上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 高崎市(旧群馬郡)


高崎市後疋間町の福守神社。

福守神社 (1)
福守神社 (2)
福守神社は延宝6年(1678年)の創建と伝わる。

福守神社 (3)
福守神社 (4)
二ノ鳥居は「諏訪大明神」。合祀された諏訪神社の旧鳥居のようだ。

福守神社 (5)
境内は細長く、途中にある灯籠は天保14年(1843年)の奉納。

福守神社 (6)
福守神社 (7)
福守神社 (8)
社殿内には創建時の建立とされる総ケヤキ造りの本殿が鎮座する。ご神体は男根形で「お姿」と呼ばれる。この「お姿」を借りて神棚に安置して祈願すれば、子宝に恵まれるとされる。

福守神社 (9)
願いが成就したお礼参り時には、木製の「お姿」を奉納する風習がある。社殿内には数多くの「お姿」があったが、社殿改築の際に大部分が処分され現在は数少なくなっている。

福守神社 (10)
境内社の秋葉社、天満宮など。

福守神社 (11)
社殿前に大きな切り株がある。これはご神木の椋の木のもの。推定樹齢250年の椋の木は、高さ20m・幹周り10m超の大木であったが、枯死化が進み倒木の危険性が出てきたたため、平成23年(2011年)に伐採されている。

福守神社 (12)
伐採された椋の木は、歴史を示す展示物として現在も境内に置かれている。


高崎市後疋間町の宝塔。

後疋間の宝塔
後疋間の宝塔は基礎部に随求陀羅尼と光明真言の経文を刻み、生前に供養したことを示す逆修の文字もある。向かって右の宝塔は文安3年(1446年)、左の宝塔は宝徳元年(1449年)の銘がある(中央は江戸時代の石塔)。

県内の宝塔で紀年銘があり完全な形をしているものは少ないので、貴重な存在である。


高崎市西国分町の日光・月光菩薩石像。

日光・月光菩薩石像
日光菩薩石像(向かって左)と月光菩薩石像(右)。日光像は総高50cm、像高41cm。月光像は総高60cm、像高42cm。南北朝期の造立と考えられている。

一般的に日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍仏とされているので、薬師如来像と合わせ薬師三尊像であったと思われる。


高崎市西国分町の熊野神社。

西国分熊野神社 (1)
西国分熊野神社 (2)
西国分熊野神社の創建は不詳だが、大蔵坊という山伏の坊が紀州熊野三山(本宮・新宮・那智)を勧請したと伝わる。

鳥居は平成9年(1997年)の建立。

西国分熊野神社 (3)
玉垣や境内の整備が昭和63年(1988年)に行われている。

西国分熊野神社 (4)
西国分熊野神社 (5)
西国分熊野神社 (6)
社殿は昭和27年(1952年)に改修(拝殿は全面改築修、本殿は銅板葺へ)されている。これは境内あったケヤキの大木を伐採した資金による。

西国分熊野神社 (7)
西国分熊野神社 (8)
拝殿脇障子の彫刻。

西国分熊野神社 (9)
西国分熊野神社 (10)
蠶(蚕)影太神と境内社・末社の石宮群。

西国分熊野神社 (11)
庚申塔が集積されているが、ちょっと乱雑。

西国分熊野神社 (12)
双体道祖神も集積されている。ひとつには元文(1736~41年)の銘が読読み取れた。

由緒に出てくる大蔵坊は、本山修験宗の総本山である聖護院の門跡・道興准后が文明18年から19年(1486~87年)にかけての東国廻国をまとめた「廻国雑記」中に、上野国の国分で大蔵坊に滞留したと記述されている。この大蔵坊の主家には、今も多くの古文書が残されているという。


高崎市東国分町の国分山常安寺。

常安寺 (1)
常安寺 (2)
常安寺は慶安4年(1651年)法印自賢覚仙の開山、当地の庄屋・盛次の開基と伝わる。文化4年(1807年)隣家の失火により類焼、文化7年(1810年)再建。現在の本堂の様子から無住になって久しいようだ。

常安寺 (3)
境内の宝篋印塔。総高6mに及ぶ大きなもので、当地の住谷勝造が寛政元年(1789年)に造立。銘に「石工信州高遠御堂垣外村住、保科増衛門英親」とある。

常安寺 (4)
常安寺 (5)
墓地の小さなお堂には「へそ抜き観音」が安置されている。石宮には寛永7年(1630年)の銘があった。

観音像は石宮内のため見ることは出来ないが、観音像のお腹に穴が開いている。この穴に指を入れるとお腹が痛くなるといわれる。安産の観音さまとされており、お産を軽くするため指を入れる人が多いという。

