上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 太田市(旧市部)


太田市飯田町の桃花山霊雲寺。

霊雲寺 (1)
霊雲寺は永正年間(1504~21年)横瀬成繁(業繁)の開基。開山は恵林寺2世・天意長朔大和尚といわれる。この成繁は下克上にて戦国大名に成り上がった成繁(由良)ではなく、その曾祖父にあたる。

まあ横瀬成繁の時代には実質的に金山城主になっており、岩松氏が追放されるのも時間の問題だったけど。

寺号は成繁の法名「霊雲院殿義山宗忠居士」からきている。ちなみに、成繁(業繁)の墓は大田山金龍寺にある。(「新田義貞の供養塔・大田山金龍寺」参照)

霊雲寺 (2)
霊雲寺 (3)
本堂は平成3年(1991年)の建立。以前の本堂は藁葺きだったという。本尊は釈迦如来で、その坐像は全体に漆箔が施され厨子の中に安置されており、太田市の重文に指定されている。

霊雲寺 (4)
霊雲寺 (5)
境内の六地蔵と二十二夜塔。

霊雲寺 (6)
小坊主さんの手には本物の竹ぼうきが握られている。こういう仕様なんだね。


太田市東今泉町の巌穴山(いわあなやま)古墳。

巌穴山古墳 (1)
巌穴山古墳は、一辺36.5m(現存30m)、高さ約6mの方墳。墳丘4辺の方位が、それぞれ東西南北とほぼ一致している。また、幅8mの周堀が確認されている。築造は7世紀前半と推定され、太田市では唯一の方墳である。

巌穴山古墳 (2)
巌穴山古墳 (3)
巌穴山古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口している。石室は玄室と羨道の間に前室を持つ複式構造で、凝灰岩や自然石を使用している。石室の全長は約13m、玄室の高さは約2.7m。

玄室内からは人骨片や土師器片、金環、刀装具、鉄釘が、羨道部から須恵器などが出土している。葺石、埴輪は見つかっていない。

なお、石室内からは「寛永通宝」も見つかっており、江戸時代には人の出入りが行われていたようだ。当然、盗掘されているということ。もしかして、寛永通宝は石室内から持ち出した宝物の「代金」として置いていったのか、などと想像してみた(笑)。

太田市富若町の名号角塔婆。

富若の名号角塔婆 (1)
富若の名号角塔婆 (2)
富若の名号角塔婆は高さ78cmであるが、上部が欠けているため本来の高さは不明。幅は28cm。みどり市笠懸町産出の天神山凝灰岩製。正面に永仁5年(1297年)の銘がある。「南無阿弥陀仏」の六字名号が4面に刻まれており、造立者は薗田(園田)氏一門と推定される。

名号角塔婆は中世の浄土宗信仰にもとづく供養塔で、県内では太田市、桐生市、みどり市の各一部地域の35基しか確認されていない。これは薗田氏の支配地と共通している。鎌倉初期の当主・薗田成家が京都に巡廻警護に上がった際、法然に師事・出家し智明となり、当地に浄土宗を広めたためと考えられている。

関連
 「桐生市川内町・萬松山崇禅寺
 「太田市金井町・金井山永福寺
 「太田市矢田堀町・矢田堀勘兵衛屋敷の名号角塔婆


太田市丸山町の義徳山大圓寺。

大円寺 (1)
大圓寺は明暦元年(1655年)の創建。安政年間(1854~60年)の火災により、記録などは焼失してしまっている。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
現在の本堂は平成17年(2005年)の再建。

大円寺 (4)
参道脇にある徳本行者名号碑。
徳本行者は江戸時代後期の浄土宗の僧侶で、各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖と呼ばれていた。

文化13年(1816年)に上州遊行をした記録があるので、その際に大圓寺に寄るなどしたのだろうか?

大円寺 (5)
大円寺 (6)
墓地入口に勾当内侍(こうとうのないし)の墓とされる宝篋印塔がある。その後方には、「勾当内侍之墓」と記された碑が建っている。

勾当内侍は新田義貞の妻とされる。新田義貞が勾当内侍との別れを惜しんだため、九州へ逃れた足利尊氏への追撃の時期を逸したと太平記には書かれている。

太平記が江戸時代に広まると、勾当内侍の墓が全国各地に作られており、大圓寺の墓もこのころ造立されたものと思われる。

ちなみに、太田市武蔵島町の花見塚公園には、新田義貞の首塚と勾当内侍の墓が並んで建っている。また、太田市亀岡町には勾当内侍が義貞供養のため庵を結んだのが起源とされる儀源寺がある。
 「勾当内侍の墓と新田義貞の首塚・花見塚公園
 「太田市亀岡町・広谷山儀源寺


