上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 桐生市


桐生市梅田町の猿澤山鷹林寺。

鷹林寺 (1)
鷹林寺 (2)
鷹林寺は牛久(茨城県)金龍寺・宝山宗珍の隠居寺として開かれた桂林庵が始まりと伝わる。元和元年(1615年)に鷹林寺と改称したという。金龍寺が牛久へ移ったのは由良氏の転封時なので、天正18年(1590年)のこと。

鷹林寺 (3)
鷹林寺 (4)
鷹林寺 (5)
山門は享保17年(1732年)の建立で、親柱頭貫に施主や大工の棟梁などの名が刻まれている。一部は近年の修理により取り替えられているが、礎盤、柱の粽、台輪、詰組といった細部の要素に、当時の禅宗様式を伝えている。

鷹林寺 (6)
火災により本堂などが焼失したが、火災から焼け残った客殿を本堂としている。客殿の建立は万治元年(1658年)とされる。現在も木枠にガラス戸だ。

鷹林寺 (7)
鷹林寺 (8)
縁結び、子授け、安産、子育てに御利益のある観音菩薩を祀る観音堂。北向きなので、北向き観音と称されている。観音菩薩坐像には享保7年(1722年)の銘がある。観音堂は昭和55年(1980年)の建立。毎年9月中旬に安産子宝観音祭が行われる。

鷹林寺 (9)
観音堂の横にはお産婆さんの石像がある。謂われは分からないが、安産の御利益がありそうだ。


桐生市相生町の如来山報身寺。

報身寺 (1)
報身寺 (2)
報身寺は弘治元年(1555年)桜木少将報身坊営諦の開基と伝わる。

報身寺 (3)
山門は鐘楼門になっており、平成6年(1994年)の建立。橦木が両側に付いている。

報身寺 (4)
報身寺 (5)
現在の本堂は昭和5年(1930年)の再建。

報身寺 (6)
三界萬霊供養塔。

当地は明治初年まで「如来堂村」といった。法然に師事した智明上人が京の都から運んできた阿弥陀如来像を、一時期当地の如来堂に安置したのが由来。報身寺の山号である如来山は、本尊が阿弥陀如来であることもあるが、如来堂村から来ているのではと思う。

ちなみに、明治22年(1889年)に山田郡相生村大字如来堂となり、昭和29年(1954年)に桐生市相生町1丁目となり、如来堂の名は消えてしまった。

関連
 「桐生市川内町・萬松山崇禅寺
 「太田市藪塚町・牛之塔


桐生市梅田町の大慈山碧雲寺。

碧雲寺 (1)
碧雲寺 (2)
碧雲寺は浅野内匠頭の孫・道観の守り本尊である馬頭観音を安置した月桂庵が始まりと伝わる。梅田村大字二渡の戦場にあったが、後に安蘇郡飛駒村に移転(安蘇郡は栃木県南西部にあった郡)。

慶長2年(1597年)栃木の本光寺10世・久山舜長が大慈山碧雲寺とした。その後衰退していたが、寛永4年(1627年)徳厳覚道により本堂などを再建し中興された。

昭和43年(1968年)、安蘇郡飛駒村の一部が栃木県から群馬県に編入(県境変更)、昭和55年(1980年)桐生川ダムの建設に伴い現在地に移転している。

碧雲寺 (3)
本堂の掲げられた大草鞋(約2m)。平成6年(1994年)の奉納。

碧雲寺 (4)
碧雲寺 (5)
本堂前の道路傍の石仏類。

碧雲寺 (6)
碧雲寺 (7)
同じく、不動明王像。桐生川ダム建設記念 昭和56年とある。写真左に書かれている文字は読めない。

碧雲寺には、浅野家の守り本尊といわれる馬頭観音が現在も寺宝として残っている。野暮なことを言うが、浅野内匠頭の孫って? 養子の大学長広の子? どうやっても年代が合わない。内匠頭長矩の切腹は元禄14年(1701年)、長広自身の没年は享保19年(1734年)。

浅野家の守り本尊が本当としても、碧雲寺になってから祀られたと考えた方がよさそうだ。


桐生市新宿の韋提山定善寺その2。
前回訪問した定善寺(「桐生市新宿町・韋提山定善寺」)の境内には、いろいろな碑が建っているので、分かる範囲内で紹介。

横山菊涯の歌碑
横山菊涯の歌碑。「まるう出て 障るものなし 海の月」
菊涯は名を嘉兵衛といい、桐生織物近代化の礎を築き桐生織物の名声を高めた。実業家以外にも文人・茶華道にも秀でていた。

