上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 太田市(旧市部)


太田市下田島町の日吉神社。

下田島日吉神社 (1)
下田島日吉神社 (2)
下田島日吉神社 (3)
下田島日吉神社は元弘年間(1331~34年)岩松時兼の末子・田島経国の勧請と伝えられる。明治41年(1908年)に西野谷春日神社・上田島稲荷神社など宝泉村内各社を合祀している。なお、上田島稲荷神社は昭和28年(1953年)に分祀している。

一の鳥居は明治31年(1898年)、二の鳥居は明治39年(1906年)の建立。

下田島日吉神社 (4)
下田島日吉神社 (5)
三の鳥居や社殿は令和6年(2024年)の新築建立。

下田島日吉神社 (6)
下田島日吉神社 (7)
手前は割拝殿なのかな。

下田島日吉神社 (8)
新築竣工祝いの奉納酒が並んでいる。

下田島日吉神社 (10)
富士塚。頂上には「冨士浅間大神」の石碑。明治14年(1881年)の造立。富士塚内には双体道祖神・猿田彦大神の石塔・登山記念碑(登山大願成就)などがある。

下田島日吉神社 (11)
下田島日吉神社 (12)
神輿庫。

下田島日吉神社 (13)
二の鳥居後ろのイチョウの大木。

下田島日吉神社 (14)
隣接する東田島会館のパンダ(?)のオブジェ。こういうオブジェや遊具に共通するのだが、パンダが絶対的にかわいくない。どこにあるのを見ても、間違いなくそう思う。もしかしたらクマかもしれないが、そうだとしてもかわいくない(笑)。


太田市上田島町の稲荷神社。

上田島稲荷神社 (1)
上田島稲荷神社の由緒は不詳。古老の話によれば明治17年(1884年)の創建という。明治39年(1906年)から進められた神社合祀政策(勅令)に従い、明治41年(1908年)宝泉村下田島(現太田市下田島町)の日吉神社に合祀された。

その後、地元の要望があり昭和28年(1953年)に分祀され、現在地に再建されている。合祀後に火事が頻発し、火事が多く出るのは「神様がいないから」となったようだ。

上田島稲荷神社 (2)
上田島稲荷神社 (3)
上田島稲荷神社 (4)
社殿は分祀・再建時の昭和29年の建立。

上田島稲荷神社 (5)
杉之内会館などがあり境内は広い。厳密には会館の敷地なのか境内なの分からないが。そのためブランコや滑り台などの遊具も設置されてる。


太田市中根町の八幡宮。

中根八幡宮 (1)
中根八幡宮 (2)
中根八幡宮の由緒は不詳。鳥居は昭和58年(1983年)の建立。

中根八幡宮 (3)
中根八幡宮 (4)
社殿前の木製灯籠は平成12年(2000年)の奉納。社殿の後部(本殿覆屋)は大木の枝葉でよく見えない。

中根八幡宮 (5)
中根八幡宮 (6)
境内社の稲荷神社。

中根八幡宮 (7)
中根八幡宮 (8)
三峯神社。石がご神体なのかな。

中根八幡宮 (9)
境内社・稲荷神社の後ろに富士塚らしきものがある。ただ頂上には台座しかない。富士塚なら浅間神社が乗っていたと思うのだが。

中根八幡宮 (10)
社殿右手前の建物は中根集会所で、その前に石塔類(庚申塔・二十三夜塔・青面金剛塔・馬頭観音塔など)が集積されている。青面金剛塔は享保3年(1718年)、馬頭観音塔は昭和3年(1928年)の銘があった。

中根八幡宮 (11)
「知らない人について行かない」との標語が書かれたこけし型の安全啓蒙標柱。宝泉地区で立てているようだ。子どもたちになじみの深いアニメが顔になっているが、著作権は大丈夫かと思ってしまう。


太田市細野町の冠稲荷神社の2回目。
(1回目は「太田市細谷町・冠稲荷神社」参照)

冠稲荷神社3 (1)
冠稲荷神社3 (2)
聖天宮。永禄年間(1558~70年)の創建とされる。縁結び、夫婦和合、災難・ストーカー除けの社。冠稲荷神社境内に残る古墳上に鎮座している。お社は安政4年(1857年)の建立。造営は天下の名工と呼ばれる弥勒寺音次郎・音八親子による。

冠稲荷神社3 (3)
主祭神は神日本磐余彦(神武天皇)、伊邪那岐命・伊邪那美命。

冠稲荷神社3 (4)
冠稲荷神社3 (5)
実咲社(みさきしゃ)。縁結びきつね、子宝きつね、安産きつね、健康・所願成就きつねなどの神狐が護る。絵馬に願いを書き、その祈願を伝えてくれるきつねの社に奉納する。

冠稲荷神社3 (6)
冠稲荷神社3 (7)
七福神殿。吉祥木である椿を背に七福神が一堂に会する希少な構図になっている。明和2年(1765年)新井清尚作。七福神が一堂に会していることから、一度のお参りで七福神巡りが完結できる。ただ「二礼・一四拍手・一礼」が必要(神社拝礼形式)。

冠稲荷神社3 (8)
冠稲荷神社3 (9)
八坂社(右)と諏訪社(左)。明治10年(1977年)の合祀。八坂神社の神輿(中)は明治初期の制作で、総ケヤキ造りで重量750kg。県内有数の神輿で千貫神輿と呼ばれる。1貫は3.75kgなので、単純計算だと1000貫は3,750kgになるが、それほど重いの比喩。

冠稲荷神社3 (10)
厳島社。ご祭神は宇賀弁財天。宇賀弁財天は市杵島毘売神と宇賀神が融合した女神。宇賀神は人頭蛇身でとぐろを巻く形で表される場合が多いが、宇賀弁財天では弁才天の頭頂部に宇賀神が小さく乗る像容が多い。

冠稲荷神社3 (11)
神像も弁才天の頭頂部に宇賀神が小さく乗る像容をしている(写りがは悪いが)。神像は元禄5年(1692年)の造立。

冠稲荷神社3 (12)
お堂の前で神水を受ける石盥。これは慶安4年(1174年)に源義経とともに当社を訪れた金売吉次が奉納した「金御盥(かねみたらい)」とされる。この石盥は境内土中から発掘されている。金御盥と言うくらいだから、元は金箔でも貼ってあったのかな。