太田市本町の春日神社。

春日神社 (1)
太田春日神社は元享3年(1323年)新田義重が春日大社から神霊を勧請し新田家の崇敬社とした。その後、応永5年(1398年)現在地に遷座し太田の総鎮守となる。

以上は案内板からだが、「元享3年(1323年)新田義重が」って明らかに間違ってるだろ。義重は新田氏の祖で平安末から鎌倉初期の武将。元享3年が正しいなら義貞の時代だし、義重が正しいなら年代が間違っている。

春日神社 (2)
狛犬が南国風。奉納者は元台湾・台北市長。戦時中、中島飛行機で働いていたようだ。その後、昭和50年代に作り直している。

春日神社 (3)
春日神社 (4)
春日神社 (5)
春日神社 (6)
境内はあまり広くないが、社殿も含め雰囲気は良い。拝殿や本殿の彫刻も素晴らしい。ただ、屋根は瓦風だけどね。

由緒の間違いはさて置き、新田氏関係は間違っていないと思うので、往時の境内は相当広大だったと推定される。現在は街中になってしまったので、しょうがないけどね。


太田市原宿町の栄昌山善宗寺。

善宗寺 (1)
善宗寺は元禄12年(1699年)、曹源寺9世・萬了雷重によって創建された。もともとは曹源寺住職の隠居寺とされていた。(曹源寺は「太田市東今泉町・祥寿山曹源寺」参照)

善宗寺 (2)
本堂は天明3年(1783年)の再建だが、平成3年(1991年)に改修されている。本尊は阿弥陀如来だが、同じく祀られている大黒天は「上州七福神」のひとつである。

善宗寺 (3)
境内の「一期一会」と記された石碑には、大黒天が描かれている。

善宗寺 (4)
薬師如来(左)、地蔵菩薩(中)は分かるが、右は??

善宗寺 (5)
善宗寺 (6)
お堂を覗いて見たら、八臂弁財天坐像らしきものが。オレの拙い知識だとそう見えるんだけど。大黒天を祀るお寺に弁天様がいる??

ところで、善宗寺の大黒天は「上州七福神」で、「上州太田七福神」ではない(ちょっと紛らわしい)。ちなみに、「上州七福神」は善宗寺以外は
 布袋尊(霊山寺) 甘楽郡下仁田町
 寿老人(長松寺) 北群馬郡吉岡町
 弁財天(興禅寺) 渋川市赤城町
 毘沙門天(柳沢寺) 北群馬郡榛東村
 恵比寿(珊瑚寺) 前橋市富士見町
 福禄寿(正円寺) 前橋市堀之下町
と群馬県にちらばっている。


太田市市場町の稲荷山古墳。

太田稲荷山古墳 (1)
太田稲荷山古墳は、径32m、高さ4mの円墳と推定されるが、南西部に周囲より一段高い平たん部があり、帆立貝形古墳の可能性もある。西側には周堀の形跡が認められる。

墳丘には葺石があり、円筒埴輪、形象埴輪(人物など)も発見されている。6世紀中ごろの築造と推定される。

太田稲荷山古墳 (2)
太田稲荷山古墳 (3)
太田稲荷山古墳 (4)
墳頂には稲荷神社が鎮座している。

太田市には西本町の県立太田高校の校内にも稲荷山という名の古墳がある。話が逸れるが、太田高では古墳に立ち入ったりボールなどを投げこんでしまうと浪人すると言い伝えられている(太田高は群馬県内有数の進学校)。


太田市石原町の賀茂神社。
鳥居のない神社としてTV番組などでも紹介されたことがある。

石原賀茂神社 (1)
石原賀茂神社の創建は不明だが、日光へ向かう例幣使が休憩したというから、例幣使が日光に派遣された正保4年(1647年)以前ということになる。

石原賀茂神社 (2)
石原賀茂神社 (3)
石原賀茂神社 (4)
簡素な拝殿。本殿も覆屋内のため見えない。

石原賀茂神社 (5)
最初に書いたように、石原賀茂神社には鳥居がない。それは、例幣使が賀茂神社で休憩していると、一匹の犬が激しく吠え始めた。共侍が追い払おうとしてもなお激しく吠え続ける。怒った共侍は犬を切り捨ててしまった。すると首は空に飛び鳥居の上の大蛇に噛みついた。犬は大蛇の危険を知らせるために吠えていたということ。

