上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 沼田市・利根郡

利根郡昭和村糸井の小高神社。

小高神社2 (1)
小高神社の由緒は不詳だが、平安時代の歴史書「三代実録」に「貞観5年(863年)に小高神社に従五位下を授ける」とあるため、それ以前の創建と考えられる。明治10年(1877年)に八坂神社、愛宕神社、赤城神社、諏訪神社を合祀、同42年(1909年)には寺貝戸神明宮、八幡宮、大山祇神社、上糸井南神明宮を合祀している。

鳥居は元文3年(1738年)の建立。島木、額束、貫の修理(補修)が行われたようだ。

小高神社2 (2)
小高神社2 (3)
社殿の前に大きな神楽殿がある。造営時期は不明だが、建築様式から江戸後期と推定される。近くの貝野瀬武尊神社に同様の舞殿があり文政3年(1820年)の造営なので、本神楽殿も同時期と考えられている。昭和60年(1985年)に屋根の葺替え、平成11年(1999年)には補強工事が行われている。(「昭和村貝野瀬・武尊神社」参照)

明治の始めには糸井出身の見城駒吉が尾上菊五郎の門下に入り、尾上扇之助と名乗り有名な役者となったという。駒吉帰郷後はこの神楽殿で地芝居が盛んに行われたという。「セリ出シ」「セリ込み」「ヒラキ」「天井ツリ」など、どの段にも不自由がないように大道具、小道具が揃っていたらしい。

小高神社2 (4)
小高神社2 (5)
小高神社2 (6)
拝殿は文化3年(1806年)の建立。扉には龍の彫刻が施されている。社殿前の灯籠は天明6年(1786年)の奉納。

小高神社2 (7)
本殿は明治16年(1883年)の建立。昭和60年(1985年)に改修されている。

小高神社2 (8)
社殿左手前に一対の灯籠がある。これは明治42年に合祀された上糸井南神明宮のもの。元禄3年(1670年)の銘がある。


小高神社2 (9)
小高神社2 (10)
境内社・末社の山神宮と石宮群。

小高神社2 (11)
双体道祖神。宝暦4年(1754年)の造立。

小高神社2 (12)
小高神社2 (13)
神輿庫。

小高神社2 (14)
宮ノ前縄文遺跡の標柱と解説板。小高神社付近では縄文時代の土器・石器・獣骨類が数多く出土している。特に県内では産出しない黒曜石の石鍬が出土したことで有名らしい。黒曜石は長野県からと考えられているようだ。


利根郡昭和村糸井の赤城山清雲寺。

清雲寺 (1)
清雲寺の由緒は不詳だが、口碑によると天文年間(1532~55年)に天台宗の寺院として字寺貝戸に創建したといわれる。その後、弘治年間(1555~58年)に沢翁慶公和尚が現在地に移転。そのころ、迦葉山6世・天宥清文を招き開山としている(併せて曹洞宗に改宗)。

清雲寺 (2)
楼門は寛延年間(1748~51年)の建立。扁額は読めない。

清雲寺 (83 (1)
本堂は天保年間(1831~45年)の建立といわれる。

清雲寺 (83 (2)
清雲寺 (83 (3)
寛延2年(1749年)に鋳造された梵鐘は、先の大戦時に供出。現在の梵鐘は戦後の鋳造。鐘楼には龍・牡丹の彫刻が施されている。

清雲寺 (83 (4)
清雲寺 (83 (5)
彫刻の刻まれた台座が残っている。ここには安永7年(1778年)造立の銅製宝篋印塔が乗っていたが、梵鐘と同じく先の大戦時に供出されている。戦後、他所より三重塔を移設して乗せていたが現在はなくなっている。事情・経緯は不明。

清雲寺 (83 (6)
もうひとつ台座がある。ここには安永6年(1777年)造立の銅製地蔵像があったが、これも先の大戦時に供出されている。

善し悪しは別にして、先の大戦時には相当数の遺物が供出されている。一部は歴史的価値や芸術性などを考慮し供出を免れたものもあるが、それでも歴史的・文化的な面からは損失が大きかったと言えるかな。


利根郡昭和村糸井の井宝山長慶寺。

長慶寺 (1)
長慶寺は度々の火災により古記録類が失われておりその由緒は不詳だが、文禄年間(1592~96年)沼田舒林寺9世・独翁祐存和尚の開山と伝わる。

4世・傑千英叟和尚が宝永4年(1707年)に残した記録によると、村の長者が母親の供養のため阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を建て、尼寺としたのが始まりという(年代不明)。永正年間(1504~21年)に学問・武芸のいずれにも優れていた長慶春悦という僧がおり、その名にちなんで井宝山長慶寺と言うようになったとされる。

長慶寺 (2)
長慶寺 (3)
参道の庚申関係(庚申塔や二十一夜供養塔など)と禁葷酒山門碑。庚申塔は元禄8年(1695年)、二十一夜待供養塔は嘉永2年(1849年)、禁葷酒山門碑は安永4年(1775年)の造立。

長慶寺 (4)
本堂は地区の集会場のような建物。

長慶寺 (5)
長慶寺 (6)
板碑は正応2年(1289年)の建碑。緑泥片岩製で高さ150cm、幅43cmと大型の板碑である。以前は永仁2年(1294年)銘の板碑もあったようだが、現在は失われている。

