カテゴリ: 藤岡市・多野郡
藤岡市篠塚・愛宕山西宝院
藤岡市篠塚の愛宕山西宝院。

西宝院の創建などは不詳。承応年間(1652~55年)に鏑川の洪水被害に遭い、元禄14年(1701年)に現在地に移転している。現在地は芦田50騎のひとりに数えられる戸田氏の屋敷跡とされる。なお、鏑川の南岸に「西宝院塚」(現在は藤岡市篠塚)という地名があり、元地と考えられる。


本堂は昭和52年(1977年)の建立。本堂に納められている位牌中に「東照大権現・新儀(徳川家康)」「東照大権現・尊儀(徳川2代から7代の将軍の法名)」がある。なぜ西宝院にあるかは、徳川将軍家との関係性も含めて不明。


山門脇に庚申塔や供養塔などが集積されている(なぜかひとつだけ墓石もある)。判読できた限りでは、元文5年(1740年)、寛政8年(1796年)の銘が読み取れた。



上記石塔類の中の如意輪観音像、庚申供養塔、六地蔵石幢(龕部など上部のみ)。

西宝院の創建などは不詳。承応年間(1652~55年)に鏑川の洪水被害に遭い、元禄14年(1701年)に現在地に移転している。現在地は芦田50騎のひとりに数えられる戸田氏の屋敷跡とされる。なお、鏑川の南岸に「西宝院塚」(現在は藤岡市篠塚)という地名があり、元地と考えられる。


本堂は昭和52年(1977年)の建立。本堂に納められている位牌中に「東照大権現・新儀(徳川家康)」「東照大権現・尊儀(徳川2代から7代の将軍の法名)」がある。なぜ西宝院にあるかは、徳川将軍家との関係性も含めて不明。


山門脇に庚申塔や供養塔などが集積されている(なぜかひとつだけ墓石もある)。判読できた限りでは、元文5年(1740年)、寛政8年(1796年)の銘が読み取れた。



上記石塔類の中の如意輪観音像、庚申供養塔、六地蔵石幢(龕部など上部のみ)。
藤岡市中・泡輪神社
藤岡市中の泡輪(あわ)神社。

泡輪神社の由緒は不詳。宝永5年(1708年)に再興されたといわれる。本社は奈良市に鎮座する率川(いさがわ)阿波神社。率川阿波神社は宝亀2年(771年)藤原是公の創建という。
是公は藤原南家の公卿。牛屋大臣と称された。南家は不比等の長男・武智麻呂に始まる。是公は武智麻呂の4男・乙麻呂の長男になる(つまりは不比等の曽孫)。藤原南家の関係者が国司などとして当地に赴任し、率川阿波神社の分霊を勧請したのだろうか。


覆屋内の本殿は立派である。

道祖神と石宮が2座。


万葉歌碑が2基建っている。
「かみつけの おどのたどりが かわぢにも こらはあはなも ひとりのみして」
「かみつけの おののたどりが あはぢにも せなはあはなも みるひとなしに」
上野国東歌の巻14-3405歌と、それが変化した「或る本の歌に曰く」とされている歌らしい。建碑などの経緯は不明。
藤岡市中・宝林山盛勝院
藤岡市中の宝林山盛勝院。

盛勝院の創建年などは不詳だが、新田村(現在の藤岡市森新田)に創建。寛保2年(1742年)の鏑川の洪水により本堂が流されるなどの被害を受け、同年以降に現在地に移っている。

境内は広くないが庭木も良く手入れがされており、非常にきれいな佇まいをしている。


本堂の建立年などは不明だが、本堂前の灯籠が平成20年(2008年)に奉納されているので、本堂も同年あたりの建立(もしくは改修)だろうか。


六地蔵は平成14年(2002年)の造立。地蔵像は昭和59年(1984年)の造立。

藤岡市仏教会の会長も務めた佐藤絶海和尚の句碑。平成8年(1996年)の建碑。


1kmくらい離れたところに盛勝院の薬師堂がある。主に墓地となっている。当所は藤岡市森新田になり、創建地(もしくはそれに準ずる地)なのかな。現在も鏑川がすぐ北を流れている。



六地蔵、宝塔や二十二夜供養塔(如意輪観音)、聖観音など。
藤岡市上戸塚・戸塚神社と戸塚神社古墳
藤岡市上戸塚の戸塚神社と戸塚神社古墳。


戸塚神社は元は熊野神社で、その由緒は不詳。明治10年(1877年)に村内の神明宮・八幡宮・稲荷神社・諏訪神社・御霊神社などを合祀し戸塚神社と改称している。元熊野神社のため、通称「おくまん様」と呼ばれている。
一の鳥居は昭和60年(1985年)の建立。鳥居前の灯籠は明治2年(1869年)の奉納。


二の鳥居は平成3年(1991年)の建立。



社殿は昭和11年(1936年)の建立。拝殿は昭和58年(1983年)に改修されている。昭和58年は群馬県で国体(あかぎ国体)が開催された年で、それを記念しての改修らしい。社殿前の灯籠は平成12年(2000年)の奉納。

神楽殿。拝殿と同じく昭和58年に改修されている。春の例祭時に太々神楽が奉納される。

二の鳥居手前に松尾芭蕉の句碑がある。「春もやや けしきととのう 月と梅」。明治27年(1894年)の建碑。


鳥居左脇に庚申塔や双体道祖神などが集約されている。


戸塚神社の社殿は戸塚神社古墳と呼ばれる前方後円墳の前方部に建てられている。戸塚神社古墳は全長53m、前方部幅41m、後円部径30m、前方部の高さ4m、後円部の高さ2.5m。6世紀後半の築造と推定される。
中央部の南面に石室が開口しているが、崩れており危険なため金網で覆われている。石室も崩れているのか土嚢が置かれている。石室からは圭頭大刀・刀子・鉄鏃・鈴・銀環の他、須恵器の短頸壺・提瓶・横瓶、土師器の高坏が出土している。