例幣使を助けた犬を供養するとともに、鳥居があったので大蛇がそこに上がったということから鳥居をなくした。そして、そのまま現在もないということらしい。

救助犬の像は平成18年(2006年)に建立された。


太田市菅塩町の聖天山善泉寺。

善泉寺 (1)
善泉寺 (2)
善泉寺は文明13年(1481年)益田一族の館跡を祈願所としたのが始まりという。益田氏は藤原秀郷系といわれ、横瀬氏(由良氏)の配下であった。一説には大胡城を築城したともいわれるが、もちろん定かではない。また、大胡城が横瀬氏支配時の城主であったともいわれる。

善泉寺 (3)
一時衰退していたが永正元年(1504年)再興され、任空により高野山から秘鍵弘法大師像が納められ、真言密教の道場とされた。秘鍵弘法大師像とは剣を持った弘法大師像だが、この剣は「文殊菩薩の剣は諸戯を断つ」ということかららしい。

善泉寺の秘鍵弘法大師像は、現存する関東唯一の像である

善泉寺 (4)
薬師堂に祀られる薬師如来は「トラ薬師」と呼ばれ、目の病にご利益があるとされる。

善泉寺についてはいろいろ調べたが、不明の情報が多い。自分で書いておいてなんだが、今回は未確認情報が多いのでご注意ください <(_ _)>


太田市丸山町の賀茂神社。

丸山賀茂神社 (1)
丸山賀茂神社 (2)
丸山賀茂神社 (3)
丸山賀茂神社の創建は不詳だが、丸山宿が誕生した慶長11年(1606年)村上から遷座している。村上地区は丸山宿の誕生に伴い、地区住民が丸山宿へ移住したため、廃村となっている。

丸山賀茂神社 (4)
丸山賀茂神社 (5)
社殿は質素な造りであるが、境内が意外に広く立派な杉木立もあり、緑豊かな雰囲気である。

丸山賀茂神社は丸山宿の西端に鎮座しており、宿場の鎮守様として地域を守っている。


太田市丸山町の清滝山清光寺と米山薬師。

清光寺 (1)
清光寺 (2)
清光寺の由緒は不明。特に山門があるわけでもなく、門標があるだけ。お寺の入口っぽくないので、見過ごしてしまった。

清光寺 (3)
本堂も公民館風。お寺の本堂とはちょっと見えない。

清光密寺 (4)
清光寺から見える丸山の山麓にある米山薬師。清光寺が本坊、米山薬師が薬師堂という位置づけだと思う。

米山薬師 (1)
米山薬師 (2)
米山薬師 (3)
米山薬師は丸山の頂上にあったが、平成4年(1992年)に焼失してしまい、現在地に再建されている。

丸山は標高114.6mで小山といったところ。丸山の形成にはダイダラボッチ伝説がある。ダイダラボッチは赤城山に腰かけて利根川で足を洗ったという巨人。その時に吸っていた煙管の灰で丸山ができたといわれる。

米山薬師 (4)
新田義貞が崇拝していたという薬師如来を祀っている。なので、年代的には相当古そうだが、米山薬師そのものは慶長11年(1606年)の創建。麓の丸山宿が慶長11年に領国整備の一環で、太田と桐生を結ぶ宿場として誕生した際に祀られたと思われる。

なお、丸山は戦国期は金山城の砦として使われていた。山頂からは金山城や桐生や伊勢崎方面まで見渡すことができるので、それ以前から物見台などとして使われていたと考えられる。ちなみに、元亀3年(1571年)に上杉謙信が由良氏を攻めた際、謙信に落とされている。


太田市寺井町の寺尾山聖王寺。

聖王寺 (1)
聖王寺は天永年間(1110~12年)興教大師の開山。興教大師とは真言宗の中興の祖といわれる覚鑁(かくばん)のこと。

戦国期に武田信玄の弟・信繁の子が一族の供養のため、寺を再興し正応寺とした。その後、江戸時代に現在地へ移転し聖王寺となった。

聖王寺 (2)
聖王寺 (3)
入母屋造りの本堂。

聖王寺 (4)
聖王寺 (5)
本堂右手に地蔵堂があった。

聖王寺 (6)
中を覗いて見たけど、お地蔵さんらしきお姿はなし。厨子も空のようだ。

聖王寺 (7)
境内の明応元年(1764年)銘の六十六部供養塔。

信繁の子としては信頼、信豊、信永の3人の名が残っているが、信頼は永禄4年(1561年)、信豊は天正10年(1582年)、信永は天正3年(1575年)にそれぞれ死去している。しいて言えば2男・信豊あたりになるのかな。信豊の正室は小幡憲重の娘なので、一応上野国との関係はある。

