上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 伊勢崎市・佐波郡


佐波郡玉村町藤川の稲荷神社。

藤川稲荷神社 (1)
藤川稲荷神社は応仁2年(1468年)雨続きで作物が不作になり、農民が困窮しているのを見た領主の那波氏が山城国・伏見稲荷から分霊を勧請したのが始まりとされる(応仁2年・那波氏とくれば飯玉神社かと思える由緒だが)。

鳥居は令和2年(2020年)の建立。併せて境内も整備されている。

藤川稲荷神社 (2)
社殿前の灯籠は平成17年(2005年)の奉納。

藤川稲荷神社 (3)
藤川稲荷神社 (4)
藤川稲荷神社 (5)
社殿(覆屋)も令和2年(2020年)の新築建立。本殿は18世紀中ころの建立と伝わる。

藤川稲荷神社 (7)
神社裏の馬魂碑。坂西(ばんざい)平八陸軍少将の揮毫。昭和20年(1945年)の建碑。そう言えば、箱石の貫前神社にも軍馬の供養碑があった。
(「玉村町箱石・貫前神社」参照)

藤川稲荷神社 (6)
境内社の八坂神社(どっちかはよく見てこなかった)。

藤川稲荷神社の境内社である八坂神社のお祭りに「悪魔祓い(あくまっぱらい)」がある。ほぼ同じお祭が飯塚地区にも残っている(飯塚飯玉神社の境内社である八坂神社の祭り)。
(「玉村町飯塚・飯玉神社」参照)

子どもたちが地域をまわり、人々の頭を獅子頭ではさみ悪魔を祓うものだが、獅子頭の一部が少し違っているようだ。飯塚地区のものは耳が枇杷の葉なのに対し、藤川地区の耳は半紙で作るようだ。

あと、なぜか飯塚は「悪魔払い」で藤川は「悪魔祓い」。とは言え起源は同じなのだと思う。両地区は隣接しているし、日にちも同じ7月24日なので。


佐波郡玉村町飯塚の飯玉神社

飯塚飯玉神社 (1)
飯塚飯玉神社 (2)
飯塚飯玉神社は応仁2年(1468年)那波氏が堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の飯玉神社より分霊を勧請したもの。那波氏が領内に創建した99社のひとつ。那波氏滅亡後は郷民が鎮守として祭祀してきている。

鳥居は安永9年(1780年)の建立。

飯塚飯玉神社 (3)
境内は立派な松の木に覆われている。

飯塚飯玉神社 (4)
飯塚飯玉神社 (5)
社殿(と言うか覆屋)は天保7年(1836年)の建立とされる。平成6年(1993年)に屋根の改修などが行われている。本殿は元文5年(1740年)の建立。

飯塚飯玉神社 (6)
飯塚飯玉神社 (7)
境内社・末社群。猿田彦大神、熊野権現、琴平社、八坂神社など。享保20年(1735年)や寛政12年(1800年)の銘が読み取れた。一番奥側は双体道祖神。

飯塚飯玉神社 (8)
大黒様。

飯塚飯玉神社に祀られている八坂神社(境内社の写真で奥から2番目に見える石宮)の祭りに「悪魔払い (あくまっぱらい)」がある。俵端を2つ重ねて結び、唐草模様の大風呂敷をつけた獅子頭を作り、その獅子頭をかぶった子どもたちが地域の各家をまわり、人々の頭を獅子頭ではさみ悪魔を払うというもの。

