上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 太田市(旧郡部)


太田市新田市野井町の生品神社。

生品神社境内には、新田義貞像が鎮座していたのだが、2010年2月に銅像が盗まれるという事件が発生。(上毛かるた紀行、「歴史に名高い 新田義貞」参照)

生品神社 (1)
台座を残し、銅像が盗まれてしまった。

このたび、地元有志らでつくる「新田義貞公銅像再建委員会」が取り組んできた義貞の銅像が完成し、5月8日の鏑矢祭で披露された。

生品神社 (2)
生品神社 (3)
生品神社 (4)
新しい銅像は高さ約1.8m、重さ310kgのブロンズ製で、盗まれた銅像(0.8m)の2倍強の大きさ。義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫に当たる、彫刻家・脇谷幸正さんが1年をかけて制作したものである。

盗まれた銅像と同様に、鎌倉の稲村ケ崎に太刀を投げ入れる姿。脇谷さんは「源氏の貴公子、総大将としての姿を表現した」と言う。

生品神社 (5)
生品神社 (6)
赤御影石で作られた高さ1mの台座上に鎮座する姿は、凛々しいの一言。

銅像の再建に際しては、太田市内を中心に全国の約1100の個人・団体から寄付が寄せられた。多くの方々の協力で、こうして義貞が生品神社に還ってきた。

新田義貞は群馬における最大のヒーローだよね。悲劇がつくけど。


太田市徳川町の医王山永徳寺。

永徳寺 (1)
永徳寺 (3)
永徳寺 (4)
永徳寺は天台宗の開祖・伝教大師最澄の弟子・宥海上人によって大同元年(806年)に創建され、関東最初の天台三道場のひとつであったといわれている。

徳川氏の祖・新田義季が徳川郷に居館を構えると、薬師如来を深く信仰し当寺を祈願所とした。かつて境内にあって徳川家康を祀った権現堂は、大正13年(1924年)に徳川東照宮の拝殿として移されている。(「太田市徳川町・東照宮」参照)

永徳寺 (2)
明治41年(1908年)には、徳川河岸にあった船頭の守本尊とされてきた不動尊のお堂を移築した。すぐ側を利根川が流れているので、河岸があったのね。

永徳寺は別名「さつき寺」と呼ばれ、春には境内一面にさつきが彩り鮮やかに咲き誇る。とは言っても、今は季節はずれなので何にもないです。


太田市世良田町の如意山普門寺。

普門寺 (1)
普門寺 (2)
普門寺 (4)
普門寺の創建は寛弘年間(1004年~1012年)に靜算によって開山されたと伝えられている。戦国時代に入ると、領主である金山城主・由良氏の祈願所となり庇護されている。

普門寺 (3)
岩松富純の母親である慶閑が寄進した鐘楼がある。

普門寺 (5)
上野国誌著者である毛呂権蔵の墓。
毛呂権蔵(1724年~1792年)は、上野国全般にわたる歴史地理書「上野国誌」や「長楽寺記」を著した江戸時代の郷土史学の先駆者。権蔵は群馬県内全体のまとまった歴史地理書や風土記が無いことから、私財を投じて歴史地理書をまとめることを志し、安永3年(1774年)に30年の歳月をかけ「上野国志」15巻を完成させている。


太田市新田上田中町の田中山長慶寺。
ここには、長慶天皇の陵墓と伝わる宝篋印塔がある。

長慶寺 (1)
長慶寺 (2)
長慶寺は新田義重の庶長子・里見義俊の次男・田中五郎義清を祖とする田中氏の館跡に、延応元年(1239年)に建立された。

長慶寺 (6)
長慶寺 (4)
屋根付き供養塔の右の宝篋印塔が、第98代で南朝第3代天皇である長慶天皇の陵墓といわれる。何でこんなところに・・・。

長慶天皇は後亀山天皇に譲位後も南朝への協力を求めて、各地を潜幸したという伝承があり、全国にその陵墓とされる場所が点在する。そのひとつが、この長慶寺の御陵ということ。