とは言え一族の供養のためとなると、聖王寺を再興したのは他のやっぱり他の「子」と推定されるが、詳細は分からない。


太田市下浜田町の米珠山吉祥寺。

吉祥寺 (1)
吉祥寺 (2)
吉祥寺 (3)
吉祥寺は建治年間(1275~77年)僧・叡範の開山と伝えられる。室町中期に火災にて焼失し、再建されたのは安永4年(1775年)。

吉祥寺 (4)
吉祥寺 (5)
本堂は平成2年(1990年)の再建。朱塗りのコンクリート造り。ご本尊の不動明王は、元禄時代(1688~1704年)の仏師・法橋運良の作。

幕末の勤皇の先駆者・高山彦九郎は、吉祥寺本堂で開かれていた私塾に通っていたといわれている。(高山彦九郎は「太田市細谷町・高山彦九郎記念館」参照)


太田市新井町の八幡宮。

新井八幡宮 (1)
新井八幡宮は新田義房が永寿年間(1182~84年)に、京都石清水八幡宮の御分霊を奉斎し創建したと伝えられる。

新井八幡宮 (2)
新井八幡宮 (4)
新井八幡宮 (6)
社殿は文治5年(1189年)新田若美の造営と伝えられるが、若美って誰??
寛文年間(1661~72年)には館林城主・徳川綱吉が自らの祈願所としている。

新井八幡宮には獅子舞が伝えられおり、太田市の無形重文になっている。獅子舞は新井覚義の20代裔孫・宗貞が、文亀元年(1501年)に石清水八幡宮から伝えたとされる。天下泰平、五穀豊穣、町内繁栄、怨敵退散の祈りが込められた獅子舞は9月15日前後の土日の奉納される。

ちなみに、新田義房は新田氏の祖・義重の孫。新井覚義は義房の2男。


太田市新井町の延命山十輪寺。

十輪寺 (1)
十輪寺は延久年間(1190~99年)に新田義房の2男・荒井覚義の開山と伝えられる。義房は新田氏の祖・義重の孫である。山門は平成10年(1998年)の再建。

十輪寺 (2)
十輪寺 (3)
コンクリート造り、銅葺朱塗りの本堂は、昭和53年(1978年)の再建。

十輪寺 (4)
延享2年(1745年)の銘のある宝篋印塔。十輪寺は火災により全堂が焼失しているが、この宝篋印塔のみ難を逃れている。

十輪寺 (5)
十輪寺 (6)
十輪寺 (7)
関東霊場の開創(平成7年:1995年)に伴い建立された宝形造り、銅葺の二間四面の大師堂。もちろん弘法大師が鎮座している。

十輪寺は江戸末期から世良田の総持寺の末寺となるなど、明治期まで他寺兼務の時期が続いたが、現在は立派な寺容となっている。

ちなみに、江戸時代の学者・新井白石は、覚義の末裔といわれている。

太田市矢田堀町の名号角塔婆。

矢田堀勘兵衛館の名号角塔婆 (1)
戦国時代の矢田堀城跡の北端にある5基の角塔婆。この付近は「勘兵衛屋敷」と通称されているが、由来は不明のようだ。

矢田堀勘兵衛館の名号角塔婆 (2)
角塔婆5基のうち1基に「正応二年 為原朝臣淡路十郎信光女子也」の銘がある。どれかは分からなかった・・・。(正応2年は1289年)

造立年代は鎌倉時代後期から室町時代初期で、造立者は薗田(園田)氏一門と考えられている。薗田氏と言えば、京都に巡回警護に上がった際、法然上人に接し仏の魅力にひかれ弟子となり、智明房と称した薗田成家が有名。

成家は桐生市川内町に崇禅寺を開創し、当地に浄土宗を広めている。
(「桐生市川内町・萬松山崇禅寺」参照)

名号角塔婆は浄土信仰に基づく供養塔で、薗田成家と関わりのある限定された地域(太田市北東部、桐生市川内地区から大間々町)で建てられている。


太田市矢田堀町の慈眼山瑞岩寺。

瑞岩寺 (1)
瑞岩寺は天文12年(1543年)の創建。運慶作の十一面観音を本尊としている。とあるが真偽は??

