上州まったり紀行

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カテゴリ: 太田市(旧市部)


太田市由良町の正英山威光寺。

威光寺2 (1)
威光寺は元徳2年(1330年)新田義貞の次男・義興の開基、吽海法印の開山で、正永山医光寺として開創。応永年間(1394~1428年)に横瀬貞氏が義興の冥福を祈るために伽藍を修復、義興の法名「威光寺殿従四位下前武衛傑伝正英大居士」から正英山威光寺と改称している。

威光寺2 (2)
威光寺2 (3)
門前の六地蔵や庚申塔類。六地蔵は天明8年(1788年)の造立。庚申関係(如意輪観音塔)には文化8年(1811年)の紀年銘があった。

威光寺2 (4)
威光寺2 (5)
本堂は平成12年(2000年)の新築建立。

威光寺2 (6)
境内の宝塔。寛政2年(1790年)の造立。

威光寺2 (7)
境内の隅に池があり、その奥にお堂がある。堂内を見ることができなかったので、詳細は分からない。

威光寺2 (8)
威光寺2 (9)
威光寺2 (10)
不動堂。本尊の不動尊像は一尺八寸(約54cm)の木像で、東大寺開山・良弁僧正の真作と伝えられる。新田義貞が上洛時に入手し当寺に寄進したという。

不動堂は明治42年(1909年)に火災に見舞われているが、その際猛火の中から檀家の方が不動明王像を運び出したという。お堂の再建は大正4年(1915年)。

威光寺2 (11)
威光寺2 (12)
威光寺2 (13)
弘法大師堂。木造の大師像を祀る。

威光寺2 (14)
新田義興の墓など3基が並んでいる。中央が新田義興の墓、右は義興の母・臺(台)姫の墓、左は義興従者の墓。

威光寺2 (15)
義興は義貞の次男で、義貞が北陸にて奮戦中の建武4年(1337年)奥州の北畠顕家の挙兵に呼応して上野国で挙兵。吉野で後醍醐天皇に謁見し元服、義興の名を賜る。鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、正平13年(1358年)江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。享年28。

威光寺2 (16)
義興の生母・臺(台)姫の墓。由良光氏の娘で義貞の側室。法名の自性院は威光寺の院号になっている。

謀殺された義興の怨霊を鎮めようと祠を建て新田大明神として祀ったのが、東京都大田区矢口にある新田神社である。ここは破魔矢の発祥の地としても知られる。「新田神社」のHP内に、その由緒(義興のことや神社由来)が紙芝居風の動画で紹介されている。興味のある方は是非。


太田市由良町の飯玉神社。
由良飯玉神社 (1)
由良飯玉神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に稲荷神社、八坂神社、宗像神社などを合祀している。一の鳥居は明治38年(1905年)の建立。

由良飯玉神社 (2)
由良飯玉神社 (3)
鳥居は計4基あり、2基目(二の鳥居と言うべきか)は元禄9年(1696年)、3基目は天保8年(1838年)の建立。

由良飯玉神社 (4)
由良飯玉神社 (5)
社殿の建立年など、詳細は分からない。

由良飯玉神社 (6)
由良飯玉神社 (7)
社殿の裏の境内社は、大黒さまの像が置かれていたので増殿神社かな。古くから大国主命と混同・習合しているので(増殿神社のご祭神は大国主命)。

由良飯玉神社 (8)
由良飯玉神社 (9)
社殿横には石宮が並ぶ。詳細は分からない。

由良飯玉神社 (10)
「敬神虔道」と書かれた碑があった。揮毫は近衛文麿なので昭和初期(1940年ころ)の建碑かな。3文字目は「けん」と読むらしい(手前の枝が邪魔をしているが)。「神を謹んで深く敬え」というような意味だろう。あまり見たことがない碑だ。


太田市脇屋町の脇屋義助館跡。

脇屋義助館跡
脇屋義助館跡といわれる地に建つ「脇屋義助公居館跡」の碑。昭和13年(1938年)の建碑。

脇屋義助は新田義貞の弟で、義貞の挙兵以降副将として奮戦している。義貞討死後は後村上天皇(第97代にして南朝2代)の勅命を受け四国・伊予(愛媛県)に渡ったが、病により興国3年(北朝は康永元年、1342年)36歳で死去している。

平成9年(1997年)刊の「太田市史 通史編 中世」によると、「桑畑中に脇屋義助館跡の碑が建っているが、館の堀跡も土居も片影すら見ることができない」とあり、当時すでに遺構などは確認できなくなっていたようだ。さらに現在では多くが住宅地化されており、逆に農地の方が少なくなっている。時の移ろいは早いものだ。

往時は義助の館に隣接し、正法寺が建っていたとされる。正法寺は万治年間(1658~61年)の火災により現在地(館跡から約1kmほど離れた場所)に移っているが、昭和23年(1948年)の開墾作業中に層塔などが出土している。それらは現在の正法寺に置かれている。

この開墾事業により、館跡の遺構はほぼ消滅したようだ。

関連
 「太田市脇屋町・脇屋山正法寺


太田市脇屋町の脇屋山正法寺。

正法寺2 (1)
正法寺は山城国醍醐寺開山の聖宝僧正が東国遊化の際、延喜年間(901~23年)に創建。創建時は萬明山聖宝寺と称していた。元暦年間(1184~85年)新田義重が堂宇を修理し、元弘年間(1331~34年)に新田義貞の弟・脇屋義助が寺領と大般若経600巻を寄進している。