この板碑を「長者が母親の供養のために建てた」と考え、長慶寺の前身である阿弥陀堂建立の時期を正応・永仁年間(1288~94年)とする説もあるようだ。

長慶寺 (7)
六面地蔵。令和2年(2020年)草むしりを手伝ってくれた子どもたちが、土中から発見したもの。六地蔵宝幢の一部に見える。恐らく宝珠や幢身なども埋まっていると思われる。

長慶寺 (8)
翌令和3年(2021年)には、多くの石仏が同様に発見された。現在は本堂裏に六面地蔵を含め、綺麗に安置されている。


利根郡昭和村貝野瀬の馬頭観音碑と観音堂。

馬頭観音碑と観音堂 (1)
馬頭観音碑は昭和2年(1927年)に川龍寺住職らが中心となり、馬を使用して運送業をしていた人たちが集まって、馬の無事・安全を祈願するために建立した。

馬頭観音碑と観音堂 (2)
石碑の文字は沼田町(当時)・舒林寺の石碑から写している。碑に使用した石は仙台から買い入れた仙台石と呼ばれるもの。石工は沼田町の職人に頼んでいる。

完成した碑は白布で包み馬車に乗せ、飾りを付けた多数の馬がこれに従い当所まで運び、盛大な除幕式が行われている。

馬頭観音碑と観音堂 (3)
石碑の建立には貝野瀬・生越の両地区が力を合わせて行われたので、台石には両地区名から一文字ずつ取り「貝生殿」と刻まれている。

馬頭観音碑と観音堂 (4)
昭和7年(1932年)には観音堂が造られ、観音像が安置されている。併せて二十三夜さま(勢至菩薩)も祀られている。お堂の建立に伴い、当所は県道側を向いていた馬頭観音碑は境内側に向き直されている。

観音さまのお祭りは、昭和中頃までは盛大に行われていたようだ。


利根郡昭和村貝野瀬の田岸の宝篋印塔。

田岸の宝篋印塔 (1)
田岸の宝篋印塔は宝永4年(1707年)の造立で、高さは1.7m。旧糸之瀬村内に5基あったうちの最古のものだが、原型を留めているのは本基のみである。他の3基は塔身の上下がチグハグ(違う)、もう1基は銅製であったため先の大戦時に供出されている。

この宝篋印塔が建っている場所は個人宅の裏庭(?)のようで、なんとも見学しづらい場所だ。県道沿いなので個人宅へ入り込むことはないが、ちょっと気を遣う必要がある。

田岸の宝篋印塔 (2)
田岸の宝篋印塔は昭和村の重文に指定されている。そのため解説板が隣にあるのだが、読み始めていきなり違和感。「蓬栄四年」って? 「宝永四年」の間違い。原稿作成時の変換ミスだろうが、そのままのようだ。まあ、昔の年号など普通は知らないからね。


利根郡昭和村貝野瀬の赤城山川龍寺。

川龍寺 (1)
川龍寺は天正18年(1590年)沼田・成孝院の意岩建春和尚が自身の隠居寺として泉龍庵を建てたのが始まり。その後、寛永18年(1641年)成孝院5世・不岸建鎖和尚が開山となり赤城山泉龍寺とした。元禄11年(1698年)火災により焼失。再建に際し現在地に移り、泉を川に変え川龍寺としている。

川龍寺 (2)
川龍寺 (3)
川龍寺 (4)
参道脇に石仏・仏塔類、庚申塔類が数多く並んでいる。

川龍寺 (5)
「禁売買芸術の碑」。安永9年(1780年)の造立。境内で歌舞伎や音曲などの見世物や物売りを行ってはいけないという禁止の触書(みたいなもの)。「禁葷酒山門の碑」(酒の持ち込みや酔っ払いの入門禁止)は各地に多く見られるが、禁芸碑は少ないらしい。

川龍寺 (6)
長屋門は嘉永元年(1848年)の建立。昭和48年(1973年)に屋根の改修を行っている。現在は物置となっており、貝野瀬武尊神社の舞殿の舞台装置が保管されている。
(「昭和村貝野瀬・武尊神社」参照)

川龍寺 (8)
川龍寺 (9)
本堂は当地移転後の文化14年(1817年)に再度火災により焼失。現在の本堂は文政3年(1820年)の再建。昭和48年に屋根の改修を行っている。嘉永6年(1853年)に増築した庫裏(旧庫裏)が本堂と一体化しており曲がり屋形状となっている。

川龍寺には開山や開基と並び、岡上次郎兵衛景能が功労者として位牌が祀られている。景能は承応3年(1654年)当地の検地代官として寺地の年貢を免除するなど、寺の財政の基礎をつくってくれたからという。

景能は「笠掛野御用水」の開削(現みどり市周辺の新田開発)や「榛名山北麓」の原野の開発(現東吾妻町周辺)を行ったことでも知られる。同じく昭和村川額の雲昌寺も、同様の理由で景能の位牌を祀っている。(「昭和村川額・赤城山雲昌寺」参照)


利根郡昭和村貝野瀬の武尊神社。

貝野瀬武尊神社 (1)
貝野瀬武尊神社の由緒は不詳。上野国神名帳に「利根廿二坐 従一位保宝高明神」とあるのは当社とされる。また、慶長19年(1614年)に社殿を再建した記録や、承応3年(1654年)の神領免許(年貢免除の土地)が残っている。