言葉のイメージとして「悪魔」というとキリスト教っぽく感じてしまう。日本人の宗教観では「悪霊」の方がピンとくる(勝手な個人的意見です)。


佐波郡玉村町飯塚の宮柴山光琳寺。

光琳寺 (1)
光琳寺は寛永17年(1640年)尊忠の開山。尊忠は天海の弟子。

光琳寺 (2)
山門は18世紀中ころの建立とされる。

光琳寺 (3)
光琳寺 (4)
本堂は寛保年間(1741~44年)の建立とされる。本堂完成成就祈願のため、護摩供養をしたとの記録が残る。

光琳寺 (5)
光琳寺 (6)
光琳寺 (7)
境内の薬師堂。薬師如来石像は中世の造立とされる。薬師像の隣の石像は伝教大師(最澄)。

光琳寺 (8)
六地蔵や地蔵像、二十二夜塔などの石仏・石塔が集積されている。

光琳寺 (9)
光琳寺 (10)
山門前の大きな建物は宝塔殿(納骨堂)。昭和44年(1969年)の建設。

光琳寺の近くに周囲20mほどの塚があった。源頼朝がこの地を通った際、この塚で休憩した。昼食をとった頼朝は家臣の食べ残しを集めて供養して立ち去ったので、この塚を「飯塚」と呼び飯塚村の村名になったとされる。

また、塚のそばに「逆さ柳」と呼ばれる柳の大樹があった。この柳は頼朝が使った柳の箸を逆さに刺したのが根付いて大樹になったという。現在は塚も柳も残っていない。


佐波郡玉村町樋越の諏訪神社。

樋越諏訪神社 (1)
樋越諏訪神社 (2)
樋越諏訪神社の由緒は不詳。鳥居は平成10年(1998年)の建立。

樋越諏訪神社 (3)
社殿前の狛犬は平成15年(2003年)、灯籠は昭和15年(1940年)の奉納。

樋越諏訪神社 (4)
樋越諏訪神社 (5)
樋越諏訪神社 (6)
社殿の建立年などは不明。建物に対し屋根だけしっかりしているので、屋根(瓦)は近年改修されているようだ。

樋越諏訪神社 (7)
境内社の秋葉社。石宮は安政3年(1856年)の建立。なぜか狐像が置かれている。

樋越諏訪神社 (8)
庚申塔や道祖神(手前側)と境内社・末社群(奥側)。境内社は稲荷社や神明宮など。秋葉社前に置かれている狐像は、こちらの稲荷社に奉納されていたものを、誰かが間違えて動かしてしまったのかな。


佐波郡玉村町樋越の日吉山花台寺。

花台寺 (1)
花台寺は元亀元年(1570年)阿佐美氏(阿佐見とも)が世良田・総持寺から宥清法印を開山に招き創建したとされる。

阿佐美氏は藤姓足利氏を自称していたが、児玉党を構成する一族。阿佐美氏の祖・庄弘方(しょう ひろかた)の家系は藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能とされる。藤原秀郷が藤原北家魚名流とされるので、藤原北家からみで藤姓足利氏の一族と自称したのだろう(本姓として藤原姓を名乗っていたようだ)。

花台寺 (2)
六地蔵は平成9年(1997年)の造立。

花台寺 (3)
水かけ地蔵。地蔵像自体は新しい。水かけ地蔵の由緒は分からない。

花台寺 (4)
花台寺 (5)
本堂は近年の新規建立と思われる。

花台寺 (6)
旧本堂に乗っていた瓦だと思う。家紋が二つ引(引両紋)だが、これは源氏の足利氏のでは?

花台寺 (7)
五智如来石仏。元禄2年(1689年)の造立。中央の大日如来が胎蔵界の仏で、他の四仏は金剛界という不思議な組み合わせとなっている。五仏揃っているのは非常に貴重なものである。一体の背面には「阿佐美氏重長」の銘があり、施主と推定される。

花台寺 (8)
聖観音坐像。正徳6年(1716年)の造立。

花台寺 (9)
宝篋印塔や庚申塔など。宝篋印塔は安永5年(1776年)、庚申塔は元文年間(1736~41年)、明和年間(1764~72年)の造立。

花台寺 (10)
小坊主さんの石像。「私はしあわせ」ってお顔をしている。

花台寺は阿佐美氏の館跡とされるが、遺構は残っていないようだ。ちなみに、阿佐美氏の祖・庄弘方は源頼朝と木曽義仲との「宇治川の合戦」(永寿3年/1184年)で、先陣争いを行った佐々木高綱や梶原景季に続き川を渡ったと「源平盛衰記」に書かれているほどの武人とされる。


