Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市吉井町小暮の士峯山全林寺。

全林寺 (1)
全林寺 (2)
全林寺は文禄年間(1593~96年)宝積寺16世・竇山宝雪の開山とされる(吉井町誌から)。ただし、全林寺歴代住職の過去碑には竇山宝雪の入寂年は正保元年(1645年)とある。すると創建は寛永年間(1624~45年)あたりかな。

その後、2世・斧山大◯(金へんに出)のとき、岩井村北部の全林寺畑から現在地に移転している。

全林寺 (3)
山門前の六地蔵。昭和59年(1984年)の建立。

全林寺 (4)
本堂は昭和47年(1972年)の建立。

全林寺 (5)
境内の聖観音。昭和61年(1986年)の造立。

全林寺 (6)
全林寺 (7)
三界萬霊塔。塔というか地蔵尊。「小暮の地蔵尊」とあった。平成18年(2006年)の造立。

同じく吉井町小暮の「小暮の穴薬師」は、享保6年(1721年)から全林寺が管理している。(穴薬師は「吉井町・小暮の穴薬師」参照)


高崎市吉井町多比良の阿夫利神社。

阿夫利神社 (1)
阿夫利神社 (2)
阿夫利神社としては昭和61年(1986年)の創建。もともと当地には弘法大師(空海)が彫ったとされる不動明王(磨崖仏)があり、古くから「滝の不動」「谷不動」などと呼ばれ崇拝されてきた。

その後、神仏習合(本地垂迹)の考えから石尊権現が祀られ(年代不詳)、不動尊とともに多比良の谷地区の氏神として信仰されている。

阿夫利神社 (3)
鳥居横に意味ありげな大岩がある。表面に何か文字があるような、ないような。

阿夫利神社 (4)
楼門・社殿は昭和61年(1986年)の新築建立。谷地区に接している藤岡市下日野を中心としてゴルフ場が開発され(谷地区にもかかる)、その関係からゴルフ場開発会社が社殿などすべてを寄進している。この時に、石尊権現を祭神とする阿夫利神社となっている。

楼門は阿夫利神社になる前から存在しており、「石尊権現」と「滝の不動」の神域入口とされてきた。

阿夫利神社 (5)
阿夫利神社 (6)
阿夫利神社 (7)
拝殿前の灯籠は平成2年(1990年)の奉納。

阿夫利神社 (8)
社殿横に落差2mほどの小さな滝があり、「不動の滝」と呼ばれる。

阿夫利神社 (9)
不動の滝横の岩壁に不動明王が彫り込まれている。季節的に草木の関係で見えない(もしかしたら風化してしまっているのかも)。

阿夫利神社 (10)
不動尊と書かれた額のようなものと、不動明王の剣らしきものが見える。

実は不動明王だけでなく、いくつもの像が彫られているという。十三仏とされる。不動明王などの磨崖仏はこの地を訪れた弘法大師が一夜のうちに刻みつけ、最後の一体を彫りきらぬうちに夜が明けてしまったと言い伝えられている。

阿夫利神社 (11)
阿夫利神社 (12)
阿夫利神社と沢の反対側に境内社(?)の古峯社と稲荷社がある。稲荷社内には石仏が鎮座している。

阿夫利神社 (13)
双体道祖神。

阿夫利神社 (14)
阿夫利神社 (15)
境内社などの奥に上る石段があり、石尊権現が祀られている。

不動明王などの磨崖仏は室町期の作と推定されているが、多比良城主・多比良友定が戦勝祈願を行い、それにより命が助かったとの言い伝えも残されている。弘法大師伝説はどこからきたのだろう?

昭和40年(1965年)ころまでは、例祭には獅子舞が奉納され、また露店も並ぶほど賑やかだったという。


高崎市吉井町石神の大武神社。

大武神社 (1)
大武神社 (2)
大武神社は元は稲荷神社で、その由緒は不詳。明治43年(1910年)に近隣各社を合祀し大武神社と改称している。

当地は奈良時代に石神村と中島村は大家郷に属し、深沢村は武美郷に属していたので、その大と武をとり大武神社としたといわれる。

大武神社 (3)
大武神社 (4)
大武神社 (5)
社殿は昭和17年(1942年)の建立。

大武神社 (6)
社殿裏の高いところに境内社が祀られている。

元稲荷神社の社宝として、吉井藩主・松平信平が延宝5年(1677年)に奉納した和歌3首を記した色紙、同藩主・松平信成が天明4年(1784年)に奉納した紙幟があったが、現在は所在不明となっている。残念なことだ。


高崎市吉井町黒熊の浅間神社。

黒熊浅間神社 (1)
黒熊浅間神社 (2)
黒熊浅間神社の由緒は不詳。明治42年(1909年)に黒熊村内6社を、同43年(1910年)に小串村内4社を合祀している。

石鳥居が2基建っているが、前側は享保年間(1716~36年)、後側は明治22年(1889年)の建立。扁額はどちらも浅間神社。

黒熊浅間神社 (3)
当地は浅間山と呼ばれる丘陵地の中腹。少しだが急な石段を上る。

黒熊浅間神社 (4)
社殿前の狛犬は平成20年(2008年)の奉納。

黒熊浅間神社 (5)
黒熊浅間神社 (6)
黒熊浅間神社 (7)
社殿は大正14年(1925年)の建立。建立時には本殿覆屋はなかったようだが、昭和51年(1976年)以降に造られたようだ。

黒熊浅間神社 (8)
浅間神社石宮。浅間山を奥に上って行ったところを奥浅間と言い、そこに鎮座していた石宮。平成7年(1995年)に浅間神社境内に遷されている。

黒熊浅間神社 (9)
黒熊浅間神社 (10)
奥浅間(浅間山山頂)には明治27年(1894年)建立の入野碑がある。山道はきちんと整備されているが、たどり着くまでには相当上る。行かれる場合は、覚悟して行った方がいいです。(「合併記念の碑だった -入野碑-」参照)


高崎市吉井町多胡の慈雲山龍源寺。

龍源寺(1)
龍源寺は華應存永が多胡村字元屋敷に創建したが、5世・智眼慶察のときに山崩れで堂宇・墓地ともに埋没した。正保3年(1646年)当地領主の旗本・門奈六左衛門の寄進により(開基)、仁叟寺9世・日州寿朔を招き曹洞宗として当地に中興開山。

龍源寺(2)
龍源寺(3)
山門は平成11年(1999年)の建立。

龍源寺(4)
龍源寺(5)
明治26年(1893年)山門以外を焼失。翌年再建されている。火災時に本尊も焼失してしまったため、廃寺となっていた陽福院(埼玉県賀美村)の三仏像を譲り受け、改めて本尊としている。現在の本堂は令和元年(2019年)の新築建立。