興国3年(北朝は康永元年、1342年)義助が伊予(愛媛県)国府にて病没(享年36)すると、寺僧が「正法寺殿傑山宗英大居士」という法号とともに遺髪を持参、以来脇屋山正法寺と改称した。なお、法号と遺髪を持参したのは児島高徳との伝承もある。

万治年間(1658~61年)に火災に遭い、観音免と呼ばれる地から現在地に移転したといわれている。観音免には脇屋氏の館もあったとされる。

正法寺2 (2)
正法寺2 (3)
仁王門は貞享2年(1685年)の建立。享和3年(1803年)に改築されている。昭和28年(1953年)には解体・基礎の打ち直しなどの大改修を行っている。

正法寺2 (4)
正法寺2 (5)
仁王像は阿像・吽像ともに像高2.6mほどで彩色されている。昭和63年(1988年)の解体修理の際、背面と顔面裏から銘文が発見され、貞享2年に京都の大仏師・左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。

正法寺2 (6)
大鰐口は2m、530kg。貞享2年の鋳造(仁王門・仁王像とともに作成されたようだ)。しかし先の大戦時に供出。現在の鰐口は昭和57年(1982年)の鋳造。

正法寺2 (7)
正法寺2 (8)
本堂は文化4年(1807年)の脇屋大火により焼失。以降、観音堂を本堂としている。そのため扁額は「観音堂」。観音堂は享和3年(1803年)の建立。

正法寺2 (9)
新田氏の大中黒紋が輝く。

正法寺2 (10)
脇屋義助の石像。平成17年(2005年)の造立。

脇屋義助は兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。興国3年には後村上天皇から中国・四国方面の総大将に任命され、四国に渡るも伊予国(愛媛県)で発病しそのまま病没している。

正法寺2 (11)
正法寺2 (12)
義助の遺髪塚(向かって右)。左は義助の墓とする資料もあるが、後に造立された供養塔。見づらくて申し訳ないが、暦応3年(1340年)とある。これは北朝の年号であり、南朝では興国元年になる(一部資料には義助の没年を興国元年としているものもある)。南朝方として奮闘したのだから、せめて元号は南朝の興国を使わないといけないだろう。

正法寺2 (13)
移転前の旧地から出土した層塔。旧地は現在地から1kmほど離れた観音免と呼ばれる場所。昭和23年(1948年)の開墾作業中に見つかっている。その他にも五輪塔、承安2年(1300年)銘の板碑などが出土している。

正法寺2 (14)
正法寺2 (15)
本堂裏の宝物庫(らしき建物)。「文化財観音」とあったので、普段は本尊の聖観音像が安置されていると思われる。本尊の聖観音像は高さ155cmで鎌倉時代初期の作と考えられており、群馬県の重文に指定されている。伝承では行基が香木に彫刻した等身大の立像といわれるが、行基は奈良時代の僧なので時代が合わない。聖観音像は午年(12年に1度)のみご開帳される。

正法寺2 (16)
濡れ金仏地蔵。高さ205cmの銅製地蔵坐像。宝暦10年(1760年)下野国(栃木県)佐野の鋳物師・丸山孫右衛門清光の作。

正法寺2 (17)
大正天皇が皇太子時代に行啓された記念碑。揮毫は陸軍中将・川岸文三郎(太田市出身)。明治41年(1908年)近衛師団機動演習に際し、当寺でご休憩されている。

正法寺2 (18)
三鈷の松とあった。標柱には「中国北京 明の十三陵より」とあるので、そこからの移植だと思う。一般的に「三鈷の松」は弘法大師が唐から帰国するときに投げた三鈷杵が、高野山の松の木に引っかかっており、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、葉が3葉になっており御利益があるといわれる。

葉を確認したわけではないし探してもいないが、3葉を見つけたら相当縁起が良い。


太田市脇屋町の赤城神社。

脇屋赤城神社 (1)
脇屋赤城神社 (2)
脇屋赤城神社は鎌倉時代に新田義重が創建したと伝えられる。新田氏、脇屋氏から篤く崇敬されたという。

脇屋赤城神社 (3)
脇屋赤城神社 (4)
脇屋赤城神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和27年(1952年)に改築されている。

脇屋赤城神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。貴船社、粟島社、稲荷社、熊野社、北野社など。

脇屋赤城神社 (7)
社殿の周囲は芝が敷き詰められ、しかも綺麗に刈られている。余りの綺麗さに驚いたが、よく見ると所々にピンフラッグが立っており、ティーグランドらしきものもある。

脇屋赤城神社 (8)
社殿回りは赤城神社パークゴルフ場とのことで、綺麗な芝も納得。太田市がパークゴルフ場を整備し、「赤城神社パークゴルフ愛好会」のみなさんが芝刈りなどの整備を月1回行っているようだ。


太田市藤阿久町の稲荷神社。

藤阿久稲荷神社 (1)
藤阿久稲荷神社の由緒は不詳。明治期に八幡宮を合祀している。昭和51年(1976年)刊の宝泉村誌には「境内の老杉を見ても千年近いものと思われ」と記載され相当の古社と思わせるが、現在は市街地化が進んでおりその面影は感じない。

鳥居は平成27年(2015年)の建立。

藤阿久稲荷神社 (3)
藤阿久稲荷神社 (4)
藤阿久稲荷神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和62年(1987年)に改修を行っている。また、本殿は新田俊純の寄進と伝えられている。俊純は江戸末から明治にかけての岩松家当主。明治維新後、岩松氏が新田氏の嫡流と認められたため、新田に改姓(復姓)している。明治16年(1883年)には華族に列し、翌年は爵位(男爵)を得ている。

