上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 桐生市


桐生市新里町大久保の成田山赤城寺。

赤城寺 (1)
成田山赤城寺は、その山号が示す通り千葉の成田山新勝寺の末教会。赤城大教会というらしい。

ある時、霊能力に目覚めた初代住職が成田山で修行し開いたといわれる。初代住職は色んな意味でキャラが濃かったようだ。それは追々。

赤城寺 (2)
赤城寺 (3)
赤城寺 (4)
本堂前に立派な不動明王が鎮座していた。火炎光背が赤くなっており、これは不死鳥を表しているらしい。不動明王と併せ「無限の力」を表現しているという。

赤城寺 (5)
植木が赤城寺と刈り込まれていた。写真には写っていないが成田山の山号も。

赤城寺はシャクナゲが有名である。現在5000株を超える様々なシャクナゲが植えられており、県内では他に例を見ない規模の大きさを誇る。見頃の4月から5月にかけては花見客で賑わう。しかし訪問したのは真冬。シャクナゲの季節ではない。実は、赤城寺にはもうひとつの顔があり、それがB級スポット寺院。

色んなものがあるので、紹介する。もちろんきちんとした施設もあるけど、ちょっと不思議系(笑)もあり。

赤城寺 (6)
山門前にある大黒招き猫と変なオブジェ。

赤城寺 (7)
奉納者は志村けん!

赤城寺 (8)
その先には「世直しトップ地蔵」。その姿は漫才師・コロムビア・トップ。先代住職と知り合いだったらしく、そんなことから奉納されたらしい。

赤城寺 (9)
赤城寺 (10)
境内にある「観音霊場願掛け御砂踏所」。各地の観音霊場の砂を持ち寄り(敷き)、それを踏むことで霊場めぐりができるというもの。

赤城寺 (11)
真ん中あたりまで進むと、突然シャボン玉が噴き出してきた。人感センサーでスイッチが入るようだが、シャボン玉の勢いが弱い・・・。他の方の訪問記を見ると勢いよく噴き出しているので、機械の劣化かシャボン液不足。別の意味で残念。

赤城寺 (12)
遊歩道(?)に置かれた多くの不動明。すべて寄進されたもの。

赤城寺 (13)
鐘楼。この鐘は電気スイッチで自動で撞かれるらしい。参拝者は撞けない。

赤城寺 (14)
赤城寺 (15)
江戸時代の制作とされる不動明王。

赤城寺 (16)
赤城寺 (17)
まゆ玉大黒堂。由緒も何も分からないが、大黒さんの前には奉納された酒樽が並ぶ。

赤城寺 (18)
赤城寺 (19)
出世金成稲荷大明神。ある日この地に大日如来が降霊し、金成様を祀れと指示があったらしい。参拝すると出世できるのかな?

赤城寺 (20)
あっちゃん地蔵尊と書かれた水子地蔵。あっちゃん??

赤城寺 (21)
写真の右隅に移っているのが、初代住職の銅像。自分で建てたのか、現住職が建てたのかは不明だが・・・。

先にも書いたが、赤城寺はシャクナゲが有名で、桐生市のHPにその見頃が掲載されるほどである。それと境内の様々なものとのギャップが何とも言えない。


桐生市新里町山上の後閑の五輪塔。

後閑の五輪塔
後閑の五輪塔は高さ163cmの凝灰岩製で、火輪の笠石が反り返っているなど室町時代の特徴を持っている。とは言え、現在は空輪と風輪は破損し、崩れてしまっている。

後閑の五輪塔(桐生市HP)
桐生市のHPに載っている、在りし日の五輪塔。

行ってみると分かるけど、管理状態が良いとはお世辞にも言えない。一応、桐生市の重文(もとは旧新里村の重文)に指定されているんだから、もう少し管理をきちんとして欲しい。


桐生市東久方町の天善山大蔵院日輪寺。

大蔵院 (1)
大蔵院は伝教大師・最澄が東国地方を教化巡錫した際に桐生に草庵を建立したのが始まりといわれる。藤岡市の浄法寺を最澄が訪れたのが弘仁8年(817年)といわれており大蔵院の開創はその頃と思われる。(浄法寺は「藤岡市浄法寺・広厳山浄法寺」参照)

大蔵院 (2)
大蔵院は桐生天満宮の別当寺で天満宮境内にあったが、明治時代の神仏分離により現在地に移転している。

大蔵院 (3)
大蔵院 (4)
本堂は明治36年(1903年)の建立。昭和55年(1980年)に改修されている。

大蔵院 (5)
桐生市名誉市民・森喜作氏の墓。

喜作氏は小木片に菌糸を培養した種駒によるシイタケ栽培法の考案者。京都帝大在学中(昭和7年:1932年)にシイタケの人工栽培を志し、昭和17年(1942年)純粋培養菌種駒法を開発。シイタケ栽培技術の開発・普及、消費拡大のため国際的に活躍した。


桐生市西久方町の平等山妙音寺。

妙音寺 (1)
妙音寺は寛政年間(1789~1802年)と天保13年(1842年)の火災より、過去の記録が焼失してしまい正確な由緒は不明である。ただし、残っている仏像・石仏などから天文(1532~54年)以前の創建と推察される。

妙音寺 (2)
妙音寺 (3)
妙音寺 (4)
現在の本堂は昭和3年(1928年)の再建。過去の火災や、大正12年(1923年)の関東大震災を鑑みて、鉄筋コンクリートで造られている。桐生初の鉄筋コンクリート本堂。

