上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 富岡市・甘楽郡


甘楽郡甘楽町小幡の小幡藩陣屋の大手門礎石。
甘楽町歴史民俗資料館の道を挟んだ東側に置かれている。

大手門礎石 (1)
大手門礎石 (2)
小幡藩陣屋の大手門礎石。大手門は寛文6年(1666年)小幡藩3代・織田信久が建立している。寛永19年(1642年)に陣屋を福島から小幡に移したのは2代・信昌。

大手門は格式の高い四脚門だったとされる。なんだかんだ言って織田信雄が正二位・内大臣の地位にあったことから、信久の時代も織田家の格式は高かったと考えられる。

大手門礎石 (3)
大手門礎石 (4)
礎石は牛伏砂岩製で、ひとつは最長約114cm・最大幅約76cm・高さ約43cm・重量は約977kg。もうひとつは最長約100cm・最大幅約75cm・高さ約42cm・重量592kg。

元和元年(1615年)織田信雄に大和国宇陀郡3万石・上州小幡2万石が与えられ、元和2年(1616年)に信雄4男・信良が福島入って以降、明和4年(1767年)に7代・信邦が明和事件に連座し蟄居、弟の信浮が出羽高畠に移封されるまで、織田家が152年にわたり小幡藩主であった。

*小幡藩の初代を信雄とするか信良とするかで代数のカウントが変わる。本記事では信良を初代とカウントしている。


甘楽郡甘楽町小幡のかかあ天下像。甘楽町歴史民俗資料館の入口横にある。

甘楽町歴史民俗資料館
かかあ天下像 (1)
「かかあ天下像」は平成27年(2015年)の建像。太田市の左官職人の方が壁を塗る鏝(コテ)で製作したもの。

同年に「かかあ天下 ーぐんまの絹物語ー」(構成文化財所在地:桐生市・甘楽町・中之条町・片品村)が日本遺産に認定されたことを記念してのようだ。甘楽町の対象文化財のひとつが、像が置かれている「旧小幡組製糸レンガ造り倉庫(現甘楽町歴史民俗資料館)」。

かかあ天下像 (2)
かかあ天下像 (3)
ぱっと見、左肩から手が出ていて驚いたのだが、よく見ると背負っている籠に子どもががいた(笑)。像の説明板に歌が添えられており「桑恋し 蚕を思う 親子の瞳 澄みて楽しき」。

「かかあ天下と空っ風」は一昔前の群馬県のイメージとして定着している。これを以て群馬県の女性は「かかあ天下」で「夫を尻に敷く妻(恐妻)」との意味で使われることが多い。

しかし、群馬の女性は養蚕・製糸・織物といった絹産業の担い手であり、男性よりも高い経済力があったことから、「夫が出かけている間の家を守る強い妻」「うちのかかあは働き者で天下一」が本来の意味とされる。

甘楽町歴史民俗資料館を訪れたのは14年ぶりだが、像を見ただけで中の見学はしてこなかった。展示内容も変わっているのだろうから見学してくればよかった・・・。

関連
 「甘楽町小幡・甘楽町歴史民俗資料館


甘楽郡甘楽町白倉の金光山白倉神社。

白倉神社は熊倉山(天狗山とも)の北面、標高約650mの山中に鎮座している。甘楽町・陸上競技場やふれあいの丘の東にあるのは里宮となる。今回の訪問は里宮であるが、由緒やさまざまな歴史的記述は白倉神社全体のものになる。

白倉神社 (1)
白倉神社 (2)
白倉神社は宝亀3年(772年)自然崇拝の神として創建されたという。山中から鉱物を産出したことから金山彦を祀ったともいう。これと和銅元年(708年)に秩父で銅が産出され.羊太夫が朝廷(元明天皇)に献上したことを関連付け、由緒とする説もあるようだ。

国道254号(旧道)沿いにある一の鳥居(でいいのかな?)は明治45年(1912年)の建立。天狗の像があるのは通称「お天狗さま」と呼ばれているから。

白倉神社 (3)
白倉神社 (4)
里宮。里宮は元は菅原神社で、菅原神社が明治42年(1909年)に白倉神社に合祀された後、大正2年(1913年)に白倉神社の社務所を建立したのが始まり。里宮という位置づけになったのは大正4年(1915年)ころとされる。

白倉神社 (5)
燈籠は昭和10年(1935年)の奉納。

白倉神社 (6)
白倉神社 (7)
白倉神社 (8)
社殿は元の菅原神社ものもか新築かは分からないが、昭和32年(1957年)、昭和43年(1968年)に改修・整備されている。この昭和32年の改修を以て、以降すべての行事が里宮で行われるようになった。

白倉神社 (9)
神楽殿は昭和3年(1928年)の建立。白倉神社の太々神楽は、明治9年(1876年)に高崎市吉井町・辛科神社から伝授されたもの。白倉神社の神楽として創立されたのは明治13年(1880年)。先の大戦中に休止となっていたが、昭和32年(1957年)里宮で再興されている。

白倉神社 (10)
元菅原神社の名残かな。合格祈願などが書かれた絵馬が奉納されていた。


甘楽郡甘楽町白倉の榛名山圓明院。

圓明院 (1)
圓明院は天和2年(1682年)僧・永純の開山とされる。

圓明院 (2)
六地蔵は平成6年(1994年)の造立。

圓明院 (3)
参道の両側は桜並木になっている。季節が合えばきれいな桜が堪能できることだろう。参道は昭和45年(1970年)に整備されている。

圓明院 (4)
本堂までの傾斜地も築山風にきれいに整備されている。

圓明院 (5)
石段を上ると本堂。

圓明院 (6)
圓明院 (7)
本堂は昭和30年(1955年)の建立。

圓明院 (8)
圓明院 (9)
本堂前の六地蔵石幢。元禄12年(1699年)の造立。

圓明院 (10)
天明の絹一揆の指導者・山田清助と清蔵兄弟の墓。清助は清介とも。

天明元年(1781年)江戸幕府が上州・武州の絹市に対し、改所を設置し改料を商人から徴収するとの触書を出した。この改料が実質的な運上金(租税)だとして農民が反発、反対運動を起こした。

