Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市宮元町の高崎公園。

高崎公園 (1)
明治9年(1876年)高崎城南西の大染寺跡地に造られた。明治33年(1900年)の市制施行時に、高崎公園と呼ばれるようになった。それ以前は、頼政公園と言ったらしい。隣が頼政神社だから?

高崎公園 (2)
高崎公園 (3)
平成14年(2002年)から改修工事を行い、現在は明るく広い公園となり、休日は家族連れなどで賑わっている。

高崎公園 (4)
高崎城主・安藤重信が、元和5年(1619年)に植えたと伝わるハクモクレン。樹齢約400年で、樹高14m、根元回り4mの大木に育っている。

高崎公園 (5)
西側には小動物が飼育されている。クジャクが羽根を広げていたんだけど、なかなかこっちを向いてくれなくて・・・。

高崎公園 (6)
噴水脇にタヌキが。何の意味があるのか・・・。

高崎公園は桜の名所でもある。約100本の桜の木があり、花見の季節には多くの屋台が並び、昼夜を問わず多くの人々で賑わう。

今度は桜の季節にでも行ってみよう。

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高崎市赤坂町の赤坂山長松寺。

長松寺 (1)
長松寺 (2)
長松寺の由緒は、けっこういろいろ調べたんだけど、よく分からず。

長松寺 (3)
長松寺 (4)
本堂は寛政元年(1789年)の再建と伝えれている。狩野派の絵師・狩野探雲による龍と天女の天井絵と、涅槃図の掛け軸がある。

あと、長松寺には徳川3代将軍・家光の弟・忠長が自刃した部屋(書院)が移築され、客間(庫裏)として使用されている。(関連 「徳川忠長の墓 -大信寺-」)

部屋は、忠長死後約140年後、高崎城改築の際に長松寺に移築されたというが、当時のもので残っているのは柱くらいらしい。

今回の長松寺紀行は、何も実際に見て来れてない。天井絵も書院も庫裏も・・・(釈迦涅槃図は年1回しか公開されない)。今回は、ただ行ってきただけ。

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高崎市赤坂町の松隆山恵徳寺。

恵徳寺 (1)
恵徳寺 (2)
恵徳寺 (3)
天正年間(1573~92年)に、箕輪城主・井伊直政が伯母・恵徳院のために創建。慶長3年(1598年)直政の高崎転封とともに移り、慶長9年(1604年)現在地に移っている。

恵徳寺 (4)
墓地の入り口に、奪衣婆(だつえば)と思われる像があった。

奪衣婆は三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやってきた、亡者の衣服を剥ぎ取る老婆である。亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

生前に、死後の裁きを軽くしてもらうよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだといわれる。

民間信仰における奪衣婆は、疫病除けや咳止め、特に子供の咳止めに効き目があるといわれる。

この奪衣婆像は、厄除けなどのご利益を求め、みんなが撫でているようで、すっかり擦り減っている。

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高崎市赤坂町の高崎神社。

高崎神社 (1)
高崎神社 (2)
寛元元年(1243年)、和田城主・和田小太郎正信が、相模国三浦郡の熊野権現を城中に勧請し、熊野神社と号したのが創建とされる。その後、慶長3年(1598年)に井伊直政が高崎城を築城する際、現在地に遷座し、高崎総鎮守とした。

高崎神社 (3)
高崎神社 (4)
拝殿前に冠鳥居が建っている。武家屋敷などに見られるが、神社拝殿前はあまりない(と思う)。

本殿は拝殿と繋がっていない(もしかしたら内拝殿かも・・・)。ただ、塀で仕切られていて、拝殿横からは隙間から覗くのがやっと。

高崎神社 (5)
鳥居横に「和田三石」のひとつである「和田の立石」がある。「和田三石」とは、「上和田の円石」「和田の立石」「下和田の方石」の3つで、高崎城主・和田氏はこの三石をとても大事にしていたと伝えられている。

帰り際に、お子さん(3歳くらい?)を連れたご夫婦に写真撮影を頼まれたんだけど、お母さんが「おじさんに写真を撮ってもらうからねっ」。「おじさん」てオレのことか? 本人、まだ若いと思ってるのに・・・。

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高崎市元町の小見家住宅。

水村園(小見家住宅) (1)
小見家は安政4年(1857年)創業のお茶を扱う老舗で、水村園の店名で現在も営業している。150年の歴史を持つ店の敷地には、江戸末期から明治・大正時代にかけて建造された建造された土蔵とレンガ蔵がある。