ちなみに、宮内庁認定は京都嵐山にある嵯峨東陵である。

長慶寺 (5)
屋根付き供養塔の左の宝篋印塔は、田中氏の祖・義清の墓である。長慶天皇の陵墓より大きいぞ。少し恐れ多いんじゃないの。

長慶寺 (3)
実は田中義清は、安土桃山時代の茶人・千利休の祖先だといわれている。千利休の本名は田中与四郎という。そのため、「茶聖千利休居士の祖 田中五郎義清之館跡也」という立派な碑が建っている。

長慶天皇の陵墓も、千利休が田中氏の末裔だということも、どちらも具体的な確証は、もちろんない。


太田市新田大根町の妙満山大慶寺。

大慶寺 (6)
大慶寺 (1)
新田義重の養娘(祥寿姫)が源義平の首を現在の清泉寺に葬り、妙満尼を名乗って治承4年(1180年)この綿打郷に移って庵をむすんだのが起源とされる。
(清泉寺に関しては、「源義平の墓・義平山清泉寺」参照。)

鎌倉時代には同じ新田一族で大舘家氏の子である綿打太郎為氏が館を構えた。綿打為氏は一門の新田義貞の挙兵に従って転戦し、南朝方として奮戦している。

大慶寺 (3)
大慶寺 (4)
明徳5年(1394年)になって足利鶏足寺から空覚上人を招いて、大慶寺を開基したといわれる。

大慶寺 (2)
本堂西の不動堂には平安時代の作で、鎌倉時代には「新田の守り不動」として保護された不動明王像が祀られている。これは「泣き不動」とも呼ばれ、建武5年(1338年)の義貞戦死が報じられると悲しんで泣いたと伝わっている。

大慶寺 (5)
ところで、綿打氏の館跡を示すのは仁王門横の石碑のみ。自動販売機に隠れており、しかも石碑前にはごみ箱が置かれていた。さらにすぐ後ろはトイレと悲惨な扱い。

今は牡丹の寺として有名で、4月下旬~5月上旬に赤、白、黄色の花が咲き誇り参拝客も多い。館跡の遺構はほとんど残ってないみたいなので、こんな扱いもしょうーがないかな?


太田市藪塚町の牛之塔。

牛之塔 (3)
鎌倉時代初期の宝篋印塔で、牛之塔の名で呼ばれている。

牛之塔 (1)
京都から阿弥陀如来像を、崇禅寺(桐生市)へ運ぶ途中に、牛が死んだので、牛の供養のために建てた塔。

基礎に飾りがなく簡素であること、笠部が6段で隅飾(馬耳状突起)がほぼ垂直に近いこと、規模が大きく安定感があること等、鎌倉初期の特徴を示している。

牛之塔 (2)
京都からわざわざ阿弥陀如来を運んできたのは、智明という人物である。元々は園田成家という武士だったが、京都に巡回警護に上がった際、法然上人に接し、仏の魅力にひかれ弟子となり、智明と名乗った。

修行を終え故郷に帰る際、法然から阿弥陀如来像を与えられ、背負って岐路についたが、長い道のりのため牛に乗せて運んで来たということ。

苦労をかけた牛を供養するなんて、さすが僧侶って感じだし、その供養塔が現在まで残っているところも、こりゃまたすごい。


太田市藪塚町の伝・藪塚氏の墓。

伝藪塚氏の墓 (2)
伝藪塚氏の墓 (1)
大正2年(1913年)東武桐生線の工事中に、小さな塚を切崩したところ五輪塔が4基出土した。

伝藪塚氏の墓 (3)
郷土史家である岡部福蔵氏の考証により、鎌倉時代のものとされ、近くに元屋敷という地名があること、新田一族の中に「藪塚六郎朝兼」という人物がいることなどから、藪塚氏の墓と推定されている。

藪塚朝兼は新田義重の曾孫・岩松時兼の六男。朝兼の子・時綱、孫・基綱の三代の墓ということ。もうひとつは?? って思うけど、まあいいかっ!

