上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 高崎市(旧市部)


高崎市倉賀野町の旧中山道「左道通行」道標。

左道通行の道標 (1)
「左道通行」道標は、旧中山道に設置された左側通行であることを示す昔の道路標識。昭和7年(1932年)に旧内務省が設置したもの。旧内務省は警察や地方行政など内政一般を所管した省庁で、内務大臣は首相に次ぐ地位(副総理格)とされた。

左道通行の道標 (2)
交通量の増加に伴い松並木の南側に道路を新設し、松並木をそのまま中央分離帯として使用した。松並木の両側の道路が、それぞれ左側通行であることを示すため設置された(解説板の写真に赤矢印を追加)。道標は高崎側と倉賀野側それぞれに設置されている。

戦後になり交通量(自動車)の増加から、中央分離帯としての松並木やこの道標に衝突する事故がたびたび発生。安全面から昭和25年(1950年)ころ、松並木が撤去されている。これに併せ道標も撤去されたようだ。倉賀野側は昭和37年(1962年)ころまで路傍に置かれていたとの情報もある。

左道通行の道標 (3)
左道通行の道標 (4)
平成28年(2016年)になり、道標が高崎市新町の旧建設省事務所内(現在は民間企業敷地)に保管されていることが判明。平成30年(2018年)に当地に再設置されている。撤去から60年余り(撤去年に諸説あるようだが)、よく残されていたものだ。

道標は高さ約1m30cm、幅約40cm。厚さも約40cm。設置されているのは倉賀野側のものだが、高崎側に設置されている(もちろん元の場所ではないし、歩道側ではあるが)。高崎側の道標は撤去時に、既に損傷が激しく廃棄されたらしい。倉賀野側も自動車が接触した痕跡が多く残っている。

この記事を書いていたら、松並木を中央分離帯として使用している現役の道路があることを思い出した。行ってみるかな。


高崎市倉賀野町の諏訪神社。

倉賀野諏訪神社 (1)
倉賀野諏訪神社 (2)
倉賀野諏訪神社は永禄年間(1558~70年)に倉賀野城主・金井淡路守秀景が、信州・諏訪大社から分霊を勧請し創建したとされる。

現在の鳥居は昭和48年(1973年)の建立。

倉賀野諏訪神社 (3)
鳥居横には「皇太子殿下行啓記念碑」が建つ。大正天皇が皇太子時代の明治35年(1902年)に行啓された記念。大正4年(1915年)の建立。

倉賀野諏訪神社 (4)
倉賀野諏訪神社 (5)
社殿は平成6年(1994年)の台風で、境内の大ケヤキが倒れ全壊。平成7年(1995年)に再建されている。

倉賀野諏訪神社 (6)
社殿左側には立派な土俵がある。毎年8月26日の例祭時には、子ども相撲大会が開催される。

倉賀野諏訪神社 (7)
倉賀野諏訪神社 (8)
社殿裏の境内社群に池鯉鮒(ちりゅう/ちりふ)神社がある(石宮)。マムシ除け、長虫除けの神様として信仰されている。マムシに噛まれないご利益があると言うこと。愛知県の知立神社より池鯉鮒大明神を勧請したといわれる。

当地には池鯉鮒神社が祀られることになった伝説が残っている。ある夏の夕暮れ、マムシが次に噛み殺す人を相談していたところ、農夫がそれを偶然聞いてしまい、しかもそれが自分の番だと言う。

農夫は翌日、熱に浮かされた夢遊病者のように木を切り・組み立て、ひとつの祠を作った。その祠は甲大道南(倉賀野町内の旧字)に祀られた。その後、その農夫がマムシに噛まれなかったことから、マムシ除けの神として「池鯉鮒大明神」と呼ばれるようになったという。

倉賀野諏訪神社 (9)
池鯉鮒神社と並んで鬼鎮神社という石塔がある(中央のちょっとちいさいもの)。詳細は分からないが、何か(自然災害や病など)を鬼に見立てて、それを鎮めるご利益があるのかもしれない。


高崎市倉賀野町の下町の庚申さま。

倉賀野下町の庚申塔 (1)
下町の庚申さまは倉賀野城の鬼門(北東)除けに建てられたという。倉賀野城の築城は室町時代初期とされるので、下町の庚申さまも同時期の造立と考えられる。

昭和57年(1982年)に庚申塚、上屋などの改修が行われている。

倉賀野下町の庚申塔 (2)
倉賀野下町の庚申塔 (3)
中央に庚申塔(青面金剛像)。現在の庚申塔は宝暦年間(1751~64年)の造立とされる。右側に二十二夜塔(如意輪観音)、左側に双体道祖神が並んでいる。二十二夜塔と双体道祖神が併せて置かれたのは昭和に入ってからとされるが、詳細は分からない。

倉賀野下町の庚申塔 (4)
ただ、右側の二十二夜塔は馬頭観音像に見えるのだが・・・。

城の鬼門除けに庚申塔を祀るのは、ほとんど聞いたことがない。しかも北向きに建てられている。この理由は分からない。

庚申信仰が盛んであった江戸時代中・後期には下町の庚申さまも大いに賑わい、新町・本庄方面や遠くは深谷・熊谷辺りの人々までがお詣りに来たという。


高崎市倉賀野町の阿弥陀堂。通称・閻魔堂。九品寺の境外仏堂である。
(九品寺は「飯盛り女の墓・一行山九品寺」参照)

