Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧郡部)


高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)

旧群馬町
高崎市棟高町・旧勧学院観音寺
鳥居扁額は「毘沙門天王」 ー中里猿田彦神社ー
高崎市中里町・多聞山徳蔵寺
高崎市保渡田町・紫雲山西光寺
「顔切り薬師」伝説 ー永光山金剛寺ー
高崎市井出町・意玉山大円寺
景行天皇の創建? ー井堤神社ー
長野業盛伝説 ー落合観音堂ー
高崎市・金古愛宕山古墳
福田赳夫元首相の銅像
日本三妙見 -妙見寺/妙見社-
福田赳夫元首相の墓 -徳昌寺-
石棺が剥き出しで保存されてます -保渡田薬師塚古墳-
立派な前方後円墳なんだけど・・・ -保渡田八幡塚古墳-
伝・長野業盛の墓
アララギ派って? -土屋文明記念文学館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-


旧箕郷町
高崎市箕郷町・松之沢の百観音
高崎市箕郷町・上善地の百観音
高崎市箕郷町・照明山光徳寺
高崎市箕郷町富岡・飯玉神社
高崎市箕郷町・道場山真福寺
高崎市箕郷町・慈眼山龍昌寺
高崎市箕郷町生原・厳島神社
高崎市箕郷町生原・原新田北野神社
閑院宮載仁親王殿下がご参拝 ー柏木沢八坂神社ー
高崎市箕郷町善地・駒寄神社
高崎市箕郷町善地・月波神社
高崎市箕郷町下芝・竜宮神社
高崎市箕郷町・下芝山万福寺
小林源太郎の社殿彫刻 ー生原北野神社ー
慈覚大師の開山 ー大獄山瀧澤寺ー
高崎市箕郷町・西うらの池と鴫上道祖神
高崎市箕郷町・白川陣屋跡
高崎市箕郷町松之沢・榛名若御子神社
高崎市箕郷町和田山・菅原神社
武田信玄のさかさ梅 -極楽院跡-
高崎市箕郷町和田山・熊野神社
高崎市箕郷町金敷平・大山祇神社
高崎市箕郷町東明屋・諏訪神社
高崎市箕郷町西明屋・東向八幡宮
堀部安兵衛築造の庭園? -妙福寺-
源義経・弁慶が参拝? -赤城若御子神社-
高崎市箕郷町・今宮八幡宮
高崎市箕郷町・向滝八幡宮
高崎市箕郷町・妙法山不動寺
上野和田氏の館跡? -和田の館跡-
井伊直政の伯母・恵徳院の開基? -萬松寺-
高崎市箕郷町・松山寺
剣聖・塚原卜伝の勧請? -卜神諏訪神社-
長野業正の長男・吉業の墓 -善龍寺 その2-
箕輪城水の手曲輪 -法峰寺-
柏木沢の蚕影碑
由良国繁の墓? -箕郷町・金龍寺-
井伊直政の開基 -龍門寺-
ちょっと荒れ過ぎ・・・ -石上寺-
内藤塚 -善龍寺-
長野業正の墓 -長純寺-
堀部安兵衛の設計・築造の庭園 -旧下田邸書院&庭園-
埋もれた名城 -箕輪城-


旧榛名町
高崎市下室田町・矢背負稲荷神社
高崎市上室田町・斎渡山無量院
源頼朝の創建 ー宮谷戸八幡宮ー
内藤昌豊の創建 ー宮谷戸諏訪神社ー
高崎市上室田町・雨堤榛名神社
高崎市本郷町・本郷神社
高崎市上大島町・満行神社
高崎市高浜町・駒形神社
高崎市下室田町・駒寄諏訪神社
源頼朝の腰掛け石 ー北村八幡宮跡ー
高崎市上里見町・春日神社
高崎市宮沢町・抜鉾山長光寺
高崎市宮沢町・抜鉾神社
高崎市本郷町・榛名木戸神社
群馬五郎満行を祀る ー戸榛名神社ー
豊城入彦命の末裔・車持氏を祀る ー車持神社ー
里見城の鬼門除け -城山稲荷神社-
高崎市上里見町・橋場の地蔵尊
群馬県最古の笠塔婆 -安養寺跡の笠塔婆-
高崎市・本庄辻の地蔵尊
高崎市・西間野(猿落し)の磨崖碑
果売箱が狛犬代わり? -高崎下室田・大森神社-
高崎市中室田町・岩井堂
室田之滝不動 -高崎市室田・大福寺-
羊太夫を祀る その2 -多胡神社-
萌え系絵馬 -白山神社-
榛名富士に登ったぞ! ロープウェイでだけど
榛名公園ビジターセンター
木部姫伝説の井戸 -長年寺 その2-
木部姫伝説 -御沼オカミ神社-
高崎市榛名歴史民俗資料館
里見城址に行ってきた?? -里見城址-
里見氏ゆかりの神社 -郷見神社-
里見義俊の菩提寺 -光明寺-
白岩観音 -長谷寺-
長野氏累代の墓 -長年寺-
高崎市榛名山町・榛名神社