結果的に幕府は改所設置を撤回したため、農民側の勝利という結果となった。この騒動を天明の絹一揆、絹運上騒動などと呼ぶ。しかし、当然幕府の施策に反抗したのでただでは済まず、一揆を指導した人々は逮捕・処罰されている。

そのうちの白倉村の山田清助と清蔵兄弟は八丈島への流罪となった。弟・清蔵は島へ流される前に牢死、兄・清助は八丈島で在島41年後の文政6年(1823年)に死去したといわれる。

墓石は嘉永元年(1848年)に建立されている。事件から67年後のこと。これは同様に反対運動に関わった山田家関係者(親戚筋)が「流罪者両人の墓は60年を世に遠慮して、後に建ててくれ」と遺言したことから。

墓の建立者の名前も伝わっているが、墓石からは削られている。地元では義民とされている兄弟だが、罪人でもあるので色々しがらみもあったのだろう。


甘楽郡甘楽町天引の大日堂の石仏。

大日堂の石仏 (1)
大日堂の由緒は不詳だが、大日如来を祀っているのでその名で呼ばれている(と考えられる)。

大日堂の石仏 (2)
中を見ると、上下に仏像が2体ある。

大日堂の石仏 (3)
棚上の1体は幕が掛かっており像容は分からない。

大日堂の石仏 (4)
壇下には扉があり顔部のみ確認できるが、摩耗した石仏がある。扉はいつも開いているのか知らないが、開いていてよかった。こちらが今回の「大日堂の石仏」となる。

ちなみに、甘楽町のHPでは棚上の木像を大日如来、壇下の石仏を種類不明としている。一方、昭和3年(1928年)刊行の「北甘楽郡史」では棚上を観音菩薩、壇下石仏を大日如来としている。

大日堂の石仏 (5)
石仏は天引石(砂岩)製で、全高(台座から光背上まで)162cm、最大幅104cm。過去に洪水被害に遭ったため全体に破損が認められ、特に顔の損傷が激しい。像は鎌倉時代の製作と推定されている。

この石仏の下半身はお堂の床下にある。北甘楽郡史には「半身土中に埋もれているので、その全身の丈は分からない」とある。現在は全高の数値が出ているので、埋まってはいないみたいだが。なぜこのような状態で安置されている(いた)のだろうか?

大日堂の石仏 (6)
お堂の脇(北側)に大日如来塔があった。安永9年(1780年)の造立。

帰ってきてから地図を確認したら、お堂のすぐ西側を流れているのは三途川だった。ここにお堂が建てられ石仏が祀られているのは、意味があるということ。

関連
 「甘楽町金井・姥子堂


甘楽郡甘楽町金井の姥子堂。

姥子堂 (1)
姥子堂の由緒は不詳。寛延3年(1750年)の宝勝寺文書にその名が出てくることから、その当時には創建されていたことになる。
(宝勝寺は「甘楽町金井・歓喜山宝勝寺」参照)

姥子堂 (2)
姥子堂 (3)
堂内には奪衣婆を祀る。造立年などは分からない。着色されているからかもしれないが、比較的新しく見える。

奪衣婆は三途の川で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆のこと。剥ぎ取った衣類は懸衣翁という老爺の鬼によって川の畔に立つ衣領樹という大樹に掛けられ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

この奪衣婆像には伝説が残っている。行基が当地を訪れた際、宝勝寺前の川を三途の川と名付け、そこに自作の老婆の像を残して去った。村人はこれを祟めお堂を建てて安置した。ただ、行基作の像は火災でお堂とともに焼失してしまったので再刻したとされる。

姥子堂 (4)
姥子堂に脇(西側)を流れる三途川。先の伝説からすると行基の命名になる。

姥子堂 (5)
三途川に掛かる橋は三途橋。

姥子堂は宝勝寺の境外仏堂となっている。「寺院(宝勝寺)」「奪衣婆」「三途の川」から、当時の仏教由来の末法思想や冥界思想などがうかがい知れる。

ただ、元は閻魔大王が祀られていたのではとも考えてしまう。奪衣婆になったのは江戸時代末の民間信仰において、奪衣婆が疫病除けや咳止め(特に子どもの百日咳)にご利益があるとされたからではないかな。


甘楽郡甘楽町小川の小幡山光源寺。

光源寺 (1)
光源寺は大同年間(806~10年)徳一上人の開山と伝わる古刹。徳一は法相宗の高僧で、最澄(伝教大師)と「三一権実諍論」(仏教宗論)を行っている。その後の寺勢に関しては不明だが、元和2年(1616年)に呑龍上人が中興したという。

呑流と言えば「太田金山 子育て呑流」で群馬県民にはおなじみの、大光院新田寺を開山した名僧。

光源寺 (2)
本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。呑龍上人が中興したため、現在は浄土宗の寺院である。

光源寺 (3)
境内の六地蔵。昭和57年(1982年)の造立。

光源寺 (4)
光源寺 (5)
境内の観音堂。文化(1804~18年)から天保(1831~45年)にかけて住職を勤めた玄瑞和尚が、秩父34ヶ寺観音霊場を模して建立。現在の観音堂は平成4年(1992年)の建立。

光源寺 (6)
光源寺 (7)
中央の十一面観音像は平成4年に納められている。唐金(青銅)製みたいだ。

光源寺 (8)
墓地入り口の念仏塔。浄土宗だということがすぐ分かる。


富岡市一ノ宮の駒寄井戸。

駒寄井戸 (1)
駒寄井戸は弘法大師が馬に乗って当地にさしかかった際、疲れた馬が前足で勢いよく地面を搔いたところ、不思議にも水がこんこんと湧き出したといわれる。そのため駒寄井戸というようになった。この水は一年中涸れたことがないという。

駒寄井戸 (2)
また、名馬・磨墨が故郷(磨墨は大桁山の産といわれる)に帰ってきた時に、喉の乾きを癒やしたのが駒寄井戸といわれる。そのため別名・磨墨の井戸ともいう。