明治11年(1878年)に諏訪神社、稲荷神社、阿津摩神社、八幡神社、十二神社、厳島神社などを合祀、同42年(1909年)には神明宮、八坂神社を合祀している。

貝野瀬武尊神社 (2)
貝野瀬武尊神社 (3)
貝野瀬武尊神社 (4)
社殿は寛延3年(1750年)の建立(棟札が残されている)。

貝野瀬武尊神社 (5)
貝野瀬武尊神社 (6)
舞殿は文政3年(1820年)の建立。元は社殿正面に建てられた割拝殿であったが、先の大戦後に現在の場所に移されている。回り舞台の仕掛けがあり、それらの道具は近接する川龍寺に保存されている。

貝野瀬武尊神社 (7)
貝野瀬武尊神社 (8)
境内社の諏訪神社。お社は宝暦13年(1763年)の造営とされる。

貝野瀬武尊神社 (9)
貝野瀬武尊神社 (10)
境内社の摩利支天尊。

貝野瀬武尊神社 (11)
貝野瀬武尊神社 (12)
境内社の大神宮。

貝野瀬武尊神社 (13)
貝野瀬武尊神社 (14)
境内社の稲荷明神。

貝野瀬武尊神社 (15)
境内社それぞれにも末社の石宮があり、その中に双体道祖神も多い。明和(1764~72年)などの紀年銘が読み取れた。

貝野瀬武尊神社のご祭神は日本武尊だが、貝野瀬地区には日本武尊にまつわる伝説が2つ残されている。ひとつは貝野瀬の地名で、日本武尊が東征のおり片品川沿いが「貝の背に似ている」と言ったからとされる。

もうひとつは、日本武尊が当地を通ったのが二の未(ひつじ)の日だったことから、武尊神社の祭典は2月・9月ともその月の第二の未の日に行うことになったという。


利根郡昭和村橡久保の千賀戸(ちかと)神社。

千賀戸神社 (1)
千賀戸神社の由緒は不詳。口碑などでは往昔は大森神社と同神を祀り、橡久保村が森下村から分かれた際に現在地に遷座、併せて日本武尊と千賀戸姫命を相殿として祀ったとされる。明治末期に諏訪神社を合祀している。

千賀戸神社 (2)
千賀戸神社 (3)
一の鳥居は文久2年(1862年)の建立。扁額は「鎮守宮」。

千賀戸神社 (4)
千賀戸神社 (5)
石段横の斜面から土砂が落ちてくるのか、灯籠が半ばまで埋まっている。灯籠は享保(1716~36年)の紀年銘がある。

千賀戸神社 (6)
千賀戸神社 (7)
二の鳥居は合祀された諏訪神社のもの。正徳4年(1714年)の建立。扁額は「諏訪大明神」。

千賀戸神社 (8)
千賀戸神社 (9)
社殿は明和5年(1768年)の建立。拝殿は向拝柱とヌキを鳥居のように見せる技巧を使っている。大工の頭領は金井村・岸豊後守積保。代表作は妙義神社・総門や宝憧院(伊勢崎市)・本堂など。(岸豊後守積保は「宮大工・岸豊後守積保の墓」参照)

千賀戸神社 (10)
千賀戸神社 (11)
本殿の彫刻は中国(北宋)の学者・司馬温公の逸話に基づくようだ。彫刻師は花輪村・星野政八、水沼村・福田助次郎。

千賀戸神社 (12)
千賀戸神社 (13)
合祀された諏訪神社。この諏訪神社は元々森下村で祀られていたが、橡久保村分村の際に両村で祀るようになった(鎮座地が橡久保村となったため)。しかし千賀戸神社に合祀されたため、森下村では新たに諏訪神社を勧請し大森神社に合祀している。
(大森神社は「昭和村森下・大森神社」参照)


利根郡昭和村橡久保の青龍山正禅寺。

正禅寺 (1)
正禅寺 (2)
正禅寺は文永年間(1264~75年)に青峰白元和尚が庵室を営み、阿弥陀如来を安置したのが始まりとされる。その後、元和年間(1615~24年)得岩玄良和尚が月夜野嶽林寺6世・笑岩永伝大和尚を招いて開山とし、赤城山正善寺と称している。

同じく元和年間に現在地へ移転、開創・青峰白元和尚の青峰に因み山号を青龍山と改め、寺号も正善寺から正禅寺としている。

正禅寺 (3)
山門前の庚申塔や二十一夜供養塔、如意輪観音像など。左端の庚申塔は万延元年(1860年)正禅寺18世・恵光和尚の書による。恵光和尚は寺子屋を開き多くの子弟に読み書きを教えるなどしている。左から3基目の二十一夜供養塔は元治元年(1864年)の造立。

正禅寺 (4)
同じく山門前の地蔵像。慶応2年(1866年)の造立。

正禅寺 (5)
本堂は明治23年(1890年)に火災により焼失、大正8年(1919年)に再建されている。

正禅寺 (6)
境内の多宝塔(大乗妙典一千部供養宝塔)。明和2年(1765年)の造立。

正禅寺 (7)
正禅寺 (8)
鐘楼堂は平成21年(2009年)の建立。梵鐘は先の大戦時に供出、後に再鋳造されている。

正禅寺 (9)
大ヤケ木。樹高約17m、幹回り約4.85mで、樹齢は300年以上と推定される。


利根郡昭和村森下の大森神社。

大森神社2 (1)
大森神社2 (2)
大森神社は和銅6年(713年)の創建と伝わる古社である。上野国神名帳にも「従三位大杜明神」と記されている。

創建以降、薬師如来・阿弥陀如来、聖観音・将軍地蔵・愛染明王を主神としてきたが、明治5年(1872年)神仏分離により従前の主神を廃し、改めて大国主命・倭健命・火産霊神を祭神として祀っている。

