Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市(旧郡部を除く)

高崎市倉賀野町・大杉神社跡
高崎市倉賀野町・鳥啄池跡
高崎市倉賀野町・北向道祖神
高崎市倉賀野町・妙観山林西寺
高崎市倉賀野町・正六観音
高崎市倉賀野町・下正六の石橋供養塔
高崎市下佐野町・大用山光雲寺
高崎市下佐野町・放光神社
高崎市上佐野町・太天神天満宮
源義家の創建 ー萩原八幡宮ー
高崎市根小屋町・鹿島神社
高崎市根小屋町・鹿島山宝性寺
佐野屯倉の管理者が被葬者? -漆山古墳-
新田義重の墓? -永福寺-
高崎市井野町・井野神社
高崎市日高町・富士神社
高崎市新保田中町・八幡神社
山幸彦を祀る旧魚取神社 -幸宮神社-
縁起だるまの少林山 -達磨寺-
高崎市西横手町・明徳元年銘の宝篋印塔
中尾総鎮守 -中尾飯玉神社-
弘法大師御作の毘沙門天像 -眼聖寺-
高崎市岩鼻町・北向子育て観音
高崎市岩鼻町・赤城神社
高崎市上大類町・瑠璃光山安楽寺
源頼朝ゆかりの寺 -円福寺-
源頼朝の創建? -八幡原若宮八幡宮-
高崎市東中里町・火雷若御子神社
源義家の創建・新田義重の建立 -柳原馬頭観音堂-
高崎市宿大類町・熊野神社
高崎市矢島町・彦島神社
熊の墓 -妙音寺-
高崎の鬼門鎮護 -五霊神社-
高崎市山名町・山ノ上地蔵尊
高崎市山名町・来迎阿弥陀画像板碑
高崎五万石騒動義人堂
酒井家次の開基 -向雲寺-
足利尊氏の守護仏を祀る -延養寺-
群馬県立歴史博物館 企画展とテーマ展示
祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
群馬県立歴史博物館 リニューアル後初訪問
井戸から出てきた八幡菩薩像 -井戸八幡宮-
新町宿から購入した灯籠 -大八木諏訪神社-
正観寺遺跡群 祭祀巨石
古鏡を祀る -鏡宮神社-
高崎市最大・最古の板碑 -妙典寺-
高崎五万石騒動中総代・山田勝弥の墓
高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓 -大森院-
高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓 -高崎・普門寺-
高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
水戸黄門腰掛石 -山名八幡宮 その2-
信玄の鍋掛け石 -天竜護国寺-
上中居総鎮守 ひいらぎさま -上中居諏訪神社-
下小鳥村の首塚 -枉寃旌表之碑-
八幡八幡宮の別当寺 -大聖護国寺-
彼岸桜の老樹が護る -桜塚古墳-
高崎市・少林山薬師塚古墳
高崎市・少林山天頭塚古墳
高崎市・八幡原A号及びB号石槨
高崎市・剣崎長瀞西古墳
七士殉職供養塔
帝国陸軍特別大演習 -山名御野立所跡-
防火の神様 -高崎南町・愛宕神社-
群馬県出身の殉国の英霊を祀る -群馬県護国神社-
菊地町のウナギ伝説 -抜鉾神社-
酒井雅楽頭から拝領した松 -萩原の大笠松-
彦狭島王の墳墓? その2 -将軍塚古墳-
小栗上野介忠順の養嗣子・又一忠道の墓
軍師・山本勘助の子孫の墓 -大雲寺-
和田氏の菩提寺 -興禅寺-
高崎・和田の三石
高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-
お染の墓 -高崎市木部町・安楽寺-
木部範虎の墓 -心洞寺-
木部白満の墓 -光台寺 その2-
山名氏館跡??? -光台寺-
乃木稀典揮毫の忠魂碑と東条英機揮毫の忠霊塔
稲川政右衛門の墓 -常安寺 その2-
豊岡藩陣屋跡 -常安寺-
源頼義・義家父子の建立 -若宮八幡宮-  
群馬シンフォニーホール
ここに泉あり -群馬音楽センター-
藩主のお宝 -頼政神社 その2-
六郷・長野郷の総鎮守 -烏子稲荷神社-
「すさのお」とは読めない -進雄神社-
行き止まりの高架橋 -岩鼻軽便鉄道跡-
ダイナマイト発祥の地 -群馬の森・ダイナマイトの碑-
群馬県立歴史博物館
旧井上房一郎邸 -高崎市美術館-
高崎市綿貫町・普賢寺裏古墳
高崎市綿貫町・不動山古墳
高崎市倉賀野町・浅間山古墳
高崎市倉賀野町・大鶴巻古墳
七仏薬師如来 -安楽寺-
岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓 -高崎岩鼻・観音寺-
古き良き時代の旅館 -豊田屋旅館-
税金バベルの塔 -高崎市役所-
内村鑑三家の墓 -高崎若松町・光明寺-
高崎市民の憩いの場 -高崎公園-
徳川忠長自刃の部屋 -長松寺-
井伊直政の伯母のお寺 -恵徳寺-
高崎の総鎮守 -高崎神社-
茶舗・水村園 -小見家住宅-
旧威徳寺の内陣があるけど・・・ -光徳寺-
ネオ・ゴシック風教会 -高崎聖オーガスチン教会-
群馬で唯一建物が残る城址 -高崎城址-
土蔵のような外観 -高崎あら町・諏訪神社-
倉賀野の総鎮守 -倉賀野神社-
倉賀野氏の居城 -倉賀野城址-
飯盛り女の墓 -九品寺-
江原源衛左門重久の墓 -慈眼寺-
上野国七之宮 -小祝神社-
彦狭島王の墳墓? -三島塚古墳-
天狗が守る神社 -琴平神社-
井上保三郎の墓 -荘厳寺-
八幡霊園内にあります -若田原遺跡-
長野氏ゆかりの屋敷址 -北新波砦址-
長野氏累代の墓 その2 -来迎寺-
徳川忠長の墓 -大信寺-
中曽根康弘資料館
私は日本の文化を愛す -洗心亭-
こんな所にあったのね -中山道一里塚-
山田徳蔵氏のコレクション -山徳記念館-
浦島太郎のいる庭園 -徳明園-
深山幽谷の趣 -洞窟観音-
坂上田村麻呂の開基 -清水寺-
元ロシア人兵士の墓 -龍廣寺-
高崎という地名の由来 -龍廣寺-   
源氏ゆかりの社 -八幡(やわた)八幡宮-
上豊岡の茶屋本陣
見事な山門の天井絵 -養報寺-
倉賀野城主・金井秀景の墓 -永泉寺-
水上交通の要 -倉賀野河岸跡-
山名氏の祖・義範の創建 -山名八幡宮-
歌聖・藤原定家を祀る -定家神社-
佐野の舟橋歌碑
いざ鎌倉へ -常世神社-
戦時中の教科書を見よう -高崎市歴史民俗資料館-
懐中電灯を貸してくれる資料館 -観音塚考古資料館-
群馬の石舞台? -観音塚古墳-
源三位を祀る -頼政神社-
最後の上野三碑 -山ノ上碑-
上野三碑 -金井沢碑-
社有地なので入れない? -岩鼻陣屋跡-
高崎市・観音山古墳

