上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 藤岡市・多野郡


藤岡市鬼石の野栗神社。

野栗神社 (1)
野栗神社の創建は不詳だが、次のような伝説が残っている。日本武尊が野栗沢(上野村)から流した弟橘媛の髪の毛が、神流川の屏風岩に漂い着いたとき、神が馬に乗って屏風岩の断崖を駆け上って、ここに鎮座したという。

知っている限りでは、神流川岸に屏風岩という岩はないと思うが、三波石峡に屏風石というのがある。同じく駒足石というものある。何か関係ある?

野栗神社 (2)
灯籠は昭和62年(1987年)の奉納。

野栗神社 (3)
石祠は昭和42年(1967年)の建立。

野栗神社 (4)
野栗神社 (5)
鳥居前には石仏や庚申塔、道祖神などが並んでいる。

群馬県は各地に日本武尊伝説・伝承が残されており、吾妻郡や嬬恋村の由来にもなっている。藤岡市(旧鬼石町)にもあるのね。

神流川は「野栗(上野村)で疫病が流行したとき、野栗神社(現乃久里神社)のご神体である弟橘媛の髪を流したて浄めた」ことから、髪流川、神流川となったといわれる(諸説あり)。


藤岡市篠塚の義輝山光源院。

光源院 (1)
光源院は木喰覚海上人が篠塚伊賀守重廣の館跡に、万仏の中心である大日如来祀り開山したのが始まりと伝わる。当時は無量山大日寺と言ったが、開山の木喰覚海上人が、実は室町幕府第13代将軍・足利義輝の孫だったため、後に義輝山光源院となっという。光源院は義輝の戒名「光源院融山道圓」からと思われる。

ところで、足利義輝は永禄8年(1565年)に松永久秀、三好三人衆に攻められ殺害されている。記録に残る義輝実子は輝若丸がいるが、3ヶ月で病死したとされる。真偽不明な説では、義高(2男)、義辰(3男)がいたともいわれる。

光源院 (2)
光源院は明治初年に廃寺になっており、現在は「閻魔堂」と呼ばれるお堂があるのみ。なので、正確には「旧光源院」と言った方がいいのかもしれない。地元では光源院よりも「閻魔堂」の名称で呼ばれている。

光源院 (3)
屋根瓦には「足利二つ引」家紋が刻されている。

光源院 (4)
開山塔と呼ばれる木喰覚海上人の墓。木喰覚海上人は高野山で僧となり湯殿山で修行した修験者とされる。天台宗の僧兵に追われ当地に来たといわれる。

光源院 (5)
光源院10世で、中興とされる実相の墓。文政7年(1824年)没。

光源院 (6)
実相墓の隣の墓碑(写真左)は、実相没後の33回忌にあたる安政3年(1856年)に建てられたもの。発起人筆頭に馬庭念流18世・樋口定伊の名がある。学問・仏教の弟子だったようだ。

この墓碑に「当院は覚海義高僧正の剏(はじ)むる所なり」とある。「義高」は義輝の2男とされる義高のことかな。 まあ、義輝の子でも孫でも、そういう謂れが残っているのは、木喰覚海上人が足利氏ゆかりの人だと信じる何かがあったのだろう。


藤岡市立石の若宮山立石寺。

立石寺 (1)
立石寺 (2)
立石寺は大永2年(1522年)東林上人の開山。寛文8年(1669年)に前橋藩主・酒井雅楽頭忠清の祈願寺となっている。

天明3年(1783年)に堂宇を焼失、本堂は文政4年(1821年)の再建。平成4年(1992年)に屋根の葺替えを行っている。地蔵殿堂の扁額がかかるが、何だろう。本尊は薬師如来のはずだが。

立石寺 (3)
鐘楼は慶応元年(1865年)の再建。梵鐘はない。先の大戦で供出し、そのままなのかな。

立石寺 (4)
六地蔵は比較的新しい。

立石寺 (5)
双体道祖神。 平成8年(1996年)檀家の方の奉納。

立石寺 (6)
大正2年(1913年)建立の宝塔。

立石寺 (7)
立石寺には多数の仏像が安置されており、その内4体が藤岡市の重文に指定されている。指定仏像が安置されている宝物殿らしき建屋。

4体は、薬師如来立像(像高56.5cm、製造年代は室町時代と江戸時代初期の2説ある)、阿弥陀如来立像(像高77.5cm、鎌倉時代)、十一面観音立像(像高70cm、鎌倉時代)、不動明王像(像高98cm、鎌倉時代)。

本尊でもある薬師如来立像は酒井忠清の念持仏である。念持仏とは、個人が身辺に置き私的に礼拝する仏像のこと。また、不動明王立像の背面裾には「立石寺」の墨書があるみたいだが、後世の追加だと思う。不動明王像の製造年代と立石寺の創建と年代が合わないので。


藤岡市下栗須の稲荷神社。

下栗須稲荷神社 (1)
下栗須稲荷神社 (2)
下栗須稲荷神社は文暦元年(1234~35年)の創建と伝わる。その後荒廃していたが、当地の豪族・金山図書之助が伊勢外宮から分霊として神鏡を受け再興したという。

下栗須稲荷神社 (3)
下栗須稲荷神社 (4)
下栗須稲荷神社 (5)
下栗須稲荷神社 (6)
社殿は天正16年(1588年)焼失、宝暦2年(1752年)に再建されている。これが現在の社殿とされる。最近では、平成4年(1992年)に改修されている。

