上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 富岡市・甘楽郡


富岡市田島の和合神社。

和合神社 (1)
和合神社 (2)
和合神社の由緒は不詳。明治期に旧田島村内の諏訪神社、厳島神社、菅原神社、稲荷神社などを合祀している。ご祭神が伊弉諾神、伊弉冉神なので和合なのかな。

和合神社 (3)
昭和初年には「荒廃見るに堪へず」(昭和3年刊・北甘楽郡史)とあり、現在は小さな木祠のみである。

和合神社 (4)
道祖神と石宮。

和合神社 (5)
和合神社 (6)
和合の銀杏。根回り約11.6m、樹高約28.7m、枝張り東西・南北とも約25m(平成13年:2001年データ)。樹幹は1本ではなく、5本の主幹の集合体という特異な形状をしている。この銀杏は浸食崖(鏑川)上という極めて厳しい生育環境にありながら旺盛に繁殖している。

ぼちぼち良い色合いになっているかと思って訪問したが、まだ少し早かったようだ。


富岡市宮崎の華鶏山桃林寺。

桃林寺 (1)
桃林寺は天正19年(1591年)松平右京太夫家治の開基、開山は下丹生村・永隣寺住職の春慶和尚である。松平家治は奥平信昌の次男で、徳川家康の養子となったため松平姓を与えられている。

家治の母(信昌の正室)は徳川家康の長女・亀姫であり、その血筋から養子に求められたと考えられている。家治は天正8年(1579年)生まれで、8歳の時に養子になったが天正20年(1592年)に13歳で亡くなっている。

天正19年に家治は12歳のため、実質的には桃林寺は父である信昌の開基と考えられる。信昌が宮崎に3万石を得たのは天正18年なので。

桃林寺 (2)
桃林寺 (3)
門前の石仏・石塔と六地蔵。

桃林寺 (4)
桃林寺は再三火災に遭っており、古記録などは焼失している。本堂前の燈籠は平成15年(2003年)の奉納。

桃林寺 (5)
本堂前の宝篋印塔。開基・松平家治の墓と伝えられている。寛政2年(1790年)に小幡藩主・松平忠福が建立したとされる。没年と年代的にズレがあるが、墓碑を新たに建立したのか供養塔として建立したのかは不明。

松平忠福は奥平松平家(家治の末弟・忠明が、家治の死後に家康の養子となり松平を名乗っている)の忠尚系と呼ばれる家系。

家治の墓に関しては、昭和3年(1928年)刊の「北甘楽郡史」には「遺骸はなしと伝わる」とあるが、寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である「重修家譜」には「家治を桃林寺に葬る」とある。真偽はいかに?


富岡市曽木の神明宮。

曽木神明宮 (1)
曽木神明宮の由緒は不詳。伝わるところでは、伊勢神宮の大宮司政所職の橘朝臣秀葽が授けた「黄色の座玉」を祀ったのが始まりとされる。

式年遷宮の際に取り壊された古宮の高欄の「五色の座玉」のひとつみたいだ。橘秀葽の家に秘蔵されていたもの。秀葽が当地に下向してきた際に、曽木村の人々の神を敬う気持ちの篤さから授けたといわれる。ただ、秀葽がいつ頃の年代の人なのかは分からない。

曽木神明宮 (2)
鳥居横の大燈籠は大正10年(1921年)の奉納。

曽木神明宮 (5)
社殿前の狛犬は昭和42年(1967年)の奉納。

曽木神明宮 (3)
曽木神明宮 (4)
社殿は元禄16年(1703年)、天明3年(1783年)に再建に記録が残る。現在の拝殿は明治2年(1869年)の建立。本殿は昭和61年(1986年)に改修されている。

曽木神明宮 (6)
曽木神明宮 (7)
境内社。八幡宮、春日神社、琴平神社、阿夫利神社など。

曽木神明宮 (9)
従軍記念碑。昭和41年(1965年)の建碑。従軍記念とあるが、日清戦争以降の戦没者慰霊碑。


富岡市富岡の大虎山栖雲寺。

栖雲寺 (1)
栖雲寺 (2)
栖雲寺は寛永4年(1627年)長翁全孫和尚の開山。山門の扁額は「古叢林」(こそうりん)。歴史の古い(長い)大きな禅宗の寺院といった意味。

栖雲寺 (3)
門前の「御虎石」。虎御前が建てたという供養塔。享徳元年(1452年)に古崖聖来という者が当地から発掘したとされる。栖雲寺の創建以前よりあることになる。この御虎石が山号の大虎山の由来となっている。それにしても大きい。

虎御前とは鎌倉時代初期の遊女。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成の妾とされる。「吾妻鏡」にも登場することから、実在の女性と考えられている。日本各地に虎御前の伝承と結び付けられた石が存在する(大磯町、足柄峠、大分市など)。

*資料によっては「虎御石」と表記されているものもあり。

栖雲寺 (4)
門前の六地蔵。昭和38年(1963年)の造立。

栖雲寺 (5)
栖雲寺 (6)
本堂の建立年は分からないが、昭和28年(1953年)に瓦葺きに改修している。

栖雲寺 (7)
栖雲寺 (8)
梵鐘は天明2年(1782年)の鋳造だが先の大戦中に供出。現在の梵鐘は再鋳造。半鐘は寛延2年(1749年)鋳造で、供出を免れ消防団詰め所の警報用として使用されていた(現在も使用されているかは不明)。

栖雲寺 (9)
栖雲寺 (10)
境内の薬師堂。薬師如来像の由緒は明らかではないが、栖雲寺開創以前から当地に祀られていたとされる。お堂は平成11年(1999年)の再建。

栖雲寺 (11)
栖雲寺 (12)
薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩の三尊。ちょっとイメージが違うほどの金ピカ。弘安4年(1281年)作との説もあるようだが。別物かな。

栖雲寺 (13)
観音菩薩像の地下が合祀墓(霊廟)になっている。檀家の方が平成19年(2007年)の造営している。

栖雲寺 (14)
江戸期に当地を領していた旗本・筧源左衛門保寿の墓。栖雲寺に多くの寄進をしており、中興開基とされている。筧氏や源左衛門保寿のことはよく分からないが、保寿は寛政元年(1789年)に没しているようだ。

栖雲寺 (15)
保寿の母親の墓。保寿が安永2年(1773年)に建立したとの銘がある。

栖雲寺には筧氏が奉納したという金銅製の聖観音像(約15cm)が寺宝となっている。唐の代宗皇帝が光明皇后に贈ったものだという。こんなすごい物を、なぜ江戸時代の旗本が持っていた? 事実なら国宝級だね。