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高崎市倉賀野町の大杉神社跡。

大杉神社跡 (1)
大杉神社跡 (2)
大杉神社は元和元年(1615年)に雷電神社として創建。文化4年(1807年)倉賀野河岸の問屋衆の寄進により常陸国阿波(あんば)の大杉神社から大杉大明神を勧請、大杉神社と改称している。常陸国・大杉神社は、舟運交通の守護神として舟運業に携わる多くの人々に信仰されていた。

大杉神社は明治40年(1907年)に井戸八幡宮に合祀され、現在はその跡地を示す碑が建っているのみである。碑が建っているのは個人宅の敷地内のようで、道から写真だけ撮らせていただいた。

なお、大杉神社の社殿は群馬郡桃井村新井(現在の榛東村新井)の八幡宮へ売却されている。社殿は彫刻も施された立派なもので、解体し運んだ後いざ組み立てようとしたら、余りに複雑なため費用がかさんでしまった。そこで一部の彫刻を取り付けないで売却したところ、購入・組み立て代金以上の金額で売れたので、旧新井村(当時は桃井村)の人々は大いに喜んだとされる。

大杉神社跡 (3)
当地は当時の倉賀野河岸を見下ろす場所になる。現在の烏川は水深も浅く川幅も狭いので、とても舟の航行など想像もできないが、倉賀野河岸は永禄4年(1561年)に倉賀野宿の住人10名が船による運搬営業を始めたとされる。最盛期(江戸中期)には76の業者があった。

明治17年(1884年)高崎ー上野間の鉄道開通に伴い、倉賀野河岸はその役割を終えることになる。

関連
 「水上交通の要 -倉賀野河岸跡-
 「旧新井村の守護神 -榛東村・新井八幡宮-

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高崎市倉賀野町の鳥啄池跡(とりばみのいけあと)。

鳥啄池跡 (1)
鳥啄池跡 (2)
鳥啄池は倉賀野神社の「飯玉縁起」に由来する池の跡である。「飯玉縁起」は倉賀野神社が飯玉明神と呼ばれるようになった由緒。池跡は平成元年(1989年)に整備されている。

以下「飯玉由緒」に関して。ちょっと長くなるが。

群馬郡の地頭・群馬太夫満行が跡取りに8男の八郎を選んだことから、兄たちは八郎を妬み鳥啄池の岩屋に押し込めてしまう。八郎は憎しみの余りに大蛇と化し国中にまで生け贄を求めるようになる。

そんな折、都から通りかかった奥州への勅使・宮内判官宗光はこれを聞き、岩屋の奥へ入って行き琴を弾き法の功徳を説いた。真っ赤な舌をのばし牙を立てて怒り狂う八郎大蛇であったが、琴の音に随喜の涙を流しこれまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変え「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん」と宣言し飛び去ったという。

実はこれ、伊勢崎市福島町の八郎神社(群馬八郎満胤を祀る)に残る話とほぼ同じ。
(「群馬八郎満胤がご祭神 -八郎神社-」参照)

また別の伝説では、この池を「御手洗の池」や「お玉ヶ池」と呼んでいる。当地で休憩していた豊城入彦命が御手を洗おうとしたが付近に水源がない。そこで腰をかけていた石を動かすと、水が湧き出てきた。豊城入彦命は大変喜び、御手を洗われた。

その湧き水がやがて大きな池となり、藻が生え草が生い茂り魔物が棲むようになってしまった。そんなとき飯玉八郎という人が現れて、この怪物を見事に退治した。八郎は玉石の陰に身を隠して、怪物の現れるのを待って斬り捨てた。玉石は豊城入彦命が大国魂命より戴いて来たもの。

人々は「玉石が倉賀野を救ってくれた」とし、この玉石を御神体として神社に祀ったという。この石は亀石とも言って亀に似た形をしてる。

まあ、2つの話はどちらも「飯玉」に関係する内容となっている。飯玉八郎(群馬八郎)の立場が違うけど。

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高崎市倉賀野町の北向道祖神。
現在は倉賀野神社境内に祀られている(境内社扱い)。
(倉賀野神社は「倉賀野の総鎮守 -倉賀野神社-」参照)

倉賀野神社・北向道祖神 (1)
倉賀野神社・北向道祖神 (2)
元は倉賀野城付近に北向きに祀られていた。昭和12年(1937年)にこの場所に移されている。鳥居は昭和55年(1980年)の建立。

倉賀野神社・北向道祖神 (3)
倉賀野神社・北向道祖神 (4)
双体道祖神。台座には文化2年(1805年)の銘がある。

道祖神の建立には伝説が残っている。後に倉賀野城ができる辺りは昼でも暗い程に樹木が茂っており、しかも恐ろしい魔物が住んでいた。魔物は村の作物を荒し、3年おきに若い女性を要求していた。

ある時、見知らぬ侍が「その魔物を退治する」と名乗り出て、娘の代わりに怪物の元へと運ばれていった。翌朝、村人は恐る恐る見に行くと、そこには牛のごとき魔物の死体を発見したが、侍の姿は見つからなかった。村人たちは山の神様に違いないとして、道祖神を祀ったという。