墳丘上に加工された石が置かれている。石室内部の石材の一部だろうか。
地元の人は古くからこの穴(石室開口部)を「呼ばあり穴」と言い、逃亡者や行方不明などがあった時に穴に向かってその人の名を呼ぶと、必ず帰ってくるかまたは生死が判明すると信じていたという。
神流町船子・いち子岩
多野郡神流町船子のいち子岩。


いち子岩は平家の落人「いち子姫」にまつわる伝説のある巨岩である。
寿永4年(1185年)の壇ノ浦の合戦で平家は敗れた。平家の「いち子姫」も追っ手から逃れ、従者ともどもこの地まで落ち延びてきた。いち子姫たちはあてもなく彷徨っているうちに、とうとう追っ手に見つかってしまった。いち子姫は近くの岩によじ登り、深い淵に身を投じた。
後の人々はいち子姫を哀れに思い、この岩を「いち子岩」と呼ぶようになった。また、いち子姫を葬ったところから美しいツツジの花が咲いたという。

いち子岩の前には石宮がある、いち子姫を祀っているのだろう。

いち子岩のすぐ後ろは船子川が流れている。現在は大石がゴロゴロといった感じ。
神流町には万場八幡宮にも平家の落人伝説がある。万場八幡宮は梶原景時の創建とされるが、他説として平家の落人が源氏の追求を逃れるために、八幡宮を勧請しカモフラージュに使ったとの伝承もある。(「神流町万場・八幡宮」参照)
神流町黒田・不動の滝
多野郡神流町黒田の不動の滝。

不動の滝は「神流七滝」のひとつで、滝の沢川にある滝である。滝は一の滝・二の滝・三の滝と3つある(ようだ)。
「道の駅 万葉の里」手前(国道462号沿い)に「不動の滝」の案内板がある。「200m 10分」とあったので、手軽そうに感じたので寄ってみた。

遊歩道がきれいに整備されている。ごく最近の設置だと思われる。


途中に小型の「丸岩」の様な岩がある。山側から落ちてきたものだろうか。

2つめの岩の横が一の滝。落差約5m。

一の滝の先は少し登りになるが、それでも遊歩道が整備されており問題ない。


遊歩道の終点が二の滝。落差約13m。岩が多いが滝壺脇まで行ける(自己責任で)。季節柄しようがないけど、もう少し水量が多いとオレのような素人には見栄えが良く思える。
ここで遊歩道は終了。さて、どこから三の滝に行けるのだろう? どこかに分岐があったのだろうが、気づかなかった。まだ整備されていないようだ。ところで、「不動の滝」の名前の由来は三の滝の岩陰に不動尊が祀られているから。
想像通りお手軽に滝が見られる。とは言え、軽い登りではあるので靴はきちんとしたもので行きましょう。
神流町黒田・万葉大吊橋
多野郡神流町黒田の万葉大吊橋。万葉と書いて「まんば」と読む。


万葉大吊橋は「道の駅 万葉の里」と神流川を挟んだ対岸を結ぶ吊り橋で、平成5年(2023年)に開通している。歩行者専用の橋で長さ89m・幅1.5m。

管理協力金として往復100円で渡ることができる。「スリル体験料金」という触れ込み。通行料ではないので、寄付みたいなもの。

この協力金箱は、投入口のあるボックス部以外は板状の平面。丸太の絵が目の錯覚で奥行きがあるように見える。


橋板の中央を開けており、下部に張られた金網越しに神流川が見える。これがけっこう怖い。さらに歩くたびに意外と揺れる。たまたまオレひとりしか渡っていなかったのだが、それでも揺れる。元々高いところが苦手なため足がすくんだ。欄干と言うかワイヤーを手放すことができず。

頑張ってワイヤーから手を離し、下を流れる神流川の写真を撮った。


向こう岸間際には紐を引くとシャボン玉が出る(らしい)装置がある。メンテ中とあったのでスルー。早く渡りきりたかったので。ちなみに、ペアで紐を引くとハートの形になる。


対岸には神流町が「神流杉」や「神流檜」のPR拠点とする「フォレストベース」の整備を予定している。現在は令和4年(2022年)建造の木造の五重塔とあずまやがある。これはクギを使用せず地元産木材と伝統工法を用いて建てられている。大工の棟梁を育成する「大工志塾」が実技研修の一環として手掛けたもの。
神流町塩沢・塩沢ダム
多野郡神流町塩沢の塩沢ダム。


塩沢ダムは神流町(旧万場町)の治水・利水のため、赤久縄山を水源とする一級河川・塩沢川に建設されている。平成7年(1995年)の完成。堤高38m・堤体長157mの重力式コンクリートダム。
2枚目の写真は撮影用の枠(顔ハメパネルみたいな感じ)だけあったので、それを通して撮ったもの。でも、これだと誰が撮っても同じような景色になるので、枠の向きを変えられる様にしてくれるとうれしいかな。

堤の上から下を覗いてみたが、さすがに38mもあると怖い。あまり高いところは得意ではないので。

新緑の時季、ダム湖周りの景色はきれいだ。
ダム湖は「蛇神湖(へびかみこ)」。ダム湖完成時、町民からの公募で命名されている。写真右に映っている橋は「蛇神橋(へびかみはし)」。その昔、神域であった赤久縄山には大蛇が棲んでいて、村を守ってくれる神であると崇められていたことから。