倉賀野閻魔堂 (1)
阿弥陀堂はその名の通り阿弥陀如来を祀っている。明治41年(1908年)にお堂を建て替えた際に閻魔大王が追祀され、それ以降「閻魔堂」と呼ばれるようになったという。なぜ閻魔大王を祀ったのかは不明だが、一説には当地が罪人(死刑囚)の首をさらした所で、その亡霊を慰めるためともいわれる。

現在のお堂は平成27年(2015年)の建立。前のお堂が前年の大雪による被害を受けたため。

倉賀野閻魔堂 (2)
閻魔堂の位置するところは、中山道と例幣使街道の分岐点にあたる。写真右側が中山道で左側が例幣使街道。閻魔堂の西側には常夜灯と道しるべがある。

倉賀野閻魔堂 (3)
常夜灯は例幣使街道で日光までにある5つの中の最初のもので、文化11年(1814年)に五料宿(玉村町五料)の高砂屋・高橋文之助光賢が寄進者を募り奉納したもの。寄進者には雷電為右衛門、鬼面山与右衛門、木村庄之助、式守鬼一郎、松本幸四郎、市川団十郎などが含まれている。基台には全312名の名前が刻まれている。

ちなみに、高橋光賢に常夜灯奉納を進言したのは藤岡・光源院の僧・実相である。
(「足利義輝の孫が開山?・義輝山光源院

倉賀野閻魔堂 (4)
道しるべには「右江戸道 左日光道」とある。

日光東照宮例祭へ例幣使の派遣が始まったのは正保4年(1647年)から。以降、慶応3年(1867年)まで一度の中止もなく継続されている。

日光例幣使関連
 「玉村宿・木島本陣跡
 「太田市石原町・賀茂神社


高崎市倉賀野町の荒神山の一本杉。

倉賀野・一本杉 (1)
倉賀野町の倉賀野緑地公園脇に杉の木が立っている。この杉は「荒神山の一本杉」と呼ばれ、次のような逸話が残されている。

江戸時代の初めころ、江戸に住む旗本の嫡男が許嫁(いいなずけ)を捨て身分違いの門番の娘と駆け落ちをした。向かったのは元女中が暮らす上野国坂本宿(現在の安中市松井田町坂本)。

武州本庄(埼玉県本庄市)に着いたころ、豪雨続きで川という川は未曾有の増水となっていた。2人は浅瀬を見つけて川越しをしたが、不幸にも足がすべって・・・。

明くる朝、互いに胴を結んだ男女の溺死体が上がった。しかも女性は身ごもっていた。村人は涙を流し、二人のために川岸近くの高台に比翼塚を建立し、二本の杉を植えたとされる。この辺を荒神山というので、人々は「荒神山の二本杉」と呼んだ。

比翼塚とは愛し合って死んだ男女や心中した男女、仲のよかった夫婦を一緒に葬った塚(墓)のこと。めおと塚とも言う。

植えた二本杉は年を経て、すくすくと青天にそびえる大木となったが、ある年雷が落ちて一本が真二つに割れてしまった(後に枯れてしまった)。そのため「一本杉」と呼ばれるようになった。現在の杉は昭和50年代に新たに植えられたもの。

塚の手前に写っている板碑状のものは庚申塔。塚上には石祠がある。

倉賀野・一本杉 (2)
倉賀野・一本杉 (3)
一本杉からほど近いところに馬頭観音石像が祀られている。昭和初期に愛馬(農耕馬)を烏川で失った農家の人たちが建立したようだ。

一本杉と関係があるような場所にあるが無関係。


高崎市倉賀野町の横町の庚申塔と道祖神。

倉賀野横町・庚申塔と道祖神
倉賀野町横町内の石造遺産が当地に集積されている。

右端の庚申塔(青面金剛像)とその左の双体道祖神は宝暦6年(1756年)の造立。左端の双体道祖神は昭和8年(1933年)の造立。

文化遺産である石造物を大事にしていることは十分に理解できる。雨ざらしで風化が進んでいるので、是非とも覆屋(屋根だけでも)も検討していただきたい。


高崎市倉賀野町の烏川左岸雨水7号幹線工事の碑。

倉賀野掘りべえ (1)
烏川雨水7号幹線は高崎市の社会資本総合整備計画に基づく、倉賀野町及び下之城町一帯の浸水被害を防ぐための雨水幹線。つまりは雨水の排水施設。

倉賀野町内は旧中山道沿いに通り、最終的に共栄橋のたもとから烏川に放流される。平成18年(2006年)の竣工を記念し、共栄橋のたもとに記念碑が建てられている。

倉賀野掘りべえ (2)
掘進に使用されたシールド機は倉賀野小児童の発案により「倉賀野掘りべえ」と名付けられた。その「倉賀野掘りべえ」の面版の一部を記念碑としている。


高崎市倉賀野町のお行ばあさんの石宮。

お行ばあさん (1)
お行ばあさん (2)
「お行ばあさん」と呼ばれた女性を祀る石宮。文化9年(1812年)の建立。「御行祖母」が正式な呼び名のようだが、みな「おぎょうばあさん」と呼んでいるようだ。左は墓碑かな。

口碑によると、横町(現在の倉賀野町内の地区名)で行(ぎょう)をする女性がいた。その人に拝んでもらうといろいろなことが当たるし、病気も治ったという。このように様々な面から町の人のために尽くしていた。

その女性が亡くなるときに「自分を祀ってくれれば、町内に流行病は入れない」と言うので、石宮を建てて町の護り神として女性を祀ったという。

横町地区では八坂神社の天王祭り、八丁注連祭り、そして御行祖母祭りを合祭して7月14日に行っている(八丁注連は倉賀野の各町内毎で行う)。いずれも疫病除けを目的とする。

