.3m。樹齢は約280年といわれている。樹勢は旺盛で病害虫や大きな損傷はなく、国内最大級のキンモクセイである。

キンモクセイは雌雄異株だが、日本には花付きの良い雄木がほとんどなので挿し木で増やすそうだ。


渋川市祖母島(おばしま)の武内神社。

武内神社 (1)
武内神社の創建は文安元年(1444年)と伝わる。明治2年(1869年)村内他社を合祀し改称するまでは宿禰神社(大明神)と呼ばれていた。

武内神社 (2)
武内神社 (3)
一ノ鳥居は昭和60年(1985年)の建立。

武内神社 (4)
二ノ鳥居というか旧鳥居(と思われる)。

武内神社 (5)
石段の石灯籠には延享(1744~48年)の文字が見えた。

武内神社 (6)
拝殿前の岩を削った手水舎。

武内神社 (7)
武内神社 (8)
武内神社 (9)
こじんまりとしているが千鳥破風唐破風で、木鼻・獅子などの彫刻が施された拝殿。中を覗くとこけら葺きの本殿が見えた。

武内神社 (10)
県道から見ると丘自体が木々で鬱蒼としており、もしかしたら大古墳などとも思える威容だ。

バス停
県道のバス停は「祖母島神社前」。

ところで、武内神社が甲波宿禰神社の論社ということから、三社並立(川島・箱島との島つながり)では? とか、宿禰から連想される武内となったのでは? とか、諸説あるようだが、いずれも「そうだろうか?」。まず、ご祭神が違う。明治に入って宿禰から連想される武内宿禰を突然祀って武内神社にしたわけではないだろうし。

当地と武内宿禰のつながりとしては、和銅元年(708年)に上野国守に任じられた田口益人は武内宿禰の末裔とされており、渋川市の隣の東吾妻町・吉岡神社は田口益人の創建と伝わる(「源頼義・頼朝も参拝した古社 -吉岡神社-」参照)。それを考えれば、当地に武内宿禰を祀る神社が創建されたとしても、おかしくはないのでは?

もちろん、素人考えです。ご了承を。

ついでに、武内神社には日本武尊も祀られている。日本武尊が東征のおり当地で儲けたのが大若宮彦(大宮や巌鼓尊と呼ばれた)。その祖母の墓を祖母塚と呼び、地名の島の郷と合わさり祖母塚になったといわれる。大若宮彦を祀ったのが東吾妻町の大宮巌鼓神社(「東吾妻町原町・大宮巌鼓神社」参照)。


渋川市金井の八坂神社。

金井八坂神社 (1)
金井八坂神社 (2)
金井八坂神社は観応2年(1351年)白井城主・長尾清景の創建と伝わる。ちなみに、清景は白井長尾氏の祖とされる。また、観応は北朝側の年号で、同時期の南朝は正平。

金井八坂神社 (3)
金井八坂神社 (4)
金井八坂神社 (5)
現在の社殿は文政4年(1821年)の建立。昭和51年(1976年)に屋根の葺き替え(銅板葺き)を行った際に、棟札が見つかったという。

金井八坂神社 (6)
神輿庫は平成23年(2011年)の新築。旧神輿庫と並んで建つ。

金井八坂神社 (7)
金井八坂神社 (8)
神輿庫には新旧の神輿が保存されている。旧神輿の前にある鬼瓦は、旧神輿庫のものかな。

ところで、群馬郡誌(大正14年:1925年刊行)によると「嘉永6年(1853年)の水害で社殿は灰燼に帰す(後に再建)」とあるが、先に記したように昭和51年に文政4年の棟札が見つかっている。この辺の事実関係は、よく分からない。(当時は群馬郡金島村大字金井と言った)


渋川市白井の愛宕神社。

白井愛宕神社 (1)
白井愛宕神社 (2)
白井愛宕神社の創建は不詳だが、白井城の雷神・防火神として祀られたと考えられる。白井城の築城時期の詳細は不詳だが、室町時代中期(1450年前後)と推定されている。

白井愛宕神社 (3)
白井愛宕神社 (4)
白井愛宕神社 (5)
社殿は比較的新しく、近年に改修されたと思われる。

白井愛宕神社 (6)
拝殿の彫刻。鶴と松の彫刻で縁起が良い。

白井愛宕神社 (7)
ご神木の大ケヤキ。樹齢約600年と推定され、神社創建と同時に植樹されたと考えると年代的にも辻褄が合う。

白井愛宕神社は、住所は白井だが吹屋地区が管理している。以前紹介した峯薬師も、住所は白井だが吹屋地区が管理していた(現在は源空寺が管理)。
(「渋川市白井・鳳来寺峯薬師堂」参照)