磨墨は永寿3年(1184年)の源範頼・義経軍と木曽義仲軍との「宇治川の合戦」で先陣争いを演じた梶原景季が乗っていた名馬。磨墨が倒れ死んだ場所には磨墨神社があったが、現在は伏見神社となっている。伏見神社には弘化3年(1846年)に奉納された磨墨を描いた大絵馬が残されている。

駒寄井戸 (3)
現在は蓋がされている(はっきりしないが、おそらく井戸跡だと思う)。

駒寄井戸 (4)
何かが彫られている石塔があったが、よく分からなかった。

駒寄井戸 (5)
駒寄井戸は通称「お女郎坂」と呼ばれる急坂を登ったところにある。富岡市社会教育館のすぐ下あたりになる。名前の由来は、江戸初期に徳川家光の号令により貫前神社の大改修が行われた際、諸国より造営にかかわるあらゆる職人が集められ、この時に娼屋が置かれたのがこの坂の両側だったからとされる。

磨墨関連
 「富岡市妙義町下高田・伏見神社
 「名馬・磨墨の墓・鷲峯山祝昌寺


富岡市宮崎の宮崎山龍光寺阿弥陀堂。

龍光寺阿弥陀堂 (1)
龍光寺は長禄年間(1457~60年)奥平貞俊が宮崎村に創建。慶長15年(1610年)富岡町の創設とともに宮崎村から移っている。その時の寂誉道楽和尚を中興開山としている。寂誉道楽の姉は家康の生母・伝通院という。
(龍光寺は「富岡市富岡・宮崎山龍光寺」参照)

龍光寺阿弥陀堂 (2)
龍光寺が富岡町(現、富岡市富岡)に移った後は、境外仏堂(阿弥陀堂)となっている。

龍光寺阿弥陀堂 (3)
龍光寺阿弥陀堂 (4)
年代は不明だが、火災により阿弥陀堂は焼失。現在の立派なお堂は再建。

龍光寺阿弥陀堂 (5)
お堂屋根中央に3枚の瓦が積まれている。これはわざと未完成の部分を残すことで、これからも完成に向けて発展し続けるという願いを表しているという。

龍光寺阿弥陀堂 (6)
お堂の葵紋。富岡町へ移った時の中興開山・寂誉道楽が家康の縁者だからかな。

龍光寺阿弥陀堂 (7)
本尊・阿弥陀如来と観音・勢至菩薩の両脇侍。

龍光寺阿弥陀堂 (8)
境内のしだれ桜。「とみおか名木十選」(富岡市観光協会選)に認定されている。

明治12年(1879年)「上野国北甘楽郡 寺院明細帳」、昭和3年(1928年)「北甘楽郡史」のいずれも当所を「弥陀堂」と記載しているので、それを踏まえた内容(龍光寺の境外仏堂)としている。


富岡市富岡の宮崎山龍光寺。

龍光寺 (1)
龍光寺は長禄年間(1457~60年)奥平貞俊が宮崎村(現、富岡市宮崎)に創建。慶長15年(1610年)富岡町の創設とともに宮崎村から移っている。その時、寂誉道楽和尚を中興開山としている。寂誉道楽の姉は徳川家康の生母・於大の方(伝通院)。

奥平貞俊は旧吉井町奥平から三河国へ移住したとされる(三河奥平氏の初代)。天正18年(1590年)宮崎に3万石を領した奥平信昌は、貞俊から5代末となる。

山門は昭和60年(1985年)の建立。山門前の大灯籠は昭和18年(1943年)の奉納。

龍光寺 (2)
龍光寺 (3)
龍光寺 (4)
山門の門扉には彫刻が施されている。鳳凰や龍。

龍光寺 (5)
龍光寺 (6)
本堂は明治23年(1890年)に火災により焼失。後に檀徒の浄罪などを得て再建されている。現在の本堂は平成13年(2001年)の建立。

龍光寺 (7)
龍光寺 (8)
梵鐘は無銘ではあるが竜頭・鐘身・草の間の唐草模様・乳の配列などから室町時代の鋳造とされる。このような歴史的価値が考慮され、先の大戦時の供出を免れている。

龍光寺 (9)
龍光寺 (10)
龍光寺 (11)
「子育て呑龍上人」との扁額が掛かったお堂。呑流堂とでも言うのかな。厨子内の木像(御簾でお顔は見えないが)は呑龍上人と思われる。実は呑龍上人は龍光寺の第2代住職(富岡に移転後)を務めている。その後、太田・大光院新田寺の開山となり移っている。

龍光寺 (12)
龍光寺 (13)
龍光寺 (14)
観音堂。千手観音を祀る。由来などは分からない。

龍光寺 (15)
龍光寺 (16)
板碑は高さ約140cm、幅約45cmで緑泥片岩製。貞治3年(1364年)の銘がある。貞治は南北朝期の北朝側の年号(南朝は正平)。富岡市や甘楽町・下仁田町あたりに残されている石造物には北朝の年号が多い。富岡市内にも光厳寺のように北朝初代天皇である光厳天皇が開基したとされる寺院もあるけど。

龍光寺 (17)
本堂前の大銀杏。樹高25m、目通し周り5m、根回り9.5m、枝張りは東西15m・で、樹齢は約380年以上と推定されている。この銀杏の木は、龍光寺が宮崎から富岡に移った際に宮崎から移植したといわれている。

龍光寺 (18)
龍光寺 (19)
墓地にある富岡製糸場で働いていた工女さんの墓。48人が眠る。

開業の翌年、明治6年(1873年)には工女総数404人に達し、品質優良な生糸は海外でも名声を博していた。工女さんたちは北は北海道、南は九州から集まっており、帰郷後は指導者として活躍した人もいる。しかし不幸にして病に倒れ、富岡で亡くなった工女さんも多い。

明治7年(1874年)から明治30年(1897年)までの間に60人の工女さんが亡くなっている。国の繁栄のために故郷の親元を離れ、病により異郷のこの地で命を落とした乙女たちのご冥福を改めてお祈りする。

富岡市内の海源寺にも工女さんと工男さんのお墓がある。
(「富岡市富岡・中法山海源寺」参照)


富岡市宮崎の宮崎山薬師寺。

薬師寺 (1)
薬師寺は天正年間(1573~92年)に奥平信昌が開基となり、開山に慈眼大師(天海)の高弟・春圓僧都を招き開山。奥平信昌が宮崎に3万石を領したのは天正18年(1590年)なので、それ以降の創建となる。