瑞岩寺 (3)
瑞岩寺 (4)
瑞岩寺の寺号は、中興開基の泉繁俊(法名:瑞岩寺殿傑翁宗英大居士)から来ている。繁俊は横瀬国経の次男。国経についてはよく分からないが、戦国大名として自立した成繁の祖父・景繁と同一人物という説もあるようだ。

瑞岩寺 (2)
住職さんは昨年、テレ朝の「ぶっちゃけ寺」へ出演したそうだ。爆笑問題がMCをしている番組。オレは爆笑問題があまり好きではないので(太田、田中の両方好きではない)視たことないが・・・。


太田市東金井町の金井山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺 (2)
永福寺 (3)
永福寺の創建年代は不明だが、寺伝によると応永24年(1417年)横瀬貞氏が祖父の追善供養のため再建したといわれる。その後荒廃したが、文明15年(1483年)沼田迦葉山・大盛宗隆によって再興されている。

永福寺 (4)
高さ99cm、幅26cmの名号角塔婆。東西の2面には「南無阿弥陀佛」の六字名号が刻まれている。造立年代は鎌倉時代後期から室町時代初期で、造立者は当時この地を支配していた薗田氏と考えられている。

名号角塔婆は浄土信仰に基づく供養塔で、薗田成家と関わりのある限定された地域(太田市北東部、桐生市川内地区から大間々町)で建てられている。

薗田成家は京都に巡回警護に上がった際、法然の弟子となり智明と名乗り、桐生市川内町に崇禅寺を開創、浄土宗を広めている。(「桐生市川内町・萬松山崇禅寺」参照)

永福寺 (5)
永福寺 (6)
永福寺には「上州太田七福神」の寿老人が祀られている。寿老人は延命を司る南極の寿星が化身したもので、髭をたくわえ唐風の着衣を着けた老人である。

永福寺を再興したという横瀬貞氏は、横瀬氏の実質的な祖・時清の子である。横瀬氏は後に下剋上により岩松氏を廃し、戦国大名・由良氏として自立する。戦国時代の横瀬氏(由良氏)は、新田義貞の3男・義宗の家系を自称している。


太田市龍舞町の塚廻り古墳群第4号古墳。

塚廻り古墳群4号古墳 (1)
塚廻り古墳群4号古墳 (2)
塚廻り古墳群は昭和52年(1977年)の土地改良事業の際、水田の下から発見された7基の古墳群。4号古墳は全長22.5m、円丘部直径17.7mの帆立貝形古墳で、周囲に幅4.5mの堀を持つ。築造は6世紀中頃と推定されている。

主体部は円丘部中央と北側裾部の2ヶ所あり、裾部からは小型の石棺が発見されている。

塚廻り古墳群4号古墳 (3)
塚廻り古墳群4号古墳 (4)
円丘部からは円筒埴輪や形象埴輪など計304基の埴輪が出土し、その優れた造形と出土位置がほぼ明確で、埴輪祭式の様子を解明する上で高い価値を有していることから、出土した埴輪は一括して国の重文に指定されている。

現在、古墳公園として復元・整備され、公開されている。

案内板に従って細い道に入って行ったんだけど、目に見える風景は田んぼばっかり。古墳というと「こんもり」というイメージがあるので、どこにあるの?って感じだった。


太田市牛沢町の牛沢山成願寺。

成願寺 (1)
成願寺 (2)
成願寺は文永5年(1268年)、新田氏の家臣・牛沢次郎高綱の開山。鎌倉時代中期の創建と歴史は古い。

成願寺 (3)
入母屋造り本堂は、ひなびたお寺(失礼!)にしては立派である。

成願寺 (4)
梵鐘は昭和63(1988年)の鋳造と比較的新しい。

成願寺 (5)
山門を入ってすぐ右手にある地蔵菩薩は、元禄10年(1697年)の造立で、太田市最古の石造像地蔵菩薩である。高さ317cm。

造立の詳細由来などは知らないが、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩と言われているので、この地でも多くの信仰を集めていたと考えられる。