天端道路の突き当たりにモザイク壁画がある。タイル張りで縦8m・横30mと、かなり大きい。神流町を象徴する「神流川・御荷鉾山・鯉のぼり」を題材にした抽象画らしいが、年数を経てかなり色落ちしてしまっている。
神流町塩沢・力くらべ石
多野郡神流町塩沢の力くらべ石。

力くらべ石は塩沢村の大正院(黒澤源内)とその柔術の師匠・九蔵が、力くらべのため塩沢川上流から担いで運んだ石といわれる。江戸時代の文化年間(1804~17年)のこと。

大正院の石(左)は高さ77cm・幅60cm、九蔵の石は高さ85cm・幅70cmで、重さは150kg超と推定される。
大正院は修験者で柔術や剣術を学び、後に剣術では門弟200人を持つまでになった(剣術は馬庭念流・樋口定高の門下)。昭和2年(1927年)刊の「多野郡誌」には「奇人」と紹介されている。内容は「風貌魁偉、その力量絶倫鬼神を凌ぐ」(意訳;体格が人並み外れてたくましく、その力は抜群に優れている)、「奇行怪力、実に想像の外に出たということ」だそうだ。
江戸後期から明治にかけて力くらべ・力試し(力石を持ち上げる大会)が数多く行われていた。当時は鍛錬を兼ねた娯楽の一種であった。現在も神社(玉村八幡宮、八斗島稲荷神社、六供八幡宮)などに「力石」が残されている。
神流町生利・みかぶ帯の枕状溶岩
多野郡神流町生利のみかぶ帯の枕状溶岩。


群馬県立万場高校のすぐ南側を流れる神流川(万場高の対岸)に枕状溶岩がある。


秩父古生層の「みかぶ帯」に属する厚さ10~20mのもので、玄武岩や凝灰岩を主に石灰岩、粘板岩、チャートなどの薄い層がまじっている。海底火山活動により次々に流れ出た溶岩が海水で冷却されて枕状に固まって形成されたもの(上部が川面に露出している)。
この辺りは往古は海であり、時代が下るにつれ隆起したもの。同じく神流町の「瀬林の漣痕」は、海岸のさざ波が化石化したものといわれる(現在は崖のように切り立っている)。そこにある複数の穴が「恐竜の足跡」と見なされている。
(「神流町神ヶ原・恐竜の足跡 & 恐竜センター」参照)
神流川の対岸、しかも上から写真を撮っているので、どれが枕状溶岩がなのか良く分からなかった。見当違いの写真だとまずいので、神流町のHPから拝借した写真も載せておく。

「枕状溶岩」の写真(神流町のHP)。
神流町万場・福聚山慈恩寺
多野郡神流町万場の福聚山慈恩寺。

慈恩寺の創建年などは不詳だが、悦堂保禅の開山と伝わる(悦道との資料もある)。悦堂は応永9年(1402年)の生まれとされる。悦堂が諸国修行のおり、西御荷鉾山中腹の池の薬師に参拝し薬師如来の功徳を感じ、里に慈恩寺を開いたという。

石段下の六地蔵は昭和57年(1982年)の造立。



本堂には巨大な龍に向き合う僧侶が描かれた額が掲げれている。これは慈恩寺に伝わる「龍女伝説」を描いている。平成19年(2007年)の奉納。
少し長くなるが伝説を紹介する。
ある日、弓の名人といわれた弥四郎という狩人が御荷鉾山の方へ狩りにいったときのこと。弥四郎は山の中腹で大蛇と出くわしたが、得意の弓矢を使ってその大蛇を退治した。
数年後、慈恩寺にひとりの美しい姫が訪ねて来て「三年前に矢に当たって亡くなった夫の血脈をもらい、菩提を弔ってあげたい」と言う。悦堂は見たことのない姫を不審に思い、「どこから来たのか?」と尋ねると、姫は「御荷鉾の池ノ平」と。しかしその辺りに家はない。悦堂は「本当の姿を見せるなら血脈を与えよう」と言うと、その姫は「明日の明け六つにお寺の庭に参ります。どうか血脈をください」と頼むと帰って行った。
翌朝雷が鳴り響き、大蛇がお堂を幾重にも巻いて鎌首を悦堂の方へ向けていた。その姿を見てすべてを悟った悦堂は、約束通り大蛇に血脈を授けたという。その夜、悦堂の夢枕ににあの姫が立ち「村の人が日照りで困ったときは薬師の池の水がえをすれば雨を降らせます」と言って消えたという。
伝説の内容は大蛇だが、「龍女伝説」とされている。また、池の薬師での雨乞いは昭和20年(1945年)の終戦後まで行われていた記録が残る。
*血脈とは師から弟子へと代々仏法を正しく伝えることを言う。


子育て地蔵。大正時代に上屋が作られたとあった。当時の住職は22世・黙禅代。

本堂に黙禅代の絵姿が奉納されている。檀家・住民から慕われていたのだろう。
神流町万場・鯉のぼり祭り2025
多野郡神流町万場の神流川河川敷で開催された「鯉のぼり祭り」。

神流町の「鯉のぼり祭り」は、毎年5月連休(GW)中に開催される。今年は5月3日から5日まで開催された。約800匹の鯉のぼりが神流川の両岸に張られたワイヤーに掲げられる。新型コロナの影響で中止もあったが、今年で40回目となる。
昭和56年(1981年)に町内の有志団体(当時は万場町)が2本のワイヤーロープに鯉のぼりを100匹ずつ揚げたのが始まり。その数は年を重ねる毎に8ラインにまで増え、昭和62年(1987年)には鯉のぼり800匹となっている。