金売吉次は奥州の豪商で源義経を奥州に案内したとされるが、実在性は不明。藤原秀衡の命を受け、京などでスパイ活動をしていたともいわれる。

冠稲荷神社3 (13)
菅原社。明治期に合祀されたが、平成18年(2006年)に本社から分祀、再建。

冠稲荷神社3 (14)
冠稲荷神社3 (15)
いなり白狐社。由緒などは不明だが、狐象がものすごい量奉納されている。

冠稲荷神社3 (16)
冠稲荷神社3 (17)
猿田毘古社。交通の神である猿田毘古神を祀り、自動車類の交通安全祈願を行っている。

冠稲荷神社3 (18)
冠稲荷神社3 (19)
二手に分かれて、再び結びついた「縁結びの桜」。

冠稲荷神社3 (20)
木瓜の木。手前の木と合わさってしまい、見づらいけど。永禄年間(1558~70年)永く子宝に恵まれなかった女性が、当社で修験者から木瓜の実を授かり服した途端、子宝に恵まれその家も冨に栄えるようになった。

夫婦はそのお礼に木瓜の木を植えた。これが現在の「冠稲荷の木瓜」として多くの人に、縁結びの子宝祈願・子育てにと厚く信仰されている。


太田市細野町の冠稲荷神社。

冠稲荷神社2 (1)
冠稲荷神社2 (2)
冠稲荷神社は天治2年(1125年)源義国の創建と伝わる。源義国は有名な源義家(八幡太郎)の3男(4男とも)で、新田氏の祖・義重の父。

承安4年(1174年)に源義経が奥州下向の途中、冠の中に勧請してきた京都・伏見大社の分霊を奉斎したという。また、元弘3年(1333年)には新田義貞が鎌倉攻めのおり、兜の中に神霊の来臨を請い戦勝を祈願したという。この故事にちなみ、冠稲荷大明神と呼ばれるようになった。

冠稲荷神社は伏見稲荷・豊川稲荷・信太森葛葉稲荷・王子稲荷・妻恋神社(稲荷)・一瓶塚稲荷と合わせ、日本七社と呼ばれる。

この鳥居は南鳥居。昭和50年(1975年)の建立。ここからの参道が社殿に対し正対している。

冠稲荷神社2 (3)
冠稲荷神社2 (4)
境内の中ほど、社殿前にある鳥居。おそらくこれが元々の一の鳥居と思われる。明治21年(1888年)の建立。

その他、稲荷神社だけあって多くの鳥居が奉納されているので紹介する。

冠稲荷神社2 (5)
冠稲荷神社2 (6)
甲大鳥居。昭和63年(1988年)の建立。高さ12.5mの大鳥居。「甲」は方角の「東北東」や「やや東」のこと。

冠稲荷神社2 (7)
冠稲荷神社2 (8)
東鳥居。昭和45年(1970年)の建立。

冠稲荷神社2 (9)
冠稲荷神社2 (10)
辰巳鳥居。大正13年(1924年)の建立。「辰巳」は方角の「東南」のこと。

冠稲荷神社2 (11)
冠稲荷神社2 (12)
拝殿前の源義経ゆかりの御神水(井戸)。承安4年(1174年)源義経が奥州平へ下向のおり、この井戸の水で斎戒沐浴し旅の無事を祈願したという。それ以来「ご神水の井戸」と呼ばれ、厄除け・方位除け・雨乞いなどの御利益があるとされる。

冠稲荷神社2 (13)
今も水が流れ出ており取水可能だが、容器を購入する必要があるようだ(100円から)。

冠稲荷神社2 (14)
冠稲荷神社2 (15)
手水舎の水も「ご神水の井戸」と同じ水源から引いている。

冠稲荷神社2 (16)
冠稲荷神社2 (17)
冠稲荷神社2 (18)
拝殿は延享3年(1746年)の建立、寛政11年(1799年)に改築されている。

冠稲荷神社2 (19)
本殿は元禄3年(1690年)の建立、享保7年(1722年)に改築されている。

冠稲荷神社2 (20)
冠稲荷神社2 (21)
冠稲荷神社2 (22)
本殿彫刻。「琴棋書画」を題材とした本殿背面の彫刻は、明和4年(1767年)花輪村の前原藤次郎・小倉弥八らによる(彫刻写真の1枚目)。「虎渓三笑」「商山四皓」を題材とした両側面の彫刻は、文化12年(1815年)武州大里郡河原明戸村(埼玉県熊谷市)の飯田仙之助らによる(彫刻写真の2枚目・3枚目)。

その他、多くの境内社や諸施設があるので、引き続き紹介する(つづく)。


太田市沖野町の増殿(ぞうどの)神社。

増殿神社 (1)
増殿神社 (2)
増殿神社の由緒は不詳。主祭神の大穴牟遅命(大国主命)が殖産・興業、土地開拓の神なので、村南端の水田地帯中央部に祀ったといわれる。

鳥居には「大正御即位記念」とあるので、大正初期(1912年から数年)の建立。

増殿神社 (3)
社殿前の灯籠は木の陰で見づらいが、大正14年(1925年)の奉納。

増殿神社 (4)
増殿神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

増殿神社 (6)
境内社・末社群。

増殿神社とはあまり聞かない名称だが、新田荘遺跡に「重殿水源」があることを考えれば農業用水に関係する神社と推定できる。鎌倉時代に大舘宗氏と岩松政経が「一井郷沼水」から流れ出た「用水堀」を巡って争った記録がある。「一井郷沼水」は「重殿水源」であると考えられている。

このようなことを考慮すると、当所の水源や用水堀などを「増殿」と呼んでいたのでは? と推定することもできるかな。


太田市沖野町の祈願山延命寺。

延命寺 (1)
延命寺は寛政11年(1799年)良祐法師の中興と伝えられる。古記録等無く、それ以前は詳細不明。但し後に記載する「延命寺風」の逸話から、江戸時代初期には創建されていたと推定される。

延命寺 (2)
参道には仏像や庚申塔などが並ぶ。左の地蔵像は享保4年(1719年)、右の二十二夜塔は文化5年(1808年)の造立。

延命寺 (3)
六地蔵は平成7年(1995年)の造立。

延命寺 (4)
延命寺 (5)
庚申塔や二十二夜塔には天保3年(1832年)、宝暦(1751~64年)の銘が読み取れた。

延命寺 (6)
本堂は昭和30年(1955年)ころ改築されているようだが、詳細は不明。

延命寺 (7)
延命寺 (8)
梵鐘は平成5年(1993年)の鋳造。先の大戦時に供出した梵鐘の再鋳造かな。

延命寺5世・良忠は寛文7年(1667年)10月に示寂。その葬儀時に「烈風」が発生し、棺が舞い上がり太田金山まで飛び落ちたという。田畑でも刈られた稲などが散乱し、農民の被害も大きかったといわれる。これを「延命寺風」と呼び、今に語り継がれている。

現在で言うところの「竜巻」が発生したと思われる。棺が数kmも離れている金山まで飛んだとは大げさのような気がするが、農家に被害が出たのは事実だろう。これ以来、春秋の彼岸には良忠の墓に団子を供え、その団子を子どもに与えれば風邪をひかないと伝えられている。


太田市西野谷町の西谷山栄福寺。

栄福寺 (1)
栄福寺は慶安3年(1650年)新田一族の西谷重氏が、武州(埼玉)大里郡・能護寺より重栄僧正を招き開山として創建したと伝わる。西谷氏は新田政氏の子・重氏を祖としている。開基と同名だが、年代が違うのでもちろん別人。

栄福寺 (2)
本堂と西野谷集会所を兼ねた建物。平成2年(1990年)の建立と言うか建設と言うか。内部はどう区分されているのだろうか?