常安寺 (6)
常安寺 (7)
歴代住職の墓(無縫塔)の中の行人塚。延宝4年(1676年)に即身仏になったという窩啓法印を葬ったもの。無縫塔の台石に開いている穴は空気取り用の穴とされる。


高崎市稲荷台町の大国主命の石碑。

大国主命の石碑
大国主命の石碑は元治元年(1864年)に稲荷神社の境外碑として造立されている。その石は榛名山から引いてきたと伝わる。台座は国分寺跡の礎石を使っている。
(稲荷神社は「高崎市稲荷台町・稲荷神社」参照)

書は中澤雪城。雪城は越後長岡の生まれで巻菱湖(まきりょうこ)の門に入る。流麗な書風をもって大いに流行し、生方鼎斎らとともに菱湖四天王の一人に数えられた。雪城の手がけた石碑は全国で28基確認されており、この「大国主命の石碑」はその内のひとつである。


高崎市稲荷台町の稲荷神社。

稲荷台稲荷神社 (1)
稲荷台稲荷神社 (2)
稲荷台稲荷神社は元禄15年(1702年)の創建と伝わる。鳥居は安永7年(1776年)の建立。

稲荷台稲荷神社 (3)
稲荷台稲荷神社 (4)
現在の社殿の建立年は不明だが、昭和35年(1960年)に瓦葺きに、平成18年(2006年)にも改修が行われている。

稲荷台稲荷神社 (5)
社殿脇に石宮や石仏が数多く鎮座している。詳細は分からない。

稲荷台村は江戸初期に総社藩・秋元氏の命により、藤井八左衛門を先達に22軒が入植・開拓したという。そして村の発展とともに穀物・農業の神である倉稲魂命を祀り鎮守としたという。


高崎市中泉町の八幡山医光寺。

医光寺 (1)
医光寺は宝徳2年(1450年)恵信阿闍梨の開創と伝わる。八幡山の山号から八幡宮の別当寺であったと考えられる。(八幡宮は「高崎市中泉町・八幡宮」参照)

医光寺 (2)
門前の薬師堂。由緒は不明。

医光寺 (3)
医光寺 (4)
医光寺 (5)
薬師堂前には石仏や石祠が並んでいる。中ほどの地蔵像の下に六地蔵が彫られている。明らかに別物で、六地蔵石幢の幢身上にお地蔵さんを置いている。

医光寺 (6)
二十二夜講の如意輪観音像。

医光寺 (7)
医光寺 (8)
医光寺 (9)
新旧のお地蔵さんと五輪塔が並んでいる。この五輪塔も六地蔵石幢の幢身と組み合わせている。先の地蔵像もそうだが、何のためにこんなことを?

医光寺 (10)
医光寺 (11)
本堂は平成30年(2018年)の新築建立。

医光寺 (12)
旧本堂の瓦と思われる。旧本堂は明治初年に瓦葺きに改築されている(棟札が残っている)。

医光寺 (13)
石造十三重塔。

医光寺 (14)
境内のしだれ桜。貞享2年(1685年)に高崎市下滝町の慈眼寺から根分けされたもの。樹齢は約340年になる。
(しだれ桜には触れていないが慈眼寺は「江原源左衛門重久の墓・華敷山慈眼寺」参照)


高崎市中泉町の八幡宮。

中泉八幡宮 (1)
中泉八幡宮の由緒は不詳。源義家が奥州平定の途上、当社に戦勝祈願をしたと伝えられる。その後、鎌倉後期・室町初期に兵火により焼失、戦国時代に長野氏が再建したといわれる。

中泉八幡宮 (2)
灯籠は昭和11年(1936年)の奉納。

中泉八幡宮 (3)
中泉八幡宮 (4)
中泉八幡宮 (5)
社殿は江戸末から明治初期の建立といわれる。本殿内にはご祭神・誉田別命の木彫りの立像が安置されている。

中泉八幡宮 (6)
中泉八幡宮 (7)
中泉八幡宮 (8)
社殿裏の黒髪山大神と八坂神社、蠶(蚕)霊大神、天満宮(写真上から)の石塔。

隣接(南)の福島町の浅間神社も源義家が奥州平定(後三年の役)途上のおり戦勝祈願をしたとされている。(「高崎市福島町・浅間神社」参照)


高崎市福島町の浅間神社。

福島浅間神社 (1)
福島浅間神社 (2)
福島浅間神社の由緒は不詳。社伝によると源義家が奥州平定を祈願し、鎌倉権五郎景正を遣わし幣帛(へいはく)を捧げたとされる。この伝承からすると、平安時代末には創建されていたことになる。