藤阿久稲荷神社 (6)
藤阿久稲荷神社 (7)
境内社の八坂神社。

藤阿久稲荷神社 (8)
境内社・末社の石宮が並ぶ。厳島社、生品社、宗像社、諏訪社、天満宮。

藤阿久稲荷神社 (9)
旧鳥居の柱と思われる石柱が、境内にそのまま置かれていた。確かに処分するにはお金がかかるし、地域の神社では負担も大きいから大変だよね。


太田市金山町の大田山義貞院金龍寺。

金龍寺2 (1)
金龍寺は応永24年(1417年)横瀬貞氏が新田義貞の追善供養のため創建したとされる。寺号は義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」から。後に横瀬氏(由良氏)は下剋上により岩松氏を退け、実質的な金山城主となっている。そのため金龍寺も横瀬氏の菩提寺として興隆している。

天正18年(1590年)由良氏は常陸国牛久へ転封となり、金龍寺も牛久へ移転している(現在も茨城県龍ケ崎市にある)。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615年)に当地を領した榊原氏によって再興されている。

金龍寺2 (2)
木々に覆われた石段を昇っていく。石段は昭和13年(1938年)に整備・改修されている。

金龍寺2 (3)
金龍寺2 (4)
六地蔵は昭和52年(1977年)の造立。向かいには地蔵像や庚申塔・月待ち講塔などが並ぶ。

金龍寺2 (5)
本堂前の七福神。金龍寺は「上州太田七福神」の毘沙門天を祀る。

金龍寺2 (6)
金龍寺2 (7)
金龍寺2 (8)
本堂の屋根には三つ葉葵紋と由良氏の五三桐紋が掲げられている。五三桐紋は岩松氏も使っているのと、両氏とも新田氏を示す大中黒紋も使っており紛らわしい。

金龍寺2 (9)
金龍寺2 (10)
本堂内部。ご本尊の釈迦如来。

金龍寺2 (11)
金龍寺2 (12)
金龍寺2 (13)
本堂の欄間彫刻。題材は知識がなく分からない。

金龍寺2 (14)
本堂裏にある新田義貞供養塔。供養塔は寛永14年(1637年)の義貞300回忌法要に際し造立されたもの。石英斑岩製の基礎部の上に安山岩製の多層塔を重ねたもの。総高は246cm。

金龍寺2 (15)
金龍寺2 (16)
義貞供養塔の前(と言うか下)には、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主とその一族の墓がある。由良氏五輪塔は9基あり、安山岩製で紀年銘・法名などが刻まれている。

横瀬氏(由良氏)は新田義貞の3男・義宗の子である貞氏(金龍寺開基)が横瀬氏へ入婿したとし、新田氏の一族であると自称するようになった。最終的には明治政府により、新田氏嫡流は岩松氏とされている。ちなみに、岩松氏は氏祖の時兼の父系が足利氏、母系が新田氏という家系。


太田市金山町の義重山大光院新田寺の2回目。
(1回目は「太田市金山町・義重山大光院新田寺」参照)

大光院2 (1)
前回、大光院の主な建物と呑龍上人、新田義重の墓所などを紹介した。大光院には他にも遺物や伝承にちなんだものがあるので紹介する。

大光院2 (2)
大光院2 (3)
弁天堂。「上州太田七福神」の弁財天を祀る。本尊は厨子の中のようだ。

大光院2 (4)
弁天堂のすぐ裏の雨乞いの池(古い資料には舞雲池とある)。その名の通り、干ばつの時などに雨を降らせる霊験があるという。沐浴の後に阿伽として池の水を呑龍上人(の墓前)に供えると雨を降らせる霊験があるという。

これは呑龍上人が林西寺住職の時、龍神に念仏を唱えることで雨を降らせたという伝承があるので、そこから呑龍上人に祈願すれば雨が降るとなったのだろう。

大光院2 (5)
甘露水の井戸。白水がこんこんと湧き出て、干ばつ時にも涸れることがないといわれる。手にすくい取って口を漱げば香気を感じるという。現在、井戸はなく屋根を付けた土管(?)が置かれているだけのように見える(覗き込んだわけではないが)。

口碑では、越後国高田の老僧・順応が不幸にも悪疫に罹ったが百薬の効なく、最後の頼みとして塩穀を絶ち呑龍上人に祈願した。すると夢のお告げで「御廟の下に霊水あり。これを服し、これに浴し、謹んで怪しむことなかれ」と。順応は霊夢に従い霊水を服し、浴したところ3日で病が癒えたという。以後、この水を甘露水というようになった。

大光院2 (6)
源次兵衛の墓。源次兵衛は武州(埼玉)の郷士の息子で、父の難病を治すため国禁を犯して鶴を猟殺(生き血を飲ませたかった)した若者。

元和2年(1616年)役人から追われる身となった源次兵衛は、呑龍上人に救いを求め大光院へ逃げ込む。呑龍上人は「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」と源次兵衛を庇い、大光院の住職の地位を捨て、源次兵衛とともに信州小諸の山中に身を隠した。

元和6年(1620年)に芝増上寺・観智国師の取りなし(死に際しての幕府への願い)で許され、大光院住職に復帰している。源次兵衛は形の上では出家していたので、大光院で生涯を終えている(詳細は不明)。