高崎城下町時代の名残りの間口9.6m、奥行46mの南北に細長い敷地に、土蔵群が建ち並ぶ。

水村園(小見家住宅) (2)
水村園(小見家住宅) (3)
桁行7間半、梁行2間の規模で、東面は煉瓦造りで防火壁としている。西面は木柱を建てて吹放ちとし、南北棟の桟瓦葺寄棟屋根を架ける。煉瓦造りと木造の混合構造になっている。

水村園(小見家住宅) (4)
敷地の東北隅に建つ桁行4間、梁行2間半規模の木造2階建。
寄棟造り、桟瓦葺建屋で、2階を8畳と4畳半の隠居部屋としている。小見家おける住居構成の変遷を物語る遺構。

非公開の土蔵に保管されている明治14年(1881年)産の茶葉は、日本最古のものとされ、TV番組でも取り上げられたことがある。

残念ながら、旧店舗は残っていないが(国道354号の拡幅工事により取り壊された)、小見家の土蔵群は幕末から昭和初期にかけての、建築形式を伝える貴重な資料となっている。

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高崎市成田町の成田山光徳寺。
北関東三十六不動尊霊場第五番札所である。

光徳寺 (1)
光徳寺 (3)
光徳寺 (4)
有名な成田山新勝寺(千葉県成田市)の高崎分院。新勝寺には、別院、分院、末寺などがあり、以前紹介した「水上寺」(みなかみ町)は末寺。
(「日本三体不動尊 -水上寺-」参照)

光徳寺 (2)
不動明王の剣。デカい!!

光徳寺 (5)
境内にある内陣は、高崎藩主・大河内家の祈願所である威徳寺にあった堂の一つで、大河内家累代の位牌が安置されていた。威徳寺は、宝永6年(1709年)大河内輝貞の開基で、高崎城内にあった。

創建当時の堂内は、漆で磨きあげた上に金箔張りの壁、天井も金箔極彩色という豪華な建物だったらしい。

写真は裏側になる。なぜか、正面からは別の建物があって見えない。入り口を探したがなく、現在はなかば非公開みたいなもの。写真も裏(北側)の道から撮ってる。

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高崎市山田町の聖オーガスチン教会。

聖オーガスチン教会 (1)
高崎聖オーガスチン教会は日本聖公会に属するキリスト教会で、明治25年(1892年)に末広町に講義所を開設したことに始まる。その後、数度の移転の後、大正3年(1914年)に現在地へ。

聖オーガスチン教会 (2)
聖オーガスチン教会 (3)
聖堂は昭和4年(1929年)に造られ、ネオ・ゴシック様式を意識したデザインとなっている。高崎で最初の本格的な鉄筋コンクリート建築といわれている。

尖頭アーチ形の出入口があり、交差部の角塔形鐘楼は4隅にバットレスを付ける。屋根はスレート瓦葺で、小屋組は木造シザーズ・トラスとなっている。

平成16年(2004年)に「第3回たかさき都市景観賞」を受賞している。

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高崎市高松町の高崎城址。

高崎城址 (1)
高崎には古くは和田城と呼ばれる城があった。和田城の創建は平安時代末に、この地の豪族・和田義信が築城したといわれる。

その後、徳川家康の関東入部とともに箕輪城主となっていた井伊直政は、慶長3年(1598年)和田故城の城地に近世城郭を築いた。この際、箕輪より町家や社寺を移して城下町を築いている。

高崎城址 (2)
高崎城址 (3)
高崎城は烏川に沿って造られた輪郭梯郭複合式の平城で、本丸には三層天守と乾、艮、巽、坤の4基の隅櫓があった。現存するのは乾櫓のみである。

高崎城址 (4)
城内には本丸門など16の門があり、通用門として使われていた東門のみ移築復元されている。

高崎城址 (5)
高崎城址 (6)
城の周りは土塁で囲まれ、石塁はほとんど造られなかったが、一部現存している。

高崎城址 (7)
水堀は現在の町並みにも活用されており、当時の面影を今に伝えている。

高崎城も例外でなく、城址は官庁街になっている。群馬県で2番目に高い市役所や検察庁、裁判所など。

でも群馬県で建物が残る城址は、高崎城だけなので貴重な存在ではあるけどね(門が残っている城址はある)。

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高崎市あら町の諏訪神社。

あら町・諏訪神社 (1)
あら町・諏訪神社 (2)
慶長4年(1599年)、箕輪城下の下ノ社を勧請したことに始まるという。

享保14年(1729年)、及び再建後の文化4年(1807年)の2度にわたって火災で焼失。現在の社殿は文化10年(1813年)ころの再建と推定される。

土蔵のような外観を持つ珍しい総漆喰の塗籠造りであるが、これは火災から守るための工夫と考えられている。一見2層に見えるがが、実は裳腰をつけた平屋で、軒下に直接鳥居を造り付けている。