鳥居は東向きで、扁額は「富士山」。

福島浅間神社 (3)
福島浅間神社 (4)
拝殿は令和元年(2019年)の新築建立。本殿は盛り土された上に建つ。本殿覆屋は建て直されていないようだ。

拝殿前の狛犬は昭和63年(1988年)の造立。氏子の方の喜寿記念の奉納。

福島浅間神社 (5)
境内社の菅原神社。石祠は平成16年(2004年)の建立。

福島浅間神社 (6)
福島浅間神社 (7)
石塔(上の写真)は3基とも読めなかった。石宮や祠など(下の写真)は詳細不明。

社伝にある源義家と鎌倉景正の伝承は後三年の役へ向かう途上のことと考えられるが、両者ともに県内に多くの伝承を残している。義家が創建したとされる八幡神社は数多い。また「休み石」や「硯石」など、その名を冠する伝承石もある。

景正に関しても、伊勢崎市の五郎神社にご祭神として祀られている他、各地に伝承が残されている。

興味がある方はブログ内検索をしてみてください。


高崎市三ツ寺町の諏訪神社。

三ツ寺諏訪神社 (1)
三ツ寺諏訪神社 (2)
三ツ寺諏訪神社は慶安4年(1651年)の創建。諏訪大社からの勧請と思われる。石鳥居は享保2年(1717年)の建立。

三ツ寺諏訪神社 (3)
三ツ寺諏訪神社 (4)
社殿の建立年などは不明。社殿前の灯籠は嘉永4年(1851年)の奉納。

三ツ寺諏訪神社 (5)
三ツ寺諏訪神社 (6)
三ツ寺諏訪神社 (7)
本殿には素晴らしい彫刻が施されている。須佐之男命の八岐大蛇退治や天照大神の天岩戸隠れのように見えるが自信はない。

三ツ寺諏訪神社 (8)
三ツ寺諏訪神社 (9)
境内の覆屋内には阿弥陀如来石像と板碑(阿弥陀三尊)があった。板碑は建武2年(1335年)の建碑だが、石破壊により再建とある。再建時期は不明。

三ツ寺諏訪神社 (10)
青面金剛像。右側の像には元禄7年(1694年)の銘があった。

三ツ寺諏訪神社 (11)
三ツ寺諏訪神社 (12)
蠺(蚕)霊神、秋葉大権現、愛宕大権現の石塔と石宮群。

本殿の彫刻が素晴らしいのだが、本殿を囲む板塀によりなかなか上手く写真が撮れなかった。失礼ながら腕を差し込んで撮らせてもらった。


高崎市三ツ寺町の布留山石上寺。

石上寺 (1)
石上寺は貞観4年(862年)在原業平の開基、弘法大師3世の嫡孫・常喜院真覚僧正の開山で箕輪郷に創建される。その後、慶長3年(1598年)に井伊直政が箕輪から高崎に拠点を移した際、石上寺も高崎に移転している。現在の住所で言うと宮元町(東電の営業所あたり)。

明治になり寺領が上地(政府に公共地として没収されること)になり、明治24年(1891年)堤ヶ岡村(現高崎市三ツ寺町)の宗慶寺に寺格を移し、同寺に移転している。

宗慶寺は明徳3年(1392年)慶秀法印の開山で石上寺の末寺であったが、明治初年に廃寺になっていた。

石上寺 (2)
石上寺 (3)
本堂は昭和28年(1953年)の建立だが、相当老朽化している。

石上寺 (4)
石上寺 (5)
屋根瓦の一部は剥げ落ちている。

もしかしたら改修工事、または新築のための解体工事前なのかもしれない。工事用の資材らしき物が置いてあったし、山門周りや境内に何もなくなっているので。

ところで、箕郷町(高崎市箕郷町東明屋)には元の石上寺が残っている。移転後にどういう経緯があったかは不明だが、現在は布留山石上寺が箕郷町と三ツ寺町にそれぞれある(院号は三ツ寺:清浄光院、箕郷:潜龍院)。(「高崎市箕郷町東明屋・布留山石上寺」参照)


高崎市菅谷町の瀧宮神社。

瀧宮神社 (1)
瀧宮神社 (2)
瀧宮神社の由緒は不詳。上野国神名帳記載の息津宮明神は当社のこととされる。瀧宮神社のご祭神が田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神の「宗像三女神」であるので、宗像大社からの勧請と考えられる。