龍源寺(6)
本堂前の開基塔。平成31年(2019年)に開基である門奈六左衛門のご子孫の方が建立している。

龍源寺(7)
龍源寺(8)
ご神橋を渡っていくと魚籃(ぎょらん)観音という観音さまが鎮座している。魚籃(魚を入れる籠)を持っているのが特徴。

龍源寺(9)
境内の隅にカヤの木がある。まだ小さいが、龍源寺の本寺・仁叟寺のカヤの木(群馬県の天然記念物)の子株とのこと。(「仁叟寺の三銘木 ー仁叟寺 その4ー」参照)

龍源寺(10)
蚕影山の縁起碑。養蚕にご利益のある蚕影山大権現が、龍源寺脇の山腹に祀られていたが、平成15年(2003年)に本堂内に遷されている。

龍源寺(11)
義民と讃えられる白田六右衛門の墓。

白田六右衛門は多胡村の名主。元禄元年(1688年)に大干ばつが生じ、六右衛門はこの悲惨なありさまを目にして、意を決して領主より保管を命じられていた年貢米の殻倉を解放し、米をすべての人々に分け与えた。穀倉を許可なく開けることは重大な違法行為であり、六右衛門は捕えられ龍源寺前のキュウリ畑にて斬首された。元禄2年(1689年)のこと。24歳の若さであったという。

罪人として処罰されているため、墓石は非常に小さい。また、六右衛門がキュウリ畑で斬首されて以来、白田家はキュウリを作らない慣わしとなっている。

龍源寺(12)
参道には六右衛門の顕彰碑も建っている。

ちなみに、当地を治めていたのは公家から武士に転身したことで有名な鷹司松平信平。まだ7000石の旗本時代。孫の信清が大名(吉井藩主)になるのは宝永6年(1709年)のことである。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。
奧平氏の開基 ー仁叟寺ー」「県内屈指の大伽藍 ー仁叟寺 その2ー」「日本一高い十三重石塔 ー仁叟寺 その3ー」に引き続き仁叟寺の4回目(最終回)。

仁叟寺 (1)
本堂前のカヤ。群馬県の天然記念物に指定されている。仁叟寺が現在地に移転時の開山・直翁裔正の手植えと伝わり、樹齢は推定500年となる。樹高21.2m、目通り外周が4.8m、根周り外周は10m。

カヤの大木は天狗の宿り木で、榛名山の天狗がよく集まったという。

仁叟寺 (2)
本堂裏の椋(ムク)。この辺りでは「モク」と言うらしい。方言かな。樹高29m、目通り外周が5.5m、根周り外周は7.2m。地上7mのところで幹が2つに別れている。推定樹齢は約350年。

仁叟寺 (3)
本堂裏のコヒガンサクラ。推定樹齢は約100年。地中より幹が5本出ていることから「五輪桜」と呼ばれる。

仁叟寺 (4)
五輪桜の下に桜花観音が鎮座する。平成23年(2011年)の造立。東日本大震災の受難物故者供養仏。

仁叟寺にある諸堂・諸仏・諸施設を紹介しているうちに、4回にわたる長編になってしまった。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。
奧平氏の開基 ー仁叟寺ー」「県内屈指の大伽藍 ー仁叟寺 その2ー」に引き続き、仁叟寺の3回目。

仁叟寺 (1)
仁叟寺 (2)
欣光閣。欣光閣は昭和63年(1988年)建立の檀信徒会館。宿泊施設も完備している。

仁叟寺 (3)
欣光閣玄関前の狛犬。平成7年(1995年)の奉納。中国四川省五台山顕通寺との友好寺院締結記念。

仁叟寺 (4)
仁叟寺 (5)
五台山顕通寺との友好寺院締結調印記念碑。碑上部には日本・中国の国旗と、その間に文殊菩薩が彫られている。中国・顕通寺は仏教の聖地で文殊菩薩の道場らしい。

仁叟寺 (6)
仁叟寺 (7)
文殊堂。平成6年(1994年)の建立。本尊の文殊菩薩は中国・顕通寺より拝請。顕通寺本尊の文殊菩薩と同じ像を造立。文殊菩薩は学問の菩薩なので、学業成就、開運招福などの霊験があるといわれる。

仁叟寺 (8)
仁叟寺 (9)
座禅堂。

仁叟寺 (10)
座禅堂前には瑩山の銅像がある。曹洞宗開祖・道元の像が置かれているお寺は見かけるが、瑩山像は初めて見た。曹洞宗では一般的に道元を高祖、瑩山を太祖と呼んでいる。

仁叟寺 (11)
仁叟寺 (12)
十三重石塔。平成12年(2000年)の造立。高さ17mは日本一という。隣には石塔最上部の相輪がある。相輪だけでも3m。将来十三重塔が風化などで痛んだ際に補修するためらしい。ただ、これを乗せる予備ではなく、補修の際に整合性を取るためとか。確かに同じ環境に置いておけば、同じに風化するからね。

仁叟寺 (13)
中国仏教四大聖山の霊砂。五台山顕通寺、峨眉山万年寺、久華山化城寺、普陀山普済寺の4寺から霊砂を集めたという。ここで仏に念じれば、功徳は無量だという。砂の入っているお堂は平成9年(1997年)の建立。

仁叟寺 (14)
仁叟寺 (15)
薬師堂。お堂は平成6年(1994年)の建立。本尊の薬師如来は仁叟寺歴代住職の護持仏とされている「黒薬師」。脇侍として日光・月光菩薩も祀られている。

仁叟寺 (16)
寺本欣正氏の銅像。今回紹介した施設・お堂、造形物のほとんどに関し、発揮人や願主(施主)として携わっている。寺本氏は賛光電器産業の創業者でサンコーグループの元会長。平成15年(2003年)に死去(88歳)。仁叟寺の最高顧問檀徒で、再中興開基の称号を受けている。中曽根元首相の後援者としても有名だ。

仁叟寺 (17)
寺本家墓所の全景。巨大な灯籠は平成8年(1996年))の建立。

もう1回仁叟寺です。つづく。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。
前回(「奧平氏の開基 ー仁叟寺ー」)に引き続き仁叟寺の2回目。

仁叟寺 (1)
千手観音像(中央)。行基の作とされ、羊太夫の守本尊と伝わる。六観音が周りに安置されている。室町時代の作とされ、廃寺となった八束山観音寺の本尊。平成29年(2017年)に修復が完了している。

不思議なもので、なまじ造立時のお姿(具体的には金ピカ)になると、逆にありがたみが薄くなってしまうと感じるのはオレだけかな? (もちろん仏像としての歴史的価値の問題とは別)。