佐波郡玉村町樋越の神明宮。

樋越神明宮 (1)
樋越神明宮は長寛年間(1163~65年)の創建と伝わる。寛保2年(1742年)の洪水により500mほど南に流されている(現在地)。利根川洪水と思われるが、当時は利根川が樋越神明宮の北側を流れていたようだ。

樋越神明宮 (2)
樋越神明宮 (3)
鳥居の右側(少し低い所)に、水はないのだが中の島(浮島)のように見える地形がある。そこに石宮がひとつある。境内社の厳島神社だろうか。

樋越神明宮 (4)
樋越神明宮 (5)
木々に囲まれた参道を行くと鳥居が見える。二の鳥居かと思いきや、実は四の鳥居(最初の写真は三の鳥居になる)。嘉永元年(1848年)に利根川が変流し、現在のように樋越神明宮の南側を流れるようになったため、鳥居や大門と社殿が分断されたという。

一の鳥居は武州賀美郡勅使川村(現埼玉県上里町の丹生神社)、二の鳥居は南玉村(現玉村町南玉)にあったという。

樋越神明宮 (6)
狛犬は平成5年(1993年)と平成12年(2000年)、灯籠は平成11年(1999年)の奉納。

樋越神明宮 (7)
樋越神明宮 (8)
拝殿は大正元年(1912年)、本殿は文久3年(1863年)の建立。平成2年(1990年)、19年(2007年)、23年(2011年)に改修・修理が行われている。

本殿の棟持柱が建物の外に独立している。これは全国的に非常に珍しい建築様式であるとされる。同様の建築様式の本殿は、高崎市岩鼻町の赤城神社で見られる。
(「高崎市岩鼻町・赤城神社」参照)

樋越神明宮 (9)
神楽殿。現在も神楽が奉納されているかなど、詳細は分からない。

樋越神明宮 (10)
樋越神明宮 (11)
境内社・末社。どれが何かは分からないが、雷電社、愛宕社、田植神社、一元神社、富士神社、熊野神社、草奈伎神社、鏡神社など。

樋越神明宮 (12)
境内の築山のようになっているところには彰忠碑がある。揮毫は小倉英季子爵。小倉子爵と当地の関係はないと思うが、子爵が高崎連隊区司令官を務めているからかな。大正9年(1920年)の建碑。

樋越神明宮 (13)
樋越神明宮には春鍬祭が伝わっている。国の需要無形民俗文化財に指定されており、寛政10年(1798年)には既に行われていた。

この祭はその年の豊作を予祝して行う田遊びの神事。祭には榊や樫の枝に餅をつけた鍬(に見立てた)を使い、最後にその鍬を投げ観衆が取り合う。取った鍬を家に飾っておくと養蚕があたり、一緒にまかれた稲穂のついた初穂を拾った人の家は、豊作間違いなしといわれている。それ以外にも、まかれたミカンやゴシモチを拾っても縁起が良いとされる。


佐波郡玉村町上之手の若王子神社。

若王子神社 (1)
若王子神社 (2)
若王子神社 (3)
若王子神社の由緒は不詳。明治41年(1908年)に玉村八幡宮へ合祀されたが、地域の方々により現在も祀られている。

主祭神は熊野久須毘命なので、元は熊野神社かもしれない。また、熊野久須毘命は須佐之男命が天照大御神の持ち物である八尺瓊勾玉を譲り受けて、化生させた五柱の最後の神とされるので(つまり世俗的に言うと末っ子)若王子との社名になったともわれる。

平成21年(2009年)に鳥居、石祠とも新規建立されている。

若王子神社 (4)
境内社の疱瘡神社、菅原神社、八坂神社。

若王子神社 (5)
左の石碑は「上之手村霜害記念碑」。大正5年(1916年)の霜により養蚕業が大被害を受けたこが書かれている。その時の蚕を供養するために祀られたのが右の蚕社(石祠)。石祠は平成21の新規建立。

若王子神社 (6)
庚申塔などが集積されている。

若王子神社 (7)
若王子神社は玉村町33号墳(若王子古墳)上に鎮座する。径約31mの円墳。土器や直刀が出土したとの記録が残る。


佐波郡玉村町板井の諏訪神社。

板井諏訪神社 (1)
板井諏訪神社 (2)
板井諏訪神社の由緒は不詳。昭和61年(1986年)に地区内赤城神社を合祀している。鳥居は令和4年(2022年)の建立。