お隣の棟高町・胸形神社も同じ宗像大社からの勧請とされる。群馬県には宗像大社と関連性のある神社が約300社あるとされ、これは全国2位の数である。
(胸形神社は「高崎市棟高町・胸形神社」参照)

瀧宮神社 (3)
瀧宮神社 (4)
現在の社殿は昭和61年(1986年)の建立。社殿前の狛犬は昭和14年(1939年)の奉納。

瀧宮神社 (5)
社殿左側には猿田彦神や庚申塔、石宮が数多く並んでいる。

瀧宮神社 (6)
石宮などの一番端に松尾芭蕉の句碑がある。「名月や 池をめくりて 夜もすから」。建碑の経緯などは不明。

瀧宮神社 (7)
境内には子ども用の遊具(ブランコ・滑り台)が設置されている。昔は神社の境内が遊び場の定番だったが、最近は遊んでいる子どもを見ることはあまりないかな。


高崎市菅谷町の菅谷山大壱寺。

大壱寺 (1)
大壱寺は大同2年(807年)霊伝上人の開山と伝わる古刹である。

大壱寺 (2)
境内入口脇の六地蔵は平成7年(1995年)の造立。

大壱寺 (3)
大壱寺 (4)
本堂は平成6年(1994年)の建立。明治31年(1898年)建立の前本堂が昭和36年(1961年)に火災で焼失。それ以降、仮本堂で凌いできていた。

大壱寺 (5)
聖観音。平成6年(1994年)の造立。

大壱寺 (6)
大壱寺 (7)
石塔や仏塔・石仏群。

大壱寺 (8)
本堂前に3基の五輪塔がある。康永2年(1343年)、永和9年(1383年)、明徳4年(1393年)の銘がある室町初期(南北朝期)の宝塔。当地の豪族の墓(もしくは供養塔)と考えられている。旧群馬町最古の五輪塔とされている。

ちなみに高崎市の旧市部最古の五輪塔も康永2年の造立で、倉賀野町の玄頂寺にある。
(「高崎市阿久津町・大翁山玄頂寺」参照)

ところで本堂の新築を記した記念碑に、当地に菅谷城があり長野業正の長男・吉業の居館であったと書かれている。また天文5年(1546年)川越夜戦の戦傷により没した吉業は当寺(大壱寺)に葬られたとある。さらに弟で箕輪城主の業盛についても、討死後に首級は井出の原、胴体は当寺に収められたとある。

長野氏に関しては不明な点も多く、いろんな説や伝承があると言うこと。

関連
 「長野業正の長男 吉業の墓・満行山善龍寺 その2
 「伝・長野業盛の墓
 「高崎市保渡田町・落合観音堂


高崎市菅谷町の石塚の虎薬師(石塚は旧字名)。

石塚の虎薬師 (1)
虎薬師の由緒は不詳だが、口碑では応仁元年(1467年)祐賢というものが菅谷村に落ち着き、仏門に入り一宇を建立し薬師如来を安置したといわれる。祐賢は浄眼寺の開山とされている。(「高崎市菅谷町・昌徳山浄眼寺」参照)

石塚の虎薬師 (2)
石塚の虎薬師 (3)
虎薬師という名称の由来は、どの方向に向けて据えてもいつの間にか寅の方角(東北東)を向いてしまうからといわれる。現在の薬師如来像は宝暦5年(1755年)の造立。

石塚の虎薬師 (4)
虎薬師は眼病に霊験があるとされる。虎薬師前にはご利益があった方がお礼参り時に奉納したと思われる石仏が多数ある。ほとんど読めない案内板には「お出子」を供える慣習があるとあった。「お出子」って何? 石仏のこと?

ところで、虎薬師が鎮座しているのは石塚古墳(薬師塚古墳、堤ヶ岡5号墳などとも)と呼ばれる円墳上である。ほとんど削られており面影はない。ちなみに、すぐ側を通る高渋線バイパスの交差点の名称は「石塚古墳南」である。


高崎市菅谷町の昌徳山浄眼寺。

浄眼寺 (1)
浄眼寺は応仁元年(1467年)阿闍梨法印祐賢の開山と伝わる。

浄眼寺 (2)
山門横の六地蔵。平成7年(1995年)の造立。

浄眼寺 (3)
浄眼寺 (4)
元文4年(1739年)建立の本堂が老朽化したため、平成4年(1992年)に新築建立。

浄眼寺 (5)
浄眼寺 (6)
境内の真言供養塔や石仏など。

浄眼寺 (7)
浄眼寺 (8)
お堂があったので中を見させてもらったら、金毘羅宮だった(お札が貼られているだけ)。

先述の浄眼寺の由緒は境内にあった「浄眼寺改築之記」(石碑)から抜粋したが、群馬郡誌(大正14年:1925年刊)には天正年間(1573~92年)長野信濃守の開基とあった。