大光院2 (7)
大光院2 (8)
源次兵衛の墓を挟み、鶴塚(猟殺された鶴の供養塔かな)と如意輪観音像がある。


太田市金山町の義重山大光院新田寺。

大光院 (1)
慶長16年(1611年)新田氏の祖・義重に鎮守府将軍が追贈されたことから、徳川家康が義重の追善供養のため開山に呑龍上人を招き慶長18年(1613年)に創建。院号の大光院は義重の法名「大光院殿方山西公大禅定門」、寺号は新田氏(元は郡名)から。

家康は自らを源氏の一族であることにするため、義重の4男・義季の末裔を自称していた。義季の子孫が三河国へ移り松平家に入婿し、その8代目が家康ということになっている。

大光院 (2)
吉祥門は慶長20年(1615年)の建立。三つ葉葵の紋がさんぜんと輝く。平成12年(2000年)に屋根の全面修復を行い、建立当時の瓦と推定される「丸に三葉葵」の家紋が入った瓦屋根が復元されている。

大坂城落城の日に山門完成の報告を受けたので、家康が「大坂落城と山門完成の報が同時とはめでたいことである。これは徳川家にとって吉祥であるから、以後その門を吉祥門と名付け長く保存せよ」と命じたとされる。

大光院 (3)
家康の命令で創建されただけあり境内は広大だ。元は義重の父・義国の城地とされる。また境内地を調査した土井利勝らは、当地を「名山勝水古蹟霊場左右山中に烈在する。まさに『四神相応』の聖地」と家康に報告したという。

大光院 (4)
大光院 (5)
本堂は慶長18年の創建時の建立。江戸時代に6回の改修・修復が行われ、近年では大正14年(1925年)に大改修が行われている。扁額の揮毫は江戸末の有栖川宮家の尊超入道親王。

大光院 (6)
本堂前の灯籠。文政10年(1827年)の奉納。

大光院 (7)
大光院 (8)
本堂前の臥竜の松。巨龍が地に臥し、今まさに天に昇ろうとする勢いを表わすような姿から「臥龍松」と呼ばれている。呑龍上人の手植えと伝わることから「呑龍の松」とも。

臥龍松(樹齢700年といわれる)はかなり樹勢が衰えており、夏にもかかわらず幹枝のみの状況。壊死の心配も出てきている。

大光院 (9)
大光院 (10)
開山堂は昭和9年(1934年)の再建。もとの開山堂は明和8年(1771年)の建立。堂内には呑龍上人の尊像を祀る。尊像は元和8年(1622年)に上人自ら斧を取って彫刻したといわれる。高さ4尺3寸(約130cm)で、像容は上人の生き写しとされる。

大光院 (11)
大光院 (12)
梵鐘は明治42年(1909年)鋳造であったが、先の大戦時の供出。現在の梵鐘は昭和33年(1958年)落慶。

大光院 (15)
大光院 (16)
本堂の左奥にある新田義重の墓。元は金山の東麓菅ノ沢にあったものを大光院創建時に移したと伝わる。墓前の灯籠は延宝2年(1674年)幕府老中・安部正能の奉納と、元禄11年(1698年)伊勢崎藩主・酒井忠寬の奉納。ところが、灯籠が写っている写真がなかった・・・。

義重は武家の棟梁として名高い源義家の孫にあたる(義家3男・義国の長男)。父とともに関東に下向し足利荘を開拓。後に新田荘に移り同様に開拓。義重は新田荘を継承し、足利荘は弟の義康が継承した。後に「建武の新政」時に争った新田義貞と足利尊氏は両家の子孫。

大光院 (13)
大光院 (14)
呑龍上人の墓。上人は弘治2年(1556年)武蔵国埼玉郡一の割村(現春日部市)に生まれ、元和9年(1623年)入寂。世寿68。呑龍上人が捨て子などを弟子として養育したことなどの遺徳から「子育て呑龍」と呼ばれ、篤く信仰を集めている。

元和2年(1616年)孝心のため国禁を犯し保護鳥の鶴を殺してしまった源次兵衛を匿まい幕府から譴責されたが、元和7年(1621年)に赦免された逸話もある。本件に関する古蹟もあるので、その他の施設・遺跡も含めて次回ということで。


太田市飯田町の桃花山霊雲寺。

霊雲寺 (1)
霊雲寺は永正年間(1504~21年)横瀬成繁(業繁)の開基。開山は恵林寺2世・天意長朔大和尚といわれる。この成繁は下克上にて戦国大名に成り上がった成繁(由良)ではなく、その曾祖父にあたる。

まあ横瀬成繁の時代には実質的に金山城主になっており、岩松氏が追放されるのも時間の問題だったけど。

寺号は成繁の法名「霊雲院殿義山宗忠居士」からきている。ちなみに、成繁(業繁)の墓は大田山金龍寺にある。(「新田義貞の供養塔・大田山金龍寺」参照)

霊雲寺 (2)
霊雲寺 (3)
本堂は平成3年(1991年)の建立。以前の本堂は藁葺きだったという。本尊は釈迦如来で、その坐像は全体に漆箔が施され厨子の中に安置されており、太田市の重文に指定されている。

霊雲寺 (4)
霊雲寺 (5)
境内の六地蔵と二十二夜塔。

霊雲寺 (6)
小坊主さんの手には本物の竹ぼうきが握られている。こういう仕様なんだね。


太田市東今泉町の巌穴山(いわあなやま)古墳。

巌穴山古墳 (1)
巌穴山古墳は、一辺36.5m(現存30m)、高さ約6mの方墳。墳丘4辺の方位が、それぞれ東西南北とほぼ一致している。また、幅8mの周堀が確認されている。築造は7世紀前半と推定され、太田市では唯一の方墳である。