約800匹の鯉のぼりが大空を優雅に泳ぐ風景は壮観だ。意外と名入りの鯉のぼりが多い。おじいちゃん、おばあちゃんがお孫さんのために注文してくれるのかな。
ところで、鯉のぼりを見に行ったのはお祭り終了後。5月5日(月)までがお祭りだが、鯉のぼりの撤収は11日(日)なので、10日(土)までは普通に見られるのだ。イベントには参加できないが、駐車場も空いているし、見学者も少ないしのんびり見られる。
神流町の鯉のぼりを見に行ったのは今回で2回目。前回は令和元年(2019年)だったが、やはりお祭り終了後。鯉のぼりを眺めるだけなら、これで十分だね。
藤岡市白石・吉良上野介陣屋跡の井戸
藤岡市白石の吉良上野介陣屋跡の井戸。

吉良氏は寛永5年(1628年)ころから三河国(愛知県)の本領の他に白石村(藤岡市白石)に840石を領し、村の中央部に陣屋を置き家臣の長船氏に治めさせていた。陣屋の遺構として「汚れ井戸」と称する古井戸が残っている。


赤穂事件で有名な吉良上野介義央の母が伊香保温泉に湯治した帰途、この屋敷に滞在して義央を産んだと伝わる。その際に、この井戸から産湯を汲んだといわれる。井戸は毎月1回赤く染まるので「汚れ井戸」と呼ばれ、飲料水にはしなかったという。

陣屋があったとされる場所は、現在は畑になっている。陣屋跡の遺構は見当たらないが、地元には「陣屋畑」との呼び名のみが残っている。
赤穂事件は「忠臣蔵」として戯曲化され江戸中期以降人気を博したが、白石村では義央を敵役とする忠臣蔵の興行を行うと「火の雨が降る」といわれたと伝えられている。「良くないことが起こる」と言った意味かな。
昔は義央が浅野内匠頭長矩を「いじめ」たことが原因とされていたが、様々な文献研究から現在では大方が否定されている。ただ「忠臣蔵(主君の敵を討つ)」が、日本人に広く受け入れられていることから、義央は永遠の「敵役」になってしまっている。
藤岡市西平井・平井城址
藤岡市西平井の平井城址。


平井城は関東管領・上杉憲実が鎌倉公方・足利持氏との確執から上野国平井へ逃れた際、家臣の長尾忠房に築城させたといわれている。永享10年(1438年)ころとされる。文正元年(1466年)に関東管領になった上杉顕定によって拡張されている。
天文21年(1552年)北条氏康に攻め落とされ、時の関東管領・上杉憲政は越後国の長尾景虎(上杉謙信)のもとに逃れている。北条氏居城時は北条幻庵が治めていたが、永禄3年(1560年)景虎によって奪回されている。しかし景虎は関東における拠点を厩橋城(後の前橋城)に移したため、同年に平井城は廃城となっている。

現在は藤岡市が関東管領平井城趾公園として整備している。


土塁が復元されており、その上に登れるようになっている。遺構が残っているようには見えない。すぐ上の写真の左上に映っている養豚場(養鶏場?)から漂うほのかな香りが鼻先をくすぐる(笑)。

関東管領・山内上杉氏や平井城の解説パネルがある。
公園の右奥の方には、各種団体や地元の方々が設置した多くの碑などがある。一部を紹介。


乳母分霊堂。昭和43年(1968年)の建立。
天文21年(1552年)に北条氏康に攻められ上杉憲政は越後に逃亡したが、憲政は妻子を置き去りにしている。このとき次男・鶴若丸を守るため乳母が奮戦している。結局、鶴若丸は殺害され乳母は自害している。
村人たちは、乳母と若君の亡骸を手厚く葬り、祠を建てて祀った。現在も上杉乳母神社として、地元の方々が守っている(「藤岡市西平井・上杉乳母神社」参照)。

上杉氏一族の碑。昭和30年(1955年)の建碑。
これ以外に10以上の各種費が建っている(正式に数えたわけではない)。歌碑が多い様に感じた。恐らくこのエリアは藤岡市の整備とは無関係のエリアだと思う(一般の方の墓地もあるので)。


東郭エリア。一度城址公園を出て、回り込んで行く必要がある。堀跡に橋が復元されている。えぇ~と、この橋はどういうコンセプトなのかな?
藤岡市によると「整備については発掘調査の結果を基に平井城在城の最終段階と捉えられる16世紀中頃の時期を設定し、復元整備を行っております」だそうだ(藤岡市HP)。
藤岡市本郷・土師神社
藤岡市本郷の土師神社。


土師神社の由緒は不詳だが、上野国神名帳記載の土師明神とされる古社である。この地域に居住していた土師氏(埴輪や土師器を製造する人々)が、氏神として野見宿禰を祀ったのが始まりとされる。明治43年(1910年)に近在の10社を合祀している(他に末社を5社を有する)。

鳥居から続く参道は杉並木に覆われている。この参道を使って秋の例祭時には、平成14年(2002年)に復活した流鏑馬が奉納される。


割拝殿は茅葺き屋根をトタンで覆っているように見える。中には繭(養蚕)の番付表(額)があった。古い物かと思ったら、昭和50年(1975年)前後のものだった。



社殿の建立年などは不明だが、その建築様式(向拝の彫刻や海老虹梁・蟇股の様式など)から17世紀後半から18世紀初期と推定される。


拝殿前の狛犬は平成9年(1997年)の奉納。野見宿禰の生誕2,000年を記念してだとあった。どこからの数字だろう?