長野信濃守と言えば一般的には長野業正を指すが、業正は永禄4年(1561年)に死去しており、天正年間まで生存していない。後継の業盛も信濃守を自称しているが、永禄9年(1566年)に武田勢に攻められ自害しており、やはり天正年間まで生存していない。

と言うことで、群馬郡誌の天正年間と長野信濃守の組合わせは間違いのようだ。


高崎市棟高町の堤下公園。
その一角に詩人・山村暮鳥の詩碑がある。

山村暮鳥の碑
山村暮鳥の詩碑。詩集「三人の処女」中の「独唱」が刻まれている。昭和56年(1981年)箕郷ライオンズクラブの建碑。除幕は翌57年。

山村暮鳥(本名土田八九十、旧姓志村、小暮)は明治17年(1884年)に西群馬郡棟高村(現高崎市棟高町)に生まれる。訳あって母方の祖父の次男(志村姓)として届け出。後に実父の養子となる(小暮姓)。大正2年(1913年)の結婚時に夫人の姓である土田となっている。

暮鳥は堤ヶ岡小の代用教員を務めながら、前橋の聖マッテア教会の英語夜学校に通う。その後、東京の聖三一神学校に入学。卒業後はキリスト教日本聖公会の伝道師として布教活動に携わっている。

神学校在学中より詩や短歌の創作を始め、木暮流星の筆名で短歌などを発表。明治42年(1909年)に人見東明から山村暮鳥の筆名をもらう。暮鳥は斬新な詩風の作品を書き、それは時に毀誉褒貶あい半ばする評価を受けることとなった。

大正13年(1924年)肺結核に悪性腸結核を併発し、茨城県大洗町で死去。40歳。

暮鳥の詩碑は土屋文明記念文学館前や足門町市民センター、前橋こども公園内など県内に多数ある。また終焉の地である大洗町や水戸市、東海村など茨城県内にも複数ある。


高崎市棟高町の山王猿の石神。

山王猿の石神 (1)
ここは棟高の庚申塚と呼ばれ、青面金剛塔や猿田彦神の石塔、庚申塔などの庚申信仰(講)関連の石塔・石碑が並ぶ。

山王猿の石神 (2)
中央の石宮は日吉(ひえ)宮で、隣にその使いである山王猿がいる。

山王猿の石神 (3)
この山王猿は雌で、子授け・婦人病などに霊験があるとされる。そして大願が成就すると、猿像の陰部に紅(朱)色を入れて供物をあげる風習が残っている。そのため猿像には赤い(色落ちしてピンクになっているが)腰巻きが巻かれている。

山王猿の石神 (4)
山王猿の石神 (5)
庚申塔と青面金剛塔。

庚申信仰は平安時代に日本に入ってきたとされるが、民間信仰として盛んになったのは江戸時代のことである。庚申の「申(サル)」から「猿」が庚申の神使とされた。これは天台宗の総本山・比叡山の地主神・山王(日吉大社)の神使「猿」の影響もあってのことと思われる。

ついでに、神道における庚申の主神は、猿つながりから猿田彦神とされる。地方の道ばたに猿田彦神の石塔(石碑)をよく見かけるが、これも庚申塔の一種である。もちろん、もともとの意味合いである道しるべ・道祖神としての場合も多い(こっちの方が多いかな)。


高崎市棟高町の如意山大乗寺。

大乗寺 (1)
大乗寺 (2)
大乗寺は正和元年(1312年)僧・深秀の開山、当地の志村挙尊の開基とされる。その後の経緯は分からないが、法印敞長が中興開山している(年代不明)。

大乗寺 (3)
大乗寺 (4)
本堂には本尊の不動明王を祀る。また源信寿筆の「農事一式の図」六曲一双の屏風が保存されている。通称「農耕図屏風」と言い、江戸時代前期における農作業を描写したもの。

大乗寺 (5)
墓地の六地蔵。

大乗寺 (6)
十三重塔。平成9年(1997年)の建立。

大乗寺 (7)
大乗寺 (8)
歴代住職の墓域には立派な宝篋印塔が並ぶ。その中の中興開山・法印敞長の墓。

明治5年(1872年)には大乗寺を仮校舎として、現在の堤ヶ丘小が開校している(当時は発育小)。明治32年(1899年)に大乗寺東側に本校舎が建設されるまで使用された。


