上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 安中市


安中市安中の熊野神社。

安中熊野神社 (1)
当地には諏訪神社と三島神社が祀られており、野後郷の鎮守であった。永禄2年(1559年)に安中忠政(重繁とも)が越後国新発田から熊野権現を勧請、安中城(野後から安中に改称)の鬼門守護とした。明治40年(1907年)八坂神社、神明宮、菅原神社、稲荷神社、浅間神社などを合祀している。

神門は安中城の東門を移築したとされる。築城時の門だとすると、460年以上経っていることになる。ちなみに、安中城の廃城は天正18年(1590年)。

安中熊野神社 (2)
安中熊野神社 (3)
鳥居は平成11年(1999年)の建立。

安中熊野神社 (4)
安中熊野神社 (5)
安中熊野神社 (6)
安中熊野神社 (7)
拝殿は向拝に向唐破風を出しており、欄間には透かし彫りの板羽目を入れ、頭貫の木鼻は唐獅子とかご彫り菊の葉を交互に出している。虹梁頭貫の彫刻は精悍な龍。建立年などは不明だが、彫刻類の技法は江戸時代のものとされる。ただ、着色(復元?)は最近のことのようだ。賛否ありそうだが。

安中熊野神社 (8)
拝殿内の大絵馬は狩野永秀知信の筆で、文久2年(1862年)の安中宿の人々の奉納。皇女和宮の江戸下向の無事を祈願したもの。

安中熊野神社 (9)
拝殿内の釣灯籠は青銅製。嘉永7年(1854年)安中藩主・板倉勝明が五穀豊穣を祈願し奉納したもの。

安中熊野神社 (10)
もうひとつある大絵馬は日本武尊かな(想像だが)。だとすると隣の女性は弟橘媛?

安中熊野神社 (11)
安中熊野神社 (12)
安中熊野神社 (13)
本殿の板羽目(7面)には鶴や鳳凰を中心に樹木をあしらい、霞のような雲を配した透かし彫りの彫刻が施されている。室町期の技法とされる。

安中熊野神社 (14)
境内社の諏訪神社。熊野神社以前から祀られていた一社。

安中熊野神社 (15)
安中熊野神社 (16)
境内の大ケヤキ。樹身の三分の二が崩れ落ち、残る三分の一が東北に傾いてしまっているので鉄柱で支えている。この木に願をかけるとイボを取る霊験があるといわれた。諏訪神社のご神木といわれ、樹齢は約1,000年という。

安中熊野神社 (17)
安中熊野神社 (18)
鳥居手前のお堂。中もよく見えず不明なのだが、三猿の彫刻が施されているので、庚申関係のものかな。

なお、碓氷峠の長野県との県境(安中市松井田町峠)にある熊野神社でとは別社です。一応、念のため。


安中市板鼻の鷹巣神社。

鷹巣神社 (1)
鷹巣神社は元は金比羅宮で、その由緒は不詳。当地は鷹之巣山と言い、鷹之巣城址の一部になる。鷹之巣城は板鼻城とも言い、天正18年(1590年)に廃城となっているので、金比羅宮が勧請されたのはその後と考えられる。写真は鷹之巣橋から鷹之巣山方面を撮ったもの。

明治42年(1909年)に愛宕神社、八坂神社、神明宮、稲荷神社、取勝明神などを合祀し鷹巣神社と改称している。昭和3年(1928年)に山頂から愛宕神社跡地(現在地)へ遷っている。

鷹巣神社 (2)
県道171号(旧国道18号の一部)沿いの急坂を登って行く。1枚目の写真の右下、白く見えるのが登っていく急坂の防護柵(ガードレール)。

鷹巣神社 (3)
途中の竹林は雰囲気も良いが、この先どうなるのかちょっと不安になる。

鷹巣神社 (4)
竹林の中から、また急坂を登る。やっと神門が見えてきた。

鷹巣神社 (5)
鷹巣神社 (6)
神門の先は笹林のようになってしまっており、先に進める状況ではない。

鷹巣神社 (7)
神門脇に石宮があり、鷹巣神社との社号標がある。社号標の裏に平成5年(1993年)に旧社殿が老朽化したため石宮を建立したと刻まれていた。左の灯籠には天保4年(1834年)の銘があった。

慶長年間(1596~1615年)には別当寺である鷹巣寺2世・祐尊が境内を整備。その後は前橋藩主・酒井雅楽頭家の祈願所となり、板鼻宿の発展と共に鷹巣神社も栄えという。時代は下って、昭和39年(1964年)刊の安中市誌にも「老松が立ち並ぶ山門から、少し離れて鳥居、御社殿がある」と書かれている。

現在、神門の先はどうなっているのだろうか?

鷹巣神社 (8)
安中市鷺宮の咲前神社の境内社にも鷹巣神社がある。鷹巣神社が咲前神社境内に遷座したわけではないようだが、位置づけは分からない。

ところで、明治42年に合祀された取勝明神のご祭神は伊勢三郎義盛である。義盛は源義経四天王のひとりとして有名。諸説あるが、平泉へ向かう途中の義経が、安中で宿泊した宿の息子ともいわれる。

その最期も、義経一行と離散し鈴鹿山へ逃亡、文治2年(1186年)に斬首されたとする説や、最後まで義経と運命をともにし文治5年(1189年)平泉で討ち死にしたとの説もある。

安中市の伊勢三郎義盛関連
 「伊勢義盛の墓?・冨光山常楽寺
 「伊勢三郎義盛伝説・遠丸石

*鷹巣は「鷹之巣」と書くようになったらしい。地図では「鷹之巣山」「鷹之巣橋」と表記されている。鷹巣神社も「鷹之巣神社」と表記されているが、記事では「鷹巣神社」を使用した。