現在のようなコロナ禍でも、倉賀野町(特に横町地区)を護ってくれているのだろう。


高崎市倉賀野町の冠稲荷神社。

倉賀野冠稲荷神社 (1)
倉賀野冠稲荷神社 (2)
倉賀野冠稲荷神社は延宝2年(1674年)の創建。当時、ここには宝珠山三光寺があり、その境内に祀られていたので三光寺稲荷神社と呼ばれていた。明治42年(1909年)に倉賀野神社に合祀された。

ところがその後、稲荷神が地元老人の夢枕に現れて「元の場所に戻りたい」と訴えたという。そのため地元の方々が寄付を募り、昭和11年(1936年)に元の場所に冠稲荷神社として再祀されている。

鳥居は昭和11年(1936年)再祀時の建立。

倉賀野冠稲荷神社 (3)
境内裏側(西側)の鳥居。

倉賀野冠稲荷神社 (4)
倉賀野冠稲荷神社 (5)
社殿前の狐像。再祀時の奉納。

倉賀野冠稲荷神社 (6)
倉賀野冠稲荷神社 (7)
倉賀野冠稲荷神社 (8)
社殿は倉賀野神社への合祀に伴い、明治43年(1910年)に群馬郡東村(現在の前橋市川曲町)の諏訪神社の社殿として売却されている。現在の社殿は再祀時の建立。

ちなみに売却された旧社殿は、現在も川曲諏訪神社の社殿として使用されている。
(「前橋市川曲町・諏訪神社」参照)

倉賀野神社・冠稲荷 (1)
倉賀野神社・冠稲荷 (2)
ところで、倉賀野神社には現在も冠稲荷神社が境内社として祀られている。写真は倉賀野神社の冠稲荷神社(平成24年/2012年訪問時のもの)。これを見る限り、倉賀野神社から完全に分祀されたわけではないようだ。この辺の細かい経緯は分からない。

また、三光寺の境内に稲荷神社が祀られるようになったのには伝説が残っている。あるときから三光寺境内に夜な夜な白狐が現れるようになり、その白狐は人を化かしたりしたので難渋していた。そこで稲荷神(冠稲荷神社)として白狐を祀ったところ、それからは姿を現わさなくなったという。


高崎市倉賀野町の大杉神社跡。

大杉神社跡 (1)
大杉神社跡 (2)
大杉神社は元和元年(1615年)に雷電神社として創建。文化4年(1807年)倉賀野河岸の問屋衆の寄進により常陸国阿波(あんば)の大杉神社から大杉大明神を勧請、大杉神社と改称している。常陸国・大杉神社は、舟運交通の守護神として舟運業に携わる多くの人々に信仰されていた。

大杉神社は明治40年(1907年)に井戸八幡宮に合祀され、現在はその跡地を示す碑が建っているのみである。碑が建っているのは個人宅の敷地内のようで、道から写真だけ撮らせていただいた。

なお、大杉神社の社殿は群馬郡桃井村新井(現在の榛東村新井)の八幡宮へ売却されている。社殿は彫刻も施された立派なもので、解体し運んだ後いざ組み立てようとしたら、余りに複雑なため費用がかさんでしまった。そこで一部の彫刻を取り付けないで売却したところ、購入・組み立て代金以上の金額で売れたので、旧新井村の人々は大いに喜んだとされる。

大杉神社跡 (3)
当地は当時の倉賀野河岸を見下ろす場所になる。現在の烏川は水深も浅く川幅も狭いので、とても舟の航行など想像もできないが、倉賀野河岸は永禄4年(1561年)に倉賀野宿の住人10名が船による運搬営業を始めたとされる。最盛期(江戸中期)には76の業者があった。

明治17年(1884年)高崎ー上野間の鉄道開通に伴い、倉賀野河岸はその役割を終えることになる。

関連
 「高崎市倉賀野町・倉賀野河岸跡
 「榛東村新井・八幡宮


高崎市倉賀野町の鳥啄池跡(とりばみのいけあと)。

鳥啄池跡 (1)
鳥啄池跡 (2)
鳥啄池は倉賀野神社の「飯玉縁起」に由来する池の跡である。「飯玉縁起」は倉賀野神社が飯玉明神と呼ばれるようになった由緒。池跡は平成元年(1989年)に整備されている。

以下「飯玉縁起」に関して。ちょっと長くなるが。

群馬郡の地頭・群馬太夫満行が跡取りに8男の八郎を選んだことから、兄たちは八郎を妬み鳥啄池の岩屋に押し込めてしまう。八郎は憎しみの余りに大蛇と化し国中にまで生け贄を求めるようになる。

そんな折、都から通りかかった奥州への勅使・宮内判官宗光はこれを聞き、岩屋の奥へ入って行き琴を弾き法の功徳を説いた。真っ赤な舌をのばし牙を立てて怒り狂う八郎大蛇であったが、琴の音に随喜の涙を流しこれまでの恨みを悔い改め、龍王に姿を変え「吾が名は飯玉である。今よりのちは神となって国中の民を守護せん」と宣言し飛び去ったという。

実はこれ、伊勢崎市福島町の八郎神社(群馬八郎満胤を祀る)に残る話とほぼ同じ。
(「伊勢崎市福島町・八郎神社」参照)

また別の伝説では、この池を「御手洗の池」や「お玉ヶ池」と呼んでいる。当地で休憩していた豊城入彦命が御手を洗おうとしたが付近に水源がない。そこで腰をかけていた石を動かすと、水が湧き出てきた。豊城入彦命は大変喜び、御手を洗われた。

