上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 沼田市・利根郡


沼田市中町の須賀神社。

須賀神社 (1)
須賀神社は室町時代初期に牛頭天王の分霊を勧請したのが始まりと伝わる。天正18年(1590年)真田信之が現在の下之町に遷し、慶長17年(1612年)城下町を改修した際に現在地である中町に再遷座している。明治元年(1868年)に須賀神社と改称している。

須賀神社の由緒版には、文和年間(1352~55年)に沼田城主・沼田小次郎が創建したようなことが書いてあったが、沼田城を沼田顕泰が築城したのは天文元年(1532年)といわれており、時代が合わない。文和年間の沼田氏の本拠地は荘田城。

須賀神社 (2)
須賀神社 (3)
須賀神社 (4)
拝殿は平成25年(2013年)に瓦葺きから銅板葺に改修されている。

須賀神社 (5)
社殿裏には樹齢400年と推定されるケヤキがある。400年ということは現在地に遷座された時に植樹されたと考えられる。目通り7.9m、根元廻り13.4m、樹高25m、枝張り東西20.3m、南北24.6m。樹勢は極めて旺盛で、幹に空洞もない。


沼田市下川田町の加沢平次左衛門の墓。

加沢平次左衛門の墓 (1)
加沢平次左衛門の墓 (2)
加沢平次左衛門は「加沢記」の著者である。沼田真田藩の家臣であった加沢平次左衛門は、天和元年(1681年)の真田信利改易後、川田城跡の一隅に隠棲し真田氏を中心に戦国時代の歴史を記した「加沢覚書」を残した。

後世に「加沢記」と称され、天文10年(1541年)の海野氏と村上義清の戦いから、天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原攻めまでの約50年の歴史が記され、真田幸隆、昌幸、信幸(之)3代の活躍と、それらを軸として利根・沼田の地衆の興亡が描かれている。

利根沼田・吾妻郡を中心とした戦国時代の歴史を調べるうえでの重要資料となっている。

元禄5年(1692年)65歳で没している。


沼田市石墨町の薄根の大クワ。

薄根の大クワ
薄根の大クワは、四釜川沿いの畑地の中にあるヤマグワである。ヤマグワでは日本一の大きさで、根元周囲約5.7m、樹高約13m、枝張りは東西に約18m、南北に約17m。推定樹齢は約1500年。

新潟県佐渡市の羽吉の大クワ、北海道小樽市の恵美須神社の大クワと共に、クワの三名木とされている。

江戸時代の貞亨3年(1686年)、沼田真田藩主・真田信利が改易になり、前橋藩家老・高須隼人が旧沼田藩内を再検地した際、石墨村はこの大クワを標木(測量の基準)にしたといわれる。

幹が太く容姿端麗なことで、「養蚕の神」として永く讃えられている。


沼田市下川田町の川田神社。

川田神社 (1)
川田神社の由緒は不明だが、当地には南北朝期に沼田氏の分家・川田氏の館(川田城)があったので、川田氏が守り神として創建したと考えられる。ちなみに川田氏は、沼田景久の4男・景信を祖とする。

川田神社 (2)
川田神社 (3)
社殿は天文2年(1533年)の北条氏による沼田攻めにより焼失している。現在の社殿の建立年などは分からない。

川田神社 (4)
川田神社 (5)
川田神社 (6)
大ケヤキは群馬県下でも屈指の巨樹である。推定樹齢500年以上。往時は目通り9.5m、根周り13m、樹高21.2m、枝張り東西31.8m、南北33mの巨樹であった。現在は、目通り9.3m、根周り12m、樹高12.5m、枝張り東西22.5m、南北11.5mと樹勢はやや衰えている。

川田神社 (7)
川田神社 (8)
根本部には大きな空洞ができ、衰弱が進んでいる。とは言え、神社がかすむくらいの存在感がある。大ケヤキの樹齢が500年ということから、社殿焼失後の再植と思われる。この時、川田氏は滅んでいる。


沼田市上発知町の歌舞伎舞台。

上発地知の歌舞伎舞台 (1)
上発地知の歌舞伎舞台 (2)
諏訪神社・武尊神社合祀神社。正式名称は知らない。諏訪神社? 武尊神社?