妙音寺 (5)
不動明王の石造。脇仏として十一面観音と如意輪観音を従えているのは珍しい。

妙音寺 (6)
境内にあったうなぎ供養塔。裏を見たら、桐生市のうなぎ屋さんとおぼしきお店が20軒くらい書かれていた。秋のお彼岸に供養会をやっているようだ。



住職の一人娘である副住職(現在大学生)はストロングマシン2号のステージ名でTV番組やCMなどに出演している。ちなみに父親の住職はストロングマシン1号だそうだ(笑)。

小学生の時に出演した「行列のできる法律相談所」を見つけたので貼っておく。ストロングマシン1号も出てるぞ。


桐生市西久方町の経王山寂光院。

寂光院 (1)
寂光院は文化11年(1814年)新居善右衛門により創建される(当時は寂光庵)。明治13年(1880年)に新居日薩によって現在地に遷され、寂光院となる。

寂光院 (2)
寂光院 (3)
寂光院 (4)
日薩上人は日蓮宗総本山身延山久遠寺法主(第73世)や、日蓮宗管長(初代)などを勤めた後、池上本門寺の貫首(第65世)となっている。

寂光院 (5)
参道脇の不動明王。

明治24年(1891年)に大森林蔵らが中心となり、東浅草千束町の鷲大明神を分霊し講中を組織した。毎年11月の酉の日は、酉の市で賑わいをみせる。


桐生市相生町の桐生市民体育館。

桐生市民体育館 (1)
桐生市民体育館は桐生運動公園内にあり、隣には桐生球場がある。別に桐生までスポーツ観戦に行ったわけではなく、体育館のロビーにメジャーリーガー・青木宣親などの実物ユニフォームが展示されていると上毛新聞に出てたから見に行ったのだ。

桐生市民体育館 (2)
上毛新聞には青木のことがメインで書いてあったが、展示は「桐生市出身スポーツ選手実物ユニフォーム」とのことだ。

桐生市民体育館 (3)
メジャーリーガー・青木宣親のロイヤルズ時代のユニフォーム。奥さん(青木佐知)が桐生市出身ということで、その縁で寄贈を受けたらしい。奥さんは元テレ東のアナウンサー。(青木自身は宮崎県出身)

桐生市民体育館 (4)
故松田直樹選手の日本代表ユニフォーム。前橋育英高から横浜マリノスに入団し、アトランタ五輪、日韓共催W杯では日本代表として活躍した。平成23年(2011年)練習中に倒れ、34歳の若さでこの世を去った。

桐生市民体育館 (5)
元日ハム、阪神の正田樹と元楽天の一場靖弘のユニフォーム。2人ともプロとしては大成とはいかなかったが、そこそこ活躍した。どちらも桐生一高を甲子園に導き、正田はエースとして群馬の高校としては初の全国制覇を成し遂げている。

桐生市民体育館 (6)
桐生市民体育館 (7)
この4名の中で、知っていたのは戸部浩のみ。戸部は桐生一高から日大、社会人野球を経てロッテに入団した投手。展示ユニフォームは楽天時代のもの。

他の3名は分からなかったので調べてみた。
中山慎也は桐生南高から城西大を経てオリックスに入団した投手。
小林正人は桐生一高から東海大を経て中日に入団した投手。
松井雅人は桐生一高から上武大を経て中日に入団した捕手。

でも、小林は嬬恋村出身、松井は前橋市(粕川村)出身だった。まあ、高校が桐生一高だから準桐生市民ということか? 野球に関して言えば、やっぱり桐生一高出身者が多いね。

その他、アテネ五輪マラソン代表・諏訪利成のランニングなどもあった。


桐生市天神町3丁目の桂林山久昌寺。

久昌寺 (1)
久昌寺は寛永年間(1624~44年)に鳳仙寺第八世・応山牛喚大和尚の開山と伝わる。

久昌寺 (2)
桐生七福神第五番札所・恵比須神を祀る。

久昌寺 (3)
墓地の中にある井戸跡。
梅原館が桐生氏居館であった頃、この浅井戸から良質の水が湧き出ていたため、館のお茶の水として使用されていたという。
(梅原館は「桐生市梅田町・梅原館跡」参照)

井戸跡前には「古跡桐生大炊介茶寮之井戸」という石柱が建っている。桐生大炊介は一般的には桐生助綱だと言われるが、桐生氏の出自や系譜は諸説あるので、よく分かっていない。

久昌寺 (4)
久昌寺 (5)
墓地東側にある旧六地蔵。なんで旧かというと、本堂前に新しい六地蔵があるため。この旧六地蔵の右端の地蔵像は「金八地蔵」と呼ばれている。

この金八地蔵には天保14年(1843年)に桐生を襲った「荒神の大火」にまつわる伝説がある。荒神の大火の失火者として金八という者が処刑されたが、実は金八は無実だったことが分かり、地域の人が地蔵像を建立し祀った。

金八地蔵は当初梅原館跡に祀られており、桐生川の氾濫を自らを赤くして知らせたといわれる。しかし大正時代に台座が盗まれ(後に出てきた)たのを機に久昌寺に遷されている。

しかしそれ以降、金八地蔵は桐生川の氾濫を知らせてくれなくなったという。


桐生市梅田町の梅原館跡。

梅原館址 (1)
梅原館跡は平安時代に桐生を所領した足利俊綱の家臣である桐生六郎の居館であったといわれている。室町期になり桐生国綱によって桧杓山城が築かれ、領主の居住地が城山の麓である居館に移ったことによって、この梅原館跡は下屋敷となった。