太田市高林南町の荷悲山長勝寺。

長勝寺 (1)
長勝寺は治承4年(1180年)里見義俊の建立。里見義俊は新田氏の祖・新田義重の庶長子。里見郷(高崎市里見)に移り、里見を名乗っている。

義俊は新田竹林六郎太郎とも称していることから、新田荘内にも所領を持っており、里見氏の本拠を高林郷とする説もある。

長勝寺 (2)
伽藍は慶長8年(1603年)に火災で焼失。慶安2年(1649年)祐範和尚によって中興されている。現在の本堂は昭和45年(1970年)の再建。

長勝寺 (3)
梵鐘は昭和46年(1971年)の鋳造。

長勝寺 (4)
長勝寺 (5)
墓地横に古墳(?)があり、墳頂にお墓や石仏があった。

ところで、里見義俊は嘉応2年(1170年)に35歳の若さで没したとされる。ということは、長勝寺の創建年(1180年)には既にこの世にいないことになるが・・・。

里見義俊の菩提寺である高崎市中里見町の光明寺には、義俊の没年を建仁4年/元久元年(1204年)とも伝わるので、まあいいかな。
(光明寺は「高崎市中里見町・里見山光明寺」参照)


太田市本町の医王山東光寺。

太田・東光寺 (1)
東光寺は新田政氏の祈願所として文応元年(1260年)に創建。新田政氏は義貞の曽祖父。

太田・東光寺 (2)
本堂は平成11年(1999年)の新築。鉄筋コンクリート造り。

太田・東光寺 (3)
岡家墓所内にある新田義興の供養塔。義興は義貞の次男。

義興は、延元2年(1337年)に北畠顕家に呼応し旗揚げ、吉野で後醍醐天皇に謁見し元服。義貞戦死後は、越後に潜伏していたとされる。その後、鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。正平13年(1358年)のことである。享年28歳。

太田市由良町の威光寺に義興の墓と伝わる宝篋印塔がある。
(「新田義興の墓?・正英山威光寺」参照)

東光寺にも正平年間に義興の遺骨を埋葬したと伝わっている。

義興の弟・義宗(義貞3男)は、足利方から逃れるため隠名・岡を名乗っていたこともあり、その末裔・岡家の墓所内に義興の供養塔がある(岡家が弔ったということ)。

ちなみに、義宗は南朝側として最後まで奮闘したが、正平23年(1368年)沼田うつぶしの森で壮絶な戦死を遂げている。
(「新田義宗 最期の地・うつぶしの森/白佐波神社」「新田義宗の墓・武尊山雲谷寺」参照)

*延元、正平は南朝の年号


太田市東金井町の宗光山玉巌寺。

玉巌寺 (1)
玉巌寺は嘉元年間(1303~06年)に栄朝禅師の法弟が新田氏の援助のもとに創建したと伝わる。地形が鎌倉・建長寺の玉巌窟ににていることから玉巌寺と名付けられた。

玉巌寺 (2)
玉巌寺 (3)
山門には新田義重23世・源徳純書による金城窟の額面か掲げられている。源徳純は岩松徳純のことで、江戸時代後期の旗本。徳川家康が新田氏の系譜を名乗ったことから、岩松氏は幕府より優遇されていた。

玉巌寺 (4)
玉巌寺 (5)
本堂は間口八間、奥行六間で、堂内には新田義貞、義顕、義興、義宗、横瀬貞国の位牌が安置されている。

横瀬貞国は玉巌寺の再興に尽力したことから、新田義貞らとともに位牌が安置されている。

新田義貞の3男・義宗の子と伝わる貞氏が、家臣の横瀬時清の娘婿となり横瀬氏を称したとされている。貞国は貞氏の孫にあたるが、資料上確認できる横瀬氏の祖といわれる(横瀬氏は後の由良氏)。

山門の掲額を書いた岩松氏は、横瀬氏(由良氏)に下剋上された側。でも明治維新後、新田氏の正当な末裔とされたのは岩松氏だけどね。


太田市上田島町の紫雲山常楽寺。

常楽寺 (1)
以前は新田木崎町にあったが、明治25年(1892年)に蓮蔵寺、円通寺と合併し、現在地に移転している。寺の創建などは明らかではないが、移転前の墓地にある五輪塔には延文4年(1359年)の銘がある。

常楽寺 (2)
常楽寺 (3)
参道脇には七福神が鎮座していた。

常楽寺 (4)
常楽寺 (5)
ご本尊は十一面観世音菩薩坐像で、格天井には常楽寺の四季の花が描かれている。

境内には、錦鯉の泳ぐ心池や睡蓮、古代蓮の咲く池があり、この2つの池や高台に建つ太子堂を中心に四季折々の花(水仙・ツツジ・桜・蓮・彼岸花など)が見られる。そのため、「花の寺」と呼ばれている。