道祖神というと「旅の安全」や「縁結び」などの近世のイメージがあるが、もともとは「村の守り神」「疫病・悪霊退散」などの意味合いの強いものだった。

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高崎市倉賀野町の妙観山林西寺。

林西寺 (1)
林西寺は永正13年(1516年)法印乗伝和尚の開基と伝わる。

林西寺 (2)
山門前の六地蔵。平成7年(1995年)の造立。

林西寺 (3)
同じく山門前の石仏。左から馬頭観音、清水観音、宮原十一面観音が並ぶ。みな風化が進んでおり、像容も分からない感じになってきている。

馬頭観音は万福寺(江戸初期に廃寺)にあったと伝えられている。また、宮原十一面観音は当地の守り神であったとされる。倉賀野町周辺一帯は古代から中世にかけて宮原荘(高田荘とも)といわれていた。

元は無数の石が置いてあり、その石でお腹をさすると丈夫な子が授かり、身体の痛いところをさすると治るという言い伝えがあった。願いが叶うと元の石と新し石を奉納した。

林西寺 (4)
本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。本堂の建立年などは不明。

林西寺 (5)
林西寺 (6)
本堂左にある大師堂。これは高野山真言宗東京別院(東京都港区高輪)の管長部屋を移築したもの。写経道場とあり、現在は月に1回写経会が開かれている。

林西寺 (7)
大師堂前の宝塔。寛政9年(1797年)の造立。

林西寺 (8)
弘法大師像。昭和63年(1988年)の造立。

林西寺 (9)
十三重石塔。平成16年(2004年)の造立。弘法大師入唐千二百年記念とあった。空海は延暦23年(804年)に遣唐使の一員(長期留学僧)として唐に渡っている。

空海は渡唐に際して「20年留学予定」としていたが、実際は大同元年(806年)には帰国している。もちろん修行期間の長短ではなく、何を学んだかが重要なのは言うまでもない。とは言え、朝廷も2年で帰ってきてしまった空海に対し、大同4年(809年)まで入京を許可しなかった。そんな空海が真言密教を確立し(真言宗の開祖)「弘法大師」と諡号されたことは周知である。

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高崎市倉賀野町の正六観音。

正六観音 (1)
正六観音は正中3年(1326年)に当地の豪族・町田庄兵衛正源が、秘仏の観音像(一寸六分/約5.45cm)を安置したのが始まりという。

正六観音 (2)
正六観音 (3)
観音さまは厨子に納められている。秘仏ということだが、まったくご開帳されないのだろうか?

正六観音 (4)
正六観音 (5)
正六観音 (6)
境内の仏塔、石宮、石仏など。

ところで、高崎市が設置した新しい案内板があったが、町田正源が観音像を安置したのを嘉禄2年(1226年)と書いてあった。町田正源の没年は元徳2年(1330年)なので、さすがに100年以上前には安置できない。先に書いたように正中3年が正しい。

案内板には重宝させてもらっているが、ここだけではなく細かいミスがけっこうある。しょうがないのかな。

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高崎市倉賀野町の下正六の石橋供養塔。

下正六の石橋供養塔
2つの石橋供養塔が建っている。

右側は上部に石仏が彫られ、その下に「石橋供養塔」。右側面に安永7年(1778年)の銘、左側面に願主6名の名前が刻まれている。

左側は中央に如意輪観音が彫られ、上部に文化12年(1815年)の銘が刻まれている。裏に世話人10名の名前が刻まれている。

もともと当地に川が流れ橋が架かっていたのか、当地に集積されたのかは分からない。地図を見る限り、現在川は流れていないようだ(用水路はあるが)。もしかしたら昔は粕沢川がこの辺を流れていたのかな。

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高崎市下佐野町の大用山光雲寺。

光雲寺 (1)
光雲寺は天正元年(1573年)倉賀野城主・金井淡路守秀景が、開山に木雲宋流を招き創建した。木雲宋流は武州(埼玉県)児玉郡で住職をしていたが、隠居して下佐野に移り一庵を建てていた。

倉賀野秀景は木雲宋流を開山として倉賀野町・永泉寺も創建している。永泉寺も大用山と同じ山号である。(「倉賀野城主・金井秀景の墓 -永泉寺-」参照)

光雲寺 (2)
六地蔵。平成4年(1992年)の造立。

光雲寺 (3)
六地蔵横には馬頭観音が並ぶ。地元の方が愛馬(農耕馬)の供養に建立したようだ。大正や昭和の銘が見えた。

光雲寺 (4)
本堂の建立年などは不明だが、平成5年(1993年)に改修されている。

光雲寺 (6)
改修前の瓦かな。「光」の文字が見える。

光雲寺 (7)
光雲寺 (8)
境内のお堂。薬師堂とあったが、薬師仏はいらっしゃらない。本堂に遷された?

光雲寺 (9)
石造十三重塔。開運塔とあった。平成9年(1997年)の建立。

光雲寺 (10)
光雲寺14世・天麟即明の功徳碑。寛政元年(1789年)の建立。宝暦5年(1755年)から天明6年(1786年)まで在職している。天麟即明は書道の達人で、各地の神社仏閣などに筆跡を残した。烏川即明と号している。

養報寺
宇芸神社
高崎市倉賀野町・倉賀野山養報寺の本堂扁額や富岡市神成・宇芸神社の鳥居扁額は即明の書(文字)である。それ以外にも高崎市倉賀野町の安楽寺や九品寺にも書(石塔・石碑文字など含む)が残されている。

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高崎市下佐野町の放光神社。

放光神社 (1)
放光神社の由緒は不詳。上野国神名帳記載の「正四位上放光明神」は当社とされている。当地には放光庵という仏堂があり、文禄年間(1593~96年)の創建と伝わるが、明治9年(1876年)に廃止。その跡地に放光神社が再興されたという。

放光神社 (2)
放光神社 (3)
放光神社 (4)
現在の社殿は平成22年(2010年)新築建立。

放光神社 (5)
社殿脇には放光寺・放光明神跡という碑が建っている。昭和18年(1943年)の建碑。

高崎市山名町の山ノ上碑に記されている放光寺は、従来は佐野の三家(屯倉)の中心地にあったとされてきた(つまりは当所)。しかし昭和56年(1981年)に前橋市総社町の山王廃寺から「放光寺」と彫られた文字瓦が発見され、現在では放光寺=山王廃寺と解釈されている。

放光寺瓦
「放光寺」瓦の実物は、前橋市総社町の総社歴史資料館に展示されている。総社歴史資料館は無料で見学できる。

関連
 「祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
 「白鳳時代の大伽藍寺院跡 -山王廃寺跡-
 「前橋市総社歴史資料館