その湧き水がやがて大きな池となり、藻が生え草が生い茂り魔物が棲むようになってしまった。そんなとき飯玉八郎という人が現れて、この怪物を見事に退治した。八郎は玉石の陰に身を隠して、怪物の現れるのを待って斬り捨てた。玉石は豊城入彦命が大国魂命より戴いて来たもの。

人々は「玉石が倉賀野を救ってくれた」とし、この玉石を御神体として神社に祀ったという。この石は亀石とも言って亀に似た形をしてる。

まあ、2つの話はどちらも「飯玉」に関係する内容となっている。飯玉八郎(群馬八郎)の立場が違うけど。


高崎市倉賀野町の北向道祖神。
現在は倉賀野神社境内に祀られている(境内社扱い)。
(倉賀野神社は「高崎市倉賀野町・倉賀野神社」参照)

倉賀野神社・北向道祖神 (1)
倉賀野神社・北向道祖神 (2)
元は倉賀野城付近に北向きに祀られていた。昭和12年(1937年)にこの場所に移されている。鳥居は昭和55年(1980年)の建立。

倉賀野神社・北向道祖神 (3)
倉賀野神社・北向道祖神 (4)
双体道祖神。台座には文化2年(1805年)の銘がある。

道祖神の建立には伝説が残っている。後に倉賀野城ができる辺りは昼でも暗い程に樹木が茂っており、しかも恐ろしい魔物が住んでいた。魔物は村の作物を荒し、3年おきに若い女性を要求していた。

ある時、見知らぬ侍が「その魔物を退治する」と名乗り出て、娘の代わりに怪物の元へと運ばれていった。翌朝、村人は恐る恐る見に行くと、そこには牛のごとき魔物の死体を発見したが、侍の姿は見つからなかった。村人たちは山の神様に違いないとして、道祖神を祀ったという。

道祖神というと「旅の安全」や「縁結び」などの近世のイメージがあるが、もともとは「村の守り神」「疫病・悪霊退散」などの意味合いの強いものだった。


高崎市倉賀野町の妙観山林西寺。

林西寺 (1)
林西寺は永正13年(1516年)法印乗伝和尚の開基と伝わる。

林西寺 (2)
山門前の六地蔵。平成7年(1995年)の造立。

林西寺 (3)
同じく山門前の石仏。左から馬頭観音、清水観音、宮原十一面観音が並ぶ。みな風化が進んでおり、像容も分からない感じになってきている。

馬頭観音は万福寺(江戸初期に廃寺)にあったと伝えられている。また、宮原十一面観音は当地の守り神であったとされる。倉賀野町周辺一帯は古代から中世にかけて宮原荘(高田荘とも)といわれていた。

元は無数の石が置いてあり、その石でお腹をさすると丈夫な子が授かり、身体の痛いところをさすると治るという言い伝えがあった。願いが叶うと元の石と新し石を奉納した。

林西寺 (4)
本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。本堂の建立年などは不明。

林西寺 (5)
林西寺 (6)
本堂左にある大師堂。これは高野山真言宗東京別院(東京都港区高輪)の管長部屋を移築したもの。写経道場とあり、現在は月に1回写経会が開かれている。

林西寺 (7)
大師堂前の宝塔。寛政9年(1797年)の造立。

林西寺 (8)
弘法大師像。昭和63年(1988年)の造立。

林西寺 (9)
十三重石塔。平成16年(2004年)の造立。弘法大師入唐千二百年記念とあった。空海は延暦23年(804年)に遣唐使の一員(長期留学僧)として唐に渡っている。

空海は渡唐に際して「20年留学予定」としていたが、実際は大同元年(806年)には帰国している。もちろん修行期間の長短ではなく、何を学んだかが重要なのは言うまでもない。とは言え、朝廷も2年で帰ってきてしまった空海に対し、大同4年(809年)まで入京を許可しなかった。そんな空海が真言密教を確立し(真言宗の開祖)「弘法大師」と諡号されたことは周知である。


高崎市倉賀野町の正六観音。

正六観音 (1)
正六観音は正中3年(1326年)に当地の豪族・町田庄兵衛正源が、秘仏の観音像(一寸六分/約5.45cm)を安置したのが始まりという。

正六観音 (2)
正六観音 (3)
観音さまは厨子に納められている。秘仏ということだが、まったくご開帳されないのだろうか?

正六観音 (4)
正六観音 (5)
正六観音 (6)
境内の仏塔、石宮、石仏など。

ところで、高崎市が設置した新しい案内板があったが、町田正源が観音像を安置したのを嘉禄2年(1226年)と書いてあった。町田正源の没年は元徳2年(1330年)なので、さすがに100年以上前には安置できない。先に書いたように正中3年が正しい。

案内板には重宝させてもらっているが、ここだけではなく細かいミスがけっこうある。しょうがないのかな。


高崎市倉賀野町の下正六の石橋供養塔。

下正六の石橋供養塔
2つの石橋供養塔が建っている。

右側は上部に石仏が彫られ、その下に「石橋供養塔」。右側面に安永7年(1778年)の銘、左側面に願主6名の名前が刻まれている。

左側は中央に如意輪観音が彫られ、上部に文化12年(1815年)の銘が刻まれている。裏に世話人10名の名前が刻まれている。

もともと当地に川が流れ橋が架かっていたのか、当地に集積されたのかは分からない。地図を見る限り、現在川は流れていないようだ(用水路はあるが)。もしかしたら昔は粕沢川がこの辺を流れていたのかな。