安中市松井田町小日向の日枝神社。

小日向日枝神社 (1)
小日向日枝神社の由緒は不詳。

小日向日枝神社 (2)
小日向日枝神社 (3)
一の鳥居からしばらく参道(一般道)を進むと、朱色の二の鳥居が見えてくる。二の鳥居は平成24年(2012年)に修復されている。

小日向日枝神社 (4)
小日向日枝神社 (5)
石段を上ると境内。狛犬は平成11年(1999年)の奉納。

小日向日枝神社 (6)
燈籠は明治期の奉納。紀年銘の一部が読めず。明治◯2年で、◯部は廿(二十)か卅(三十)だと思うが。後ろに見えるのは割拝殿だと思うが、現在は社務所として使っているようだ。

小日向日枝神社 (7)
小日向日枝神社 (8)
小日向日枝神社 (9)
拝殿は鮮やかな朱色に彩らされている。

小日向日枝神社 (10)
小日向日枝神社 (11)
小日向日枝神社 (12)
境内社の琴平神社、稲荷神社、菅原神社(上から)。いずれも明治初年に日枝神社に遷されている。みな立派な鳥居が建っている。旧社地から移転したのだろうか。他に諏訪神社、秋葉神社、八坂神社などもがある。

小日向日枝神社 (13)
小日向日枝神社 (14)
小日向日枝神社 (15)
同じく境内社の「大通龍大権現」。下の病に御利益があるとされる地域での信仰が元になっているお社。上野(小字)に祀られていたが、他の境内社と同じく明治初年に日枝神社に遷されている。

祀られた経緯(由緒)には、やはり下に関する悲しいような、ちょっと微妙な逸話が残されているようだが、ここでは省く。

小日向日枝神社 (16)
立派な木祠(本殿)の手前に石製や木製の男根をかたどった造形物が並んでいる(ちょっと分かりづらい写真で申し訳ないが)。願を掛け病が治ったらお礼参り時に木や石で男根を作り奉納するのが習わし。


安中市松井田町下増田の義人・潮藤左衛門の墓。

義人・潮藤左衛門 (1)
潮家墓地の潮藤左衛門と奥方の墓。

元禄15年(1702年)に安中に移封された内藤丹波守政森は、新田開発を行いながら重税(年貢・課役)を強いたため領民の不満は大きかった。享保(1716~36年)のころには浅間山の噴火や天候不順による凶作が続き、農民の窮状は過酷を極めた。

享保12年(1727年)には領内21ヶ村の名主・組頭が藩に対して幾度となく年貢課役減免の要請を行った(安中藩での百姓一揆、年貢減免運動などと呼ばれる)。藩は一部譲歩したが、下増田下村名主・潮藤左衛門は納得せず、江戸に向かい幕府への直訴の機をうかがっていた。

しかし安中藩御用の捕り手に捕縛されてしまった(直訴未遂)。そして享保13年(1728年)6月29日、増田川河原にて打ち首に処せられた(妻子も同罪とされた)。

藤左衛門夫妻の墓が建てられたのは、処刑から42年後の明和7年(1770年)のことである。寛延2年(1749年)に内藤家が安中から三河挙母に移封されたことも大きな要因だと考えられる。

義人・潮藤左衛門 (2)
義人・潮藤左衛門 (3)
潮家墓地から100mほど増田川の方へ向かうと、地域の方々が建立した藤左衛門の「義人 潮藤左衛門散華の地」碑がある。平成15年(2023年)の建立。

義人・潮藤左衛門 (4)
顕彰碑には、時代背景やことの顛末などが記されている。

義人・潮藤左衛門 (5)
現在の増田川。当時とは川の流れも変っているだろうが、今も静かに流れている。

藤左衛門処刑後、安中藩はこれに続く人物の出ることを恐れ、その行動を口にすることを禁止するとともに、その記録(文書)を焼き捨てたとされる。そのため藤左衛門に関する記録は断片的にしか残っていない。


安中市松井田町下増田の磯貝雲峰の碑。

磯貝雲峰の碑 (1)
詩人・磯貝雲峰は慶応元年(1865年)旧九十九村下増田(現、安中市松井田町下増田)に生まれる。本名は内田由太郎。後に母方の実家(磯貝家)の養子となる。幼少より勉学を志し同志社大に学び、在学中に文学に目覚める。筆名の雲峰は妙義山の白雲山からつけたといわれる。

「女学雑誌」「国民之友」などに詩歌、訳詩、小説、評論を発表。明治28年(1895年)に渡米。帰国後も中央文壇で活躍したが、明治30年(1897年)32歳で死去。代表作は「知盛卿」。

磯貝雲峰の碑 (2)
昭和15年(1940年)にラジオ番組で雲峰の業績が取上げられ、これを聴いた甥で海軍大佐の内田一太郎が徳富蘇峰(徳冨蘆花の兄)に撰文を依頼し生家近くに建碑したもの。昭和16年(1941年)のこと。

碑は表側に雲峰の業績など、裏側には詩文が記されている。また、この碑石は松井田城の銘石「亀石」と呼ばれたものといわれる。

磯貝雲峰の碑 (3)
碑の脇に立っている案内板。碑は安中市(旧松井田町)の重要文化財になっているので、その解説が書かれているのかと思ったら、「碑を大切にしましょう」的なことが書かれた注意書きだった(苦笑)。