旧吉井町
高崎市吉井町・稲荷山真光寺
伝・行基作の聖観音 ー宝珠院ー
高崎市吉井町・西蓮山弘福寺
高崎市吉井町・上奥平の百庚申塔
高崎市吉井町・茂林山宗伝寺
高崎市吉井町・愛宕神社
袂(たもと)観音 ー常行院ー
高崎市吉井町・長根神社
高崎市吉井町・穂積神社
高崎市吉井町・天蓋山金蔵寺
高崎藩絵師・応処斎渕臨の墓
高崎市吉井町・小棚薬師堂
高崎市吉井町・士峯山全林寺
弘法大師が彫った不動明王(谷不動) ー阿夫利神社ー
高崎市吉井町・大武神社
高崎市吉井町黒熊・浅間神社
義民・白田六右衛門の墓 ー龍源寺ー
仁叟寺の三銘木 ー仁叟寺 その4ー
日本一高い十三重石塔 ー仁叟寺 その3ー
県内屈指の大伽藍 ー仁叟寺 その2ー
奧平氏の開基 ー仁叟寺ー
吉井藩代官・橳島家3代の墓 -法林寺-
高崎市吉井町多比良・粟島神社
高崎市吉井町・岩崎神社
高崎市吉井町・岩崎山密蔵院
菅沼定利の墓 ー玄太寺ー
高崎市吉井町・小野小町の休み石
高崎市吉井町多比良・西深沢の石造薬師如来坐像
高崎市吉井町・多比良古墳(諏訪前古墳)
新堀城主・多比良友定の創建 -多比良神社-
義民・三木市右衛門の墓
高崎市吉井町・黒熊山延命寺
関東管領平井城の宝物城 -新堀城跡-
高崎市吉井町・瑠璃山普賢寺
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-
高崎市吉井町・馬庭の薬師堂
高崎市吉井町・恩行寺古墳
鎌倉時代の創建 -恩行寺-
長根氏の居城 -長根城址-
高崎市吉井町・南高原1号古墳
高崎市吉井町・片山1号古墳
羊太夫が乗ってきた舟? -舟石-
高崎市吉井町・御穴塚古墳
羊太夫の龍馬伝説 -随雲寺-
高崎市吉井町・馬庭飯玉神社
吉井藩陣屋跡(春日社跡)
吉井藩主・菅沼定利の氏神 -吉井八幡宮-
高崎市吉井町・馬庭念流道場
利根川100景 -東谷渓谷-
高崎市吉井町・住吉神社
延文の板碑 -折茂観蔵院-
吉井町・小暮の穴薬師
天久沢陣城跡の石造地蔵菩薩坐像
武田信玄の陣城跡 -天久沢観音堂-
細川興秋の末裔・長岡家の供養施設 -弥勒寺-
木曽義仲の父・源義賢の館跡 -多胡館跡-
火打金鍛冶職人・中野孫三郎の墓
情緒のある佇まい -延命密院-
小串氏の墓所と南北朝時代の石仏 -地勝寺-
奥平氏発祥の地 -奥平神社-
多胡郡の総鎮守 -辛科神社-
吉井・多胡薬師塚古墳
吉井藩陣屋の表門
吉井藩の歴史を勉強しました -吉井郷土資料館-
合併記念の碑だった -入野碑-
見晴らしはいいけど・・・ -吉井・牛伏山-


旧新町
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓
高崎市新町・藤木山龍光寺
高崎市新町・八坂神社
高崎市新町・笛木山専福寺
毘沙吐村(埼玉県)から遷座 -高崎市新町・諏訪神社-
義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓
高崎市新町・神流川合戦の供養塔
土師清大夫の墓 -浄泉寺-
元禄と享保の石鳥居が保存されている -高崎市新町・諏訪神社-
小林一茶も寄進 -新町宿見透し灯籠-
遊女奉納の絵馬 -高崎市新町・八幡宮-
大和郡山藩柳沢家2代・柳沢信鴻の継室の墓 -宝勝寺 その2-
小判供養塔 -宝勝寺-
高崎市新町・明治天皇行在所
遊女・於菊物語 -於菊稲荷神社-
戦国時代に想いをはせる -神流川の合戦-


旧倉渕村
高崎市倉渕町・落合の道祖神
高崎市倉渕町・長井石器時代住居跡
長野業盛夫人・藤鶴姫の墓
高崎市倉渕町・石上神社
高崎市倉渕町・榛名山座主の森
権田栗毛の観音像を祀る -岩窟観音-
大戸浦野氏の中興開基 -全透院-
伝・権田栗毛 終焉の地
小栗上野介忠順 終焉の地
小栗上野介の墓 -東善寺-


高崎市吉井町岩井の稲荷山真光寺。

真光寺 (1)
真光寺は寛永年間(1624~45年)に岩井村の名主・岡野氏が、当地を訪れた深誉上人に帰依し創建したという。創建当初は字古屋敷にあったが、元禄3年(1690年)に現在地に移転している。

真光寺 (2)
境内入口の灯籠は平成8年(1996年)の奉納。

真光寺 (3)
真光寺 (4)
本堂は平成27年(2015年)新築建立。本堂前の灯籠は平成29年(2017年)の奉納。本尊の十一面観音は創建当初から祀られている。

真光寺 (5)
真光寺 (6)
宝篋印塔と石尊大権現塔。

真光寺 (7)
墓地入口の六地蔵。平成7年(1995年)の建立。

真光寺 (8)
普門品(ふもんぼん)供養塔。岡野氏の名が刻まれているので、開基の岡野氏の縁者かな。ちなみに普門品とは、法華経の第25品「観世音菩薩普門品」の略称。

真光寺の宝物として、十一面観音と脇侍・大般若経・宝篋印塔(写真)・石尊大権現塔(写真)・普門品供養塔(写真)・木魚・地蔵菩薩立像・弘法大師坐像・興教大師坐像が、高崎市の重文に指定されている。


高崎市吉井町上奥平の奥平山宝珠院正雲寺。

宝珠院 (1)
宝珠院の創建は不詳だが、治承年間(1177~81年)赤松則景の子・氏行が小幡を領し、その子・吉行(奥平氏の祖)が奥平に住して以来、奥平氏の祈願所としている。

赤松氏は室町時代の有力な守護大名として知られるが、奥平氏は赤松氏の末裔と称している。奥平氏は8代・貞俊の時に三河国作手に移り住んでいる。天授年間(1375~81年)とも応永年間(1394~1428年)ともいわれる。

宝珠院 (2)
宝珠院 (3)
本堂などは元は裏山の中腹にあったが、山崩れや暴風雨(台風)などでたびたび被害を受ける。昭和49年(1974年)にも台風により損壊したため、現在地に再建されている。