八束山観音寺は仁叟寺8世・天威大佑の開山。天威大佑の入寂が寛永13年(1636年)なので、江戸初期の創建となる。明治初年に火災に遇い、その後再建を計画したが果たせず廃寺となっている。

仁叟寺 (2)
仁叟寺 (3)
仁叟寺 (4)
同じく観音寺から移された石仏や石祠。石祠内には石仏が納められている。

仁叟寺 (5)
仁叟寺 (6)
白山妙理大権現。寺域を守護する龍神。曹洞宗開祖・道元が宋から帰国する際、乗っていた船を守ったとされる。また帰国前夜にこの権現が手伝い、「碧厳録」を一夜のうちに書き写したといわれている。

仁叟寺 (7)
仁叟寺 (8)
古照堂。昭和51年(1976年)の建立。多胡碑が納められている。多胡碑と言っても本物ではないけどレプリカでもない。吉井町塩の向井家に伝わっていたもので、仁叟寺に寄贈されている。「仁叟寺多胡碑」と呼ばれている。

仁叟寺多胡碑は、文字の書体・大小などが世界遺産・多胡碑と寸分違わないもので、両者の拓本を比べても判定に苦しむほどだという。ただ、碑身は薄く板碑のように見える。

製作の経緯などは不明だが、向井家にはこの碑は多胡碑の裏碑(予備)であるので、同材質・同刻で造られていると伝わっている。

仁叟寺 (9)
地蔵菩薩像。元禄13年(1700年)の造立。

仁叟寺 (10)
天宮の井戸。開創以来、寺の水源であった井戸。永きに渡り枯れることなく水脈を保っている。昭和40年代まで使用されていた。

仁叟寺 (11)
銅製の大釜。戦国時代のものと伝えられる。

仁叟寺 (12)
仁叟寺 (13)
願掛け穴不動。昔から竹林の中に洞穴があり、寺の東を護っていた。この洞穴には不動明王が祀られており、お百度参りを行うと大願が成就すると伝えられている。

仁叟寺 (14)
不動滝。もちろん人工の滝だが、不動明王像などが置かれている。穴不動の近くにあるので、それに関連付けたものかな。訪問日は水が流れてなかった。

仁叟寺 (15)
聖観音像。令和元年(2019年)の造立。

仁叟寺 (16)
涅槃釈迦像。中国四川省産の漢白玉大理石製。平成9年(1997年)の造立。自分の身体の悪い場所と同じ場所をさすれば、撫で仏としての功徳が授かれるという。

仁叟寺 (17)
慈母観音像。平成16年(2004年)の造立。

仁叟寺 (18)
ペット供養塔。平成6年(1994年)の建立。

仁叟寺 (19)
村上鬼城の句碑。平成16年(2004年)の建碑。

2回目も長くなったので、以下3回目につづく。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。

仁叟寺 (1)
仁叟寺は応永年間(1394~1428年)に奧平城主・奧平氏が奧平村公田に開創。大永2年(1523年)に奧平貞能が現在地に移している。その際の開基は雙林寺(渋川市中郷)4世・直翁裔正。

開創は奧平貞訓とされるが、これは法名(戒名)の「天祐院殿仁叟貞訓居士」からのもので、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。年代的には奧平貞俊あたりではないだろうか?

仁叟寺 (2)
惣門は寛政3年(1663年)の建立。江戸期の武家門の面影を留める切妻ヒノキ造り。

仁叟寺 (3)
山門前の餓鬼も時節柄マスクを付けていた。

仁叟寺 (4)
仁叟寺 (5)
山門は宝暦11年(1761年)の建立。2階部分に金剛力士像や五百羅漢を安置する。

仁叟寺 (6)
仁叟寺 (7)
本堂は大永2年(1522年)の建立。当然、種々の改修・改築はされているが、現在地に移転・建立された当時の姿を留めている。。

仁叟寺 (8)
本尊の釈迦牟尼仏を祀る。脇侍の迦葉仏、阿難ともども平成24年(2012年)に2年半の修理を終え、往年の輝きを取り戻している。

仁叟寺 (9)
仁叟寺 (10)
鐘楼堂は天和3年(1683年)の建立。最近では昭和53年(1978年)に改築されている。現在の梵鐘は平成13年(2001年)に新しく鋳造されている。

仁叟寺 (11)
旧梵鐘(鐘楼堂と同じ天和3年の鋳造)は、現在は本堂内に安置されている。小型の梵鐘であるが、江戸幕府御用鋳物師・椎名伊豫守吉広の作。吉広は芝・増上寺の巨鐘や上野・寛永寺の宝塔などの作者として知られる。先の大戦時にも、その歴史的な価値から供出を免れている。

仁叟寺 (12)
仁叟寺 (13)
創建時の開基とされる奧平貞訓の墓(中央)。先にも書いたが、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。

向かって右の宝篋印塔は「応永の塔」と呼ばれ、奧平村(開創地)から移した貞訓の墓と伝えられる。応永32年(1425年)の銘がある。見る限り集成っぽい。

手前の2基の宝篋印塔は、天文5年(1536年)と天文23年(1554年)の銘がある。こちらも集成のようだ。

仁叟寺 (14)
地頭・長谷川氏の墓。長谷川淡路守(向かって右)と長谷川讃岐守(左)。讃岐守が父で淡路守が息子。子孫に「鬼平」こと長谷川平蔵がいる。

仁叟寺 (15)
地頭・溝口豊前守勝信の墓。

仁叟寺 (16)
井伊直勝の側室の墓。直勝は井伊家安中藩2代藩主で、徳川四天王・直政の孫にあたる。

仁叟寺は当地に移転以来500年近く火災に遭っていない希有な寺院である。明治23年(1890年)には全県全宗派の中から世良田・長楽寺と仁叟寺の2寺のみが、明治政府から古社寺保存法の指定を受けている。

仁叟寺には今回紹介した以外にも多くの施設や諸仏(新旧いろいろ)、名木などがあるので、引き続き紹介していく。と言うことでつづく。


高崎市吉井町吉井の菩提山法林寺。

法林寺 (1)
法林寺は天正8年(1580年)の草創、開院は文禄2年(1593年)で開山は住蓮社安誉上人。

法林寺 (2)
法林寺 (3)
法林寺 (4)
六地蔵と願就地蔵尊。願就地蔵って、名前がいいね。

法林寺 (5)
通称「法れん寺」横丁というところが参道で、本堂は北向きである。本尊の阿弥陀如来像は鋳造で、鎌倉時代の作と推定される。総高42.8cmで、重さが10kg以上ある。