福田笠野の歌碑
福田笠野の歌碑。「一羽ツツ 霞に入るや 夕鳥」
福田以外に木三堂とも号したので、碑の上部には木三堂と刻まれている。

岸豊湖の歌碑
岸豊湖の歌碑。「味はうて 鳥の声きく 日永かな」

鳳岡堂如淵の墓碑
儒学者・鳳岡堂如淵の墓碑。

笠原吉郎の碑
笠原吉郎の碑。天保11年(1840念)に紋罫引器を発明するなど、桐生織物発展に大きな役割を果たした。

横山菊涯の異母兄・見左(けんさ)の碑もあるようだが、見つからなかった(と言うか分からなかった)。


桐生市新宿町の韋提山定善寺。

定善寺 (1)
定善寺 (2)
定善寺は寛永2年(1625年)桑誉了的上人の創建。桑誉了的上人は東京・増上寺の住職(現法主)も務めた高僧。

定善寺 (3)
山門前には呑龍上人像永代安置の碑がある。明治25年(1892年)に大田・大光院の呑龍さんを祀るようになり、定善寺は「呑龍さま」とも呼ばれる。本堂には呑龍さんの像と位牌が安置されている。

定善寺 (4)
定善寺 (5)
江戸末に火災により伽藍は焼失。現在の本堂は嘉永2年(1849年)に再建されている。

定善寺 (6)
定善寺 (7)
境内の不動堂。天井から見つかった棟札によると、元治2年(1865年)に一乗院宝蔵寺に建立されたものと判明した。宝蔵寺(廃寺)から定善寺に移されたようだ。

定善寺 (8)
鐘楼。

定善寺 (9)
高山彦九郎の長男・儀助の墓。義介、義助とも。また3男とも言われる。桐生市の常見家に婿入り、孫の石九郎に高山家を再興させる。安政5年(1858年)没。

定善寺 (10)
定善寺 (11)
大関・秀ノ山(9代横綱)の墓とその弟子・秀の森の墓。なぜ定善寺に秀ノ山の墓があるのか不明だが、かつては墓参する相撲取りも多かったという。ちなみに、現在秀ノ山という名は年寄り名跡として代々受け継がれている。
*番付最高が大関の時代なので、横綱は称号。

定善寺 (12)
カスリーン台風による渡良瀬川・桐生川の水害犠牲者供養碑。昭和22年(1947年)9月に大きな被害をもたらしたカスリーン台風。関東・東北を中心に死者1000名以上を出したが、群馬県でも592人が犠牲になっている。

ところで、定善寺には桑誉了的上人が朝廷より下賜された金で織られた袈裟が寺宝としてあったといわれる。しかし江戸末の火災により行方不明(多分焼失)となった。存在自体が不詳なところもあるが、事実ならなんと惜しいことか。


桐生市境野町の諸願山成就院。

成就院 (1)
成就院は寛文年間(1661~73年)法印俊應の開山。数度に渡る火災により、本堂を始め諸堂、古文書等をすべて消失したため詳細は不明。

成就院 (2)
成就院 (3)
明治初年の火災後、仮本堂でしのいできたが、平成2年(1990年)に新本堂を建立。本堂内の天井は日本で初となる桐生織による花・樹木の格子天井となっているという。

成就院 (4)
成就院 (5)
境内の六地蔵、庚申塔類。

成就院 (6)
参道脇の木(樹類は分からない)の幹の曲がり具合が面白い。

明治初年の火災(焼失)の影響から、諸堂などは再建途上なのかもしれない。


桐生市相生町の無量山正覚寺。

正覚寺 (1)
正覚寺は元和2年(1616年)涼念上人の開山といわれる。涼念上人は太田金山の大光院を開山した呑龍上人の門下。そのため、涼念上人も子弟の養育に力を入れていた。

正覚寺 (2)
正覚寺 (3)
現在の本堂は昭和57年(1982年)の建立。ご本尊の阿弥陀如来を祀る。

正覚寺 (4)
境内の六地蔵は一石内に彫られており、どちらかと言うとかわいい系だが、きちんとお地蔵さんが彫り分けられている。まあ、当然と言えば当然だけど。

正覚寺 (5)
墓地入り口の宝篋印塔や石仏。

正覚寺 (6)
参道脇の二十三夜塔と青面金剛塔。やっぱり東毛は二十三夜塔が多い(西毛は二十二夜塔の方が多い)。

余談的な話だが、正覚寺9世・念徹上人は西久方町の青蓮寺に前立仏(阿弥陀如来像)を贈っている。当時(享保年間:1716~36年)の青蓮寺は、表現は悪いが貧乏寺で本尊(秘仏)の前立仏がなく、檀家の方々が嘆いていると聞き及び、自身の母親の供養を兼ね前立仏を贈ったもの。青蓮寺では現在も念徹上人を「大恩人」として位牌を祀っている。