あら町・諏訪神社 (3)
本屋根と裳腰の間には、七賢人の手の込んだ漆喰彫刻が施されている他、内陣の扉、欄間、鳥居などに見事な彫刻が見られる。

なお、新町(あらまち)は平成18年(2006年)の多野郡新町(しんまち)との合併に伴い、あら町とひらがな表記に変更になっている。

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高崎市倉賀野町の倉賀野神社。

倉賀野神社 (1)
崇神天皇の皇子・豊城入彦命は父帝から東国の平定を命ぜられる。出立の時帝から亀形の自然石(亀石)を授けられた。

倉賀野神社は、豊城入彦命が都から持参してきた亀石を御霊代として、祭祀行ったことに始まるという。この石は大国魂神の分霊とされ、倉賀野神社のご祭神となっている。

倉賀野神社 (2)
倉賀野神社 (3)
建長5年(1253年)倉賀野氏の祖・高俊が社殿を造営。以後、倉賀野氏の氏神として社殿の建替、修復が繰り返された。

倉賀野神社 (4)
倉賀野神社 (5)
現在の本殿は慶応2年(1866年)の造営で、一間社流造りで背後に唐破風を付けたり、随所に彫刻を施した立派なもの。

倉賀野神社 (6)
拝殿前に建つ常夜燈。これを寄進したのは、倉賀野宿の飯盛り女・三国屋の「つね」である。他にも、飯盛り女が寄進したという石玉垣もある。
(飯盛り女に関しては、「飯盛り女の墓 -九品寺-」参照。)

「飯盛り女」も心の拠り所として神仏にすがりたい、ということもあったんだろうね。

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高崎市倉賀野町の倉賀野城址。

倉賀野城址
児玉党・秩父高俊が倉賀野の地に館を構え、倉賀野氏を称した。倉賀野城は室町時代初期に倉賀野頼行が築城したといわれる。

倉賀野氏は永禄6年(1563年)に武田氏に攻められ滅亡。家臣であった金井秀景が、倉賀野の地を治めるようになった。秀景は倉賀野氏を名乗る。その後、織田方の滝川一益、北条方の垪和伯耆守が治めたが、天正18年(1590年)の秀吉の小田原攻めに伴い落城、廃城となった。

金井秀景は、滝川一益、垪和伯耆守にも従っており、変わり身が早かったようだ。最後は北条氏とともに小田原城に籠城。落城後死去しているが、死因は不明のようである。

倉賀野城の名残は、今や雁児童公園に城祉碑があるのみである。周りは住宅地になっており、遺構らしきものは多分ない。

倉賀野城の北の砦だったところに大用山永泉寺があり、そこには倉賀野(金井)秀景の墓がある。(「倉賀野城主・金井秀景の墓 -永泉寺- 」参照。)

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高崎市倉賀野町の一行山九品寺(くほんじ)。

九品寺 (1)
延徳3年(1491年)倉賀野城主・倉賀野五郎行信の創建といわれる。

九品寺 (2)
大きな石碑は橋供養碑で、宝蔵橋(太鼓橋)を架け替えた際の旧橋供養のために建立されたと考えられる。文化4年(1807年)の銘がある。この橋の架け替えの話は、後で紹介。

九品寺 (3)
九品寺 (4)
本堂は平成23年(2011年)の再建。まだ新しい。

九品寺 (5)
旧本堂に乗っていた鬼瓦(だと思う)。

九品寺 (6)
本堂西側に「飯盛り女」の墓がある。飯盛り女とは、江戸時代に街道宿場にいた、奉公人という名目の女郎(私娼)。倉賀野宿は寛保2年(1742年)に宿場女郎屋の鑑札が許可され、64軒の宿屋に200人もの飯盛り女がいたという。 

先述の橋の架け替えは、宿屋の主人たちが金を出し合ったことになっているが、実際は飯盛り女の給金から出させたもの。貧しさゆえに奉公に出され(実際は売られ)、暮らしも楽ではなかった思うが。

悲哀・・・。

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高崎市下滝町の華敷山補陀落院慈眼寺(じげんじ)。

慈眼寺 (1)
聖武天皇の御世(724年~749年)、東大寺初代別当・良弁僧正の開創とされる。

慈眼寺 (2)
慈眼寺 (3)
山門は文政元年(1818年)の造立。山門より南方に広い参道が伸びている。参道両脇にはかつて九ヶ寺が塔頭寺院としてあったという。

慈眼寺 (4)
現在の本堂は昭和58年(1983年)の再建。間口11.5間、奥行8間。本尊は南方の古墳より発見された聖観音。そう言えば、山門西側に古墳らしき土山があった。