ちなみに、岩松時兼ってのは、岩松氏の祖ね。(「太田市岩松町・八幡宮」参照)

この五輪塔群は、東武桐生線のすぐ脇にあるのだが、そこは一般民家の庭先。民家の敷地内ではないんだろうけど、柵や塀があるわけでもなく、こっちからもあっちからも丸見え状態。犬にはワンワン吠えられるし、気まずいし・・・・・。早々に退散。


太田市藪塚町の生品神社敷石住居跡。

中原生品神社・敷石住居跡 (1)
中原生品神社の一の鳥居脇にある。
(中原生品神社は「太田市藪塚町・中原生品神社」参照)

中原生品神社・敷石住居跡 (2)
中原生品神社・敷石住居跡 (3)
角形の敷石住居で、住居の中央に5石を使った炉と南入口に4石を使った炉状遺構がある。東西最大幅2.5m、南北最大幅3.3m。使用石は赤褐色の安山岩系の平石と花崗岩系の川原石。

住居内からは縄文時代の中期末から後期初頭にかけての土器が出土し、住居の年代は約4000年前と推定される。中央にある石囲いの炉は火を使っていたらしく、石に熱による剥離が見られるが入口にある炉状遺構には火を使った形跡が見られない。

保存のため南へ34m(現在地)移設したが、出土したときと同じ高さで復元されている。

中原生品神社南東部、現在の水田地下からは平安時代以降の住居跡も見つかっており、この辺は今でいう住宅地だったようだ。


太田市藪塚町の中原生品神社。

中原生品神社 (1)
中原生品神社 (2)
中原生品神社 (3)
中原生品神社の由来は平安時代の書物に「生階」神社の名があり、生品神社のことであると思われる。と言うことは、1000年以上の歴史がある。

中原生品神社 (4)
中原生品神社 (5)
御祭神は出雲神話に登場する大穴牟遅神(大国主)。医薬・風の神である。脇祭神の恵比寿様ともども、拝殿前に立像がある。

中原生品神社 (6)
境内に「人生路 山あり 谷あり 平地あり」の表示が。何かと思って進んでいくと・・・。

中原生品神社 (7)
中原生品神社 (8)
山と谷を模したものが。で、その先は・・・。

中原生品神社 (9)
最後の平地に待っているものは「しあわせ」。微妙な人生訓ではあるが、何かうれしくなってしまって2回も往復してしまった。

ちなみに、新田義貞挙兵の地として有名な生品神社(太田市新田市野井町)とは別なので、お間違えのないように。


太田市藪塚町の藤光山長円寺。境内には長円寺古墳がある。

長円寺 (1)
長円寺 (2)
長円寺は、薮塚氏(新田一族の岩松氏の庶家)の館跡らしい。

長円寺 (3)
本堂鰐口に極彩色に塗られた彫刻。色鮮やか。この本堂は、宝蔵寺の観音堂を移築したものらしい。

長円寺 (4)
長円寺 (5)
本堂外陣欄間の彫刻。七福神がテーマ?こちらも鰐口同様、色鮮やか。

長円寺 (6)
本堂脇に、長円寺古墳(前方後円墳)がある。墳長33.7m、前方部幅9.5m、前方部高さ4.5m、後円部径22m、後円部高さ7.6m。築造時期は諸説あり。5世紀~6世紀中頃。

藪塚氏館があったころは、古墳上に物見櫓が立っていたとか。

寺伝はよく分からないが、本堂(鰐口や外陣欄間)の彫刻が、違和感あるくらいカラフルで鮮やか(笑)。

下記も見てね。
 「太田市大原町・宮林山全性寺
 「太田市大原町・笠懸山長建寺


太田市藪塚町の石切場跡。

鬱蒼とした森の入り口から、ちょっと整備されてるんだけど、ちょっと足場の悪い道をしばらく進む。うっ!視界が開けた。

石切場 (1)
石切場 (2)
石切場 (3)
おっぉ~!!こりゃ、すげぇ~!! 藪塚石を切り出した場所で、垂直に切り立つ石壁が四方を囲んでいる。写真では分かりずらいが、高さは約30mもある。

何となく、西洋の神殿・・・・・の廃墟って感じ。

石切場 (4)
石切場 (5)
石切場 (6)
採石した痕跡である縞模様がくっきり残る。

静寂の石切場に、ひとりたたずんでいると、現実の世界を忘れることができる。ただ、崩れそうな雰囲気と、昼間でも日差しがさえぎられ薄暗く、ちょっと怖い。


太田市藪塚町のつつじ山公園。

藪塚温泉街の中央あたりにある。春には赤やピンクのつつじの花が、初夏にはアジサイの花が公園内を彩る、ということだが、今は冬なので何にもなし。もちろん、そんなことは承知のうえ。