法林寺 (6)
法林寺 (7)
蔵のような建物の中を見たら仏像が多数並んでいた。本堂には「西国、坂東、秩父の併せて百体の観世音菩薩像が掲げられている」とのことなので、それらを移したのではないかな。

法林寺 (8)
鐘楼堂。宝永7年(1694年)鋳造の梵鐘があり大正時代には吉井町の時報に使用されていたが、先の大戦時に供出。

法林寺 (9)
墓地内にあるカヤの木。樹高約38m、目通り周4.2m、根元周り7m。枝張りは東西11m、南北13mなっている。本幹上部は剪定されているようだが、落雷でもあったのか(分からないけど)。

法林寺 (11)
吉井藩の代官を務めた橳島(ぬでじま)家の墓がある。初代・丹斎高堅、2代・丹太夫高茂、3代・丹治高行は、藩政と領内の民政に尽力している。

吉井藩は宝永6年(1709年)松平信清によって再々立藩以降、藩主は代々江戸定府のため、代官は地元でも最高責任者。3代・丹治高行の時に明治維新を迎え、高行は岩鼻県監察を務めている。


高崎市吉井町多比良の粟島神社。

粟島神社 (1)
粟島神社 (2)
多比良粟島神社は寛政年間(1798~1801年)の創建。現在は多比良神社の境内にある。以前は多比良神社から数十mのところにあったが、県道拡張工事に伴い遷座している。
(多比良神社は「新堀城主・多比良友定の創建 -多比良神社-」参照)

粟島神社 (3)
粟島神社 (4)
木像らしきものが2体あるが、いずれも首がない。老朽化? それとも・・・。

多比良粟島神社の創建には次のような逸話がある。寛政年間に多比良地区に粟島明神の像を背負った巡礼者がやってきた。その巡礼者は2~3年ほど多比良地区で過ごした後、出立することになった。その際「地区の皆さんには世話になったが自分には何もない。あるのはこの粟島明神の像だけだ」と、像を残していった。

像は名主の家の床の間に飾っていたが、これを見た祈祷師(アガタ)が「こんな荒神を置いておくのはよくない。早く社を造ってお祀りする方が良い」というので、早速お社を造り祭祀したといわれる。

天下泰平の石塔
また巡礼者は出立する際に、日本各地を旅して集めたお札を地に埋め、その上に「天下泰平」と刻した石塔を建立したという。この石塔は多比良中組の共同墓地の端に現存している。


高崎市吉井町岩崎の岩崎神社。

岩崎神社 (1)
岩崎神社は大正10年(1921年)に、字馬場にあった菅原神社を中心に旧岩崎村33社を合併し岩崎神社と改称、現在地に移転している。当所は密蔵院に合併した衆福寺の跡地。
(密蔵院は「高崎市吉井町・岩崎山密蔵院」参照)

岩崎神社 (2)
岩崎神社 (3)
社殿前の高灯籠は享保11年(1726年)の奉納。菅原神社のものを移したのだろうか。

岩崎神社 (4)
岩崎神社 (5)
岩崎神社 (6)
社殿は最近新築建立されたようだ。

岩崎神社 (7)
岩崎神社 (8)
社殿裏の末社群。稲荷社・新宮社・秋葉社の石祠は令和元年(2019年)の建立。

先も書いたように、当所は衆福寺の跡地となる。明治の中期には衆福寺本堂が岩平小の仮校舎として使用されている。ちなみ岩平の村名は明治22年(1889年)の町村制施行の際、岩崎と奥平から一文字づつとったもの。


高崎市吉井町岩崎の岩崎山密蔵院覚性寺。

密蔵院 (1)
密蔵院 (2)
密蔵院は僧・良尊の開創と伝わる。良尊の入寂が永和2年/天授2年(1376年)とされるので、南北朝期の創建となる。江戸時代末、駒形山衆福寺を合併している。衆福寺は当地の郷氏・岩崎氏の祈願所であったとされる。

密蔵院 (3)
山門前の六地蔵。

密蔵院 (4)
本堂には恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を祀る。この阿弥陀像は合併した衆福寺の本尊であったようだ。

密蔵院 (5)
密蔵院 (6)
境内の聖観音像と地蔵菩薩像。お地蔵さまは昭和58年(1983年)の奉納。

密蔵院 (7)
密蔵院 (8)
密蔵院 (9)
境内のお堂。扁額等ないので詳細不明だが、中を見ると愛染明王らしき像が見えた。堂内は少し乱雑だ。

密蔵院 (10)
堂前には新旧取り混ぜた石仏が並んでいる。

密蔵院には岩崎左衛門入道教阿の位牌が残されている。元々は衆福寺にあったが、合併の際に密蔵院に移されている。岩崎左衛門は密蔵院から数百m離れた所にあった岩崎城の城主とされる。

弁天池 (1)
池(弁天池)の向こう側が岩崎城址。単郭式の山城で、本丸は長径30mほど。弁天池は岩崎城の南西麓にある長さ200m、幅50mのため池。

弁天池 (2)
弁天池の中ほどに小島があり、そこに岩崎左衛門の墓とされる宝篋印塔(集成)があるという。小島に渡る手段もなく、草に覆われ宝篋印塔などもまったく見えない。以前は古碑もあり「宝徳元年(1449年)12月14日 岩崎左衛門入道教阿」と刻されていたという。これは密蔵院の位牌と同一文。

弁天池は江戸時代に山麓を流れる足沢の流れを変え、灌漑用水池として作られている。それにより、岩崎左衛門の墓が池の小島になったという。


高崎市吉井町吉井の吉井山玄太寺

玄太寺 (1)
玄太寺は慶長5年(1600年)吉井藩主・菅沼定利の開基、仁叟寺10世・月峯牛雪の開山。菅沼氏の祈願所となった。

玄太寺 (2)
門標横には地蔵菩薩像。

玄太寺 (3)
本堂は昭和30年(1955年)に焼失、同32年(1957年)に再建されている。

旧吉井町役場(吉井支所)の近くにあり、街中のため境内は非常に狭い(昔は広かったんだろうけど)。パッと見、境内中お墓と思えるほど。

玄太寺 (4)
本堂前の菅沼定利の墓。菅沼定利は領内で検地を実施し、六斎市を催すなど治政の安定化に努めた。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の一員として信州上田城の真田昌幸攻めに参加している。ただ、これが原因で秀忠軍は関ヶ原に遅参している。

定利は慶長7年(1602年)に死去すると、同じく吉井町の仁叟寺に葬られたが、宝暦6年(1756年)末裔・菅沼定用により玄太寺に移されている。

玄太寺 (5)
観音堂。観音堂は玄太寺より古く、菅沼定利が関ヶ原出陣時にこの観音さまに戦勝祈願を行い出陣している。定利は戦中に危ういところ難を逃れたので、この観音さまを大いに信仰し玄太寺を創建したとされる。