富岡市富岡の諏訪神社。

富岡諏訪神社 (1)
富岡諏訪神社は信濃国の諏訪大社より分霊を勧請し、宮崎村(現、富岡市宮崎)に創建(創建年などは不詳)。おそらくは西上州が武田信玄の支配下になった永禄9年(1566年)から天正10年(1582年)の武田氏滅亡あたりまでではないかな。

慶長17年(1612年)宮崎村(現、富岡市宮崎)から現在地に遷座している。鳥居は明治39年(1906年)の建立。

富岡諏訪神社 (2)
狛犬は昭和9年(1934年)の奉納。

富岡諏訪神社 (3)
富岡諏訪神社 (4)
富岡諏訪神社 (5)
社殿は昭和9年(1934年)に改修されている。この昭和9年は昭和天皇御臨席のもと、陸軍大演習が高崎練兵場で行われている。その後天皇は群馬県内を巡行されている。これに合わせての改修のようだ。

富岡諏訪神社 (6)
富岡諏訪神社 (7)
拝殿正面の向拝には精緻な龍と神子、木鼻には獅子・漠などの彫刻が施されている。

富岡諏訪神社 (8)
拝殿に弓矢の奉納額が掲示されているが、文字は薄れて読めない。いつころのものだろうか。

富岡諏訪神社 (9)
富岡諏訪神社 (10)
大国神社、神明宮、琴平神社。3社相殿になっているようだ。神明宮は明治11年(1878年)に伊勢皇大神宮からの勧請。琴平神社は明治2年(1869年)海源寺から遷されている。大国神社は不明。

富岡諏訪神社 (11)
富岡諏訪神社 (12)
社名は不明だが、見事な彫刻が施されている。

ところで、富岡市の中心街の再開発なのか道路整備(拡張)などが進んでおり、国道254号の旧道脇にあった朱色の一の鳥居がなくなっていた。撤去? 移転? 参道もローソンの駐車場になった?

もともと七日市藩前田家の防衛上の観点から既存道路は狭隘だった。254号(旧道)ではクランク状になっているところもあるほどだ。富岡製糸場が世界遺産に登録され、上州富岡駅周辺の回遊性と駅利用者の利便性の向上を図る意味でも、確かに中心街の整備は必要だと思うのでやむを得ないかな。


富岡市蚊沼の飯縄神社。飯縄と書くが読みは「イイヅナ」。

飯綱神社 (1)
飯縄神社は正徳3年(1713年)の創建と伝わる。ご祭神は保食神なので、農耕や穀物の神様。

飯綱神社 (2)
飯綱神社 (3)
鳥居の扁額には「飯縄神社」の他に「羽黒神社」も名前もかかる。鳥居前の燈籠は昭和30年(1955年)と昭和37年(1962年)の奉納。

飯綱神社 (4)
参道は広くはないが、杉木立の中社殿へ向かっていく。

飯綱神社 (5)
飯綱神社 (6)
社殿は昭和31年(1956年)の建立。昭和49年(1974年)に屋根を銅板葺に改築している。社殿前の狛犬は平成8年(1996年)の奉納。

飯綱神社 (7)
お賽銭泥棒が多発しているので、お賽銭は辞退する旨の張り紙。不届き者が多くて困ったものだ。オレも神社などへ行った際には、石碑などの紀年銘を読もうと裏側に回り込んだりするので、怪しまれているのかな。まあ、行動には十分気をつけよう。

飯綱神社 (8)
飯綱神社 (9)
境内社。社名は分からないが、中には2つ木祠が鎮座していた。これが鳥居扁額に併記してある「羽黒神社」かな(確信はない)。羽黒神社に関しては何も分からない。

飯綱神社 (10)
飯綱神社 (11)
飯綱神社 (12)
他にも木祠や石宮(祠)ないくつかあったが、これらも詳細は分からない。


富岡市蚊沼の十二山昌福寺。

昌福寺 (1)
昌福寺は宝永4年(1707年)長存法院の開山とされる。長存は本尊建立のため、享保2年(1717年)まで諸国を巡錫し喜捨(寄付)を集めたという。そうして建立されたのが本尊の延命地蔵尊と伝えられている。

昌福寺 (2)
昌福寺 (3)
山門は昭和51年(1976年)の建立。

昌福寺 (4)
昌福寺 (5)
百番供養塔や石仏・石塔類。

昌福寺 (6)
本堂には本尊の延命地蔵尊を祀る。

昌福寺 (7)
本堂前の伝教大師(最澄)の銅像。

昌福寺 (8)
昌福寺 (9)
十二支別守り本尊。平成18年(2006年)の造立。子年・千手観音菩薩、丑年寅年・虚空蔵菩薩、卯年・文殊菩薩とか。時折見かけるが、お寺の宗派に関係なくあるような気がする。

十二支本尊(八尊仏)の起源は不詳。十二支だけど8仏。これは多分、方位が関係している。東西南北とその間(東南とか西北とか)。だから、例えば方位で東南は辰巳なので辰と巳は同じ本尊。同様に、東北なら丑寅なので丑と寅は同じということ。


富岡市原の古柳観音。

古柳観音 (1)
古柳観音は天平7年(736年)に聖徳太子の御作とされる5尺8寸(約176cm)の聖観音像を安置したことに始まるという。古柳観音との呼び名は、京都東山・三十三間堂の柳を用いていたから伝わる。そうすると聖徳太子とは年代が合わなくなるけどね。

現在のお堂は明治11年(1878年)の建立。

古柳観音 (2)
古柳観音 (3)
聖徳太子御作とされる観音像は火災により焼失。村人がお堂を再建しているところに弘法大師(空海)がやってきて、観音像を彫刻してくれたという。つまり現在の観音像は弘法大師の御作となるようだ。

こういう言い伝えを実年代と照らし合わせると(無粋だが)、聖徳太子の生年は574~622年(他説あり)、弘法大師の東国巡錫816年前後、三十三間堂(蓮華王院本堂)建立1165年。歴史的には国宝級だが。

古柳観音 (5)
ついでにもう一つ伝説を書くと、観音像は一度盗難に遭っている。盗人は観音像を米俵に隠し鏑川の渡し場から舟に乗ったが、中程で舟が動かなくなってしまった。船頭が怪しんで問い詰めると盗人は観音像を盗んだことを認めた。元の岸に戻された盗人はその霊異に驚き、観音像を桑畑に遺棄し逃げ去った。観音像は村人により元のお堂に戻されたという。