神楽殿。春の例祭時に太々神楽が奉納される。

社殿脇に境内末社の石宮が並ぶ。


境内の「土師の辻」と呼ばれる相撲の土俵。土俵は高さ160cm、上円部径495cm。「日本三辻」のひとつ。他は摂津国(大阪府と兵庫県東部)の住吉神社と能登国(石川県)の羽咋神社。これが縁で藤岡市と羽咋市は姉妹都市になっている。
土師神社に「土師の辻」があるのは、ご祭神の野見宿禰が関係している。日本書紀によると、垂仁天皇の命により野見宿禰は當麻蹴速と相撲をとって勝ったされる。これが相撲の起源と言われている。

「土師の杜」という歌碑。裏には「土師縁起」も刻まれている。「土師の杜」の作曲者は服部良一とある。「東京ブギウギ」や映画「青い山脈」などで知られる。


北側の鳥居とその前にある御手洗池。
この地は国指定史跡の「本郷埴輪窯跡」がすぐ近くにあることから、5世紀後半から6世紀ころに埴輪の生産地であったとされる(「藤岡市本郷・埴輪窯跡」参照)。
土師神社のご祭神である野見宿禰は相撲の神であるとともに、天皇の死に対してそれまでの殉死を改め埴輪を埋葬することを進言し、その功から土師姓を与えられたとされる(ただし、これは考古学的な見地からは否定されており伝説とされている)。
藤岡市本郷・埴輪窯跡
藤岡市本郷の埴輪窯跡。

本郷埴輪窯跡はその名の通り埴輪を焼いた窯の跡。明治39年(1906年)に東京帝大・柴田常恵教授により発見されている。約4m間隔に30個を超える窯が並んでいると考えられた。


早速「埴輪製造之竈址」の碑が建てられている。揮毫は千家尊福。千家は出雲大社の宮司を務める出雲国造家の出身で、貴族院議員や東京府知事などを歴任している。唱歌「一月一日」の作詞者でもある。

窯跡のうち2基について昭和18年(1943年)・19年(1944年)に群馬師範学校(現群馬大の一部)・尾崎喜左雄教授により発掘調査が行われた。その結果、第一窯跡からは人形埴輪の顔面・腕部・円筒部などが、第二窯跡からは主に馬具埴輪が出土している。

昭和20年(1945年)に最も保存状態の良かった1基について、上屋が作られ保護されている。併せて「史蹟本郷埴輪窯跡」の標柱が建てられた。発見されてから本格発掘調査、さらには保存用の上屋が作られるまで40年近くかかったことになる。

昭和21年(1946年)には尾崎教授の解説による「埴輪窯保存顕彰の碑」が建てられている。
ここで焼かれた埴輪は藤岡市内はもちろん、吉井町や旧八幡村(現高崎市山名町などの南八幡地区)の古墳からも類似品が見られるところから、広範囲で使用されたと考えられる。
当地には野見宿禰を祖とする土師氏が多く居住し、埴輪の製造を担っていたと考えられる。野見宿禰は殉死の風習を廃止し埴輪を埋葬することを考案し、その功から土師氏の姓を与えられたされる。ただし、これは考古学的な見地からは否定されており伝説とされている。
藤岡市矢場・陽向山広沢寺
藤岡市矢場の陽向山広沢寺。

広沢寺は天正2年(1574年)誘翁教訓の開山、黒沢兵部丞の開基である。黒沢兵部丞は武田信玄の家臣。この時期は武田氏が西上州を支配していた。なお、兵部丞は翌天正3年(1575年)の長篠の戦いで討死したとされる。
他説では開基を黒沢主計としており、主計は徳川家康の家臣とされる。主計は慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で討死。家康は主計の死を悼み、朱印を贈りその菩提を弔ったという。主計が開基の場合、広沢寺の開創は家康の江戸移封以降となる。
兵部丞、主計とも黒沢姓だが、その関係性は分からない。

境内入口の六地蔵。平成2年(1990年)の造立。


石仏や念仏供養塔などの仏塔類。


本堂は寛政5年(1793年)の建立。同年の棟札が残されており、棟梁は群馬郡新井(現榛東村新井)の浅見出羽藤原光命で、木挽きは水戸の長谷川国右衛門義忠と記されている。

境内の石仏。中央の不動明王像以外は像容がよく分からない。
高山社2代目社長・町田菊次郎の銅像
藤岡市高山の高山社情報館にある高山社2代目社長・町田菊次郎の銅像。

「富岡製糸場と絹産業遺産群」(富岡製糸場・田島弥平旧宅・高山社跡・荒船風穴)が世界遺産に登録されて、昨年(2024年)で10年が経過した。それを記念して構成資産のひとつである「高山社跡」の学習施設・高山社情報館前に、高山社2代目社長・町田菊次郎の銅像が造立された(昨年11月)。
向かって左は高山社創始者・高山長五郎(1820~86年)の銅像。養蚕法「清温育」を確立し、養蚕技術の向上・普及に大きく貢献した。長五郎の銅像は平成26年(2014年)の造立で、平成28年(2016年)に藤岡市役所から当地(高山社情報館)に移されている。

右が町田菊次郎の銅像。市民有志からなる実行委員会が寄付を募って造立したもの。
町田菊次郎は緑埜郡本郷村(現藤岡市本郷)の出身で、高山長五郎の「清温育」の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)に高山長五郎の遺志を継いで高山社2代目社長に就任。
明治34年(1901年)には私立甲種高山社蚕業学校を設立(初代校長)。全国から生徒を受け入れることで養蚕の担い手育成に務めるとともに、清温育の普及に尽力した。大正6年(1917年)66歳で死去している。
日本の養蚕農家は令和5年(2023年)現在、全国でわずか146戸だそうだ。このうち群馬県内は55戸(令和6年農水省資料)。最盛期の昭和4年(1929年)には221万戸も存在していたという。繭の生産量も農水省資料で45トン(最盛期は40万トン)。
2人の視線の先に見える景色は、どう映っているのだろうか?
関連
「藤岡市高山・高山社跡」
「藤岡市高山・高山社情報館」
「高山社2代目社長・町田菊次郎生家」
「高山社2代目社長 町田菊次郎の墓・喜雲山龍田寺」
藤岡市藤岡・龍田山光徳寺
藤岡市藤岡の龍田山光徳寺。