巌穴山古墳 (2)
巌穴山古墳 (3)
巌穴山古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口している。石室は玄室と羨道の間に前室を持つ複式構造で、凝灰岩や自然石を使用している。石室の全長は約13m、玄室の高さは約2.7m。

玄室内からは人骨片や土師器片、金環、刀装具、鉄釘が、羨道部から須恵器などが出土している。葺石、埴輪は見つかっていない。

なお、石室内からは「寛永通宝」も見つかっており、江戸時代には人の出入りが行われていたようだ。当然、盗掘されているということ。もしかして、寛永通宝は石室内から持ち出した宝物の「代金」として置いていったのか、などと想像してみた(笑)。

太田市富若町の名号角塔婆。

富若の名号角塔婆 (1)
富若の名号角塔婆 (2)
富若の名号角塔婆は高さ78cmであるが、上部が欠けているため本来の高さは不明。幅は28cm。みどり市笠懸町産出の天神山凝灰岩製。正面に永仁5年(1297年)の銘がある。「南無阿弥陀仏」の六字名号が4面に刻まれており、造立者は薗田(園田)氏一門と推定される。

名号角塔婆は中世の浄土宗信仰にもとづく供養塔で、県内では太田市、桐生市、みどり市の各一部地域の35基しか確認されていない。これは薗田氏の支配地と共通している。鎌倉初期の当主・薗田成家が京都に巡廻警護に上がった際、法然に師事・出家し智明となり、当地に浄土宗を広めたためと考えられている。

関連
 「桐生市川内町・萬松山崇禅寺
 「太田市金井町・金井山永福寺
 「太田市矢田堀町・矢田堀勘兵衛屋敷の名号角塔婆


太田市丸山町の義徳山大圓寺。

大円寺 (1)
大圓寺は明暦元年(1655年)の創建。安政年間(1854~60年)の火災により、記録などは焼失してしまっている。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
現在の本堂は平成17年(2005年)の再建。

大円寺 (4)
参道脇にある徳本行者名号碑。
徳本行者は江戸時代後期の浄土宗の僧侶で、各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖と呼ばれていた。

文化13年(1816年)に上州遊行をした記録があるので、その際に大圓寺に寄るなどしたのだろうか?

大円寺 (5)
大円寺 (6)
墓地入口に勾当内侍(こうとうのないし)の墓とされる宝篋印塔がある。その後方には、「勾当内侍之墓」と記された碑が建っている。

勾当内侍は新田義貞の妻とされる。新田義貞が勾当内侍との別れを惜しんだため、九州へ逃れた足利尊氏への追撃の時期を逸したと太平記には書かれている。

太平記が江戸時代に広まると、勾当内侍の墓が全国各地に作られており、大圓寺の墓もこのころ造立されたものと思われる。

ちなみに、太田市武蔵島町の花見塚公園には、新田義貞の首塚と勾当内侍の墓が並んで建っている。また、太田市亀岡町には勾当内侍が義貞供養のため庵を結んだのが起源とされる儀源寺がある。
 「勾当内侍の墓と新田義貞の首塚・花見塚公園
 「太田市亀岡町・広谷山儀源寺


太田市本町の春日神社。

春日神社 (1)
太田春日神社は元享3年(1323年)新田義重が春日大社から神霊を勧請し新田家の崇敬社とした。その後、応永5年(1398年)現在地に遷座し太田の総鎮守となる。

以上は案内板からだが、「元享3年(1323年)新田義重が」って明らかに間違ってるだろ。義重は新田氏の祖で平安末から鎌倉初期の武将。元享3年が正しいなら義貞の時代だし、義重が正しいなら年代が間違っている。

春日神社 (2)
狛犬が南国風。奉納者は元台湾・台北市長。戦時中、中島飛行機で働いていたようだ。その後、昭和50年代に作り直している。

春日神社 (3)
春日神社 (4)
春日神社 (5)
春日神社 (6)
境内はあまり広くないが、社殿も含め雰囲気は良い。拝殿や本殿の彫刻も素晴らしい。ただ、屋根は瓦風だけどね。

由緒の間違いはさて置き、新田氏関係は間違っていないと思うので、往時の境内は相当広大だったと推定される。現在は街中になってしまったので、しょうがないけどね。


太田市原宿町の栄昌山善宗寺。

善宗寺 (1)
善宗寺は元禄12年(1699年)、曹源寺9世・萬了雷重によって創建された。もともとは曹源寺住職の隠居寺とされていた。(曹源寺は「太田市東今泉町・祥寿山曹源寺」参照)

善宗寺 (2)
本堂は天明3年(1783年)の再建だが、平成3年(1991年)に改修されている。本尊は阿弥陀如来だが、同じく祀られている大黒天は「上州七福神」のひとつである。

善宗寺 (3)
境内の「一期一会」と記された石碑には、大黒天が描かれている。

善宗寺 (4)
薬師如来(左)、地蔵菩薩(中)は分かるが、右は??

善宗寺 (5)
善宗寺 (6)
お堂を覗いて見たら、八臂弁財天坐像らしきものが。オレの拙い知識だとそう見えるんだけど。大黒天を祀るお寺に弁天様がいる??