富岡市妙義町八木連の足日(たるひ)神社。

足日神社 (1)
足日神社は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

季節的なものだが、入って行くのにちょっと躊躇するような雑草の状態。秋祭り前にはきれいになることだろう。

足日神社 (2)
鳥居横の石宮。内容を確認するすべもない。

足日神社 (3)
急な石段を上ると社殿がある。

足日神社 (4)
足日神社 (5)
山の斜面にへばりつくような感じで社殿は建っている。以前は社殿裏にご神木とされた大杉があったとされる。切り株は6mほどもあり、鬱蒼とした木々のな中に残っているという(現認はできていない)。

足日神社 (6)
猿田毘古命と養蠶(蚕)大神の石塔。 

足日神社 (7)
境内社・末社群。詳細は分からない。

これで丹生金乗が五行信仰に基づき創建したという5社のうち、未訪問だった4社(霜降大明神丹来宇神社松尾神社(現在は八幡宮)・足日神社)をまわることができた。

もう1社は下丹生の丹生神社(「富岡市下丹生・丹生神社」)。


富岡市原の八幡宮。

原八幡宮 (1)
原八幡宮 (2)
原八幡宮の由緒は不詳。明治期に松尾神社を合祀している。松尾神社は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。ご祭神は金山彦上で、金など鉱山の神。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

原八幡宮 (3)
原八幡宮 (4)
鳥居前には庚申塔や百番供養塔、念仏供養塔などが集積されている。並んでいる石造物は神仏混淆だ。

原八幡宮 (5)
燈籠は文政9年(1826年)の奉納。

原八幡宮 (6)
社殿と言うか覆屋(上屋)は建替えのため取り壊されていた。

原八幡宮 (7)
原八幡宮 (8)
原八幡宮 (9)
原八幡宮 (10)
本来なら近くから見ることのできない本殿を見ることができた。小さいながらも立派な彫刻が施されている。

原八幡宮 (11)
ちなみに、こんな感じの覆屋だったようだ。そんなに古そうには見えないけど。建替え後にまた来てみよう。


富岡市原の丹来宇(たらう)神社。

「丹来宇」表記以外に、資料によって「丹来」「丹来生」「丹来守」「丹耒宇」「多来宇」などと記載されている。

丹来宇神社 (1)
丹来宇神社は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

丹来宇神社 (2)
丹来宇神社 (3)
鳥居は平成29年(2017年)の建立。扁額は「丹來宇」となっているが「來」は「来」の旧字体。

丹来宇神社 (4)
丹来宇神社 (5)
社殿は老朽化しているが、なかなか改修もままならないのはどこも同じ。その中で、拝殿の鈴の房だけが、まだ新しかった。房は平成22年(2010年)に新調されているようだ。

丹来宇神社 (6)
社殿脇の石造物は金精さまかな。子宝、安産、縁結び、下の病などの霊験があるとされる。特に子宝(安産)祈願のため、多くの神社に副次的な信仰・崇拝として現在まで残されている。

丹来宇神社 (7)
金精さまの元に、なぜか八幡宮と刻された石もあった。原地区には八幡宮もあるけど、何か関係があるものなのかな。


富岡市上丹生の霜降大明神。

霜降大明神 (1)
霜降大明神は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は5つの神社を創建(勧請)したとされるが、そのうちの1社である。鳥居はない。
(「富岡市上丹生・丹生山金乗寺」参照)

霜降大明神 (2)
燈籠は嘉永2年(1849年)の奉納。

霜降大明神 (3)
霜降大明神 (4)
霜降大明神 (5)
社殿は妻入りの縦拝殿(社殿)とも言うべき構造。社殿と言っても覆屋(上屋)だけど。

霜降大明神のご祭神は埴安命で、土の神(土壌の神、肥料の神、農業神など)である。明治初年の調査では「祭神詳ならず」とされ、昭和3年(1928年)刊の「北甘楽郡史」にも「今は頽廃(たいはい)にまかせられて、殆どその形を止めるのみ」と表記されるなど、相当荒廃が進んでいたようだ。

現状を見ると地域の方々が復興に力を注ぎ、維持・管理しているのがよく分かる。


富岡市上丹生の上丹生神社。

上丹生神社 (1)
上丹生神社は元は八幡神社で、その由緒は不詳。現在もご祭神は誉田別尊である。実は「上丹生神社」と書くが読みは「にうじんじゃ」。群馬県神社庁のHPから富岡甘楽支部の神社一覧で確認したが、これで正しいようだ。

上丹生神社 (2)
鳥居は令和4年(2022年)の改修、併せて扁額を新調している。ちなみに扁額は以前から「丹生神社」。

上丹生神社 (3)
上丹生神社 (4)
社殿は平成24年(2012年)の新築建立。境内の整備も行われたようだ。

上丹生神社 (5)
神楽殿も平成24年に改修されている。

上丹生神社 (6)
ぽつんといった感じで蚕影大神の塔碑がある。

上丹生神社 (7)
境内には遊具(雲梯とブランコ)がある。今の子どもたちも、神社で遊ぶのだろうか。

上丹生神社に関して昭和3年(1928年)刊行の「北甘楽郡史」を見ると、社名は「八幡神社」と記されているが、扁額は「丹生神社」となっているとある。既に昭和の初めには「丹生神社」の扁額が掛かっていたようだ(八幡神社なのに)。

「北甘楽郡史」の見立てでは、下丹生地区には丹生神社(創建年は不詳だが、相当の古社)が鎮座しているが、上丹生地区がそれに対抗して上丹生地区の丹生神社という位置づけとしているのではないかとのこと。

いつから社名を八幡神社から「上丹生神社」としたのか分からないが、読みまで「にうじんじゃ」とするのは、相当な対抗意識があるのかな。


富岡市上丹生の丹生山金乗寺。

金乗寺 (1)
金乗寺 (2)
金乗寺は保元2年(1157年)に当地へ移住してきた丹生四郎金乗の創建と伝わる。金乗は日本史上初の関白・藤原基経(藤原北家)の末裔とされる。また文禄年間(1592~96年)僧・天応の開山創建との説もあるようだ(年代がかなり違うが)。