玄太寺 (6)
玄太寺 (7)
玄太寺 (8)
本尊の聖観音像は弘法大師の御作とされる。弘法大師が修行中のまだ25歳のとき、大病を患い一命が危うい状態となった。その際、観音さまの霊夢を感じ観音像を彫り祈願したところ、たちどころに快癒したという。その観音像を守護し巡国中、当地に堂庵を結び観音像を安置したという。

観音堂は天保5年(1835年)焼失、明治13年(1880年)の再建。扁額はほぼ読めない。

玄太寺 (9)
観音堂境内の弘法大師像。

玄太寺 (10)
宝塔。立派な宝塔である。ただ、紀年銘などは見てこなかった。

玄太寺 (11)
阿弥陀三尊石像。中央の阿弥陀如来像は後背が一部欠損している。他の二尊は観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像と思われる。上部が欠損しているが、いずれも阿弥陀如来の脇侍と思われる。鎌倉時代の作と推定されている。

相当風化が進んでおり、屋根だけでなく、覆屋で防護するなりの対策が必要だと思う。


高崎市棟高町の旧勧学院観音寺。

旧観音寺 (1)
当所は平安時代末に創建されたといわれる勧学院観音寺跡。地名にもなっているので、相当な規模の寺院だったと思われる。観音寺は明治10年(1877年)廃寺になっている。現在は馬頭観音を祀る観音堂と大師堂が残る。

写真の観音堂は嘉永6年(1853年)に修復された記録が残っている。軸組構法を用い、躯体にはほとんど釘を使っていない。彫刻も施されているが、防護ネットが巡らされており上手く写真が撮れなかった。

旧観音寺 (2)
旧観音寺 (3)
旧観音寺 (4)
大師堂は万延元年(1860年)に観音寺別当であった浄広の発願により建立。
堂内には奉納された24体の弘法大師像が安置されている。

旧観音寺 (5)
旧観音寺 (6)
大般若経や高崎市の重文になっている板碑を納める経堂。大般若教は大師堂、板碑は観音堂に納められていたが、保護のため経堂を建立し移されている。

旧観音寺 (7)
境内の観音像。地元の方(?)がダイヤモンド婚を記念して平成13年(2001年)に建立・奉納。ちなみに、ダイヤモンド婚とは結婚60周年のこと。これはすごいね。

旧観音寺 (8)
お地蔵さんと百番供養塔。

旧観音寺 (9)
樹齢700~800年とされるご神木の大杉。高さ23m、幹周り3.6m。観音寺創建当時に植えられたと推定される。昭和の初め頃までは大杉が林立していたというが、現在はこの1本を残すのみである。

お堂内の馬頭観音は古来から競馬観音として有名で、常設の競馬場があったという。毎年1月17日の定日には関東地方はもちろん、信越地方からも出馬があった。また、馬場の傍らには種付け所や馬市場もあり、多くの人々が集まったといわれる。


高崎市中里町の猿田彦神社。
前回の徳蔵寺のすぐ隣にある。(「高崎市中里町・多聞山徳蔵寺」参照)

猿田彦神社 (1)
猿田彦神社 (2)
中里猿田彦神社は、元々徳蔵寺の境内にあり毘沙門天を祀っていた。明治初年の神仏分離の際、毘沙門天は徳蔵寺本堂内に残し、堂宇は境外に移し新たに猿田彦神を祭祀したという。

鳥居は安永4年(1755年)の建立。扁額は「毘沙門天王」。

猿田彦神社 (3)
猿田彦神社 (4)
猿田彦神社 (5)
社殿は平成16年(2004年)に補修されている。

猿田彦神社ではあるが、地元の人たちは今も「毘沙門さま」と呼んでいる。

前回の徳蔵寺でも書いたが、当地は旧上郊村大字中里字毘沙門と言う。徳蔵寺の山号・多聞山や毘沙門天を祀っていることから地名になったのか、それとも当地が元々毘沙門天に縁があり、それが地名になり山号や毘沙門天を祀るようになったのかは不明。


高崎市中里町の多聞山徳蔵寺。

徳蔵寺 (1)
徳蔵寺は永禄年間(1558~70年)清俊法印の開基、清吽重清の開山。

徳蔵寺 (2)
徳蔵寺 (3)
参道には毘沙門天(多聞天)像や梵字を刻んだオブジェが並んでいる。みな新しいので、最近の造立と思われる。

徳蔵寺 (4)
徳蔵寺 (5)
徳蔵寺 (6)
本堂は文政年間(1818~31年)に焼失、天保10年(1839年)の再建。これが現在の本堂かは不明。本尊は不動明王だが、毘沙門天も安置されている。毘沙門天は元々境内に祀られていたが、明治初年に本堂内へ移されている。

徳蔵寺 (7)
境内に2体のライオン(獅子)象。狛犬のイメージなのかな。

徳蔵寺 (8)
徳蔵寺 (9)
鹿と鶴もいる。

徳蔵寺 (10)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。

徳蔵寺 (11)
徳蔵寺 (12)
境内の薬師堂。薬師如来が鎮座するが、由緒などは不明。

徳蔵寺 (13)
本堂横に不完全な宝篋印塔が2基あった。

当地は旧上郊村大字中里字毘沙門と言う。徳蔵寺の山号・多聞山や毘沙門天を祀っていることから地名になったのか、それとも当地が元々毘沙門天に縁があり、それが地名になり山号や毘沙門天を祀るようになったのかは不明。


高崎市保渡田町の紫雲山西光寺。
西光寺は以前、保渡田薬師塚古墳を紹介した際にちょっと触れただけで、お寺自体の記事になっていなかったので改めて紹介する。
(「石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-」参照)

西光寺 (1)
西光寺は応永2年(1395年)随泉和尚の開山と伝わる。古くは字阿弥陀にあったが、荒廃したため元亀2年(1571年)誓願上人が中興し字元屋敷に移転している。その後、火災で焼失、現在地へ再移転している。

西光寺 (2)
参道の六地蔵は平成3年(1991年)の奉納。

西光寺 (3)
西光寺 (4)
本堂は文化5年(1808年)に焼失、弘化2年(1847年)の再建。

西光寺 (5)
本堂屋根の葺替え前の瓦(だと思う)。

西光寺 (6)
「護り龍不動明王」とあった。平成18年(2006年)の奉納。

西光寺 (7)
「上野里やすらかかんのん」。平成16年(2004年)の造立。由緒などは分からない。

西光寺 (8)
宝塔は文政12年(1829年)の造立。

西光寺 (9)
西光寺 (10)
天和3年(1683年)に薬師塚古墳から舟形石棺や副葬品が発掘される。銅鏡、各種玉類、馬具類などの副葬品は石棺の中にあったとの伝承がある。これらとともに薬師像もあったという。そのため後円部墳上に薬師堂を建立し安置したいわれる。