つつじ山公園 (1)
今回、つつじ山公園を訪れた目的であるパイプ塚。

パイプ蒐集家の故・石黒敬七氏が中心となって建立した「パイプ塚」。「烟草ありて人生愉し」と大きく刻まれていて、最近肩身の狭い愛煙家には、うれしい碑である。昭和38年(1963年)建立。

公園内にはパイプ塚以外にも、いくつか碑があったので紹介する。

つつじ山公園 (3)
「あっしには関わりのねぇことで・・・」の名せりふで有名な、木枯し紋次郎の碑。旅人姿の紋次郎の姿が彫られている。この公園のすぐ隣には、三日月村がある。三日月村は下記を見てね。(「木枯し紋次郎のテーマパーク・三日月村」参照)

つつじ山公園 (2)
伏島たきさんという方の歌碑。調べたけど、どんな人か分かんなかった。もしかして、藪塚温泉のホテルふせじまの関係者??

つつじ山公園 (4)
帰りがけに石段で見つけた大ムカデ。デカ過ぎ!!15cm~20cmくらいあった。


太田市藪塚町の北山古墳。

太田藪塚・北山古墳 (1)
太田藪塚・北山古墳 (2)
小さな案内標識に従い、坂道を登っていく。道は整備されている。

太田藪塚・北山古墳 (3)
太田藪塚・北山古墳 (4)
太田藪塚・北山古墳 (5)
山寄せ形の横穴式円墳で、群馬県における古墳時代後期の代表的な古墳。
直径は約22m、7世紀後半の築造と推定される。

石室は単室で、玄門を持っている。玄門柱は切り石の角柱。奥壁は自然石一石であるため、室幅が奥壁に向かって狭くなっている。石室規模は全長6.2m、玄室長3.1m、玄室奥幅1.35m。

「古墳が崩れてしまうので、古墳の上には登らないで下さい。」なんていう看板が立っているの見て、石室内部へ入るのはやめた。中にいるときに崩れたらいやだから。けっこうビビりなのさ。

太田藪塚・北山古墳 (6)
太田藪塚・北山古墳 (7)
北山古墳の隣では、公園整備と思われる工事中。古墳公園みたいな感じになるの??


太田市藪塚町のなつめの里。

なつめの里 (2)
藪塚温泉街の入り口に大きな看板塔がある。ここは小さな公園となっており、なつめの里と呼ばれている。

なつめの里 (1)
こじんまりとした公園に童謡作詞家・細川雄太郎作「あのこはたあれ」の碑がある。

あのこはたあれ たれでしょね なんなんなつめの花の下 お人形さんと あそんでる かわいいみよちゃんじゃ ないでしょか

滋賀県から旧薮塚本町に働きに来ていた細川雄太郎氏が、昭和14年(1939年)に故郷の想い出を「あのこはたあれ」の童謡として作詞したことに由来して作られた公園。

歌詞の中に「なんなんなつめの花の下」とあるのでなつめ公園?そう言えば、碑を囲むようになつめの木が植えてあった。

ところで、後で調べたら、丘を登ると鐘が鳴る仕掛けがある、とあったが鳴らなかったと思う。


太田市藪塚町の三島神社。

三島神社 (1)
三島神社は、新田義房(義重の孫)が建久年間(1190年~1198年)に伊豆三島神社を勧請したといわれている。

三島神社 (3)
三島神社 (5)
古墳だという説もあるようだが、裏付けられる出土物はない。確かに少し離れた所から見ると、古墳に見えなくもないんだけど。でも、自然丘に社殿が建ってると考えた方がいいようだ。

三島神社 (4)
拝殿に源頼朝が描かれている三島大社の絵馬が掛けてあった。神社関係者が掛けたのか、参拝者が掛けたのか分かんないけど・・・。

三島神社 (8)
平成21年(2009年)に作られた、日本一のかかし「かかまる」。高さ10m、幅7mと巨大である。

三島神社 (7)
後ろにも顔が書いてある。

毎年秋には、三島神社を中心に「やぶ塚かかし祭り」が開催されている。創意工夫を凝らしたかかしが、多数(約100体!)展示され賑わうらしい。

三島神社より「かかまる」の方が、強烈に印象に残ってしまった・・・。


太田市大原町の岡登霊神社(おかのぼりりょうじんじゃ)。
前回の神明宮の境内社である。

岡登霊神社 (1)
岡登霊神社 (2)
地区村民が岡登景能(おかのぼりかげよし)の恩に報いるため、宝暦2年(1752年)神明宮境内に社祠を建立し「岡登霊社」とした。