金乗寺 (3)
山門の欄間には彫刻が施されている。縁起の良い鳥と松かな。鳥が何かは分からない。定番の鶴ではないようだが。

金乗寺 (4)
門前の六地蔵。

金乗寺 (5)
金乗寺 (6)
本堂は平成2年(1990年)の新築建立。

金乗寺 (7)
境内の石造五重塔と妙典千巻宝塔。

上丹生地区には「丹生四郎の塚」と称するものがあったという。周囲14m、高さ2.5m程度の円墳で、そこから「丹生之四郎金◯」と刻された方形の石が出土したといわれる(金乗寺蔵)。

金乗は金乗寺の他に5つの神社を創建(勧請)したと伝えられる。霜降大明神(埴安命・土の神)、丹生大明神(罔象女命・水の神)・丹来宇大明神(軻遇槌神・火の神)、松尾大明神(金山彦神・金など鉱山の神)、足日(たるひ)大明神(句々廼馳命・木の神)。これらは五行思想(信仰)にもとづくものと言える。

このうち丹生神社のみ訪問済み。ただ、丹生神社は「日本三代実録」(901年)などに名前が見られるので、少し年代が合わないかもしれない。また、金乗の創建した丹生神社のご祭神は罔象女命とされるが、現在の丹生神社のご祭神は丹生都比賣尊である。この辺の事情は分からない。(「富岡市下丹生・丹生神社」参照)


富岡市妙義町岳の大牛の大通龍さま。
大牛は旧妙義町の地名(大字)だが、現在の住所では岳(大字)になるようだ。

大牛の大通龍さま (1)
大通龍さまは直径約8m・高さ5mの巨岩で、大きな牡牛がうずくまっているような形に見える(らしい)。太古の妙義山噴火により噴出した岩石と思う。厳密には妙義山は複数の山(岳)を合わせた総称だけど。

大牛の大通龍さま (2)
岩上には石宮と燈籠がある。石宮の由緒は不詳だが、大国主命を祀っている。

地元では「大通さま」と呼んでいるようだが、一般的には「大通龍さま」と呼ばれる場合が多い。子授け・安産・下の病にご利益があるとされ、巨石信仰が始まりだと思う。大国主命を祀っていることから転じたのか、最初から子授けなどのために大国主命を祀ったのかは分からないけど。

大国主命が祀られている出雲大社が「縁結び」や「子孫繁栄」などのご利益があるとされるのは、大国主命が多くの女神(6人ともそれ以上とも)との間に180柱(181柱とも)の子どもを為したことから(もちろん諸説あり)。

子どもの欲しい婦人は大通龍さまに願を掛けた後、身体の一部分をこの巨岩に擦りつけると子どもが授かるといわれた。子どもが授かるとお礼参り時に「赤いふんどし」を石宮に奉納する(縛り付ける)のが習わしであった(明治初年までは木製や石製の男根を奉納したという)。

また、この巨岩は「大牛」の地名の元になっているとされる。牛がうずくまっている形をしている巨岩だから「大牛」かと思いきや、大きな石「おおいし」が転じて「大牛」となった説の方が有力だという。


富岡市妙義町諸戸の吾妻神社。

吾妻神社 (1)
諸戸吾妻神社は元は吾妻屋神社といい、金鶏山の中腹の峰に鎮座していた。明治44年(1911年)に現在地に祀られていた波己曽(波古曽)神社を合祀している。その後、昭和26年(1951年)に現在地に遷座し吾妻神社となっている。

元々当地に祀られていた波己曽神社は「妙義の七波己曽」のひとつである諸戸の波己曽神社である。諸戸波己曽神社の創建は天文9年(1540年)とされる。

吾妻神社 (2)
吾妻神社 (3)
鳥居は最近では余り見なくなった木製鳥居。扁額は「吾妻屋神社」。

吾妻神社 (4)
吾妻神社 (5)
社殿前の狛犬は平成15年(2003年)の奉納。氏子の方の91歳記念とあった。

吾妻神社 (6)
吾妻神社 (7)
拝殿は遷座時の建立、本殿は旧吾妻屋神社のもの。

吾妻神社 (8)
社殿裏の大杉。樹高約35m、目通り6m、枝張りは東西24.5m、南北20mで、樹齢は約460年と推定される(平成15年/2003年データ)。逆算すると、諸戸波己曽神社の創建時に植樹されたことになる。

神社(参道)入り口にも同様に大杉が2本あったが、残念ながら樹勢衰え著しく切り倒されている。この3本がご神木だったといわれる。

旧吾妻屋神社のご祭神は弟橘媛で、吾妻屋は「吾嬬者耶(あづまはや)」から来ているとされる。日本武尊が弟橘媛を偲んで言った言葉として伝わるが、吾妻屋神社の旧地の眺望などからも想起されるという。

ちなみに、合祀された諸戸波己曽神社のご祭神は日本武尊である。結果的に吾妻神社のご祭神は良い組み合わせになったと言える。


富岡市妙義町諸戸の霜林山随應寺。

随應寺 (1)
随應寺は慶安2年(1649年)の創建とされる。ただ、それ以前から五香庵と称する草庵があり、それが随應寺になったという。

随應寺 (2)
門前の如意輪観音(二十二夜塔)は弘化5年(1849年)の造立。

随應寺 (3)
山門は明和2年(1765年)年の建立。山門楼上(2階)には不動明王像が祀られている。この不動明王像は当地に住み着いていた一山和尚という行者が、常に背負っていたものという。

この一山和尚は結果的に村から追い出されるような形で出て行くのだが、その際に名主を怨み、呪詛の言葉を残して出て行ったという。その後、名主の家は断絶したといわれる。

随應寺 (4)
山門の石垣は妙義神社の石垣を積んだ余りの石を持ってきて使ったという。けっこう精巧に積まれている。

随應寺 (5)
門前の地蔵像。お地蔵さん自体は新しいが、台座には文化3年(1806年)とあった。

随應寺 (6)
随應寺 (7)
本堂と白壁がきれいな土蔵。いずれも詳細は不明。

随應寺 (8)
随應寺 (9)
境内の観音堂。由緒などは分からない。

随應寺 (10)
墓地入り口のショウヅカノジイサン(右)とバアサンと呼ばれる石像がある。風邪をひいた時に、真綿の帽子を被せると頭痛が治るという。

これは明らかに閻魔大王と奪衣婆である。「ショウヅカノバアサン」は「正塚婆」で、奪衣婆の別名。閻魔大王のことを「ショウヅカノジイサン」とは呼ばないが、奪衣婆とのセットでそう呼ばれるようになったと考えられる。