まあ、確かに「文化財は大切にしましょう」だけどね。

関連
 「詩人 磯貝雲峰の墓・慶光山自性寺


安中市松井田町下増田の貴船山増国寺。

増国寺 (1)
元亨2年(1322年)法印慶弘の開山で天神坊覚性寺として創建。後に貴船山満昌寺と改称。寛政6年(1794年)火災のため堂宇並びに古記録を焼失。そのため中興(寺号改称)の経緯などは不明。

明治40年(1907年)国衙村の自性寺と合併、増国寺と号している。これは下増田村の「増」と国衙村の「国」から取っている(合併時は既に町村制が施行され、両村は九十九村になっていたが)。

増国寺 (2)
増国寺 (3)
石段の両脇には石仏・石塔類が並んでいる。

増国寺 (4)
本堂などは明治43年(1910年)ころ火災により焼失。昭和6年(1931年)に再建されている。昭和54年(1979年)に銅板葺き屋根に改修している。

増国寺 (5)
境内の六地蔵。

増国寺 (6)
増国寺 (7)
青面金剛塔・庚申塔や宝塔。庚申塔類は寛政(1789~1801年)、文化(1804~18年)の造立が多い。


安中市松井田町下増田の津雲神社。

津雲神社 (1)
津雲神社 (2)
津雲神社は元は菅原神社で、その創建は元禄7年(1694年)とされる。明治40年(1907年)に大字国衛の朝日神社とその境内末社2社を合祀し、津雲神社と改称している。

津雲神社 (3)
燈籠は崩壊していた。

津雲神社 (4)
津雲神社 (5)
津雲神社 (6)
明治時代(菅原神社の時)に火災で焼失している。現在の社殿の建立年などは分からない。

津雲神社 (7)
元菅原神社(ご祭神・菅原道真)だけあって、絵馬やおみくじが結ばれている。絵馬には人物が描かれているが、菅原道真だろうか。

津雲神社 (8)
津雲神社 (9)
津雲神社 (10)
北側(北東かな)にも鳥居があり、こちら側からだと急な石段を上っていくことになる。実はこちらから上って行った。

ところで、明治40年に合祀された朝日神社のご祭神は木曽義仲である。義仲は津雲神社のご祭神(相殿)でもある。群馬県内には木曽義仲や父の木曽義賢の事蹟や伝説が多数残されているが、旧松井田町との繋がりはどのようなものだろうか? 領地として納めていたのか、落ち武者伝説的なものなのか。ちょっと興味がある。


安中市松井田町上増田の八坂神社。

上増田八坂神社 (1)
上増田八坂神社 (2)
上増田八坂神社は寛文4年(1664年)の創建と伝わる。明治10年(1877年)に村内の大山祇神社、諏訪神社、浅間神社、神明宮などを合祀、大正8年(1919年)にも熊野神社、愛宕神社、白山神社などを合祀している。

上増田八坂神社 (3)
急な石段を上っていく。

上増田八坂神社 (4)
割拝殿のように見えるが、実は神楽殿。正面から写真を撮るのを忘れた。手前の燈籠は享和元年(1801年)の奉納。

上増田八坂神社 (5)
拝殿へは更に上る。

上増田八坂神社 (6)
上増田八坂神社 (7)
社殿は昭和4年(1929年)に火災で焼失、翌5年(1930年)に再建されている。

上増田八坂神社には獅子舞(三国判官流)が伝承されている。一人が一体を担当する一人立ち獅子を特徴とし、三体の獅子と狐のオトウカが登場する。上増田の獅子舞は清楚で優雅だといわれる。


安中市松井田町新井の弥陀山西見寺。

西見寺 (1)
西見寺は応永23年(1416年)慶覚法印の開山と伝わる。慶長10年(1605年)宥観法印が再建、延宝3年(1675年)弁海法印が中興したという。最近では、昭和63年(1988年)に遷移化滅(遷化)した快応和尚を中興としているようだ。

西見寺 (2)
山門前参道の六地蔵石幢。塔身には三猿も陽刻されている。残念ながら、かなり風化が進んでいる。

西見寺 (3)
同じく参道の馬頭観音塔・庚申塔・二十三夜塔(左から)。

西見寺 (4)
本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。本堂は昭和61年(1986年)に改修されている。

西見寺 (5)
立派な宝塔。安永6年(1777年)の造立。

西見寺 (6)
西見寺 (7)
西見寺 (8)
聖観音を祀る観音堂。西見寺は上野国観音霊場第15番札所になっている。県内(近県含む)の観音霊場は複数あり、「上野国観音霊場」が正式名称かは分からない。


安中市松井田町新井の諏訪神社。

新井諏訪神社 (1)
新井諏訪神社 (2)
新井諏訪神社は享保元年(1716年)の創建とされる。他説では元亀2年(1571年)武井豊後守が信濃・諏訪大社から勧請したという。武井豊後守は武田家家臣と考えられるが、詳細は分からない。

新井諏訪神社 (3)
急な石段を上っていく。

新井諏訪神社 (4)
境内の燈籠は明治2年(1869年)の奉納。

新井諏訪神社 (5)
社殿は昭和33年(1958年)の建立。

新井諏訪神社 (7)
神楽殿は昭和59年(1984年)の改修。写真は事情(逆光など)により裏側から。神楽殿というよりも舞台と言った方がしっくりくる造り。旧松井田町は多くの地区で獅子舞が伝承されており、新井地区にも「鷹盛東岸慶雲流」の獅子舞が伝わる。秋の例祭時に神楽殿で披露される。

新井諏訪神社 (8)
「三十六童子・八大童子」の碑があった。三十六童子、八大童子とも不動明王の眷属。その名を唱えれば悪霊は退散し、崇拝する者を守護し長寿をもたらすとされている。この碑自体をほとんど見かけることはないが、いずれにせよ仏教系の信仰なので神仏混淆時代の名残となる。