ところで、善宗寺の大黒天は「上州七福神」で、「上州太田七福神」ではない(ちょっと紛らわしい)。ちなみに、「上州七福神」は善宗寺以外は
 布袋尊(霊山寺) 甘楽郡下仁田町
 寿老人(長松寺) 北群馬郡吉岡町
 弁財天(興禅寺) 渋川市赤城町
 毘沙門天(柳沢寺) 北群馬郡榛東村
 恵比寿(珊瑚寺) 前橋市富士見町
 福禄寿(正円寺) 前橋市堀之下町
と群馬県にちらばっている。


太田市市場町の稲荷山古墳。

太田稲荷山古墳 (1)
太田稲荷山古墳は、径32m、高さ4mの円墳と推定されるが、南西部に周囲より一段高い平たん部があり、帆立貝形古墳の可能性もある。西側には周堀の形跡が認められる。

墳丘には葺石があり、円筒埴輪、形象埴輪(人物など)も発見されている。6世紀中ごろの築造と推定される。

太田稲荷山古墳 (2)
太田稲荷山古墳 (3)
太田稲荷山古墳 (4)
墳頂には稲荷神社が鎮座している。

太田市には西本町の県立太田高校の校内にも稲荷山という名の古墳がある。話が逸れるが、太田高では古墳に立ち入ったりボールなどを投げこんでしまうと浪人すると言い伝えられている(太田高は群馬県内有数の進学校)。


太田市石原町の賀茂神社。
鳥居のない神社としてTV番組などでも紹介されたことがある。

石原賀茂神社 (1)
石原賀茂神社の創建は不明だが、日光へ向かう例幣使が休憩したというから、例幣使が日光に派遣された正保4年(1647年)以前ということになる。

石原賀茂神社 (2)
石原賀茂神社 (3)
石原賀茂神社 (4)
簡素な拝殿。本殿も覆屋内のため見えない。

石原賀茂神社 (5)
最初に書いたように、石原賀茂神社には鳥居がない。それは、例幣使が賀茂神社で休憩していると、一匹の犬が激しく吠え始めた。共侍が追い払おうとしてもなお激しく吠え続ける。怒った共侍は犬を切り捨ててしまった。すると首は空に飛び鳥居の上の大蛇に噛みついた。犬は大蛇の危険を知らせるために吠えていたということ。

例幣使を助けた犬を供養するとともに、鳥居があったので大蛇がそこに上がったということから鳥居をなくした。そして、そのまま現在もないということらしい。

救助犬の像は平成18年(2006年)に建立された。


太田市菅塩町の聖天山善泉寺。

善泉寺 (1)
善泉寺 (2)
善泉寺は文明13年(1481年)益田一族の館跡を祈願所としたのが始まりという。益田氏は藤原秀郷系といわれ、横瀬氏(由良氏)の配下であった。一説には大胡城を築城したともいわれるが、もちろん定かではない。また、大胡城が横瀬氏支配時の城主であったともいわれる。

善泉寺 (3)
一時衰退していたが永正元年(1504年)再興され、任空により高野山から秘鍵弘法大師像が納められ、真言密教の道場とされた。秘鍵弘法大師像とは剣を持った弘法大師像だが、この剣は「文殊菩薩の剣は諸戯を断つ」ということかららしい。

善泉寺の秘鍵弘法大師像は、現存する関東唯一の像である

善泉寺 (4)
薬師堂に祀られる薬師如来は「トラ薬師」と呼ばれ、目の病にご利益があるとされる。

善泉寺についてはいろいろ調べたが、不明の情報が多い。自分で書いておいてなんだが、今回は未確認情報が多いのでご注意ください <(_ _)>


太田市丸山町の賀茂神社。

丸山賀茂神社 (1)
丸山賀茂神社 (2)
丸山賀茂神社 (3)
丸山賀茂神社の創建は不詳だが、丸山宿が誕生した慶長11年(1606年)村上から遷座している。村上地区は丸山宿の誕生に伴い、地区住民が丸山宿へ移住したため、廃村となっている。

丸山賀茂神社 (4)
丸山賀茂神社 (5)
社殿は質素な造りであるが、境内が意外に広く立派な杉木立もあり、緑豊かな雰囲気である。

丸山賀茂神社は丸山宿の西端に鎮座しており、宿場の鎮守様として地域を守っている。


太田市丸山町の清滝山清光寺と米山薬師。

清光寺 (1)
清光寺 (2)
清光寺の由緒は不明。特に山門があるわけでもなく、門標があるだけ。お寺の入口っぽくないので、見過ごしてしまった。

清光寺 (3)
本堂も公民館風。お寺の本堂とはちょっと見えない。

清光密寺 (4)
清光寺から見える丸山の山麓にある米山薬師。清光寺が本坊、米山薬師が薬師堂という位置づけだと思う。

米山薬師 (1)
米山薬師 (2)
米山薬師 (3)
米山薬師は丸山の頂上にあったが、平成4年(1992年)に焼失してしまい、現在地に再建されている。

丸山は標高114.6mで小山といったところ。丸山の形成にはダイダラボッチ伝説がある。ダイダラボッチは赤城山に腰かけて利根川で足を洗ったという巨人。その時に吸っていた煙管の灰で丸山ができたといわれる。

米山薬師 (4)
新田義貞が崇拝していたという薬師如来を祀っている。なので、年代的には相当古そうだが、米山薬師そのものは慶長11年(1606年)の創建。麓の丸山宿が慶長11年に領国整備の一環で、太田と桐生を結ぶ宿場として誕生した際に祀られたと思われる。