慈眼寺と言えば「しだれ桜」が有名。今回はしだれ桜が目的ではなく(もちろん季節も合わないが)、江原源左衛門重久の墓。

慈眼寺 (5)
江原源左衛門は、慶長9年(1604年)に完成した天狗岩用水の延長を関東郡代・伊奈忠次に進言。慶長15年(1610年)、滝川村から玉村までの完成に尽力した。この功績により苗字帯刀を許され、滝川村の名主となっている。

もともと天狗岩用水は、総社城主・秋元長朝が、生活用水や農業用水を確保するために、利根川の水を吉岡町漆原地先で取水し、領内まで引き込んだのが始まり。
(「秋元氏の菩提寺 -光巌寺-」参照。)

これにより新田が開拓され、米の生産が大きくアップした。群馬のおいしいお米(?)も、天狗岩用水のおかげ??

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高崎市石原町の小祝(おぼり)神社。

小祝神社 (1)
小祝神社 (2)
小祝神社の創建年代は不詳だが、三代実録の元慶4年(880年)年の条に記録が残るので、それ以前の奈良時代には創建されていたと推定される。

小祝神社 (3)
小祝神社 (4)
小祝神社 (5)
拝殿、弊殿と本殿が一体となっている。しかし、拝殿と幣殿は後から建てられたものであり、本殿は建設当初は単独で建っていたらしい。

現在の本殿は享保2年(1717年)に、当時の高崎藩主・間部詮房により造営されたもので、三間社入母屋造り(桁行三間、梁間三間)、銅板葺。正面には三間の向拝がついている。

小祝神社 (6)
小祝神社 (7)
建物は全体が極彩色で彩られ、壁面に彫刻したパネル状のものを嵌め込む工法を用いている。この工法の神社建築としては高崎市最古らしい。

ここは上野国七之宮。これで、延喜式内社・上野国十二社のうち、8社参拝完了である。意図して巡った訳ではないけど・・・・・。

まあ、実際は二之宮である赤城神社は三社行ってるけどね。(どこが本宮かはっきりしないので。)

 一之宮 貫前神社
 二之宮 赤城神社(赤城山三夜沢二宮
 三之宮 伊香保神社(里宮・三宮神社
 五之宮 大国神社
 六之宮 榛名神社
 七之宮 小祝神社(ここ)
 八之宮 火雷神社 
 九之宮 倭文神社

残りの4社もそのうち行ってみよう。

ちなみに、
 四之宮 甲波宿禰(かわすくね)神社(渋川市)
 十之宮 美和神社(桐生市)
 十一ノ宮 賀茂神社(桐生市)
 十二之宮 宇芸(うげ)神社(富岡市)

ついでだけど、総社である総社神社も参拝完了してるよ。

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高崎市石原町の三島塚古墳。

三島塚古墳 (1)
三島塚古墳 (2)
三島塚古墳 (3)
直径58m、高さ5.5mの規模を誇る大型の円墳。幅14mもある広い堀がめぐる。5世紀始めの造営と推定される。

明治27年(1894年)の発掘では、鏡や刀、勾玉などが出土したとされているが、その所在は不明という。

三島塚古墳は、彦狭島王(ひこさしまおう)の墓との伝承がある。しかし、彦狭島王とその祖父・豊城入彦命の墓といわれる古墳は、あっちこっちにあるね。(本ブログでも、相当数登場している。もうリンク貼る元気もない・・・。)

三島塚古墳 (4)
三島塚古墳 (5)
墳丘上には三島神社が鎮座している。

三島塚古墳 (6)
ご神木。「ご神木なので登らないでください」の注意札が。誰が登るんだ? 最近、そんな元気のある子どもがいるとは思えないが。

この住宅密集地で、よく潰されないで残ったもんだ。やっぱり墳丘上に三島神社があったからかな。

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高崎市新後閑町の琴平神社。
通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれている。

琴平神社 (1)
元々お稲荷様が祀られていたこの地に、高崎藩士・寺田宗有が一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝えられる。宗有は文政8年(1825年)に没しているので、文化年間(1804年~1817年)のことと考えられる。

「一昼夜で分霊を勧請した」というのは、一昼夜で讃岐まで行ってきたということ。ふぅ~ん・・・。

この門は面白い門である。何でかって言うと、普通に右大臣(矢大臣)・左大臣がいるんだけど、反対側には仁王像が鎮座している。すぐ隣には前回の荘厳寺があるんで、お寺側を見ると仁王門になってる。