岡登霊神社 (4)
岡登霊神社 (5)
景能は寛文元年(1661年)に代官になり、さらに足尾銅山奉行もつとめ、産出銅を運搬する銅山街道を整備し、中心の宿として大原宿を設置。それと並行して渡良瀬川から岡登用水を開削して宿用水とし、笠懸野の開発を行った。

岡登霊神社 (3)
その善政は住民から慕われていたが、余りの名声にこれを妬む者の讒言により貞享4年(1687年)自刃している(渡良瀬川の水争いが起因らしい)。景能の功績を記した(と思われる)大きな説明板があったのだが、字が多すぎてよく読めず。

しかし、自分が勧進した神明宮の境内に、自分が神として祀られることになるとは、考えてもいなかったろうね。

*岡登景能の表記に関しては、下記参照。
 「太田市大原町・神明宮


太田市大原町の神明宮。

神明宮 (1)
寛文4年(1665年)、江戸幕府の代官・岡登次郎兵衛景能(かげよし)が、7ヶ村の開墾に際して勧請したもので、明治5年(1872年)郷社に列した。

神明宮 (2)
神明宮 (4)
神明宮 (3)
御祭神は大日霊命(おおひるめのみこと)。天照大神(あまてらすおおみかみ)の別名。

神明宮と岡登霊神社
参道を歩いて行くと、左側に境内社が見える(写真の右奥が神明宮の拝殿)。神明宮を勧進した岡登次郎兵衛景能を祀っている岡登霊神社。なんか囲い塀まであって、郷社である神明宮より立派に見える。

ということで、次は岡登霊神社。

*岡登景能は、岡上景能が正しいらしい。景能死後(自刃)、末裔が岡登を名乗ったため、岡上景能も岡登景能と書かれるようになった。なので、本項では岡登の表記としている。


太田市大原町の笠懸山長建寺。

長建寺 (5)
長建寺 (1)
長建寺 (2)
貞亨4年(1687年)創建で、本尊は阿弥陀如来。

長建寺 (3)
長建寺 (4)
本堂外陣欄間の彫刻。ガラス越しなのできれいに写ってないが、鐵拐仙人が彫刻されている。

この他、外陣には大瞬、楊香、内陣には火焔龍や波間に千鳥など、中国の伝説が題材となっている。作者は岸亦八、養子の太輔、太輔の養子・幸作で、文久3年(1863年)の作品である。

前回の全性寺と同じ作者による欄間彫刻が施されている。
(「太田市大原町・宮林山全性寺」参照)

やはり、ガラス越しにしか見ることができずに残念だった。



太田市大原町の宮林山全性寺。

太田・全性寺 (1)
太田・全性寺 (3)
貞亨4年(1687年)の創建で、本尊は大日如来。

太田・全性寺 (4)
太田・全性寺 (5)
本堂の向拝龍と大瓶束。

太田・全性寺 (6)
本堂外陣欄間の彫刻。ガラス越しなのできれいに写ってないが、「史記」の 韓信の股くぐりが彫刻されている。

韓信の股くぐりとは、韓信が若い頃、町で無頼の青年に辱められ相手の股を くぐったが、後に大をなしたという故事。大志のある者は目前の小事には忍耐 して争わないという例え。 この他、外陣には黄石公・張良(授受の図)、内陣には鐵拐仙人や麒麟など中国の物語や伝説が描かれている。

この作品は、彫刻家・岸亦八と養子の太輔の手によるもので、弘化4年 (1848年)の作である。

本堂のガラス戸が閉まっていて、直接見られなかったのが残念。 (戸が閉まっているのは当たり前なんだけど・・・・・。)


太田市大舘町の東楊寺。

東楊寺 (1)
東楊寺 (2)
豊臣秀吉により、津軽3郡4万5千石の所領を安堵された津軽藩初代藩主・津軽為信は、関ケ原の合戦では徳川家康方に味方し大垣城を攻撃した。その功により家康より、上野国の6村2千石を加増され、その半分近くは尾島の地域であった。