高崎市下佐野町の大用山光雲寺。

光雲寺 (1)
光雲寺は天正元年(1573年)倉賀野城主・金井淡路守秀景が、開山に木雲宋流を招き創建した。木雲宋流は武州(埼玉県)児玉郡で住職をしていたが、隠居して下佐野に移り一庵を建てていた。

倉賀野秀景は木雲宋流を開山として倉賀野町・永泉寺も創建している。永泉寺も大用山と同じ山号である。(「倉賀野城主 金井秀景の墓・大用山永泉寺」参照)

光雲寺 (2)
六地蔵。平成4年(1992年)の造立。

光雲寺 (3)
六地蔵横には馬頭観音が並ぶ。地元の方が愛馬(農耕馬)の供養に建立したようだ。大正や昭和の銘が見えた。

光雲寺 (4)
本堂の建立年などは不明だが、平成5年(1993年)に改修されている。

光雲寺 (6)
改修前の瓦かな。「光」の文字が見える。

光雲寺 (7)
光雲寺 (8)
境内のお堂。薬師堂とあったが、薬師仏はいらっしゃらない。本堂に遷された?

光雲寺 (9)
石造十三重塔。開運塔とあった。平成9年(1997年)の建立。

光雲寺 (10)
光雲寺14世・天麟即明の功徳碑。寛政元年(1789年)の建立。宝暦5年(1755年)から天明6年(1786年)まで在職している。天麟即明は書道の達人で、各地の神社仏閣などに筆跡を残した。烏川即明と号している。

養報寺
宇芸神社
高崎市倉賀野町・倉賀野山養報寺の本堂扁額や富岡市神成・宇芸神社の鳥居扁額は即明の書(文字)である。それ以外にも高崎市倉賀野町の安楽寺や九品寺にも書(石塔・石碑文字など含む)が残されている。


高崎市下佐野町の放光神社。

放光神社 (1)
放光神社の由緒は不詳。上野国神名帳記載の「正四位上放光明神」は当社とされている。当地には放光庵という仏堂があり、文禄年間(1593~96年)の創建と伝わるが、明治9年(1876年)に廃止。その跡地に放光神社が再興されたという。

放光神社 (2)
放光神社 (3)
放光神社 (4)
現在の社殿は平成22年(2010年)新築建立。

放光神社 (5)
社殿脇には放光寺・放光明神跡という碑が建っている。昭和18年(1943年)の建碑。

高崎市山名町の山ノ上碑に記されている放光寺は、従来は佐野の三家(屯倉)の中心地にあったとされてきた(つまりは当所)。しかし昭和56年(1981年)に前橋市総社町の山王廃寺から「放光寺」と彫られた文字瓦が発見され、現在では放光寺=山王廃寺と解釈されている。

放光寺瓦
「放光寺」瓦の実物は、前橋市総社町の総社歴史資料館に展示されている。総社歴史資料館は無料で見学できる。

関連
 「祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
 「前橋市総社町・山王廃寺跡
 「前橋市総社歴史資料館


高崎市上佐野町の太天神天満宮。

太天神天満宮 (1)
太天神天満宮 (2)
太天神天満宮の由緒は不詳。口碑では佐野源左衛門常世が、菅原道真の霊を祀ったと伝わる。明治後年に下佐野町・定家神社に合祀されたが、昭和25年(1950年)に再祀されている。

社号に関しては、天神天満宮、菅原神社、太天神天満宮と変わってきているようだ。詳細は分からない。

また佐野源左衛門常世は、能「鉢木」の登場人物として知られる。上佐野町内には、常世の屋敷跡と伝わる場所に常世を祀る常世神社がある。
(「高崎市上佐野町・常世神社」「ふるさと日本の昔話 セレクションの『鉢の木』」参照)

太天神天満宮 (3)
太天神天満宮 (4)
社殿は昭和49年(1974年)の建立。

太天神天満宮 (5)
本殿である石祠がそのまま社殿内に置かれている。

太天神天満宮 (6)
社殿裏には馬頭観音、御嶽山座王大権現などが並ぶ。写真中央の馬頭観音は文政3年(1820年)の造立で、台座正面には「右 やまな ふぢおか ちゝ婦 上佐野上組」と刻まれている(らしい)。このあたりは鎌倉街道が通っていたとされ、秩父巡礼の道しるべであったと考えられる。


高崎市萩原町の八幡宮。

萩原八幡宮 (1)
萩原八幡宮は康平6年(1063年)に源義家が山城国(京都)・石清水八幡宮の分霊を勧請し、社殿を建立したと伝わる。源義家が天喜5年(1057年)前九年の役参陣のため奥州へ趣く途上に当地で戦勝祈願を行い、その戦勝お礼としての創建となる。

萩原八幡宮 (2)
鳥居・社殿は一段高いところにある。元々は古墳なのかもしれない。鳥居は文化8年(1811年)の建立。

萩原八幡宮 (3)
萩原八幡宮 (4)
萩原八幡宮 (5)
現在の社殿の建立年などは不明。

萩原八幡宮 (6)
萩原八幡宮 (7)
明治40年(1907年)に村内の神明社、琴平社、八幡社、八坂社、諏訪社、疱瘡社、菅原社等を合祀している。

県内には源義家の創建と伝わる神社(八幡宮など)が多数ある。東征(前九年の役・後三年の役)のおり県内を通過したとの資料的な裏付けはないが、なんと言っても八幡太郎義家は源氏の象徴的な棟梁なので、そういう由緒になっている場合が多い。