念徹上人や前立仏の逸話はまったく出てこないが、青蓮寺の記事。
 「桐生市西久方町・仏守山青蓮寺


桐生市錦町の雷電神社。

桐生雷電神社 (1)
桐生雷電神社 (2)
桐生雷電神社は永禄2年(1559年)に荒戸5ヶ村の村民が、雷除け、雨乞い、五穀豊穣の神として雷電山に祀ったのが始まりという。その後、常見隠岐守が当地に屋敷を構えた際に、屋敷神様として天和2年(1682年)に勧請した。

桐生雷電神社 (3)
桐生雷電神社 (4)
桐生雷電神社 (5)
社殿は昭和59年(1984年)に改修されている。

桐生雷電神社 (6)
瑞鳳殿との扁額が掛かった建物。雨戸が3方開くようになっているので神楽殿かな。

ところで、現在地に勧請したのは常見隠岐守で天和2年(1682年)と案内板にあった。以前に最勝寺の記事で書いたけど、常見隠岐守が最勝寺を開基したのは元亀2年(1571年)とされる。(「桐生市錦町・眼亀山最勝寺」参照)

常見隠岐守が100年以上生きていないと両者の辻褄が合わない。常見家が代々隠岐守を受任している? どこかに事実誤認があるかもしれないので、その場合はご了承を。


桐生市新宿町の八幡宮。

新宿八幡宮 (1)
新宿八幡宮 (2)
新宿八幡宮は、桐生氏家臣・新居豊前守宗俊が天文2年(1533年)に男山八幡宮の分霊を勧請し元宿に創建。元亀2年(1571年)に大洪水により元宿が流出。新たに開拓した新宿に遷座している。男山八幡宮は、京都の石清水八幡宮の旧称。

新宿八幡宮 (3)
新宿八幡宮 (4)
新宿八幡宮 (5)
社殿は文政6年(1823年)新宿大火により焼失、その直後に再建されたいう。最近では昭和43年(1968年)に改修されている。

新宿八幡宮 (6)
新宿八幡宮 (7)
新宿八幡宮 (8)
本殿には彩色された彫刻が施されている。彫刻というか造形物かな。

織殿神社 (1)
織殿神社 (2)
織殿神社 (3)
境内社の織殿神社。詳細は分からないが、ご祭神は織物の神である栲幡千千姫命。名前からして織物の街・桐生にふさわしい神社である。

ところで、かつて新宿八幡宮の境内には大きな美しい池と水神宮があったいう。しかし、現在はその形跡は見られず、また町内にも池はまったく無い。それは「池を作ってはならない」という禁忌伝説があるから。

遙か昔、応神天皇が当地を訪れた際、池にはまり危うい思いをしたという。天皇は無事だったが、愛馬は骨折し天皇を乗せることができなくなってしまった。

後世、新宿では池を作ると病人やケガ人が出るということが続出。「八幡様(応神天皇)が昔の出来事を忌まわしく思っている」と考えた氏子衆は、八幡宮の池も含めてすべての池を埋め立てた。それ以来、池を作ってはならない風習が生まれ、まだ残っているという。


桐生市錦町の眼亀山最勝寺。

最勝寺 (1)
最勝寺は元亀2年(1571年)常見隠岐守の開基と伝わる。常見隠岐守のことはよく分からないが、桐生氏の家臣らしい。

最勝寺 (2)
最勝寺 (3)
本堂は昭和57年(1982年)の新築。本尊の薬師瑠璃光如来像を祀る。この薬師瑠璃光如来像は、宝暦年間(1751~64年)に勢多郡・山田郡の有志により奉納されたといわれている。

最勝寺 (4)
最勝寺 (5)
最勝寺 (6)
街中のお寺のため現在の境内は非常に狭い。六地蔵、大日如来像、庚申塔などがあるが、これでいっぱいという感じ。

最勝寺は数度の火災に遭い、古記史料が焼失しているため往時の詳細は不明なことが多いが、江戸時代まではこんもりとした緑繋る境内に、本堂・観音堂などいくつかの堂宇が並んでいたとされる。

明治に入ると、廃仏毀釈や市街地整備により境内が削られ、また新道が境内中央を通ることになり、現在のような手狭な状態となってしまったという。


桐生市東2丁目の青龍山養泉寺。

養泉寺 (1)
養泉寺 (2)
養泉寺は由良氏家臣・金谷因幡守が領内に建てた庵室(水竹庵)が始まりとされる。由良氏が桐生氏を滅ぼしたのは天正元年(1573年)のことなので、水竹庵の開創はその頃と思われる。

養泉寺 (3)
養泉寺 (4)
江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に、当地を領していた竹本土佐守の父・竹本養意が開基、鳳仙寺11世・曲外嶺松大和尚を開山に請して再興した。正徳4年(1714年)に本堂を建立し、山号を「青龍山」とし寺勢が整っている。この「青龍山」は、桐生の東を守護するという意味を持つとされている。