上発地知の歌舞伎舞台 (3)
上発地知の歌舞伎舞台 (4)
境内にある歌舞伎舞台。

江戸時代の舞台で間口5間・奥行き3間。明治32年(1899年)に改装されている。上下2台の組立下座もあり、歌舞伎に必要な付属品・幕・ふすま・大道具・小道具も保存されている。

舞台を広く立体的に使用するために、迫山車3台・二重引分け2台等、独特の仕掛け装置がある。これらの仕掛け装置を設置すると、間口は約3倍近い大がかりで特異な舞台となる。

平成10年(1998年)に保存修理が行われている。明治時代末には歌舞伎が盛んに演じられていという。


沼田市下発知町の石尊山観音寺。

観音寺 (1)
観音寺 (2)
観音寺は明応9年(1500年)、迦葉山弥勒寺三世・天山見亮禅師による開山。お寺自体はそれ以前からあったようだが、曹洞宗として再興されたのを開創としている。

観音寺 (3)
観音寺 (4)
観音寺 (5)
天正8年(1580年)に海野輝幸が討たれた際は、当時の住職は迦葉山弥勒寺住職らと共に海野塚前で懺法を読経して、卒塔婆を建てたという。
(海野塚は「海野輝幸と嫡男・幸貞の墓(海野塚)」参照)

観音寺 (6)
観音寺 (7)
ほほゑみ十二観音。それぞれの干支にちなんだ観音様。慈導観音、慈永観音、慈結観音など、すべて「慈」がつく名称になっている。「会いたいと思えばすぐに会えるように、さまざまな姿形をしたほほゑみ十二観音を建立いたしました」とのこと。

観音寺 (8)
本堂前にある慈天観音。ほほゑみ十二観音を天上界から降臨させた観音様。笑顔をもたらしてくれる観音様らしい。

観音寺 (9)
観音寺 (10)
観音寺は石尊山(戸神山)の山麓にあり、本堂横には登山道がある。不動明王や天狗が見守ってくれている。

観音寺は山寺体験(写経、仏画、座禅)やお寺で小学生への「授業」や逆に小学校に出向いて説話を行うなど、地域活動にも力を入れている。


沼田市岡谷町の海野塚。

海野塚 (1)
海野塚は海野輝幸と幸貞父子の墓である。

北条氏から沼田城を奪った真田昌幸は、一族の海野輝幸に沼田城を守らせていた(輝幸の兄・幸光は岩櫃城代であった)。海野兄弟の重用を妬んだ者の「海野兄弟は北条と通じている」という讒言を信じた昌幸は、天正8年(1580年)弟の信尹(のぶただ)に命じて先ず幸光を討ち、輝幸にも追討をかけた。

海野塚 (2)
輝幸は「主家に二心無き証をたてん」と迦葉山を目指したが、真田勢の追撃を受け、嫡男・幸貞と「無益な殺生はこれまで」と刺し違えて自害したといわれている。父子は当地に葬られている。

海野氏は滋野三家のひとつ。滋野家は清和天皇の皇子・貞保親王の孫・善淵王が滋野姓を賜り臣籍降下したのが始りといわれる(諸説あり)。平安中期に滋野氏は三家に分かれ、それぞれ居住とする地名(海野、祢津、望月)をとって姓とした。

海野幸光・輝幸兄弟は海野幸義の3男・羽尾景幸の子であり、直系の血筋が絶えた後に海野家を継承したと称している。

ちなみに、海野家系から幸隆(昌幸の父)が出、真田郷を領して以後、真田姓を名乗ったとされる。真田氏からみると、海野氏は本家筋になる。(幸隆の出自も諸説あり)


沼田市西倉内町の沼田公園。

真田信之と小松姫の石像 (1)
沼田公園は沼田万鬼斎顕泰が天文元年(1532年)に築いたとされる沼田城址。平成27年(2015年)12月、沼田公園内に真田信之と小松姫の石像設置された(公開は平成28年1月から)。石造は沼田市観光協会が製造、市に寄付している。

真田信之と小松姫の石像 (2)
真田信之と小松姫の石像 (3)
高さ2.6mの御影石製で、身長6尺(約180cm)を超えていたとされる信之の立像と、小松姫の座像を実物大で表現している。

3月には石像に茶色いスプレー塗料がかけられる心無い事件もあったが、すぐに塗料は落とされている。

真田信之と小松姫の石像 (4)
台座上に小銭が6枚ずつ六文銭を模して置かれていた。長野県上田市の長谷寺の真田昌幸、幸隆らの墓前にも同様に六文銭型に小銭が供えられているので、真田氏ファンの間で定着しているようだ。

関連
 「沼田万鬼斎顕泰の築城・沼田城址


沼田市白沢町尾合の利法山禅定院功徳寺。

禅定院 (1)
禅定院は承和14年(847年)慈覚大師(延暦寺第三代座主)の開創と伝わる古刹である。

禅定院 (2)
参道入り口にある宝篋印塔。銘文に廻国供養の意をなし、明和4年(1767年)佐野村(現在の高崎市)大心によって建てられたとある。高さ3.5mで白沢地区内を代表的する宝篋印塔。