なお、丸山は戦国期は金山城の砦として使われていた。山頂からは金山城や桐生や伊勢崎方面まで見渡すことができるので、それ以前から物見台などとして使われていたと考えられる。ちなみに、元亀3年(1571年)に上杉謙信が由良氏を攻めた際、謙信に落とされている。


太田市寺井町の寺尾山聖王寺。

聖王寺 (1)
聖王寺は天永年間(1110~12年)興教大師の開山。興教大師とは真言宗の中興の祖といわれる覚鑁(かくばん)のこと。

戦国期に武田信玄の弟・信繁の子が一族の供養のため、寺を再興し正応寺とした。その後、江戸時代に現在地へ移転し聖王寺となった。

聖王寺 (2)
聖王寺 (3)
入母屋造りの本堂。

聖王寺 (4)
聖王寺 (5)
本堂右手に地蔵堂があった。

聖王寺 (6)
中を覗いて見たけど、お地蔵さんらしきお姿はなし。厨子も空のようだ。

聖王寺 (7)
境内の明応元年(1764年)銘の六十六部供養塔。

信繁の子としては信頼、信豊、信永の3人の名が残っているが、信頼は永禄4年(1561年)、信豊は天正10年(1582年)、信永は天正3年(1575年)にそれぞれ死去している。しいて言えば2男・信豊あたりになるのかな。信豊の正室は小幡憲重の娘なので、一応上野国との関係はある。

とは言え一族の供養のためとなると、聖王寺を再興したのは他のやっぱり他の「子」と推定されるが、詳細は分からない。


太田市下浜田町の米珠山吉祥寺。

吉祥寺 (1)
吉祥寺 (2)
吉祥寺 (3)
吉祥寺は建治年間(1275~77年)僧・叡範の開山と伝えられる。室町中期に火災にて焼失し、再建されたのは安永4年(1775年)。

吉祥寺 (4)
吉祥寺 (5)
本堂は平成2年(1990年)の再建。朱塗りのコンクリート造り。ご本尊の不動明王は、元禄時代(1688~1704年)の仏師・法橋運良の作。

幕末の勤皇の先駆者・高山彦九郎は、吉祥寺本堂で開かれていた私塾に通っていたといわれている。(高山彦九郎は「太田市細谷町・高山彦九郎記念館」参照)


太田市新井町の八幡宮。

新井八幡宮 (1)
新井八幡宮は新田義房が永寿年間(1182~84年)に、京都石清水八幡宮の御分霊を奉斎し創建したと伝えられる。

新井八幡宮 (2)
新井八幡宮 (4)
新井八幡宮 (6)
社殿は文治5年(1189年)新田若美の造営と伝えられるが、若美って誰??
寛文年間(1661~72年)には館林城主・徳川綱吉が自らの祈願所としている。

新井八幡宮には獅子舞が伝えられおり、太田市の無形重文になっている。獅子舞は新井覚義の20代裔孫・宗貞が、文亀元年(1501年)に石清水八幡宮から伝えたとされる。天下泰平、五穀豊穣、町内繁栄、怨敵退散の祈りが込められた獅子舞は9月15日前後の土日の奉納される。

ちなみに、新田義房は新田氏の祖・義重の孫。新井覚義は義房の2男。


太田市新井町の延命山十輪寺。

十輪寺 (1)
十輪寺は延久年間(1190~99年)に新田義房の2男・荒井覚義の開山と伝えられる。義房は新田氏の祖・義重の孫である。山門は平成10年(1998年)の再建。

十輪寺 (2)
十輪寺 (3)
コンクリート造り、銅葺朱塗りの本堂は、昭和53年(1978年)の再建。

十輪寺 (4)
延享2年(1745年)の銘のある宝篋印塔。十輪寺は火災により全堂が焼失しているが、この宝篋印塔のみ難を逃れている。

十輪寺 (5)
十輪寺 (6)
十輪寺 (7)
関東霊場の開創(平成7年:1995年)に伴い建立された宝形造り、銅葺の二間四面の大師堂。もちろん弘法大師が鎮座している。

十輪寺は江戸末期から世良田の総持寺の末寺となるなど、明治期まで他寺兼務の時期が続いたが、現在は立派な寺容となっている。

ちなみに、江戸時代の学者・新井白石は、覚義の末裔といわれている。

太田市矢田堀町の名号角塔婆。

矢田堀勘兵衛館の名号角塔婆 (1)
戦国時代の矢田堀城跡の北端にある5基の角塔婆。この付近は「勘兵衛屋敷」と通称されているが、由来は不明のようだ。

矢田堀勘兵衛館の名号角塔婆 (2)
角塔婆5基のうち1基に「正応二年 為原朝臣淡路十郎信光女子也」の銘がある。どれかは分からなかった・・・。(正応2年は1289年)

造立年代は鎌倉時代後期から室町時代初期で、造立者は薗田(園田)氏一門と考えられている。薗田氏と言えば、京都に巡回警護に上がった際、法然上人に接し仏の魅力にひかれ弟子となり、智明房と称した薗田成家が有名。

成家は桐生市川内町に崇禅寺を開創し、当地に浄土宗を広めている。
(「桐生市川内町・萬松山崇禅寺」参照)

名号角塔婆は浄土信仰に基づく供養塔で、薗田成家と関わりのある限定された地域(太田市北東部、桐生市川内地区から大間々町)で建てられている。


太田市矢田堀町の慈眼山瑞岩寺。

瑞岩寺 (1)
瑞岩寺は天文12年(1543年)の創建。運慶作の十一面観音を本尊としている。とあるが真偽は??