光徳寺は文明2年(1470年)依田右衛門尉光玄が、父・備前守光徳の菩提を弔うため開山に鷹林伊隼を招き、信濃国佐久郡芦田村に創建。その後、天正18年(1590年)依田康勝(光玄6世)が佐久から藤岡に転封となったのに伴い、天正19年(1591年)に光徳寺も現在地に移されている。

六地蔵。駐車場の入口の鎮座している。昭和4年(1929年)に移転・修繕とあった。

山門の建立年は不明だが、昭和27年(1952年)に改修が行われている。2階には十六羅漢が安置されていたが、大正13年(1924年)に本堂に遷されている。


山門の仁王像。仁王像は平成28(2016年)造立。


山門前には2体のお地蔵さんが向かい合っている。昭和21年(1946年)の造立。


本堂は芦田村からの移転時、すべてを解体して藤岡まで運び、再び藤岡で建てたといわれる。現在の本堂は平成27年(2015年)の建立。

本堂前の子育て地蔵と厄除け猿の麼尼車(まにぐるま)。子育て地蔵は昭和59年(1984年)の造立。麼尼車は平成28年(2016年)の造立。
麼尼車が猿の形をしているのは、光徳寺にある逸話が伝えられているから。それは芦田村から本堂を移築建立の際、本堂が大きかったため人々が難渋していると、一人の旅人が三日三晩かけ猿の形をした滑車を造ってくれた。そのおかげで作業がはかどったとされる。旅人は名も告げず去ったが、名工として名高い左甚五郎であったとされる。

本堂の鬼瓦。側面には「海衆安穏」とある。ここに集まる人々が、みな安らかでありますようにとの意味。

旧本堂の鬼瓦。


観音堂。昭和63年(1988年)の建立。本尊は馬頭観音で、行基の作と伝えられる。

日航機墜落事故慰霊地蔵。昭和63年(1988年)の造立。昭和60年(1985年)の日航機事故の際、光徳寺もご遺体の安置所となったことからの造立。


芦田氏(依田氏)累代の供養塔。比較的新しいようだが、造立年などは見えなかった。

供養塔の奥に石祠があった。大きな供養塔を建てる前の芦田氏供養塔かな。
依田氏は清和源氏(多田源氏)の流れをくむ。依田光徳から芦田氏を名乗ったとされる。以降は嫡流だけが「芦田」、傍系は「依田」を名乗っていたが、信蕃(康勝の父)の代から依田姓を使用したとされるが、はっきりしていない。


光徳寺には保育園が併設されており、墓地脇に遊具がある。ジップラインまである。
【注記】
光徳寺は平成24年(2012年)に訪問し記事を書いているが、その時は本堂の建て替え中(解体されていて更地だった)であったため今回再訪した。また、前回記事に対し追加内容も多くあるので、記事の差し替えを行った。
関連
「算聖 関孝和の墓・龍田山光徳寺 その2」
「松井宗直の墓・龍田山光徳寺 その3」
藤岡市保美・石造大日如来坐像
藤岡市保美の石造大日如来坐像。

民家脇の細い農道のような道を進むと竹林になる。その竹林の一部切り拓かれており、トンネルの入口のようになっている。

竹林の中が境内のようになっていて、そこにお堂(覆屋と言った方が良いかな)が建っている。地域の方々の手造りだと思われる。

灯籠は明治13年(1880年)の奉納。

灯籠の横には不明の施設。上屋の下には何があるわけでもなく、平たい石(敷石?)があるのみ。何だろう?

石造大日如来坐像。見た目で総高約90cm、幅約45cm、厚さ約40cmといったところ。材質は牛伏砂岩のようで、かなり風化している。両手とも手首から先が欠損しており、顔容もほぼなくなっている。露座の時代が相当あったと考えられる。
現在も地域の方々が12月第1日曜日にお祭りを行っている。もともとは11月28日だったと思われる(28日が大日如来の縁日)。この時期にお祭りを行っているのは、秋の実りへの感謝からだろう。
藤岡市藤岡・堀越二郎の胸像
藤岡市藤岡の藤岡市総合学習センター。その北側駐車場入口付近に堀越二郎の胸像がある。


堀越二郎の胸像。令和6年(2024年)4月、藤岡ロータリークラブの創立60周年を記念し建像。藤岡市に寄贈されている。
堀越二郎は藤岡市の出身で、東京帝大から三菱内燃機製造(現三菱重工業)に入社。戦前には七試艦上戦闘機・九試単座戦闘機(後の九六式艦上戦闘機)、戦時中は零式艦上戦闘機(ゼロ戦)・雷電・烈風など、後世に語り伝えられる名機の設計を手掛けている。
戦後はYSー11設計に参加。YS-11は戦後に初めて日本のメーカーが開発した旅客機である。その後、東大講師、防衛大教授、日大(生産工学部)教授などを歴任している。昭和57年(1982年)78歳で没している。
平成25年(2013年)公開の映画「風立ちぬ」では、主人公のひとりとしてその半生が描かれた。