安中市松井田町土塩の三室山乾窓寺。

乾窓寺 (1)
乾窓寺は延徳2年(1490年)長源寺(安中市上後閑)11世秀堂大逸和尚の開山、茂木春貞の開基と伝わる。開基の茂木春貞は鎌倉時代に下野国茂木郷の地頭職であった茂木知基の一族・末裔と考えられるが、詳細は分からない。

乾窓寺 (2)
乾窓寺 (3)
石段を上ると山門がある。また、その脇には石塔類が並ぶ。

乾窓寺 (4)
その先に大きな八脚門(山門)。この八脚門は安中市の重文に指定されているようだが、解説板の類いはなかった。

乾窓寺 (5)
扁額は「僧伽藍摩」。僧伽藍摩とは寺院の建物など、寺院全体を表す言葉。「伽藍」と同義語と考えていいと思う。裏側に文化元年(1804年)十三世秦晏山僧との銘がある。

乾窓寺 (6)
本堂には本尊である釈迦如来を祀るが、建立年などの詳細は分からない。

乾窓寺 (8)
境内のキンモクセイ。樹高10m、枝張り9m、根廻2m。

乾窓寺 (9)
風外慧薫の顕彰碑。風外慧薫は江戸時代の名僧にて芸術家。風外は4歳の時、乾窓寺に預けられ小僧となる。その後、長源寺や雙林寺で修業し、諸国行脚の雲水となる(禅宗では行雲流水という句から、修行者を雲水と呼ぶ)。

諸国行脚の途次、求められるままに描いた書画は、後にその芸術的価値が高く評価されている。承応3年(1654年)浜名湖畔の金指郷にて自ら土中に入り入寂。


安中市松井田町高梨子の碓村神社。

碓村神社 (1)
碓村神社の創建年などは不詳であるが、一説に弘長2年(1262年)北条時頼の臣・青砥左衛門藤綱が小屋城を築いた際に、水利が悪かったため神社を祀り水を求めたといわれる。

小屋城は松井田城の別名として知られるが、現在の松井田城は複数の年代にわたり築城された郭の集合体のため、この小屋城が松井田城というわけではない。

碓村神社 (2)
社殿前の燈籠は天保4年(1834年)の奉納。

碓村神社 (3)
碓村神社 (4)
社殿の建立年などは不明。

碓村神社 (5)
社殿裏に境内社などがまとめられている。ただ中を見た限りでは空のようだが。記録では絹笠神社、菅原神社、秋葉神社、神明宮の4社の境内社がある。

碓村神社 (6)
社殿の左側に建物があったが、社務所なのだろうか。ちょっと草が生い茂っていて近寄らなかったので詳細は分からないが。

碓村神社のご祭神は八重事代主命と弥都波能売神である。弥都波能売神は水の神であるので由緒からも分かる。しかし八重事代主命はどういう経緯で祀られているのだろうか。八重事代主命は中世のころから恵比須様とされるようになったからかな。

恵比須様は海神・漁業神で、釣り竿と鯛を持つ姿で描かれるのは有名だ。まあ、水と言うより海つながりだが(八重事代主命は国譲り神話では釣りをしていたとされる)。


安中市松井田町高梨子の瑞雲山長松寺。

長松寺 (1)
長松寺は正保元年(1644年)畳嶂和尚の開山とされる。また古書の一説によると、寺は正保元年以前からあったが、天正18年(1590年)の松井田城落城の兵火により焼失したとも言われる。

長松寺 (2)
境内の六地蔵。平成10(1998年)年の造立。

長松寺 (3)
長松寺 (4)
長松寺 (5)
本堂は一段高くなっているのだが、手前の木と裏の木々に覆い隠されているような感じになっている。趣きがあるとも言えるが、無住ゆえに手入れが行き届いていないと言った方がいいか。

長松寺 (6)
白壁の土蔵がある。あまりお寺で蔵を見ることは少ない。

長松寺 (7)
長松寺 (8)
本堂とつながっている建物。庫裡だろうか。2階建ての立派な建物だが、かなり老朽化が進み荒れているという表現の方がいいくらいの状態。窓のガラスは割れてなくなっている。

長松寺 (9)
物置と思われる建物。いまにも潰れそうだ。大丈夫か・・・。


安中市松井田町行田・福寿庵跡。

福寿庵 (1)
福寿庵の由緒は不詳。弘法大師を本尊とする真言宗の寺院(庵)であった。廃寺となった年代や経緯なども不明。

福寿庵 (2)
福寿庵 (3)
石段脇に石塔群が並んでいる。庚申塔や青面金剛塔、巡礼供養塔。大乗妙典日本巡国碑など。寛保2年(1742年)、宝暦12年(1762年)、文化13年(1816年)など、江戸中期以降の造立が多い。

福寿庵 (4)
旧本堂だろうか。

福寿庵 (5)
弘法堂と呼ばれたお堂があるとのことなので、これだろうか。

福寿庵 (6)
お堂の前に狛犬が鎮座している。神域・浄域を守護する聖獣なので、仏教系の施設にあってもおかしくはない。最初は仏教とともに伝来したともいわれる。とは言え、狛犬と言えば神社というのが定番ではある。

福寿庵 (7)
大日如来坐像や如意輪観音像。

福寿庵 (8)
境内の経堂には大般若経六百巻が収められている。九州生まれの僧・玄碩(げんせき)が天保4年(1834年)から同9年(1839年)までに書き上げたもの。玄碩は天保2年(1832年)板鼻宿の聞名寺に弟子入りしたが、後に行田住民に請われ弘法堂に移り住んでいる。六百巻の書写を成就すると大往生したという。