下栗須稲荷神社 (7)
神楽殿。比較的新しい。

下栗須稲荷神社 (8)
下栗須稲荷神社 (9)
社殿右に境内社の諏訪神社。左には他の境内社(末社)がまとめられている。


藤岡市中大塚の大慈悲山千手寺。

千手寺 (1)
千手寺 (2)
千手寺は小林五郎左衛門尉重義の守本尊である千手観音像(約5cm余り)を、重義の死後に木像の胎内に納め、小堂を作り安置したのが始まり。その後、貞享5年(1688年)法印快照を住職として招き、寺院として整備が進んだ。

千手観音像は聖徳太子の作といわれるが、大正12年(1923年)の調査で、実は不動明王像と判明(年代不詳)。小さい像なので、見間違ったのだろうけど・・・。守本尊を納めた木像は、千手観音なのかな?

山門は相当老朽化しており、倒壊を心配するほどの状況。扁額も、こういうデザインと言うより、ムシに喰われたと思われる。

千手寺 (3)
千手寺 (4)
千手寺 (5)
山門をくぐるとすぐに観音堂。千手寺は南毛霊場多野藤岡三十三観音の第7番札所。堂内を覗くと厨子が見えた。ただ中はホコリまみれで、観音霊場の面影はない。観音様もどんな状況になっていることかと心配してしまう。

千手寺 (6)
本堂も老朽化が進んでいる。無住とは言え、山門・観音堂含めもう少し手当をした方がいいのでは。

千手寺 (7)
元文2年(1737年)建立の宝篋印塔。

千手寺 (8)
境内の小林家の歴史を記した碑。

小林重義は秩父平氏の出で、小林氏は高山氏の分家にあたる。天文10年(1541年)関東管領・上杉憲政の信濃出兵時に討死。子孫は当地に土着している。小林家は代々名主などを務め、近年では村長や県会議員を輩出している。

千手寺 (9)
千手寺 (10)
千手寺 (11)
千手寺を囲むように土塁・空堀がきれいに残っており、昔はすごいお寺だったのかなぁと思ったら、ここは小林家の居館・中大塚城の遺構だった。それにしても、ここまできれいに遺構が残っている城郭(居館)跡には、めったにお目にかかれない。千手寺の北西が主郭(本丸)で、そこには現在も小林家の住居がある。


藤岡市緑埜の美国神社。

美国神社 (1)
美国神社 (2)
美国神社は加賀国(現石川県南部)の白山比咩神社を勧請し、白山神社として創建した。明治43年(1910年)に飯玉神社を合祀したときに美国神社と改称している。武家に深く信仰され、平井城の鬼門除けであったと伝えられている。そのため、創建年は不詳だが室町時代以前より当地の鎮守を兼ねていたと思われる。

美国神社 (3)
参道には多数の道祖神が並んでいる。これは当地の堀口伝兵衛貞明が万延元年(1860年)に発願し、自分の屋敷周辺の路傍に建てたもの。明治に入り道路に建てることが禁止されたため、美国神社などに移している。49基が現存しているが、そのうち45基が美国神社に置かれている。

美国神社 (4)
美国神社 (5)
美国神社 (6)
社殿は天保14年(1843年)の再建。緑埜が生んだ女流画家・斎藤香玉の母・こうが寄進している。平成8年(1996年)に屋根の修復を行っている。

美国神社 (7)
修復前の屋根に乗っていた(と思われる)瓦が置いてあった。飾るわけでもなく、奉納するわけでもなく、ただ置いてある。

美国神社 (8)
拝殿の天井格子絵は斎藤香玉の手によるといわれる。天井絵には「椿山」の名も見える。椿椿山(つばきちんざん)のことで、香玉の師匠。母が寄進した拝殿に、娘が師匠とともに絵を供したことになる。

美国神社 (9)
社殿裏の一段高いところに石祠があった。昭和27年(1952年)の建立。奥の院? ただ、この石祠は社殿と逆を向いている(北向)。あと、ここは古墳かな。社殿も参道から一段高いし。


藤岡市高山の御霊神社。

御霊神社 (1)
高山御霊神社は天平5年(733年)の勧請と伝わる。上野国神名帳記載の緑埜郡荒御玉明神とされ、約1300年の歴史を誇る古社である。

御霊神社 (2)
三名川にかかる五料橋がご神橋のような感じ。

御霊神社 (3)
御霊神社 (4)
一ノ鳥居は昭和59年(1984年)の建立。鳥居前や参道に置かれている石は何だろう。何かの謂れがある?