東楊寺 (3)
大舘村(現太田市大舘町)には、津軽藩の代官・足立氏が居住し、その墓は現在も東楊寺境内にある。

旧大舘村には津軽藩の陣屋が置かれ、津軽藩3代藩主・津軽信義は、この陣屋で生まれている。江戸と近い距離にあったため、参勤交代など江戸出府の際には、藩主も東楊寺に滞在したらしい。

ねぷた (1)
ねぷた (2)
そんな縁から、旧尾島町は弘前市(津軽藩)と交流が盛んで、昭和61年(1986年)から、尾島祭にねぷたが参陣・運行されている。

実は、群馬に津軽藩の飛び地があったって話は、青森の知人から教えてもらった。最近会ってないけど、元気にしてるかなぁ~。

追記
再訪記はこちら「石田三成の娘 辰姫の墓・東楊寺 その2


太田市藪塚町の温泉神社。

温泉神社 (1)
群馬県には数多くの温泉地があるが、温泉と名前の付いた神社はここだけである(他県にはある)。昔は湯権現と呼ばれていたようだが、いつのころからか温泉神社と呼ばれるようになった。

温泉神社 (2)
温泉神社 (3)
急な石段を上ると、こじんまりとした拝殿がある。あるとき冷泉になってしまったことを里人が悲しんでいると、古老の夢枕に薬師如来が現れ、この水を温めて入浴すれば万病が直る、と告げたという。以来里人はお堂を建立し、薬師如来を安置し崇拝したという。

温泉神社 (4)
温泉神社 (5)
本殿は覆屋に覆われている。

藪塚温泉は、天智天皇の時代に行基上人により発見されたという。また、新田義貞が鎌倉攻めの折り、傷ついた兵をここで療養させたことから「新田義貞の隠し湯」とも言われている。

でも、ここが温泉街だとは、知らないと気が付かないかも。


太田市藪塚町の西山古墳。

西山古墳 (1)
西山古墳 (5)
「八王子丘陵」と呼ばれる、小高い尾根の標高110mの西側斜面に造られた前方後円墳。

西山古墳 (2)
全長が34m、後円部の直径が18m、高さが4m、前方部の幅が20m、高さ2mで、この大きさは前方後円墳としては比較的小さなもの。6世紀の終わりごろの築造と考えられている。

西山古墳 (3)
西山古墳 (4)
石室は、袖無型で大型の部類に入る。玄室は高麗尺(1尺35cm)を使用しており、長さは13尺、幅は6尺、石室の全長は18尺。

崩落防止の支柱が無粋と文句を言われそうだが、個人的には安心感あり。中に入った途端に崩れたらいやじゃん。

ところで、帰って来てからよく写真をみると、石室内部に虫がびっしり。現地でも虫がいるなぁ~、とは思っていたが、こんなにいたとは・・・。気が付いていたら、とても入れない・・・。


太田市藪塚町の薮塚本町歴史民俗資料館。

藪塚本町歴民俗資料館 (1)
昭和58年(1978年)の開館。藪塚温泉・今井館主であった故今井新次氏が、町内外から収集した遺物を展示。現在は、その他に縄文晩期の遺跡である「石之塔遺跡」から出土した耳飾り・岩版・土偶なども展示している。

藪塚本町歴民俗資料館 (5)
土師質の棺。群馬県内での出土例は非常に少ない。藪塚駅付近にあった古墳から出土。

藪塚本町歴民俗資料館 (2)
藪塚本町歴民俗資料館 (4)
石之塔遺跡から出土の土偶や、管状の注ぎ口のある土器(下の写真の上の段中央)。

藪塚本町歴民俗資料館 (3)
オクマン古墳から出土の農夫の埴輪(左から2番目)。帽子をかぶって鍬をかついでいるので、農夫ということらしい。

もともとは、今井さんから遺物が旧藪塚本町に寄贈されたことから、この資料館は開館したらしい。なので、今井館の真ん前にある??