神社には随身門、お寺には仁王門、というのが一般的。神社に仁王がいたら、神仏混交の名残と考えていいと思う。ただ、このように随身門と仁王門を兼ねている(?)のは、初めて見た。

琴平神社 (2)
琴平神社 (3)
琴平神社 (4)
社殿下の石段前には、烏天狗がいた。狛犬の代わりかなとも思ったが、拝殿前に狛犬もいた。

琴平神社 (5)
琴平神社 (6)
琴平神社 (7)
拝殿側面に、天狗の面が奉納されていた。

琴平神社 (8)
琴平神社 (9)
石段脇に洞窟があり(洞窟と言っても、人工感丸出しだけどね)、中には「和田稲荷大明神」名の提灯が。小さな稲荷神社? 和田城を築いた和田氏一族の屋敷が、この辺にあったといわれているので、もともとは屋敷神様のお稲荷さんかもね。

ちなみに、新後閑という地名の由来は、和田氏家臣・新後閑左京亮が住んでいたから。

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高崎市新後閑町の飯玉山荘厳寺(しょうごんじ)。
ここには観音山の白衣観音を建てた、井上工業創始者・井上保三郎の墓がある。

荘厳寺 (1)
寛永10年(1633年)の開山。

荘厳寺 (2)
荘厳寺 (3)
高崎市のシンボルでもある高さ約42mの観音様。この観音様を私財を投じて建立したのが井上保三郎。保三郎が死去したのは、観音様開眼の2年後、昭和13年(1938年)である。

葬儀はここ荘厳寺で行われたが、参列者の行列は寺から自宅まで続いたという。自宅は八島町とのことなので、1km以上ある?(八島町は高崎駅西口あたり。)

荘厳寺 (4)
荘厳寺 (5)
墓地にあるお墓の中で、ひときは目立っているのが保三郎の墓(井上家の墓)。

保三郎は明治21年(1888年)井上保三郎商店を創業。昭和4年(1929年)には井上工業を設立、高崎を中心とする群馬の近代化に貢献した人物である。

井上工業は平成20年(2008年)に倒産。この時の架空増資により、後に当時の幹部が逮捕される騒動を起こした。

草葉の陰で保三郎も嘆いていることだろう。

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高崎市若田町の若田原遺跡。八幡霊園内にある。

若田原遺跡群 (1)
霊園建設に伴って、昭和45年(1970年)から48年(1973年)にかけて発掘調査が行われ、5基の古墳をはじめとして、縄文時代から奈良時代の住居などが確認された。

若田原遺跡群 (6)
若田原遺跡群 (4)
上の写真の右が若田大塚古墳、左が楢ノ木古墳で、下の写真が峯林古墳。

若田原遺跡群 (2)
若田原遺跡群 (3)
峯林古墳は石室が確認できる。天井石がない(なくなっている?)ので、上から覗くこともできる。

若田原遺跡群 (5)
縄文時代後期(約4000年前)の住居跡みたいだが、保存のため埋め戻されているようだ。帰って来てから調べたら、敷石住居跡1ヶ所は当時の状態で保存されているらしい。霊園内をけっこう歩いたんだけど、気が付かなかった(広い!)。

倉渕町からの帰りに406号を走っていて、八幡霊園の看板下に霊園内に遺跡がある、って書いてあったので寄ってみた。

初めて八幡霊園に入ったけど、広いんだねぇ~。


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高崎市北新波町の北新波砦址(きたあらなみとりであと)。

北新波砦址 (4)
北新波砦址 (1)
遺跡の名前は砦とついているが、中世の武士の屋敷跡。15世紀後半に築かれたものとされている。

ここは箕輪城主・長野氏の勢力圏内で、戦国期には長野氏家臣の新波新右衛門が守っていたと伝えられる。

北新波砦址 (2)
単郭方形の館の内部は広い芝生になっていて、子どもが遊ぶにはもってこいの場である。この日は誰もいなかったけど。

北新波砦址 (3)
北新波砦址 (5)
単郭で75m四方の方形の郭を有しており、周囲を囲む土塁も完全に残る。堀は埋められているが、土塁の周囲を巡る散策路となっている。南面に出枡形の虎口が開かれている。

武田信玄の上州侵攻の際、箕輪城攻めにあたり、この砦も幾度となく攻められている。新波新右衛門は、永禄9年(1566年)の武田信玄の猛攻の際、箕輪城にて長野業盛の死に殉じている。