足利俊綱は藤原秀郷(俵藤太)の後裔で、源氏の足利氏ではない。(藤姓足利氏とも呼ばれる)

また、桐生氏の出自には諸説あり、「桐生市史」では桐生六郎の系譜を「前桐生氏」、桐生国綱の系譜を「後桐生氏」と呼んでいる。(オレはよく分からないので、桐生市HPに従うよ。)

梅原館址 (2)
現在は薬師堂が建っている。

梅原館址 (3)
梅原館址 (4)
現在でも西・南側の一部と北側には土塁が残され、その外側には堀跡の痕跡が認められる。

発掘調査の結果、館跡内からは多数の柱穴跡が発見され、継続的に建物があったことが明らかとなり、前桐生氏の時期である12世紀代の遺物も認められている。

堀跡の調査では、堀は14世紀~16世紀にかけて存在していたことが確認され、桧杓山城が築城された後桐生氏の時代になっても、城館として使用されていたことが裏付けられている。


桐生市境野町の瑞龍山祥雲寺。

祥雲寺 (1)
祥雲寺は慶長3年(1598年)高橋丹波守橘英元の開基。英元は丹波国から下向し由良国繁に仕え、由良氏四天王のひとりに称される活躍を見せたが、由良氏が常陸国牛久に転封になった際、この地に土着している。

由良国繁は牛久転封時に石高が1/3になったので、多くの家臣が桐生に土着せざるを得なかった。四天王と言われた家臣も例外ではなかったということ。

祥雲寺 (2)
鐘楼が山門と本堂の中間に位置している。鐘楼はだいたい参道の脇にあるのが一般的なので、この伽藍配置は珍しい。本堂に参拝するのに梵鐘の下をくぐる鐘楼門としての役割を果たしている?

祥雲寺 (3)
祥雲寺 (4)
現在の本堂は寛成元年(1789年)の再建。外観が比較的きれいなので、改修はされていると思う。

祥雲寺 (5)
本堂裏にある開基・高橋丹波守橘英元の墓。

祥雲寺 (6)
丸橋彦三郎海軍少将の碑。碑の揮毫は海軍大将・鈴木貫太郎(後の首相)。丸橋少将は当地の出身で、日露戦役の日本海海戦で信濃丸副長として敵艦来襲をいち早く報告し、海戦を勝利に導くもとをつくった功で金鵄勲章を賜っている。


桐生市東町の円戒山光性寺。

光性寺 (1)
光性寺は石原石見守正時の開基。創建年は不明だが、境内に樹齢400年を超える松の大木が存在することから、江戸時代初期には創庵されていたと推測される。

光性寺 (2)
光性寺 (3)
昭和49年(1974年)改築の本堂鉄筋コンクリート造り。

光性寺・不動明王
寺宝である不動明王尊は平安朝末期のもので、円珍という僧の作。穏やかで優雅な親しみやすい風貌の中に憤怒を見せている。(写真は桐生市のHPから)

京都で作られたものだが、下野国(栃木県)出身の妙宏師が文化14年(1817年)に動座したとの寺伝がある。

この不動明王に願をかけると宝くじが当たるという「噂」がある。TVや雑誌でも紹介されていて、光性寺は一部の宝くじファンから「宝くじの総本山」と呼ばれている。

オレも「年末ジャンボで大当たりしますよぉ~にっ!」って、祈ってきた。ただ、小銭の持ち合わせが10円しかなく、お賽銭が少なかったのかもしれない。そのせいか、年末ジャンボは惨敗だった。


桐生市菱町の田澤山青枩林泉龍院。
山林号を有する古禅林。

泉龍院(1)
泉龍院(2)
泉龍院は応永24年(1417年)の創建で、開基は桐生出羽守。桐生出羽守が誰なのかはよく分からず。

泉龍院(3)
泉龍院(4)
上は中門のようになっている旧鐘楼堂。下が新しい鐘楼堂。

泉龍院(5)
泉龍院には薬師如来にまつわる逸話がある。薬師如来の真言により池の龍を封じ、霊力で疫病を治めたことから深く信仰され、厄除け・祈祷寺と知られている。

泉龍院(6)
本堂の前にあった厄落としくぐり門。簡単に言うと、この門を1度くぐって奥の薬壺石に触れると、お百度参りと同じ意味があるというもの。これは便利!

泉龍院(7)
四方竹。桐生市の天然記念物に指定されている純四稜形の茎を持った竹。写真では分かんないけど、実際に見ると確かに四角い。中国原産の竹らしいが、泉龍院にいつ移植されたかは不明。

明からの修行僧も来ていたことがあるらしいので、当時の僧が持参したのではないかと推察されている。

泉龍院(8)
中世にこの地を治めた細川内膳の屋敷門を移築したと伝えられる長屋門。2階建て武家造りとなっている。屋根の茅は今年葺き替えられている。細川内膳については、「細川内膳の墓 -文昌寺-」参照。

泉龍院(9)
山門手前にある下村昌伯の墓。
下村昌伯は医師で、安政5年(1858年)に当地で天然痘が流行した際、貧しい人には無料で種痘を行った名医として知られる。


桐生市菱町の瑞雲山文昌寺。

文昌寺 (1)
文昌寺 (2)
文昌寺 (3)
文昌寺は開山が鳳仙寺第八世・応山牛喚大和尚ということ以外は、開基や創建年も不明である。それは天保14年(1843年)に桐生市を襲った「荒神の大火」により一堂も残さず焼失し、古文書や記録などが残っていないため。