板井諏訪神社 (3)
板井諏訪神社 (4)
社殿前の狛犬は昭和26年(1951年)の奉納。

板井諏訪神社 (5)
内部本殿(祠)横には合祀された赤城神社の他に八坂神社の名も見えるので、それ以前に合祀されているのだろう。

板井諏訪神社 (6)
境内社・末社群。詳細は分からない。

板井諏訪神社 (7)
双体道祖神は宝暦6年(1756年)の造立。

板井諏訪神社 (8)
お地蔵さんの顔が丸い石と置き換えられている。明治初年の廃仏毀釈で破壊されてしまったのだろう。

境内には桜の木が多く、4月は一面桜がきれいに咲き誇る。玉村町のHPでも、町のマスコットキャラである「おたまちゃん」と「たつながさま」が「境内一面に咲く桜がきれいだね!」と紹介している。


佐波郡玉村町斎田の明照山観音寺。

明照山観音寺 (1)
観音寺は天正10年(1582年)滝川一益配下の栗田大炊介の開基と伝わる。以後、同氏子孫の祈願所となった。なお栗田大炊介については、栗田口や田口との表記もあり、どれが正しいのか分からない。

明照山観音寺 (2)
明照山観音寺 (3)
標柱前の二十二夜塔と念仏供養塔。二十二夜塔は明和3年(1776年)、念仏供養塔は寛保元年(1741年)の造立。

明照山観音寺 (4)
明照山観音寺 (5)
本堂は享保7年(1722年)の建立。昭和7年(1932年)に瓦葺きに改築している。

明照山観音寺 (6)
明照山観音寺 (7)
明照山観音寺 (8)
境内の観音堂。秘仏である千手観音を祀る。観音さまは厨子の中のようだ。観音堂は正徳元年(1711年)の建立(棟札が残されている)。玉村町最古の木造建築物とされる。

明照山観音寺 (9)
石造薬師如来立像。元禄11年(1698年)の造立。

明照山観音寺 (10)
多くの庚申塔が集積されている。

明照山観音寺 (11)
築山のような山の上は不動尊が鎮座する。明治25年(1892年)とあったと思う。

明照山観音寺 (12)
観音堂裏の馬頭観音像群。安永4年(1775年)、天明6年(1786年)の銘が読み取れた。


佐波郡玉村町福島の福島船橋道跡。

福島船橋道跡 (1)
利根川の堤防際に「福島船橋道」の標柱が建っている。一般的に「舟橋」は河川の中に並べた船の上に板を敷いて造る橋のことなので、ここから利根川の対岸(現在の上福島地区)に渡る「舟橋」があったののだろうか。

初代福島橋が大正15年(1926年)に完成するまでは、「福島の渡し」が主要な交通手段であったと思われるが(現在の福島橋は2代目)。

福島船橋道跡 (2)
福島船橋道跡 (3)
ここは明治24年(1891年)に竣工した福島水門があった場所である。現在も水門跡のレンガ積みが一部残っている。

福島船橋道跡 (4)
水門跡の脇には、水門の竣工を記載した碑(左後ろ)と、先に書いた「福島船橋道」の標柱(一番右)がある。他は庚申塔(左前)と宝暦(1751~64年)銘のある供養塔(中奥)。

福島船橋道跡 (5)
水門跡から堤防に上がれば、利根川の勇姿を見ることができる。往古から利根川は生活に必要な水を供給してくれるとともに、生活を危うくする災害ももたらしきた。

*記事のタイトルは「福島船橋道跡」としたが、「福島水門跡」の方が良かったかも。


佐波郡玉村町福島の天満宮。

福島天満宮 (1)
福島天満宮 (2)
福島天満宮の由緒は不詳。明治43年(1910年)に、当時政府が推し進めていた「神社合祀政策」により廃社にっている。しかし地域の方々が今も祀り続けている。