禅定院 (3)
山門は沼田城の東門を移築したと伝わる。大正13年(1913年)落雷により本堂や庫裏を焼失したが、山門は類焼を免れている。

禅定院 (4)
禅定院 (5)
本堂は昭和48年(1973年)に片品村の梁讃寺の本堂を移築したもの。外観が比較的きれいなので、最近改修しているようだ。

ご本尊は延命地蔵。慈覚大師が作っとされる石彫りで、別名「田植え地蔵」という。これには謂れがあって、田植え時期に農家の手伝いをする男が現れ、村人が後を付けてみると禅定院の門あたりで消えてしまった。和尚さんに聞くと、田植えの時期にご本尊によく泥が付いているのを不思議に思っていたが、ご本尊の延命地蔵が田植えの手伝いに行っていたのではないかということだった。

これから「田植え地蔵」と呼ばれるようになった。


沼田市上久屋町の修法山孝養寺。

孝養寺 (1)
孝養寺は至徳元年(1384年)に雲谷寺二世・無偏泰育の開山と伝わる。その後、五世・玉峯義泉の代に現在地に移転している。

孝養寺 (2)
山門を入るとすぐ禁芸碑がある。旅芸人や行商人が寺内に入るのを禁ずるために建てられたもの。正面には庚申塔、左面に禁藝術賣買之輩、右面に天明六丙午六月吉辰とある。天明6年は1786年である。

養蚕が盛んで比較的豊かな村が多かったため、各地から多くの旅芸人や商人が来ていたことを示すものである。

孝養寺 (3)
孝養寺 (4)
参道脇には石仏や十八羅漢像が並んでいる。

孝養寺 (5)
孝養寺 (6)
本堂は平成15年(2003年)の新築。

孝養寺は七堂伽藍が整備された大寺院であったが、文久2年(1862年)の大火災で焼失してしまっている。


沼田市白沢町岩室の岩室神社。

岩室神社 (1)
岩室神社 (2)
岩室神社 (3)
岩室神社の由緒は不明。ご祭神は日本武尊と建御名方命(たけみなかたのかみ)。日本武尊は北毛地区では多くの神社(特に武尊神社)に祀られている。建御名方命は諏訪大社のご祭神として有名。

岩室神社 (4)
庚申五重塔は寛文12年(1672年)に、村の中村新兵衛ほか8名により建立されたもの。高さ2.1m。

層塔形式の庚申塔はこの地域特有といわれ、当初供養塔として造立されたが、江戸時代に民俗信仰と結びつき庚申供養塔となったようだ。

岩室神社 (5)
写真も撮ったし帰ろうと思ったら、社殿の裏から「ガサッ、ガサッ」という音が。ふと見たら何かいる!! ダッシュで逃げる。離れた所から見ると、何だか分からないが動物がいた(よく撮れてないけど)。

今年は各地で熊の出没が相次いるので、本当にビビった。(訪問は10月末)


みなかみ町湯原のふれあい交流館。

ふれあい交流館 (1)
ふれあい交流館は温泉街の中心部に2004年(平成16年)にオープンした日帰り温泉。名前の通り観光客と地元のふれあいを広げるのが目的の施設で、温泉街や周辺の観光案内もしてくれる。

ふれあい交流館 (2)
ふれあい交流館 (3)
現在、ふれあい交流館の2階・多目的ホールで、「アントニオ猪木コレクション展示会」が5月10日まで開催されている。もともと4月15日までの予定だったが、好評(?)のため延長になった。

みなかみ町在住の西村五郎さんが、40年かけて集めた「猪木グッズ」約300点が展示されている。西村さんは、猪木グッズを約2000点所有しているということなので、選りすぐりの300点である。

ふれあい交流館 (4)
猪木がボブ・バックランドを破ったWWFヘビー級王座の認定証。オークションで10万円で落札したそうだ。

ふれあい交流館 (5)
IWGPチャンピオンベルトのレプリカ。

ふれあい交流館 (6)
ふれあい交流館 (7)
ふれあい交流館 (8)
ふれあい交流館 (9)
ふれあい交流館 (10)
ふれあい交流館 (11)
色紙、書籍、写真、記事のスクラップ、フィギュアなど、多種多彩。

これを見るためだけに、わざわざ水上まで車をすっ飛ばして行ったんだよね。いやぁ~、元気が出た!!