明治10年(1877年)に村内52社を合祀している。

大森神社2 (3)
大森神社2 (4)
狛犬は平成9年(1997年)の奉納。

大森神社2 (5)
大森神社2 (6)
大森神社2 (7)
社殿の建立年などは不詳だが、明治33年(1900年)昭和3年(1928年)に社殿の改修・改築、境内の整備などを行っている。平成9年(1997年)にも社殿の改修を行っている。

大森神社2 (8)
大森神社2 (9)
大森神社2 (10)
境内社の八坂神社兼神輿庫。平成9年(1997年)の建立。

大森神社2 (11)
社殿裏を中心に末社石宮が整然と並ぶ。明治末年に勧請された諏訪神社、昭和31年(1956年)に合祀された5社を含め58社(数えてはいないが)。

大森神社2 (12)
境内の馬頭観音碑。大正10年(1921年)の建碑。文字(書)は沢浦緑石。

明治5年に従前の主神(聖観音・将軍地蔵・愛染明王)を廃した際、その仏体は遍照寺(別当寺)境内へ石宮を建立し移したという。石宮は隠居宮と呼ばれている。遍照寺は大森神社のすぐ隣にあるが、隠居宮の存在には気づかなかった。
(遍照寺は「昭和村森下・景徳山遍照寺」参照)


利根郡昭和村森下の景徳山遍照寺。

遍照寺 (1)
遍照寺は貞観年間(859~77年)慈覚大師円仁の創建と伝わる。その後、天正年間(1573~92年)了儀法印の中興開山とされるが、明和4年(1767年)火災により古記録類を焼失したため詳細は不明。

遍照寺 (2)
遍照寺 (3)
遍照寺 (4)
山門前の参道には地蔵像、灯籠、庚申塔などが並ぶ。写真右の庚申塔は万延元年(1860年)の造立。文字(書)は角田無幻。(角田無幻は「角田無幻道人の遺髪塚」参照)

遍照寺 (5)
本堂は正徳4年(1714年)の建立。平成11年(1999年)、同18年(2006年)などに改修されている。

遍照寺 (6)
境内の地蔵坐像。唐金(青銅)製。享保4年(1719年)の造立。

遍照寺 (7)
遍照寺 (8)
不動明王を祀る不動堂。本尊の不動明王は江戸時代の作とされる。元は東京に鎮座しており、大正12年(1923年)の関東大震災、昭和20年(1945年)の東京大空襲などの災禍を逃れたため火防不動と呼ばれる。遍照寺に祀られている経緯などは分からない。


利根郡昭和村森下の鍛屋地2号古墳。

鍛屋地古墳 (1)
鍛屋地古墳群は昭和村森下と川額一帯に分布する古墳群で、円墳が40基以上確認されている。2号古墳は土地改良事業に伴い、平成5年(1993年)に発掘調査が行われている。盛り土などは失われており、石室回りが保存されている。

鍛屋地古墳 (2)
鍛屋地古墳 (3)
2号古墳は直径22.54m・墳丘直径19.1m・高さ2.33mの円墳で、主体部は自然石乱石積両袖型横穴式石室。前庭部付近から須恵器・土師器などが出土している。石室は全長7.6m・側壁長左7.4m・同右7.97mで、石室内からは五鈴鏡・武器類・馬具類・金属製品などが300点以上も発見されている。

鍛屋地古墳 (4)
現地に復元想像図があった。根石を二重に巡らすなど手間のかかる方法をとっており、かなりの有力者によって築造されたと考えられるという。築造時期は7世紀前半と推定される。

鍛屋地古墳 (5)
住宅地の中だが「鍛屋地古墳公園」として整備・保存されている。そのため非常に綺麗な状態だが、両側ともすぐ民家なのでちょっと居心地が悪い。

鍛屋地古墳 (6)
古墳公園と関係あるのか分からないが、片隅に「万葉集東歌」の歌碑があった。「賀美都家野(かみつけの) 久路保乃祢呂乃(くろほのねろの) 云々」とあるので、旧久呂保村が歌われているようだ。歌の内容はまったく分からないけど。

昭和村は昭和33年(1958年)に久呂保村と糸之瀬村が合併して誕生している。


利根郡昭和村川額の八幡宮。

川額八幡宮 (1)
川額八幡宮は永禄元年(1558年)宇佐八幡より勧請したと伝えられる。明治42年(1909年)に諏訪神社、熊野神社、赤城神社など14社を合祀している。

川額八幡宮 (2)
川額八幡宮 (3)
鳥居は宝永7年(1710年)の建立。

川額八幡宮 (4)
狛犬は風雨により着色が剥がれてきており、腹部周辺のみ色が残っている。 目や口の周りに赤(朱)が入っているものは見るが、全体に水色(青)が使われているのは見た記憶がない。

川額八幡宮 (5)
川額八幡宮 (6)
社殿は宝暦9年(1759年)の建立。拝殿は明治25年(1892年)、昭和2年(1927年)などに改修を行っている。拝殿横には奉納額のみ残されているが、弓矢が納められていたのだと思う。