胸像の台座部分には堀越と、堀越が設計に携わったYSー11の解説パネルが付けられている。
堀越の胸像がある藤岡市総合学習センターは、元の藤岡高跡地になる。藤岡高は堀越の出身である旧制藤岡中が戦後移行したもの。
藤岡高の紹介となると必ず出てくるのが氷室京介(BOØWY)、BUCK-TICKメンバー(櫻井・今井・星野・樋口)の出身校というもの。他には何もないようだ(OBの皆さん、ごめんなさい)。平成17年(2005年)に藤岡女子高と合併し、藤岡中央高として藤岡市中栗須に移転している。
藤岡市浄法寺・丹生神社
藤岡市浄法寺の丹生神社。

浄法寺丹生神社の由緒は不詳だが、最澄が広厳山浄法寺を訪れた際に比叡山にならい丹生都比売神を祀ったことに始まるとされる(浄法寺は後に地名となっている)。上野国神名帳の緑野郡筆頭「従三位丹生大明神」とあるのは当社とされる。

二の鳥居前後の燈籠は平成19年(2007年)の奉納。



社殿は昭和11年(1936年)の建立、昭和53年(1978年)に改築している。社殿前の燈籠は平成元年(1989年)の奉納。


神楽殿。春の例祭時に神楽が奉納される。


境内社の天照皇大神宮。

明治天皇の御製歌碑。「目にみえぬ神の心にかよふこそ 人の心のまことなりけれ」

浄法寺地区の戦没慰霊碑。昭和52年(1977年)の建碑。揮毫は群馬県出身の元陸軍中将・磯田三郎。
藤岡市保美・塚ノ越稲荷神社
藤岡市保美の塚ノ越稲荷神社。塚ノ越は字名。


塚ノ越稲荷神社の由緒は不明。


覆屋内の木祠は鮮やかな朱色に彩られている。

境内社。右から八坂神社、上諏訪神社、愛宕神社。この3社には標柱があった。残りの2社のうち1社は八王子神社(もう1社は不明)。石宮のひとつには明治20年(1887年)の銘があった。

双体道祖神。紀年銘などは読めなかった。

塚ノ越稲荷神社は藤岡市205号墳(美九里村156号墳:円墳)上に鎮座する。
以前は初午(はつうま・2月最初の午の日)に獅子舞が奉納されていたが、少子化の影響で現在は休止されているようだ。保美地区の獅子舞は、江戸時代に江戸城で将軍に奉納したとの話も伝わっている(真偽は知らない)。ちなみに、初午の日は京都・伏見稲荷大社に稲荷大明神が降臨(鎮座)したとされている日である。
*同じ保美地区にある稲荷神社(通称・失せ物稲荷)とは別神社である。
(失せ物稲荷は「藤岡市保美・稲荷神社(失せ物稲荷)」参照)
藤岡市神田地区古墳群
藤岡市神田(じんだ)の神田地区古墳群。


神田地区古墳群は神流川左岸の台地上に分布している後期古墳を代表する古墳群である。平成25年(2013年)に発掘調査が行われ、その後すべて埋め戻されている。17基の古墳が藤岡市の史跡に指定されている。


古墳群の中で最大規模のK-15号墳(高橋塚古墳)。全長24mの前方後円墳。

前方後円墳に見るが、2つの円墳(Mー4号墳とMー5号墳)が並んでいるもの。間に土砂が堆積したようだ。
個々の古墳に関する解説板などがないため、細かいデータはよく分からない。

古墳群の西側を走る県道13号線沿いに「頭椎太刀発見の古墳」との解説板が立っている。当地には全長30mの前方後円墳があり、明治28年(1895年)に石室中より金銅製で160cmの太刀が発見されたという。
現在その太刀は奈良の橿原神宮の宝物となっているとある。なぜ橿原神宮? なお、この前方後円墳はいつの頃か不明だが、消滅してしまったようだ。
古墳群は土地改良事業に際して、地元の要望等を受けて区域内にある古墳17基を文化財として残すため、換地により供出されたものである。土地は藤岡市に寄贈されている。
藤岡市森・少林山泉通寺
藤岡市森の少林山泉通寺。

泉通寺は永正6年(1509年)長年寺2世・宝晃知證の開山、小林出羽守政忠の開基。山号の少林山は政忠の法名「少林院殿光山宗厳」から。また、政忠は長根村(現吉井町長根)の熊野権現(現長根神社)に鰐口を奉納した小林豊後守秀政の弟である。
(「高崎市吉井町長根・長根神社」参照)
秀政が鰐口を奉納したのが天正17年(1589年)なので、弟である政忠が永正6年に泉通寺を開基しているのは、年代的に少し疑問が残る。永禄6年(1563年)だと合うのだが・・・。


門前の六地蔵や石仏類。

山門から本堂の間には松が植えられており、松並木のようになっている。


本堂には本尊の釈迦如来を祀る。

開基の小林忠政の墓(供養塔)。

境内の藤岡市小野地区戦没者供養塔(忠魂碑)。


梵鐘は先の大戦時に供出、昭和30年(1955年)に再建されている。
梵鐘には「報恩孝順大和尚」とある。孝順は泉通寺17世として嘉永7年(1855年)~安政5年(1859年)まで住職を務めている。孝順は物理の知識を持ち合わせており、中村堰と呼ばれる用水施設の暗きょ化を行い水害に強い灌漑水路としている。これにより小野地区周辺の稲作耕地は飛躍的に増えることとなった。
藤岡市鮎川・北野神社
藤岡市鮎川の北野神社。

鮎川北野神社の創建は不詳。
一の鳥居は平成7年(1995年)の建立。参道は西側に長く延びているが、途中から市道になっている。


一の鳥居から数百mほど離れたところに二の鳥居。二の鳥居は南面している。市道の拡幅工事のため、平成5年(1993年)に境内の一部を提供、二の鳥居の新築建立、境内の整備を行っている。