宝珠院 (4)
宝珠院 (5)
観音堂も本堂同様、現在地に再建されている。

宝珠院 (6)
安置されている聖観音は天平年間(729~49年)当地に立ち寄った行基の作と伝わる。天和3年(1683年)銘の胎内札がある。

宝珠院 (7)
宝珠院 (8)
本堂裏から旧寺域への石段がある。けっこう急な石段だが、訪れる人もいないためか、途中竹が倒れていて尚更登りづらい。

宝珠院 (9)
旧寺域は奥の院とされ、石祠が建っている。昭和49年(1974年)の建立。

宝珠院に伝わる話として、桂昌院(徳川家光の側室で、綱吉の生母)が信州・善光寺参りの途中に当地で病を得、宝珠院の観快に命じて病魔退散の護摩祈祷を行わせたところ病気が快癒。大いに喜び伽藍を建立したという。


高崎市倉渕町三ノ倉の落合の道祖神。落合は字名。

落合の道祖神 (1)
落合の道祖神 (2)
落合の道祖神は、浮世絵を思わせるような夫婦和合の姿を見せる変わった形のものである。多孔質の安山岩製で、宝暦10年(1760年)の銘がある。日差しの関係で右側に影が入り、見づらい写真で申し訳ないです。

現在地に移されたのは昭和35年(1960年)で、以前は中原地区の路傍にあった。この道は草津街道の旧道で、さらには榛名神社の参拝道でもあった。

旧倉渕村は「道祖神の宝庫」といわれる。「道祖神の里めぐり」(イベント)では、道祖神巡りのガイドを倉渕中の生徒さんが行っている。


高崎市箕郷町松之沢の百観音。

松之沢の百観音 (1)
松之沢の百観音は長さ30m、奥行き10mの範囲内に、十一面観音・千手観音・聖観音・如意輪観音などの観音像が合計133体並んでいる。

松之沢の百観音 (2)
松之沢の百観音 (3)
入口正面には六地蔵がある。

松之沢の百観音 (5)
松之沢の百観音 (6)
松之沢の百観音 (7)
松之沢の百観音 (8)
観音像の詳細な造立年代は不明だが、一部に安永(1772~81年)、寛政(1789~1801年)、享和(1801~04年)の元号が読みとれる。

観音像が133体あるので、各地の観音霊場巡りを合計したものと考えられる。四国(33ヶ所)、西国(33ヶ所)板東(33ヶ所)、秩父(34ヶ所)の計133ヶ所かな。現地を巡礼できない人々のために観音霊場を模した観音像を建立し、巡礼したのと同じご利益を得ることができるとされた。

松之沢の百観音 (4)
観音像に囲まれて建つ宝篋印塔。享保12年(1727年)の紀年銘とともに、長純寺・狐俊和尚と信州高遠石工の名が記されている。


高崎市箕郷町善地の上善地の百観音

上善地の百観音 (1)
上善地の百観音は高台の墓地に、墓石を囲むように十一面観音・馬頭観音・聖観音などが並んでいる。126体あると言う。

上善地の百観音 (2)
上善地の百観音 (3)
上善地の百観音 (4)
観音像はすべて舟形光背の浮彫りで、村名と願主名が刻まれている。先に126体あると書いたが、元は133体あったのではないだろうか。各地の観音霊場(四国・西国・坂東・秩父など)巡りを模しているのだと思う。

上善地の百観音 (5)
この墓地の墓石群はすっごく立派なものが多く、地元有力者の一族のお墓なのかな。写真の宝篋印塔には明和7年(1770年)の銘があった。


高崎市下室田町の矢背負稲荷神社。

矢背負稲荷神社 (1)
矢背負稲荷神社 (2)
矢背負稲荷神社の創建は不詳。創建の逸話として、里見義俊が京都・藤森神社を参拝した夜、夢枕に社神が現れ妻黒の矢を賜り「いずれ汝を護りて関東に至らん」と告げた。里見に戻った義俊は領内を巡視したところ、矢を背負った白狐が馬前を通り山中に消えた。後を追ったところ矢が立ててあり、手に取ると夢に見た妻黒の矢であった。そこで、この地に社を建て矢背負稲荷として祀ったという。里見義俊は新田氏の祖・義重の庶長子で、里見氏の祖である。

また他説では、武田勢の鷹留城(箕輪城の支城)攻めの際、山に棲む白狐が霊力で山全体を霧で覆い武田勢を惑わしたが、5日目に流れ矢に当たり霊力を失い霧が晴れ鷹留城は落城した。白狐の死を悼み村人が社を建てたともいわれる。

創建は前者だと鎌倉初期、後者だと室町後期(戦国期)となる。まあ、どっちの逸話も信憑性がある訳ではないけど。

矢背負稲荷神社 (3)
矢背負稲荷神社 (4)
一の鳥居前の駐車スペースから参道(林道)を上っていくと二の鳥居が見えてくる。そんなに遠くない、と言うか思ったより近い。

矢背負稲荷神社 (5)
矢背負稲荷神社 (6)
お社へ上る石段脇には狐像が置かれている。金ピカの狐像も。

矢背負稲荷神社 (7)
矢背負稲荷神社 (8)
お社、上屋は平成8年(1996年)の新築建立。

矢背負稲荷神社 (9)
中には狐像が多数置かれている。これは初午祭の時に、参拝者に対して授けられるもの。これを持ち帰り翌年の初午の際に返し、新たにまた狐像を授かり持ち帰るを繰り返す風習が残されている。


高崎市上室田町の斎渡山無量院。

無量院 (1)
無量院は慶長12年(1607年)上室田村の斎藤三左衛門の開基。

無量院 (2)
無量院 (3)
境内入口に六地蔵や庚申塔・供養塔が並ぶ。

無量院 (4)
無量院 (5)
さらには、閻魔大王像と奪衣婆像も。一般的にこの両像は墓地の入口にあることが多いが、門前に鎮座している。

無量院 (6)
本堂は明治24年(1891年)に焼失、同41年(1908年)に再建されている。昭和34年(1959年)、昭和46年(1971年)に改修・改築されている。