瑞岩寺 (3)
瑞岩寺 (4)
瑞岩寺の寺号は、中興開基の泉繁俊(法名:瑞岩寺殿傑翁宗英大居士)から来ている。繁俊は横瀬国経の次男。国経についてはよく分からないが、戦国大名として自立した成繁の祖父・景繁と同一人物という説もあるようだ。

瑞岩寺 (2)
住職さんは昨年、テレ朝の「ぶっちゃけ寺」へ出演したそうだ。爆笑問題がMCをしている番組。オレは爆笑問題があまり好きではないので(太田、田中の両方好きではない)視たことないが・・・。


太田市東金井町の金井山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺 (2)
永福寺 (3)
永福寺の創建年代は不明だが、寺伝によると応永24年(1417年)横瀬貞氏が祖父の追善供養のため再建したといわれる。その後荒廃したが、文明15年(1483年)沼田迦葉山・大盛宗隆によって再興されている。

永福寺 (4)
高さ99cm、幅26cmの名号角塔婆。東西の2面には「南無阿弥陀佛」の六字名号が刻まれている。造立年代は鎌倉時代後期から室町時代初期で、造立者は当時この地を支配していた薗田氏と考えられている。

名号角塔婆は浄土信仰に基づく供養塔で、薗田成家と関わりのある限定された地域(太田市北東部、桐生市川内地区から大間々町)で建てられている。

薗田成家は京都に巡回警護に上がった際、法然の弟子となり智明と名乗り、桐生市川内町に崇禅寺を開創、浄土宗を広めている。(「桐生市川内町・萬松山崇禅寺」参照)

永福寺 (5)
永福寺 (6)
永福寺には「上州太田七福神」の寿老人が祀られている。寿老人は延命を司る南極の寿星が化身したもので、髭をたくわえ唐風の着衣を着けた老人である。

永福寺を再興したという横瀬貞氏は、横瀬氏の実質的な祖・時清の子である。横瀬氏は後に下剋上により岩松氏を廃し、戦国大名・由良氏として自立する。戦国時代の横瀬氏(由良氏)は、新田義貞の3男・義宗の家系を自称している。


太田市龍舞町の塚廻り古墳群第4号古墳。

塚廻り古墳群4号古墳 (1)
塚廻り古墳群4号古墳 (2)
塚廻り古墳群は昭和52年(1977年)の土地改良事業の際、水田の下から発見された7基の古墳群。4号古墳は全長22.5m、円丘部直径17.7mの帆立貝形古墳で、周囲に幅4.5mの堀を持つ。築造は6世紀中頃と推定されている。

主体部は円丘部中央と北側裾部の2ヶ所あり、裾部からは小型の石棺が発見されている。

塚廻り古墳群4号古墳 (3)
塚廻り古墳群4号古墳 (4)
円丘部からは円筒埴輪や形象埴輪など計304基の埴輪が出土し、その優れた造形と出土位置がほぼ明確で、埴輪祭式の様子を解明する上で高い価値を有していることから、出土した埴輪は一括して国の重文に指定されている。

現在、古墳公園として復元・整備され、公開されている。

案内板に従って細い道に入って行ったんだけど、目に見える風景は田んぼばっかり。古墳というと「こんもり」というイメージがあるので、どこにあるの?って感じだった。


太田市牛沢町の牛沢山成願寺。

成願寺 (1)
成願寺 (2)
成願寺は文永5年(1268年)、新田氏の家臣・牛沢次郎高綱の開山。鎌倉時代中期の創建と歴史は古い。

成願寺 (3)
入母屋造り本堂は、ひなびたお寺(失礼!)にしては立派である。

成願寺 (4)
梵鐘は昭和63(1988年)の鋳造と比較的新しい。

成願寺 (5)
山門を入ってすぐ右手にある地蔵菩薩は、元禄10年(1697年)の造立で、太田市最古の石造像地蔵菩薩である。高さ317cm。

造立の詳細由来などは知らないが、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩と言われているので、この地でも多くの信仰を集めていたと考えられる。


太田市高林南町の荷悲山長勝寺。

長勝寺 (1)
長勝寺は治承4年(1180年)里見義俊の建立。里見義俊は新田氏の祖・新田義重の庶長子。里見郷(高崎市里見)に移り、里見を名乗っている。

義俊は新田竹林六郎太郎とも称していることから、新田荘内にも所領を持っており、里見氏の本拠を高林郷とする説もある。

長勝寺 (2)
伽藍は慶長8年(1603年)に火災で焼失。慶安2年(1649年)祐範和尚によって中興されている。現在の本堂は昭和45年(1970年)の再建。

長勝寺 (3)
梵鐘は昭和46年(1971年)の鋳造。

長勝寺 (4)
長勝寺 (5)
墓地横に古墳(?)があり、墳頂にお墓や石仏があった。

ところで、里見義俊は嘉応2年(1170年)に35歳の若さで没したとされる。ということは、長勝寺の創建年(1180年)には既にこの世にいないことになるが・・・。

里見義俊の菩提寺である高崎市中里見町の光明寺には、義俊の没年を建仁4年/元久元年(1204年)とも伝わるので、まあいいかな。
(光明寺は「高崎市中里見町・里見山光明寺」参照)

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