薬師寺 (2)
奥平氏の祈願所として郡内屈指の仏堂・伽藍を誇っていたようであるが、奥平氏が慶長6年(1601年)に美濃加納へ国替えとなり、また以降数度の火災により古記録などを焼失。現在はかなりこぢんまりとした本堂があるのみである。

本尊の薬師如来像(石像)は秘仏で、奥平信昌正室・亀姫(徳川家康長女)の祈念仏という。ただ、昭和59年(1984年)刊の富岡市史では薬師寺の本尊は阿弥陀如となっているので、亀姫祈念仏などは散逸しているようだ。

薬師寺 (3)
境内の六地蔵は平成19年(2007年)の造立。

薬師寺 (4)
薬師寺 (5)
奪衣婆像。元は宮崎と一ノ宮の境界あたりにあったようだが、薬師寺に遷されている。富岡市内の奪衣婆像では最大である。地元では「ショウヅカバアサン(正塚婆さん)」と親しまれており、頭をなでると頭痛が治るといわれ信仰されている。


富岡市宇田の宇田山神守寺。

神守寺 (1)
神守寺は慶長2年(1597年)奥平信昌の開基とされる。その後、奥平氏の国替え(美濃加納)などにより寺勢が衰えたが、林氏や神宮氏の尽力により中興されている。林氏・神宮氏は地元の一族のようだ。

神守寺 (2)
山門前の六地蔵は昭和57年(1982年)の造立。

神守寺 (3)
山門前の石仏(お地蔵さん)は廃仏毀釈のためか、首が破壊されたようで修理痕がある(首が無いものもある)。

神守寺 (4)
神守寺 (5)
本堂には本尊の釈迦如来を祀る。本堂はまだ新しいようだ。

神守寺 (6)
神守寺 (7)
本堂前には首の無い十一面観音像が安置されている。この観音には逸話が残っている。ある時「近くに十一面観音が埋もれているから掘り出せ」とお告げがあり、探したところ首と胴体が別々に見つかった。この十一面観音の御利益か、神守寺には参拝者が多数訪れるようになった。ところが、それを妬んだ人に首は持ち去られてしまったという。

神守寺 (8)
他にも安永2年(1773年)の銘がある馬頭観音像や、奪衣婆像(顔)などがある。

神守寺 (9)
寒夜唱名塔。寛政6年(1794年)の造立。あまり聞かない名称の名塔だが、念仏供養塔のようだ。


富岡市田島の岩崎山施無畏寺。

施無畏寺 (1)
施無畏寺は白鳳元年(650年)役の小角が当地に霊光を感じ、草庵を建立し観音像を安置したのが始まりという。役の小角は山岳呪術者とされる修験道の祖。実在の人物ともされるが、その生涯は各種伝説が入り交じっている。また、白鳳という年号は私年号のひとつ(日本書紀には出てこない)。一般的には白雉(650~54年)の別称(美称)とされる。

元亀元年(1570年)に光明院住職・奝豪が諸堂を修理している。このときに天台宗に改宗、奝豪を中興開山としている。明治40年(1907年)に高崎・威徳寺を合併し、仏本・什器などを移している。旧威徳寺は内陣のみ高崎市成田町の成田山光徳寺に残されている。(「高崎市成田町・成田山光徳寺」参照)

施無畏寺 (2)
施無畏寺 (3)
山門は昭和24年(1949年)の建立。平成13年(2001年)の改修時に仁王像を造立している。

施無畏寺 (4)
施無畏寺 (5)
山門の天井絵。花鳥風月から魚まで。

施無畏寺 (6)
山門前の伝教大師(最澄)像。平成22年(2010年)の造立。

施無畏寺 (7)
施無畏寺 (8)
本堂は文化2年(1805年)の建立。昭和23年(1948年)、平成15年(2003年)屋根を改修している。

施無畏寺 (9)
境内の極楽浄土池。平成21年(2009年)の造立。阿弥陀如来を中心に勢至観音と観音菩薩。周りには9つの蓮台があしらわれている

施無畏寺 (10)
施無畏寺 (11)
鐘楼堂は平成26年(2014年)の建立。

施無畏寺 (13)
六地蔵。平成26年(2014年)の奉納。

施無畏寺 (12)
施無畏寺 (14)
観音堂には役の小角が開眼した聖観音像を祀る(岩崎観音)。観音像は一寸八分(約5.5cm)の小像。過去に暴風雨のためお堂が倒壊し、観音像がいずこへか埋もれてしまったことがあるという(無地発見されている)。

施無畏寺 (15)
観音堂後ろ側に小窓があり、そこに産体観音が置かれていた。


富岡市田島の和合神社。

和合神社 (1)
和合神社 (2)
和合神社の由緒は不詳。明治期に旧田島村内の諏訪神社、厳島神社、菅原神社、稲荷神社などを合祀している。ご祭神が伊弉諾神、伊弉冉神なので和合なのかな。

和合神社 (3)
昭和初年には「荒廃見るに堪へず」(昭和3年刊・北甘楽郡史)とあり、現在は小さな木祠のみである。

和合神社 (4)
道祖神と石宮。

和合神社 (5)
和合神社 (6)
和合の銀杏。根回り約11.6m、樹高約28.7m、枝張り東西・南北とも約25m(平成13年:2001年データ)。樹幹は1本ではなく、5本の主幹の集合体という特異な形状をしている。この銀杏は浸食崖(鏑川)上という極めて厳しい生育環境にありながら旺盛に繁殖している。

ぼちぼち良い色合いになっているかと思って訪問したが、まだ少し早かったようだ。


富岡市宮崎の華鶏山桃林寺。

桃林寺 (1)
桃林寺は天正19年(1591年)松平右京太夫家治の開基、開山は下丹生村・永隣寺住職の春慶和尚である。松平家治は奥平信昌の次男で、徳川家康の養子となったため松平姓を与えられている。