大般若経六百巻は安中市の重文に指定されている。


安中市松井田町行田の気佐石(けさいし)神社。

気佐石神社 (1)
気佐石神社は明和3年(1766年)の創建と伝わる。明治42年(1909年)に八坂神社、白山神社などを合祀している。

気佐石神社 (2)
社殿は一段高くなっている。

気佐石神社 (3)
気佐石神社 (4)
気佐石神社 (5)
拝殿は向拝柱とヌキを朱色にすることで、鳥居のように見せる技巧を使っている(偶然ではなく意図的だと思うが)。

気佐石神社 (7)
扁額は「袈裟石大権現」。昔は「袈裟石」という字を当てていたのかな。

気佐石神社 (6)
手作りの社号標。

気佐石神社 (8)
境内社・末社。稲荷神社、大山祗神社、菅原神社、疱瘡神社。どれがどれかは分からない。

気佐石神社 (9)
神社の背後にそびえる妙義山。妙義神社の奥の院あたりになる。

気佐石神社 (10)
「大」の文字が見えるが、妙義神社の奥の院あたりになる。いつの頃からあるのかは知らないが、この「大」を遥拝すれば妙義神社奥の院に参拝したのと同等の御利益があるとされる(諸説あり)。

「大」は妙義山の登山道にあり、岩場に鎖が付けられているようなところを登って行かないと着かない。


安中市松井田町八城の先倉山吉祥寺。

吉祥寺 (1)
吉祥寺は正保2年(1645年)祐覚法印の開創。すぐ隣の先倉神社の別当寺として先倉山の山号を持つ。文政8年(1825年)に火災により焼失、翌年再建されている。

吉祥寺 (2)
吉祥寺 (3)
本堂は無住のためか老朽化が著しい。中の様子はうかがい知れないが、ご本尊(千手観音)などは大丈夫なのだろうか? この千手観音は新田義貞の念持仏と古くから伝えられている。

吉祥寺 (4)
吉祥寺 (5)
吉祥寺 (6)
境内の八塔石紅地蔵尊。現在の地蔵堂は平成5年(1993年)の建立。

元禄12年(1699年)小幡藩(藩主は織田信久)の税が高いことを14ヶ村の代表8名が江戸幕府へ訴え出た。8名は死罪は免れたが「処払い」となった。この8名の義人の恩を忘れないため、元禄15年(1702年)に建立された。

当時の小幡藩主・織田信久は大和宇陀藩から養子に入っているが、信長次男・信雄の孫にあたる。信久の治世は64年の長きに渡り、この間に新田開発や治水工事に尽力して藩政を安定化させたが、5割もの年貢増徴を行った上に労働課役などによる領民の負担も増やしたため、領民の不満は大きく直訴につながった。

吉祥寺 (7)
紅地蔵と呼ばれる所以は、村の女人が地蔵に紅をつけて病気平癒を祈願したところ、たちまち全快したことから、それ以後紅をつける者が後を絶たず、ついに全身紅粉に染まってしまったことから紅地蔵と呼ばれることになった。

吉祥寺 (8)
墓地の聖観音像。昭和53年(1978年)の造立。

吉祥寺には明治初年の神仏分離以降、蛸薬師如来の石像が安置されていた。この薬師如来石像は、元亀年中(1570~73年)越後国長岡の海中より漁師の網に引っかかったもの。経緯は不明だが、妙義山(神社?)に納められていたという。まだあるのかな?


安中市松井田町八城の先倉神社。

先倉神社 (1)
先倉神社 (3)
先倉神社は元禄4年(1691年)の創建と伝わる。明治42、43年(1909、10年)に村内の粟島神社、白山神社、八坂神社、厳島神社、稲荷神社、疱瘡神社などを合祀している。

一の鳥居は平成16年(2004年)の建立。

先倉神社 (4)
木々に囲まれた参道。手前の燈籠は慶応元年(1865年)の奉納。

先倉神社 (5)
先倉神社 (6)
二の鳥居は平成14年(2002年)の建立。扁額は「正一位先倉大明神」。

先倉神社 (7)
先倉神社 (8)
先倉神社 (9)
社殿は昭和52年(1977年)の改築。

先倉神社 (10)
本殿は上部が写らなかったが、彫刻が施されており立派である。

先倉神社 (11)
先倉神社 (12)
社殿と並び建つ建物。なんだろう? 社務所なのかな。実はこの建物、石段下らから建っており2階建てなのだ。ちょっと見たら1階の部屋は畳敷きだった。

先倉神社 (13)
境内の道祖神。

先倉神社 (14)
先倉神社 (15)
境内の火雷神の石碑、稲荷社と御嶽大権現。

先倉神社 (16)
境内社・末社群。諏訪神社、秋葉神社、菅原神社、琴平神社、大山祗神社など。どれが何かは分からない。


安中市松井田町新堀の松井田八幡宮。

松井田八幡宮 (1)
松井田八幡宮の創建は不詳だが、建久8年(1197年)に源頼朝が参拝に訪れたとの記録が残っている。また、慶安元年(1648年)には徳川家光から朱印地13石を賜っている。明治41年(1908年)には本社境内末社である三峯神社、秋葉神社などを合祀している。

松井田八幡宮 (2)
松井田八幡宮 (3)
鳥居は平成12年(2000年)の建立。

松井田八幡宮 (4)
鳥居横には庚申塔が集積されている。ひとつには寛政12年(1800年)の銘があった。

松井田八幡宮 (5)
境内は社殿に向けて少しづつ高くなっていく。緑に覆われた参道を心地よく進んで行く。

松井田八幡宮 (6)
狛犬は昭和4年(1929年)の奉納。

松井田八幡宮 (7)
松井田八幡宮 (8)
割拝殿だと思う。一般的に割拝殿が造られ始めたのは平安末期とされるので、創建時から割拝殿があったとすれば、創建は平安末から鎌倉期あたりになるのかな。