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高崎市上佐野町の太天神天満宮。

太天神天満宮 (1)
太天神天満宮 (2)
太天神天満宮の由緒は不詳。口碑では佐野源左衛門常世が、菅原道真の霊を祀ったと伝わる。明治後年に下佐野町・定家神社に合祀されたが、昭和25年(1950年)に再祀されている。

社号に関しては、天神天満宮、菅原神社、太天神天満宮と変わってきているようだ。詳細は分からない。

また佐野源左衛門常世は、能「鉢木」の登場人物として知られる。上佐野町内には、常世の屋敷跡と伝わる場所に常世を祀る常世神社がある。
(「いざ鎌倉へ -常世神社-」「ふるさと日本の昔話 セレクションの『鉢の木』」参照)

太天神天満宮 (3)
太天神天満宮 (4)
社殿は昭和49年(1974年)の建立。

太天神天満宮 (5)
本殿である石祠がそのまま社殿内に置かれている。

太天神天満宮 (6)
社殿裏には馬頭観音、御嶽山座王大権現などが並ぶ。写真中央の馬頭観音は文政3年(1820年)の造立で、台座正面には「右 やまな ふぢおか ちゝ婦 上佐野上組」と刻まれている(らしい)。このあたりは鎌倉街道が通っていたとされ、秩父巡礼の道しるべであったと考えられる。

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高崎市萩原町の八幡宮。

萩原八幡宮 (1)
萩原八幡宮は康平6年(1063年)に源義家が山城国(京都)・石清水八幡宮の分霊を勧請し、社殿を建立したと伝わる。源義家が天喜5年(1057年)前九年の役参陣のため奥州へ趣く途上に当地で戦勝祈願を行い、その戦勝お礼としての創建となる。

萩原八幡宮 (2)
鳥居・社殿は一段高いところにある。元々は古墳なのかもしれない。鳥居は文化8年(1811年)の建立。

萩原八幡宮 (3)
萩原八幡宮 (4)
萩原八幡宮 (5)
現在の社殿の建立年などは不明。

萩原八幡宮 (6)
萩原八幡宮 (7)
明治40年(1907年)に村内の神明社、琴平社、八幡社、八坂社、諏訪社、疱瘡社、菅原社等を合祀している。

県内には源義家の創建と伝わる神社(八幡宮など)が多数ある。東征(前九年の役・後三年の役)のおり県内を通過したとの資料的な裏付けはないが、なんと言っても八幡太郎義家は源氏の象徴的な棟梁なので、そういう由緒になっている場合が多い。

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高崎市根小屋町の鹿島神社。

根小屋・鹿島神社 (1)
根小屋鹿島神社の由緒は不明。前回の宝性寺のすぐ隣。宝性寺の山号が鹿島山なので、鹿島神社の方が創建は古く、宝性寺が別当寺だったのではないかな。(宝性寺の創建が慶長年間(1596~1615年)とされるので、それ以前)
(「高崎市根小屋町・鹿島山宝性寺」参照)

根小屋・鹿島神社 (2)
石段を登り開けたと思ったら上信電鉄の線路。しかも、ここには遮断機はおろか踏切さえない。ちょっと危なくないか。宝性寺からも行けるのでいいのかな。

以前行った東吾妻町の「行沢の木造馬頭観音堂」も、吾妻線を渡るのに踏切も遮断機もなかった。(「東吾妻町・行沢の木造馬頭観音立像」参照)

根小屋・鹿島神社 (5)
根小屋・鹿島神社 (4)
根小屋・鹿島神社 (7)
社殿はこじんまりしており質素な感じ。

根小屋・鹿島神社 (3)
社殿脇の礎石らしき石。塔の礎石なのか社殿の礎石なのか不明。いずれにしろ、古くから格調のある神社だったことを思い起こさせる。これ以外にもう2つ、それらしき石があった。

根小屋・鹿島神社 (8)
根小屋・鹿島神社 (9)
境内の末社。中に菅原道真らしき像が安置されているので天神社(菅原神社)か。

根小屋鹿島神社には毎年8月7日に行われる「七日火」と呼ばれる万燈花火を打ち上げる花火大会が伝わっている。この「七日火」は祖霊を慰霊するためのものであるが、元々は飛鳥時代に防人として徴兵された人々を送る「鹿島立ち」(鹿島神社の祠を建て無事を祈る)から来ているとされる。

そうすると、鹿島神社の創建は相当古いことになる。(東国から防人が徴兵されたのは、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた以降)

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高崎市根小屋町の鹿島山宝性寺。

根小屋・宝性寺 (1)
慶長年間(1596~1615年)僧・重忠の開創と伝わる。寛永5年(1628年)に安養寺(高崎市上大島町)の住清を招き中興開基。このとき、根小屋の肝煎である赤穂内之助の屋敷内に堂宇を整備している。ちなみに肝煎とは江戸時代の村役人のことで、庄屋や名主と同義。

根小屋・宝性寺 (2)
門柱横の石塔類。ちょっと前の道(寺尾藤岡線)の交通量が多く、何が建っているのかはよく見てこなかった。

根小屋・宝性寺 (3)
根小屋・宝性寺 (4)
参道を境内に向かっていくと、すぐ手前に上信電鉄の線路がある。ちょうど下り列車(下仁田行き)が通過したが、境内入口の踏切には遮断機がなく、左右確認など安全確認が必要だ。写真右側500m位のところに高崎商科大学前駅がある。

根小屋・宝性寺 (5)
本堂は明治15年(1882年)に焼失。明治32年(1899年)の再建。本尊の十一面観音を祀る。

根小屋・宝性寺 (6)
根小屋・宝性寺 (7)
境内の六地蔵と聖観音像。

根小屋・宝性寺 (8)
これはなんだろう。獅子かな。インド・アショカピラーの獅子柱頭をモチーフにしているような気がしないでもない・・・。

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高崎市町屋町と高崎市楽間町の宝塔。

町屋の宝塔
町屋の宝塔は高さ230cm、幅62cmと比較的大型の宝塔。安山岩製でその塔身は壺型をしている。一般に赤城塔と呼ばれる宝塔。永享11年(1439年)の銘がある。