西光寺 (11)
西光寺 (12)
薬師堂内部には厨子があり、薬師像はその中に納められている。薬師像は石棺内にあったといわれているが、薬師塚古墳は5世紀末~6世紀初頭の築造とされており、仏教は伝来していない時代。石棺内にあったとしても後の世のもの。ただ、この薬師像が薬師塚古墳の名の由来である。

西光寺 (13)
薬師塚古墳の舟形石棺。

前回は書かなかったが、薬師塚古墳は車持氏の墳墓との説があるらしい。車持氏は崇神天皇の皇子・豊城入彦命を始祖とする上毛野氏の一族で、豊城入彦命8世孫・射狭君を始祖とする。

車持氏が統治していたので車郷(くるまのさと)や車評(くるまのこおり)と呼ばれるようになり、後の群馬県名の元になったともいわれる。


高崎市本郷町の榛名木戸神社。

榛名木戸神社 (1)
榛名木戸神社の創建は不詳。上野国神名帳記載の榛名木戸神社とされる古社である。

榛名木戸神社 (2)
杉の大木が境内を囲む。

榛名木戸神社 (3)
二ノ鳥居は昭和45年(1970年)の建立。

榛名木戸神社 (4)
榛名木戸神社 (5)
社殿は明治29年(1896年)の建立。外装が綺麗なので、近年改修されているようだ。

榛名木戸神社 (7)
榛名木戸神社 (8)
覆屋内の本殿は切妻・神明造りで、江戸後期の寛政年間(1789~1801年)の建造と推定される。施されている彫刻は素晴らしい。

榛名木戸神社 (9)
境内社の天満宮。

榛名木戸神社 (10)
社殿脇に庚申塔類が並んでいる。庚申塔には寛政8年(1796年)、二十二夜塔には安永(1772~81年)の銘が読み取れた。本殿が建造された時期と重なるので、このころ神社としてきちんと整備されたのかな。

社殿内に山車の一部分が残されており、過去には山車が存在していたと考えられるが、伝承は残ってないという。ただ社殿内を覗いてみたが、気付かなかった。


高崎市福島町の永光山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は永享6年(1434年)恵裕上人の開山。永禄9年(1566年)箕輪城落城の際に焼失したが、箕輪城代となった内藤正豊が再建している。当時は字西浦北にあったが、江戸時代半ばに三国街道の整備に伴い現在地に移転。その後荒廃していたが、寛政元年(1789年)法印宗英が中興開山した。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
福島金剛寺 (4)
門前には石祠、庚申塔、二十二夜塔、六地蔵などが整然と並ぶ。

福島金剛寺 (5)
本堂は平成27年(2015年)の新築建立。

福島金剛寺 (6)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。手前左には仏足石、右には不動明王像。山門に「修験道神変加持祈祷道場」と掲げられていることから、護摩行(加持祈祷)などを行っているかな。不動明王像はその関係か。

福島金剛寺 (7)
中興の法印宗英の墓(供養塔)。寛政元年(1789年)の銘がある。

福島金剛寺 (8)
福島金剛寺 (9)
福島金剛寺 (10)
本堂裏にある「顔切り薬師」。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

福島金剛寺 (11)
お堂内には新旧6体の石仏があるが、後方右が「顔切り薬師」像。

福島金剛寺 (12)
福島金剛寺 (13)

「顔切り薬師」像は南北朝末から室町初期の造立と推定されている。この薬師像には次のような伝説が残っている。

江戸時代初期、当地に住み着いた夜盗が村内を荒らし回っていた。夜盗は次々と無理難題を吹っかけ、娘たちに乱暴を働くようにもなった。ある夜、夜盗が弘法ヶ池で沐浴する美女を襲ったところ、はね返されたので太刀で斬りつけた。翌日、池から寺まで血の跡が残っており、薬師像の顔が真横から切られていた。池では夜盗が口に菱を詰め込まれ息絶えていた。美女に姿を変え、顔を切られながらも村人を救ってくれた薬師さまを、村人たちは「顔切り薬師」と呼んで崇敬したという。

福島金剛寺 (14)
「顔き切り薬師」の後方には樫の木の巨木が薬師を見守っている。


高崎市神戸町の戸榛名神社。

戸榛名神社 (1)
戸榛名神社 (2)
戸榛名神社は天応年間(781~82年)の創建と伝わる。往古は榛名神社と称していた。上野国神名帳記載の榛名大明神は当社とされる。ご祭神の群馬五郎満行が当地で善政を敷いたので、里民はその徳を感じ満行を祭祀したという。

また、満行が都に上洛していたとき、紫宸殿上に黒雲が湧き上がり雷鳴が轟いた。光仁天皇が黒雲を射よと命じ、それに応じた満行は7尺2分の白木の大弓から矢を放つと、黒雲内の化け物は退散したという。光仁帝は大いに歓び、従三位の官位と藤原朝臣満行の名を賜ったといわれる。満行の死後、都で様々な凶事が起きたため、帝は満行の故郷(当地)へ勅使を遣わし、満行を祀った神社を建立したという説もある。

戸榛名神社 (3)
参道を進むと鬱蒼とした森の中に社殿がある。

戸榛名神社 (4)
戸榛名神社 (5)
戸榛名神社 (6)
火災などにより当地へ遷座してきたとの伝承もあるが、ここには長野勢の高浜砦の支砦(神戸砦)があったため、武田氏の西上州攻略戦の際に焼失。箕輪城攻めの際に、武田信玄が再興し戦勝祈願をしたといわれる。

現在の社殿の建立年などは分からないが、近年改修が行われているようだ。

戸榛名神社 (7)
神楽殿。大正5年(1916年)の建立。天井絵が施された立派なもの。古くから神楽が伝承されてきたが、現在は中断している。

戸榛名神社 (8)
戸榛名神社 (9)
社殿を囲むように多くの境内社・末社群がある。養蚕関係(蚕蟄国霊神)や農耕関係(地神)。

戸榛名神社 (10)
石祠の後ろに巨岩が置かれている。何か特別な意味があるのかな。

ちなみに、満行の8男・八郎満胤を祀った「八郎神社」が伊勢崎市福島町にある。8男だが総領(跡取り)になっため兄たちの恨みを買い殺されてしまうのだが、大蛇となって大暴れしたとの伝説がある。(「群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社-」参照)