無量院 (7)
境内に果売箱が数個置かれている。一見、狛犬のように見えるが、中国のゴミ箱(オブジェ)だ。知っていて置いているのだろうか? そう言えば、下室田町の大森神社にも置いてあったのを思い出した。無量院とそう遠くないので、何か関係があるのかな。
(「果売箱が狛犬代わり? -高崎下室田・大森神社-」参照)

無量院 (8)
無量院 (9)
無量院 (10)
境内の百番供養塔と石仏群。石仏が多数並らぶ。

無量院 (11)
無量院 (12)
大師堂には空海(弘法大師)像が鎮座する。

無量院は明治42年(1909年)に松仙寺を合併している。松仙寺は下室田町字松山にあったお寺で、江戸期以降松山城の三郭を寺域としていた。松山城は北条方の城で、秀吉の小田原攻め時(天正18年:1590年)に廃城となっている。松山城跡は高崎市の史跡になっている。


高崎市下室田町の宮谷戸八幡宮。
前回の宮谷戸諏訪神社の境内社となる。(「内藤昌豊の創建 ー宮谷戸諏訪神社ー」参照)

宮谷戸八幡宮 (1)
宮谷戸八幡宮は建久6年(1195年)に源賴朝が浅間山麓での巻狩りの際、安達盛長に命じ鶴岡八幡宮の分霊を勧請し創建。後に箕輪城代・内藤昌豊により諏訪神社が境内に勧請されたため、八幡宮の方が境内社となっている。

宮谷戸八幡宮 (2)
宮谷戸八幡宮 (3)
鳥居は平成15年(2003年)の建立。

宮谷戸八幡宮 (4)
宮谷戸八幡宮 (5)
宮谷戸八幡宮 (6)
社殿の建立年などは不明。

それにしても、源氏宗家(源頼朝)の八幡宮が、源氏支族(武田氏)の諏訪神社の境内社になっているのは皮肉なこと。時の権力者により鎮守さまも変わるということ。


高崎市下室田町の宮谷戸諏訪神社。宮谷戸(みやがいと)は字名。

宮谷戸諏訪神社 (1)
宮谷戸諏訪神社 (2)
宮谷戸諏訪神社は武田信玄の箕輪城攻略後、箕輪城城代となった内藤昌豊が当地の八幡宮境内に下諏訪明神の分霊を勧請し、村の惣鎮守としたといわれる。箕輪城落城は永禄9年(1566年)で、内藤昌豊が城代になったのは元亀元年(1570年)なので、その頃の創建と思われる。

宮谷戸諏訪神社 (3)
宮谷戸諏訪神社 (4)
宮谷戸諏訪神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

宮谷戸諏訪神社 (6)
明治期に合祀された他社(神明宮、稲荷社、八坂社など)の旧社が保存されている。上屋は昭和56年(1981年)に新築されている。

安永6年(1777年)の古文書が残されており、それには初代神主は大沢内記藤原貞友と言い、弘治4年(1558年)に没したと記されている。そうすると、創建はもう少し早くなる。

ただ、弘治4年には長野業正がまだ健在なので(業正没は永禄4年:1561年)、武田氏が諏訪神社を勧請するのは不自然である。やはり宮谷戸諏訪神社の創建は、当地が武田氏の影響下になった後と考える方が自然かな。


高崎市上室田町の雨堤榛名神社。雨堤は字名。

雨堤榛名神社 (1)
雨堤榛名神社は長禄年間(1457~60年)に小加部氏が榛名神社の分霊を勧請したと伝わる。明治初めに一時期雨堤神社と改称したが、明治6年(1873年)に榛名神社に戻している。

鳥居前の灯籠は昭和10年(1935年)の奉納。

雨堤榛名神社 (2)
雨堤榛名神社 (3)
雨堤榛名神社 (4)
社殿は慶長2年(1597年)に長壁・斎藤両家が建立。長壁家が代々別当家として奉祀してしてきた。現在の社殿の建立年などは不明。

雨堤榛名神社 (5)
明治10年(1877年)に大山津見神を合祀している。

雨堤榛名神社 (6)
明治41年(1908年)には近隣の他社(八坂社・厳島社・稲荷社など)を合祀している。

雨堤榛名神社 (7)
拝殿脇に力石らしき石があった。力石は力試しに用いられる大きな石。日本各地で鍛錬や娯楽として力試しが、江戸時代から明治時代まで盛んに行われていた。県内の神社にも、力石が残されいるところがある。(「力石」で検索してもらえれば数社出てきます)

*力石でない可能性も、もちろんあります。違っていたらごめんなさい。


高崎市本郷町の本郷神社。

本郷神社 (1)
本郷神社 (2)
本郷神社は神明宮として創建(由緒は不詳)。当地の字名は伊勢ノ森ということからも、天照大神を祀ったことが分かる。明治43年(1910年)に村内他社(菅原神社、榛名神社など)を合祀し本郷神社と改称している。

石段を上り一の鳥居、また石段を上り二の鳥居(その先が境内)。神社前を走る県道29号からは、かなり高い位置に鎮座している。

本郷神社 (3)
本郷神社 (4)
社殿は明治24年(1891年)の建立。大正12年(1923年)に幣殿を追加建立している。

本郷神社 (5)
本郷神社 (6)
境内社の菅原社。なぜか狐像が置かれている。そう言えば、高浜町の駒形神社の境内社・天神社にも狐像が置かれていた。(「高崎市高浜町・駒形神社」参照)

本郷神社 (7)
本郷神社 (8)
本郷神社 (9)
社殿裏にケヤキの大木がある。ご神木だろうか。根元は空洞化しており、大人でも余裕で入れる大きさになっている。だからと言って、弱っているようには見えない。


高崎市上大島町の満行神社。

満行神社 (1)
満行神社 (2)
満行神社は「上野国神名帳」記載の大島明神(創建年は不詳)とされる。大島地区には大島明神が2社(上大島と下大島に各1社)あったが、明治42年(1909年)にいずれも八幡八幡宮に合祀されている。