町屋の宝塔は宝福寺参道の町屋公民館脇にある。気づかないで境内から墓地まで行ってしまった。

楽間の宝塔
町屋町から烏川を挟んで北東にあたる楽間町の宝塔。3基の宝塔はいずれも高さ160cmほどで、塔身が短く下部が細くなる壺型(半球形)をしている。向かって左から永享9年(1437年)、嘉吉3年(1443年)、正長3年(1430年)の銘がある。

楽間の宝塔は、元々近くの笹藪の中にあったが、現在は井野家の墓地内に移されている。

町屋・楽間の宝塔は、いずれも同年代(室町時代)の造立で、当地一帯(烏川の両岸)に真言密教と結びついた榛名山信仰の影響があったと考えられる。

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高崎市下佐野町の漆山古墳。

漆山古墳 (1)
漆山古墳 (2)
漆山古墳は全長約70mの前方後円墳であったと推定されるが、現在は前方部が大きく削平され、墳丘は東西38m、南北31m、高さ7.5mほどになっている。6世紀後半の築造と推定される。

漆山古墳 (3)
漆山古墳 (4)
漆山古墳 (5)
埋葬施設は横穴式石室で後円部南側に開口している。凝灰岩を加工して造られており、全長7.8m、玄室長3.7m。内部から刀、鉄鏃の破片、金銅製の馬具などが出土している。

当地には6世紀後半に「佐野屯倉」が設置されており、その管理者が被葬者ではないかと考えられている。山名町の山ノ上碑や金井沢碑に刻まれる「佐野屯倉」「三家子◯」の文字との関連が窺われる。

漆山古墳は佐野古墳群の中心的古墳で、周りが住宅地になるなか地主さんの意向で何とか保存されてきた。平成28年(2016年)に高崎市へ寄贈されている。

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高崎市寺尾町の太白山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺 (2)
永福寺は新田氏の祖・義重が開創した永福庵が始まりと伝わる。

永福寺 (3)
永福寺 (4)
永福寺 (5)
堂宇は大正7年(1918年)に火災により焼失。昭和3年(1928年)に再建されている。但し、山門のみ火災を免れ天明3年(1783年)の建立時の姿を残している。本堂屋根には新田氏の家紋「大中黒」が。

永福寺 (6)
永福寺 (7)
梵鐘は享保7年(1722年)に鋳物師・中林儀右衛門惟貞の鋳造。総高106cm、口径64cm、撞座には菊のご紋が使用され、池の間には仏語などが刻まれている。先の大戦時に供出を免れている。

永福寺 (8)
永福寺 (9)
境内の観音堂。永福寺は昭和55年(1980年)に開創された新選高崎33観音の8番札所になっている。

永福寺 (10)
永福寺 (11)
墓地には新田義重の墓がある。

源頼朝が挙兵した際、義重はすぐに参陣せず日和見的な態度をとったため、鎌倉幕府内で新田氏が冷遇される原因となった。頼朝挙兵時、義重は寺尾城(館)に籠もっていたとされ、その「寺尾」には太田・新田荘説と高崎寺尾説がある。どちらも決め手に欠けるのだが、どちらにも地元有志が建てた碑や説明板などがある。

なお、永福寺には義重の法号を記した位牌が残されている。

新田義重の墓関連
太田金山 子育呑龍」(太田市金山町・大光院新田寺)
畑の中の古墓 -伝新田義重夫妻の墓-」(太田市徳川町・義季館跡)
新田氏累代の墓 -円福寺-」(太田市別所町・円福寺の五輪塔・石塔群の中に義重の墓があるとする説もある)

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高崎市井野町の井野神社。

井野神社 (1)
井野神社 (2)
井野神社は元亀2年(1571年)に熊野神社として創建。明治40年(1907年)に諏訪神社、石上神社を合祀し井野神社と改称している。

現在の鳥居は平成16年(2004年)の建立。

井野神社 (3)
井野神社 (4)
井野神社 (5)
社殿は諏訪神社などを合祀した際に改築されたが(明治40年)、昭和34年(1959年)に倒木により倒壊。昭和42年(1967年)に再建されている。

井野神社 (6)
境内の大銀杏。高さ20m、目通り9mで、樹齢350年と推定される。

根元よりホラ貝とされる貝類が出て、参拝者はこれを魔除けのお守りとして持ち帰ったという。太古、この辺りは貝塚だったのかなぁ。

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高崎市日高町の富士神社。

富士神社 (1)
富士神社は永禄2年(1559年)の創建と伝わる。

富士神社 (2)
灯籠は平成14年(2002年)の奉納。

富士神社 (3)
富士神社 (4)
社殿前の狛犬は昭和59年(1984年)の奉納。社殿の建立年などは分からない。

富士神社 (5)
境内の片隅にあまり見かけない像容の石仏があった。自信はなののだが、似た石仏を渋川市北橘町分郷八崎の東円山観音堂で見かけたのを思い出した。東円山観音堂の石仏は地蔵菩薩像だったので、これも地蔵菩薩かな。(「渋川市北橘町・東円山観音堂」参照)

富士神社 (6)
富士神社 (7)
余り広くない境内だが、子ども達のための遊具(ブランコ・鉄棒・滑り台)が設置されている。

富士神社のご祭神は木之花咲久夜毘嬪命(木花咲耶姫)なので、富士浅間神社の富士だけが残ったのだと思う。群馬県内では富士浅間神社・浅間神社は多いが、富士神社の名称は少ない。昔は富士塚もあったのかな。

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高崎市新保田中町の八幡神社。

新保田中八幡神社 (1)
新保田中八幡神社は、天正18年(1590年)八幡八幡宮より分霊を勧請。

新保田中八幡神社 (2)
新保田中八幡神社 (3)
社殿の建立年などは不明だが、明治期かな。

新保田中八幡神社 (4)
新保田中八幡神社 (5)
明治41年(1908年)に近隣の稲荷神社、諏訪神社を合祀している。

新保田中八幡神社 (6)
八幡神社の傍らには井野川(?)が流れており、趣のある橋も架かっている。川にはちょっとした堰があるが、ペットボトルなどのゴミが大量に引っかかっている。川にゴミを捨てるのはやめよう!