栄福寺 (3)
栄福寺 (4)
左側に栄福寺本堂の入口がある。右側は西野谷集会所の入口。

栄福寺 (5)
境内の地蔵像。3体あるが、それぞれ享保3年(1718年)、宝永元年(1704年)、安政6年(1860年)の造立。

栄福寺 (6)
二十二夜塔。左側の塔は天保6年(1835年)の造立。

栄福寺 (7)
栄福寺 (8)
薬師堂。かつては境内に春日神社・八幡神社・薬師堂・大日如来堂などがあったが、明治末期の神社合祀令により大日堂以外は各地の神社や同類施設に合祀(合併)されている。残った大日堂を改築したのが現在の薬師堂である。

堂内には栄福寺本尊・大日如来像の他、薬師三尊像(薬師如来と日光・月光)や十二神将像などを安置している。

栄福寺 (9)
栄福寺 (10)
集会所を兼ねているためか、遊具(ブランコや鉄棒、キャラ乗り物?)が設置されている。


太田市下田島町の長立山妙高寺。

妙高寺 (1)
妙高寺は天正18年(1590年)高山因幡守繁泰が日誘上人を開山に招き、館の一角に法華堂を建立したのが始まりとされる。繁泰は由良国繁配下の武士であったが、武門を捨て下田島にて帰農。縁あって日誘上人の法話を聴き、開山に招いたという。

妙高寺 (2)
妙高寺 (3)
山門は昭和60年(1985年)の建立。

妙高寺 (4)
本堂は昭和58年(1983年)の建立。高山繁泰が慶長3年(1598年)寄進した祖師像(日蓮像)が本尊とされていたが、宝暦年間(1751~64年)に盗難に遭ってしまった。いつの世も不届き者がいるものだ。

妙高寺 (5)
妙高寺 (6)
境内の日蓮の塔。文政4年(1821年)と大正13年(1924年)の造立。

妙高寺 (7)
聖観音像。平成19年(2007年)の造立。交通安全祈念。

妙高寺 (8)
妙高寺 (9)
鬼子母神堂。由緒は分からないが、鬼子母神は法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多い。

妙高寺には300年来伝わる万病に効く「ほうろく灸」というお灸が伝わっている。これは元々は真言密教の修法らしいが、日蓮宗の寺院で今も行っているところが多い。

一般的には「ほうろく」と呼ばれる素焼きの皿を頭上に乗せ、そこにもぐさを置き灸をする。土用の丑の日(前後)に行うので、夏バテ防止などとして行われている(これは一般的な「ほうろく灸」のことです)。


太田市別所町の十二所神社。

十二所神社2 (1)
十二所神社の由緒は不詳だが、別所村内に散在していた12の末寺を本寺円福寺にまとめた際に、各寺の本尊を一ヶ所に合祀して十二所神社として祀ったとの言い伝えがある。

十二所神社2 (2)
十二所神社は御室山円福寺境内、茶臼山古墳の後円部墳丘に鎮座する。参道は古墳北側から続く。(茶臼山古墳は「新田氏累代の墓・御室山円福寺」参照)

十二所神社2 (3)
鳥居は大正9年(1920年)の建立。

十二所神社2 (4)
円福寺本堂側からも登っていける。

十二所神社2 (5)
十二所神社2 (6)
本殿には国常立命・大戸辺命・涅土煮命・大日霊命・火々出見命など、16体の神像が安置されている。神像はともに30cmほどの木像で、その内5体には正元元年(1259年)の銘がある(先に例として挙げた5神の像に銘があるというわけではない)。紀年銘のある5体は太田市の重文に指定されている。

国良親王御陵
十二所神社とは直接関係はないが、茶臼山古墳の後円部には「国良親王御陵」の標柱が建っている。昭和34年(1959年)の建立。国良親王とは後醍醐天皇の皇子・宗良親王と新田義貞の娘・山吹姫との間の御子とされる。

宗良親王は興国5年/康永3年(1344年)から信濃国伊那郡を拠点に活動しており、その際に上野国などにも出陣していた。国良親王は伊那郡で生まれ、新田氏庇護のもと当地で暮らしていた。正平24年(1369年)に31歳で薨去され、円福寺中の茶臼山古墳に葬られたとの伝承がある。

国良親王は後醍醐天皇の孫に当たるが、生涯一度も京に上ることなく上野国で生涯を閉じたため、親王どころか皇族としても数えられていない。また実在性に関しても確証がない。とは言え、後醍醐天皇の皇子と新田義貞の娘との間の御子など、何となく「あり得るかな」と思ってしまう伝承になっている。


太田市別所町の御室山円福寺。

円福寺2 (1)
円福寺は寛元2年(1244年)新田政義の開基、京都仁和寺から招いた静毫阿闍梨の開山。政義は新田氏の4代目(義重の曽孫)に当たる。

政義は京都大番役時(寛元2年)、鎌倉幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心したが断られると、今度は勝手に出家し大番役を中止し帰郷してしまった。その出家後の隠居寺として円福寺を創建したということ。

円福寺2 (2)
山門の扁額「御室山」は、江戸時代に当地を領していた旗本・筒井政憲の書。政憲は長崎奉行や江戸南町奉行などを歴任している。

円福寺2 (3)
円福寺2 (4)
本堂の建立年などは不明だが、近年の新築建立だと思われる。本堂には開基の政義以下、政氏、基氏、朝氏の位牌が安置されている。ちなみに、朝氏の子が義貞になる。また、円福寺境内には群馬県で3番目に大きい茶臼山古墳があり、本堂の位置はその後円部の東裾になる。県内に茶臼山と呼ばれる古墳は複数あり、地名から別所茶臼山古墳と呼ばれる。

別所茶臼山古墳
茶臼山古墳は全長168mの前方後円墳で、後円部径96m・高さ14m、前方部幅65m・高さ8mを誇る。葺石・埴輪を備え、周囲には堀がめぐる。5世紀前半の築造とされる。円福寺や十二所神社の諸堂建立のため、多くが削平されている。