高崎市根小屋町の鹿島神社。

根小屋・鹿島神社 (1)
根小屋鹿島神社の由緒は不明。前回の宝性寺のすぐ隣。宝性寺の山号が鹿島山なので、鹿島神社の方が創建は古く、宝性寺が別当寺だったのではないかな。(宝性寺の創建が慶長年間(1596~1615年)とされるので、それ以前)
(「高崎市根小屋町・鹿島山宝性寺」参照)

根小屋・鹿島神社 (2)
石段を登り開けたと思ったら上信電鉄の線路。しかも、ここには遮断機はおろか踏切さえない。ちょっと危なくないか。宝性寺からも行けるのでいいのかな。

以前行った東吾妻町の「行沢の木造馬頭観音堂」も、吾妻線を渡るのに踏切も遮断機もなかった。(「東吾妻町矢倉・行沢の木造馬頭観音立像」参照)

根小屋・鹿島神社 (5)
根小屋・鹿島神社 (4)
根小屋・鹿島神社 (7)
社殿はこじんまりしており質素な感じ。

根小屋・鹿島神社 (3)
社殿脇の礎石らしき石。塔の礎石なのか社殿の礎石なのか不明。いずれにしろ、古くから格調のある神社だったことを思い起こさせる。これ以外にもう2つ、それらしき石があった。

根小屋・鹿島神社 (8)
根小屋・鹿島神社 (9)
境内の末社。中に菅原道真らしき像が安置されているので天神社(菅原神社)か。

根小屋鹿島神社には毎年8月7日に行われる「七日火」と呼ばれる万燈花火を打ち上げる花火大会が伝わっている。この「七日火」は祖霊を慰霊するためのものであるが、元々は飛鳥時代に防人として徴兵された人々を送る「鹿島立ち」(鹿島神社の祠を建て無事を祈る)から来ているとされる。

そうすると、鹿島神社の創建は相当古いことになる。(東国から防人が徴兵されたのは、天智天皇2年(663年)の白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた以降)


高崎市根小屋町の鹿島山宝性寺。

根小屋・宝性寺 (1)
慶長年間(1596~1615年)僧・重忠の開創と伝わる。寛永5年(1628年)に安養寺(高崎市上大島町)の住清を招き中興開基。このとき、根小屋の肝煎である赤穂内之助の屋敷内に堂宇を整備している。ちなみに肝煎とは江戸時代の村役人のことで、庄屋や名主と同義。

根小屋・宝性寺 (2)
門柱横の石塔類。ちょっと前の道(寺尾藤岡線)の交通量が多く、何が建っているのかはよく見てこなかった。

根小屋・宝性寺 (3)
根小屋・宝性寺 (4)
参道を境内に向かっていくと、すぐ手前に上信電鉄の線路がある。ちょうど下り列車(下仁田行き)が通過したが、境内入口の踏切には遮断機がなく、左右確認など安全確認が必要だ。写真右側500m位のところに高崎商科大学前駅がある。

根小屋・宝性寺 (5)
本堂は明治15年(1882年)に焼失。明治32年(1899年)の再建。本尊の十一面観音を祀る。

根小屋・宝性寺 (6)
根小屋・宝性寺 (7)
境内の六地蔵と聖観音像。

根小屋・宝性寺 (8)
これはなんだろう。獅子かな。インド・アショカピラーの獅子柱頭をモチーフにしているような気がしないでもない・・・。


高崎市町屋町と高崎市楽間町の宝塔。

町屋の宝塔
町屋の宝塔は高さ230cm、幅62cmと比較的大型の宝塔。安山岩製でその塔身は壺型をしている。一般に赤城塔と呼ばれる宝塔。永享11年(1439年)の銘がある。

町屋の宝塔は宝福寺参道の町屋公民館脇にある。気づかないで境内から墓地まで行ってしまった。

楽間の宝塔
町屋町から烏川を挟んで北東にあたる楽間町の宝塔。3基の宝塔はいずれも高さ160cmほどで、塔身が短く下部が細くなる壺型(半球形)をしている。向かって左から永享9年(1437年)、嘉吉3年(1443年)、正長3年(1430年)の銘がある。

楽間の宝塔は、元々近くの笹藪の中にあったが、現在は井野家の墓地内に移されている。

町屋・楽間の宝塔は、いずれも同年代(室町時代)の造立で、当地一帯(烏川の両岸)に真言密教と結びついた榛名山信仰の影響があったと考えられる。


高崎市下佐野町の漆山古墳。

漆山古墳 (1)
漆山古墳 (2)
漆山古墳は全長約70mの前方後円墳であったと推定されるが、現在は前方部が大きく削平され、墳丘は東西38m、南北31m、高さ7.5mほどになっている。6世紀後半の築造と推定される。

漆山古墳 (3)
漆山古墳 (4)
漆山古墳 (5)
埋葬施設は横穴式石室で後円部南側に開口している。凝灰岩を加工して造られており、全長7.8m、玄室長3.7m。内部から刀、鉄鏃の破片、金銅製の馬具などが出土している。

当地には6世紀後半に「佐野屯倉」が設置されており、その管理者が被葬者ではないかと考えられている。山名町の山ノ上碑や金井沢碑に刻まれる「佐野屯倉」「三家子◯」の文字との関連が窺われる。

漆山古墳は佐野古墳群の中心的古墳で、周りが住宅地になるなか地主さんの意向で何とか保存されてきた。平成28年(2016年)に高崎市へ寄贈されている。


高崎市寺尾町の太白山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺 (2)
永福寺は新田氏の祖・義重が開創した永福庵が始まりと伝わる。