家治の母(信昌の正室)は徳川家康の長女・亀姫であり、その血筋から養子に求められたと考えられている。家治は天正8年(1579年)生まれで、8歳の時に養子になったが天正20年(1592年)に13歳で亡くなっている。

天正19年に家治は12歳のため、実質的には桃林寺は父である信昌の開基と考えられる。信昌が宮崎に3万石を得たのは天正18年なので。

桃林寺 (2)
桃林寺 (3)
門前の石仏・石塔と六地蔵。

桃林寺 (4)
桃林寺は再三火災に遭っており、古記録などは焼失している。本堂前の燈籠は平成15年(2003年)の奉納。

桃林寺 (5)
本堂前の宝篋印塔。開基・松平家治の墓と伝えられている。寛政2年(1790年)に小幡藩主・松平忠福が建立したとされる。没年と年代的にズレがあるが、墓碑を新たに建立したのか供養塔として建立したのかは不明。

松平忠福は奥平松平家(家治の末弟・忠明が、家治の死後に家康の養子となり松平を名乗っている)の忠尚系と呼ばれる家系。

家治の墓に関しては、昭和3年(1928年)刊の「北甘楽郡史」には「遺骸はなしと伝わる」とあるが、寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である「重修家譜」には「家治を桃林寺に葬る」とある。真偽はいかに?


富岡市曽木の神明宮。

曽木神明宮 (1)
曽木神明宮の由緒は不詳。伝わるところでは、伊勢神宮の大宮司政所職の橘朝臣秀葽が授けた「黄色の座玉」を祀ったのが始まりとされる。

式年遷宮の際に取り壊された古宮の高欄の「五色の座玉」のひとつみたいだ。橘秀葽の家に秘蔵されていたもの。秀葽が当地に下向してきた際に、曽木村の人々の神を敬う気持ちの篤さから授けたといわれる。ただ、秀葽がいつ頃の年代の人なのかは分からない。

曽木神明宮 (2)
鳥居横の大燈籠は大正10年(1921年)の奉納。

曽木神明宮 (5)
社殿前の狛犬は昭和42年(1967年)の奉納。

曽木神明宮 (3)
曽木神明宮 (4)
社殿は元禄16年(1703年)、天明3年(1783年)に再建に記録が残る。現在の拝殿は明治2年(1869年)の建立。本殿は昭和61年(1986年)に改修されている。

曽木神明宮 (6)
曽木神明宮 (7)
境内社。八幡宮、春日神社、琴平神社、阿夫利神社など。

曽木神明宮 (9)
従軍記念碑。昭和41年(1965年)の建碑。従軍記念とあるが、日清戦争以降の戦没者慰霊碑。


富岡市富岡の大虎山栖雲寺。

栖雲寺 (1)
栖雲寺 (2)
栖雲寺は寛永4年(1627年)長翁全孫和尚の開山。山門の扁額は「古叢林」(こそうりん)。歴史の古い(長い)大きな禅宗の寺院といった意味。

栖雲寺 (3)
門前の「御虎石」。虎御前が建てたという供養塔。享徳元年(1452年)に古崖聖来という者が当地から発掘したとされる。栖雲寺の創建以前よりあることになる。この御虎石が山号の大虎山の由来となっている。それにしても大きい。

虎御前とは鎌倉時代初期の遊女。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成の妾とされる。「吾妻鏡」にも登場することから、実在の女性と考えられている。日本各地に虎御前の伝承と結び付けられた石が存在する(大磯町、足柄峠、大分市など)。

*資料によっては「虎御石」と表記されているものもあり。

栖雲寺 (4)
門前の六地蔵。昭和38年(1963年)の造立。

栖雲寺 (5)
栖雲寺 (6)
本堂の建立年は分からないが、昭和28年(1953年)に瓦葺きに改修している。

栖雲寺 (7)
栖雲寺 (8)
梵鐘は天明2年(1782年)の鋳造だが先の大戦中に供出。現在の梵鐘は再鋳造。半鐘は寛延2年(1749年)鋳造で、供出を免れ消防団詰め所の警報用として使用されていた(現在も使用されているかは不明)。

栖雲寺 (9)
栖雲寺 (10)
境内の薬師堂。薬師如来像の由緒は明らかではないが、栖雲寺開創以前から当地に祀られていたとされる。お堂は平成11年(1999年)の再建。

栖雲寺 (11)
栖雲寺 (12)
薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩の三尊。ちょっとイメージが違うほどの金ピカ。弘安4年(1281年)作との説もあるようだが。別物かな。

栖雲寺 (13)
観音菩薩像の地下が合祀墓(霊廟)になっている。檀家の方が平成19年(2007年)の造営している。

栖雲寺 (14)
江戸期に当地を領していた旗本・筧源左衛門保寿の墓。栖雲寺に多くの寄進をしており、中興開基とされている。筧氏や源左衛門保寿のことはよく分からないが、保寿は寛政元年(1789年)に没しているようだ。

栖雲寺 (15)
保寿の母親の墓。保寿が安永2年(1773年)に建立したとの銘がある。

栖雲寺には筧氏が奉納したという金銅製の聖観音像(約15cm)が寺宝となっている。唐の代宗皇帝が光明皇后に贈ったものだという。こんなすごい物を、なぜ江戸時代の旗本が持っていた? 事実なら国宝級だね。


富岡市富岡の諏訪神社。

富岡諏訪神社 (1)
富岡諏訪神社は信濃国の諏訪大社より分霊を勧請し、宮崎村(現、富岡市宮崎)に創建(創建年などは不詳)。おそらくは西上州が武田信玄の支配下になった永禄9年(1566年)から天正10年(1582年)の武田氏滅亡あたりまでではないかな。

慶長17年(1612年)宮崎村(現、富岡市宮崎)から現在地に遷座している。鳥居は明治39年(1906年)の建立。

富岡諏訪神社 (2)
狛犬は昭和9年(1934年)の奉納。

富岡諏訪神社 (3)
富岡諏訪神社 (4)
富岡諏訪神社 (5)
社殿は昭和9年(1934年)に改修されている。この昭和9年は昭和天皇御臨席のもと、陸軍大演習が高崎練兵場で行われている。その後天皇は群馬県内を巡行されている。これに合わせての改修のようだ。