円福寺2 (5)
円福寺2 (6)
茶臼山古墳の前方部東裾に新田氏累代の墓(五輪塔・石層塔などが20余基)がある。その様式から鎌倉時代中期から南北朝時代のものと推定されている。このうち五輪塔1基に「沙弥道義」「元亨4年(1324年)」との銘文が確認されている。沙弥道義は開基である政義の孫・基氏の法名。基氏は義貞の祖父に当たる。

基氏没時、義貞は23歳で鎌倉攻めの9年前になる。既に父・朝氏(基氏の子)は死去しており、文保2年(1318年)には新田宗家の家督を継いでいる。

円福寺2 (7)
観音堂は茶臼山古墳の前方部と後円部のくびれ部に建つ。元禄14年(1701年)の建立。近年では平成18年(2006年)改修されている。

円福寺2 (8)
円福寺2 (9)
本尊の千手観音像は行基の作とされ、元は河内国(大阪)通法寺にあり源頼信・頼義などの河内源氏一族が崇敬したといわれる。源義家から義国・義重を経て、新田氏の守り本尊になったという。

円福寺2 (10)
円福寺2 (11)
七地蔵石幢。六地蔵に延命地蔵を加えたもの。茶臼山古墳前方部にある。長享3年(1489年)の紀年銘がある。銘文中にある「宗悦上座」は横瀬国繁、「宝泉禅門」は岩松満国の法名とされている。

円福寺2 (12)
円福寺2 (13)
こじんまりとした鐘楼。

円福寺2 (14)
円福寺2 (16)
馬頭観音堂。詳細不明。茶臼山古墳前方部には馬頭観音碑が数基建っており、建碑は明治期のもの。

円福寺開基である新田政義の軽挙妄動(官位無心や無許可出家、大番役の中止・帰郷)により新田氏は没落。足利氏(新田氏の親戚であり、政義妻の実家)の取り成しがあったので所領全没収にはならなかったが、新田宗家は義貞まで無位無官の一地方御家人扱いとなっている。


太田市由良町の正英山威光寺。

威光寺2 (1)
威光寺は元徳2年(1330年)新田義貞の次男・義興の開基、吽海法印の開山で、正永山医光寺として開創。応永年間(1394~1428年)に横瀬貞氏が義興の冥福を祈るために伽藍を修復、義興の法名「威光寺殿従四位下前武衛傑伝正英大居士」から正英山威光寺と改称している。

威光寺2 (2)
威光寺2 (3)
門前の六地蔵や庚申塔類。六地蔵は天明8年(1788年)の造立。庚申関係(如意輪観音塔)には文化8年(1811年)の紀年銘があった。

威光寺2 (4)
威光寺2 (5)
本堂は平成12年(2000年)の新築建立。

威光寺2 (6)
境内の宝塔。寛政2年(1790年)の造立。

威光寺2 (7)
境内の隅に池があり、その奥にお堂がある。堂内を見ることができなかったので、詳細は分からない。

威光寺2 (8)
威光寺2 (9)
威光寺2 (10)
不動堂。本尊の不動尊像は一尺八寸(約54cm)の木像で、東大寺開山・良弁僧正の真作と伝えられる。新田義貞が上洛時に入手し当寺に寄進したという。

不動堂は明治42年(1909年)に火災に見舞われているが、その際猛火の中から檀家の方が不動明王像を運び出したという。お堂の再建は大正4年(1915年)。

威光寺2 (11)
威光寺2 (12)
威光寺2 (13)
弘法大師堂。木造の大師像を祀る。

威光寺2 (14)
新田義興の墓など3基が並んでいる。中央が新田義興の墓、右は義興の母・臺(台)姫の墓、左は義興従者の墓。

威光寺2 (15)
義興は義貞の次男で、義貞が北陸にて奮戦中の建武4年(1337年)奥州の北畠顕家の挙兵に呼応して上野国で挙兵。吉野で後醍醐天皇に謁見し元服、義興の名を賜る。鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、正平13年(1358年)江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。享年28。

威光寺2 (16)
義興の生母・臺(台)姫の墓。由良光氏の娘で義貞の側室。法名の自性院は威光寺の院号になっている。

謀殺された義興の怨霊を鎮めようと祠を建て新田大明神として祀ったのが、東京都大田区矢口にある新田神社である。ここは破魔矢の発祥の地としても知られる。「新田神社」のHP内に、その由緒(義興のことや神社由来)が紙芝居風の動画で紹介されている。興味のある方は是非。


太田市由良町の飯玉神社。
由良飯玉神社 (1)
由良飯玉神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に稲荷神社、八坂神社、宗像神社などを合祀している。一の鳥居は明治38年(1905年)の建立。

由良飯玉神社 (2)
由良飯玉神社 (3)
鳥居は計4基あり、2基目(二の鳥居と言うべきか)は元禄9年(1696年)、3基目は天保8年(1838年)の建立。

由良飯玉神社 (4)
由良飯玉神社 (5)
社殿の建立年など、詳細は分からない。

由良飯玉神社 (6)
由良飯玉神社 (7)
社殿の裏の境内社は、大黒さまの像が置かれていたので増殿神社かな。古くから大国主命と混同・習合しているので(増殿神社のご祭神は大国主命)。

由良飯玉神社 (8)
由良飯玉神社 (9)
社殿横には石宮が並ぶ。詳細は分からない。

由良飯玉神社 (10)
「敬神虔道」と書かれた碑があった。揮毫は近衛文麿なので昭和初期(1940年ころ)の建碑かな。3文字目は「けん」と読むらしい(手前の枝が邪魔をしているが)。「神を謹んで深く敬え」というような意味だろう。あまり見たことがない碑だ。


太田市脇屋町の脇屋義助館跡。

脇屋義助館跡
脇屋義助館跡といわれる地に建つ「脇屋義助公居館跡」の碑。昭和13年(1938年)の建碑。

脇屋義助は新田義貞の弟で、義貞の挙兵以降副将として奮戦している。義貞討死後は後村上天皇(第97代にして南朝2代)の勅命を受け四国・伊予(愛媛県)に渡ったが、病により興国3年(北朝は康永元年、1342年)36歳で死去している。

平成9年(1997年)刊の「太田市史 通史編 中世」によると、「桑畑中に脇屋義助館跡の碑が建っているが、館の堀跡も土居も片影すら見ることができない」とあり、当時すでに遺構などは確認できなくなっていたようだ。さらに現在では多くが住宅地化されており、逆に農地の方が少なくなっている。時の移ろいは早いものだ。

往時は義助の館に隣接し、正法寺が建っていたとされる。正法寺は万治年間(1658~61年)の火災により現在地(館跡から約1kmほど離れた場所)に移っているが、昭和23年(1948年)の開墾作業中に層塔などが出土している。それらは現在の正法寺に置かれている。