今は北新波砦史跡公園として、非常に良く整備されている。緑の芝生がきれいで、砦(館)址ということを忘れてしまいそうだ。

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高崎市浜川町の金池山来迎寺(らいこうじ)。
ここにも、長野氏累代の墓と伝えられる五輪塔群がある。

来迎寺 (1)
来迎寺 (2)
永仁5年(1297年)遊行二祖真教上人の開基。 長野氏の信仰を受け、同一族の隆勢と共に栄える。

来迎寺 (3)
来迎寺 (4)
来迎寺 (5)
長野氏滅亡後、まわりの濠の中に崩れ落ちて、埋められていたものもあったが、大正12年(1923年)の墓地整備の際に発掘され、現在地に整理して安置した。小さな五輪塔・宝篋印塔合わせて30数基が並んでいる。

年号を読み取れるものもいくつかあり、至徳元年(1384年)年、応永9年(1402年)、永享11年(1439年)、応仁3年(1469年)、明応9年(1500年)、享禄元年(1528年)など。

室町時代の初めには、この地に根付いていたことになる。この辺は、長野郷と呼ばれているので、長野氏の出自の地と推定される。

長野氏に関しては、平城天皇の孫で、36歌仙のひとりである在原業平が、その祖という説もあるが、ちょっと???と思う。

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高崎市通町の願行山峰厳院大信寺。
ここには、駿河大納言・徳川忠長のお墓がある。

大信寺 (3)
大信寺 (1)
総誉清巌上人の開山(詳細年代は調べられなかった)。本堂は元亀元年(1570年)の建立だが、昭和20年(1945年)戦災により焼失。昭和23年(1948年)に再建される。

大信寺 (2)
入口の扉には、德川家の家紋・三葉葵が。

大信寺 (4)
大信寺 (5)
德川忠長は、2代将軍・秀忠の3男で、3代将軍・家光の同母弟である。(ちなみに、家光は2男。長男は早世した長丸。)母は、今年のNHK大河ドラマの主人公・江。領地が主に駿河国であったことから、駿河大納言と呼ばれる。

忠長は父母の寵愛を受け、次期将軍と目されていたが、家光の乳母・春日局の画策により(異説あり)、家光が次期将軍となる。忠長は駿河他55万石の大名となったが、言行粗暴・大逆不動の罪人として嫌疑をかけられ、寛永9年(1632年)に改易のうえ高崎城に幽閉。翌寛永10年(1633年)に切腹を命じられた。享年28歳。

その死から43年後の延宝3年(1675年)、4代将軍・家綱の時に免罪され、ようやく墓石を建立することができた。墓石は高さ2.3m余の五輪塔で、周囲には石の玉垣がめぐらされている。正面の石の扉には、三葉葵の紋が刻まれている。

墓はもともと立派な廟の中あったらしいが、廟は戦災で焼失したという。

まあ、権力争いに敗れた者の末路としては、よくあるパターンだね。

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高崎市末広町の中曽根康弘資料館。
中曽根康弘元首相が塾長を務める、青雲塾の併設施設である。

資料館は、平成18年(2006年)に開館。政治家中曽根康弘氏の歩んで来た道を資料で展示し、その政治活動を通して戦後日本の政治の道筋を辿るもの、だそうだ。

中曽根康弘資料館 (8)
中曽根康弘氏はご存知の通り、群馬県が生んだ総理大臣のひとりで、昭和57年(1982年)総理大臣に就任、以降昭和62年(1987年)まで5年間の長期に渡り、その職にあった。

中曽根康弘資料館 (7)
中曽根康弘資料館 (6)
旧首相官邸の執務室が再現されている。机や椅子は本物だという。竹下登元首相までの歴代首相が使っていたもの!!

中曽根康弘資料館 (1)
中曽根康弘資料館 (2)
中曽根康弘資料館 (3)
首相在任期間が長く、各国首脳との交流も多かった証。上から、米国・レーガン大統領、韓国・全斗煥大統領、中国・華国鋒主席から贈られたもの(肩書はいずれも当時)。

中曽根康弘資料館 (4)
中曽根康弘資料館 (5)
国会議員在任56年(当選20回!)を誇るので、その政治活動に関する資料は膨大なものになるのだろう。展示はその一部と思うが、けっこう見ごたえあり。

政治的には保守的(簡単に言えば右寄り)で、万人受けしないかもしれないが、ある意味戦後政治史が楽しめる。有料だけど、その辺の有料資料館に行くなら、こっちの方がいいね。