利根郡昭和村森下の大森神社。

大森神社 (1)
大森神社 (2)
大森神社は和銅6年(713年)の創建と伝わる。ご祭神は薬師如来や阿弥陀観音、聖観音、将軍地蔵などであったが、明治5年(1872年)の神仏分離により従前の主神を廃し、改めて大国主命、倭健命などを祀っている。

大森神社 (3)
大森神社 (4)
現在の社殿は昭和3年(1928年)の改築。

大森神社 (5)
利根沼田地方では養蚕の神様として盛んな諏訪信仰にちなみ、いろいろな祭りが行われている。大森神社でも9月30日、10月1日に諏訪祭が行われる。

特にこの地方独特の「かつぎまんどう」は、1本の心棒に武者人形を山車そっくりに飾り付けたもので、江戸時代に祇園祭の山車を見本に作られた。祇園の「引きまんどう」に対し、引かずに担いで練り歩くため「かつぎまんどう」と呼ばれている。

当初は飾りであったが、現在では子供たちがそれぞれが作った戦国武士の乗る「まんどう」をぶつけ合いながら、櫓を回る壮烈な姿になっている。(写真は昭和村のHPから)


沼田市西倉内町の日本基督教団沼田教会の旧紀念会堂。

日本基督教団沼田教会記念堂 (1)
大正3年(1914年)建設。木造2階建、スレート葺、建築面積112平方m。生糸貿易で栄えた星野家の寄付によって建てられた。

日本基督教団沼田教会記念堂 (2)
日本基督教団沼田教会記念堂 (3)
数少ない大正期の洋風建築で、外壁の下見板、縦長の上下窓、急勾配の屋根等にその特徴がよくあらわれている。

日本基督教団沼田教会記念堂 (4)
現在内部の見学はできないが、白い漆喰壁やシャンデリアが当時の面影を残しているという。

日本基督教団沼田教会は創立110周年に際し新会堂を建設。これに伴い旧紀念堂は昭和63年(1988)に現在地に移築・保存されている。移築後は美術館として使用されていたが、平成18年(2006年)に閉館。

日本基督教団は、昭和16年(1941年)に日本国内のプロテスタント33教派が合同して成立した合同教会であり、公会主義を継承する唯一の団体だそうだ。



利根郡みなかみ町永井の町野久吉の墓。

戊辰戦争時(慶応4年~明治2年)、三国峠付近でも三国戦争と呼ばれる戦闘があった(慶応4年4月)。会津藩と上州諸藩(前橋、高崎、沼田、安中、吉井など)との局地戦。

町野久吉の墓
墓石には、「会津藩士白虎隊 町野久吉墓」と刻まれている。白虎隊初の戦死者といわれる。

三国峠を守っていた町野主水(会津藩飛領である越後の小出島奉行)の実弟である久吉は、長槍を奮って敵陣に突入し奮戦するも、銃弾を浴び壮烈な戦死を遂げた。享年17歳。

久吉の首は永井宿の近くに晒され、哀れんだ村人が近くの山に葬った。

久吉の槍は戦利品として官軍の手に渡り、山県有朋の所有となっていた。ちなみに現在この槍は、会津・鶴ヶ城内に展示されている。


利根郡みなかみ町永井の永井宿郷土館。

永井宿郷土資料館 (1)
永井宿郷土館は小学校(分校)の校舎を改築している。永井宿の各種資料を展示している。

永井宿郷土資料館 (2)
この甲冑は天正10年(1582年)のくぐつが谷(三国峠)の戦いで使われたと伝えられている。

永井宿郷土資料館 (3)
永井宿郷土資料館 (4)
宿場町の古文書。

永井宿郷土資料館 (5)
十二神社の獅子舞(獅子頭)。天保年間(1830年~44年)の伝統を守り伝える。

永井宿郷土資料館 (6)
クマやシカなど、北方系動物の剥製。北国であることを実感。

永井宿は三国峠を控えた宿場町だった事から、参勤交代で長岡藩、村松藩、与板藩などの諸大名や佐渡奉行、新潟奉行などの上役が利用した。また、上越線の開通まで越後米の関東への流入口であり、米の取引場として隆盛を極め、陸の船着き場ともいわれた。

永井宿は万延元年(186年)の火災によりほぼ焼失。現在の街並みは再建されたものであるが、随所に当時の雰囲気を感じる事ができる。


利根郡みなかみ町猿ヶ京温泉の猿ヶ京関所跡。

猿ヶ京関所 (1)
猿ヶ京関所は寛永8年(1631年)に江戸と越後・出羽方面を結ぶ要路であった三国街道に設置された関所。関所の建物は長さ18m、幅12.6mもの大きさだったという。

猿ヶ京関所 (2)
猿ヶ京関所 (3)
猿ヶ京関所 (4)
関所は真田氏が管理していたが、その改易後は高野、木村、戸部、片野の4家が、関守として管理をした。関所役宅(片野家)は、現在資料館として関所手形、猿ヶ京関所付近絵地図などを展示している。