中でも秋の彼岸花が有名らしい。とは言え、行った時期は夏の終わり。彼岸花の季節にはまだまだ早く、あんまり花も咲いてなかった。

常楽寺 (6)
常楽寺 (7)
唯一咲いていた花。

先に書いたが、旧墓地には鎌倉から南北朝期の五輪塔、宝篋印塔などがあるので、そっちにも行ってみたい。


太田市由良町の大隅俊平美術館。

大隅俊平美術館 (1)
大隅俊平美術館 (2)
大隅俊平美術館 (3)
人間国宝・大隅俊平刀匠の功績を後世に伝えるため、平成24年(2012年)刀匠が住んでいた母屋を改修して開館した。

大隅俊平(本名は貞夫)氏は昭和7年(1932年)新田郡沢野村(現太田市)に生まれ、20歳のときに長野県の刀匠・宮入昭平氏に師事して作刀技術を学ぶ。昭和33年(1958年)独立し太田市に戻る。

「新作名刀展」で最高位の正宗賞3度受賞。平成9年(1997年)には日本刀の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。

平成21年(2009年)死去。享年77歳。

大隅俊平美術館 (4)
大隅俊平美術館 (5)
大隅俊平美術館 (6)
館内には、太刀等の作品だけではなく、刀匠が作刀に使用していた道具なども展示されている。

大隅俊平美術館 (8)
大隅俊平美術館 (9)
大隅俊平美術館 (10)
大隅俊平氏は日本刀の中でも乱れのない端正な刃文「直刃」を追求する刀鍛冶として知られ、近年では豪壮優美な3尺(約90cm)前後の大太刀制作に力を注いでいた。

この日は、初お披露目という大小刀(おおこがたな)を含む17点の刀剣が展示されていた。それにしても、日本刀というのはすっごく綺麗だ!

大隅俊平美術館 (11)
大隅俊平美術館 (12)
仕事場は窓越しの見学。正面に見えるのは火床(ほど)。昭和54年(1979年)から亡くなるまで、この仕事場で数々の名刀が作られた。

大隅俊平美術館 (13)
大隅俊平氏は庭いじりが好きだったというだけあって、立派な庭園である。

見学前に刀剣制作過程のビデオを観ることができ、多少の知識を持って見学することができる。


太田市細谷町の如意山教王寺。

教王寺 (1)
教王寺 (2)
教王寺は延徳2年(1490年)金山城・横瀬国繁の開基と伝わる。

教王寺 (5)
墓地に残る五輪塔に、正長2年(1429年)の銘がみえることから、それ以前に寺院が形成されていたと考えられている。

教王寺 (3)
梵鐘は江戸時代の思想家・高山彦九郎の祖父・蓮沼伝左衛門貞正が、延享5年(1748年)に寄進したもの。

総高123cm、口径70cmで、下野国佐野天明(佐野市)の鋳物師・恩田甚助、長谷川弥市の両人により鋳造されたものである。

高山彦九郎の思想は、吉田松陰に大きな影響を与えたといわれている。
(「太田市細谷町・高山彦九郎記念館」参照)

教王寺 (4)
半鐘は総高78cm、口径43cmで、彦九郎の祖母・高山りんが、明和3年(1766年)に没した夫の高山伝左衛門貞正の供養のために寄進したもの。

半鐘には鐘銘末尾に、高山伝左衛門貞正妻と記されており、梵鐘を寄進した蓮沼伝左衛門貞正が、後年家督を弟に譲り母方の姓を名乗っていたことを示す資料でもある。


太田市烏山上町の各願山西慶寺。

西慶寺 (1)
西慶寺 (2)
西慶寺は大同2年(807年)勝道上人の開山と伝えられる。鐘楼門は寛保2年(1742年)の建立。

西慶寺 (3)
西慶寺 (4)
新田氏の祖・義重は西慶寺を鬼門になぞらえ、代々の祈願所としている。本堂は天明4年(1784年)に焼失したが、天明8年(1788年)に再建され。ている。

西慶寺 (5)
本堂には「新田一引き大中黒」の家紋の屋根瓦があった。

西慶寺 (6)
元弘3年(1333年)の新田義貞が鎌倉攻めの際、不動明王に加護を祈念、不動明王は山伏に姿を変え、越後の新田一族に挙兵を触れたという伝説のある「新田触不動尊」を安置している。

「新田触不動尊」の伝承は明王院安養寺にもあるが、どっちが本家かは知らない。
(「太田市安養寺町・呑嶺山明王院-」参照)

西慶寺 (7)
梵鐘は寛保2年(1742年)新田義貞追善供養の際に寄進されたもの。総高139cm、口径78cmで、下野国佐野天明(佐野市)の鋳物師・長谷川弥市、山崎吉兵衛により鋳造されたもの。