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高崎市下小鳥町の幸宮神社。

幸宮神社 (1)
幸宮神社 (2)
幸宮神社は応永年間(1394~1428年)に魚取神社として創建したと伝わる。上野国神名帳に記載される「魚取明神」は当社とされる。

鳥居は正徳2年(1712年)の建立で、石造鳥居としては高崎市内でも古い部類に入る。

幸宮神社 (3)
幸宮神社 (4)
幸宮神社 (5)
幸宮神社 (6)
社殿は明和5年(1768年)に焼失の記録が残る。その後、安永8年(1778年)、寛政7年(1795年)に再建されているようだ。平成28年(2016年)には社殿や境内含め、大改修が行われている。

なお、社殿が鎮座しているのは「六郷村6号墳」の墳丘上になる。6号墳は全長36mの前方後円墳との記録が残るが、ほぼ開削されているようで遺構はなさそうだ(素人目には分からない)。多分、隣の下小鳥公民館の敷地と合わせると、記録くらいの領域になると思われる。

幸宮神社 (7)
境内にある石祠には応永17年(1410年)の銘があり、「御本宮」(創建時の祠)とされる。これは上記由緒を裏付けるものである。

幸宮神社 (8)
幸宮神社には高崎市の重文に指定されている算額が残されている。文政7年(1824年)の奉納で、奉納者は山田詮左衛門ほか15人。社殿内に保管されているため、日ごろは見ることが出来ない。

ところで、タイトルの「山幸彦を祀る旧魚取神社」っておかしくない? と感じるかもしれないが、幸宮神社のご祭神の一柱に彦火々出見命がおられる。これは山幸彦で知られる。旧名「魚取神社」から想像するに、兄の海幸彦(火闌降命)がご祭神ならすっきりする。海幸彦は釣針を持ち、魚を捕るのが得意。創建時は海幸彦がご祭神だった? それとも両神ともご祭神だった?

幸宮神社と名称変更された時期は分からないが、「幸」を持っている神の宮と思われる。この「幸」は海幸彦の釣針、山幸彦の弓矢を言う。

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高崎市鼻高町の少林山達磨寺。

達磨寺 (1)
達磨寺 (2)
達磨寺の開創は不詳。伝承では、当地に古くから観音堂があり、碓氷川で見つかった光る香木を納めておいたところ、延宝8年(1680年)に一良居士という行者が、その香木から達磨大師の座禅像を彫り安置したのが始まりとされる。元禄10年(1697年)に前橋城主・酒井忠挙により、前橋城の裏鬼門を護る祈願所として寺院建立を発願。心越禅師を開山とし、天湫和尚を水戸から招き達磨寺とした。

明治期に隠元禅師を中興開山とし、黄檗宗に改宗し現在に至っている。隠元はインゲン豆を日本に伝えたとされる日本黄檗宗の開祖。当然のことながら、隠元の年代とは異なるが(江戸初期の人)、開祖などを開山とすることはよくあるらしい。

総門は平成9年(1997年)の建立。中央の屋根を高くし、左右を低くした牌楼(はいろう)式と呼ばれる中国様式の山門。窟門(写真右の白壁部の門)をくぐると、女坂と呼ばれる石段を迂回して境内に行き着く道がある。

達磨寺 (3)
県道沿いのコミカルなだるま型の案内板。

達磨寺 (4)
達磨寺 (5)
急で長い石段(165段)。脇には不動明王像。

達磨寺 (6)
達磨寺 (7)
石段を登り切ったところにある鐘楼(写真は境内側から)。梵鐘は「招福の鐘」と名付けられている。

達磨寺 (8)
達磨寺 (9)
講堂。昭和2年(1927年)の建立。達磨大師を本尊として祀る研修道場。

達磨寺 (10)
達磨石。謂れなどは分からない。

達磨寺 (11)
達磨寺 (12)
霊符堂(本堂)や達磨堂に上っていく石段前にある玄武灯籠。亀に大蛇が巻き付いた様式。

達磨寺 (13)
達磨寺 (14)
本堂にあたる霊符堂。明治44年(1911年)の再建。北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を祀り、心越禅師を安置する。北辰鎮宅霊符尊は北極星と北斗七星を神格化した方位除けの守護神。

達磨寺 (15)
達磨寺 (16)
多数のだるまが納められている。「中山秀征」「布袋寅泰」「群馬県警」「東進ハイスクール」「FC東京」などの名入りだるまも見られる。

達磨寺 (17)
達磨寺 (18)
達磨堂。大山立修氏の達磨コレクションの寄贈が縁となり、昭和61年(1986年)の開堂。

達磨寺 (19)
達磨寺 (20)
日本各地のだるまなどを展示している。

達磨寺 (21)
群馬が誇る3首相(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三)の名入りだるまも。

達磨寺 (22)
達磨寺 (23)
達磨寺 (24)
十一面観音を祀る観音堂。開創当時は経蔵として建立されたが、寛政4年(1792年)に北辰鎮宅霊符尊を祀る霊符堂に改修された。現在の観音堂はこの時のものとされる。その後、霊符堂が建立され北辰鎮宅霊符尊が遷され、観音堂となっている。

達磨寺 (25)
達磨寺 (26)
観音堂周辺には130体ほどの庚申塔が建っている(百庚申)。観音堂に北辰鎮宅霊符尊が祀られた寛政4年以降に建てられ、文化年間(1804~18年)のものが多い。

達磨寺 (27)
達磨寺 (28)
百庚申の脇にある「招き猫の木」。ネコに見えなくもない?

縁起だるまは達磨寺が発祥とされる。天明3年(1783年)の浅間山の噴火に伴う飢饉で、農民の生活は困窮を極めていた。この惨状を見かねた達磨寺9世・東獄和尚は開山・心越禅師の描いた「一筆達磨座禅像」を元に木型を彫り、張り子だるまの作り方を農民に伝授した。これが現在の「縁起だるま」の発祥とされる。

達磨寺関連
 「高崎市・少林薬師塚古墳
 「高崎市・少林山天頭塚古墳
 「私は日本の文化を愛す -洗心亭-

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高崎市西横手町の宝篋印塔。

明徳の宝篋印塔
宝篋印塔は明治5年(1872年)に廃寺となった西福寺跡にあり、明徳元年(1390年)の銘がある。明徳は北朝の元号。

高さ2.9mと県内でも最大級の大きさで、笠が2つある二重式宝篋印塔、あるいは須弥壇式宝篋印塔と呼ばれる形をしている。この形は、群馬県と埼玉県北部にのみ分布する特殊な形式である。