猿ヶ京関所 (5)
文化10年(1813年)の猿ヶ京関所の図(片野家所蔵)。左側に屋敷牢がある。

関所破りは捕まれば磔となったが、捕まって吟味中に牢屋で死んだ者でも塩漬けにされ刑場で磔にされるほど重い罪であった。でも幕末には手形のない旅人でも猿ヶ京の宿屋や茶店の印鑑を貰い、五十文払えば通れたと言うから、かなり綱紀が緩んでいたらしい。


沼田市材木町の月宮山天桂寺に真田熊之助の墓と伝わる墓石がある。

伝真田熊之助の墓 (1)
天桂寺は真田沼田藩2代藩主・信吉の菩提寺で、立派な墓があるがその近く(北側)にその嫡男・3代熊之助の墓といわれる墓石がある。熊之助は4歳で3代藩主となり7歳で夭逝している。(天桂寺は「真田信吉の墓・月宮山天桂寺」参照)

伝真田熊之助の墓 (2)
この墓(墓石)は天桂寺の住職が古文書を解読し、墓地内を発掘して埋まっていた墓石を発見したという。裏付け資料がないためか案内板などはまったくなく、誰も熊之助の墓とは気づかない(はず)。

熊之助の墓と伝わるものはみなかみ町新巻にもあるけど、そっちの方が立派な宝篋印塔が建っている。(「伝・真田熊之助の墓」参照)

まぁ、どっちも「伝」と言うことは同じだけどね。


利根郡みなかみ町新巻の伝・真田熊之助の墓。

伝真田熊之助の墓 (1)
伝真田熊之助の墓 (2)
熊之助は真田沼田藩2代・信吉の嫡男で、寛永12年(1635年)わずか4歳で真田沼田藩3代藩主となる。

伝真田熊之助の墓 (3)
しかし寛永15年(1638年)7歳で死去。遺骸は旧新治村新巻に葬られ、菩提のためその地に玄香院という寺が建てられたという。

伝真田熊之助の墓 (4)
現在は寺はなく、墓石のみが残っている。傍らには玄香院薬師如来堂というまだ新しい小さなお堂があった。

後に真田沼田藩改易の元となった信利は、熊之助の異母弟である。

熊之助の墓と伝わるものが天桂寺にもある。記事はこちら「伝・真田熊之助の墓 その2


利根郡みなかみ町上津の鳥越山如意寺。
ここには上杉謙信の供養塔がある。

如意寺 (1)
如意寺 (2)
寛正3年(1462年)に名胡桃城主・沼田景冬の姉が出家して庵を結び、如意輪観音を安置したのが始まりという。

如意寺 (3)
元和3年(1617年)玉泉寺10世・長薫和尚の代に寺格を改め鳥越山宝珠院如意寺となり、天正3年(1575年)に現在地に移築している。

如意寺 (4)
天正6年(1578年)上杉謙信が春日山城で病死したことを悼み、沼田城代・上野中務家成が当時後閑にあった恕林寺に供養塔(宝篋印塔)を建立し越後に去った。

塔身はなく、基礎は3つに区画され「造立石塔一基」「奉為謙信法印」「天正戊寅四月日」と彫られている。

恕林寺は天正10年(1582年)戦火に焼け、供養塔は如意寺に遷された。ちなみに恕林寺は舒林寺と文字を改めて、寛文8年(1668年)沼田へ移転・再建されている。
(「真田信政二男 信守の墓・慈眼山舒林寺」参照)


沼田市利根町日影南郷の旧鈴木家住宅。

旧鈴木家住宅 (1)
鈴木家の先祖は当地に熊野神社を建設するために神官として来村し、代々名主を務めた家柄。当住宅は検地などで訪れる役人の逗留施設でもあった。

主屋は東北地方の民家でよく見られる曲屋(まがりや)形式。L字に曲がっている部分は「うまや」として、数頭の馬の飼育に使われていた。

旧鈴木家住宅 (2)
旧鈴木家住宅 (3)
上段の間である「オクノデイ」は、他の部屋より段が高くなっている。正面にオドコ(雄床)、メドコ(雌床)を設け、向かって左手には付け書院を、これと対応した右側には敷居を一段高めた「帳台構え」を設け、正式な書院造りを構成している。

旧鈴木家住宅 (4)
当時使用した民具・農具などが展示されている。

旧鈴木家住宅 (5)
旧鈴木家住宅 (6)
土瓶で沸かしたお湯で入れたお茶と、キャラ葺をご馳走になった。管理人さんが「寒いでしょ」ということで、薪をくべてくれたんだけど、ちょっと煙かった。