鐘銘には「新田触不動尊」の謂れや梵鐘鋳造の趣旨、義貞追善の91名の僧名、鋳造者名等が刻まれている。


太田市烏山中町の笑嶺山妙英寺。

妙英寺 (1)
妙英寺 (2)
妙英寺 (3)
妙英寺は天正2年(1574年)烏山丹後守繁雄の開基と伝えられる。烏山繁雄は由良成繁の弟で烏山城主だった。

ご存知のように、由良氏は太田金山城主・新田岩松氏に仕えていたが、下剋上により岩松氏を廃し金山城主になっている。

妙英寺 (4)
妙英寺 (5)
山門をくぐると、右側に鐘楼がある。梵鐘は総高95cm、口径55.8cmで、笠形は低く、肩に丸みはなく、駒の爪は小さい。乳は1区に4段4列、合計64個ある。

銘文によると、寛永4年(1627年)下野国佐野天明(佐野市)の鋳物師・大田左兵衛尉宗次、野村平左衛門正次により製作されたものであり、現存する太田市最古の梵鐘である。

寄進者は新田郡鳥山の天笠次郎右衛門。次郎右衛門は由良国繁(成繁の嫡男)の家臣である。

次郎右衛門は梵鐘の他にも、妙英寺に本堂・庫裡・閻魔堂・門・土地を寄進している。また、新田堀に石橋をかけるなどの徳行も多く、その名は東武鉄道の駅名(治良門橋:じろえんばし)として残っている。


太田市本町の旧金山図書館。太田公民館の敷地内。

旧金山図書館 (1)
旧金山図書館 (2)
旧金山図書館 (3)
明治・大正時代の太田出身の実業家・葉住利蔵(1866~1926年)が私財を投じて建設、私立の図書館として大正11年(1922年)に開館した。

旧金山図書館 (4)
木造平屋建て、入母屋造り桟瓦葺で、40坪の閲覧室と3坪の玄関からなる。

窓は開閉自在の回転窓で、通風・採光が十分配慮され、図書館機能が建築構造の中によく活かされている。当時の洋風建築の要素を取り入れる一方で、屋根などは和風建築も踏襲しており、和様混合の擬洋風建築と言える。

屋根の鬼瓦(?)には、金山の文字が見える。

建築当時は閲覧室のほか、2階建て土蔵造りの書庫、管理者用の和風住宅が付設されていたが、現在は残っていない。その後、図書館は太田町に寄付され、昭和44年(1969年)まで公立図書館として使用された。現在は太田公民館の別館として使用されている。

時期的なものかもしれないが、正面側に木が多く良い写真が撮れず、全体像は裏からのものでご勘弁を。


太田市矢場町の笑岩山恵林寺。

恵林寺 (1)
恵林寺 (2)
矢場国隆の子・植繁が永正17年(1520年)に父母の菩提を弔うために建立したもの。開山は植繁二男・大年宗彭とされている。

恵林寺 (3)
矢場氏って全然知らなかったけど、始祖は矢場惣左衛門国隆と言って、金山城主・岩松家純の重臣横瀬国繁の弟らしい。横瀬氏ってのは、後の由良氏。

ちなみに、横瀬国繁の子に成繁がいるが、岩松氏を下剋上し戦国大名として独立した成繁は、同名だが曾孫になる。また、この成繁の子が国繁って言うから本当にまぎわらしい。

ついでに、天正元年(1573年)柄杓山城を攻略し桐生氏を滅ぼし、桐生市に鳳仙寺や青蓮寺を建てたのは、戦国大名の成繁である。
(「桐生市西久方町・仏守山青蓮寺」「由良成繁の墓・桐生山鳳仙寺」参照)

恵林寺 (4)
恵林寺 (5)
矢場氏の墓所。五輪塔が多いが、宝篋印塔・石幢なども見られ、総数約40基。3代・矢場繁和の宝篋印塔(写真の左から4番目)の基礎には、「為大椿宗寿禅定門霊位敬白永禄五年壬戌霊月八日」とある。永禄5年ってのは1562年。

恵林寺の南側には、矢場氏の居城・矢場城があったらしい。矢場国隆が築城し、以来矢場氏6代の拠点となり金山城の支城となっていたが、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めにより廃城となったと考えられている。

しかし矢場地区はもともと群馬と栃木(足利)にまたがっており、矢場城の所在地として足利市新宿町を比定する説もある。(矢場地区は、昭和35年(1960年)に旧矢場川村が、太田市と足利市に分かれている。)

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