こじんまりとした社殿。拝殿内には関流の和算家・岸幸太郎一門が奉納した算額が残されている。拝殿の中にそれらしき額が見えたが、左側に掲示されておりよく分からなかった。


境内社。右の覆屋内には狐像があったので、稲荷社と思われる。
鮎川地区には獅子舞が伝承されており、北野神社の例祭時に奉納される。鮎川の獅子舞は天保年間(1831~45年)に伊勢から獅子頭などを購入し始まったといわれている。
藤岡市神田・五智山高倉寺
藤岡市神田の五智山高倉寺。

高倉寺は大永2年(1522年)同市高山地区に開創。元和2年(1616年)火災により焼失、元禄4年(1691年)僧・勧海が再興している。明治42年(1909年)に神田・光明寺と合併し、同寺に移り高倉寺として存続している。


本堂の建立年は不詳だが、平成5年(1993年)に大改修を行っている。

六地蔵は本堂落慶(改築)時の奉納(平成5年)。

境内の延命観音。由緒などは不明。そう古くはなさそう。


境内から墓地にかけて、多くの庚申塔がある。庚申信仰が盛んだった地区なのかな。
高倉寺は「上毛国風土記」(平安時代?)にもその名が見えることから、開創は相当古く、大永2年は中興ではないかとの説もあるようだ。
また、高山地区にある薬師堂(山内上杉家の守り本尊・薬師如来を祀る)は、旧高倉寺の良山和尚が建立したもの。関東管領・上杉憲政が北条氏に攻められ越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼って落ち延びる際、家来に背負わせ旧高倉寺に避難させたと伝えられている。
(「藤岡市高山・薬師堂」参照)
藤岡市金井・薬師堂
藤岡市金井の薬師堂。

金井薬師堂の由緒は不詳だが、元禄16年(1703年)に高山氏により当地に移築されている。享保12年(1731年)に山崩れにより倒壊、高山半兵衛重寛が再建。現在のお堂は平成4年(1992年)の新築建立。
高山氏は桓武平氏・平良文の流れをくむ秩父氏の一族。秩父三郎が武蔵国高麗郡高山邑(埼玉県飯能市にある高山不動)に住して高山三郎を名乗り、初代・高山三郎重遠となる。重遠は後に上野国緑野郡高山(藤岡市高山)を本拠とした。
高山社を興した高山長五郎や、江戸期の寛政三奇人のひとり・高山彦九郎はその末裔にあたる。


境内には石仏・宝塔、供養塔などが並ぶ。


本尊の薬師如来像。

薬師堂の前には藤岡市の重文を示す解説板がある。重文は「伝山内上杉顕定公愛用の碁盤」。上杉顕定は平井城主の関東管領。碁盤は室町時代の作で、現存する碁盤の中では全国でも古い部類に入るという。
ところで、この碁盤の所有者は仙蔵寺になっている。仙蔵寺は藤岡市西平井にあるお寺。ただ、碁盤の所在地はこの薬師堂の住所になっているので堂内にある? このお堂の管理も仙蔵寺なのかな。
碁盤には後世の加筆による「西平井村 平岩山 文殊院」という墨書があるというが、現在の西平井には同名の寺院はない。平岩山文殊院が廃寺にでもなったので、仙蔵寺に移されたのか。でも、上杉顕定の菩提寺といわれる常光寺もあるので、なぜそちらではないのかとの疑問もあるけど。
関連
「蝸牛石(だいろいし)・真穀山仙蔵寺」
「藤岡市西平井・平井山常光寺」
藤岡市上日野・鹿島神社
藤岡市上日野の鹿島神社。

上日野鹿島神社は建久7年(1196年)に平維盛の子・維基が小柏と改姓した際に建立し、所蔵の甲冑や武具を納めたという。
(平維基に関しては「平維盛の末裔・小柏氏の開基・小柏山養命寺」参照)


参道を進むと山すそ(北麓)に鳥居と割拝殿(瓦屋根の幅広の建物)が見えてくる。


割拝殿は懸崖造りで、床下には藁を巻き付けた筒状の物が多数ある。何だろう?


社殿は延享元年(1744年)火災により焼失、翌年に再建されている。再建の中心になったのは地元の豪族・酒井興惣左衛門。社殿は割拝殿をから境内に入ると右手にある。境内は狭いので、再建時に社前を広く取るために移されたと考えられている。

拝殿内にはきれいな絵馬が掲げられていた。題材は分からない。

拝殿の掲額。天狗の絵が描かれているが、当社は「日野のお天狗」と呼ばれている。新井左京という人物が安政2年(1855年)に秋熱病に罹り、大山石尊に祈願したところ全快した。それから右京には天狗が乗り移り、呪占師のようなことを行っていた。その弟子や神職も同様に境内で呪占をやっていたことから。
この風習は昭和初期まで続いていたといから、ちょっと驚き。(額の内容は薄れていて読み切れないが、第二次世界大戦がどうのとある)


神楽殿。社殿のすぐ隣にある。春の例祭時に奉納されていた(現在は行われていない)。


境内社の鳥居。ちょっとエッチな雰囲気を醸し出す。

金精さま(左)。右は分からないが、女陰関係かな。金精さまは子宝、安産、縁結びのご利益があるので、昔から各地に祀られている。


リアルなオブジェがある。平成2年(1990年)地元の方々の奉納。
ところで、上日野鹿島神社には天正18年(1590年)の国峰城落城時に、国峰城を守っていた小幡信秀(城主・小幡信貞の養嗣子)が社殿内に隠れ、難を逃れたという伝承が残っている。同じような話が甘楽町の向陽寺(「甘楽町天引・友月山向陽寺」参照)にも伝わっている。