御霊神社 (5)
御霊神社 (6)
石段を登ると二ノの鳥居と社殿。二ノの鳥居も昭和59年の建立。一ノ鳥居に比べると新しく見えるけど。狛犬は昭和10年(1935年)の奉納。日露戦争30年を記念し、従軍された方が奉納したようだ。

御霊神社 (7)
御霊神社 (9)
社殿は兵火で度々焼失し、現在のものは寛政4年(1792年)の再建。大正7年(1918年)、昭和59年に改築・改修されている。

高山御霊神社のご祭神は磐余彦命(神武天皇)だが、鎌倉権五郎を祀るとの伝承もある。鎌倉権五郎が当地の黍(きび)畑で眼を射られたことから、御霊神社の氏子は一切黍を作らず、もし黍を作ればその家は絶えるといわれている。藤岡市高山と鎌倉権五郎の接点はよく分からない。(鎌倉権五郎に関しては「伊勢崎市太田町・五郎神社」参照)


藤岡市藤岡の白狐山金光寺。

金光寺 (1)
金光寺は正平年間(1346~70年)に釈光全の開基で佐久(信州)に創建。嘉吉年間(1441~44年)に芦田光徳が鎮守寺としている。ちなみに、光徳から芦田姓を名乗ったともいわれる(それまでは依田氏)。その後、天正18年(1590年)に芦田康勝が藤岡に3万石を得て移封された際に、金光寺も藤岡に遷ってきている。

金光寺 (2)
まったく見えなくなっているが、関流八伝・岸幸太郎充豊が奉納した算額。

金光寺 (3)
金光寺 (4)
境内の稲荷社は「鮭塚稲荷」と呼ばれる。伝教大師(最澄)が東国巡教の際に「鮭塚の原」といわれていた場所で、一夜の宿を借りた庵が翌日には跡形もなくなっており、小さな祠があるのみであった。庵主は白狐の化身であると悟った大師は祠を「鮭塚の原稲荷大明神」として祀ったという。

金光寺 (5)
金光寺 (6)
稲荷社の隣には薬師堂がある。薬師如来像は厨子内のようだ。建仁2年(1202年)頃、白狐のお告げで薬師如来石像を作り礼拝、一宇を建立し白狐山金光寺としたとの伝説がある。

薬師如来石像は像高115cm、重さ562kgもある。現在は木造薬師如来像が本尊になっており、石像は元本尊。近年、現在の本堂を新築した際に薬師堂となり小さくなってしまったが、元々は本堂だったという。

2つの白狐伝説が「白狐山」という山号の由来のようだ。2つの伝承がどうリンクするのか分からないけど。

金光寺 (7)
金光寺 (8)
本堂にかかる扁額は「不動尊」と「成田山」の2枚。明治16年(1883年)に成田山新勝寺から不動尊(明王)を勧請。今では新勝寺ゆかりの「藤岡成田山」として節分大祭を毎年行っている。有名人が豆まきに来るなら、見に行くのだが・・・。


藤岡市立石新田の伊勢島神社。

伊勢島神社 (1)
伊勢島神社 (2)
伊勢島神社は明治42年(1909年)稲荷社に神明宮が合併し、伊勢島神社となっている。元の稲荷社、神明宮の由緒は不明。なお、伊勢島は立石新田の古い村名である。

伊勢島神社 (3)
伊勢島神社 (4)
伊勢島神社 (5)
社殿の建立年代は分からないが、合併時(明治42年)の新築かな。拝殿前の白狐は昭和10年(1935年)の奉納。

伊勢島神社 (6)
ご神木の大ケヤキ。

伊勢島神社の旧社(稲荷社・神明宮)は旧中山道に面しており、元神明宮だった場所は大木が鬱蒼としており「お伊勢の森」と呼ばれ、中山道を旅する人々の憩う場所だったという。現在は木々も伐採され、周りは宅地化、田畑化している。



藤岡市矢場の御巡部(みくるべ)神社。

御巡部神社 (1)
御巡部神社 (2)
御巡部神社の創建年は不詳だが、出雲大社の分霊を勧請し大国社として創建された。その後、御括部(みくりべ)大明神となり、享保12年(1727年)に御巡部大明神と改称している。

御括部・御巡部は御厨戸(みくりべ)から変じた名称と思われる。御厨(みくり)とは古代・中世、皇室や伊勢神宮などへの神饌の料を作付け・献納するために設けられ所領。

御巡部神社 (3)
灯籠は大正14年(1925年)の奉納。

御巡部神社 (4)
御巡部神社 (5)
御巡部神社 (6)
御巡部神社 (7)
拝殿の扁額が「大黒天」となっているのは珍しい。ご祭神は「大国主神」で、平安時代以降「大黒天」と同一神とされてる。

御巡部神社 (8)
御巡部神社 (9)
社殿脇に道しるべがあった。「左 高崎 吉井 富岡」「右 児玉 鬼石 秩父」とある。方向的に、社殿の後ろ側を道が通っていたことになる。それとも、社前にあったものを奥に移した?

御巡部神社 (10)
境内のサカキは樹高12m、目通り1.05m、根回り1.63mで、樹齢は約400年と推定される。

御巡部神社 (11)
御巡部神社 (12)
御巡部神社 (13)
武田信玄が永禄6年(1563年)に奉納したとされる石灯籠の残骸。竿石に「永禄六年癸亥三月建之武田信玄」と刻まれている(らしい)。立てられている竿石には文字は見えず、横になっている竿石には「奉」らしき文字が見えた。

永禄年間(1558~70年)、武田信玄は箕輪城を中心とした西上州を盛んに攻略しているので、藤岡市に奉納物があってもおかしくはない。すぐ隣の高崎市吉井町には、武田信玄が築いたとされる陣城跡もある。(「武田信玄の陣城跡・天久沢観音堂」参照)