高崎市十文字町の車持神社。

車持神社 (1)
車持神社 (2)
車持神社の創建は不詳だが、当地を治めていた車持氏の館跡に祠を建て、車持氏に榛名大神を合わせ祀ったものと伝わる。上野国神名帳記載の車持若御子明神に比定される古社である。

車持氏は豊城入彦命の8世孫・射狭君が、雄略天皇のとき乗輿を献上したことから車持姓を賜ったとされる。

車持神社 (3)
車持神社 (4)
社殿は天正8年(1580年)の建立との記録が残る。現在の社殿の建立時期は不明。

車持神社 (6)
車持神社 (5)
御嶽山など、石碑や石祠が並ぶ。

車持神社 (7)
車持神社 (8)
社殿左に鳥居があり、下(沢が流れている)に降りられる石段がある。

車持神社 (9)
車持神社 (10)
下には不動明王像や「泰賢行者」「普寛行者」などと刻まれた石碑がある。榛名山や当地で修行した修験者が祀ったものかな。

車持氏は豊城入彦命の後裔「東国六腹朝臣」(飛鳥時代)のひとつの氏族。車持氏が統治していたので車郷(くるまのさと)や車評(くるまのこおり)と呼ばれるようになり、後の群馬県名の元になったともいわれる。また当地は旧久留馬村(旧榛名町に編入後、高崎市に編入)で、これも車持氏から来ている。


高崎市箕郷町富岡の飯玉神社。

富岡飯玉神社 (1)
富岡飯玉神社 (2)
富岡飯玉神社は天文年間(1532~55年)の創建と伝わる。箕輪城主・長野業正の崇敬厚く、その後業正の弟・直業が下館に住んで常に崇拝したという。直業は富岡城主。また直業は小塙髙成と改名し、小塙7村を領有したともいわれる。

鳥居は文化2年(1805年)の建立。扁額の揮毫は源(岩松)徳純。

富岡飯玉神社 (3)
社殿の建立年などは不明。

富岡飯玉神社 (4)
富岡飯玉神社 (5)
社殿裏の境内社・末社群。

由緒は箕郷町誌(昭和50年:1975年)から調べたが、群馬郡誌(大正14年:1925年)では寛永6年(1629年)の創建となっている。


高崎市箕郷町富岡の道場山真福寺。

真福寺 (1)
真福寺の由緒は不詳。現状を見ると観音堂(写真)以外何もないので、既に廃寺になっている? それとも観音堂以外移転している?

箕郷町誌(昭和50年:1975年)には写真入りで真福寺が載ってるので、それ以降に変化があったようだ。

真福寺 (2)
真福寺 (3)
観音堂は「箕郷三観音」と言われ、旧箕郷町三観音堂のひとつとされる。

真福寺 (4)
観音堂に掲げられている歌の奉納額。明治16年(1883年)に西群馬郡金敷平村の方が奉納。金敷平村は現在の箕郷町金敷平。

真福寺 (5)
観音堂の裏に石仏群が並んでいる。庚申塔が2基あり、1基は寛政12年(1800年)の造立で市川米庵の書。もう1基は安政7年(1860年)の造立で安中藩の儒者・太山融斎の書。

真福寺 (6)
青面金剛像と薬師如来像。薬師如来像には安永9年(1780年)の銘がある。

真福寺 (7)
真福寺 (8)
地蔵菩薩像と並び、阿弥陀三尊の梵字を刻んだ板碑がある。紀年銘はないが、総高95cmは旧箕郷町では唯一の大型板碑。ただ、残念ながら上から28cmのところで折れてしまっている(補修されているけど)。


高崎市井出町の意玉山大円寺。

大円寺 (1)
大円寺は正慶年間(1332~33年)僧・慶運が現在の元井出に創建。その後、元和から寛永2年(1615~25年)の間に井出集落の移動が行われ現在地の移転している。その後、宝暦9年(1759年)に僧・寛良が中興している。

大円寺 (2)
大円寺 (3)
大円寺 (4)
本堂は明和年間(1764~72年)に井堤神社境内に建立。井堤神社は大円寺のすぐ隣にある。(「景行天皇の創建? ー井堤神社ー」参照)

中興時の宝暦9年の建立との記録もあるようだ。昭和59年(1984年)に大改修が行われている。明治初年の神仏分離で、明確に境内が分離されたのだと思う。本尊の地蔵菩薩像は弘法大師の作と伝わる。

大円寺 (5)
本堂に掲げられている「長野業盛奮闘の図」。永禄9年(1566年)の箕輪城落城時自刃した長野業盛の遺骸は、移転前の大円寺に葬られたとされる。移転時にお墓は元井出に残されている。(「伝・長野業盛の墓」参照)

箕輪城内で自刃した業盛の遺骸をなぜ井出の僧がと思うが、業盛が井出で自刃したとの伝説もあるので。なんとなく関連性がある? と考えてしまう。
(「長野業盛伝説 ー落合観音堂ー」参照)

大円寺 (6)
大円寺 (7)
境内の阿弥陀堂。木彫阿弥陀如来坐像を祀る。檜の寄木造りで像高85cm。鎌倉時代中期のものと推定される。越後国から運ばれてきたと伝わる。

大円寺 (8)
参道の供養塔。天保15年(1844年)の建立。着色は建立時のものではなく最近のようだ。多分随時行われているのだと思う。

大円寺 (9)
境内の宝塔は享保20年(1735年)の建立。

大円寺 (10)
境内の長谷観音。詳細不明。

大円寺 (11)
境内の一角に馬頭観音がまとめられている。なんとなく長野業盛伝説(上記落合観音堂)との関連性を考えてしまう。考えすぎかな。

大円寺 (12)
大円寺 (13)
大円寺 (14)
墓地に如意輪観音形の墓石が40基以上ある。宝永5年(1708年)、寛保2年(1742年)などの銘があるものもあるが、無銘・無戒名も多い。確認出来た戒名に「童女」とあったので、幼くして亡くなった女の子や女性の墓石として用いられたのだろうか。


高崎市井出町の井堤神社。

井堤神社 (1)
井堤神社 (2)
井堤神社の創建年は不詳。上野国上名帳の「大井明神」とされる。伝承では景行天皇(第12代)が東国へご巡幸の際、当地に清泉が湧出するのを見て社を建てさせ「井堤の社」と名付けたとされる。