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高崎市中尾町の飯玉神社。

中尾飯玉神社 (1)
中尾飯玉神社は延暦3年(784年)の勧請・創建と伝わる。長い社歴を誇る古社である。

中尾飯玉神社 (2)
明治41年(1908年)に村内の菅原神社、諏訪神社を合祀している。当地は中尾町の天神地区と言い、菅原神社は「中尾の天神さま」と親しまれていた。

中尾飯玉神社 (3)
中尾飯玉神社 (4)
社殿は氏子の三吉野検校が多額の寄付をし、天保年間(1831~45年)に再建されている。三吉野検校は当地に生まれ、不幸にも目の病を得て失明したものの勉学への志を失わず、江戸や京で学び帰郷後には多くの門弟を育てている。

中尾飯玉神社 (5)
中尾飯玉神社 (6)
社殿に彫刻が施され荘厳な装いを見せているのは、検校や氏子の敬神崇祖の念をよく表している。

中尾飯玉神社 (7)
一ノ鳥居前の双体道祖神。風化が進んでいるので、覆屋的なものを掛けてやった方がいいと思う。

江戸時代には歴代高崎藩主(酒井家・戸田松平家・安藤家・大河内松平家など)の崇敬を受けたという。

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高崎市矢島町の神動山眼聖寺。

眼聖寺 (1)
眼聖寺は康永3年/興国5年(1344年)覚日法印の開山。康永は北朝、興国は南朝の年号。

眼聖寺 (2)
山門に花鳥風月の天井絵が描かれている。

眼聖寺 (3)
眼聖寺 (4)
本堂は文政7年(1824年)の建立とされる。昭和に入ってから数度の改修・改築を経ている。

眼聖寺 (5)
眼聖寺 (6)
眼聖寺 (7)
弘法大師(空海)御作とされる毘沙門天像を祀る毘沙門堂。事実なら平安時代初期の像になる。県内には弘法大師作と伝わる仏像はいくつかあるけど・・・。

眼聖寺 (8)
眼聖寺 (9)
境内の不動明王像。比較的新しそうだ。

ところで、高崎市元島名町にも同名の神動山眼聖寺がある。どちらも高野山真言宗(真言宗の中にも様々な宗派がある)。矢島町と元島名町は隣接しており、2つの眼聖寺は距離的にも1km位しか離れていない。

眼聖寺2 (1)
元島名町の神動山眼聖寺。由緒は分からないが、矢島町の眼聖寺と同じ?

眼聖寺2 (2)
眼聖寺2 (3)
本堂は平成13年(2001年)の新築。

眼聖寺2 (4)
境内の六地蔵は昭和55年(1980年)の奉納。

眼聖寺2 (5)
境内には子供用の遊具が設置されている。境内はそこそこ広いので、近隣の子ども達の遊び場になっているのかな。

矢島町と元島名町の眼聖寺の関係は分からないが、同じ宗派で同じ山号・寺号なので本院と分院なのかなぁ。偶然ってことはないと思うが。

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高崎市岩鼻町の北向き子育て観音。

岩鼻北向観音 (1)
岩鼻北向観音 (2)
岩鼻北向観音 (3)
岩鼻北向子育て観音(正式名称がある?)の由緒は不明。お堂前の灯籠の銘は文政3年(1820年)だったので、江戸期には既に当地に根付いていたようだ。

岩鼻北向観音 (4)
岩鼻北向観音 (5)
岩鼻北向観音 (6)
お堂の彫刻は立派だ。作者などは分からない。

岩鼻北向観音 (7)
ご本尊の如意輪観音。如意輪観音は安産・子育てに御利益があるとされ、女人講(子育てや安産祈願)の本尊としても信仰されてきた。

毎年8月20日に「岩鼻町子育観世音大祭」が開催され、約3500発の花火が打ち上げられる。昨年(2018年)がお祭が復活して92年とあったので、大正15年(1926年)頃に復活したようだ。

花火を「煙火」と書くあたりに歴史を感じる。岩鼻には群馬の森を中心に、昭和20年(1945年)までは旧陸軍の弾薬製造工場があったので、それも関連してるのかな。

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高崎市岩鼻町の赤城神社。

岩鼻赤城神社 (1)
岩鼻赤城神社 (2)
岩鼻赤城神社の創建は不詳だが、三夜沢赤城神社から豊城入彦命の分霊を勧請したもの。

岩鼻赤城神社 (3)
岩鼻赤城神社 (4)
二ノ鳥居は合祀された稲荷神社のもの。稲荷神社は寛政6年(1794年)に江戸幕府代官・吉川栄左衛門が岩鼻陣屋を設立した際、管内農桑業の幸福を祈念し坂上北(字名)に創建。坂上北は岩鼻陣屋があった場所。現在は日本火薬の社宅やクラブがある辺り。明治28年(1895年)岩鼻赤城神社に合祀されている。

岩鼻赤城神社 (5)
二ノ鳥居には大きく「山本大膳源雅直」の名が。山本大膳は第4代の岩鼻代官。

岩鼻赤城神社 (6)
岩鼻赤城神社 (7)
拝殿は昭和41年(1966年)に瓦屋根への葺き替えなど改修されてる。

岩鼻赤城神社 (8)
拝殿前の狛犬はすっかりすり減って、可愛い子犬の石像のようになっている。

岩鼻赤城神社 (9)
本殿は神明造りで、棟持柱が建物の外に独立している。これは全国的に非常に珍しい建築様式である。本殿は昭和60年(1985年)に屋根を銅板に葺き替え、平成9年(1997年)に土台補強を行っている。

岩鼻赤城神社 (10)
神楽殿。

岩鼻赤城神社 (11)
社殿裏の大ケヤキ。ご神木かな。

岩鼻赤城神社 (12)
岩鼻赤城神社 (13)
境内社の巣黒神社。元の鎮座地が旧陸軍の火薬製造場用地となったため、明治13年(1880年)岩鼻赤城神社境内に遷座している(合祀ではないようだ)。今の群馬の森、日本化薬、高崎量子応用研究所(旧原研高崎)の一帯が火薬製造場だった(量子応研のところは後の拡張域)。

関連
 「社有地なので入れない? -岩鼻陣屋跡-
 「岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓 -高崎岩鼻・観音寺-
 「ダイナマイト発祥の地 -群馬の森・ダイナマイトの碑-