現在の伽藍は昭和48年(1973年)~昭和60年(1985年) にかけて建立されたもの。

文昌寺 (4)
鐘楼脇に縄文時代の物と伝えられる「石棒」がある。当然お寺ができるはるか前の時代だが、男性自身を表しているとの説もある。

文昌寺 (5)
文昌寺 (6)
地蔵堂は度重なる火災により焼失し、現在のお堂は再建されたものたが、石造りのお地蔵さんは当時の姿のままという。

文昌寺 (7)
隣接地には明治5年(1872年)に廃寺となった西善院の跡地があり、そこには西善院開基・細川内膳の墓がある。西善院跡地は文昌寺が合併管理をしている。

細川内膳と言うと一般的には細川忠興(細川ガラシャの旦那)の嫡男・忠隆(ただし廃嫡される)の孫に当たる忠孝が内膳を名乗り、その後代々の当主が内膳を名乗ったことからその家系を指す。

でも、この墓に眠る「細川内膳」とは時代が違う。調べた限りでは、足利氏から下菱村を拝領した細川氏の5代目で、天文13年(1544年)に桐生助綱に滅ぼされている。理由は所持していた名馬を「寄こせ」と言われ、「嫌だ」と言ったら合戦になったらしい。

まあ名馬の件は口実で、助綱は細川氏を滅ぼしにかかっていたというところか。ちなみに、桐生助綱は桐生氏全盛時代の当主である。


桐生市梅田町の鶴松山高園寺。

高園寺 (1)
高園寺 (2)
高園寺の創建は室町時代の応永年間(1394~1428年)。天文2年(1533年)に七堂伽藍が完成するが、その後幾度となく火災や水害に見舞われている。

山門は明治時代に倒壊してしまったが、昭和63年(1988年)再建されている。

高園寺 (3)
高園寺 (4)
本堂は昭和7年(1932年)に大改修が行われている(再建年代は分からなかった)。

高園寺 (5)
高園寺 (6)
本堂左手に小さな池があるが、「宇治川の先陣争い」で有名な名馬「池月」が育てられた池という伝承(伝説)がある。

「宇治川の戦い」は、永寿3年(1184年)の源範頼・義経軍と木曽義仲軍との間の合戦。この合戦で佐々木高綱と梶原景季が先陣を争い、矢が降りそそぐ宇治川を勇猛果敢に渡り勝利に貢献したというもの。佐々木高綱が乗っていたのが「池月」、梶原景季は「磨墨」。「池月」も「磨墨」も源頼朝から拝領している。先陣争は「池月」に乗った佐々木高綱が一歩先んじている。

ついでに、佐々木高綱と梶原景季は両者とも群馬県に多少の関係がある。佐々木高綱は兄・佐々木盛綱夫妻の墓との伝承がある五輪塔が安中市磯部の松岸寺にある。
(「伝佐々木盛綱夫妻の墓・磯明山松岸寺」参照)

梶原景季は梶原景時父子の墓との伝承がある五輪塔が前橋市富士見町の珊瑚寺にある。父(景時)子(景季・景高・景茂)を指す。
(「源頼朝の墓と梶原景時父子の墓・石井山珊瑚寺 その3」参照)

ついでに名馬の話で言うと、一ノ谷合戦(源平の戦い)などで熊谷直実とともに活躍した「権田栗毛」は旧倉渕村の産出との伝説がある。
(「伝・権田栗毛 終焉の地」参照)

さすが群馬県! 数々の伝承・伝説がある!


桐生市梅田町の梅松山渭雲寺。

渭雲寺 (1)
渭雲寺は天正元年(1573年)渡瀬繁詮(わたらせしげあき)の開基。

渡瀬繁詮は由良(横瀬)成繁の次男である。繁詮は北条氏に仕えていたが、やがて中央に上って羽柴秀吉の家臣となる。その後、秀吉の命で豊臣秀次の家老となるが、文禄4年(1595年)の秀次事件に連座し切腹させられている。

渭雲寺創建の天正元年(1573年)は、父・成繁が桐生氏を滅ぼした年なので、成繁とともに太田から桐生に移ってきたと考えられる。(太田金山城はは長兄・国繁が城主となっている。)

渭雲寺 (2)
渭雲寺 (3)
本堂は昭和47年(1972年)の再建。 なんか、お寺の本堂っぽくない、洒落た感じである。

渭雲寺 (4)
六地蔵も本堂脇の壁にはめ込まれている感じ。

渭雲寺 (5)
渭雲寺 (6)
小さいながらも手入れの行き届いた庭園の池。

由良成繁の次男が秀吉に仕え、しかも遠江国横須賀3万石の大名だったなんて、全く知らなかった。秀次事件に連座したせいか、嫡男は後を継げず農民になったという。


桐生市宮本町の大慈山光明寺。

桐生・光明寺 (1)
光明寺は天平宝字11年(739年)に行基がこの地に一宇を建立したのが始まりという。

行基が東大寺大仏造営の勧進のため桐生に来たときに、観音様が夢に現れ渡良瀬川のほとり、吾妻山景に囲まれた所聖地ありと告げたという。行基がその地を訪れると、あまりにも見事な霊地であることに大変喜び、さっそく一宇のお堂を建立した。

当時は水月庵と言い、光明寺となったのは寛永元年(1624年)。

桐生・光明寺 (2)
山門脇にはたくさんの庚申塚がある。「千庚申」と呼ばれている。とは言え、多分1000体はないと思う。200くらい?