養泉寺 (5)
現在の本堂は昭和29年(1954年)の再建、昭和62年(1987年)に改修が行われている。

養泉寺 (6)
養泉寺 (7)
山門を入ると右手に初転法輪像がある。お釈迦さまが悟りを開いた後、ヴァーラーナスィーのサールナート鹿野苑で、5人の修行仲間に初めて仏教の教義を説いた時の姿を現わした像。あまり見たことがない像だ。

養泉寺 (8)
養泉寺 (9)
養泉寺 (10)
山門前(左側)に豊川稲荷が祀られている。江戸時代初期に三河国(愛知県)豊川稲荷の分霊を勧請したもの。


桐生市相生町の堀江山(護国山)薬王寺。

薬王寺 (1)
薬王寺は正保3年(1646年)僧・良采の開基、弘照上人の開山。山門は昭和50年(1975年)の改修。

薬王寺 (2)
山門脇には庚申塔や二十三夜塔が並ぶ。月待信仰塔では二十三夜塔が一般的だが、オレの地元の西毛地区では二十二夜塔の方が多い。月待信仰には十三夜・十四夜・十五夜など多種あるので、月待信仰塔を見るとその地域の特徴などが分かる。

薬王寺 (3)
本堂は大正10年(1921年)に茅葺きからトタン屋根への改修、平成5年(1993年)に再度大改修が行われた。本堂内にはご本尊の木造薬師如来を祀る。もとは石造薬師如来を本尊としていたが、後に建立した薬師堂に遷座している。

薬王寺 (4)
本堂裏の薬師堂。平成元年(1989年)の再建。引き戸に郵便受けのような窓(?)があったので覗いてみたが、鎮座していると思われる石造薬師如来像は見えず。

薬王寺 (5)
本堂右手の大師堂。弘法大師像が祀られている?

薬王寺 (6)
墓地入り口に立派な宝塔があった。

ところで、山門の扁額(最初の写真、見づらいけど)が「密林精舎」となっている。「竹林精舎」は聞いたことがあるけど。


桐生市黒保根町上田沢の赤城神社。

上田沢赤城神社 (1)
上田沢赤城神社 (2)
上田沢赤城神社の由緒は不明。涌丸山医光寺の裏山にある。
(医光寺は「桐生市黒保根町上田沢・涌丸山医光寺」参照)

上田沢赤城神社 (3)
小さな社殿があるだけだが、その彫刻が素晴らしい。

上田沢赤城神社 (4)
上田沢赤城神社 (5)
上田沢赤城神社 (6)
上田沢赤城神社 (7)
上田沢赤城神社 (8)
黒保根村の彫刻師と言ったら関口文治郎を思い出す。しかも上田沢の出身である。医光寺の本堂にも見事な欄間彫刻があり、作者が関口文治郎であることを考えると、赤城神社の彫刻も関口文治郎ではないかと、勝手な想像をしてしまう。


桐生市相生町の源光山大善寺。

大善寺 (1)
大善寺は元和9年(1623年)に新田義貞を供養するため、太田・大光院の吞龍さんの高弟・超雲上人によって開山される。相生は江戸時代に新田(しんでん)と呼ばれていたので、当地が選ばれたという。

大善寺 (2)
参道脇には庚申塔などが並んでいる。

大善寺 (4)
大善寺 (3)
宝暦7年(1757年)、明治8年(1875年)と2度の大火により本堂は焼失。明治43年(1910年)に広沢の代官屋敷の古材を購入し仮本堂を建築。平成4年(1992年)に現在の本堂を新築している。

吞龍さんが太田・大光院を開く前に住職を務めていた八王子のお寺が大善寺。大善寺はこの名を受け継いでいる。

八王子の大善寺には「白滝姫」が祀られている機守神社がある。八王子も織物の町として栄えており、桐生出身の織物師が霊夢で白滝姫から製織の技法を授かり、感謝のしるしに祠を建て白滝姫を祀ったのが始まりという。江戸時代の話として残っている。
(白滝姫は「桐生市川内町・白滝神社」参照)

八王子・大善寺とは、吞龍さん繋がりだけでなく、白滝姫でも繋がっているということ。


桐生市川内町の大光山宝徳寺。

宝徳寺 (1)
宝徳寺は宝徳年間(1449~51年)に、桐生城(柄杓山城)の裏口を護るため桐生正綱により創建された。

宝徳寺 (2)
本堂前にある原爆の残り火「平和の火」。その名の通り昭和20年(1945年)広島に投下された原爆の残り火。福岡県八女市に残されていたものを、平成27年(2015年)に分火してもらっている。

宝徳寺 (3)
平成26年(2014年)再建の鐘楼。宝徳寺では大晦日の除夜の鐘を平成27年(2015年)から半日早く、昼の12:00から撞いている。これは夜間の外出が難しい高齢者や子供たちにも鐘を撞いてもらいたいという配慮から。