旧鈴木家住宅 (7)
旧鈴木家住宅 (8)
敷地内に南郷温泉「しゃくなげの湯」から源泉を引いた足湯があった。ちょこっと浸けてみたけど、けっこう気持ちいいもんだ。

写真にキレイな足(?)が映っているけど、ご勘弁を。


沼田市利根町穴原の薗原ダム。
一級河川・利根川水系片品川に建設されたダムである。

薗原ダム (1)
利根川の治水と首都圏への利水を司る利根川水系8ダムのひとつで、堤高76.5mの重力式コンクリートダム。8ダムの中では藤原ダム・相俣ダムに次いで3番目に建設された。

関連 
みなかみ町藤原・藤原ダム」「相俣ダム/相俣ダム情報館

薗原ダム (2)
薗原ダム (3)
昭和34年(1959年)から建設が始まり、昭和41年(1966年)に竣工。4つの非常用洪水吐を備えている。その下がジャンプ台のように湾曲しており、水が跳ねる仕掛けのようだ。見てみたい気がする。

薗原ダム (4)
ダム湖は薗原湖と言う。ダム湖ってだいたいそのまんまなのね。水没予定地には老神温泉の旅館も一部含まれていたようで、反対運動が相当激しかったようだ。

ダムを造る時は水没予定地の方々を中心とする反対運動が起こるが、ある意味これはしょうがない。我々はこういった方々の苦難のうえに、水を利用していることを忘れてはならない。

ところで、薗原ダム/薗原湖は一部では有名な心霊スポットらしい。トンネルや薗原湖にかかる吊り橋(写真にちょっと写っている)などで、いろんな目撃情報があるとか・・・。


沼田市白沢町高平の書院。

高平の書院 (1)
慶安2年(1649年)4代真田沼田藩主・真田信政が、高平の宿割などを行ったおりに設置され、その後は領主の領内見回りや鷹狩の休憩所として利用された。当時、敷地内に7棟の建物が配置され、書院はその一部である。その後、黒田氏が藩主時代(江戸時代中期)に再建されている。

高平の書院 (2)
主室には 床・脇床・平書院を設け、次ノ間にも間口2間の床を備えている。数寄屋風書院としては、県内屈指の建築物だという。

高平の書院 (3)
高平の書院 (5)
敷地内には推定樹齢約400年の五葉マツがある。高さ18m、目通り2.5m。高平の宿割の際、書院の庭木として植樹されたものと伝えられている。(慶安2年の植樹だとすると、360年余りとなる。)

五葉マツとしては、この地方まれに見る巨木で、樹勢も旺盛である。品種は南方系(四国系)に属し、この地方にあることは珍しい。

高平の書院 (6)
もう少し整備(修復)し、有料でもいいので公開すればと思った。個人所有のままでは難しいので、群馬県・沼田市も何か考えたほうがいいよ。


沼田市下川田町の福田山東禅寺。

東禅寺 (1)
東禅寺 (2)
東禅寺 (3)
東禅寺にある勝軍地蔵雨宝殿(うほうでん)は、土岐沼田藩9代藩主・頼功(よりかつ)が勝軍地蔵を祀るため文政11年(1828年)に建立したもの。12代頼知(よりおき)が奉納した「雨宝殿」の額が掲げられている。

入母屋、銅板葺、桁行き8.23m、梁間8.1m。ケヤキ材が多く、欄間など各所に多数の彫刻が施されている。

勝軍地蔵は、徳川家康が小牧・長久手の戦いのおり、愛宕尊に願をかけ窮地を脱したことから、以降近臣の土岐定政に戦場で背負わせて出陣していたという。高さ16cmなので「背負って」と言う表現は、適切じゃないかもしれないが。

土岐定政は、後にこの勝軍地蔵を家康から与えられている。土岐定政が守屋(茨城)1万石の大名になった後、土岐家は摂津高槻(大阪)、下総相馬(千葉)、出羽上山(山形)、駿河田中(静岡)、沼田と移っているが、代々祀り続けてきたもの。

東禅寺 (7)
厨子は本尊を安置するため、寛政元年(1789年)に造られた宮殿形である。総丈241cm。

東禅寺 (4)
東禅寺 (5)
境内には土岐家の菩提寺・春雨寺(東京都品川)から引き取った旧藩主の墓石が安置されている。初代・頼稔の父、3代・定経、4代・頼寛、9代・頼功など。亀が墓石を背負っている。

東禅寺 (6)
この石灯籠は10代・頼寧(よりやす)が上野・寛永寺に奉献したもの。

雨宝殿は土岐家の祈願所・勝善寺のお堂だったらしい。東禅寺の所有になったのは明治26年(1893年)だとか。東禅寺に勝善寺が吸収合併されたということ?