川額八幡宮 (7)
本殿には見事な彫刻が施されている。昭和51年(1976年)に塗装修復(着色)が行われている。

川額八幡宮 (8)
川額八幡宮 (9)
川額八幡宮 (10)
龍と雲や雷神の彫刻。彫刻写真の3枚目には中央に微妙な空間があるので、一部彫刻が脱落してしまったのかもしれない。

川額八幡宮 (11)
力神は容姿が少し滑稽に見えてしまう。着色の関係かな。

川額八幡宮 (12)
川額八幡宮 (13)
合祀された諏訪神社。諏訪神社も永禄元年(1558年)に勧請されている。

川額八幡宮 (14)
多くの境内社・末社の石宮が並ぶ。

川額八幡宮 (15)
境内にある川額集落センター。ここには割拝殿様式の舞殿があったが、昭和54年(1979年)集落センター建設に伴い撤去(後に解体)されている。それ以前より社務所を川額公会堂として開放していため、その関係から境内に集落センター建設となったのだと思う。


利根郡昭和村川額の入原神社。

入原神社 (1)
入原神社は元東照宮で、明治期に村内の八坂神社、赤城神社を合祀し入原神社と改称している。地元では今も東照宮(東照さま)と呼ばれる。

入原神社 (2)
鳥居は昭和17年(1942年)の建立。

入原神社 (3)
入原神社 (4)
社殿は丘陵地の西斜面に鎮座し、境内は段丘のような感じになっている。社殿の建立年などは不明だが、明治30年(1897年)に屋根の葺替えを行った記録が残っている。

入原神社 (5)
入原神社 (6)
入原神社 (7)
境内社・末社群。詳細は分からない。

入原神社 (8)
「愛宕山」の扁額。愛宕神社の鳥居のもののようだが、愛宕神社も合祀されているのだろうか。


利根郡昭和村川額の赤城山雲昌寺。

雲昌寺 (1)
雲昌寺は慶長13年(1608年)沢翁堯孝和尚の開創。その後、通岩雲達和尚が中興、寛文元年(1661年)沼田舒林寺12世・改愚厳達大和尚を迎え開山としている。覚心宗甫大和尚の時に現在地に移転している。延宝~宝永(1673~1711年)のころ。

雲昌寺 (2)
鐘楼門側には塀があり、こちらからは境内に入れない。

雲昌寺 (3)
雲昌寺 (4)
鐘楼門は天保年間(1804~45年)の建立。延享3年(1747年)鋳造の梵鐘は先の大戦時に供出。現在の梵鐘は昭和28年(1953年)の鋳造。

雲昌寺 (5)
雲昌寺 (6)
鐘楼門前には地蔵像や青面金剛像などが並んでいる。青面金剛像は元禄(1688~1704年)の紀年銘があった。

雲昌寺 (7)
本堂は延享~安永(1744~81年)ころの建立とされる。本堂にはご本尊の釈迦牟尼仏の他、子育延命地蔵尊も祀られている。延命地蔵像は五寸(約15cm)ほどの木彫立像。

雲昌寺 (8)
薬師堂兼開山堂は天明~文化(1781~1818年)ころの建立。薬師像は八寸(約18cm)の木彫立像で、僧・行基の作とされる。

雲昌寺 (9)
大ケヤキは樹齢700年と推定され、目通り8.4m、根回り20.6m、樹高(目測)10mの巨木である。樹齢から雲昌寺移転の遙か前から当地に根を張っていることになる。

雲昌寺 (10)
雲昌寺 (11)
弘化4年(1847年)の入原大火では、寺を挟んだ両側の集落が焼失したにもかかわらず、寺が焼けなかったのはケヤキのおかげとされる。ケヤキの南面は火を受けたが、ケヤキが火を防ぐ形になり伽藍への延焼は防げたという。そのため南面側は焦げて大きく空洞化している。根元は今も黒く炭化している。

ところで、改愚厳達大和尚が開山とし迎えられたころ、当地の検地代官となっていた岡上景能が寺の建立に協力している。寺領地を免税地とするなど便宜を図ったとされる。そのため景能の位牌が開山堂に安置されている。

岡上景能は「笠掛野御用水」の開削(現みどり市周辺の新田開発)や「榛名山北麓」の原野の開発(現東吾妻町周辺)を行ったことでも知られる。

また、先代住職・中村一雄氏は竹山道雄著「ビルマの竪琴」(市川崑監督で映画化もされた)の主人公・水島上等兵のモデルと言われている。松井田町の出身で永平寺修行中に召集。ビルマ(ミャンマー)などで従軍。復員後、昭和22年(1947年)から雲昌寺の住職を務める傍ら、昭和村の開拓に尽力。教育や文化の発展にも大きく寄与している。


利根郡昭和村川額の白王山円乗院龍眠寺。

円乗院 (1)
円乗院は寛文2年(1662年)僧・存清の創立と伝わる。9世・寂弁法印の示寂以降は無住となっている(景徳山遍照寺兼務)。

円乗院 (2)
プレバブ小屋のような本堂。

円乗院 (3)
本堂前の百八十八番供養塔。安政2年(1856年)の造立。

円乗院 (4)
弘法大師像。寛政10年(1798年)の造立。円乗院は天台宗(開祖は伝教大師)の寺院なのだが。一般的な弘法大師信仰かな。

円乗院 (5)
境内の宝篋印塔。寛政5年(1793年)当寺9世・寂弁法印の建立。昭和村の重文に指定されている。寂弁法印は上野寛永寺の出身で、村民からの信望も厚かったとされる。最期は自ら石棺に入り、念仏を唱えながら即身仏となったという。