宝徳寺 (4)
宝徳寺 (5)
宝徳寺 (6)
宝徳寺 (7)
禅宗方丈形式の本堂。禅の精神から華美なものを排し、質素な造りとなっている。方丈とは本来住職の居室のことをいう。住職のことを「方丈さん」というのはここからきている。

宝徳寺 (8)
宝徳寺 (9)
本堂前の枯山水庭園。自由に本堂に上がれ、のんびり庭園をながめることができる。

宝徳寺 (10)
本堂脇には滝と池からなる山水庭園がある。枯山水との対比が美しい。

宝徳寺は春はぼたん、秋は紅葉が美しい。ぼたん寺、紅葉寺とも呼ばれ参拝者も多い。また、宝徳寺で人気なのが「アートなご朱印」。ご朱印目当ての参拝者も多くなっているという。


桐生市元宿町の慈丸山聖眼寺。

聖眼寺 (1)
聖眼寺は大永年間(1521~27年)に御坊木という場所に創建されたと伝わる。真言密教の根本道場として寺中に六坊が置かれ、大いに栄えていた。

聖眼寺 (2)
聖眼寺 (3)
聖眼寺 (4)
元亀2年(1571年)の由良氏と桐生氏の争い時に全山焼失。天正11年(1583年)に弘算法印により再興開山している。現在の本堂は昭和39年(1964年)の再建。

聖眼寺 (5)
薬師如来を祀る薬師堂。

聖眼寺 (6)
桐生市の保存樹に指定されている「タラヨウ」。樹齢約200年、樹高11m、幹周り1.4mの大木。「タラヨウ」ってあまり聞かない木だが、モチノキの一種。4、5月に4mmほどの小さな黄緑色の花が群れて咲く。秋には8mmほどの小さな球形の赤い実がなるらしい。


桐生市梅田町の栖松寺の石幢。

栖松寺石幢 (1)
栖松寺石幢 (2)
栖松寺(せいしょうじ)ということだが、観音堂が残っているのみで、お寺としては廃寺? 移転? 合併? なのかな。ただ、墓地はあった。

栖松寺石幢 (3)
栖松寺石幢 (4)
傍らにある石幢。
安山岩製で、宝珠および台座が欠損し、高さは1.05m。竿石の中央部直径29cm、七角形の龕部の六面に地蔵尊、一面に阿弥陀如来像が彫られている。大永2年(1522年)の銘がある。

昭和49年(1974年)に盗難に遭ったが、平成7年(1995年)に発見され、現在地に戻されている。


桐生市東1丁目の諏訪神社。

諏訪神社 (1)
諏訪神社 (2)
諏訪神社は天文年間(1532~55年)の創建と伝わる。

諏訪神社 (3)
諏訪神社 (4)
諏訪神社 (5)
大正14年(1925年)に道路建設に伴い、観音院裏から現在地に移転・遷座している。昭和9年(1934年)に拝殿を改築している。
(観音院は「日眼地蔵尊 -観音院-」参照)

諏訪神社 (6)
境内社の機神社。
昭和15年(1940年)に村松字蝉(現、宮本町)から移転・合祀。ご祭神は栲機千々姫命。繊維の神として信仰されている。当時は社殿がなく、戦後東小学校にあった奉安殿を移築し社殿としている。

諏訪神社 (7)
同じく境内社の薬神社。
昭和15年(1940年)に機神社と共に諏訪神社に合祀。石祠は寛政7年(1795年)の建立と伝わる。難病、疫病の予防・治療薬として、祠の石を削り取り、煎じて飲んだといわれる。確かに、祠の角が丸くなってる。

ところで東1丁目と2丁目辺りは、諏訪神社から来ていると思うが、諏訪町と言った。昭和41年(1966年)に現在の表記になったが、なんだか味気ないね。


桐生市東2丁目の諏訪山観音院能満寺。

観音院 (1)
観音院 (2)
観音院 (3)
観音院は正保元年(1644年)、当地で織物業をしていた岩崎彦右衛門の開基。

観音院 (4)
参道両側には緑があり心地良い雰囲気。

観音院 (5)
四国八十八ヶ所霊場お砂踏み。弘法大師を廻る赤い石に四国霊場の砂が埋め込まれており、この上を巡拝することによって、霊場巡りと同じ御利益が得られるというもの。

観音院 (6)
観音院 (7)
観音院 (8)
本堂は嘉永年間(1848~54年)の造営で、寄棟造り本瓦葺きで頂上に鴟尾を乗せている。本尊は聖観世音菩薩で江戸時代中期の御仏であるが、秘仏であるため御前立本尊を安置する。なぜ秘仏になっているのかは不明。