藤岡市本郷の喜雲山龍田寺。

龍田寺 (1)
龍田寺は天正19年(1591年)依田呂郷が父・守芳の菩提を弔うために開基・創建した。開山は信州・信広寺第4世・大岫全察。

依田氏は同年に藤岡城主となっているが、嫡流のみ芦田氏を称して傍流は依田氏で通している。守芳・呂郷父子についてはよく分からないが、芦田50騎に依田姓が8騎いるので、傍流依田氏の家系と考えられる。

山門は平成27年(2015年)に改修されている。

龍田寺 (2)
本堂は万延元年(1860年)に火災で焼失、元治元年(1864年)に再建されている。現在の本堂を見ると、もう少し新しそうである。

龍田寺 (3)
本堂裏には位牌堂がある。立派な位牌堂である。

龍田寺 (4)
境内の宝篋印塔には宝暦8年(1758年)の銘があった。

町田菊次郎
町田菊次郎は地元本郷の出身で、高山長五郎の清温育の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)高山社2代目社長に就任。明治34年(1901年)には高山社蚕業学校を設立するなど、養蚕の担い手育成に務めた。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎の墓 (1)
町田菊次郎の墓 (2)
町田家墓所内の菊次郎の墓。左右の側面・裏面の3面には、菊次郎の経歴や業績がびっちり刻まれている。

関連
 「高山社2代目社長・町田菊次郎生家


多野郡神流町万場の神流川河川敷で開催された「鯉のぼり祭り」。

神流町 鯉のぼり祭り
神流町の「鯉のぼり祭り」は、毎年5月連休に開催される。今年は5月1日から5日まで開催された。約800匹の鯉のぼりが神流川の両岸に張られたワイヤーに掲げられる。また、日替わりで色んなゲストがやってきて、イベント(歌謡・漫才・マジック・キャラクターショーなど)が行われる

と、いかにもお祭りに行ってきたかのように書いているが、行ったのはお祭り終了後。実は、鯉のぼりは5日のお祭り終了後も掲げられており、撤収は翌週(12日)。

お祭り終了後なら駐車場も無料のうえ人も少ない。それでいて鯉のぼりは普通に見られる。一石三鳥なのだ。

神流町 鯉のぼり (1)
神流町 鯉のぼり (2)
神流町 鯉のぼり (3)
神流町 鯉のぼり (4)
神流町 鯉のぼり (5)
でも、鯉のぼりをただ見るだけでは味気ないのも確か。お祭りの雰囲気が味わえない寂しさも・・・。あかぎ団のコンサートは見たかったかな。

駐車場代はまったく惜しくないんだけど、道路の渋滞や人混み(混雑)がどうも苦手なので。とは言え、来年はお祭り期間中に行ってみようかな。


藤岡市藤岡の日航機事故の碑。

日航機事故の碑 (1)
昭和60年(1985年)に発生したJAL123便墜落事故に際し、救助活動に尽力した自衛隊・警察・消防関係者、検視作業に尽力した医師・歯科医師・看護師、ご遺族の支援などのサポート活動を行った藤岡市民を中心とする各種団体を顕彰するため、昭和61年(1986年)建碑された。

日航機事故の碑 (2)
碑の名称は「日航機墜落事故遭難者遺体安置の場所」。碑が建っているのは旧藤岡市役所である藤岡公民館の片隅。道を挟んで南側の現在藤岡市民ホールになっているところが、ご遺体安置所であった旧藤岡市民体育館。

ご遺族に付き添った有志らで作る「ふじおか ・おすたか・ふれあいの会」や藤岡婦人会のメンバーらが毎年碑の清掃を行い、事故を語り継いできた。

碑にも書かれているが、二度とのこような惨事が起こらないことを切に願う。

関連
 「上野村楢原・慰霊の園


藤岡市藤岡の清涼山西蓮寺。

西蓮寺 (1)
西蓮寺は明治10年(1877年)浄土真宗の説教所として創建。明治13年(1880年)に西蓮寺となる。山門は平成11年(1999年)の新築。

西蓮寺 (2)
西蓮寺 (3)
説教所開設時から仮堂宇であったが、明治41年(1908年)に現在の本堂を建立している。なお本尊は阿弥陀如来で、仏像は本山(西本願寺)から下賜されている。

西蓮寺 (4)
鐘楼堂は平成11年(1999年)の建立。

西蓮寺 (5)
水琴窟があった。水琴窟は地中の空洞内に水滴を落下させ、その際の音を反響させる装置。浄土真宗的には、浄土にある七宝でできた池は8つの徳の水で溢れているということから、それに絡めた水琴窟だと思う。

西蓮寺 (6)
西蓮寺 (7)
境内の太子堂は明治29年(1896年)の建立。地元の瓦業者が共有していた聖徳太子木像を祀る。聖徳太子がものつくりの発展に寄与したとされることから、職人(工)の間で聖徳太子信仰(太子講)が広まっていた。

西蓮寺 (8)
親鸞像。群馬県と浄土真宗の関係は、初代県令・楫取素彦夫妻から始まる。群馬に来た夫人の寿が、当時浄土真宗の寺院がほとんどないことを嘆き、時の宗主・明如に説教所の開設を要請し、開教使が派遣されたことによる。これにより、前橋には清光寺が創建されている。
(「前橋市大手町一丁目・正覺山清光寺」参照)