円乗院 (6)
本堂裏に如意輪観音や青面金剛像、石宮などが並んでいる。

円乗院 (7)
円乗院の真上を関越自動車道が通っている。なかなか真下から見上げることはないので、ある意味壮観だった。


利根郡昭和村川額の箱根神社。

箱根神社 (1)
箱根神社 (2)
箱根神社は久寿元年(1154年)相州箱根山大権現を勧請したと伝わる。伝承では仁平年間(1151~54年)のある年、現在神社のある裏山の高根という岩にきらきら光るものがあった。村人が不思議に思い近づいてみると、金の御幣束であった。その幣心に「相州筥根大権現」と書いてあったので、村人は大権現さまが飛来したとして仮宮を造り祀ったのが始まりという。

金の御幣束が飛来した高根岩の場所は、神社のある場所から2町(約220m)ほど登った場所で、現在は奥の院と呼ばれている。

鳥居は明和2年(1765年)の建立と村誌久呂保(昭和36年:1961年刊)にあったが、そこまで古く感じなかったので再建されているかもしれない。扁額は上部が欠けているが「筥根大権現」。ちなみに昭和村は昭和33年(1958年)に久呂保村と糸之瀬村が合併して誕生している。

箱根神社 (3)
鳥居横の狛犬は平成16年(2004年)の奉納。

箱根神社 (4)
箱根神社 (5)
箱根神社 (6)
社殿は昭和4年(1929年)の建立。

箱根神社 (7)
境内社・末社群。詳細は不明。

箱根神社 (8)
神楽殿は明治44年(1911年)の建立。箱根神社神楽の始まりは明治16年(1883年)で、武州豊穂教会より伝授されたという。毎年4月の例祭時に奉納される。


沼田市中町の須賀神社。

須賀神社 (1)
須賀神社は室町時代初期に牛頭天王の分霊を勧請したのが始まりと伝わる。天正18年(1590年)真田信之が現在の下之町に遷し、慶長17年(1612年)城下町を改修した際に現在地である中町に再遷座している。明治元年(1868年)に須賀神社と改称している。

須賀神社の由緒版には、文和年間(1352~55年)に沼田城主・沼田小次郎が創建したようなことが書いてあったが、沼田城を沼田顕泰が築城したのは天文元年(1532年)といわれており、時代が合わない。文和年間の沼田氏の本拠地は荘田城。

須賀神社 (2)
須賀神社 (3)
須賀神社 (4)
拝殿は平成25年(2013年)に瓦葺きから銅板葺に改修されている。

須賀神社 (5)
社殿裏には樹齢400年と推定されるケヤキがある。400年ということは現在地に遷座された時に植樹されたと考えられる。目通り7.9m、根元廻り13.4m、樹高25m、枝張り東西20.3m、南北24.6m。樹勢は極めて旺盛で、幹に空洞もない。


沼田市下川田町の加沢平次左衛門の墓。

加沢平次左衛門の墓 (1)
加沢平次左衛門の墓 (2)
加沢平次左衛門は「加沢記」の著者である。沼田真田藩の家臣であった加沢平次左衛門は、天和元年(1681年)の真田信利改易後、川田城跡の一隅に隠棲し真田氏を中心に戦国時代の歴史を記した「加沢覚書」を残した。

後世に「加沢記」と称され、天文10年(1541年)の海野氏と村上義清の戦いから、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めまでの約50年の歴史が記され、真田幸隆、昌幸、信幸(之)3代の活躍と、それらを軸として利根・沼田の地衆の興亡が描かれている。

利根沼田・吾妻郡を中心とした戦国時代の歴史を調べるうえでの重要資料となっている。

元禄5年(1692年)65歳で没している。


沼田市石墨町の薄根の大クワ。

薄根の大クワ
薄根の大クワは、四釜川沿いの畑地の中にあるヤマグワである。ヤマグワでは日本一の大きさで、根元周囲約5.7m、樹高約13m、枝張りは東西に約18m、南北に約17m。推定樹齢は約1500年。

新潟県佐渡市の羽吉の大クワ、北海道小樽市の恵美須神社の大クワと共に、クワの三名木とされている。

江戸時代の貞亨3年(1686年)、沼田真田藩主・真田信利が改易になり、前橋藩家老・高須隼人が旧沼田藩内を再検地した際、石墨村はこの大クワを標木(測量の基準)にしたといわれる。

幹が太く容姿端麗なことで、「養蚕の神」として永く讃えられている。


沼田市下川田町の川田神社。

川田神社 (1)
川田神社の由緒は不明だが、当地には南北朝期に沼田氏の分家・川田氏の館(川田城)があったので、川田氏が守り神として創建したと考えられる。ちなみに川田氏は、沼田景久の4男・景信を祖とする。

川田神社 (2)
川田神社 (3)
社殿は天文2年(1533年)の北条氏による沼田攻めにより焼失している。現在の社殿の建立年などは分からない。

川田神社 (4)
川田神社 (5)
川田神社 (6)
大ケヤキは群馬県下でも屈指の巨樹である。推定樹齢500年以上。往時は目通り9.5m、根周り13m、樹高21.2m、枝張り東西31.8m、南北33mの巨樹であった。現在は、目通り9.3m、根周り12m、樹高12.5m、枝張り東西22.5m、南北11.5mと樹勢はやや衰えている。

川田神社 (7)
川田神社 (8)
根本部には大きな空洞ができ、衰弱が進んでいる。とは言え、神社がかすむくらいの存在感がある。大ケヤキの樹齢が500年ということから、社殿焼失後の再植と思われる。この時、川田氏は滅んでいる。


沼田市上発知町の歌舞伎舞台。

上発地知の歌舞伎舞台 (1)
上発地知の歌舞伎舞台 (2)
諏訪神社・武尊神社合祀神社。正式名称は知らない。諏訪神社? 武尊神社?