割拝殿前の燈籠は寛政4年(1792年)の奉納。

松井田八幡宮 (9)
松井田八幡宮 (10)
割拝殿内部には「神楽殿」の扁額が掲げられているので、いつからか内部を神楽殿として使っていたのか? それとも割拝殿ではなく神楽殿なのか。

松井田八幡宮 (11)
松井田八幡宮 (12)
拝殿は護摩殿と称され、本殿と均衡のとれた大きさとなっている。

松井田八幡宮 (13)
現在の本殿は寛永年間(1624~44年)の建立と伝わり、三間社流造り・銅板葺き。材質はほとんどがケヤキで要所に飾金具をつけている。平成14年(2002年)修復されている。

松井田八幡宮 (14)
松井田八幡宮 (15)
社殿横の八角堂。中には2体の像が安置されている。像容から聖徳太子像と思われる。かなり仏教色の強いお堂(太子像)なので、当時の神仏混淆の状況を色濃く残していると言える。

松井田八幡宮 (16)
境内社・末社群。八口神社、金柄神社、石神社、大国神社、浅間神社、日枝神社など。

松井田八幡宮 (17)
昭和60年(1985年)刊行の松井田町誌を見ていたら、「本殿の屋根は外部から幣殿と連なり、さらに拝殿に続いている一種の権現作りであった」と書いてあった。姿が現在とかなり違うので、平成14年の改修時に往時の姿の戻したのかね。


安中市松井田町人見の人見城址。

人見城址 (1)
人見城は河岸段丘の崖を利用した「崖端城」で、東西約400m、南北約200mの広さがある。城の南部は耕地や宅地になっているが、北部はよく保存されている。元は南北朝期に足利方の人見四郎恩和の館があったところで、それ以後(特に戦国期)に城(砦)として拡張・改修が行われたと考えられている。

人見城址 (2)
大宮神社の脇から城址の各所をまわれるようになっている。オレのような素人にはありがたい。(大宮神社は「安中市松井田町人見・大宮神社」参照)

人見城址 (3)
城址と何の関係があるのか不明だが、万葉歌碑があった。

人見城址 (4)
人見城址 (5)
うぐいす井戸と呼ばれる水場と、そこから沢を利用している堀切。

人見城址 (6)
人見城址 (7)
馬出し部は土塁が確認できる。その先(1郭と2郭の間?)の土塁と堀もよく残っている。

人見城址一帯は現在私有地となっているが、地主の方々の協力と「新ふるさとづくり実行委員会」のみなさんの尽力により、非常にきれいに整備されている。


安中市松井田町人見の大宮神社。

人見大宮神社 (1)
人見大宮神社の由緒は不詳。口碑では白鳳2年の創建と伝わる。ちなみに、白鳳は日本書紀には記載のない私年号の一つである(寺社の縁起や歴史書等に散見される)。一般的には白鳳元年は650年、661年、672年などを指すので、白鳳2年はそれぞれに1年を足した年となる。

昭和63年(1988年)に現在地に遷座している。旧社地は信越化学工業・松井田工場になっている(と言うか工場を造るための移転)。

人見大宮神社 (2)
人見大宮神社 (3)
人見大宮神社 (4)
社殿は遷座時の昭和63年の建立。

人見大宮神社 (5)
境内社・末社群。神明宮、雨降神社、菅原神社、大山祗神社、猿田彦神社、疱瘡神社など。

人見大宮神社 (6)
普寛行者の石塔(左は摩利支天)。普寛は木曽御嶽山、越後八海山、上州三笠山などを開山したことで知られる行者。

ところで、人見大宮神社のご祭神に源為朝がいる。源為朝は源為義の8男。剛弓の使い手で剛勇無双を謳われたが、保元の乱(1156年)で兄・義朝や平清盛らに敗れ、伊豆大島に配流されている。

明治43年(1910年)に村内の神社を合祀しているが、その中に為朝と関係ありそうな名称は見られない。為朝と上野国との関わりは不明だが、安中市東上秋間の十二山神社は為朝の陣屋跡との伝承がある神水の地に鎮座していたとされる。
(十二山神社は「安中市東上秋間・十二山神社」参照)


安中市松井田町人見の諏訪神社。

人見諏訪神社 (1)
人見諏訪神社 (2)
人見諏訪神社は文久2年(1862年)の創建と伝わる。明治42年(1909年)に村内神社を合祀している。現在のご祭神をみると、八坂神社、大山祗神社、厳島神社などが合祀されたようだ。

人見諏訪神社 (3)
人見諏訪神社 (4)
鳥居の両側に道祖神が3基ある。

人見諏訪神社 (5)
人見諏訪神社 (6)
人見諏訪神社 (7)
社殿は明治7年(1874年)火災で焼失、明治22年(1889年)に再建されている。

人見諏訪神社 (8)
人見諏訪神社 (9)
境内社の稲荷神社。

人見諏訪神社 (10)
社殿裏の御嶽神社・三笠神社・八海神社(中)、摩利支天(左)、天照皇大神(右)の石塔。

人見諏訪神社 (11)
御嶽神社などの石塔前には普寛霊神の石塔もあった。普寛は木曽御嶽山、越後八海山、上州三笠山などを開山したことで知られる行者。旧松井田町は妙義山の麓になるので、山岳信仰(御嶽教の講)が盛んだったのかな。