桐生・光明寺 (3)
桐生・光明寺 (4)
現在の伽藍は、昭和44年(1969年)の竣工である。

桐生・光明寺 (5)
桐生・光明寺 (6)
観音堂には底の抜けたひしゃくがたくさん奉納されている。これは安産を祈る者が、軽く抜ける(生まれる)ようにと祈願したもの。

桐生・光明寺 (7)
光明寺は桐生七福神の第一番札所として弁財天を祀っている。桐生七福神は平成に入ってからできた新しい巡拝コース。

写真右の弁財天はなじみのある格好の石像だが、左も弁財天だという。室町時代に造立された「宝珠型仏塔」という珍しいもの。高さ86cm。

桐生・光明寺 (8)
以前行った桐生が岡遊園地がよく見えた。
(「桐生市宮本町・桐生が岡遊園地」参照)


桐生市横山町の松樹山栄昌寺。

栄昌寺 (1)
栄昌寺 (2)
栄昌寺 (3)
栄昌寺は寛永2年(1625年)天海の法弟・覚盛の創建と伝えられる。上野の寛永寺の様式にならって配されたといわれている弁天堂と、徳川家康を祀る権現堂がある。

栄昌寺 (4)
弁天堂。
弁天様の像としては、琵琶を持った二臂像がよく知られているが、ここに祀られているのは八臂像の弁天様。脇待として大黒天と毘沙門天を配し、さらに眷属として童子を15体も従えるという、ご利益満点の陣容となっている。

栄昌寺 (5)
栄昌寺 (6)
権現堂の扉両側に三つ葉葵の家紋がついている。

栄昌寺には、天海が着用したとされる燕尾帽と袈裟、徳川家康と天海が描かれた掛け軸が伝えられているらしい。

栄昌寺のHPを見ると、天海も1度は栄昌寺へ来たことがあると考えられると弱気に書いているが、それもそうだろう。日光街道が東海道に次いで整備され、桐生に寄る理由は全くないから。

ちなみに、天海来山の記録は残ってないようだ。


桐生市本町六丁目の田中山浄運寺。

浄運寺 (1)
浄運寺 (2)
浄運寺は、天文年間(1532~54年)玉念上人が広沢村後谷付近に営んだ草庵を起源とし、永禄元年(1558年)に哀愍寺を創建した。 1580年頃、広沢から渡良瀬川対岸の新宿村へ移転、寺名を浄運寺と改めている。慶長10年(1605年)現在地に移転している。

浄運寺 (3)
本堂は寛永元年(1624年)の建立。水害の被害を受け宝暦3年(1753年)に再建。六室構成の方丈系本堂である。正面一間半、両側面及び背面に一間分の広縁を回らす。

屋根は当初茅茸であり、天保6年(1835年)と明治19年(1886年)に茸替えの記録が残っている。明治期の葺き替えの際、茅葺から現在の桟瓦茸になっている。

開山の玉念上人は、天正7年(1579年)安土城下の浄厳院で行われた安土宗論(安土問答)の浄土宗側の首座である。

安土宗論(安土問答)は織田信長の命により、浄土宗の玉念、貞安などと法華宗の日珖・日諦・日淵などの間で行われ、浄土宗側が勝利している。敗れた法華宗は、今後は他宗を誹謗しないとの詫び証文を出させられた。(発端は玉念が安土城下で説法中に、法華宗から議論をふっかけられたことによる。法華宗から言えば折伏。)

安土宗論に関しては、信長の法華宗への陰謀説だとかもあるけど、その後の法華宗側の動き(特に反発せず一揆などを起こさず)をみると、陰謀説は無理がある(と思う)。

玉念上人は信長から直々に扇を賜っている。

浄運寺には安土宗論の記録が残っている。


桐生市新里町鶴ヶ谷のぐんま昆虫の森。

群馬昆虫の森 (1)
ぐんま昆虫の森は平成17年(2005年)のオープン。展示や観察会などの体験を通して、群馬の里山を再現したフィールドを楽しむ趣向。身近な自然の大切さ、素晴らしさ、野草や昆虫などの生き物の不思議さや生命の大切さに気づいたり、驚いたりできる。

フィールドは広く、なんと約45ha。その中に雑木林、小川、田んぼ、畑などのゾーンがある。まあ、とは言え、メインは昆虫観察館。

群馬昆虫の森 (2)
群馬昆虫の森 (3)
ドーム型の昆虫観察館は3階建てで、いろんな昆虫が展示されていた。

群馬昆虫の森 (4)
代表でカブトムシ。ただ、他の昆虫もみんなケース内で、ちょっと残念。まあ、広いフィールド(外)で実物を観察する趣向なのかなと。

群馬昆虫の森 (5)
群馬昆虫の森 (6)
群馬昆虫の森 (7)
昆虫観察館内の昆虫ふれあい温室。チョウをはじめとする昆虫、植物など、群馬県では見られない南方系の生物を見ることができる。

とは言え、チョウしか気づかなかった。チョウの種類は分かんない。入り口に資料があったので、見てから入った方がいいみたい。

ここでは、虫採り網と虫かごが自由に借りられ、これを持ってフィールドで実際に虫採りをすることができる。但し、採った昆虫は持ち帰れない。その場に放すのがルール。

45haのフィールドをむやみに歩いても、好みの昆虫が見つかる保証はないので、各種観察会や里山歩きなどのプログラムに参加するのが無難かな。

桐生市うちわ
最後に、昆虫の森でもらったうちわ。桐生市の名所・名産・名物が載っている。八木節踊り、桐生が丘動物園・遊園地、ソースかつ丼など。その中で「ひもかわ」ってうどんみたいなのは知らない。

調べてみたら幅の広い平麺(うどん)で、ソースかつ丼と並ぶ桐生地域の郷土料理らしい。今度行ったら食べてこよう!