奪衣婆に関する民間信仰(疫病除けや咳止め、特に子どもの百日咳にご利益がある)が元になっていると考えられる(真綿の帽子を被せるなど)。

随應寺 (11)
本堂裏から裏山にある墓地へ上がるところに「サルに食べ物を与えないでください」との旧妙義町時代の看板があった。確かに野生のサルがいてもおかしくない感じの山あいだけど。


富岡市妙義町行沢の北向観音。

行沢北向観音 (1)
行沢北向観音 (2)
北向き観音の由緒は不詳。厄除け観音として知られる。お堂は「八棟造りの屋根でないと燃えてしまう」と言い伝えられているが、現在のお堂は方形(四角)である。

ちなみに八棟造りとは、複雑な形状に配置された棟を多数配置し、それぞれの棟に破風を備えた豪奢な屋根を重ねて配置する建築様式。「八」は「多数」の意味。神社や江戸期の豪華な民家(豪農など)に多く用いられた形式。費用がかさむので、いつの頃からか方形のお堂を建立したのだと思う。

行沢北向観音 (3)
堂内には浮き彫りの石仏が3体安置されている。中央が本尊の観音さま。他の2体は風化もしており、よく分からない。


行沢北向観音 (4)
観音さまには文政6年(1823年)の銘が大きく書かれている。墨を入れているのかな。

昔、地区で草競馬をしていたころ(明治期あたりかな)は、この観音さまをモッコに入れて4~5人でかついで運び、競馬場に立てておくとケガがないといわれた。


富岡市妙義町行沢の波己曽神社。波古曽とも。

波己曽神社 (1)
行沢波己曽神社の由緒は不詳。古くから「妙義の七波己曽」と呼ばれる内の一社とされる。七波己曽の一社である妙義波己曽神社(現、妙義神社)の創建が宣化天皇2年(537年)といわれるので、他の波己曽神社も長い歴史を持つと考えられる。

波己曽神社 (2)
波己曽神社 (3)
鳥居は文化10年(1813年)の建立。扁額は「波己曽神社」。

波己曽神社 (4)
ここは地元で「天神山」と呼ばれる丘陵だが、社殿へは急な石段を上る。この石段が大きさ(厚さや足場になっている部分の寸法)がバラバラで、しかもちょっと波打っている。その上先の書いたように急なため、かなり怖い。数多くの神社仏閣や遺跡などに行ってきたが、相当怖い部類に入る石段だ。

波己曽神社 (5)
慎重に上って行く。

波己曽神社 (6)
波己曽神社 (7)
波己曽神社 (8)
社殿の扁額は「破胡曽大明神」。いろいろな表記があるようだ。

波己曽神社 (9)
石宮の詳細は分からない。

波己曽神社 (10)
最後にまた書くが、上りより下りの方が倍以上怖い。

行沢波己曽神社は「妙義の七波己曽」のうち現在も残されている貴重な一社である。妙義(妙義神社の元社。現在は妙義神社の境内社)・行沢のみ現存。その他、菅原と諸戸は他社に合祀され、残りの3社は所在自体が不明とされる。ただ、波己曽神社じたいは妙義山麓の各地区に祀られていた(大牛・日影・八城など)。


富岡市妙義町八木連の弘法大師の爪引き地蔵。

弘法大師の爪引き地蔵 (1)
その昔、弘法大師が正法寺に滞在していた時、この像を爪で描いたと伝えられている。厳密には、当時正法寺はまだ創建されていないので、その前身である草庵でのことになる。正法寺の由緒からすると、弘仁7年(816年)のことになる。

弘法大師の爪引き地蔵 (2)
高さ136cm、幅74cmの安山岩自然石に、像高98cm、肩幅51cmの地蔵像を線彫りしたもの。

弘法大師の爪引き地蔵 (3)
富岡市の解説板によると、こんな感じの地蔵像が描かれているらしい。実物ではほとんど分からない。

この地蔵像は、現在地から東側にある小川の石橋として使用されていたといわれる。橋を通行するの際に、馬が倒れたり躓くことが多かったので村人が不思議に思って調べたところ、地蔵菩薩が彫られていたので当地に祀ったという。

弘法大師の爪引き地蔵 (4)
爪引き地蔵の前にある碑は「行人塚」とされる。昔、当地へ来た僧がここへ生きたまま埋めてもらい、錫杖の音がしなくなったら往生したと思ってくれと言い残して入定した場所とされる。

関連
 「富岡市妙義町八木連・弘法の井戸
 「富岡市妙義町八木連・龍池山正法寺


富岡市妙義町八木連の龍池山正法寺。

正法寺 (1)
正法寺は弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が諸国教化の際、この地に滞在し小庵を営んだの始まりとされる。弘法大師が当地を去るにあたり、自らの坐像を彫刻し村人に与えたので、これを本尊として一宇を建立したという。

後の元和元年(1615年)に小幡が織田信雄に与えられると、信雄は本尊に武運長久の祈願を込め堂宇を改築。実際の小幡藩主は信雄4男・信良だが、信良が開基となり寺号を龍池山正法寺としたという。以後、織田氏の祈願所となっている。

正法寺 (2)
正法寺 (3)
本堂などは明治14年(1881年)火災により焼失。同15年に再建されている。

正法寺 (4)
瓦には「正」の文字が見える。

正法寺 (5)
境内の宝塔と石仏。どちらも紀年銘などは読めず。

正法寺の裏山は山号にもなっている龍池山というが、弘法大師が松の杖を逆さに刺しておいたものが成長した松の木があったという。それは大変な巨木となり、熊谷からも見えたといわれる(現在はない)。

関連 
 「富岡市妙義町八木連・弘法の井戸


富岡市妙義町八木連の弘法の井戸

弘法の井戸 (1)
弘法の井戸は、その名通り弘法大師(空海)が見つけた水源。と言うか湧き出させた井戸といわれる。

弘法の井戸 (2)
弘法の井戸 (3)
大久保地区(昔の小字)は昔から水に苦しんでいた。あるとき弘法大師がやって来て、村人が水に難儀しているのを見て持っていた杖をついて水源のありかを示した。するとこんこんと水が湧き出した。そしてその水が涸れないように、金の独鈷を埋めたといわれる。

実際の場所はこの水場から100mほど離れたところだそうだ。

弘法の井戸 (4)
弘法の井戸 (5)
平成11年(1999年)に現在の形に整備されている。

昭和25年(1950年)の水道敷設に伴い水源を広げる工事をしたところ、石の下から独鈷が出てきた。金ではなかったが言い伝え通りだと人々は喜んで、再びもとのように納めて(埋めて)いる。