安中市松井田町人見の高林山天祐寺。

天祐寺 (1)
天祐寺は碓氷郷八幡庄人見村の堀込庄右衛門が一宇を建立したのが始まりとされる。慶長3年(1598年)に高厳鷲道和尚を招き高林山天祐寺と号している。

天祐寺 (2)
本堂には本尊の釈迦如来を安置する。また、嬬恋村の鎌原観音堂の本尊仏とまったく同一の阿弥陀如来が安置されているという(松井田町誌による)。ただ鎌原観音堂の本尊は、観音堂の名が示すとおり「十一面観音」である。

天祐寺 (3)
本堂の扁額は「高臥」(こうが)。意味は俗世間を離れ、志を高く持って山野などでひそかに暮らすこと。

天祐寺 (4)
本堂前の慈母観音像。平成5年(1993年)の造立。

天祐寺 (5)
六地蔵は平成6年(1994年)の造立。

天祐寺 (6)
小坊主さんの石像。この木魚に寄りかかり居眠りするタイプは多い。

天祐寺 (7)
境内の隅に遊具があった。滑り台の他、雲梯とシーソー。いずれも年季が入っているように見える。お寺や神社が子どもたちの遊び場となっていた時代はけっこう前のイメージがある。最近はどうなのだろう?


安中市松井田町二軒在家・白龍山慈雲寺。

慈雲寺 (1)
慈雲寺は慶長8年(1603年)上後閑村(現、安中市上後閑)の長源寺17世・名国宗誉和尚の開山、越中国金山城主・河田豊前守長親の開基とされる。河田長親の法号が「慈雲寺殿龍山義伯大居士」であることから、白龍山慈雲寺と号している。

慈雲寺 (11)
山門は平成14年(2002年)に改修されている。

慈雲寺 (2)
慈雲寺 (3)
門前の六地蔵と仏塔・石仏群。

慈雲寺 (4)
改修前の山門に乗っていた瓦かな。

慈雲寺 (5)
慈雲寺 (6)
慈雲寺 (7)
立派な本堂の前には白ゾウがいる。慈雲寺のご本尊は釈迦如来だが、お釈迦さまの生母である摩耶夫人が、釈迦を身籠る際に六牙の白象が胎内に入る夢を見たという説話からかな。釈迦涅槃図でもゾウが悲しんでいる姿が描かれている。ちなみに、摩耶夫人はお釈迦さまの生後7日目に亡くなったと伝えられている。

慈雲寺 (8)
白寿観音像。平成9年(1997年)の造立。

慈雲寺 (9)
龍の形をした手水舎(だと思う)。水源がつながっているふうには見えなかったが。平成13年(2001年)の製作。

慈雲寺 (10)
季節が合えば、牡丹などがきれいに咲いているようだ。

ところで開基と書いた河田長親だが、実は天正9年(1581年)に病死している。慈雲寺の開創は慶長8年(1603年)なので年代が合わない。長親の末裔(一族)が江戸期に当地を納めていたとされるので、開基として名を使ったのかもしれない。墓地には河田一族のお墓もある。


安中市松井田町二軒在家の烏留諏訪神社。

烏留諏訪神社 (1)
烏留諏訪神社 (2)
烏留諏訪神社は弘化年間(1844~48年)の創建と伝わる。その他は不詳である。

烏留諏訪神社 (3)
社殿の建立年などは不明。

烏留諏訪神社 (4)
烏留諏訪神社 (5)
本殿(覆屋)には大きな奉納額が掛かっているが、消えてしまっており判読できない。

烏留諏訪神社 (6)
石尊大権現など。

烏留諏訪神社 (7)
一段高いところにお堂があるが詳細不明。

当所は明治8年(1875年)までは烏留(からすどまり)村であった。烏留村は同年に二軒在家村と合併し二軒在家村となった。その後、明治22年(1889年)に二軒在家村は人見村、八城村、行田村と合併し西横野村となっている。

さらに昭和29年(1954年)には 松井田町、臼井町、坂元町、九十九村、細野村と合併して松井田町、平成18年(2006年)安中市と松井町が合併し安中市となっている。

現在の住所表記は安中市松井田町二軒在家だが、旧烏留村地域の神社なので「烏留諏訪神社」とした。


安中市松井田町五料の中木のさざんか。

中木のさざんか (1)
中木のさざんか (2)
中木のさざんかは目通り1.56m、根回り2.24m、枝張り東西13.4m、南北7.57m、樹高5.45mで、県内最大級のさざんかの巨木である(樹木データは昭和53年/1978年ころ)。樹齢は約1000年とされる。

毎年初冬になると花をつけ、春先まで咲き続ける。開花期には多くの観賞者が訪れるという。

*個人宅にあるが、道路沿いの石垣上にあるので、道路から観ることができる。ただし、節度を持って観賞しましょう。


安中市松井田町五料の龍駒山千蔵院観音寺。

千蔵院 (1)
千蔵院は文禄元年(1592年)澄円法印の開創と伝わる。当時は中木山の奥(現在の旧国民宿舎・裏妙義の場所)にあったが、延宝3年(1675年)金剛寺住職・弁宥法印が現在地に遷し中興している。

千蔵院 (2)
千蔵院 (3)
本堂には本尊の十一面観音を祀る。

千蔵院 (4)
境内の宝篋印塔。相輪・笠の大きさと塔身・基礎の大きさがアンバランスなので、別のものの組み合わせかもしれない。

千蔵院 (5)
聖観音像。平成18年(2006年)の建立。

千蔵院 (6)
大日如来像かな。令和3年(2021年)の建立。

千蔵院 (7)
千蔵院 (8)
本堂と廊下でつながっているお堂。中を見させてもらったが不明。何だろう?