数年後、上大島地区の有志が社殿を建立し、八幡八幡宮より分祀し満行神社として再祀した。満行神社としては明治末から大正初めの創建となる。

鳥居は平成22年(2010年)の改修。

満行神社 (3)
満行神社 (4)
社殿は満行神社として再祀した際の建立。社殿前の新しい灯籠は平成22年(2010年)の奉納。

満行神社 (5)
満行神社 (6)
境内社の稲荷神社。

満行神社 (7)
末社。社名は分からないが、石祠に安永(1772~81年)の銘が読み取れた。安永銘の石祠があることから、当所は上大島・大島明神の旧地なのかな。


高崎市高浜町の駒形神社。

高浜駒形神社 (1)
高浜駒形神社 (2)
高浜駒形神社の創建年代は不詳だが、牧畜が盛んだったため人・畜馬の健康を祈念するために創建されたといわれる。一説には鎌倉時代とも伝わる。

高浜駒形神社 (3)
高浜駒形神社 (4)
一時衰退していたが、享徳2年(1453年)に村の人々が資金を出し合い社殿を改築し、村の鎮守としている。享徳2年の棟札が残っている。

現在の社殿の建立年などは不明。社殿前の狛犬は平成4年(1992年)、灯籠は平成6年(1994年)の奉納。

高浜駒形神社 (5)
手水舎は平成19年(2007年)の奉納。

高浜駒形神社 (6)
高浜駒形神社 (7)
高浜駒形神社 (8)
境内社の天神社。でもなぜか狐像が置かれている。明治41年(1908年)に村内の田子稲荷神社などを合祀しているので、その狐像かな。

直接的には関係ないが、前橋市には駒形町があり駒形神社も鎮座している。名馬「磨墨」の蹄と伝えれれるものがご神体の一部となっている。
(「名馬『磨墨』の蹄がご神体 -駒形神社-」参照)


高崎市下室田町の駒寄諏訪神社。

駒寄諏訪神社 (1)
駒寄諏訪神社の創建年は不詳だが、八坂神社として創建。一説には里見義尭の創建ともいわれる。ただ、義尭は安房里見氏の第5代なので、上野国との繋がりはよく分からない。

灯籠は昭和26年(1951年)奉納。「講和記念」とあったので、サンフランシスコ講和条約の締結で、戦後日本が独立した記念のようだ。

駒寄諏訪神社 (2)
駒寄諏訪神社 (3)
駒寄諏訪神社 (4)
天文20年(1551年)諏訪貞俊が社殿を改築し、諏訪明神を追祀して諏訪神社となっている。諏訪貞俊についてはよく分からない。また他説では武田信玄の箕輪城攻略時、下諏訪明神の分霊を祀り諏訪神社としたともいわれる。

駒寄諏訪神社 (5)
社殿裏の末社群。実はこの中に創建社である八坂神社もある(どれだか分からなかった)。

駒寄諏訪神社 (6)
駒寄諏訪神社 (7)
駒寄諏訪神社 (8)
境内社の玉造稲荷神社。玉造稲荷に関しては次のような伝承が残されている。

時代は不明だが、路傍で人や馬が怪我をすることが多く、住民は難儀をしていた。ある時、旅の行者が玉造稲荷で祈祷した折、石が障りとなっているので取り出して玉造稲荷に祀るよう告げた。住民が掘り出してみると、石に日や月の図と庚申の文字が描かれていた。その石を祀ったところ、災いは起きなくなったという。

中を覗いてみたが、それらしき石は見当たらなかった。地元の方々は諏訪神社を「大社」、玉造稲荷を「小社」と呼んでいる。


高崎市下里見町の北村八幡宮跡。
現在は北村地区の公民館になっている。

北村八幡宮跡 (1)
北村八幡宮の創建は不詳。北村地区の総鎮守で、地域住民の方々から厚く崇敬された。明治43年(1910年)に郷見神社に合祀され、現在は石宮が残されているのみである。旧社殿(祠)は郷見(さとみ)神社に保存されている。
(郷見神社は「里見氏ゆかりの神社 -郷見神社-」参照)

北村八幡宮跡 (2)
北村八幡宮跡 (3)
源頼朝が建久4年(1193年)に行った浅間山麓での巻狩りの帰途、北村八幡宮に参拝した際に腰を掛け休んだ石とされる。また、馬に乗る時には踏み台にしたという。周りにも似たような石が置かれており、写真の石かはちょっと微妙な面もあるが、案内板に「祠の後ろ」と書いてあったので信じるしかない。

通常、他社に合祀されると旧地には何も残らないものだが、頼朝の腰掛け石(伝承)があったため、石祠を新たに建立し残したんだと思う。

ちなみに群馬県内には「日本武尊」「明治天皇」「源義家」「水戸黄門(徳川光圀)」の腰掛け石もある。明治天皇以外は真偽不明だが。すべて記事があるので、興味があったら検索してみてください。


高崎市上里見町の春日神社。

上里見春日神社 (1)
上里見春日神社 (2)
上里見春日神社は寛文4年(1664年)に建御電命(雷神)を祀る神社として創建。享保9年(1724年)に別当寺住職や氏子代表が京都から春日大社の御幣帛を持ち帰り春日神社となっている。当時、雷による被害多発したため、建御電命を鎮めるためとされる。

鳥居は昭和51年(1976年)の建立。

上里見春日神社 (3)
上里見春日神社 (4)
上里見春日神社 (5)
社殿は大正10年(1921年)の建立。拝殿は昭和17年(1942年)に焼失、昭和19年(1944年)の再建。平成10年(1998年)に瓦葺きに改修されている。

上里見春日神社 (6)
上里見春日神社 (7)
上里見春日神社 (8)
上里見春日神社 (9)
本殿は間口七尺・行九尺の権現造りで、色彩彫刻が施されている。題材は分からないが、素晴らしい彫刻だ。