永福寺 (3)
永福寺 (4)
永福寺 (5)
堂宇は大正7年(1918年)に火災により焼失。昭和3年(1928年)に再建されている。但し、山門のみ火災を免れ天明3年(1783年)の建立時の姿を残している。本堂屋根には新田氏の家紋「大中黒」が。

永福寺 (6)
永福寺 (7)
梵鐘は享保7年(1722年)に鋳物師・中林儀右衛門惟貞の鋳造。総高106cm、口径64cm、撞座には菊のご紋が使用され、池の間には仏語などが刻まれている。先の大戦時に供出を免れている。

永福寺 (8)
永福寺 (9)
境内の観音堂。永福寺は昭和55年(1980年)に開創された新選高崎33観音の8番札所になっている。

永福寺 (10)
永福寺 (11)
墓地には新田義重の墓がある。

源頼朝が挙兵した際、義重はすぐに参陣せず日和見的な態度をとったため、鎌倉幕府内で新田氏が冷遇される原因となった。頼朝挙兵時、義重は寺尾城(館)に籠もっていたとされ、その「寺尾」には太田・新田荘説と高崎寺尾説がある。どちらも決め手に欠けるのだが、どちらにも地元有志が建てた碑や説明板などがある。

なお、永福寺には義重の法号を記した位牌が残されている。

新田義重の墓関連
太田市金山町・義重山大光院新田寺」(太田市金山町・大光院新田寺)
太田市徳川町・伝新田義重夫妻の墓」(太田市徳川町・義季館跡)
新田氏累代の墓・御室山円福寺」(太田市別所町・円福寺の五輪塔・石塔群の中に義重の墓があるとする説もある)


高崎市井野町の井野神社。

井野神社 (1)
井野神社 (2)
井野神社は元亀2年(1571年)に熊野神社として創建。明治40年(1907年)に諏訪神社、石上神社を合祀し井野神社と改称している。

現在の鳥居は平成16年(2004年)の建立。

井野神社 (3)
井野神社 (4)
井野神社 (5)
社殿は諏訪神社などを合祀した際に改築されたが(明治40年)、昭和34年(1959年)に倒木により倒壊。昭和42年(1967年)に再建されている。

井野神社 (6)
境内の大銀杏。高さ20m、目通り9mで、樹齢350年と推定される。

根元よりホラ貝とされる貝類が出て、参拝者はこれを魔除けのお守りとして持ち帰ったという。太古、この辺りは貝塚だったのかなぁ。


高崎市日高町の富士神社。

富士神社 (1)
富士神社は永禄2年(1559年)の創建と伝わる。

富士神社 (2)
灯籠は平成14年(2002年)の奉納。

富士神社 (3)
富士神社 (4)
社殿前の狛犬は昭和59年(1984年)の奉納。社殿の建立年などは分からない。

富士神社 (5)
境内の片隅にあまり見かけない像容の石仏があった。自信はなののだが、似た石仏を渋川市北橘町分郷八崎の東円山観音堂で見かけたのを思い出した。東円山観音堂の石仏は地蔵菩薩像だったので、これも地蔵菩薩かな。(「渋川市北橘町分郷八崎・東円山観音堂」参照)

富士神社 (6)
富士神社 (7)
余り広くない境内だが、子ども達のための遊具(ブランコ・鉄棒・滑り台)が設置されている。

富士神社のご祭神は木之花咲久夜毘嬪命(木花咲耶姫)なので、富士浅間神社の富士だけが残ったのだと思う。群馬県内では富士浅間神社・浅間神社は多いが、富士神社の名称は少ない。昔は富士塚もあったのかな。


高崎市新保田中町の八幡神社。

新保田中八幡神社 (1)
新保田中八幡神社は、天正18年(1590年)八幡八幡宮より分霊を勧請。

新保田中八幡神社 (2)
新保田中八幡神社 (3)
社殿の建立年などは不明だが、明治期かな。

新保田中八幡神社 (4)
新保田中八幡神社 (5)
明治41年(1908年)に近隣の稲荷神社、諏訪神社を合祀している。

新保田中八幡神社 (6)
八幡神社の傍らには井野川(?)が流れており、趣のある橋も架かっている。川にはちょっとした堰があるが、ペットボトルなどのゴミが大量に引っかかっている。川にゴミを捨てるのはやめよう!


高崎市下小鳥町の幸宮神社。

幸宮神社 (1)
幸宮神社 (2)
幸宮神社は応永年間(1394~1428年)に魚取神社として創建したと伝わる。上野国神名帳に記載される「魚取明神」は当社とされる。

鳥居は正徳2年(1712年)の建立で、石造鳥居としては高崎市内でも古い部類に入る。

幸宮神社 (3)
幸宮神社 (4)
幸宮神社 (5)
幸宮神社 (6)
社殿は明和5年(1768年)に焼失の記録が残る。その後、安永8年(1778年)、寛政7年(1795年)に再建されているようだ。平成28年(2016年)には社殿や境内含め、大改修が行われている。

なお、社殿が鎮座しているのは「六郷村6号墳」の墳丘上になる。6号墳は全長36mの前方後円墳との記録が残るが、ほぼ開削されているようで遺構はなさそうだ(素人目には分からない)。多分、隣の下小鳥公民館の敷地と合わせると、記録くらいの領域になると思われる。

幸宮神社 (7)
境内にある石祠には応永17年(1410年)の銘があり、「御本宮」(創建時の祠)とされる。これは上記由緒を裏付けるものである。

幸宮神社 (8)
幸宮神社には高崎市の重文に指定されている算額が残されている。文政7年(1824年)の奉納で、奉納者は山田詮左衛門ほか15人。社殿内に保管されているため、日ごろは見ることが出来ない。

ところで、タイトルの「山幸彦を祀る旧魚取神社」っておかしくない? と感じるかもしれないが、幸宮神社のご祭神の一柱に彦火々出見命がおられる。これは山幸彦で知られる。旧名「魚取神社」から想像するに、兄の海幸彦(火闌降命)がご祭神ならすっきりする。海幸彦は釣針を持ち、魚を捕るのが得意。創建時は海幸彦がご祭神だった? それとも両神ともご祭神だった?