観音院 (9)
御足参道。靴を脱いで参道を歩き、手足を合せてお参りすると足腰の健康と長寿の御利益があるという。足つぼも刺激される。

観音院 (10)
日限(ひぎり)地蔵尊。
機屋の主人の夢枕にお地蔵様が現れ、「大勢の人々を守護するためのお堂を建てて欲しい。その時は何日なりと日を限って願かけをすれば必ず願望をかなえよう」とお告げがあったことが始まりという。 日を限って願を掛けることから日限地蔵尊という。

毎月24日がお地蔵様の縁日。露店も出店しするなど、多くの参拝者で賑わう。

観音院 (11)
観音院 (12)
観音院開山前から自生しているケヤキの大木。樹齢約400年と推定される。根元に不動明王が鎮座していた。

観音院 (13)
日限地蔵尊公式キャラクター「ひぎりん」。かわいいけど、あんまり特徴がないかな。


桐生市梅田町の龍澤山長泉寺。

長泉寺 (1)
長泉寺は文明8年(1476年)桐生在俊の位牌所として創建された。その後、文禄4年(1595年)由良家家臣(桐生城代)の藤生紀伊守の嫡男・岩下平衛門茂吉により再興されている(鳳仙寺7世・儀拈牛把による再興との説もあるようだ)。

長泉寺 (2)
門柱脇に梵鐘が置いてあった。

長泉寺 (3)
長泉寺 (4)
本堂は寛永10年(1633年)の建立と伝わる。中規模の6室構成方丈形式となっている。内部各所に墨書や刻銘が残されており、正徳2年(1712年)、享保3年(1718年)、明和9年(1772年)などの年号が見られる。(本堂は桐生市の重文に指定されている)

ちなみに、方丈形式は京都の臨済宗を中心に作られたもので、禅の精神から華美なものを排し、質素な造りとなっている。本来は住職の居室のことを方丈という。住職のことを「方丈さん」と呼ぶのは、ここから来ている。

長泉寺 (5)
鐘楼には梵鐘が吊られている(当然だが)。門柱脇にあった梵鐘は何?

長泉寺 (6)
長泉寺 (7)
六三大士堂。昭和61年(1986年)の再建。六三除けで重病人を救ったという為雲和尚を祀る。この和尚は酒が大好きだったことから、今も竹筒に入った酒が供えられているという。でも内部を見る限り、それらしき竹筒は見えなかったけど。


桐生市黒保根町水沼の水沼製糸所跡。

水沼製糸場跡 (1)
水沼製糸所は明治7年(1874年)星野長太郎が開業した県内初の民間による洋式器械製糸所である。水沼製糸所で作られる生糸の品質は高く、明治11年(1878年)のパリ万博では一等賞金牌を授与されている。

水沼製糸場跡 (2)
明治14年(1881年)には従業員100人を数えるほどの隆盛ぶりだったが、明治33年(1900年)に廃業。

水沼製糸場跡 (3)
水沼製糸場跡 (4)
現在は長屋門屋や蔵の一部が残されているのみだが、倉には歴史的資料が数多く保存されているという。

水沼製糸場跡 (5)
敷地に積まれた大規模な石垣が製糸所跡の面影をわずかに残す。

水沼製糸場跡 (6)
創業者の星野長太郎は、郷土を振興させるためには「器械敷製糸所により生糸の生産・輸出を行う以外にない」との信念から水沼製糸所を開業。のちに、県会議員や衆議院議員を歴任している。

水沼製糸場跡 (7)
新井領一郎は星野長太郎の実弟で、生糸輸出のためアメリカに赴き生糸市場の開拓・拡大に大きく貢献している。

新井領一郎が渡米する際に、初代県令・楫取素彦の妻・寿から吉田松陰形見の短刀を託されている。ちなみに、このシーンを前橋市が銅像にして前橋公園に設置する計画がある。 (「前橋市が楫取素彦の銅像を建てるって??」参照)


桐生市黒保根町上田沢の涌丸山医光寺その2。
医光寺には江戸時代末の剣法家・楳本法神の墓がある。

楳本法神の墓
本堂裏の歴代住職のお墓に並び建っている楳本(うめもと)法神の墓。楳本法神は加賀国に生まれ、長じて上泉信綱に師事した武芸者。後に法神流の剣祖となり諸国をめぐり、多くの剣士を育てている。

文政13年(1830年)、門人青山雅楽之助なる家にて客死。享年168と伝わる。大正8年(1919年)に医光寺に移骨されたが、昭和47年(1972年)に埋骨、墓碑が建立されている。

これは主に現地に設置されていた旧黒保根村教育委員会の解説板による。しかし上泉信綱は戦国時代の武将であり、時代がまったく合わない。どこから引っ張ってきたのだろうか?? 上泉信綱に師事しようと思ったら、法神は300歳くらい生きていないといけなくなる(苦笑)。江戸末と戦国期の人物を結び付けてしまう何か深い意味がある?