上発地知の歌舞伎舞台 (3)
上発地知の歌舞伎舞台 (4)
境内にある歌舞伎舞台。

江戸時代の舞台で間口5間・奥行き3間。明治32年(1899年)に改装されている。上下2台の組立下座もあり、歌舞伎に必要な付属品・幕・ふすま・大道具・小道具も保存されている。

舞台を広く立体的に使用するために、迫山車3台・二重引分け2台等、独特の仕掛け装置がある。これらの仕掛け装置を設置すると、間口は約3倍近い大がかりで特異な舞台となる。

平成10年(1998年)に保存修理が行われている。明治時代末には歌舞伎が盛んに演じられていという。


沼田市下発知町の石尊山観音寺。

観音寺 (1)
観音寺 (2)
観音寺は明応9年(1500年)、迦葉山弥勒寺三世・天山見亮禅師による開山。お寺自体はそれ以前からあったようだが、曹洞宗として再興されたのを開創としている。

観音寺 (3)
観音寺 (4)
観音寺 (5)
天正8年(1580年)に海野輝幸が討たれた際は、当時の住職は迦葉山弥勒寺住職らと共に海野塚前で懺法を読経して、卒塔婆を建てたという。
(海野塚は「海野輝幸と嫡男・幸貞の墓(海野塚)」参照)

観音寺 (6)
観音寺 (7)
ほほゑみ十二観音。それぞれの干支にちなんだ観音様。慈導観音、慈永観音、慈結観音など、すべて「慈」がつく名称になっている。「会いたいと思えばすぐに会えるように、さまざまな姿形をしたほほゑみ十二観音を建立いたしました」とのこと。

観音寺 (8)
本堂前にある慈天観音。ほほゑみ十二観音を天上界から降臨させた観音様。笑顔をもたらしてくれる観音様らしい。

観音寺 (9)
観音寺 (10)
観音寺は石尊山(戸神山)の山麓にあり、本堂横には登山道がある。不動明王や天狗が見守ってくれている。

観音寺は山寺体験(写経、仏画、座禅)やお寺で小学生への「授業」や逆に小学校に出向いて説話を行うなど、地域活動にも力を入れている。


沼田市岡谷町の海野塚。

海野塚 (1)
海野塚は海野輝幸と幸貞父子の墓である。

北条氏から沼田城を奪った真田昌幸は、一族の海野輝幸に沼田城を守らせていた(輝幸の兄・幸光は岩櫃城代であった)。海野兄弟の重用を妬んだ者の「海野兄弟は北条と通じている」という讒言を信じた昌幸は、天正8年(1580年)弟の信尹(のぶただ)に命じて先ず幸光を討ち、輝幸にも追討をかけた。

海野塚 (2)
輝幸は「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目指したが、真田勢の追撃を受け、嫡男・幸貞と「無益な殺生はこれまで」と刺し違えて自害したといわれている。父子は当地に葬られている。

海野氏は滋野三家のひとつ。滋野家は清和天皇の皇子・貞保親王の孫・善淵王が滋野姓を賜り臣籍降下したのが始りといわれる(諸説あり)。平安中期に滋野氏は三家に分かれ、それぞれ居住とする地名(海野、祢津、望月)をとって姓とした。

海野幸光・輝幸兄弟は海野幸義の3男・羽尾景幸の子であり、直系の血筋が絶えた後に海野家を継承したと称している。

ちなみに、海野家系から幸隆(昌幸の父)が出、真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとされる。真田氏からみると、海野氏は本家筋になる。(幸隆の出自も諸説あり)


沼田市西倉内町の沼田公園。

真田信之と小松姫の石像 (1)
沼田公園は沼田万鬼斎顕泰が天文元年(1532年)に築いたとされる沼田城址。平成27年(2015年)12月、沼田公園内に真田信之と小松姫の石像設置された(公開は平成28年1月から)。石造は沼田市観光協会が製造、市に寄付している。

真田信之と小松姫の石像 (2)
真田信之と小松姫の石像 (3)
高さ2.6mの御影石製で、身長6尺(約180cm)を超えていたとされる信之の立像と、小松姫の座像を実物大で表現している。

3月には石像に茶色いスプレー塗料がかけられる心無い事件もあったが、すぐに塗料は落とされている。

真田信之と小松姫の石像 (4)
台座上に小銭が6枚ずつ六文銭を模して置かれていた。長野県上田市の長谷寺の真田昌幸、幸隆らの墓前にも同様に六文銭型に小銭が供えられているので、真田氏ファンの間で定着しているようだ。

関連
 「沼田万鬼斎顕泰の築城・沼田城址


沼田市白沢町尾合の利法山禅定院功徳寺。

禅定院 (1)
禅定院は承和14年(847年)慈覚大師(延暦寺第三代座主)の開創と伝わる古刹である。

禅定院 (2)
参道入り口にある宝篋印塔。銘文に廻国供養の意をなし、明和4年(1767年)佐野村(現在の高崎市)大心によって建てられたとある。高さ3.5mで白沢地区内を代表的する宝篋印塔。