桐生市宮本町の桐生が岡遊園地。
前回の桐生が岡動物園の隣。

桐生が丘遊園地 (1)
桐生が丘遊園地 (2)
動物園同様に入園料は無料。もちろん中で遊具に乗るには個別に料金がかかる。でも、大型遊具が大人200円、子ども100円、小型乗り物50円とかなり安い。

いくつかアトラクションを紹介。

桐生が丘遊園地 (3)
桐生が丘遊園地 (4)
桐生が丘遊園地 (5)
桐生が丘遊園地 (6)
桐生が丘遊園地 (7)
上から、アドベンチャーシップ、スカイヘリ、観覧車、メリーゴーランド、サイクルモノレール。

園内のゲームコーナーのゲームは50円。安っ!

桐生が丘遊園地 (8)
入り口広場には、SL(C12)が展示されていた。

同じ広場に、観覧車のゴンドラがひとつ置いてあった。何っ?って思ったんだけど、写真は撮ってこなかった。帰ってきてから調べたら、「人のセックスを笑うな」という映画で、今や有名な松山ケンイチと蒼井優が乗ったゴンドラだって。

映画は2008年撮影で、観覧車は2010年にリニューアルされ、古いのは撤去されたけど、撮影に使われたゴンドラだけ記念に展示してあるらしい。

桐生が岡遊園地のHPで見られるよ。
 桐生が岡遊園地


桐生市宮本町の桐生が岡動物園。

桐生が丘動物園 (1)
桐生が岡動物園は、1953年(昭和28年)の開園で、今年開園60年。入場料はなんと無料。桐生市が運営しており、県内唯一の公立動物園。

オレの定義では、ライオン、キリン、ゾウがいることが動物園としての必須事項(けっこう緩い定義)。さて、どんなもんかな?

おっ!いましたいました。

桐生が丘動物園 (2)
桐生が丘動物園 (3)
ライオンは雄雌各1頭ずつ。この日はちょっと暑かったので、ライオンも日陰から動かず、写真撮りづらかったけど。ちなみに名前は雄がユウ、雌がアイ。

桐生が丘動物園 (4)
ゾウのイズミ。推定57歳という高齢。「どうぶつ総選挙」で、昨年、今年と2連覇!やっぱりゾウは人気者だよね。

桐生が丘動物園 (5)
キリンは3頭いた。雄のコタロウ、雌のキサラギとキリカ。写真がどれかは分からない。今年の「どうぶつ総選挙」2位!

桐生が丘動物園 (6)
桐生が丘動物園 (7)
桐生が丘動物園 (8)
桐生が丘動物園 (9)
桐生が丘動物園 (10)
桐生が丘動物園 (11)
桐生が丘動物園 (12)
桐生が丘動物園 (13)
ペンギン、ニホンザル、クモザル、シカ、クジャク、七面鳥、リスザル、マントヒヒ。

桐生が丘動物園 (14)
園内には、小さい水族館もあった。

桐生が丘動物園 (15)
桐生が丘動物園 (16)
目を見張るようなものはいなかったが、定番のワニとピラニア。

無料なんていうと、たいした動物もいない小さな動物園かと思ったが、園内は確かに広くはないけど、意外に立派な動物園だった。なんと111種類もの動物が飼育されているというから驚きだ。


桐生市川内町の三島神社。
雲祥寺のすぐ隣。

三嶋神社 (1)
三嶋神社 (2)
由緒は不詳みたいだけど、元は淡島神社といい大正2年(1913年)に近隣の神社・社を合祀し三島神社となった。

三嶋神社 (3)
三嶋神社 (4)
そんなに大きな神社ではないが、緑が多く良い雰囲気である。

元の淡島神社のご祭神は小名毘古那神(すくなひこなのかみ)で、女性の病を治す功がある。

小名毘古那神以外に、大山津見神(大山祇神社)、品陀和気神(八幡宮)、大物主神(三輪神社)、素戔嗚神(八坂神社)、火産霊神(愛宕神社)、宇迦魂神(稲荷神社)、菅原道真(天満宮)などがご祭神とあったので、合祀により有名な祭神が集まったみたいだね。

( )内は一般的な神社名で、全ての同名神社がこのご祭神とういう訳ではないので、念のため。


桐生市川内町の仁田山雲祥寺。

雲祥寺 (1)
弘治2年(1556年)大拙奝藝和尚の開山と伝わる。弘治2年というと、美濃の斎藤道三が死去した年である。

雲祥寺 (2)
雲祥寺 (3)
現在の本堂は平成5年(1993年)の再建。間口8間半、奥行7間の本瓦葺入母屋造り。本尊は釈迦如来で、文殊菩薩・普賢菩薩が脇侍として祀られている。

雲祥寺 (4)
境内に七福神が奉安されている。雲祥寺の住所が桐生市川内町3丁目729番地で、729が「しちふく」と読めることから、新本堂落慶寺に奉安したという。語呂合わせなのね。