藤岡市藤岡の嶺岳山龍源寺。

龍源寺 (1)
龍源寺は天正年間(1573~93年)に芦田(依田)康国の開基、勝巌元雄の開山と伝わる。芦田氏の菩提寺である光徳寺(藤岡市)に残る康国の位牌に「康國院殿嶺岳良雪大居士」(戒名)とあるので、そこから山号をとっているようだ。
(光徳寺は「藤岡市藤岡・龍田山光徳寺」参照)

龍源寺 (2)
現在の本堂は文化12年(1815年)の再建。

龍源寺 (3)
龍源寺 (4)
瓦(鬼瓦)があったが、旧屋根瓦だろうか? 家紋は松平氏の「三つ葉葵」。康国の父・信蕃の功績により、康国は松平姓を得ている(依田松平氏と称する場合もある)。

龍源寺 (5)
龍源寺 (6)
五仏堂というのがある。「米山薬師」「平六稲荷」「聖徳太子」「不動明王」「弁財天」を祀っているようだ。こらの繋がりはよく分からない。

龍源寺 (7)
堂前の薬師如来坐像。「越後国 米山寺」とあった。調べてみると、米山寺は廃寺になっているようなので、龍源寺に遷された? ただ、龍源寺と米山寺との関係はまったく分からない(宗派も違うようだし)。

龍源寺 (8)
本堂前の巨石。何だろう?

芦田康国は天正18年(1590年)、豊臣秀吉の北条攻めの際、石倉城で討死している。当時の康国の所領は小諸(長野県)であり、藤岡に移るのは弟・康勝である。康国の開基って由緒はどうなんだろう。康国が開基の龍源寺を康勝が小諸から遷した、もしくは康勝が康国の菩提を弔うために創建した、といったところかな。


藤岡市篠塚の与五郎殿。
前回紹介した篠塚神社の境内社である。
(「篠塚伊賀守重廣を祀る・篠塚神社」参照)

与五郎殿 (1)
与五郎殿 (2)
元赤穂藩士・神崎則休(通称与五郎)を祀る。由緒などは不詳。現在の祠は平成12年(2000年)の建立。

一般的には、与五郎は美作藩(現岡山県東北部)・森家家臣で、浪人後赤穂浅野家に仕官。浅野内匠頭の刃傷・改易後、吉良邸に討ち入りした47士のひとり。

当地に伝わる話は、与五郎は幼児期に中村(現藤岡市中)の農家に里子に来た。成長して赤穂藩浅野家に仕えたが、浅野家改易後は浪人となり里親の家に寄寓していた。そして元禄15年(1703年)吉良邸に討ち入り、本懐を遂げたという。

浪人となり中村で時を待っている際、中村の名主から娘との縁談を勧められだが、頑として受け入れなかったという逸話もある。

どういう経緯で当地に神崎与五郎の伝説が残っており、さらには祭神として祀られているのかまったく不明だ。しかも、なぜ里子に来たという旧中村ではなく、隣の旧篠塚村なのか。


藤岡市篠塚の篠塚神社。

篠塚神社 (1)
篠塚神社は元は伊賀明神といい由緒などは不詳だが、新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣を祀っている。明治44年(1911年)に山名八幡宮に合祀されたが、第2次大戦後に分社という形で旧地に篠塚神社として勧請されている。

重廣は武蔵国出身で、畠山重忠6世の孫を自称していた。当地(篠塚地区)に居住していたといわれる。

篠塚神社 (2)
篠塚神社 (3)
篠塚神社 (4)
質素な社殿。周りは畑になっていて境内も非常に狭い。思っていた以上にこじんまりとしていた。

篠塚神社 (5)
重廣が武を練ったといわれる「手玉石」があるということだったが、巨石があるのみ。ちょっとイメージと違うが、これなのかなぁ。

篠塚伊賀守重廣
重廣は6尺5寸、今で言うと195cmの大男で、4尺3寸(129cm)の太刀や8尺(240cm)の金棒を使いこなす怪力の持ち主であったとされる。碇石という長さ245cm、重さ400kgの石を担いだと伝えられているので、境内の巨石を鍛錬に使ったとしても不思議ではないかな。

関連
 「篠塚伊賀守重廣の菩提寺・霊松山大信寺


藤岡市藤岡の士峰山良信寺。

良信寺 (1)
良信寺は天正19年(1591年)芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝が、祖父・信守の菩提を弔うため創建した。寺名は信守の法名・昌林院殿月桂良信大居士から。

良信寺 (2)
良信寺 (3)
山門は平成23年(2011年)の建立。

良信寺 (4)
本堂は明和8年(1771年)のに火災により焼失、寛政3年(1791年)に再建。その後の改修に関しては、境内に碑があったが読めなかった。

良信寺 (5)
群馬県立藤岡高創立の碑。良信寺を仮校舎として明治30年(1897年)に藤岡高校(当時は群馬県尋常中学校多野分校)が創立された。藤岡高は良信寺からわずかの所にあった。現在は藤岡女子高と統合し藤岡中央校となり、別の場所に移転している。

ついでだが、藤岡高卒業生には元BOOWYの氷室京介やBUCK-TICKの櫻井敦司、今井寿、星野英彦らがいる。

良信寺 (6)
村上鬼城の句碑があった。「うら枯や 御門さしたる 良信寺」。昭和30年(1955年)の建碑。

良信寺 (7)
良信寺 (8)
良信寺 (9)
芦田康勝が奉納した不動尊が安置されていたと思われる不動堂。芦田厄除け不動と呼ばれていた。現在、不動尊は本堂内に安置されている。不動尊を本堂へ移した後、延命地蔵が祀られていたとあるが、現在は何もおられないようだ。