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高崎市鼻高町の少林山達磨寺境内にある洗心亭。

洗心亭 (1)
ドイツ人建築家ブルーノ・タウトが、昭和9年(1934年)から2年3ヶ月間この洗心亭で暮らしていた。家具・和紙・漆器など、日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。また、建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著す等している。

洗心亭 (4)
洗心亭 (3)
洗心亭は大正時代の建築で、もともと東京帝大学長・佐藤寛治博士の別荘だったが、当時空いていたためタウトが暮らすことになった。

洗心亭 (5)
洗心亭 (6)
内部は6畳、4畳半の2間と、いたって質素な造りである。

洗心亭 (2)
碑にはタウトの「ICH LIEVE DIE JAPANISCHE KULTUR」(私は日本の文化を愛す)という言葉が刻まれている。地域の方々との交流で、タウトは日本文化のすばらしを実感したんだと思う。

タウトは、昭和11年(1936年)イスタンブール芸術アカデミーから建築科教授、兼政府最高建築技術顧問としての招聘があり、日本を離れている。

送別会の席では、「出来得るならば、私の骨は少林山に埋めさせて頂きたい」と言っている。タウトは翌年トルコで死去しているが、エリカ夫人によりデスマスクが少林山に納められた。

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高崎市上豊岡町の中山道一里塚。国道18号沿いにある。

一里塚 (4)
一里塚 (3)
一里塚 (1)
一里塚は、慶長9年(1604年)に江戸幕府2代将軍・秀忠の命令で主な街道が整備された時、距離の目印として築かれたもの。

江戸日本橋を起点に、一里ごとに五間四方の塚を左右に一対ずつ築き、松や榎などを植えて旅人の休憩所ともなった。

高崎市上豊岡町にある一里塚は、群馬県で唯一形の残っているもので、樹齢380年と言われる榎が塚の上に茂っている。この一里塚は、江戸日本橋から28里にあたり、約112kmになる。

道の左右に対であったはずなので、反対側を見たけどよく分かんなかった。家に帰ってから調べてみたら、北側の塚は文久元年(1861年)の皇女和宮下向の際、道路を拡張したことに伴い移動し、今は石垣を高く築き、その上には浅間神社が祀られているらしい。

何かの機会に反対側にも行ってみようかな。

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高崎市石原町の山徳記念館。
前回の徳明園内にあり、山田徳蔵氏のコレクションを展示している。

山徳記念館 (1)
山徳記念館 (6)
山田徳蔵氏のコレクションの中に、近代漫画の新時代を開いた、北沢楽天の作品が多数含まれていたことから、記念館を開設することになったらしい。

山徳記念館 (4)
山徳記念館 (2)
田河水泡の「のらくろ」関係が、多数展示されていた。

山徳記念館 (5)
山徳記念館 (3)
手塚治虫、石ノ森章太郎、長谷川町子、小島功、ちばてつや、田中正雄の色紙もあった。でも、これも田河水泡へ贈っているような感じ。

北沢楽天はどこに・・・・・。

北沢楽天の資料もあったんだろうけど、オレの知ってるのらくろや、有名漫画家の方に目がいってしまったのかも・・・・・。

ちなみに、北沢楽天は現代的な意味での、「漫画」という用語の最初の使用者である。「楽天全集」は、幼少期の手塚治虫に影響を与えたことで、有名である。

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高崎市石原町の徳明園。
前回の洞窟観音と同様、山田徳蔵氏により造成される。

徳明園 (1)
徳明園 (2)
回遊式日本庭園で、そのスケールの壮大さで、北関東一の名園と称される。

徳明園 (3)
徳明園 (4)
群馬の名石三波石を主として、全国から集められた数多くの石造物や巨岩で構成され、一部には枯山水をも配している。自生の赤松に、新潟の黒松や、さつき等様々な名木を配植している。

徳明園 (6)
池の中に鶴を発見。

徳明園 (5)
先に進むと、亀に乗った釣竿を持った男性が。これは、まさしく浦島太郎!