七福神は仁王般若経の「七難即滅七福即生」の一節から考案されたもので、七つの災難に襲われたとき、この御経の功徳により災難はたちまち消滅し、七つの福徳が生じるというもの。

七神を別のお寺で祀って、それを順に廻る七福神めぐりができるようになっている地域もあるけど、一か所に全神あるのは珍しい。


桐生市川内町の瑞雲山東禅寺。

東禅寺 (1)
東禅寺 (2)
東禅寺 (3)
世良田の長楽寺で法を受けた南海宝州が、正中2年(1325年)に開創。建武3年(1336年)には新田義貞が出兵に際し、一族の戦勝を祈念して東禅寺へ毘沙門天像を寄進し、寺領を奉納したという。

その後、戦国時代戦火に焼かれたが、伯慶公和尚が天正元年(1573年)に再興、寛永8年(1631年)現在地に移っている。

東禅寺 (4)
宝永8年(1711年)梵鐘を鋳造し鐘楼を建立したが、梵鐘は第2次大戦時に応召され、現在の梵鐘は昭和48(1973年)年に再鋳奉納されたものである。

東禅寺 (5)
東禅寺 (6)
東禅寺には「建武の碑」という角塔がある。凝灰宕製で高さ87cm、底部は一辺28cm。四面に「南無阿弥陀仏」、左面下部に「建武五年七月三日」と陰刻されている。

義貞戦死は建武5年(1338年)7月2日なので、銘文の日にちは1日違い。そのため、この角塔は義貞の供養塔と思われる。

桐生市川内町は義貞の本拠地・新田荘とはけっこう離れているが、この辺は仁田山紬の発祥の地。義貞の軍旗は仁田山で織られた絹布を使っており、義貞とつながりがある。

関連
 「桐生市川内町・白滝神社
 「新田義貞「中黒古旗」を復元・桐生織物記念館


桐生市川内町の慈雲山千手寺。

千手寺 (1)
寛元年間(1243~46年)に、鎌倉幕府の執権・北条時頼が智明上人の庵に千手観音を送ったのが起源という。しかも千手観音の作者は運慶だという。

智明上人は元々は園田成家という武士だったが、京都に巡回警護に上がった際、法然上人に接し仏の魅力にひかれ弟子となり、智明と名乗った。

関連
 「桐生市川内町・萬松山崇禅寺
 「太田市藪塚町・牛之塔

ただ本尊の千手観音は、戦国末期から江戸初期の作風を伝えており、時代が合わない。なので、現在の本尊が安置され、一ケ寺の形をとったのは、戦国末期から江戸初期と推測される。

千手寺じたいも、伝承は伝説と考えているようで、開基を寛永年間(1624~45年)としている。

千手寺 (2)
千手寺 (3)
千手寺には桐生市の重文に指定されている石幢(せきどう)がある。材質は安山宕で、相輪・屋蓋・龕部・中台・幢身・基礎からなり、ほぼ完全な状態で保存されている。総高164cm。

龕部は七角で、一面に阿弥陀仏を配し、他の面には六地蔵が彫りだされている。幢身は上下二段につなぎ合わされ、その上段に天文拾七年戊申八月と銘分が陰刻されている。天文17年は1548年。


桐生市新里町新川の新川山龍真寺。

龍真寺 (1)
龍真寺 (2)
龍真寺 (3)
元和2年(1616年)輝翁善陽大和尚の開山。本堂には本尊の聖観世音、延命地蔵、開運福徳の甲きのえね子大黒天などを安置。

龍真寺 (4)
中門の右手にある鶏亀(けいぎ)地蔵は、安山岩製の坐像で高さ66cm。基壇と基礎を含めると248cmある。顔は丸く、眉は三日月形に陰刻で現し、眼は軽く閉じており、左手に宝珠をもち、右手には錫杖を携えている。地獄界に落ち最大の苦難を受ける人々を救ってくれるお地蔵さん。

天明元年(1781年)造立の刻銘がある。

龍真寺 (5)
龍真寺は別名ぼたん寺ともいわれ、約2500株の色とりどりのぼたんが植えられている「ぼたん園」がある。

見ごろは5月のゴールデンウィークあたりなので、行ったときはもう季節はずれ。紫陽花が咲いていたので、代替えということで。

ぼたんは檀信徒と一般の参拝客に「花浄土の世界」を楽しんでもらうことを願って、昭和63年(1988年)頃から植えられたもの。

ぼたん以外にも、しだれ桜やツツジなどの花木、野草などを植栽し、花が絶えないようにしているという。


桐生市新里町関の磨崖仏。

関の磨崖仏 (1)
赤城山の泥流によって運ぱれたと言う凝灰質の集塊岩が、高さ128cm、幅、奥行き各80cmの舟形に彫り込まれており、その奥壁に三尊仏が刻まれている。

関の磨崖仏 (2)
関の磨崖仏 (3)
三尊仏は阿弥陀如来を中心に、脇侍として右に観音菩薩、左に瀬至菩薩が半肉掘りされている。大きさは阿弥陀如来が50cm、観音菩薩と勢至菩薩は30cm程度。観音菩薩と勢至菩薩は、かなり風化が進んでいる。造営は鎌倉時代と推定されている。