最初の写真に「園児に注意!」との案内板が写っているが、保育園を経営しており境内のど真ん中は保育園のグランドになっている。山門から入ると柵があり、本堂に向かうには柵を越える(またぐ)必要があり、いかにも不法侵入者っぽくなる。通常の入口は別にあるのだが、気づかなかった。


藤岡市岡之郷の温井熊野神社。

温井熊野神社 (1)
温井熊野神社 (2)
温井熊野神社は応永19年(1412年)頃、熊野権現として創建されたと考えられる。熊野神社となったのは江戸時代末の天保14年(1843年)。

温井熊野神社 (3)
社殿はなく石祠のみだが、合祀されてる各社が整然と並んでいる。熊野神社の祠は寛文7年(1667年)の建立。

温井熊野神社 (4)
境内は平成9年(1997年)に整備されており、どれか分からなかったが応永19年銘の宝塔があるらしい。

創建以来、地域住民の崇敬厚く今日に至っている。


藤岡市岡之郷の無量山光蓮寺。

光蓮寺 (1)
光蓮寺は正保元年(1645年)僧・大徳の開基と伝わる。

光蓮寺 (2)
光蓮寺 (3)
山門、本堂の建立年などは分からない。

光蓮寺 (4)
山門前の六地蔵は昭和63年(1988年)建像。

光蓮寺 (5)
同じく山門前の文殊菩薩像。まだ新しそうだが、文殊菩薩と言うと釈迦如来の脇侍(左脇侍、右脇は普賢菩薩)のイメージが強いが、最近は独尊として祀らるケースを多く見かける。文殊菩薩の「智慧」から、学業成就のご利益があるとされるからかな。

光蓮寺 (6)
境内に碑が並んでいるよう見えたが、すべて英霊のお墓であった。先の大戦で散った英霊を、墓地ではなく境内で慰霊している。先の大戦に関していろいろ意見もあるかと思うが、祖国のために散った英霊には感謝しかない。


藤岡市藤岡の福聚山天龍寺。

天龍寺 (1)
天龍寺は天正19年(1591年)芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝の室・了源院が栗須村の長源寺を城下に移したのが始まり。文禄2年(1593年)に一宇を建立し天龍寺と改称している。なお、長源寺跡は天龍寺の境外堂(祖師堂)となっている。
(祖師堂は「藤岡市下栗須・祖師堂(長源寺跡)」参照)

慶長5年(1600年)に康勝が大坂で不始末を犯し改易となると寺運も衰えたが、正保4年(1648年)に日自により再興されている。

天龍寺 (2)
天龍寺 (3)
山門は嘉永4年(1851年)の建立。

天龍寺 (4)
天龍寺 (5)
本堂も嘉永4年の建立とされる。現在の本堂見ると、近年の再建もしくは改築と思われる。

天龍寺 (6)
天龍寺 (7)
天龍寺 (8)
「庚申尊」の扁額の掛かったお堂。中を見ても何なのか分からなかった。中央の御簾内は青面金剛か馬頭観音だろうか。

天龍寺 (9)
天龍寺 (10)
鬼子母神堂の由緒は不明だが、鬼子母神は法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多い。

天龍寺 (11)
芦田康勝の室・了源院の墓。了源院は寺地を寄進し長源寺を当地に移し、芦田氏の祖・光徳の室(蘭庭院)の菩提を弔った。芦田氏の菩提寺である光徳寺は曹洞宗のため、法華教に深く帰依していた了源院は長源寺を移したのだろう。


藤岡市下栗須の祖師堂。

下栗須祖師堂 (1)
祖師堂は文永8年(1271年)日蓮宗開祖・日蓮が佐渡島に配流される際に宿泊した長谷川長源の屋敷跡。日蓮に帰依した長源夫妻は屋敷を寺(長源寺)とした。

下栗須祖師堂 (2)
下栗須祖師堂 (3)
天正19年(1591年)に芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝の室・了源院が城下に社地を寄進し、長源寺を移している。長源寺は文禄2年(1593年)に天龍寺と改称。旧長源寺跡地に一堂を建立し、日蓮の聖跡として護持してきたのが祖師堂である。現在のお堂は大正14年(1925年)の建立。

下栗須祖師堂 (4)
境内に建つ日蓮像。文永11年(1274年)に赦免された日蓮は佐渡島からの帰還途上、再度長源宅に寄るとお寺になっていたことを悦び、長源寺所蔵の大黒天像(福聚大黒天)を開眼した。その大黒天像も天龍寺に移され宝物となっている。

下栗須祖師堂 (5)
下栗須祖師堂 (6)
境内のお堂内には荼枳尼天らしき仏像があった。文殊菩薩じゃないと思うけど(自信なし)。

下栗須祖師堂 (7)
長谷川長源夫妻の墓。長源の元姓は栗生というが、日蓮が鎌倉に帰る途中まで送った際に、長谷川という川の名にちなみ姓にするよう日蓮から勧められ長谷川としたという。