高崎市棟高町の胸形神社。

胸形神社 (1)
胸形神社 (2)
胸形神社の創建年などは不詳。上野国神名帳記載の「従四位下胸形明神」は当社のこととされる。詳細経緯は不明だが、もとは宗像大社から勧請された胸形明神であったが、あるときから八幡神社となっていたようだ。

胸形神社へ改称(復称)は明治7年(1874年)である。確かにご祭神には宗像三女神(田心姫神・湍津姫神・市杵島姫神)が祀られている。

石鳥居は享保13年(1728年)の建立。

胸形神社 (3)
胸形神社 (4)
参道を進むと朱色の二ノ鳥居。

胸形神社 (5)
灯籠は天明5年(1785年)の奉納。

胸形神社 (6)
胸形神社 (8)
現在の社殿かは不明だが、宝暦2年(1752年)の棟札が残っている。

胸形神社 (7)
拝殿の奉納額には弓が納められている。胸形神社には正月の行事として「水的の儀」が伝わっている。これは弓矢で的を射て、その年の作物の豊凶、降水量などを占うもの。それに関する弓だろうか。

それとも、もとの八幡神社の主祭神である誉田別尊は応神天皇の化身とさるが、応神天皇は弓の達人とされている。そのことから武勇の神として多くの武士(特に源氏一門)からの信仰を集めた。その弓だろうか。

胸形神社 (9)
胸形神社 (10)
明治41年(1908年)に近隣の神明宮や琴平宮を合祀している。写真は境内社・末社の秋葉大権現と稲荷社など。

胸形神社は治承4年(1180年)に焼失したといわれる。その後再建された際に、当地を勢力下に治めていた新田氏一門の影響により八幡神社となったのかもしれない。また、地名の棟高は宗像(胸形)から転じたともいわれる。音(おん)が似ていると言えば似ているが。


高崎市保渡田町の榛名神社。

保渡田榛名神社 (1)
保渡田榛名神社 (2)
保渡田榛名神社は永禄2年(1559年)の創建と伝わる。

保渡田榛名神社 (3)
保渡田榛名神社 (4)
保渡田榛名神社 (5)
社殿は老朽化しており、訪問日はちょうど社殿内部の補修(改修)工事を行っていた。良い機会なので社殿内部を見たかったのだが、作業の邪魔をしちゃまずいと思い早々に退散した。

保渡田榛名神社 (6)
保渡田榛名神社 (7)
明治41年(1908年)に近郷の神明宮、三島神社などを合祀している。

保渡田榛名神社 (8)
保渡田榛名神社 (9)
境内の杉の大木。根元付近には大きな空洞ができており、向こう側が見えるような状態。枯れないことを祈るばかりだ。

境内地が少し高くなっており、社殿も拝殿、本殿と高くなっていくので、ここは古墳(円墳)かもしれない。保渡田から井出かけては、保渡田古墳群など古墳が多いので。保渡田榛名神社は保渡田古墳群の北西にある。


高崎市倉渕町三ノ倉の落合の道祖神。

落合の道祖神 (1)
落合の道祖神 (2)
落合の道祖神は、浮世絵を思わせるような夫婦和合の姿を見せる変わった形のものである。多孔質の安山岩製で、宝暦10年(1760年)の銘がある。日差しの関係で右側に影が入り、見づらい写真で申し訳ないです。

現在地に移されたのは昭和35年(1960年)で、以前は中原地区の路傍にあった。この道は草津街道の旧道で、さらには榛名神社の参拝道でもあった。

旧倉渕村は「道祖神の宝庫」といわれる。「道祖神の里めぐり」(イベント)では、道祖神巡りのガイドを倉渕中の生徒さんが行っている。


高崎市箕郷町松之沢の百観音。

松之沢の百観音 (1)
松之沢の百観音は長さ30m、奥行き10mの範囲内に、十一面観音・千手観音・聖観音・如意輪観音などの観音像が合計133体並んでいる。

松之沢の百観音 (2)
松之沢の百観音 (3)
入口正面には六地蔵がある。

松之沢の百観音 (5)
松之沢の百観音 (6)
松之沢の百観音 (7)
松之沢の百観音 (8)
観音像の詳細な造立年代は不明だが、一部に安永(1772~81年)、寛政(1789~1801年)、享和(1801~04年)の元号が読みとれる。

観音像が133体あるので、各地の観音霊場巡りを合計したものと考えられる。四国(33ヶ所)、西国(33ヶ所)板東(33ヶ所)、秩父(34ヶ所)の計133ヶ所かな。現地を巡礼できない人々のために観音霊場を模した観音像を建立し、巡礼したのと同じご利益を得ることができるとされた。