この開墾事業により、館跡の遺構はほぼ消滅したようだ。

関連
 「太田市脇屋町・脇屋山正法寺


太田市脇屋町の脇屋山正法寺。

正法寺2 (1)
正法寺は山城国醍醐寺開山の聖宝僧正が東国遊化の際、延喜年間(901~23年)に創建。創建時は萬明山聖宝寺と称していた。元暦年間(1184~85年)新田義重が堂宇を修理し、元弘年間(1331~34年)に新田義貞の弟・脇屋義助が寺領と大般若経600巻を寄進している。

興国3年(北朝は康永元年、1342年)義助が伊予(愛媛県)国府にて病没(享年36)すると、寺僧が「正法寺殿傑山宗英大居士」という法号とともに遺髪を持参、以来脇屋山正法寺と改称した。なお、法号と遺髪を持参したのは児島高徳との伝承もある。

万治年間(1658~61年)に火災に遭い、観音免と呼ばれる地から現在地に移転したといわれている。観音免には脇屋氏の館もあったとされる。

正法寺2 (2)
正法寺2 (3)
仁王門は貞享2年(1685年)の建立。享和3年(1803年)に改築されている。昭和28年(1953年)には解体・基礎の打ち直しなどの大改修を行っている。

正法寺2 (4)
正法寺2 (5)
仁王像は阿像・吽像ともに像高2.6mほどで彩色されている。昭和63年(1988年)の解体修理の際、背面と顔面裏から銘文が発見され、貞享2年に京都の大仏師・左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。

正法寺2 (6)
大鰐口は2m、530kg。貞享2年の鋳造(仁王門・仁王像とともに作成されたようだ)。しかし先の大戦時に供出。現在の鰐口は昭和57年(1982年)の鋳造。

正法寺2 (7)
正法寺2 (8)
本堂は文化4年(1807年)の脇屋大火により焼失。以降、観音堂を本堂としている。そのため扁額は「観音堂」。観音堂は享和3年(1803年)の建立。

正法寺2 (9)
新田氏の大中黒紋が輝く。

正法寺2 (10)
脇屋義助の石像。平成17年(2005年)の造立。

脇屋義助は兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。興国3年には後村上天皇から中国・四国方面の総大将に任命され、四国に渡るも伊予国(愛媛県)で発病しそのまま病没している。

正法寺2 (11)
正法寺2 (12)
義助の遺髪塚(向かって右)。左は義助の墓とする資料もあるが、後に造立された供養塔。見づらくて申し訳ないが、暦応3年(1340年)とある。これは北朝の年号であり、南朝では興国元年になる(一部資料には義助の没年を興国元年としているものもある)。南朝方として奮闘したのだから、せめて元号は南朝の興国を使わないといけないだろう。

正法寺2 (13)
移転前の旧地から出土した層塔。旧地は現在地から1kmほど離れた観音免と呼ばれる場所。昭和23年(1948年)の開墾作業中に見つかっている。その他にも五輪塔、承安2年(1300年)銘の板碑などが出土している。

正法寺2 (14)
正法寺2 (15)
本堂裏の宝物庫(らしき建物)。「文化財観音」とあったので、普段は本尊の聖観音像が安置されていると思われる。本尊の聖観音像は高さ155cmで鎌倉時代初期の作と考えられており、群馬県の重文に指定されている。伝承では行基が香木に彫刻した等身大の立像といわれるが、行基は奈良時代の僧なので時代が合わない。聖観音像は午年(12年に1度)のみご開帳される。

正法寺2 (16)
濡れ金仏地蔵。高さ205cmの銅製地蔵坐像。宝暦10年(1760年)下野国(栃木県)佐野の鋳物師・丸山孫右衛門清光の作。

正法寺2 (17)
大正天皇が皇太子時代に行啓された記念碑。揮毫は陸軍中将・川岸文三郎(太田市出身)。明治41年(1908年)近衛師団機動演習に際し、当寺でご休憩されている。

正法寺2 (18)
三鈷の松とあった。標柱には「中国北京 明の十三陵より」とあるので、そこからの移植だと思う。一般的に「三鈷の松」は弘法大師が唐から帰国するときに投げた三鈷杵が、高野山の松の木に引っかかっており、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、葉が3葉になっており御利益があるといわれる。

葉を確認したわけではないし探してもいないが、3葉を見つけたら相当縁起が良い。


太田市脇屋町の赤城神社。

脇屋赤城神社 (1)
脇屋赤城神社 (2)
脇屋赤城神社は鎌倉時代に新田義重が創建したと伝えられる。新田氏、脇屋氏から篤く崇敬されたという。

脇屋赤城神社 (3)
脇屋赤城神社 (4)
脇屋赤城神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和27年(1952年)に改築されている。

脇屋赤城神社 (6)
社殿裏の境内社・末社群。貴船社、粟島社、稲荷社、熊野社、北野社など。

脇屋赤城神社 (7)
社殿の周囲は芝が敷き詰められ、しかも綺麗に刈られている。余りの綺麗さに驚いたが、よく見ると所々にピンフラッグが立っており、ティーグランドらしきものもある。

脇屋赤城神社 (8)
社殿回りは赤城神社パークゴルフ場とのことで、綺麗な芝も納得。太田市がパークゴルフ場を整備し、「赤城神社パークゴルフ愛好会」のみなさんが芝刈りなどの整備を月1回行っているようだ。


太田市藤阿久町の稲荷神社。

藤阿久稲荷神社 (1)
藤阿久稲荷神社の由緒は不詳。明治期に八幡宮を合祀している。昭和51年(1976年)刊の宝泉村誌には「境内の老杉を見ても千年近いものと思われ」と記載され相当の古社と思わせるが、現在は市街地化が進んでおりその面影は感じない。

鳥居は平成27年(2015年)の建立。

藤阿久稲荷神社 (3)
藤阿久稲荷神社 (4)
藤阿久稲荷神社 (5)
社殿の建立年などは不明だが、昭和62年(1987年)に改修を行っている。また、本殿は新田俊純の寄進と伝えられている。俊純は江戸末から明治にかけての岩松家当主。明治維新後、岩松氏が新田氏の嫡流と認められたため、新田に改姓(復姓)している。明治16年(1883年)には華族に列し、翌年は爵位(男爵)を得ている。