藤岡市岡之郷の水宮神社。

水宮神社 (1)
水宮神社 (2)
水宮神社は延宝7年(1679年)の創建。ご祭神は罔象女神(みつはのめのかみ)。水の神(水神)である。ご神体として「白蛇の骨格」を秘蔵する。

水宮神社 (3)
手水舎の水は、御荷鉾山系の流水を地下40mから汲み上げているらしい。

水宮神社 (4)
水宮神社 (5)
水宮神社 (6)
社殿は昭和53年(1978年)の新築。拝殿前の灯籠は昭和58年(1983年)の奉納。

水宮神社 (7)
水宮神社 (8)
境内社の稲荷神社。

水宮神社 (9)
境内の大ケヤキは、樹高30m、胸高周囲7.5m、根回り20.6mで、樹齢は約700年以上と推定される。神社創建以前から、地域の崇敬を受けてきたのだろう。


藤岡市中栗須の神明山源水寺。

源水寺 (1)
源水寺は寛文3年(1663年)僧・堯山の開山。神明山との山号から、すぐ隣の神明宮の別当寺として創建されたと推定される。(神明宮は「藤岡市中栗須・神明宮」参照)

源水寺 (2)
源水寺 (3)
本堂は平成14年(2002年)の再建。

源水寺 (4)
比較的新しい六地蔵。

源水寺 (5)
歴代住職の墓。1番奥は開基の堯山かな。一部石畳が割れてしまっているので、早く直した方がいいと思う。

ちょっと見落としたみたいだが、「むすぶより まつ歯にひゞく 清水かな」の芭蕉句碑があったようだ。正確には「泉かな」らしいが、水辺に多く句碑が建てられていくうちに「清水」と誤記されたらしい。源水寺(もしくは神明宮)に清水が湧いており、源水寺の寺号もそこからきているのかもしれない。


藤岡市上戸塚の天田山水宮寺。

水宮寺 (1)
水宮寺は応安7年(1374年)僧・妙心の開基。応安は南北朝期の北朝側の元号。慶安年間(1648~52年)に神流川の氾濫で本堂・庫裡などが流出したが、澄旭上人により中興開基されている。

勝手な想像だが、中興された際に水宮寺となったのではないだろうか。神流川の怒りを鎮める意味合いで「水宮」と名付けたのでは?

水宮寺 (2)
水宮寺 (3)
本堂は寛保2年(1742年)再度水害を被災、宝暦5年(1755年)には火災により全焼したが、宝暦12年(1762年)に再建されている。現在の本堂は昭和53年(1978年)の新築。

水宮寺 (4)
六地蔵は平成10年(1998年)の建立。

水宮寺 (5)
寛保2年の水害被害の供養として庚申塔を100体建立。そのうち数10体が現存しているとのことだったが、石仏類しか見当たらなかった。

水宮寺 (6)
境内の巨樹もバッサリ剪定されている。剪定のレベルではないかな。

寛保の水害、宝暦の火災時の住職・祐厳法印は本堂再建に尽力しただけでなく、地域の水難を防ごうと明和4年(1767年)に、寺の南を流れる笹川沿いに長さ368間(約670m)の堤防を築いている。


藤岡市下栗須の瑠璃光山西勝寺。

西勝寺 (1)
西勝寺の創建は不詳だが、開基の僧・盛誉が明暦2年(1656年)に入寂しているので、創建は江戸時代初期と考えられる。

西勝寺 (2)
西勝寺 (3)
山門は参道から少しズレたところにある。現在の参道は後の付け替えと思われる。

西勝寺 (4)
西勝寺 (5)
本堂は文政・天保初期(1818~40年頃)に2度にわたり火災で焼失。天保13年(1842年)に再建されている。

西勝寺 (6)
西勝寺 (7)
本堂隣の薬師堂は万治万年(1658年)の建立。現在のものは再建されていると思われる。本堂と同じころかな。

西勝寺 (8)
参道の途中に下栗須公会堂がある。西勝寺入口にそれを示す看板が立っているが、よく見ると書き直しているのが分かる。下には「オウム信者 この街から出て行け オウム絶対阻止」とうっすら残っている。写真を拡大して見てもらえると読めると思う。

そう言えば、藤岡市にオウム真理教が道場(?)を作って、地元と揉めていたのを思い出した。道場があったのは下栗須地区だったんだ。オウムは根付くことなく撤退したけど、当時は大変だったろうな。


藤岡市本郷の葵八幡宮。
多野藤岡地方誌(昭和57年:1976年発行)に葵御前にまつわる伝説が載っていたので再訪した。(以前の訪問記は「葵御前を祀る?・葵八幡宮」参照)

葵八幡2 (1)
葵八幡の由緒は不詳だが、葵御前を祀るといわれる。社の両側に板碑があり、向かって右のものに応長元年(1311年)の銘が読み取れる。大正時代に葵八幡宮の周りから多数の人骨が発掘されており、板碑はその墓標とのこと。

葵八幡2 (2)
いまでも墓石らしきものが残っている。ひとつには年代的には新しいが、江戸時代の享保(1716~36年)の文字が読み取れた。

葵八幡2 (3)
社の裏側に井戸があり、井戸の底のは四方に横室があるという。埋葬施設なのか。

前回の椿社神社(「藤岡市本郷・椿社神社」参照)に書いた、文覚上人が苦行した場所といわれるのが葵八幡宮の井戸付近といわれているので、この井戸のことかも。

で、ここからが「葵御前伝説」。
源義賢(木曽義仲の父)に従い東国まで来た葵御前は、当地で乳飲み子がはしかにかかり進退に窮し、橋の下に身を潜めていた。しかし追手に捕まり、郎党とともに惨殺され切り干しにされた(なんと無残な)。