松之沢の百観音 (4)
観音像に囲まれて建つ宝篋印塔。享保12年(1727年)の紀年銘とともに、長純寺・狐俊和尚と信州高遠石工の名が記されている。


高崎市箕郷町善地の上善地の百観音

上善地の百観音 (1)
上善地の百観音は高台の墓地に、墓石を囲むように十一面観音・馬頭観音・聖観音などが並んでいる。126体あると言う。

上善地の百観音 (2)
上善地の百観音 (3)
上善地の百観音 (4)
観音像はすべて舟形光背の浮彫りで、村名と願主名が刻まれている。先に126体あると書いたが、元は133体あったのではないだろうか。各地の観音霊場(四国・西国・坂東・秩父など)巡りを模しているのだと思う。

上善地の百観音 (5)
この墓地の墓石群はすっごく立派なものが多く、地元有力者の一族のお墓なのかな。写真の宝篋印塔には明和7年(1770年)の銘があった。


高崎市下室田町の矢背負稲荷神社。

矢背負稲荷神社 (1)
矢背負稲荷神社 (2)
矢背負稲荷神社の創建は不詳。創建の逸話として、里見義俊が京都・藤森神社を参拝した夜、夢枕に社神が現れ妻黒の矢を賜り「いずれ汝を護りて関東に至らん」と告げた。里見に戻った義俊は領内を巡視したところ、矢を背負った白狐が馬前を通り山中に消えた。後を追ったところ矢が立ててあり、手に取ると夢に見た妻黒の矢であった。そこで、この地に社を建て矢背負稲荷として祀ったという。里見義俊は新田氏の祖・義重の庶長子で、里見氏の祖である。

また他説では、武田勢の鷹留城(箕輪城の支城)攻めの際、山に棲む白狐が霊力で山全体を霧で覆い武田勢を惑わしたが、5日目に流れ矢に当たり霊力を失い霧が晴れ鷹留城は落城した。白狐の死を悼み村人が社を建てたともいわれる。

創建は前者だと鎌倉初期、後者だと室町後期(戦国期)となる。まあ、どっちの逸話も信憑性がある訳ではないけど。

矢背負稲荷神社 (3)
矢背負稲荷神社 (4)
一の鳥居前の駐車スペースから参道(林道)を上っていくと二の鳥居が見えてくる。そんなに遠くない、と言うか思ったより近い。

矢背負稲荷神社 (5)
矢背負稲荷神社 (6)
お社へ上る石段脇には狐像が置かれている。金ピカの狐像も。

矢背負稲荷神社 (7)
矢背負稲荷神社 (8)
お社、上屋は平成8年(1996年)の新築建立。

矢背負稲荷神社 (9)
中には狐像が多数置かれている。これは初午祭の時に、参拝者に対して授けられるもの。これを持ち帰り翌年の初午の際に返し、新たにまた狐像を授かり持ち帰るを繰り返す風習が残されている。


高崎市上室田町の斎渡山無量院。

無量院 (1)
無量院は慶長12年(1607年)上室田村の斎藤三左衛門の開基。

無量院 (2)
無量院 (3)
境内入口に六地蔵や庚申塔・供養塔が並ぶ。

無量院 (4)
無量院 (5)
さらには、閻魔大王像と奪衣婆像も。一般的にこの両像は墓地の入口にあることが多いが、門前に鎮座している。

無量院 (6)
本堂は明治24年(1891年)に焼失、同41年(1908年)に再建されている。昭和34年(1959年)、昭和46年(1971年)に改修・改築されている。

無量院 (7)
境内に果売箱が数個置かれている。一見、狛犬のように見えるが、中国のゴミ箱(オブジェ)だ。知っていて置いているのだろうか? そう言えば、下室田町の大森神社にも置いてあったのを思い出した。無量院とそう遠くないので、何か関係があるのかな。
(「高崎市下室田町・大森神社」参照)

無量院 (8)
無量院 (9)
無量院 (10)
境内の百番供養塔と石仏群。石仏が多数並らぶ。

無量院 (11)
無量院 (12)
大師堂には空海(弘法大師)像が鎮座する。

無量院は明治42年(1909年)に松仙寺を合併している。松仙寺は下室田町字松山にあったお寺で、江戸期以降松山城の三郭を寺域としていた。松山城は北条方の城で、秀吉の小田原攻め時(天正18年:1590年)に廃城となっている。松山城跡は高崎市の史跡になっている。


高崎市下室田町の宮谷戸八幡宮。
前回の宮谷戸諏訪神社の境内社となる。(「高崎市下室田町・宮谷戸諏訪神社」参照)