藤阿久稲荷神社 (6)
藤阿久稲荷神社 (7)
境内社の八坂神社。

藤阿久稲荷神社 (8)
境内社・末社の石宮が並ぶ。厳島社、生品社、宗像社、諏訪社、天満宮。

藤阿久稲荷神社 (9)
旧鳥居の柱と思われる石柱が、境内にそのまま置かれていた。確かに処分するにはお金がかかるし、地域の神社では負担も大きいから大変だよね。


太田市金山町の大田山義貞院金龍寺。

金龍寺2 (1)
金龍寺は応永24年(1417年)横瀬貞氏が新田義貞の追善供養のため創建したとされる。寺号は義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」から。後に横瀬氏(由良氏)は下剋上により岩松氏を退け、実質的な金山城主となっている。そのため金龍寺も横瀬氏の菩提寺として興隆している。

天正18年(1590年)由良氏は常陸国牛久へ転封となり、金龍寺も牛久へ移転している(現在も茨城県龍ケ崎市にある)。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615年)に当地を領した榊原氏によって再興されている。

金龍寺2 (2)
木々に覆われた石段を昇っていく。石段は昭和13年(1938年)に整備・改修されている。

金龍寺2 (3)
金龍寺2 (4)
六地蔵は昭和52年(1977年)の造立。向かいには地蔵像や庚申塔・月待ち講塔などが並ぶ。

金龍寺2 (5)
本堂前の七福神。金龍寺は「上州太田七福神」の毘沙門天を祀る。

金龍寺2 (6)
金龍寺2 (7)
金龍寺2 (8)
本堂の屋根には三つ葉葵紋と由良氏の五三桐紋が掲げられている。五三桐紋は岩松氏も使っているのと、両氏とも新田氏を示す大中黒紋も使っており紛らわしい。

金龍寺2 (9)
金龍寺2 (10)
本堂内部。ご本尊の釈迦如来。

金龍寺2 (11)
金龍寺2 (12)
金龍寺2 (13)
本堂の欄間彫刻。題材は知識がなく分からない。

金龍寺2 (14)
本堂裏にある新田義貞供養塔。供養塔は寛永14年(1637年)の義貞300回忌法要に際し造立されたもの。石英斑岩製の基礎部の上に安山岩製の多層塔を重ねたもの。総高は246cm。

金龍寺2 (15)
金龍寺2 (16)
義貞供養塔の前(と言うか下)には、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主とその一族の墓がある。由良氏五輪塔は9基あり、安山岩製で紀年銘・法名などが刻まれている。

横瀬氏(由良氏)は新田義貞の3男・義宗の子である貞氏(金龍寺開基)が横瀬氏へ入婿したとし、新田氏の一族であると自称するようになった。最終的には明治政府により、新田氏嫡流は岩松氏とされている。ちなみに、岩松氏は氏祖の時兼の父系が足利氏、母系が新田氏という家系。


太田市金山町の義重山大光院新田寺の2回目。
(1回目は「太田市金山町・義重山大光院新田寺」参照)

大光院2 (1)
前回、大光院の主な建物と呑龍上人、新田義重の墓所などを紹介した。大光院には他にも遺物や伝承にちなんだものがあるので紹介する。

大光院2 (2)
大光院2 (3)
弁天堂。「上州太田七福神」の弁財天を祀る。本尊は厨子の中のようだ。

大光院2 (4)
弁天堂のすぐ裏の雨乞いの池(古い資料には舞雲池とある)。その名の通り、干ばつの時などに雨を降らせる霊験があるという。沐浴の後に阿伽として池の水を呑龍上人(の墓前)に供えると雨を降らせる霊験があるという。

これは呑龍上人が林西寺住職の時、龍神に念仏を唱えることで雨を降らせたという伝承があるので、そこから呑龍上人に祈願すれば雨が降るとなったのだろう。

大光院2 (5)
甘露水の井戸。白水がこんこんと湧き出て、干ばつ時にも涸れることがないといわれる。手にすくい取って口を漱げば香気を感じるという。現在、井戸はなく屋根を付けた土管(?)が置かれているだけのように見える(覗き込んだわけではないが)。

口碑では、越後国高田の老僧・順応が不幸にも悪疫に罹ったが百薬の効なく、最後の頼みとして塩穀を絶ち呑龍上人に祈願した。すると夢のお告げで「御廟の下に霊水あり。これを服し、これに浴し、謹んで怪しむことなかれ」と。順応は霊夢に従い霊水を服し、浴したところ3日で病が癒えたという。以後、この水を甘露水というようになった。

大光院2 (6)
源次兵衛の墓。源次兵衛は武州(埼玉)の郷士の息子で、父の難病を治すため国禁を犯して鶴を猟殺(生き血を飲ませたかった)した若者。

元和2年(1616年)役人から追われる身となった源次兵衛は、呑龍上人に救いを求め大光院へ逃げ込む。呑龍上人は「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」と源次兵衛を庇い、大光院の住職の地位を捨て、源次兵衛とともに信州小諸の山中に身を隠した。

元和6年(1620年)に芝増上寺・観智国師の取りなし(死に際しての幕府への願い)で許され、大光院住職に復帰している。源次兵衛は形の上では出家していたので、大光院で生涯を終えている(詳細は不明)。

大光院2 (7)
大光院2 (8)
源次兵衛の墓を挟み、鶴塚(猟殺された鶴の供養塔かな)と如意輪観音像がある。


太田市金山町の義重山大光院新田寺。

大光院 (1)
慶長16年(1611年)新田氏の祖・義重に鎮守府将軍が追贈されたことから、徳川家康が義重の追善供養のため開山に呑龍上人を招き慶長18年(1613年)に創建。院号の大光院は義重の法名「大光院殿方山西公大禅定門」、寺号は新田氏(元は郡名)から。

家康は自らを源氏の一族であることにするため、義重の4男・義季の末裔を自称していた。義季の子孫が三河国へ移り松平家に入婿し、その8代目が家康ということになっている。

大光院 (2)
吉祥門は慶長20年(1615年)の建立。三つ葉葵の紋がさんぜんと輝く。平成12年(2000年)に屋根の全面修復を行い、建立当時の瓦と推定される「丸に三葉葵」の家紋が入った瓦屋根が復元されている。

大坂城落城の日に山門完成の報告を受けたので、家康が「大坂落城と山門完成の報が同時とはめでたいことである。これは徳川家にとって吉祥であるから、以後その門を吉祥門と名付け長く保存せよ」と命じたとされる。

大光院 (3)
家康の命令で創建されただけあり境内は広大だ。元は義重の父・義国の城地とされる。また境内地を調査した土井利勝らは、当地を「名山勝水古蹟霊場左右山中に烈在する。まさに『四神相応』の聖地」と家康に報告したという。

大光院 (4)
大光院 (5)
本堂は慶長18年の創建時の建立。江戸時代に6回の改修・修復が行われ、近年では大正14年(1925年)に大改修が行われている。扁額の揮毫は江戸末の有栖川宮家の尊超入道親王。