昭和46年(1971年)の群馬県史跡調査では、独鈷の形状から鎌倉時代のものと推定されるようなことが説明板に書いてあった。弘法大師とは多少時代が合わないが、何がしかの謂れがありそうだ。

弘法の井戸 (6)
弘法の井戸に並んで弘法池(別名弁天池)がある。弘法井戸の余り水を入れている。どんなに汲みだしても枯れることはないのでいくら汲んでもいいが、足を入れて洗ったり汚れたものを洗うとか、中に入ることは禁じられていた。

弘法の井戸 (7)
池には鯉が泳いでいるが、この鯉は弘法大師に願を掛けた人が「おがんしょばたし」に納めた(供えた)ものなので、捕って食べれば目が潰れるといわれている。

「おがんしょばたし」とは、願を掛け(おがんしょがけ)それが成就した際にお供えをしてお参りをすること(お礼参り)。まあ、弘法大師へのお供えなので、捕って食うなと言うことだね。


甘楽郡甘楽町小幡のこんにゃくパークの2回目。
(1回目は「甘楽町小幡・こんにゃくパーク」参照)

こんにゃくパーク (1)
一番奥が入口になっている。入ると受付があり、人数と訪問回数(初回かどうか)を回答すると、無料バイキングチケットがもらえる。

こんにゃくパーク (2)
順路に従い2Fに上がると、撮影エリアがある。

こんにゃくパーク (3)
その横から工場見学ルートに入る。

こんにゃくパーク (4)
こんにゃくパーク (5)
こんにゃくパーク (6)
パネルでこんにゃく関連の説明を見ながら、製造ラインを窓から見ることができる。こんにゃくゼリーのライン。

こんにゃくパーク (7)
板こんにゃくの製造ライン、最後の検品・箱詰めかな。

こんにゃくパーク (8)
製造ラインを一通り見学後、1Fに降りお土産コーナーをぶらつく。

こんにゃくパーク (9)
こんにゃくゼリーやこんにゃくプリンなど、いろんな物が入れられる「詰め放題」。500円ってあったかな。

その他、お土産コーナーの商品を適当に紹介。

こんにゃくパーク (10)
こんにゃく入り餃子。「プルプル」らしい。

こんにゃくパーク (11)
こんにゃくそばやこんにゃくうどん。こんにゃくラーメンもあった。

こんにゃくパーク (12)
おつまみ類。こんにゃくがどのように入っているのだろう?

こんにゃくパーク (13)
カステラやクッキーなど。さすがにこんにゃくは入ってないのかな。良く見てこなかった。

こんにゃくパーク (14)
地酒。

こんにゃくパーク (15)
こんにゃく焼酎。

こんにゃくパーク (16)
こんにゃくゼリー。りんご味やみかん味。

こんにゃくパーク (17)
こんにゃくパークのマスコットキャラ「たまこんちゃん」グッズ。「たまこんちゃん」は玉こんにゃくから来ている。

こんにゃくパーク (18)
無料こんにゃくバイキング。様々なアレンジのこんにゃく料理が味わえる。こんにゃく寒天ゼリーを使ったスイーツバイキングコーナーもある。

しかしオレは食事後に行ったので、バイキングを食していない。まあ、元々行く予定ではなかったので。次回行くことがあったら、空腹状態で行こう。

こんにゃくパーク (19)
こんにゃくパーク (20)
こんにゃくパーク (21)
これはこんにゃくパークHPなどから拝借。美味しそうだ。

ただし新型コロナの状況によっては、営業時間の短縮や中止もあるようなので、事前の確認が必要だ。


甘楽郡甘楽町小幡のこんにゃくパーク。

こんにゃくパーク (1)
こんにゃくパークはヨコオデイリーフーズが運営する、日本の伝統食材「こんにゃく」のテーマパーク。平成26年(2014年)4月のオープン。こんにゃくの美味しさと文化を体験できる施設づくりをしているとのこと。

「たてヨコオいしい!」がコンセプト。これは「こんにゃく」はタテ・ヨコ・丸・三角など、様々な形・多様な料理をしても美味しいことをヨコオデイリーフーズが繋ぐという思いを込めているらしい(分かりづらい理念だ)。

前身は平成23年(2011年)6月にオープンした「こんにゃく博物館」。それを発展・拡大させたのが「こんにゃくパーク」になる。
(こんにゃく博物館は「甘楽町小幡・こんにゃく博物館」参照)

こんにゃくパーク (2)
パーク内は南国風なアレンジがされている。コテージ風(東屋と言った方がいいかな)で休憩できる。

こんにゃくパーク (3)
ストレッチができる器具(腰や背筋を伸ばせる)がある。長いドライブをして家族を連れてきたお父さんのためかな。

こんにゃくパーク (4)
こんにゃくパーク (5)
足湯が5つある。「アジアンストーン風呂」「サンセットリゾート風呂」などの名称がついているが、お湯(水)は同じ。名水100選にも選ばれている雄川堰の地下水汲み上げている。

こんにゃくパーク (6)
こんにゃくパーク (7)
こんにゃくパーク (8)
運玉神社。こんにゃくを祀っているのかな。こんにゃくは栽培が難しかった(病気に弱い)ので、運が良くなければ収穫できない植物だということから「運玉」と呼ばれていた。

こんにゃくパーク (9)
ミニ観覧車「りとるふらわぁ」。ネーミングは公募で決まっている。

こんにゃくパーク (10)
定番の顔はめパネル。

こんにゃくパーク (11)
こんにゃくパーク (12)
クレーンを操作してボールをすくうゲームやバイクゲーム。

こんにゃくパーク (13)
パーク内の隅の方にあった休憩用のイス(白いもの)と動物のオブジェ。動物は分かりづらいがイヌ・ゾウ・ひつじかな。

こんにゃくパーク (14)
なかなか中に入らなくて申し訳ないが、フーズマーケット(野菜の直売所)に入ってみる。

こんにゃくパーク (15)
こんにゃくパーク (16)
群馬県産のイチゴ(やよいひめ)やタマネギ、下仁田ネギなど、多くの野菜が並んでいた。ジャガイモ(鹿児島県産)やメロン(茨城県産)などの他県のものも。値段は安いと感じたが、詳しくないので細かいところは分からない。

長くなったので、施設内は(工場ゾーンとお土産ゾーンなど)は次回。


甘楽郡甘楽町金井のめんたいパーク群馬。

めんたいパーク (1)
めんたいパーク群馬は明太子の老舗「かねふく」(本社・福岡市)が運営する明太子専門のテーマパーク(正確には「かねふく」の関連会社である「かねふくめんたいパーク」の運営)。今年(2022年)の4月9日にプレオープン、4月21日にグランドオープンしている。