葵八幡2 (4)
葵御前が隠れた橋は小石橋で葵八幡宮入口の堀にかかっているとあったが、現在は堀はなく境内にそれらしき石があった。「長さ5尺、幅4尺、厚さ8寸(約190cm✕151cm✕30cm)の1枚石」とあるので、ちょうど寸法的にはぴったりだ。

地元の人は、昔からはしかが流行するとこの橋の下をくぐり、病気が軽くなるのを祈ったという。

橋から2町(約450m)西方に、葵御前が乗ってきた牛が死んだので埋めたといわれる牛伏塚がある。と言うことだが、見つけられなかった。

ところで、伝説では葵御前は切干しにされたとあるが、付近では大根や甘藷(さつまいも)などを切干しにしない家訓が、現在も残っているという。


藤岡市本郷の椿社(つばきもり)神社。

椿社神社 (1)
椿社神社 (2)
椿社神社 (3)
椿社神社は建久年間(1190~98年)に文覚上人が神明宮を創建したことに始まるという。その後、天正3年(1575年)高山吉重が再興したとされる。元は隣村にあたる神田(じんだ)に鎮座していたが、現在地へ遷座する際に椿社神社と改めている。

高山氏は桓武平氏良文流の秩父氏の一族で、当地の御厨(みくりや)を管理(所領)していた。その家系からは、高山長五郎(養蚕家)や高山彦九郎(勤皇家)などが出ている。

椿社神社 (4)
杉並木にの覆われた参道は、季節に関係なく心地よい。

椿社神社 (5)
椿社神社 (6)
椿社神社 (7)
社殿前の狛犬は平成19年(2007年)の奉納。社殿はこじんまりとしており、いかにも「村の鎮守」と言ったところ。平成7年(1995年)に改修されている。

椿社神社 (8)
改修により役目を終えた瓦が置かれている。

椿社神社 (9)
明治42年(1909年)に椿社神社に合祀された各地の神社のお社が保存されている。合祀された神社は、「紡ぎ」が転じたといわれる積木神社、上野国志に「瓶酒明神」と記載される瓶酒神社などがある。

椿社神社 (10)
神楽殿。現在も神楽が行われてるかは知らないが、地域的に養蚕神楽だと思う。

ところで、椿社神社(元の神明宮)を勧請したのは僧の文覚上人とされるが、なぜお寺ではなく? と思う。口碑では、浅間山の噴火(天仁元年:1108年)などで土地が荒れ、穀物が採れないことを憂いた上人が苦行をするとともに、食物の神・豊受姫神を勧請したという。

でもそれなら、御厨(みくりや)を管理する高山氏が、その守護のために神田(地名)に豊受姫神(神明宮)を勧請したとする方が、素人的にはそれっぽく感じるのだが・・・。


藤岡市小林の小林山寿楽寺。

寿楽寺 (1)
寿楽寺は寛永13年(1636年)芦田氏の元家臣・水沼寿楽斎副茂の開基。元々は神流川の近くにあったが、度重なる洪水により文化年間(1804~18年)に現在地へ移転している。

寿楽寺 (2)
門前には平成22年(2010年)建立の仁王像が鎮座する。

寿楽寺 (3)
寿楽寺 (4)
寿楽寺 (5)
参道の恵比寿さん、七福神、文殊菩薩像。文殊菩薩が乗っている獅子が、そう見えないのはご愛敬?。

寿楽寺 (6)
寿楽寺 (7)
観音様が慈悲の眼で見守っている。

寿楽寺 (8)
寿楽寺 (9)
本堂は昭和30年(1955年)の新築建立。屋根の鬼瓦は「名工」として名高い山口茂氏の手による(平成12年:2000年)。

寿楽寺 (10)
庭園も平成22年(2010年)に整備されたようだ。余り広くない境内に、これでもかっ! ってくらい詰め込んでいる印象。

寿楽寺 (11)
比較的新しい石仏群に混じって、昔からの石仏も残されている。全体的に新しいものばかりなので、何かホッとする感じ。


藤岡市小林の大塔寺天満宮。

大塔寺天満宮 (1)
大塔寺天満宮 (2)
大塔寺天満宮は享保11年(1726年)に、小林大塔寺村の人々が太宰府天満宮から菅原道真の分霊を勧請したと伝わる。明治時代に藤岡諏訪神社に合祀されたが、昭和18年(1943年)に分祀され再び現在地に戻っている。

現在の鳥居は昭和56年(1981年)の建立。

大塔寺天満宮 (3)
大塔寺天満宮 (4)
拝殿に見えるのは覆屋で社殿は中にある。社殿は勧請時に建立され、「一間社流れ権現破風造り」と呼ばれる江戸中期に形成された神社様式。切妻造りの屋根の正面に千鳥破風を付け、軒を唐破風にしている。

社内には木造の神像が安置されており、その後ろの神璽の木箱に安永7年(1778年)と書かれている。

最近では昭和63年(1988年)補修・改築されているようだが、約300年の歴史を誇る貴重な社殿である。

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