大光院 (6)
本堂前の灯籠。文政10年(1827年)の奉納。

大光院 (7)
大光院 (8)
本堂前の臥竜の松。巨龍が地に臥し、今まさに天に昇ろうとする勢いを表わすような姿から「臥龍松」と呼ばれている。呑龍上人の手植えと伝わることから「呑龍の松」とも。

臥龍松(樹齢700年といわれる)はかなり樹勢が衰えており、夏にもかかわらず幹枝のみの状況。壊死の心配も出てきている。

大光院 (9)
大光院 (10)
開山堂は昭和9年(1934年)の再建。もとの開山堂は明和8年(1771年)の建立。堂内には呑龍上人の尊像を祀る。尊像は元和8年(1622年)に上人自ら斧を取って彫刻したといわれる。高さ4尺3寸(約130cm)で、像容は上人の生き写しとされる。

大光院 (11)
大光院 (12)
梵鐘は明治42年(1909年)鋳造であったが、先の大戦時の供出。現在の梵鐘は昭和33年(1958年)落慶。

大光院 (15)
大光院 (16)
本堂の左奥にある新田義重の墓。元は金山の東麓菅ノ沢にあったものを大光院創建時に移したと伝わる。墓前の灯籠は延宝2年(1674年)幕府老中・安部正能の奉納と、元禄11年(1698年)伊勢崎藩主・酒井忠寬の奉納。ところが、灯籠が写っている写真がなかった・・・。

義重は武家の棟梁として名高い源義家の孫にあたる(義家3男・義国の長男)。父とともに関東に下向し足利荘を開拓。後に新田荘に移り同様に開拓。義重は新田荘を継承し、足利荘は弟の義康が継承した。後に「建武の新政」時に争った新田義貞と足利尊氏は両家の子孫。

大光院 (13)
大光院 (14)
呑龍上人の墓。上人は弘治2年(1556年)武蔵国埼玉郡一の割村(現春日部市)に生まれ、元和9年(1623年)入寂。世寿68。呑龍上人が捨て子などを弟子として養育したことなどの遺徳から「子育て呑龍」と呼ばれ、篤く信仰を集めている。

元和2年(1616年)孝心のため国禁を犯し保護鳥の鶴を殺してしまった源次兵衛を匿まい幕府から譴責されたが、元和7年(1621年)に赦免された逸話もある。本件に関する古蹟もあるので、その他の施設・遺跡も含めて次回ということで。


太田市飯田町の桃花山霊雲寺。

霊雲寺 (1)
霊雲寺は永正年間(1504~21年)横瀬成繁(業繁)の開基。開山は恵林寺2世・天意長朔大和尚といわれる。この成繁は下克上にて戦国大名に成り上がった成繁(由良)ではなく、その曾祖父にあたる。

まあ横瀬成繁の時代には実質的に金山城主になっており、岩松氏が追放されるのも時間の問題だったけど。

寺号は成繁の法名「霊雲院殿義山宗忠居士」からきている。ちなみに、成繁(業繁)の墓は大田山金龍寺にある。(「新田義貞の供養塔・大田山金龍寺」参照)

霊雲寺 (2)
霊雲寺 (3)
本堂は平成3年(1991年)の建立。以前の本堂は藁葺きだったという。本尊は釈迦如来で、その坐像は全体に漆箔が施され厨子の中に安置されており、太田市の重文に指定されている。

霊雲寺 (4)
霊雲寺 (5)
境内の六地蔵と二十二夜塔。

霊雲寺 (6)
小坊主さんの手には本物の竹ぼうきが握られている。こういう仕様なんだね。


太田市東今泉町の巌穴山(いわあなやま)古墳。

巌穴山古墳 (1)
巌穴山古墳は、一辺36.5m(現存30m)、高さ約6mの方墳。墳丘4辺の方位が、それぞれ東西南北とほぼ一致している。また、幅8mの周堀が確認されている。築造は7世紀前半と推定され、太田市では唯一の方墳である。

巌穴山古墳 (2)
巌穴山古墳 (3)
巌穴山古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口している。石室は玄室と羨道の間に前室を持つ複式構造で、凝灰岩や自然石を使用している。石室の全長は約13m、玄室の高さは約2.7m。

玄室内からは人骨片や土師器片、金環、刀装具、鉄釘が、羨道部から須恵器などが出土している。葺石、埴輪は見つかっていない。

なお、石室内からは「寛永通宝」も見つかっており、江戸時代には人の出入りが行われていたようだ。当然、盗掘されているということ。もしかして、寛永通宝は石室内から持ち出した宝物の「代金」として置いていったのか、などと想像してみた(笑)。

太田市富若町の名号角塔婆。

富若の名号角塔婆 (1)
富若の名号角塔婆 (2)
富若の名号角塔婆は高さ78cmであるが、上部が欠けているため本来の高さは不明。幅は28cm。みどり市笠懸町産出の天神山凝灰岩製。正面に永仁5年(1297年)の銘がある。「南無阿弥陀仏」の六字名号が4面に刻まれており、造立者は薗田(園田)氏一門と推定される。

名号角塔婆は中世の浄土宗信仰にもとづく供養塔で、県内では太田市、桐生市、みどり市の各一部地域の35基しか確認されていない。これは薗田氏の支配地と共通している。鎌倉初期の当主・薗田成家が京都に巡廻警護に上がった際、法然に師事・出家し智明となり、当地に浄土宗を広めたためと考えられている。

関連
 「桐生市川内町・萬松山崇禅寺
 「太田市金井町・金井山永福寺
 「太田市矢田堀町・矢田堀勘兵衛屋敷の名号角塔婆


太田市丸山町の義徳山大圓寺。

大円寺 (1)
大圓寺は明暦元年(1655年)の創建。安政年間(1854~60年)の火災により、記録などは焼失してしまっている。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
現在の本堂は平成17年(2005年)の再建。

大円寺 (4)
参道脇にある徳本行者名号碑。
徳本行者は江戸時代後期の浄土宗の僧侶で、各地を巡り昼夜不断の念仏や苦行を行い、念仏聖と呼ばれていた。

文化13年(1816年)に上州遊行をした記録があるので、その際に大圓寺に寄るなどしたのだろうか?