この庭園、そんなに広くはないんだけど、色んなものがある。景色もいいし。

徳明園 (7)
正面に写っている建物は、山徳記念館。これは次回ね。

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高崎市石原町の洞窟観音。

洞窟観音 (5)
洞窟観音 (6)
新潟県柏崎市出身で、高崎で呉服店を開き財を成した、山田徳蔵氏により建設された。

昭和2年(1927年)に着工され、徳蔵氏が80歳で亡くなる昭和39年(1964年)まで続けられた。

洞窟観音 (3)
洞窟観音 (4)
洞窟観音 (1)
洞窟観音 (2)
洞窟内の400mにわたる坑道には、巨岩・名岩が連なり、それらに囲まれるように、名工・楽山が彫刻した観音像が36体安置されている。

中は冷んやりしていて、心地よかった。冬だと寒いかもね。

観音様にも、いろんな種類があるんだね。ほとんど知らなかった。いくつか紹介すると、遊戯(ゆうげ)観音、延命観音、蛤蜊(はまぐり)観音とか。

山田徳蔵氏は30歳ちょっとで観音霊場の建設を思い立ち、すべての私財と情熱を傾けて、この建設を続けたという。信仰心の厚い徳蔵氏は、財を私することを潔しとしなかったということ。

成功する人ってのは、俗人とはやっぱりなんか違うね。

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高崎市石原町の華蔵山清水寺。

大同3年(808年)、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征討の際、戦勝祈願と兵士の武運長久を願い、京都の清水寺から勧請し、開基したと伝えられている。

清水寺 (1)
清水寺 (2)
長ぁ~い石段、なんと518段を上っていく。

清水寺 (3)
やっと楼門が見えてきたころには、足はガクガク、息はゼイゼイ。汗が噴き出す。

清水寺 (4)
清水寺 (5)
観音堂内には、狩野常信筆の大絵馬があるが、残念ながら見えなかった。

清水寺 (6)
清水寺 (7)
浮世絵師・一椿斎(いっちんさい)芳輝献額十六面が、回廊を飾っている。

清水寺 (8)
清水寺 (9)
観音堂の脇には田村堂があり、ここには元治元年(1864年)の下仁田戦争で戦死した、高崎藩士の木像を祀っている。本当は坂上田村麻呂の木造がメインなんだけど。

こんなに石段が長ぁ~いとは思わなかった。最初は1段飛ばしで軽快に上って行ったのだが・・・。もう最後は、どうなるかと思った。

体力ないなぁ~・・・・・。

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高崎市若松町の高崎山龍廣寺、その2。
前回、高崎の地名の由来と、村上鬼城のお墓があることを紹介した。

ここには、元ロシア人兵士のお墓がある。

元ロシア人兵士の墓 (1)
元ロシア人兵士の墓 (4)
元ロシア人兵士の墓 (5)
何で高崎に??

元ロシア人兵士の墓 (3)
明治37年(1905年)の日露戦争の時、ロシア軍の捕虜10名が龍廣寺に抑留されていて、そのうち傷病兵であった3名が亡くなり、ここにあった陸軍墓地に葬られた。

地面に伏せられた西洋式の平板な3基の墓碑には、上部にロシア語で銘文が記され、中央に大きな十字架が彫られ、その左右に日本語で彼らの所属部隊、階級、年齢、没年が刻まれている。

164高地
164高地にある記念碑。

日露戦争では、高崎第15連隊が旅順港攻撃に参戦し、3日間に及ぶ「164高地」の激戦で、568人もの犠牲者を出して、ついに陥落させた。「164高地」は、その功績から、「高崎山」と名付けられたという。

日露戦争と言えば、「203高地」の激戦が有名で、映画やドラマにもなっているが、今回いろいろ調べて高崎第15連隊や「164高地」も初めて知った。

紀行ものも、文章に起こす際いろいろ調べないといけないので、結果的に知識が増えるね。

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高崎市若松町の高崎山龍廣寺。

龍広寺 (1)
龍広寺 (2)
龍広寺 (3)
ここが高崎山というのには意味があって、高崎の地名に関係している。

慶長3年(1598年)、井伊直政が箕輪城から当地(当時は和田)に移った際、「松ヶ崎」という地名にしようとしたが、箕輪龍門寺住職だった白庵が、諸木には栄枯あり、物には盛衰があるのは、珍しいことではない。

ならば、成功高大の意味を採って「高崎」と名付けた方がよいのでは?ということで、高崎になったといわれている。まあ、木(松)は枯れるので、縁起が悪いということ。

のちに、白庵がこの龍廣寺に転住した際、山号に高崎を与えたという。

村上鬼城の墓 (1)

村上鬼城の墓 (3)

村上鬼城の墓 (2)
ここには俳人・村上鬼城のお墓がある。

村上鬼城(本名・荘太郎)は、初め軍人を志すが、耳疾のため断念。父の跡を継いで高崎区裁判所構内代書人となる。正岡子規に教えを請いやがて「ホトトギス」同人となり、「境涯の俳人」と呼ばれる。

龍広寺 (4)
広い墓所なので、ちょっと分かりずらいが、地図がありなんとかたどり着けた。

地図に、元ロシア人兵士の墓というのを発見!これは次回ね。

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