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高崎市上大類町の瑠璃光山安楽寺。

瑠璃光山安楽寺 (1)
安楽寺は明徳2年(1391年)伝燈阿闍梨法印権大僧都・恵蔵の開山と伝わる。すごい高僧なのかな。肩書きがすごい。

瑠璃光山安楽寺 (2)
瑠璃光山安楽寺 (3)
門前に庭園が造られており、東屋の他に村上鬼城の句碑(遠山の 焼け移りけり 月おぼろ)があった。

瑠璃光山安楽寺 (4)
瑠璃光山安楽寺 (5)
山門には立派な鯱(しゃちほこ)が乗っている。

瑠璃光山安楽寺 (6)
瑠璃光山安楽寺 (7)
本堂は明暦年間(1655~58年)の建立と群馬郡誌(大正14年:1925年)にあるが、現在の本堂を見ると近年再建されているようだ。まあ、常識的に考えれば、明暦年間の木造本堂が残っているのは難しいね。

瑠璃光山安楽寺 (8)
瑠璃光山安楽寺 (9)
瑠璃光山安楽寺 (10)
境内の薬師堂。薬師如来像は厨子の中らしく、見えなかった。

慶安2年(1649年)に徳川3代将軍・家光からご朱印26石1斗を賜ったとの記録が残る。

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高崎市八幡原町の八幡山円福寺。院号は頼朝院。

円福寺 (1)
円福寺は江戸時代初期に円光寺と長福寺が合併し円福寺となっている。合併開基の乗慶法印の入寂は慶安4年(1651年)。

前回の「八幡原若宮八幡宮」でも書いたが(「源頼朝の創建? -八幡原若宮八幡宮-」参照)、源頼朝が浅間山麓での巻き狩りからの帰途に病にかかり、当地を鎌倉になぞらえた土地にすれば病は治ると占いで出たため、八幡宮を勧請したら快癒したとされる。病に伏せった頼朝が休んだのが長福寺といわれる。浅間の巻き狩りは建久4年(1193年)なので、長福寺の創建はそれ以前となる。

円福寺 (2)
本堂は昭和4年(1929年)に火災で焼失、昭和13年(1938年)に再建されている。

円福寺 (3)
殿鐘には「西上州八幡山頼朝院長福寺願主法印乗舜」の銘がある。長福寺が八幡山頼朝院で、そのまま円福寺に引き継がれたことが分かる。

円福寺 (4)
円福寺 (5)
境内は庭園風に整備されており、一部の木には雪吊が施されている。まあ、この辺では余り雪は降らないと思うけど。

円福寺 (6)
境内の宝塔。享保15年(1718年)の銘があった。

円福寺 (7)
本堂裏には小さい円墳が残されている。

円福寺 (8)
円福寺 (9)
円福寺 (10)
円墳上には観音堂がある。観音様のいわれは分からないようだ。

円福寺 (11)
観音堂への石段脇には、多数の石仏が並んでいた。

明治末までは八幡原に「頼朝塚」と呼ばれる高さ4~5mの丘陵があり、丘上には古碑が建っていたという。その後、開墾され畑になったので碑は円福寺に移されている。と言うことなので探してみたが、見つからなかった。当時、既に碑文は読めないほど風化していたというので、見つけても読めないから分からないか。

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高崎市八幡原町の若宮八幡宮。

八幡原若宮八幡宮 (1)
八幡原若宮八幡宮 (2)
八幡原若宮八幡宮 (3)
八幡原若宮八幡宮は建久年間(1190~98年)に源頼朝が鶴岡八幡宮の分霊を勧請したと伝わる。八幡原の地名の元になった古社である。鳥居は平成28年(2016年)の建立。

八幡原若宮八幡宮 (4)
八幡原若宮八幡宮 (5)
八幡原若宮八幡宮 (6)
八幡原若宮八幡宮 (7)
余り広くない境内に、質素な社殿が建っている。いかにも鎮守の森といった雰囲気が漂う。

八幡原若宮八幡宮 (8)
神楽殿がある。この辺でも養蚕神楽が行われていたようだ。現在も行われいるかは分からない。

八幡原若宮八幡宮 (9)
八幡原若宮八幡宮 (10)
社殿裏の様子が古墳を思わせる。円墳のようだが、社殿で半分くらい削られている。

ところで、口碑によると源頼朝が浅間山麓での巻き狩り(建久4年:1193年)からの帰途に病にかかり、当地を鎌倉になぞらえた土地にすれば病は治ると占いで出たため、八幡宮を勧請したら快癒したとされる。

確かに、綿貫町から八幡原町に向かう旧例幣使街道の井野川に架かる橋は鎌倉橋だし、その先の緩やかな坂道は鎌倉坂と言う。

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高崎市東中里町の火雷若御子神社。

火雷若御子神社 (1)
火雷若御子神社 (2)
火雷若御子神社は火雷神社(玉村町)の分霊を勧請したものだが、その年代は不詳。ただ「上野国神名帳」に「従五位上 火雷若御子明神」と記載されているので、それなりの古社だと思う。

火雷若御子神社 (3)
火雷若御子神社 (4)
火雷若御子神社 (5)
主祭神は火産霊命だが、後に保食命(宇気母智命)を合祭した際、中里神社に改称されたが(こちらも年代不明)、明治28年(1895年)に火雷若御子神社に復称している。

火雷若御子神社 (6)
火雷若御子神社 (7)
拝殿内には明治38年(1905年)奉納の絵馬が2枚あった。1枚目の題材は分からないが、2枚目は明治天皇かな。

火雷若御子神社 (8)
火雷若御子神社 (9)
拝殿には「神楽殿」の扁額が掲げられているが、神楽殿は取り壊されたようだ。跡地を示す看板が立っている。

火雷若御子神社 (10)
境内に芭蕉の句碑があった。「稲妻に さとらぬ人の 尊さよ」。神社名にちなんだ句を選定したのかと思ったが、句意は「稲妻を見て何かを悟ったような顏で物言う人より、何も思わずに無心でいる人の方が尊いのだ」みたいな感じ。

火雷若御子神社 (11)
ご神木の大ケヤキ。

ところで、「若御子」と付いている意味は不明。調べると、「上野国神名帳」には当社以外にも「諏訪若御子」「抜前若御子」「赤城若御子」「榛名若御子」「倭文若御子」「白羅根若御子」など多数あり。

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