沼田市上川田町の龍雲山東光寺。

東光寺 (1)
東光寺は発智為時の開基。発智氏は沼田氏3代景盛の子・三郎景宗が発知に分家し発智氏と称したのが始まり。景宗の弟の兵部為時が上川田に城(上川田城)を築いて移り住んだ。

東光寺 (2)
東光寺 (3)
山門脇に「スズメバチの巣があります。注意してください」と張り紙がしてあった。ちょっと「ドキッ」っとしたけど特に問題なし。まあ、季節的にも心配することはないけどね。

東光寺 (4)
発智兵部左金吾平為時の墓。平(たいら)と入っているのは、沼田氏が三浦氏の出とされているから(と思う)。

この墓は逆修(ぎゃくしゅ)。逆修とは生前にあらかじめ自分の墓や位牌を建立し、自分ために仏事を修して死後の冥福を祈ること。212cmの宝篋印塔には「己酉 八月十八日」の銘があり、己酉は1369年と考えられる。

東光寺 (5)
東光寺 (6)
本堂の中を覗かせてもらったら、大きな天狗面があった。東光寺の裏山は天狗山と言うらしいので、何か天狗に関する謂れがある?

沼田で天狗面と言ったら迦葉山が有名だが。
(「沼田市上発知町・迦葉山弥勒護国寺」参照)


沼田市井戸上町の荘田城址。
現在は荘田城址公園として、バーベキュー施設などが整備されている。

荘田城址 (1)
荘田城は沼田氏発祥の地とされる。宝治元年(1247年)三浦氏が北条時頼によって滅ぼされた際、三浦泰村の子・景泰がこの場所に逃れ沼田景泰を名乗ったという(沼田氏の出自に関しては諸説あるので、その一説として)。

荘田城は段丘の上と下の段にそれぞれ施設があったようで、上も下も荘田城址公園となっている。

荘田城址 (2)
下段にある牛石(右)と馬石(左)。沼田景泰が乗っていた牛や馬が、景泰が亡くなると激しく鳴いて死に、石に化けたものと伝えられている。

荘田城址 (3)
荘田城址 (4)
上段も整備されている。特に何があるわけではないが、唯一ある堀跡も荘田城の堀かは不明のようだ。(竪穴式住居が復元されているが、城址とは関係ないので割愛。)

荘田城は応永12年(1405年)に8代・景朝が小沢城に移るまでの約150年間、沼田氏の居城であった。


利根郡みなかみ町下津の名胡桃城址。

名胡桃城址 (1)
名胡桃城址 (2)
名胡桃城は明応元年(1492年)に沼田景冬によって築かれたと伝わる。史料上では上杉景勝との甲越同盟により東上野の割譲を受けた武田勝頼が、天正7年(1579年)に家臣の真田昌幸に命じて、敵対関係となった北条氏から沼田領を奪取するための前線基地として整備している。

名胡桃城址 (3)
名胡桃城址 (4)
名胡桃城は突き出た段丘面に築かれ、自然の要害に守られた山城である。馬出しから三郭・二郭・本郭・ささ郭と主要な郭が直線的に並ぶ連郭式。

名胡桃城址 (5)
本郭址から沼田市方面を臨む。沼田市と言ってもはずれの方だと思う。街はもっと右の方。

名胡桃城址 (6)
名胡桃城址 (7)
名胡桃城址 (8)
資料館が併設されており、ちょっとした資料が展示されている。ボランティア(と思われる)の方が常駐されており、いろいろ説明してくれる。

天正17年(1589年)豊臣秀吉は沼田を北条領、名胡桃を真田領とする裁定を下したが、北条方の沼田城代・猪俣邦憲の謀略により名胡桃城は奪取されてしまう。謀られた名胡桃城代・鈴木主水重則は、沼田正覚寺で自害している。
(「名胡桃城代 鈴木重則の墓?・法蔵山正覚寺 その2」参照)

これに激怒した秀吉により、天正18年(1590年)小田原攻めが行われ、北条氏は敗れている。まあ名胡桃事件は口実だと思うけどね。

これにより沼田城・名胡桃城は真田氏に与えられ、沼田領の安泰とともに名胡桃城はその役割を終え廃城となった。


利根郡川場村谷地の萬松山桂昌寺。

桂昌寺 (1)
桂昌寺 (2)
桂昌寺は応永3年(1396年)に当地を治めていた地頭・大友氏の墓守のため開創されたとされる。

大友氏は戦国時代の大友義鎮(宗麟)が有名だが、藤原秀郷の流れをくむ大友能直に始まる。能直が源頼朝に重用され、豊後・筑後守護職と鎮西奉行職に任じられている。その大友氏が現在の沼田・川場村一帯の地頭であったという。桂昌寺は大友氏の館跡とされる。