太田市藪塚町のジャパンスネークセンター。
(財)日本蛇族学術研究所というところが運営しているらしい。

スネークセンター (6)
毒蛇の研究及び利用を主目的としている他、飼育している蛇類を展示・公開している。また、国内で唯一ヤマカガシの血清を製造・保管しており、咬症が発生した際はここから血清が運ばれる。

スネークセンター (3)
スネークセンター (1)
スネークセンター (2)
ひたすら蛇の写真を撮ってきた。種類はよく分かんない。素人目に珍しいようなものを3枚だけ載せるけど、写真はいっぱいある。

スネークセンター (4)
資料館には骨格標本や透明標本、剥製などが展示されてる。

スネークセンター (5)
園内には昭和46年(1971年)に建立・開眼が行われた「白蛇観音」がある。これは飼育、採毒実験等で死亡した蛇の供養を目的としたものらしい。


太田市藪塚町の三日月村。

三日月村 (1)
作家・笹沢左保の作品で、テレビで人気番組となった「木枯し紋次郎」の舞台・上州新田郡(ごおり)三日月村を再現したテーマパーク。

村内は面白不可思議ゾーンと歴史ゾーンに分かれていて、面白不可思議ゾーンのアトラクションは、入村料以外に料金が必要(入村料とのセット券もある)。

三日月村 (5)
三日月村 (7)
有料アトラクションの絡繰り屋敷。
1部屋ごとに仕掛けが施されており、仕掛けをクリアしないと次の部屋に行けない。壁や襖や床柱を押したり、引いたり、持ち上げたり。発想の転換が必要で、まさしく「押してもダメなら引いてみな」。

三日月村 (4)
三日月村 (3)
三日月村 (2)
その他、怪異現洞と不可思土蔵が有料。
怪異現洞は探検施設と言う触れ込みだが、探検というレベルではない。不可思議土蔵は平衡感覚が狂い、斜め歩きになる。そう、土蔵自体が傾いているから。ちょっと気持ち悪くなった。

三日月村 (9)
三日月村 (11)
江戸時代後期の街並みを再現した歴史ゾーン。江戸時代の農家を移築したという、紋次郎の生家や、旅籠、水車、炭焼き小屋などがある。

三日月村 (6)
村内は現在のお金は使えず、入口で「文(もん)」と両替する。100円で1文。余ったら、帰りに再両替してくれる。

しかし垢抜けてないテーマパークだなぁ~。B級とはこういうものを言うの典型。でもB級はB級なりに楽しめた。


太田市新田市野井町の重殿水源(じゅうどのすいげん)。

重殿水源 (2)
重殿水源 (1)
利根川に注いでいる大川の源流。ここも、国指定の史跡「新田荘遺跡」の一部なんだよね。鎌倉時代の古文書には、新田一族の岩松氏と大舘氏がこの用水を巡って争ったことが出てくる。

重殿水源 (3)
川の源流は山の中、ってイメージだけど、以前紹介した「矢太神水源」もここも平地。
(「太田市新田大根町・矢太神水源」参照。)

池って感じで、湧き出しているようには見えなかったけど。

重殿水源 (4)
奥側(北西)の端には、水神の3つの祠が並んでいる。地元では「じゅうどの様」と呼ばれている。

重殿水源 (5)
水はきれいで、たくさんの鯉が泳いでいた。

重殿水源から50mくらいのところに、舗装はされていないが広くて立派な駐車場がある。オレが行ったときは他の車はなかったけど、文化財を訪問する人のために整備されているのは素晴らしい。


太田市亀岡町の広谷山儀源寺。

儀源寺 (2)
儀源寺 (1)
勾当内侍は義貞の首を新田郡武蔵島の地に埋葬し、そこに庵を結び尼となって菩提を弔ったという。義貞の首塚がある花見塚公園のあたりか?
(「勾当内侍の墓と新田義貞の首塚・花見塚公園」参照。)

でも戦国時代末になると、廃庵同然になってしまい、それを大通寺第二世の和尚が、元和元年(1615年)亀岡の地(現在地)に移し、寺院として再建したという。

大通寺は、冠掛の松があるところだね。
(「新田義貞 冠掛の松・宝広山大通寺」参照。)

勾当内侍が上州まで来ていたかは不明である。

一説には・・・。
勾当内侍は娘の山吹姫とともに上州で暮らしており、山吹姫は後醍醐天皇の皇子・宗良親王との間に、国良親王をもうけている。茶臼山古墳に国良親王御陵という碑があるのも、そういったことの証とか。
(「新田氏累代の墓・御室山円福寺」参照。)