左手に鏑木川が流れており、ここまで赤城山の噴火による泥流が来たとということ。

新里町(旧新里村)には、大梨子の磨崖仏、高縄の磨崖仏もあり、機会があればもう一度行ってみようかな。


桐生市新里町関の三谷山瀧興寺。

瀧興寺 (1)
瀧興寺は元和3年(1617年)尊光和尚が開山したと伝わる。

瀧興寺 (2)
瀧興寺 (3)
本堂は火災により焼失しており、開山当時の記録などは残っていない。

瀧興寺 (4)
瀧興寺 (5)
山門手前左側に虚空蔵菩薩像がある。安山岩製で約90cm。基壇と基礎石を合わせると約2.7m。
安永5年(1776年)の建立。願主は北爪藤七で、先祖の供養と家運の繁宋を願ったもの。

瀧興寺前に「七十六丁」と刻まれた丁目石があった(写真はない)。何のことか分からなかったんだけど、帰ってきてから調べてみたら、滝沢不動尊までの距離を示す石だった。

瀧興寺と関の磨崖仏から滝沢不動尊までの道沿いに76個あったらしい。(現在は、ほとんど残ってない。)

後で載せる関の磨崖仏の所にもあったので(何丁目か見なかった)、何かと思ったんだよね。

ちなみに滝沢不動尊ってのは、国定忠治が隠れていた「忠治の岩屋」があるところ。


桐生市新里町武井の能城山善龍寺。

善龍寺 (1)
善龍寺 (2)
善龍寺 (3)
善龍寺は寛永年間(1624年~45年)の開山とされる。

徳川将軍家の菩提寺であった上野の寛永寺の住職・天海僧正は、草津や伊香保への往来の時に、善昌寺や善龍寺に立ち寄ったといわれる。その縁からか、山門は寛永寺の裏門を移築したものと伝えられている。(善昌寺は「伝新田義貞の首塚 -善昌寺-」参照。)

善龍寺 (4)
山門前にある宝篋印塔は、廷享2年(1745年)に第3世慶寛和尚が大乗妙典100余部を読誦し、供養のために塔を建て経典を収めたと伝えられている。

山門と宝篋印塔は桐生市(旧新里村)の重要文化財に指定されている。

ここに寄った1番の理由は、「龍門の滝」というのがあると聞いたから。寺域左手に沢が流れており、心地良い水の音が聞こえたので、期待度もアップ。沢の方に降りて行ってみると・・・。

善龍寺 (5)
そこには用水路から水を引っ張ったような人工の滝があった。ありゃ、イメージと大きく違っていた。(横を流れている沢は、何の関係もなかった。)


桐生市永楽町の桐生織物記念館。

織物記念館 (1)
新田義貞が鎌倉攻めの際に掲げた軍旗「中黒古旗」が復元され、展示されていると聞いたので再訪した。以前行ったのは、上毛かるた紀行「桐生は日本の機どころ」の1箇所として。

織物記念館 (2)
織物記念館 (3)
軍旗は縦310cm、横78cm。中央付近に新田氏の紋「大中黒」を示す太い帯が入っている。

義貞の軍旗は、元弘3年(1333年)鎌倉攻めで掲げられ、現在は金山の新田神社に伝わっている。生地は仁田山で織られた絹布を使ったとされる。

織物記念館 (4)
織物記念館 (5)
織物記念館 (6)
義貞の功績をまとめた資料も展示されていた。

義貞は元弘3年(1333年)生品神社で挙兵。鎌倉に攻め込む際に、太刀を稲村ケ崎に投げ入れ龍神に祈ると、塩が引いた逸話は有名である。義貞は挙兵からわずか14日で鎌倉を攻め落としている。

織物記念館 (7)
その後足利尊氏との争いで越前に落ち延び、建武5年/延元3年(1338年)灯明寺畷で不慮の死を遂げる。

来年(2014年)が仁田山の絹を朝廷に献上してから1300年の節目に当たることから、桐生織物協同組合が「織都千三百年企画」として、県繊維工業試験所の協力を得て製作・復元した。

*軍旗の展示は8月11日まで。


近代化遺産とは、江戸時代末期から昭和20年代(終戦時期)までの間に近代手法によって造られた建造物のことをいう。

今回はノコギリ屋根工場群を3つ紹介。

桐生市東久方町の旧金谷レース工業。
旧金谷レース工業 (1)
旧金谷レース工業 (2)
金谷レース工業のノコギリ屋根工場は、大正8年(1919年)の建築。外壁のレンガは日本煉瓦製造社製である。建築当初のノコギリ屋根は8連であったが、現在は4連となっている。レンガ壁をもつノコギリ屋根工場としては桐生市で唯一の現存建造物である。ノコギリ屋根工場は平成20年(2008年)に改装され、カフェになっている。

桐生市東久方町の旧斎憲テキスタイル工場。
旧斎憲テキスタイル工場 (1)
旧斎憲テキスタイル工場 (2)
斎憲テキスタイル工場は昭和2年(1927年)に建築された大谷石造りの工場。当初は3連だったが増築されて5連となった。現在は酒屋さんのワインセラーとなっている。

桐生市東久方町の旧住善織物工場。
旧住善織物
住善織物工場は大正11年(1922年)に建築された鉄筋コンクリート造りの工場。桐生市に残る唯一の鉄筋コンクリート造りのノコギリ屋根である。現在はアトリエとして利用されている。

桐生市は戦災にあわなかったことから、現在でも建造物をはじめとする多くの近代化遺産が残っている。

そう言えば、以前行った広沢町の「桐生自動車博物館」もノコギリ屋根工場だね(旧飯塚織物工場)。(「桐生市広沢町・桐生自動車博物館」参照)

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