上里見春日神社 (10)
上里見春日神社 (11)
神楽殿は大正10年(1921年)の建立。

上里見春日神社 (16)
社殿脇(県道130号側)に宝物庫らしき建物(左)と境内社がある。建物の中には御神輿があった。

上里見春日神社 (17)
上里見春日神社 (18)
上里見春日神社 (19)
右側は「安産大神」とある。中を見ると狐像があるので稲荷神社かと思うが、安産の神徳を持つ神様は多いのでよく分からない。

上里見春日神社 (14)
上里見春日神社 (15)
社殿裏の境内社・末社群。明治42年(1909年)に上里見地区の他社を合祀している。

上里見春日神社 (12)
上里見春日神社 (13)
境内末社の熊野三社。明治35年(1902年)に合祀されている。神山宿の問屋だった中曽根氏が氏神として寛永年間(1624~45年)に祀ったものといわれる。ちなみに熊野三社とは、熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社のこと。

上里見地区は草津街道(現在の国道406号)の宿場町で、神山宿と呼ばれた。現在も宿場町を連想させる旧家(古民家)が道路沿いに残っている。


高崎市宮沢町の抜鉾山長光寺。

長光寺 (1)
長光寺は永禄5年(1562年)長野氏家臣・清水主膳貞義の創建。開山は英光法印。抜鉾山の山号から見ると、抜鉾神社の別当寺だったのかと思う。
(宮沢抜鉾神社は「高崎市宮沢町・抜鉾神社」参照)

長光寺 (2)
門前には二十二夜塔などが並んでいる。

長光寺 (3)
長光寺 (4)
本堂は明治11年(1878年)に焼失。翌年、境外所有地(現在地)に再建されている。旧地は小学校用地とされたというが、現在の宮沢小かは分からない。

長光寺 (5)
ぼけ封じ観音像。「何とかぼけのない楽しい老後を過ごせますよう」建立したとある。

長光寺 (6)
墓地入口にあった、とあるお宅のご先祖供養塔。家系縁由が書かれており、南北朝期に活躍した北畠顕家の末裔という。その後、近江国に在ったご先祖様は延暦寺から迫害されていた本願寺蓮如を助けたため、延暦寺から狙われたので当地に逃れてきた、と言うようなことが書かれていた。

北畠家は村上天皇の第7皇子・具平親王(ともひらしんのう)を祖とする源氏の一族。すごいご家系だね。


高崎市宮沢町の抜鉾神社。

宮沢抜鉾神社 (1)
宮沢抜鉾神社 (2)
宮沢抜鉾神社は貞観3年(861年)甘楽郡抜鉾神社(貫前神社)の分霊を字大間に勧請したと伝わる。その後現在地(字行人塚)に遷座している。上野国神名帳記載の抜鉾若御子明神は当社とされる。

鳥居は享保(1716~36年)の建立。奉納者のお名前もまだしっかり読める状態。

宮沢抜鉾神社 (3)
境内奥側の入口にも鳥居が建っている。

宮沢抜鉾神社 (4)
宮沢抜鉾神社 (5)
拝殿の建立年は不明だが、ちょっと老朽化気味。

宮沢抜鉾神社 (6)
経津主神を祀る本殿(上屋)は大正5年(1916年)の建立。

宮沢抜鉾神社 (7)
宮沢抜鉾神社 (8)
社殿横の建屋。中にあるのは相殿4座(天照大神、建御名方神、八坂刀売神、倉稲魂命)だと思われる。

宮沢抜鉾神社 (9)
現在も創建時の石祠があるとのことだが、そこまで古いものは見当たらなかった。写真は明治期に合祀されたと思われる境内社。

ちょっと草が生い茂っていて難渋。まあ、例祭前などは刈られるのだろうが。


高崎市箕郷町西明屋の照明山光徳寺。

光徳寺 (1)
光徳寺 (2)
光徳寺 (3)
光徳寺は応永2年(1395年)然哲和尚の開山。明治2年(1869年)に火災により古墳書などを焼失し由緒詳細は不明(群馬郡誌)。

箕郷町誌には誓願上人が保渡田・西願寺から箕輪に移り大信寺を創建。井伊時代に大信寺は高崎に移り、その跡地に光徳寺が建立されたとある。だいぶ年代が違うが、応永2年に創建されていた光徳寺が移転したのか、大信寺移転後に新規に創建されたのかは分からない。

光徳寺 (4)
光徳寺 (5)
光徳寺 (6)
境内の秋葉宮。遠州(静岡県)の秋葉山本宮神社から勧請(勧請年などは不明)。火の神である火産霊神(ほむすびのかみ)を祀る。覆屋・内宮などは昭和63年(1988年)に改修されている。

当地では火災が多く、防火の願いを込め光り徳寺境内に祀られたと考えられている。

ちなみに、火産霊神は伊邪那岐(いざなぎ)と伊邪那美(いざなみ)の間の子だが、火の神であるため出産時に伊邪那美の陰部が火傷し、これが元で伊邪那美は死んでしまう。その後、怒った伊邪那岐は火産霊神を殺してしまうというバイオレンスな神話になっている。


高崎市吉井町本郷の西蓮山弘福寺。

弘福寺 (1)
弘福寺は延宝3年(1675年)覚忍上人の創建。

弘福寺 (2)
弘福寺 (3)
本堂には本尊の五大尊明王を祀る。五大尊明王とは、不動明王・隆三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五明王のこと。真言宗の伝承される密教(東密)の形態である。

弘福寺 (4)
庚申塔と甲子塔。井池堂とあるので、応処斎渕臨の書(揮毫)と思われる。
(応処斎渕臨に関しては「高碕藩絵師・応処斎渕臨の墓」参照)

弘福寺 (5)
普門品供養塔と光明真言百万遍供養塔。普門品供養塔は法華経のうちの観音経を、光明真言供養塔は光明真言(梵字23文字)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。光明真言供養塔には寛政(1789~1801年)の銘がある。