ちなみに景行天皇の即位は西暦51年とされる。景行天皇は有名な日本武尊の父。

井堤神社 (3)
鳥居前の大灯籠は日露戦争戦勝記念として明治40年(1907年)の造立。

井堤神社 (4)
水鉢は高崎市住吉町の神成伝吉の奉納。伝吉は井出出身で「村伝」の初代店主。

井堤神社 (5)
井堤神社 (6)
社殿の建立年などは不明。社殿前の灯籠は天明2年(1782年)の奉納。

井堤神社 (7)
井堤神社 (8)
本殿には素晴らしい彫刻が施されている。ただ保護金網の目が細かくて、上手く写真が撮れなかったのは残念。

井堤神社 (9)
社殿裏の境内社、末社群。古峯神社など。

井堤神社 (10)
境内はずれの青面王・一石庚申塔。嘉永5年(1852年)の造立。道路沿いにあったものを平成26年(2014年)に移動。

日本書紀によれば、景行天皇は日本武尊の死を悲しみ、追慕して東国巡幸に出たとされる。景行天皇53年(西暦103年)のこと。群馬にはなじみの豊城入彦命の子・彦狭島王、孫・御諸別王を東国(関東)に派遣したのも景行天皇とされる。


高崎市保渡田町の落合観音堂。

落合観音堂 (1)
落合観音堂の創建年は不詳だが、箕輪城落城時の長野業盛に関する伝承がある。

永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、城から脱出した業盛は傷馬に鞭を打ち落合まで落ち延びてきた。当地(観音堂)から東南の井野川畔といわれる。そこで馬を処分した業盛は井出野にて自刃。

その後、落合付近では災いが多発。旅の僧が「畜馬の霊障がある」と言うので調べると、砂中から馬の亡骸と朽ちた鞍が見つかった。そこで村人は相談のうえ小宇を建立し馬頭観音を祀った。その結果、災いは起らなくなったという。

現在の観音堂は嘉永2年(1849年)の建立、明治23年(1890年)の改築。

落合観音堂 (2)
落合観音堂 (3)
本尊の馬頭観音は一寸八分(約5.5cm弱)。厨子の前に馬頭観音像らしきものが見えるが、前立像的なものかな。一寸八分より大きいし。ただ厨子が開いていて、中には板碑の一部が置かれている。本尊は別の場所に安置されている? 本尊は1月2日のみご開帳される。

落合観音堂 (4)
床下の軽石はイボを取る効果があるといわれ、治ると倍にして返す風習がある。

落合観音堂 (5)
落合観音堂 (6)
落合観音堂 (7)
社務所らしき建物の中には釈迦誕生像らしき像や古い位牌などが見られる。詳細は不明。

落合観音堂 (8)
落合観音堂 (9)
多くの石仏が並べられている。

一般的には、長野業盛は箕輪城内・御前曲輪の持仏堂にて自刃したとされ、城外に落ち延びたとはされていない。ただ、その遺骸はどういう経緯か高崎市井出町に葬られている。当地の僧により葬られたとされるが、その明確な根拠はなく、あくまで「伝」業盛の墓となっている。(「伝・長野業盛の墓」参照)

井出野にて自刃という落合地区の伝承も含め、想像力を働かせて歴史を考えるのもおもしろい。


高崎市箕郷町生原の慈眼山龍昌寺。

箕郷町・龍昌寺 (1)
龍昌寺は川浦四郎左衛門が川浦家の菩提寺として龍善寺5世・大安堯覚を開山として招き創建。大安堯覚の入寂が万治3年(1660年)なので、創建は江戸初期となる。

川浦氏は地元の有力者で、生原厳島神社に祀られている弁天さまを発見したとされる。(「高崎市箕郷町生原・厳島神社」参照)

箕郷町・龍昌寺 (2)
入口には回国供養塔や庚申塔が建っている。

箕郷町・龍昌寺 (3)
境内は狭く、しかも本堂前には樹木が有りよく見えない。小さな池もあったけど、どうしても上手く写真が撮れなかった。

箕郷町・龍昌寺 (4)
箕郷町・龍昌寺 (5)
朱色のお堂があったが、中は物置同然になっており詳細不明。上郊(かみさと)村誌(昭和51年:1976年)によると、寺域に朱鳥居と稲荷堂があると書いてあったのでその名残かな。鳥居はなかったと思う。

ちなみに、旧上郊村は昭和32年(1957年)昭和の大合併で、生原地区のみが箕郷町へ編入、他の中里、保渡田、井出地区は群馬町へ編入している。まあ、結局は平成の大合併(平成18年:2006年)で箕郷・群馬の両町は高崎市へ編入合併しているので、現在は旧上郊村はすべて高崎市となっている。


高崎市箕郷町生原(おいばら)の厳島神社。

生原厳島神社 (1)
生原厳島神社 (2)
生原厳島神社は享保年間(1716~36年)の創建。生原の原新田地区は水利の便が悪く、近くにあった唯一の湧水池を貴び、水の神・市杵島姫命を祀ったといわれる。

鳥居は安永5年(1776年)の建立。扁額は弁財天。ご祭神の市杵島姫命は本地垂迹では弁天さまに比定される。

生原厳島神社 (3)
灯籠は天明6年(1786年)に当地の川浦氏の奉納。

生原厳島神社 (4)
中は見られなかったが、高さ18cmの弁天さまが納められている。この弁天さまは、川浦氏が新田開墾時に石臼を2つ合わせたものを掘りあて、その中に入っていたといわれる。

川浦氏についてはよく分からないが、新田開発の中心的な役割を果たしているようなので、名主的な存在だったのかな。


高崎市箕郷町生原(おいばら)の北野神社。
生原地区には北野神社が2つあるが、原新田(字名)にある北野神社。

生原(原新田)北野神社 (1)
原新田北野神社は生原北野神社より分霊を勧請して創建。

伊香保街道の整備で榛名登山客などの往来が増え、街道沿いに休憩所や民家が集まり生原地区が次第に東側に発展し、原新田集落が形成された。戸数も増えたので、新たに生原北野神社より分霊を勧請したようだ。よって創建は江戸時代の初期から中期くらいかな。
(生原北野神社は「小林源太郎の社殿彫刻 ー生原北野神社ー」参照)

生原(原新田)北野神社 (2)
鳥居がなく境内に地区集会所があるので神社らしくない佇まい。境内側から見ると灯籠があるので、かろうじて神社と認識できる。灯籠は安永2年(1773年)の奉納。

生原(原新田)北野神社 (3)
生原(原新田)北野神社 (4)
生原(原新田)北野神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

生原(原新田)北野神社 (6)
生原(原新田)北野神社 (7)
境内社の古峯神社と秋葉大権現、御嶽山大権現、愛宕大神の石碑。

地区が大きくなったから分社を造るということは、北野神社が生原地区の鎮守さまの位置づけなのかな。

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