めんたいパーク (2)
建屋には明太子をイメージしていると思うわれるマスコットキャラクターが乗っている。ただオレにはお蚕に見える。

めんたいパーク (3)
建屋に乗っているのは「タラピヨ」(右)。メガネをかけているのは「タラコン博士」。

めんたいパーク (4)
めんたいパーク (5)
館内の直売店。やはりメインは明太子。贈答用の立派なものから、「切子」と呼ばれる製造工程で形が崩れたり破れてしまった明太子まで。

めんたいパーク (6)
いわし明太、さば明太、紅さけ明太、イカ明太、明太子ラー油、明太子マヨネーズ、明太子入ソーセージ、めんたいシューマイなど、様々な明太子関連食品が並んでいる。

めんたいパーク (7)
からし明太子とたらこの切子、明太シューマイ(写真なし)を買ってきた。

品数があるとは言え、売り場スペースは広くはない(はっきり言えば狭い)。やはり明太子とその関連商品のみだからしょうがないけど。

めんたいパーク (8)
フードコーナー。めんたいパークならではの「めんたい丼」「明太子おにぎり」「明太ぶたまん」「明太ソフトクリーム」などが食べられる(当然のことだが有料)。

めんたいパーク (9)
「つぶつぶランド」と名付けられた見学ギャラリーエリア。氷川きよしのパネルがあるが、かねふくのCMに出ているらしい。群馬(関東エリア)で流れている?

めんたいパーク (10)
多くの鏡でトリックアート的になっている空間。

めんたいパーク (11)
「明太子の親は誰だ?」「スケソウダラの成長をさぐれ!」など、パネル展示で明太子やスケソウダラの知識が学べる。

めんたいパーク (12)
ボールが金属製の音板の上を転がり落ちる際にメロディを奏でる「メロディコースター」。その他、いくつか遊具(ゲーム?)が置いてある。

めんたいパーク (13)
めんたいパーク (14)
製造工程の一部が見られる工場見学エリア。

めんたいパーク (15)
めんたいパーク (16)
めんたいパーク (17)
「タラピヨ」「タラコン博士」のぬいぐるみやストラップなども、しっかり売っている。

めんたいパーク (18)
めんたいパーク (19)
2Fはキッズランド。ブロック遊びやスライダー(滑り台)、ボルタリングなどができる。

やっぱり直売店がメインだと思う。いろんな明太子関連食品があるので、明太子好きにはいいかもね。また、子どもが遊べるスペースも広いので家族で行けるのもいいところかな。


甘楽郡下仁田町上小坂の中之嶽大国神社。
前回の中之嶽神社の境内社。(中之嶽神社は「日本一の大黒様・中之嶽神社」参照)

中之嶽大国神社 (1)
中之嶽大国神社 (2)
中之嶽大国神社は弘仁9年(818年)藤原冬嗣と弘法大師(空海)が登嶽し、大国主命を祀ったの始まりといわれる。

藤原北家で当時大納言(後に左大臣、死後に太政大臣が贈られた)の冬嗣と、弘仁7年(816年)朝廷から高野山を賜り、当時は金剛峯寺の開創に着手していた空海が、そろって上野国くんだりまで来るとは思えないけどね。

中之嶽大国神社 (3)
中之嶽大国神社 (4)
中之嶽大国神社 (5)
社殿は明治以降の建立(詳細不明)。

中之嶽大国神社 (6)
中之嶽大国神社 (7)
狛犬などの代わりに大黒天が2体。上の写真はは小槌をもつ大黒様、下は剣をもつ大黒様。

中之嶽大国神社 (8)
中之嶽大国神社 (9)
大黒様のご利益で「縁結び」「縁切り」を願う「願い玉」が多数奉納されている。縁切り願いもけっこうあるんだね。

中之嶽大国神社 (10)
中之嶽神社の象徴になっている「日本一の大黒様」。高さ20m、重さ8.5トン。平成17年(2005年)の建造。中之嶽大国神社氏子・崇敬者、甲子講中の方々の奉納。

中之嶽大国神社 (11)
中之嶽大国神社 (12)
中之嶽神社・大国神社には甲子講中からの寄進物が目につく。江戸時代中頃から、大黒天の縁日が甲子(きのえね)の日であることから、甲子講が盛んになった。

中之嶽大国神社では年6回「甲子(きのえね)祭」を行っている。甲子は「気が栄える」と言い、大黒様のご利益を最大限に受け運気が高まる日とされる。

最近では、この「甲子」が「甲子園」と結びつき、野球の神様としても人気になっている。甲子園球場も甲子の年に完成したので甲子園と名付けられた。「野球お守」「野球絵馬」「願いバット」などの授与品の他、必勝祈願お祓いなどを受けに来るチームも多い。

実は宮司さんのご子息は、前橋育英が甲子園で優勝したときのレギュラーメンバー。そんなこともあり、ご利益が大きいのがよく分かる(笑)。


甘楽郡下仁田町上小坂の中之嶽神社。

中之嶽神社 (1)
中之嶽神社 (2)
中之嶽神社は欽明天皇の御代(539~71年)に妙形氏が創建したといわれる(公式サイトより)。妙形氏について分からないが、なんとなく「妙義」を思い浮かばせる。

北甘楽郡郷土誌(大正6年:1917年)には白鳳2年(674年)の創建とある(天皇で言うと天武天皇)。日本武尊が東征のおり山中に住む賊を成敗し、また弟橘姫を偲び追想の情を発したのを見て、村人が武尊大神と称し社宇を建立したといわれる。

寿永2年(1183年)には藤原祐胤が宝剣を献納している。剣は現存し、神宝となっている。

元和2年(1616年)、北条氏家臣であった加藤長清(妙義山の岩穴に長く住んでいたといわれる)が、神殿・社殿を再築し金洞山巌高寺という巨刹を創建している。この際、弘仁9年(818年)創建の大国神社(大黒天)を前宮、武尊大神を奥宮と位置づけた。

その後、幕末に山火事により被災。そのまま明治維新・神仏分離を経て、中之嶽神社、境内社の大国神社の関係になっている。公式サイトを見ると現在も、大国神社を「前宮」・中之嶽神社を「奥宮」としている。