弘福寺 (6)
六地蔵は平成16年(2004年)の建立。

弘福寺 (7)
弘福寺 (8)
十三仏巡り。令和元年(2019年)の造立。三途の川(石積み)も模してあった。

弘福寺 (9)
斎藤利安の墓。宝暦10年(1760年)本郷村の生まれ。幼時から学問を好み、農業を営むかたわら私塾を開き門弟を育てる。応処斎渕臨の書の師匠にあたる。天保5年(1834年)74歳で死去。弟子たちが墓石を建立している。

弘福寺には円空仏(高崎市の重文)がある。昭和50年(1975年)に位牌堂に安置されているのを発見された。寺伝では近くの民家にあったものを寺に納めたものといわれる。


高崎市吉井町上奥平の百庚申塔。

上奥平の百庚申 (1)
上奥平の百庚申塔は寛政12年(1800年)名主・茂原三郎左衛門が中心となり造立されている。

上奥平の百庚申 (2)
上奥平の百庚申 (3)
上奥平の百庚申 (4)
東西に走る尾根に沿って、様々な形の庚申塔が置かれている。実際にいくつあるかは分からない。山道はきれいに整備されている。

上奥平の百庚申 (5)
尾根最高部にある親庚申塔。高さ2.3m。裏面には願主の茂原三郎左衛門の名が刻まれている。

上奥平の百庚申 (6)
親庚申塔を囲むようにも庚申塔が置かれている。

上奥平の百庚申 (7)
親庚申塔の隣には、御獄大神・三笠大神・八海山大神の塔がある。

明治期に庚申信仰は迷信とされ、多くの庚申塔が撤去されている、また道路脇の庚申塔などは近年開発の影響で、やはり撤去や移転を余儀なくされている。そんな中、失礼ながら田舎の尾根沿いという立地条件から、多くが造立時の状態で残っているのは貴重である。


高崎市吉井町上奥平の茂林山宗伝寺。

宗伝寺 (1)
宗伝寺は延宝2年(1674年)上奥平村名主・茂原氏の開基、高崎下之城・徳昌寺8世芳瑞快喜和尚の開山。開基の茂原氏は関東管領・上杉憲政に仕え黒熊村(現吉井町黒熊)を所領していたとされる。その後、上奥平村に土着・帰農している。

宗伝寺 (2)
門前(と言うか道路沿い)には馬頭観音塔や青面金剛像などが並ぶ。

宗伝寺 (3)
宗伝寺 (4)
本堂の建立年などは不明。

宗伝寺 (5)
一段高いところに六地蔵。

宗伝寺 (6)
宝篋印塔(不完全)と二十二夜塔(如意輪観音)。二十二夜塔には天明6年(1786年)の銘がある。

宗伝寺には明治7年(1874年)奧平学校が開設されている(現、岩平小学校)。また境内に舞台があったが、明治末に奧平小学校建設資材とするために取り壊されている。


高崎市吉井町吉井の愛宕神社。

吉井愛宕神社 (1)
吉井愛宕神社 (2)
吉井愛宕神社の創建は不詳。愛宕神は往古より火防の神として庶民の崇敬が厚い。鳥居は昭和46年(1971年)の建立。

吉井愛宕神社 (3)
吉井愛宕神社 (4)
鳥居は北向だが、社殿は東向き。社殿は昭和24年(1948年)の建立。近年に修復されているようだ。境内が狭く、正面からの写真が撮れなかった。

吉井愛宕神社 (5)
右側が火産霊神と思うが、左側は分からない。

吉井愛宕神社 (6)
社殿前の灯籠には天明6年(1786年)の銘があった。

当社で毎年行われる祇園祭は神輿の渡御と花車の町内巡幸がある。昭和30年(1950年)代までは「吉井のあばれ神輿」と呼ばれ、世良田村(現在太田市世良田)八坂神社の天王祭と並び称された。その後、神輿は子供神輿となり、往時の激しさはなくなっている。まあ、それはそれで時代の流れというもの。
(世良田八坂神社は「世良田祇園 ー八坂神社ー」参照)


高崎市吉井町長根の補陀落山常行院長福寺。

常行院 (1)
常行院 (2)
常行院は文保2年(1318年)の開創と伝わる。

常行院 (3)
良源(慈恵大師)を祀る大師堂。良源は一般的に元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。平安時代の天台座種(天台宗の最高位)で、比叡山延暦寺の中興の祖とされる。

常行院 (4)
本堂から一段低いところに観音堂がある。観音堂は寛延2年(1749年)の再建との記録が残っている。最近では平成元年(1989年)に修復されている。

本尊は千手観音で「袂(たもと)観音」と呼ばれ、康暦2年(1380年)行基の作とされる。ただ行基は奈良時代の人なので、年代がまったく合わないのはご愛敬。また康暦は南北朝の北朝の年号で、南朝では天授6年となる。

袂観音と呼ばれるのは、ある長者の娘の逸話からのようだ。ある長者の娘が望まぬ結婚を強いられ家を出てしまい、慌てた父母は後を追い多胡郡長根村で娘に追いつき、逃げようとする娘の袂(和服の袖付けから下の袋のように垂れた部分)を引っ張ったが袂は千切れてしまった。千切れた袂が堂内に入ったので調べたが、堂内には千手観音像があるだけで、娘の姿は消えてしまった。それ以来、千手観音は袂観音と呼ばれるようになったという。

また、堂内には狩野法眼が奉納した馬の絵馬がある、この絵馬にも逸話が残っている。絵の中の馬が夜中に抜け出し田畑の麦などを食い荒らし、村人を困らせた。そこで法眼が草を描き添え、馬に鼻綱を付けて杭に止めたら、馬の野荒らしがなくなったという。

常行院 (5)
観音堂前のラカンマキ。目通り2.3m、根元周り2.5mで、樹齢は約600年とされる。

常行院 (6)
観音堂境内の板碑。紀年銘などは分からなかった。観音堂の近くには南北朝期の板碑が多数あったが、今は散逸してその数は減ってしまったという。


高崎市吉井町長根の長根神社。

長根神社 (1)
長根神社 (2)
長根神社は明治45年(1912年)長根村内の5社とその境内社を合併し、新たに長根神社として現在地に創建。長根神社の主祭神は菅原道真なので、合祀したうちの天神社が母体になっているようだ。