禅定院 (3)
山門は沼田城の東門を移築したと伝わる。大正13年(1913年)落雷により本堂や庫裏を焼失したが、山門は類焼を免れている。

禅定院 (4)
禅定院 (5)
本堂は昭和48年(1973年)に片品村の梁讃寺の本堂を移築したもの。外観が比較的きれいなので、最近改修しているようだ。

ご本尊は延命地蔵。慈覚大師が作っとされる石彫りで、別名「田植え地蔵」という。これには謂れがあって、田植え時期に農家の手伝いをする男が現れ、村人が後を付けてみると禅定院の門あたりで消えてしまった。和尚さんに聞くと、田植えの時期にご本尊によく泥が付いているのを不思議に思っていたが、ご本尊の延命地蔵が田植えの手伝いに行っていたのではないかということだった。

これから「田植え地蔵」と呼ばれるようになった。


沼田市上久屋町の修法山孝養寺。

孝養寺 (1)
孝養寺は至徳元年(1384年)に雲谷寺二世・無偏泰育の開山と伝わる。その後、五世・玉峯義泉の代に現在地に移転している。

孝養寺 (2)
山門を入るとすぐ禁芸碑がある。旅芸人や行商人が寺内に入るのを禁ずるために建てられたもの。正面には庚申塔、左面に禁藝術賣買之輩、右面に天明六丙午六月吉辰とある。天明6年は1786年である。

養蚕が盛んで比較的豊かな村が多かったため、各地から多くの旅芸人や商人が来ていたことを示すものである。

孝養寺 (3)
孝養寺 (4)
参道脇には石仏や十八羅漢像が並んでいる。

孝養寺 (5)
孝養寺 (6)
本堂は平成15年(2003年)の新築。

孝養寺は七堂伽藍が整備された大寺院であったが、文久2年(1862年)の大火災で焼失してしまっている。


沼田市白沢町岩室の岩室神社。

岩室神社 (1)
岩室神社 (2)
岩室神社 (3)
岩室神社の由緒は不明。ご祭神は日本武尊と建御名方命(たけみなかたのかみ)。日本武尊は北毛地区では多くの神社(特に武尊神社)に祀られている。建御名方命は諏訪大社のご祭神として有名。

岩室神社 (4)
庚申五重塔は寛文12年(1672年)に、村の中村新兵衛ほか8名により建立されたもの。高さ2.1m。

層塔形式の庚申塔はこの地域特有といわれ、当初供養塔として造立されたが、江戸時代に民俗信仰と結びつき庚申供養塔となったようだ。

岩室神社 (5)
写真も撮ったし帰ろうと思ったら、社殿の裏から「ガサッ、ガサッ」という音が。ふと見たら何かいる!! ダッシュで逃げる。離れた所から見ると、何だか分からないが動物がいた(よく撮れてないけど)。

今年は各地で熊の出没が相次いるので、本当にビビった。(訪問は10月末)


みなかみ町湯原のふれあい交流館。

ふれあい交流館 (1)
ふれあい交流館は温泉街の中心部に2004年(平成16年)にオープンした日帰り温泉。名前の通り観光客と地元のふれあいを広げるのが目的の施設で、温泉街や周辺の観光案内もしてくれる。

ふれあい交流館 (2)
ふれあい交流館 (3)
現在、ふれあい交流館の2階・多目的ホールで、「アントニオ猪木コレクション展示会」が5月10日まで開催されている。もともと4月15日までの予定だったが、好評(?)のため延長になった。

みなかみ町在住の西村五郎さんが、40年かけて集めた「猪木グッズ」約300点が展示されている。西村さんは、猪木グッズを約2000点所有しているということなので、選りすぐりの300点である。

ふれあい交流館 (4)
猪木がボブ・バックランドを破ったWWFヘビー級王座の認定証。オークションで10万円で落札したそうだ。

ふれあい交流館 (5)
IWGPチャンピオンベルトのレプリカ。

ふれあい交流館 (6)
ふれあい交流館 (7)
ふれあい交流館 (8)
ふれあい交流館 (9)
ふれあい交流館 (10)
ふれあい交流館 (11)
色紙、書籍、写真、記事のスクラップ、フィギュアなど、多種多彩。

これを見るためだけに、わざわざ水上まで車をすっ飛ばして行ったんだよね。いやぁ~、元気が出た!!


沼田市西倉内町の日本基督教団沼田教会の旧紀念会堂。

日本基督教団沼田教会記念堂 (1)
大正3年(1914年)建設。木造2階建、スレート葺、建築面積112平方m。生糸貿易で栄えた星野家の寄付によって建てられた。

日本基督教団沼田教会記念堂 (2)
日本基督教団沼田教会記念堂 (3)
数少ない大正期の洋風建築で、外壁の下見板、縦長の上下窓、急勾配の屋根等にその特徴がよくあらわれている。

日本基督教団沼田教会記念堂 (4)
現在内部の見学はできないが、白い漆喰壁やシャンデリアが当時の面影を残しているという。

日本基督教団沼田教会は創立110周年に際し新会堂を建設。これに伴い旧紀念堂は昭和63年(1988)に現在地に移築・保存されている。移築後は美術館として使用されていたが、平成18年(2006年)に閉館。

日本基督教団は、昭和16年(1941年)に日本国内のプロテスタント33教派が合同して成立した合同教会であり、公会主義を継承する唯一の団体だそうだ。


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