宮谷戸八幡宮 (1)
宮谷戸八幡宮は建久6年(1195年)に源賴朝が浅間山麓での巻狩りの際、安達盛長に命じ鶴岡八幡宮の分霊を勧請し創建。後に箕輪城代・内藤昌豊により諏訪神社が境内に勧請されたため、八幡宮の方が境内社となっている。

宮谷戸八幡宮 (2)
宮谷戸八幡宮 (3)
鳥居は平成15年(2003年)の建立。

宮谷戸八幡宮 (4)
宮谷戸八幡宮 (5)
宮谷戸八幡宮 (6)
社殿の建立年などは不明。

それにしても、源氏宗家(源頼朝)の八幡宮が、源氏支族(武田氏)の諏訪神社の境内社になっているのは皮肉なこと。時の権力者により鎮守さまも変わるということ。


高崎市下室田町の宮谷戸諏訪神社。宮谷戸(みやがいと)は字名。

宮谷戸諏訪神社 (1)
宮谷戸諏訪神社 (2)
宮谷戸諏訪神社は武田信玄の箕輪城攻略後、箕輪城城代となった内藤昌豊が当地の八幡宮境内に下諏訪明神の分霊を勧請し、村の惣鎮守としたといわれる。箕輪城落城は永禄9年(1566年)で、内藤昌豊が城代になったのは元亀元年(1570年)なので、その頃の創建と思われる。

宮谷戸諏訪神社 (3)
宮谷戸諏訪神社 (4)
宮谷戸諏訪神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

宮谷戸諏訪神社 (6)
明治期に合祀された他社(神明宮、稲荷社、八坂社など)の旧社が保存されている。上屋は昭和56年(1981年)に新築されている。

安永6年(1777年)の古文書が残されており、それには初代神主は大沢内記藤原貞友と言い、弘治4年(1558年)に没したと記されている。そうすると、創建はもう少し早くなる。

ただ、弘治4年には長野業正がまだ健在なので(業正没は永禄4年:1561年)、武田氏が諏訪神社を勧請するのは不自然である。やはり宮谷戸諏訪神社の創建は、当地が武田氏の影響下になった後と考える方が自然かな。


高崎市上室田町の雨堤榛名神社。雨堤は字名。

雨堤榛名神社 (1)
雨堤榛名神社は長禄年間(1457~60年)に小加部氏が榛名神社の分霊を勧請したと伝わる。明治初めに一時期雨堤神社と改称したが、明治6年(1873年)に榛名神社に戻している。

鳥居前の灯籠は昭和10年(1935年)の奉納。

雨堤榛名神社 (2)
雨堤榛名神社 (3)
雨堤榛名神社 (4)
社殿は慶長2年(1597年)に長壁・斎藤両家が建立。長壁家が代々別当家として奉祀してしてきた。現在の社殿の建立年などは不明。

雨堤榛名神社 (5)
明治10年(1877年)に大山津見神を合祀している。

雨堤榛名神社 (6)
明治41年(1908年)には近隣の他社(八坂社・厳島社・稲荷社など)を合祀している。

雨堤榛名神社 (7)
拝殿脇に力石らしき石があった。力石は力試しに用いられる大きな石。日本各地で鍛錬や娯楽として力試しが、江戸時代から明治時代まで盛んに行われていた。県内の神社にも、力石が残されいるところがある。(「力石」で検索してもらえれば数社出てきます)

*力石でない可能性も、もちろんあります。違っていたらごめんなさい。


高崎市本郷町の本郷神社。

本郷神社 (1)
本郷神社 (2)
本郷神社は神明宮として創建(由緒は不詳)。当地の字名は伊勢ノ森ということからも、天照大神を祀ったことが分かる。明治43年(1910年)に村内他社(菅原神社、榛名神社など)を合祀し本郷神社と改称している。

石段を上り一の鳥居、また石段を上り二の鳥居(その先が境内)。神社前を走る県道29号からは、かなり高い位置に鎮座している。

本郷神社 (3)
本郷神社 (4)
社殿は明治24年(1891年)の建立。大正12年(1923年)に幣殿を追加建立している。

本郷神社 (5)
本郷神社 (6)
境内社の菅原社。なぜか狐像が置かれている。そう言えば、高浜町の駒形神社の境内社・天神社にも狐像が置かれていた。(「高崎市高浜町・駒形神社」参照)

本郷神社 (7)
本郷神社 (8)
本郷神社 (9)
社殿裏にケヤキの大木がある。ご神木だろうか。根元は空洞化しており、大人でも余裕で入れる大きさになっている。だからと言って、弱っているようには見えない。

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