法神は生地、生い立ち、経歴などを口外しなかったため、他の人物と混同され168歳などという年齢が伝わっていると考えられる。特に、藤井右門(江戸中期の尊王論者、後に幕府により処断された)が幕府から逃れ上州に隠れ住んでいると誤って伝えられたことが、法神のことと誤解された可能性がある。

とは言え、その経歴が不詳であったとしても、法神が秀でた武芸者であったことは、もちろん否定されることではない。


桐生市黒保根町上田沢の涌丸山医光寺。

医光寺 (2)
医光寺 (1)
医光寺は弘仁11年(820年)空海(弘法大師)が東国遊化のおり、薬師仏を刻み開創したと伝わる。

医光寺 (3)
医光寺 (4)
本堂は延享4年(1747年)の再建。屋根や外壁がまだ新しいので、最近改修されているようだ。

医光寺 (5) (1)
医光寺 (5) (2)
医光寺の本尊は千手観音だが、銅製の虚空蔵菩薩像が安置されている。元々は赤城山を構成するひとつである虚空蔵岳(小地蔵岳)の堂宇内にあったもので、明治末年に医光寺に移されている。永禄元年(1558年)の造立で、総高36cm。背一面に銘文が刻まれている。(写真はいずれも桐生市HPから)

医光寺 (7)
医光寺 (8)
本堂欄間の彫刻は、中国の「二十四孝」を題材にしている。彫物師は地元上田沢出身の関口文治郎有信と伝えられている。上の写真は「老莱子(ろうらいし)」、下は「孟宗(もうそう)」である。

医光寺 (9)
本堂屋根には新田氏の「大中黒」、徳川氏の「三つ葉葵」、佐野氏(と思われる)の「右三つ巴」の家紋が並んでいる。場所(地理)的に新田氏と佐野氏は分かるが、徳川氏との係わりは?

医光寺 (10)
医光寺 (11)
医光寺 (12)
本堂脇の石段を登ると薬師堂がある。弘法大師が刻んだとされる薬師仏(薬師如来)を祀る。医光寺のルーツというべきお堂である。正徳5年(1715年)の再建とのことだが、本堂同様最近改修されているようだ。

医光寺 (13)
薬師堂前にある「お大師さまの踏み草履石」。弘法大師が踏んだという石。真ん中の窪みが足の跡ってことかな。


桐生市黒保根町水沼の赤城山常鑑寺。

常鑑寺 (1)
常鑑寺 (2)
常鑑寺の創建は応永現年(1394年)頃と伝わる。その後、元亀2年(1571年)萩原与惣左衛門の開基、春翁慶陽が開山となり常鑑寺と称している。

常鑑寺 (3)
常鑑寺 (4)
急峻な石段を登ると荘厳な本堂が現れる。本堂は安永元年(1772年)の再建。6代目星野半兵衛(七郎右衛門朋明)が再建に大きく貢献したため、常鑑寺では6代目半兵衛を中興開基として、本堂奥に位牌を安置している。

星野半兵衛は、群馬県初の日本人の手による民間洋式器械製糸所(水沼製糸場)を開設した星野長太郎の祖先にあたる。

常鑑寺 (5)
梵鐘は高さ85.5cm、口径61.2cmとちょっと小ぶり。寛延元年(1748年)に下野国佐野の鋳物師・丸山善太郎によって鋳造されたもの。縦帯の撞座の上方には、聖観音の座像が蓮台付きで半浮彫りに鋳出されるなど、美術的にも価値の高い梵鐘。

戦時中も当時の文部省がその美術的価値を認め、供出を免れている。そのため、平和の鐘と呼ばれるようになった。


桐生市新里町山上の赤城山常廣寺。
山上城域に位置する。

常広寺 (1)
常廣寺は小田原の機利者と称された山上郷右衛門顕将の創建と伝わる。機利者とは知略に優れ行動が早い者こと。

常広寺 (2)
常広寺 (3)
焼失により記録が失われているため創建時期は定かではないが、山上城が廃城となった天正18年(1590年)頃と考えられる。

常広寺 (4)
常広寺 (5)
境内にある弁天堂。江戸時代中ごろの建立と推定される。七尺方一間造りで、向拝柱につく木鼻や紅梁の上の欄間には、精巧な彫刻が施されている。

常広寺 (6)
常広寺 (7)
本堂裏手に八雲大龍神を祀るお堂があった。本堂から(だったかな?)龍神橋で繋がっているが、謂れなどは不明。

常広寺 (8)
山上郷右衛門顕将の供養塔。郷右衛門のご子孫が平成27年(2015年)に建立。

郷右衛門は北条氏に仕え、天正12年(1584年)には大胡城主に任じらている。しかし郷右衛門は小田原で北条氏直を補佐していたため(といわれている)、上野国には赴いていない(北条高繁が城代として城を守っていた)。