富岡諏訪神社 (6)
富岡諏訪神社 (7)
拝殿正面の向拝には精緻な龍と神子、木鼻には獅子・漠などの彫刻が施されている。

富岡諏訪神社 (8)
拝殿に弓矢の奉納額が掲示されているが、文字は薄れて読めない。いつころのものだろうか。

富岡諏訪神社 (9)
富岡諏訪神社 (10)
大国神社、神明宮、琴平神社。3社相殿になっているようだ。神明宮は明治11年(1878年)に伊勢皇大神宮からの勧請。琴平神社は明治2年(1869年)海源寺から遷されている。大国神社は不明。

富岡諏訪神社 (11)
富岡諏訪神社 (12)
社名は不明だが、見事な彫刻が施されている。

ところで、富岡市の中心街の再開発なのか道路整備(拡張)などが進んでおり、国道254号の旧道脇にあった朱色の一の鳥居がなくなっていた。撤去? 移転? 参道もローソンの駐車場になった?

もともと七日市藩前田家の防衛上の観点から既存道路は狭隘だった。254号(旧道)ではクランク状になっているところもあるほどだ。富岡製糸場が世界遺産に登録され、上州富岡駅周辺の回遊性と駅利用者の利便性の向上を図る意味でも、確かに中心街の整備は必要だと思うのでやむを得ないかな。


富岡市蚊沼の飯縄神社。飯縄と書くが読みは「イイヅナ」。

飯綱神社 (1)
飯縄神社は正徳3年(1713年)の創建と伝わる。ご祭神は保食神なので、農耕や穀物の神様。

飯綱神社 (2)
飯綱神社 (3)
鳥居の扁額には「飯縄神社」の他に「羽黒神社」も名前もかかる。鳥居前の燈籠は昭和30年(1955年)と昭和37年(1962年)の奉納。

飯綱神社 (4)
参道は広くはないが、杉木立の中社殿へ向かっていく。

飯綱神社 (5)
飯綱神社 (6)
社殿は昭和31年(1956年)の建立。昭和49年(1974年)に屋根を銅板葺に改築している。社殿前の狛犬は平成8年(1996年)の奉納。

飯綱神社 (7)
お賽銭泥棒が多発しているので、お賽銭は辞退する旨の張り紙。不届き者が多くて困ったものだ。オレも神社などへ行った際には、石碑などの紀年銘を読もうと裏側に回り込んだりするので、怪しまれているのかな。まあ、行動には十分気をつけよう。

飯綱神社 (8)
飯綱神社 (9)
境内社。社名は分からないが、中には2つ木祠が鎮座していた。これが鳥居扁額に併記してある「羽黒神社」かな(確信はない)。羽黒神社に関しては何も分からない。

飯綱神社 (10)
飯綱神社 (11)
飯綱神社 (12)
他にも木祠や石宮(祠)ないくつかあったが、これらも詳細は分からない。


富岡市蚊沼の十二山昌福寺。

昌福寺 (1)
昌福寺は宝永4年(1707年)長存法院の開山とされる。長存は本尊建立のため、享保2年(1717年)まで諸国を巡錫し喜捨(寄付)を集めたという。そうして建立されたのが本尊の延命地蔵尊と伝えられている。

昌福寺 (2)
昌福寺 (3)
山門は昭和51年(1976年)の建立。

昌福寺 (4)
昌福寺 (5)
百番供養塔や石仏・石塔類。

昌福寺 (6)
本堂には本尊の延命地蔵尊を祀る。

昌福寺 (7)
本堂前の伝教大師(最澄)の銅像。

昌福寺 (8)
昌福寺 (9)
十二支別守り本尊。平成18年(2006年)の造立。子年・千手観音菩薩、丑年寅年・虚空蔵菩薩、卯年・文殊菩薩とか。時折見かけるが、お寺の宗派に関係なくあるような気がする。

十二支本尊(八尊仏)の起源は不詳。十二支だけど8仏。これは多分、方位が関係している。東西南北とその間(東南とか西北とか)。だから、例えば方位で東南は辰巳なので辰と巳は同じ本尊。同様に、東北なら丑寅なので丑と寅は同じということ。


富岡市原の古柳観音。

古柳観音 (1)
古柳観音は天平7年(736年)に聖徳太子の御作とされる5尺8寸(約176cm)の聖観音像を安置したことに始まるという。古柳観音との呼び名は、京都東山・三十三間堂の柳を用いていたから伝わる。そうすると聖徳太子とは年代が合わなくなるけどね。

現在のお堂は明治11年(1878年)の建立。

古柳観音 (2)
古柳観音 (3)
聖徳太子御作とされる観音像は火災により焼失。村人がお堂を再建しているところに弘法大師(空海)がやってきて、観音像を彫刻してくれたという。つまり現在の観音像は弘法大師の御作となるようだ。

こういう言い伝えを実年代と照らし合わせると(無粋だが)、聖徳太子の生年は574~622年(他説あり)、弘法大師の東国巡錫816年前後、三十三間堂(蓮華王院本堂)建立1165年。歴史的には国宝級だが。

古柳観音 (5)
ついでにもう一つ伝説を書くと、観音像は一度盗難に遭っている。盗人は観音像を米俵に隠し鏑川の渡し場から舟に乗ったが、中程で舟が動かなくなってしまった。船頭が怪しんで問い詰めると盗人は観音像を盗んだことを認めた。元の岸に戻された盗人はその霊異に驚き、観音像を桑畑に遺棄し逃げ去った。観音像は村人により元のお堂に戻されたという。


富岡市妙義町八木連の足日(たるひ)神社。

足日神社 (1)
足日神社は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

季節的なものだが、入って行くのにちょっと躊躇するような雑草の状態。秋祭り前にはきれいになることだろう。

足日神社 (2)
鳥居横の石宮。内容を確認するすべもない。

足日神社 (3)
急な石段を上ると社殿がある。

足日神社 (4)
足日神社 (5)
山の斜面にへばりつくような感じで社殿は建っている。以前は社殿裏にご神木とされた大杉があったとされる。切り株は6mほどもあり、鬱蒼とした木々のな中に残っているという(現認はできていない)。