桂昌寺 (3)
本堂は茅葺き屋根を改修した歴史のありそうな造り。

桂昌寺 (4)
「薄幸の女流歌人」と称される江口きち(江口家)の墓。

向かって1番右が、きちと廣寿(兄)の墓。墓石の前面にきちの戒名、左面には廣寿の戒名が刻まれている。右面には、きちの辞世二首の内のひとつ「大いなる」の歌が刻まれている。(真ん中は両親の墓、左は妹夫婦の墓である。)

江口きち (1)
江口きちは大正2年(1913年)に川場村谷地の生まれ。

江口きち (2)
幼少時から学業優秀で、昭和2年(1927年)にはアメリカから川場小に贈られた「青い目の人形」を学校代表として受け取っている。卒業後は沼田の裁縫所で和裁を習ったりしたが、昭和5年(1930年)沼田郵便局に勤めている。しかし翌年、母親が急死したため川場に戻り父・兄・妹の面倒を見ることになった。

苦しい生活、生来の厭世観、実らない恋(18歳年長者と不倫関係にあった)への苦悩などが入りまじり、昭和13年(1938年)兄・廣寿とともに青酸カリによる服毒自殺。享年25歳。

江口きち (3)
自分で仕立てた純白のドレスを身につけ、胸には真っ赤なバラの花がつけられていたという・・・。また、枕元には辞世の句・二首があった。
 「睡たらひて夜は明けにけうつそみに 聴きをさめなる雀鳴き初む」
 「大いなるこの寂けさや天地の 時刻あやまたず夜は明けにけり」

生活の辛苦を舐め叶わぬ恋の果て、自ら命を絶った薄幸の歌人。その生活について、ここではだいぶ端折ったけど、けっこう厳しい状況であったようだ。

純白のドレス(レプリカ)は川場村歴史民俗資料館に展示されている。
(「川場村天神・川場村歴史民俗資料館」参照)


利根郡川場村谷地のホテルSL。
その名の通りSL(D51)が保存されている。

D51 (1)
D51 (2)
昭和51年(1976年)旧国鉄から貸与を受けたD51と寝台車を、敷地内に設置した線路の上に置いて「ホテルSL」として開業。寝台車に泊まる方式で、1970年代のSLブーム時に全国で作られている。

その後、寝台車は老朽化したため撤去され、平成7年(1995年)新館(普通の建物)に宿泊するようなっている。

D51 (3)
平成18年(2006年)から圧縮空気方式によって動態復元したD51を、敷地内の約150mの線路上を走らせている。ホテル宿泊者のみではなく、観光客も乗ることができる(もちろん有料)。乗るといっても先述のように150mだけど・・・。

汽笛が聞こえたので行ってみたら、D51があったということ。動くSLを生で初めて見た。とは言っても150mなので時速10km/hくらいだし、圧縮空気方式だけどね。


利根郡川場村天神の歴史民俗資料館。

川場村歴史民俗資料館 (1)
明治43年(1910年)、川場小学校の校舎として建てられ、昭和61年(1986年)移築・改修し、昭和62年に歴史民俗資料館として開館。

川場村歴史民俗資料館 (2)
川場村歴史民俗資料館 (3)
川場村歴史民俗資料館 (4)
1階は村の歴史を年代別に展示。村内の遺跡から出土した縄文・弥生式土器や刀剣、甲冑など。

川場村歴史民俗資料館 (5)
川場村歴史民俗資料館 (6)
直心影流の巻物と皆伝書があった。いち早く竹刀と防具を使用し、打ち込み稽古を導入した流派であり、江戸時代後期には全国に広まった。

第9代・長沼綱郷が沼田藩に仕官したことから、長沼家は代々沼田藩で直心影流を指南した。そのため、巻物や皆伝書が川場村に残っているようだ。

川場村歴史民俗資料館 (7)
2階は「薄幸の女流歌人・江口きち」資料室や民具、農具、教育関係資料を
展示している。

川場村歴史民俗資料館 (8)
川場村歴史民俗資料館 (9)
江口きちは、昭和時代前期の歌人で、貧困のなかで多くの歌を詠んだ。

年老いた父、病気の兄、妹を抱えた苦しい生活の中で、唯一の生きがいは短歌だったという。最期は、昭和13年(1938年)兄とともに(というか兄を道連れに)服毒自殺。享年25歳。白いドレスは自殺時に着ていたもの(実物じゃないけど)。

江口きちの資料を見てたら、ちょっとウルウルしてきて・・・・・。

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