大円寺 (5)
大円寺 (6)
墓地入口に勾当内侍(こうとうのないし)の墓とされる宝篋印塔がある。その後方には、「勾当内侍之墓」と記された碑が建っている。

勾当内侍は新田義貞の妻とされる。新田義貞が勾当内侍との別れを惜しんだため、九州へ逃れた足利尊氏への追撃の時期を逸したと太平記には書かれている。

太平記が江戸時代に広まると、勾当内侍の墓が全国各地に作られており、大圓寺の墓もこのころ造立されたものと思われる。

ちなみに、太田市武蔵島町の花見塚公園には、新田義貞の首塚と勾当内侍の墓が並んで建っている。また、太田市亀岡町には勾当内侍が義貞供養のため庵を結んだのが起源とされる儀源寺がある。
 「勾当内侍の墓と新田義貞の首塚・花見塚公園
 「太田市亀岡町・広谷山儀源寺


太田市本町の春日神社。

春日神社 (1)
太田春日神社は元享3年(1323年)新田義重が春日大社から神霊を勧請し新田家の崇敬社とした。その後、応永5年(1398年)現在地に遷座し太田の総鎮守となる。

以上は案内板からだが、「元享3年(1323年)新田義重が」って明らかに間違ってるだろ。義重は新田氏の祖で平安末から鎌倉初期の武将。元享3年が正しいなら義貞の時代だし、義重が正しいなら年代が間違っている。

春日神社 (2)
狛犬が南国風。奉納者は元台湾・台北市長。戦時中、中島飛行機で働いていたようだ。その後、昭和50年代に作り直している。

春日神社 (3)
春日神社 (4)
春日神社 (5)
春日神社 (6)
境内はあまり広くないが、社殿も含め雰囲気は良い。拝殿や本殿の彫刻も素晴らしい。ただ、屋根は瓦風だけどね。

由緒の間違いはさて置き、新田氏関係は間違っていないと思うので、往時の境内は相当広大だったと推定される。現在は街中になってしまったので、しょうがないけどね。


太田市原宿町の栄昌山善宗寺。

善宗寺 (1)
善宗寺は元禄12年(1699年)、曹源寺9世・萬了雷重によって創建された。もともとは曹源寺住職の隠居寺とされていた。(曹源寺は「太田市東今泉町・祥寿山曹源寺」参照)

善宗寺 (2)
本堂は天明3年(1783年)の再建だが、平成3年(1991年)に改修されている。本尊は阿弥陀如来だが、同じく祀られている大黒天は「上州七福神」のひとつである。

善宗寺 (3)
境内の「一期一会」と記された石碑には、大黒天が描かれている。

善宗寺 (4)
薬師如来(左)、地蔵菩薩(中)は分かるが、右は??

善宗寺 (5)
善宗寺 (6)
お堂を覗いて見たら、八臂弁財天坐像らしきものが。オレの拙い知識だとそう見えるんだけど。大黒天を祀るお寺に弁天様がいる??

ところで、善宗寺の大黒天は「上州七福神」で、「上州太田七福神」ではない(ちょっと紛らわしい)。ちなみに、「上州七福神」は善宗寺以外は
 布袋尊(霊山寺) 甘楽郡下仁田町
 寿老人(長松寺) 北群馬郡吉岡町
 弁財天(興禅寺) 渋川市赤城町
 毘沙門天(柳沢寺) 北群馬郡榛東村
 恵比寿(珊瑚寺) 前橋市富士見町
 福禄寿(正円寺) 前橋市堀之下町
と群馬県にちらばっている。


太田市市場町の稲荷山古墳。

太田稲荷山古墳 (1)
太田稲荷山古墳は、径32m、高さ4mの円墳と推定されるが、南西部に周囲より一段高い平たん部があり、帆立貝形古墳の可能性もある。西側には周堀の形跡が認められる。

墳丘には葺石があり、円筒埴輪、形象埴輪(人物など)も発見されている。6世紀中ごろの築造と推定される。

太田稲荷山古墳 (2)
太田稲荷山古墳 (3)
太田稲荷山古墳 (4)
墳頂には稲荷神社が鎮座している。

太田市には西本町の県立太田高校の校内にも稲荷山という名の古墳がある。話が逸れるが、太田高では古墳に立ち入ったりボールなどを投げこんでしまうと浪人すると言い伝えられている(太田高は群馬県内有数の進学校)。


太田市石原町の賀茂神社。
鳥居のない神社としてTV番組などでも紹介されたことがある。

石原賀茂神社 (1)
石原賀茂神社の創建は不明だが、日光へ向かう例幣使が休憩したというから、例幣使が日光に派遣された正保4年(1647年)以前ということになる。

石原賀茂神社 (2)
石原賀茂神社 (3)
石原賀茂神社 (4)
簡素な拝殿。本殿も覆屋内のため見えない。

石原賀茂神社 (5)
最初に書いたように、石原賀茂神社には鳥居がない。それは、例幣使が賀茂神社で休憩していると、一匹の犬が激しく吠え始めた。共侍が追い払おうとしてもなお激しく吠え続ける。怒った共侍は犬を切り捨ててしまった。すると首は空に飛び鳥居の上の大蛇に噛みついた。犬は大蛇の危険を知らせるために吠えていたということ。

例幣使を助けた犬を供養するとともに、鳥居があったので大蛇がそこに上がったということから鳥居をなくした。そして、そのまま現在もないということらしい。

救助犬の像は平成18年(2006年)に建立された。


太田市菅塩町の聖天山善泉寺。

善泉寺 (1)
善泉寺 (2)
善泉寺は文明13年(1481年)益田一族の館跡を祈願所としたのが始まりという。益田氏は藤原秀郷系といわれ、横瀬氏(由良氏)の配下であった。一説には大胡城を築城したともいわれるが、もちろん定かではない。また、大胡城が横瀬氏支配時の城主であったともいわれる。

善泉寺 (3)
一時衰退していたが永正元年(1504年)再興され、任空により高野山から秘鍵弘法大師像が納められ、真言密教の道場とされた。秘鍵弘法大師像とは剣を持った弘法大師像だが、この剣は「文殊菩薩の剣は諸戯を断つ」ということかららしい。

善泉寺の秘鍵弘法大師像は、現存する関東唯一の像である

善泉寺 (4)
薬師堂に祀られる薬師如来は「トラ薬師」と呼ばれ、目の病にご利益があるとされる。

善泉寺についてはいろいろ調べたが、不明の情報が多い。自分で書いておいてなんだが、今回は未確認情報が多いのでご注意ください <(_ _)>


太田市丸山町の賀茂神社。

丸山賀茂神社 (1)
丸山賀茂神社 (2)
丸山賀茂神社 (3)
丸山賀茂神社の創建は不詳だが、丸山宿が誕生した慶長11年(1606年)村上から遷座している。村上地区は丸山宿の誕生に伴い、地区住民が丸山宿へ移住したため、廃村となっている。

丸山賀茂神社 (4)
丸山賀茂神社 (5)
社殿は質素な造りであるが、境内が意外に広く立派な杉木立もあり、緑豊かな雰囲気である。

丸山賀茂神社は丸山宿の西端に鎮座しており、宿場の鎮守様として地域を守っている。

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