千蔵院は五料地区で唯一現存するお寺である。


安中市松井田町入山の三宝荒神社。

三宝荒神社 (1)
三宝荒神社は天正年間(1573~92年)に当地に移り住んだ佐藤監物が創建したと伝わる。以後、佐藤家が祀り続けてきたが、現在は入山地区(遠入、久保、竜馬、小柏)の氏神として祭事を行っている。

三宝荒神社 (2)
三宝荒神社 (3)
鳥居の扁額は「大荒神」。

三宝荒神社 (4)
佐藤家元祖天徳院350回遠忌の碑。

三宝荒神社 (5)
三宝荒神社 (6)
山の傾斜地に建っているため、境内は非常に狭い。社殿は昭和49年(1974年)の改修。併せて石段・石垣の改修も行われている。樹齢300年のご神木が損傷したため、伐採・売却した費用を充てたという。

三宝荒神社 (7)
これがご神木の切り株かな。

三宝荒神社 (8)
三宝荒神社 (9)
鳥の巣箱? 木祠じゃないと思う。

三宝荒神社のご祭神は火産霊神、奥津日子神、奥津比売神。奥津日子神、奥津比売神は竈(かまど)や屋敷、農業(稲作)の神々とされる。奥津は竈のおき火から来ている。竈の神に火の神(火産霊神)を加えて、仏神である三宝荒神に置き替えて祀ったものと思う。


安中市松井田町西野牧の千駄木遺跡。

千駄木遺跡 (1)
千駄木遺跡は縄文時代前期から弥生・古墳時代の長い間にわたって、巨石の下を生活空間として利用した岩陰遺跡である。

ここは昔から鹿の骨や角・土器片などが出土することで地元の人々には知られていたが、昭和47年(1972年)の県道拡張工事に伴い発掘調査を行ったところ、石器・骨角器・土器・土師器・須恵器などが多く確認された。そのため道路の改修計画を変更して保存されている。

千駄木遺跡 (2)
縄文時代前期から中期初めまでは、向かって右側の岩の岩陰を利用した比較的広い範囲で生活が営まれていたが、縄文時代中期に浅間山の噴火による地震で落石(左の岩)があり、それ以後は落石部との間の狭小な地域を利用していたと思われる。

千駄木遺跡 (3)
2つの巨石の間。どういう生活単位(家族?)かは分からないが、これでは狭い。当時は定住という概念があったか不明だが、何ヶ所かある生活拠点のひとつって感じなのだろうか。

出土遺物は縄文時代の土器が最も多く、それらは長野県の八ヶ岳山麓地方の影響を受けているとみられ、文化圏を考える上で貴重な資料となっている。


安中市松井田町松井田の琴平宮。

松井田琴平宮 (1)
松井田琴平宮の創建は弘化年間(1844~48年)とされるが定かではない。ここは鎌倉時代の創建とされる九蔵坊という塔頭(たっちゅう)があり、修験僧が修業を行う場所だったようだ。江戸前期には徳川綱吉から朱印地を賜るほどであったが、明治初年の廃仏毀釈の流れを受け廃寺となっている。

松井田琴平宮 (2)
鳥居は昭和8年(1933年)の建立。

松井田琴平宮 (3)
一の鳥居前には大きな燈籠がある。

松井田琴平宮 (4)
松井田琴平宮は小山の頂上にあるので、急な石段を上っていく。

松井田琴平宮 (5)
石段の横にはもう少し緩やかに上れる参道がある。滑り止めにマットも敷かれている。

松井田琴平宮 (6)
松井田琴平宮 (7)
参道の途中に天狗を線刻した石碑があった。修験僧の修業場だったことを伺わせる。

松井田琴平宮 (8)
二の鳥居。一般の鳥居と比べると横幅が広いと思う。

松井田琴平宮 (9)
社殿前の燈籠は弘化5年(1848年)の奉納。松井田琴平宮が弘化年間の創建なら、そのときの奉納になる。

松井田琴平宮 (10)
松井田琴平宮 (11)
松井田琴平宮 (12)
社殿は大正4年(1915年)の建立。

松井田琴平宮 (13)
不動明王像。文化8年(1811年)の造立。創建よりも古いので、どこからか移されたものか。

松井田琴平宮 (14)
社殿裏には国道18号松井田バイパスが走っているのが見える。


安中市松井田町新堀の天竈朝陽(てんそうちょうよう)と古賀錦山(こがぎんざん)の碑。

天竈朝陽・古賀錦山の碑 (1)
天竈朝陽の碑(左)と古賀錦山の碑(右)は、元は別の場所にそれぞれあったが、国道18号松井田バイパスの建設の際に現在地へ移されている。

天竈朝陽・古賀錦山の碑 (2)
天竈朝陽は本名を松本安二郎といい、安永4年(1775年)旧八城村の生まれ。京都の吉益南涯から医術を学び、帰郷後は住民のため献身的に活動した。天保6年(1835年)に61歳で死去。碑は天保9年(1838年)に弟子たちにより建立されている。

天竈朝陽・古賀錦山の碑 (3)
古賀錦山は久留米(福岡)の生まれ。若くして江戸で医術を学び、帰省途中に松井田宿で病人を診察した縁で、住民に求められこの地に住むこととなった。慶応2年(1866年)に死去。「天竈朝陽のそばに葬ってほしい」との遺言を残している。碑は慶応3年(1867年)に建立された。

それにしても、何で国道18号の松井田バイパス沿いに移したのだろう。車の交通量は多いし、みんなスピード出しているし。この碑の前に車を停めるわけにもいかないので、下に置いて歩いてバイパスに上って行った。

↑このページのトップヘ