長根神社 (3)
長根城の一部(中腹)に位置するため、けっこうな石段を上っていく。
(長根城は「長根氏の居城 -長根城址-」参照)

長根神社 (4)
狛犬は昭和54年(1979年)の奉納。

長根神社 (5)
長根神社 (6)
拝殿は平成23年(2011年)の新築建立。合祀から100年を記念してしてのようだ。拝殿前の灯籠も同年の奉納。

長根神社 (7)
本殿は平成3年(1991年)に改築されている。こちらは合祀から80年を記念しての改築。拝殿も本殿も老朽化したので、合祀の周年記念事業として行ったのだろう。

長根神社 (8)
蚕影山大神塔と己巳塔。己巳塔は弁天さまを主尊として富や福を願い、己巳の日などに集まって供養する巳待講の祈念碑である。

長根神社 (9)
石段脇などに多くの記念植樹がある。「小学校卒業生一同」「卒業生男子一同」「卒業生女子一同」などの名札がかかっている。長根地区にある吉井西小の伝統かな。

長根神社には社宝として鰐口がある。天正17年(1589年)に小林豊後守秀政が熊野神社(長根神社合祀の一社)に子孫繁栄を祈願し奉献したもの。秀政6代の孫・久佐衛門秀音が延享4年(1747年)に補修のうえ再献している。

秀政の末裔・小林家に伝わる小林家系図では、秀政の法名を「天祐院殿仁叟貞訓大居士」と記している。これは仁叟寺の開基とされる奧平氏の法名と同一である。奧平氏と小林氏の関係、仁叟寺と小林氏の関係などは分からない。(「奧平氏の開基 ー仁叟寺ー」参照)


高崎市吉井町本郷の穂積神社。

穂積神社 (1)
穂積神社 (2)
穂積神社はもともとは火蛇神社で、その創建などは不詳。明治42年(1909年)に片山村、小棚村、本郷村の神社を合祀し、新たに穂積神社と改称している。

鳥居は平成8年(1996年)の建立。

穂積神社 (3)
社殿は合祀した片山村の科社神社からの移築。社殿前の狛犬は平成10年(1998年)の奉納。

穂積神社 (4)
穂積神社 (5)
穂積神社 (6)
高床流れ造りの本殿には、龍や鶴の壁画が描かれている(保護用のアクリル板により見づらいが)。

穂積神社 (7)
高崎藩の絵師を務めた応処斎渕臨の神楽「式三番」の奉納額。慶応3年(1867年)の作。すっかり色あせて、何も見えなくなっている。
(応処斎渕臨については「応処斎渕臨の墓」参照)

穂積神社 (8)
穂積神社 (9)
社殿裏の境内社・末社群。どれか分からなかったが、寛永10年(1633年)銘の石祠があるようだ。

穂積神社 (10)
御大典紀念とある。昭和天皇の即位を祝してのものかな。

穂積神社 (11)
ほとんどの灯籠に「キケン さわらないで」の貼り紙が。台座が老朽化し、倒壊の恐れがあるのだろう。写真の灯籠には文政2年(1819年)の銘があった。

穂積神社 (12)
実際にいくつかの灯籠は倒壊している。でも復元するわけでもなく、撤去するわけでもなく。

穂積神社には社宝として、伯耆守信高の刀一振りがある。伯耆守信高は戦国期から江戸前期の刀剣師。3代目は尾張徳川家のお抱え鍛冶となっている。


高崎市吉井町片山の天蓋山金蔵寺。

金蔵寺 (1)
金蔵寺は天正6年(1578年)の創建と伝わる。

金蔵寺 (2)
門前には立派な松がそびえ立つ。目通り2.3m、高さ13mで、樹齢は200年と推定される。枝張りは東西15m、南北17mに及ぶ。

金蔵寺 (3)
金蔵寺 (4)
門前の六地蔵や石仏群。

金蔵寺 (5)
本堂は近年の建立らしく新しい。あまりお寺の本堂っぽくないが、本尊の愛染地蔵を祀る。また、木彫仏像「十王像及び奪衣婆、地蔵」が計12体ある(高崎市の重文)。

金蔵寺 (6)
三界萬霊塔はツタに覆われている。宝塔の姿はまったく見えない状態。

金蔵寺 (7)
本堂西の道路側にカヤの大木がある。目通り6.6m、樹高16m。道路の電線に届く勢いだ。電線側の枝張りが不自然なので、枝の剪定を繰り返しているのだろう。


高崎市吉井町片山の応処斎渕臨の墓。

応処斎渕臨の墓
応処斎渕臨は文化2年(1805年)吉井町片山に生まれる。本名は横尾佐十郎義之。江戸に出て江戸御絵所・狩野探渕守真に学ぶ。第一高弟となり、探渕から一文字を受け「渕臨」と号す。

吉井に帰郷後は高崎藩の絵師となり、多くの門弟を育てる。山水・仏画・鶴亀・人物画を能くし、吉井近隣の寺社に現存している。本郷村(現吉井町本郷)の斎藤利安に学んだ書も優れ、「井池堂」と号している。

明治3年(1870年)66歳で没す、横尾家墓地に葬られる。墓碑は門弟らによって建てられている。


高崎市吉井町小棚の薬師堂。

小棚薬師堂 (1)
小棚薬師堂 (2)
小棚薬師堂は昭和3年(1928年)太田市の反町薬師(照明寺)からお札をいただき建立。お堂は平成元年(1989年)に改築されている。

小棚薬師堂 (3)
薬師如来石像が多数並んでいる。いずれも昭和以降の造立かな。願掛け・成就による返納のしきたりがあるのかもしれない。

小棚薬師堂 (4)
小棚薬師堂 (5)
平成元年のお堂改築時、地区内に散在していた地蔵像・馬頭観音像・庚申塔などを集積している。

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