中之嶽神社 (3)
中之嶽神社の象徴になっている「日本一の大黒様」。高さ20m、重さ8.5トン。平成17年(2005年)の建造。一般的に大黒様は小槌をもっているが、この大黒様は剣を持っている。不動明王と大黒様が融合したもの説、中之嶽神社の神宝が剣だから説などがある。

ただ厳密に言えば、境内社である大国神社(ご祭神は大黒天)に由来するものである。奉納者も大国神社氏子・崇敬者、甲子講中の方々。(中之嶽大国神社については別途書くよ)

中之嶽神社 (4)
中之嶽神社 (5)
社務所やお土産物店を過ぎると二ノ鳥居。公式サイトでは「中之嶽大国神社」の鳥居となっているが、扁額は中之嶽神社となっている。「前宮」「奥宮」の関係だから区別してないのかな。

中之嶽神社 (6)
中之嶽神社 (7)
ご神橋。下の沢(?)に水は流れていなかった。

中之嶽神社 (8)
中之嶽神社 (9)
社殿はこの急な石段の上。頑張って登ろう。

中之嶽神社 (10)
社殿までもう少し。後ろに見えるのは轟岩。

中之嶽神社 (11)
中之嶽神社 (12)
中之嶽神社 (13)
拝殿の建立年などは分からないが、先に書いた由緒から明治以降と思われる。拝殿後ろの「轟岩」をご神体としているので、拝殿のみとなっている。また、轟岩の下部にめり込む形になっている。

中之嶽神社 (14)
加藤長清の碑(長清道士の碑)。高橋道斎が厳高寺・慈海和尚の依頼を受け、安永7年(1778年)に撰文・建碑したもの。

長清は由緒にも書いたように巌高寺を創建した人物。妙義山中で剣の道に励んだ後、仏道を修行、晩年には仙人のような生活から不死の法(長生の法)を修め、148歳まで生きたといわれる。

まあ不躾な言い方をすれば、山中から出てこないんだから、生死も分からなかったんだと思う。気がついたと時の計算で148歳ってことかな。

ついでに、高橋道斎は下仁田出身の漢学者・俳人・書家。上野三碑のひとつである多胡碑(高崎市吉井町)の歴史的・書的価値を見出し広く世に紹介し、現在に至る多胡碑研究の起点となった人。(「高橋道斎の墓・五大山常住寺」参照)

中之嶽神社 (15)
長清の碑は、長清の墓の側石碑とされる。近くに長清のお墓があるのかなと思い探してみたら、写真の石祠があったが、未確認だし自信もない。

中之嶽神社 (16)
中之嶽神社 (17)
下仁田町側から見える金洞山(1094m)は別名中之嶽と呼ばれる。中之嶽神社の名はそこから来ている。拝殿から先に進めば妙義山の登山道に入る。第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩などの岩石群は、日本屈指の山岳美とされている。


富岡市藤木の西小野神社。

西小野神社 (1)
西小野神社 (2)
西小野神社の由緒は不明。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

西小野神社 (3)
西小野神社 (4)
石段を登り、さらに一段高いところに、こぢんまりとした社殿が建っている。扁額は「白山」。

西小野神社 (5)
本殿前の箱(?)にも「白山大権現」の文字が見える。

大正6年(1917年)刊行の「北甘楽郡郷土誌」の小野村の項に白山神社の名が見られ、「大字藤木村字小浜にあり菊理姫命を祀る」と記載されている。

以上から推察するに、年代不明だが加賀国の白山比咩神社の分霊(菊理姫命、白山比咩神と同一神とされる)を勧請し、白山神社として創建。明治以降、村内の他社を合祀した際に、西小野神社と改称ってところかな。


富岡市大島の北向観音。
大島北向観音は、大島地区西端の山腹に位置し「厄除け観音」とも呼ばれている。

大島北向き観音 (1)
大島北向き観音 (2)
いきなり「ケガ・事故については一切の責任は負いません」との案内板。多少ビビりながら坂道を登って行く。

大島北向き観音 (3)
確かにけっこう急な坂道。でも、そんなに歩くことなくお堂に到着する。

大島北向き観音 (4)
北向観音は弘仁5年(814年)弘法大師が東国を行脚した際、信州小県郡で桂の神木から3体の観音像を彫刻し、下野国・信州別所・大島にそれぞれ安置したのが始まりと伝わる。後の平安時代末、源頼義がお堂を建てたとも伝わる。頼義は八幡太郎義家の父。前九年の役、後三年の役などの道中で、頼義は上野国内に多くの足跡を残している。

大島北向き観音 (5)
大島北向き観音 (6)
大島北向き観音 (7)
大島北向き観音 (8)
現在のお堂がいつ建立されたかは不明だが、極彩のお堂となっている。海老虹梁が龍の透かし彫りになっているなど、全体的の精巧な彫刻が施されている。

大島北向き観音 (9)
大島北向き観音 (10)
お堂から少し下って、崖縁の狭い通路を行くと奥の院がある。奥の院は崖の窪地なのか、崖をくり抜いたのか分からないが、地上約20mの崖にめり込むように建っている。

大島北向き観音 (11)
毎年1月第2日曜日の例祭の日は、さきほどの通路から参拝者が崖下へ厄除けとして銭などを投げ、崖下では地域の子ども達がそれを拾う。そして家に帰る前に使うというのが慣わし。この銭投げの風習は、江戸時代初めころから行われており、約400年の歴史がある。

大島北向き観音 (12)
崖下から見るとこんな感じ。上から落ちてくる小銭を見つけるのも大変なような気がしないでもないし、万一当たったら痛そう。

大島北向き観音 (13)
奥の院からは貫前神社の鳥居が見える。

大島北向き観音 (14)
大島北向き観音 (15)
お堂の裏山側へさらに登って行くと上信越自動車道に行き着く。

大島北向観音は厄除けの他、安産・交通安全・家内安全・学業授受など、広く御利益があるといわれており、近郷のみならず遠方からの参拝者も多い。


富岡市大島の鎮火神社。

鎮火神社 (1)
鎮火神社 (2)
明治42年(1909年)に高瀬村各地区の17社を合祀し高瀬神社とした際に、大島地区の若宮八幡神社なども合祀された。大正9年(1920年)に空宮となった若宮八幡神社の社殿を鎮火神社に移し、さらに大島地区内の8社を合祀している。

鎮火神社は大島地区のほぼ中央に位置することから、地区の氏神さまとして地域の崇拝を受けるとともに、高瀬神社の遙拝所の役割も果たしている。遙拝所は離れたところから神仏などを拝む場所のこと。

関連
 「富岡市中高瀬・高瀬神社

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