まあ南朝の関係者が、武力的な後ろ盾である新田氏の地元に来ていたということも考えられなくはないが・・・。

オレはこの時代の深い知識がないので、なんとも言えないけどね。


太田市武蔵島町の花見塚公園。
ここには新田義貞の妻のひとり・勾当内侍(こうとうのないし)のお墓と新田義貞の首塚がある。

花見塚公園 (2)
新田義貞は後醍醐天皇に仕えていた勾当内侍を恩賞として賜り、この地に新たに館を建て庭に各地から集めたつつじを植えたという。このつつじを館林に移したのがつつじが岡公園の始まりという。

花見塚公園 (3)
園内には花見塚神社がある。これは宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が後醍醐天皇と神武天皇を合祀し、正平元年(1346年)に創建したものといわれている。正平という年号は南朝のものである。

花見塚公園 (5)
花見塚公園 (4)
花見塚神社の奥に勾当内侍のお墓と義貞の首塚が並んでいる。義貞首塚は京の三条河原から勾当内侍が首を盗み出し、持ち帰りここに弔ったからという。

まあ、これはあり得ないんだろうけど、実は義貞の首塚はここ以外にもいくつもある。京都の嵯峨野・滝口寺にも勾当内侍の墓と義貞の首塚という同じ組み合わせがある。いわれも勾当内侍が盗み出したと同じ。

まあ勾当内侍のお墓と称するものも、伝承とともに各地にある。もう真実は分からないだろうがね。

前回の、悪源太義平のお墓も、首を持ち帰り弔ったという、伝承に基づいており、同じ構図だね。(「源義平の墓・義平山清泉寺」参照。)


太田市世良田町の義平山清泉寺。
なんと、源義平のお墓!と伝えられる墓石がある。

清泉寺 (1)
清泉寺 (7)
清泉寺
源義平の菩提を弔うため、妻である新田義重の養娘・妙満尼が建立したといわれている。

入り口前の目立つ看板があったので見つけられたが、寺とは分かりづらい。本堂も古民家のようだし。

義平の墓
墓石表面には、かすかに「悪源太義平公御廟」の文字が。(知らなければ、多分読めない。)

「悪源太」義平は源義朝の長男で、源頼朝や義経の兄にあたる。義平は久寿2年(1155年)の大蔵合戦で武名を轟かせ、悪源太と呼ばれるようになった。この「悪」は「強い」「猛々しい」という意味である。

義平は平治の乱(1159年)に敗れたのちに捕えられ、六条河原で斬首されている。時にわずか20歳。

妙満尼は祥寿姫といい、義平の正室になった。なんで義平のお墓がここにあるかというと、祥寿姫が六条河原に晒されていた首を、密かに持ち帰ったからとか。まあ、ありえないけどね。

清泉寺 (5)
義平のお墓の手前には、徳川吉宗の次男・田安宗武が、娘夫婦の幸福を願って宝歴5年(1755年)に建てたという、宝篋印塔がある。ここにある経緯は知らない。

でも、義平のお墓より断然目立っており、最初はこちらが義平のお墓かと思った。


太田市新田木崎町の宝広山大通寺。
この大通寺の境内に、新田義貞が冠を掛けたと云われる冠掛の松がある。

冠掛の松
冠掛の松2
新田義貞が生品神社で旗揚げし、鎌倉に向かい進軍中に休憩した際、この松に冠を掛けたといわれている。

当時の松は既に枯れてしまい、現在の松は江戸時代末に赤堀の旧家から奉納されたもの。

ここは生品神社から南に3kmくらいしか離れておらず、「さあ~鎌倉攻めだぁ」って気合いを入れて進軍を始めて、3kmで「よぉ~し休憩」って早すぎ?進軍経路も西進説の方が、信憑性高いと思うし。

大通寺 山門
大通寺 (6)
大通寺の山門。新田義貞公何とか跡とあるが、オレには読めない。下に行くほど字が小さくなる、小学生の書初めみたいで(怒らないでね)。

仁王像 (1)
仁王像 (2)
大通寺 本堂
山門には立派な2体の仁王像が。本堂は最近再建されたようで、真新しい。

大通寺境内には、木崎町幼稚園がある。園児は新田義貞伝説に触れながら(知らないと思うが)、健やかに育っていくんだろうね。

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