足日神社 (6)
猿田毘古命と養蠶(蚕)大神の石塔。 

足日神社 (7)
境内社・末社群。詳細は分からない。

これで丹生金乗が五行信仰に基づき創建したという5社のうち、未訪問だった4社(霜降大明神丹来宇神社松尾神社(現在は八幡宮)・足日神社)をまわることができた。

もう1社は下丹生の丹生神社(「富岡市下丹生・丹生神社」)。


富岡市原の八幡宮。

原八幡宮 (1)
原八幡宮 (2)
原八幡宮の由緒は不詳。明治期に松尾神社を合祀している。松尾神社は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。ご祭神は金山彦上で、金など鉱山の神。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

原八幡宮 (3)
原八幡宮 (4)
鳥居前には庚申塔や百番供養塔、念仏供養塔などが集積されている。並んでいる石造物は神仏混淆だ。

原八幡宮 (5)
燈籠は文政9年(1826年)の奉納。

原八幡宮 (6)
社殿と言うか覆屋(上屋)は建替えのため取り壊されていた。

原八幡宮 (7)
原八幡宮 (8)
原八幡宮 (9)
原八幡宮 (10)
本来なら近くから見ることのできない本殿を見ることができた。小さいながらも立派な彫刻が施されている。

原八幡宮 (11)
ちなみに、こんな感じの覆屋だったようだ。そんなに古そうには見えないけど。建替え後にまた来てみよう。


富岡市原の丹来宇(たらう)神社。

「丹来宇」表記以外に、資料によって「丹来」「丹来生」「丹来守」「丹耒宇」「多来宇」などと記載されている。

丹来宇神社 (1)
丹来宇神社は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

丹来宇神社 (2)
丹来宇神社 (3)
鳥居は平成29年(2017年)の建立。扁額は「丹來宇」となっているが「來」は「来」の旧字体。

丹来宇神社 (4)
丹来宇神社 (5)
社殿は老朽化しているが、なかなか改修もままならないのはどこも同じ。その中で、拝殿の鈴の房だけが、まだ新しかった。房は平成22年(2010年)に新調されているようだ。

丹来宇神社 (6)
社殿脇の石造物は金精さまかな。子宝、安産、縁結び、下の病などの霊験があるとされる。特に子宝(安産)祈願のため、多くの神社に副次的な信仰・崇拝として現在まで残されている。

丹来宇神社 (7)
金精さまの元に、なぜか八幡宮と刻された石もあった。原地区には八幡宮もあるけど、何か関係があるものなのかな。


富岡市上丹生の霜降大明神。

霜降大明神 (1)
霜降大明神は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。鳥居はない。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

霜降大明神 (2)
燈籠は嘉永2年(1849年)の奉納。

霜降大明神 (3)
霜降大明神 (4)
霜降大明神 (5)
社殿は妻入りの縦拝殿(社殿)とも言うべき構造。社殿と言っても覆屋(上屋)だけど。

霜降大明神のご祭神は埴安命で、土の神(土壌の神、肥料の神、農業神など)である。明治初年の調査では「祭神詳ならず」とされ、昭和3年(1928年)刊の「北甘楽郡史」にも「今は頽廃(たいはい)にまかせられて、殆どその形を止めるのみ」と表記されるなど、相当荒廃が進んでいたようだ。

現状を見ると地域の方々が復興に力を注ぎ、維持・管理しているのがよく分かる。


富岡市上丹生の上丹生神社。

上丹生神社 (1)
上丹生神社は元は八幡神社で、その由緒は不詳。現在もご祭神は誉田別尊である。実は「上丹生神社」と書くが読みは「にうじんじゃ」。群馬県神社庁のHPから富岡甘楽支部の神社一覧で確認したが、これで正しいようだ。

上丹生神社 (2)
鳥居は令和4年(2022年)の改修、併せて扁額を新調している。ちなみに扁額は以前から「丹生神社」。

上丹生神社 (3)
上丹生神社 (4)
社殿は平成24年(2012年)の新築建立。境内の整備も行われたようだ。

上丹生神社 (5)
神楽殿も平成24年に改修されている。

上丹生神社 (6)
ぽつんといった感じで蚕影大神の塔碑がある。

上丹生神社 (7)
境内には遊具(雲梯とブランコ)がある。今の子どもたちも、神社で遊ぶのだろうか。

上丹生神社に関して昭和3年(1928年)刊行の「北甘楽郡史」を見ると、社名は「八幡神社」と記されているが、扁額は「丹生神社」となっているとある。既に昭和の初めには「丹生神社」の扁額が掛かっていたようだ(八幡神社なのに)。

「北甘楽郡史」の見立てでは、下丹生地区には丹生神社(創建年は不詳だが、相当の古社)が鎮座しているが、上丹生地区がそれに対抗して上丹生地区の丹生神社という位置づけとしているのではないかとのこと。

いつから社名を八幡神社から「上丹生神社」としたのか分からないが、読みまで「にうじんじゃ」とするのは、相当な対抗意識があるのかな。


富岡市上丹生の丹生山金乗寺。

金乗寺 (1)
金乗寺 (2)
金乗寺は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は日本史上初の関白・藤原基経(藤原北家)の末裔とされる。また文禄年間(1592~96年)僧・天応の開山創建との説もあるようだ(年代がかなり違うが)。

金乗寺 (3)
山門の欄間には彫刻が施されている。縁起の良い鳥と松かな。鳥が何かは分からない。定番の鶴ではないようだが。

金乗寺 (4)
門前の六地蔵。

金乗寺 (5)
金乗寺 (6)
本堂は平成2年(1990年)の新築建立。

金乗寺 (7)
境内の石造五重塔と妙典千巻宝塔。

上丹生地区には「丹生四郎の塚」と称するものがあったという。周囲14m、高さ2.5m程度の円墳で、そこから「丹生之四郎金◯」と刻された方形の石が出土したといわれる(金乗寺蔵)。

金乗は金乗寺の他に5つの神社を創建(勧請)したと伝えられる。霜降大明神(埴安命・土の神)、丹生大明神(罔象女命・水の神)・丹来宇大明神(軻遇槌神・火の神)、松尾大明神(金山彦神・金など鉱山の神)、足日(たるひ)大明神(句々廼馳命・木の神)。これらは五行思想(信仰)にもとづくものと言える。