吹屋地区は旧長尾村、白井地区は旧白郷井(しらごうい)村(両村が合併して子持村)なので、合併時の地割りの関係かな。


渋川市中村の早尾神社。

中村早尾神社 (1)
中村早尾神社 (2)
中村早尾神社の創建は不詳だが、上野国神名帳に記載の「家尾明神」とされる古社である。「家尾」が「早尾」に訛ったといわれる。これは前回紹介した半田早尾神社と同様(「渋川市半田・早尾神社」参照)。どちらが本社だろう?

また伝承によると、豊城入彦命が当地を治めた際、上村・中村・下村と名付け中村の地に自ら勧請したともいわれる。豊城入彦命は第10代・崇神天皇の皇子で、東国を平定し上毛野氏の始祖とされている。

その他にも、創建は白鳳3年(674年)との伝承もある。この白鳳という年号は私年号(日本書紀に出てこない年号)。

中村早尾神社 (3)
中村早尾神社 (4)
中村早尾神社 (5)
社殿は平成20年(2008年)の改築。正徳3年(1713年)に「奉再興遷宮正一位早尾大明神」の祈祷札が現存しているので、このとき再建されているようだ。

中村早尾神社 (6)
中村早尾神社 (7)
ご神木の大ケヤキは根元周り11m、目通り7.3m、高さ19m。以前はもっと高かったが、幹の空洞化が進み危険になったので平成8年(1996年)に、9mのところから伐採し治療を行っている。樹齢は600年とも1000年ともいわれる。実はこのケヤキは2代目で、初代は枯れてしまい切り倒されている。なお、初代は豊城入彦命が当社を勧請した際に、手植えしたとの伝承がある。

社宝として武田信玄が白井城攻略の際に奉納したという備前光忠作(とされる)刀一口が残されている(実際に白井城攻略にあたったのは真田氏)。


渋川市半田の早尾神社。

半田早尾神社 (1)
半田早尾神社 (2)
半田早尾神社 (3)
半田早尾神社の創建は不詳だが、上野国神名帳に記載の「家尾明神」とされる古社である。「家尾」が「早尾」に訛ったといわれる。

半田早尾神社 (4)
池の水は干上がっていた。

半田早尾神社 (5)
半田早尾神社 (6)
拝殿前には昭和11年(1936年)建立の獅子山がある。

半田早尾神社 (7)
本殿は文化4年(1817年)の建立で、こけら葺き。見事な彫刻は熊谷の小林源八正信の作といわれる。小林源八は石原流2代目・石原常八の弟子。

半田早尾神社 (8)
半田早尾神社 (9)
上は孔子の故事かな。孔子が陽虎と間違われた場面。下は坂田公時。金時が母と別れる場面。ガラス越しなので、ちょっと写りが悪くて申し訳ないです。

半田早尾神社 (10)
境内にはいろいろな碑が建っている。明治天皇が行幸された際に、休憩されたようだ。

半田早尾神社 (11)
夫婦ケヤキ。樹齢500年を超えるとされ、2本のケヤキが繋がったもの。夫婦がてをつないでこの間を通ると子供が授かるといわれる。全体を撮ろうとして、逆に分かりづらい写真になってしまった(手前の木の方が目立っている)。


渋川市渋川(辰巳町)の辰巳稲荷神社。

辰巳稲荷神社 (1)
辰巳稲荷神社は明治27年(1894年)に、羽鳥安五郎氏が屋敷神様として京都伏見稲荷の分霊を勧請。大正15年(1926年)に旧渋川町東南部の鎮守として公衆化。

辰巳稲荷神社 (2)
辰巳稲荷神社 (3)
辰巳稲荷神社 (4)
社殿は大正15年の建立。昭和42年(1967年)に現在地の遷座。昭和54年(1974年)に改修されている。

辰巳稲荷神社 (5)
社殿前の石碑は大正10年(1921年)に羽鳥家で建立した屋敷神様当時のもの。

渋川駅近くの一角にあるので境内含め広くはないが(と言うか非常に狭い)、地域の方々に崇敬されている。

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