郷右衛門が山上に移ってきたのは北条氏滅亡後と考えられる。ただ、関ヶ原の戦いに徳川方として参陣しているので、関ヶ原後かもしれない、この辺はよく分からない。


桐生市新里町山上の愛宕塚古墳。

愛宕塚古墳 (1)
愛宕塚古墳は、径30m、高さ8mの円墳であったが、既に消滅している。

愛宕塚古墳 (2)
愛宕塚古墳 (3)
平成(1990年代)に入ってから発掘調査が行われたらしいが、既に墳丘はなく、石室石材も大半が散逸していた。基底部の石材のみ、山上城址公園内(三の丸)に移築されている。

元禄14年(1701年)に蕨沢川に架かる橋を石橋に架け替える際に愛宕塚古墳の石室の石材を使用したといわれている。よって、この時に実質的に愛宕山古墳は消滅したと考えられる。

なお、橋のたもとには石橋に架け替えた際の供養塔が建っている。(元町橋の供養塔として、桐生市の重文に指定されている)

もちろん、現在の橋は鉄筋コンクリート製なので、旧石橋、つまり愛宕塚古墳石室の石材はお役御免になっているが、石材は処分されちゃってるんだろうな。


桐生市相生町3丁目の八坂神社。

相生八坂神社 (1)
相生八坂神社 (2)
相生八坂神社は寛永4年(1627年)の創建と伝わる。文政2年(1819年)に火災で焼失したが、文政6年(1823年)に現在地へ再建・遷座している。

相生八坂神社 (3)
相生八坂神社 (4)
相生八坂神社 (5)
社殿は一段高くなっている。石垣で盛られているが、元々は古墳なのかな?

天王宿ってのは、明治22年(1889年)に相生村として発足した旧村(他は如来堂村、下新田村、蕪町村、天沼新田村)で、現在の桐生市相生町3丁目区域に相当する。

八坂神社が旧天王宿村の地名の由来だと考えられる。ちなみに、現在の相生町の由来は「相生の松」から。(「桐生市相生町・相生の松」参照)


桐生市相生町3丁目の恵雲山天王院光松寺。

天王院 (1)
光松寺は寛文元年(1661年)仁田山観音寺・舜弘法印の開山。当初は新福寺と称したが、貞享3年(1686年)良伝法印により再興、天王宮(八坂神社)の別当となる。元禄3年(1690年)天王院光松寺と改称。天王院で通っている。

天王院 (2)
天王院 (3)
本堂は文政年間(1818~30年)建築の本堂が老朽化したため、平成15年(2003年)に新築建て替え。

天王院 (4)
天王院 (5)
天王院 (6)
本堂横の薬師堂には薬師如来を安置する。

天王院 (7)
天王宿の歯仏様。「歯を病める者、これに祈らば治癒す」といわれる。正徳2年(1712年)の銘がある。昭和43年(1968年)畑中から天王院へ移転安置。

昭和60年(1985年)以来、毎年8月後半の土曜日に納涼大会を開催している。八木節、カラオケ大会で盛り上がるという。


桐生市広沢町3丁目の比呂佐和神社。

比呂佐和神社 (1)
比呂佐和神社の創建年は不詳だが、前橋・三夜沢赤城神社の神霊を勧請し赤城神社として創建。明治42年(1909年)他社を合併した際に比呂佐和神社と改称。

比呂佐和神社 (2)
比呂佐和神社 (3)
比呂佐和神社 (4)
参道脇に広沢保育園があり、そのためか境内が狭く感じる(と言うか狭い)。

比呂佐和神社 (5)
拝殿前にある朱楽菅江(あけらかんこう)の碑。
朱楽菅江は江戸時代後期の狂歌師で、本名は山崎景貫。筆名は「あっけらかん」のもじり。上野国の人ではない。大田南畝、唐衣橘洲と共に天明(1781~89年)狂歌ブームを築き、狂歌三大家といわれた。この碑は文化5年(1808年)広沢村の門弟により建立された。

神社が飼っているのか保育園が飼っているのかヤギがいた。確か烏骨鶏らしき鶏系もいた。(写真はないです)


桐生市広沢町7丁目の月桂山東沢寺。

東沢寺 (1)
東沢寺は慶長2年(1597年)の創建。一本木村民(現、広沢町7丁目)が足利・光泰寺2世を招いて開かれた寺。一本木寺とも呼ばれている。

東沢寺 (2)
東沢寺 (3)
本尊の正観音菩薩を祀る。

東沢寺 (4)
東沢寺 (5)
延命地蔵を祀る地蔵堂。お地蔵さんは厨子の中で見えなかった。

毎年8月24日前後の土日は「一本木祭り」という八木節大会が催され、八木節の名人達がのどを競うという。

↑このページのトップヘ