幸宮神社と名称変更された時期は分からないが、「幸」を持っている神の宮と思われる。この「幸」は海幸彦の釣針、山幸彦の弓矢を言う。


高崎市鼻高町の少林山達磨寺。

達磨寺 (1)
達磨寺 (2)
達磨寺の開創は不詳。伝承では、当地に古くから観音堂があり、碓氷川で見つかった光る香木を納めておいたところ、延宝8年(1680年)に一良居士という行者が、その香木から達磨大師の座禅像を彫り安置したのが始まりとされる。元禄10年(1697年)に前橋城主・酒井忠挙により、前橋城の裏鬼門を護る祈願所として寺院建立を発願。心越禅師を開山とし、天湫和尚を水戸から招き達磨寺とした。

明治期に隠元禅師を中興開山とし、黄檗宗に改宗し現在に至っている。隠元はインゲン豆を日本に伝えたとされる日本黄檗宗の開祖。当然のことながら、隠元の年代とは異なるが(江戸初期の人)、開祖などを開山とすることはよくあるらしい。

総門は平成9年(1997年)の建立。中央の屋根を高くし、左右を低くした牌楼(はいろう)式と呼ばれる中国様式の山門。窟門(写真右の白壁部の門)をくぐると、女坂と呼ばれる石段を迂回して境内に行き着く道がある。

達磨寺 (3)
県道沿いのコミカルなだるま型の案内板。

達磨寺 (4)
達磨寺 (5)
急で長い石段(165段)。脇には不動明王像。

達磨寺 (6)
達磨寺 (7)
石段を登り切ったところにある鐘楼(写真は境内側から)。梵鐘は「招福の鐘」と名付けられている。

達磨寺 (8)
達磨寺 (9)
講堂。昭和2年(1927年)の建立。達磨大師を本尊として祀る研修道場。

達磨寺 (10)
達磨石。謂れなどは分からない。

達磨寺 (11)
達磨寺 (12)
霊符堂(本堂)や達磨堂に上っていく石段前にある玄武灯籠。亀に大蛇が巻き付いた様式。

達磨寺 (13)
達磨寺 (14)
本堂にあたる霊符堂。明治44年(1911年)の再建。北辰鎮宅霊符尊と達磨大師を祀り、心越禅師を安置する。北辰鎮宅霊符尊は北極星と北斗七星を神格化した方位除けの守護神。

達磨寺 (15)
達磨寺 (16)
多数のだるまが納められている。「中山秀征」「布袋寅泰」「群馬県警」「東進ハイスクール」「FC東京」などの名入りだるまも見られる。

達磨寺 (17)
達磨寺 (18)
達磨堂。大山立修氏の達磨コレクションの寄贈が縁となり、昭和61年(1986年)の開堂。

達磨寺 (19)
達磨寺 (20)
日本各地のだるまなどを展示している。

達磨寺 (21)
群馬が誇る3首相(福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三)の名入りだるまも。

達磨寺 (22)
達磨寺 (23)
達磨寺 (24)
十一面観音を祀る観音堂。開創当時は経蔵として建立されたが、寛政4年(1792年)に北辰鎮宅霊符尊を祀る霊符堂に改修された。現在の観音堂はこの時のものとされる。その後、霊符堂が建立され北辰鎮宅霊符尊が遷され、観音堂となっている。

達磨寺 (25)
達磨寺 (26)
観音堂周辺には130体ほどの庚申塔が建っている(百庚申)。観音堂に北辰鎮宅霊符尊が祀られた寛政4年以降に建てられ、文化年間(1804~18年)のものが多い。

達磨寺 (27)
達磨寺 (28)
百庚申の脇にある「招き猫の木」。ネコに見えなくもない?

縁起だるまは達磨寺が発祥とされる。天明3年(1783年)の浅間山の噴火に伴う飢饉で、農民の生活は困窮を極めていた。この惨状を見かねた達磨寺9世・東獄和尚は開山・心越禅師の描いた「一筆達磨座禅像」を元に木型を彫り、張り子だるまの作り方を農民に伝授した。これが現在の「縁起だるま」の発祥とされる。

達磨寺関連
 「高崎市鼻高町・少林薬師塚古墳
 「高崎市鼻高町・少林山天頭塚古墳
 「高崎市鼻高町・洗心亭


高崎市西横手町の宝篋印塔。

明徳の宝篋印塔
宝篋印塔は明治5年(1872年)に廃寺となった西福寺跡にあり、明徳元年(1390年)の銘がある。明徳は北朝の元号。

高さ2.9mと県内でも最大級の大きさで、笠が2つある二重式宝篋印塔、あるいは須弥壇式宝篋印塔と呼ばれる形をしている。この形は、群馬県と埼玉県北部にのみ分布する特殊な形式である。

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