このうち丹生神社のみ訪問済み。ただ、丹生神社は「日本三代実録」(901年)などに名前が見られるので、少し年代が合わないかもしれない。また、金乗の創建した丹生神社のご祭神は罔象女命とされるが、現在の丹生神社のご祭神は丹生都比賣尊である。この辺の事情は分からない。(「富岡市下丹生・丹生神社」参照)


富岡市妙義町岳の大牛の大通龍さま。
大牛は旧妙義町の地名(大字)だが、現在の住所では岳(大字)になるようだ。

大牛の大通龍さま (1)
大通龍さまは直径約8m・高さ5mの巨岩で、大きな牡牛がうずくまっているような形に見える(らしい)。太古の妙義山噴火により噴出した岩石と思う。厳密には妙義山は複数の山(岳)を合わせた総称だけど。

大牛の大通龍さま (2)
岩上には石宮と燈籠がある。石宮の由緒は不詳だが、大国主命を祀っている。

地元では「大通さま」と呼んでいるようだが、一般的には「大通龍さま」と呼ばれる場合が多い。子授け・安産・下の病にご利益があるとされ、巨石信仰が始まりだと思う。大国主命を祀っていることから転じたのか、最初から子授けなどのために大国主命を祀ったのかは分からないけど。

大国主命が祀られている出雲大社が「縁結び」や「子孫繁栄」などのご利益があるとされるのは、大国主命が多くの女神(6人ともそれ以上とも)との間に180柱(181柱とも)の子どもを為したことから(もちろん諸説あり)。

子どもの欲しい婦人は大通龍さまに願を掛けた後、身体の一部分をこの巨岩に擦りつけると子どもが授かるといわれた。子どもが授かるとお礼参り時に「赤いふんどし」を石宮に奉納する(縛り付ける)のが習わしであった(明治初年までは木製や石製の男根を奉納したという)。

また、この巨岩は「大牛」の地名の元になっているとされる。牛がうずくまっている形をしている巨岩だから「大牛」かと思いきや、大きな石「おおいし」が転じて「大牛」となった説の方が有力だという。


富岡市妙義町諸戸の吾妻神社。

吾妻神社 (1)
諸戸吾妻神社は元は吾妻屋神社といい、金鶏山の中腹の峰に鎮座していた。明治44年(1911年)に現在地に祀られていた波己曽(波古曽)神社を合祀している。その後、昭和26年(1951年)に現在地に遷座し吾妻神社となっている。

元々当地に祀られていた波己曽神社は「妙義の七波己曽」のひとつである諸戸の波己曽神社である。諸戸波己曽神社の創建は天文9年(1540年)とされる。

吾妻神社 (2)
吾妻神社 (3)
鳥居は最近では余り見なくなった木製鳥居。扁額は「吾妻屋神社」。

吾妻神社 (4)
吾妻神社 (5)
社殿前の狛犬は平成15年(2003年)の奉納。氏子の方の91歳記念とあった。

吾妻神社 (6)
吾妻神社 (7)
拝殿は遷座時の建立、本殿は旧吾妻屋神社のもの。

吾妻神社 (8)
社殿裏の大杉。樹高約35m、目通り6m、枝張りは東西24.5m、南北20mで、樹齢は約460年と推定される(平成15年/2003年データ)。逆算すると、諸戸波己曽神社の創建時に植樹されたことになる。

神社(参道)入り口にも同様に大杉が2本あったが、残念ながら樹勢衰え著しく切り倒されている。この3本がご神木だったといわれる。

旧吾妻屋神社のご祭神は弟橘媛で、吾妻屋は「吾嬬者耶(あづまはや)」から来ているとされる。日本武尊が弟橘媛を偲んで言った言葉として伝わるが、吾妻屋神社の旧地の眺望などからも想起されるという。

ちなみに、合祀された諸戸波己曽神社のご祭神は日本武尊である。結果的に吾妻神社のご祭神は良い組み合わせになったと言える。


富岡市妙義町諸戸の霜林山随應寺。

随應寺 (1)
随應寺は慶安2年(1649年)の創建とされる。ただ、それ以前から五香庵と称する草庵があり、それが随應寺になったという。

随應寺 (2)
門前の如意輪観音(二十二夜塔)は弘化5年(1849年)の造立。

随應寺 (3)
山門は明和2年(1765年)年の建立。山門楼上(2階)には不動明王像が祀られている。この不動明王像は当地に住み着いていた一山和尚という行者が、常に背負っていたものという。

この一山和尚は結果的に村から追い出されるような形で出て行くのだが、その際に名主を怨み、呪詛の言葉を残して出て行ったという。その後、名主の家は断絶したといわれる。

随應寺 (4)
山門の石垣は妙義神社の石垣を積んだ余りの石を持ってきて使ったという。けっこう精巧に積まれている。

随應寺 (5)
門前の地蔵像。お地蔵さん自体は新しいが、台座には文化3年(1806年)とあった。

随應寺 (6)
随應寺 (7)
本堂と白壁がきれいな土蔵。いずれも詳細は不明。

随應寺 (8)
随應寺 (9)
境内の観音堂。由緒などは分からない。

随應寺 (10)
墓地入り口のショウヅカノジイサン(右)とバアサンと呼ばれる石像がある。風邪をひいた時に、真綿の帽子を被せると頭痛が治るという。

これは明らかに閻魔大王と奪衣婆である。「ショウヅカノバアサン」は「正塚婆」で、奪衣婆の別名。閻魔大王のことを「ショウヅカノジイサン」とは呼ばないが、奪衣婆とのセットでそう呼ばれるようになったと考えられる。

奪衣婆に関する民間信仰(疫病除けや咳止め、特に子どもの百日咳にご利益がある)が元になっていると考えられる(真綿の帽子を被せるなど)。

随應寺 (11)
本堂裏から裏山にある墓地へ上がるところに「サルに食べ物を与えないでください」との旧妙義町時代の看板があった。確かに野生のサルがいてもおかしくない感じの山あいだけど。

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