福島天満宮 (3)
石段下の灯籠は平成5年(1993年)の奉納。

福島天満宮 (4)
福島天満宮 (5)
福島天満宮 (6)
社殿には明治天皇と昭憲皇太后の御歌が掲示されている。
「目に見えぬ 神にむかいて はじざるは 人の心の まことなりけり」(明治天皇)
「日に三度 身をかへりみし いにしへの 人の心の まことならひてしがな」(昭憲皇太后)

福島天満宮 (7)
松尾芭蕉の句碑もある。「梅か香に のつと 日の出る 山路かな」

福島天満宮 (8)
福島天満宮 (11)
境内社・末社、道祖神、庚申塔と二十三夜塔など。

福島天満宮 (9)
水害復旧碑。昭和22年9月のカスリーン台風の被害が克明に記されている。

福島天満宮 (10)
福島天満宮の鎮座しているのは天神古墳の墳頂部。円墳と推定されるが未調査のため詳細は不明。現在は高さ2m程度だが、この辺りは天明3年(1783年)の浅間山の大噴火(天明の浅間焼け)時の泥流により多くの土砂が堆積しているので、実際の古墳規模は分からない。


佐波郡玉村町南玉の功徳山普門寺。

普門寺 (1)
普門寺は貞和元年(1345年)海心沙彌の開創と伝わる。ちなみに、貞和は南北朝期の北朝の年号で、南朝では興国6年となる。

普門寺 (2)
門柱横の地蔵像は頭の部分が置き換えられているようだ。おそらく明治期の廃仏毀釈により破壊されたのだろう。

普門寺 (3)
普門寺 (4)
本堂は数度の火災により焼失しているが、その都度再建されている。現在の本堂は文化2年(1805年)に再建されたもので、大正9年(1920年)に瓦葺きに改築されている。

普門寺 (5)
石仏・石塔類がきれいに集積されている。馬頭観音、二十二夜塔、巳待塔、千部供養塔、二千部供養塔、双体道祖神。

分かった範囲では、馬頭観音は寛政11年(1799年)と12年(1800年)、千部供養塔は元禄11年(1698年)、二千部供養塔は享保8年(1723年)、二十二夜塔は享和元年(1801年)の銘が読み取れた。

普門寺 (6)
一見宝篋印塔のように見えるが、石塔に宝篋印塔の隅飾から上を乗せてあるだけ。元は石塔の上には薬師如来坐像があったのだが、盗難に遭ってしまったという。

普門寺 (7)
普門寺 (8)
普門寺 (9)
境内の天満宮。由緒は不詳。

普門寺 (10)
帰ろうと思い横に回り込んだ際、本堂を見上げたら破風に龍の彫刻があった。良く見ると亀もいる。縁起物の装飾かな。


佐波郡玉村町南玉の住吉山金蔵寺。

金蔵寺 (1)
金蔵寺は貞治3年(1364年)僧・快泉の創建と伝わる。寛永12年(1635年)火災で焼失、貞享2年(1685年)玄海が中興している。

金蔵寺 (2)
金蔵寺 (3)
本堂は寛政2年(1790年)にも火災に遭い、同4年(1792年)に再建されている。現在の本堂の建立年などは不明。

金蔵寺 (4)
青面金剛塔や庚申塔。青面金剛塔は宝永6年(1709年)、庚申塔は正徳3年(1713年)などの造立。

金蔵寺 (5)
石仏や仏塔、供養塔類。馬頭観音石塔は天明4年(1784年)、二十二夜塔は安永7年(1778年)の造立。

金蔵寺 (6)
金蔵寺 (7)
金蔵寺 (8)
境内の薬師堂。薬師如来石像が祀られている。由緒などは不明。

金蔵寺は住吉山の山号が示す通り、隣接している住吉神社の別当寺であった。


佐波郡玉村町南玉の住吉神社。

南玉住吉神社 (1)
南玉住吉神社 (2)
南玉住吉神社の創建年などは不詳だが、摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)の住吉大社から分霊を勧請したと伝わる。

南玉住吉神社 (3)
鳥居の横には大黒天。元治元年(1864年)の造立。この大黒天は甲子講のもの。大黒天の縁日である甲子(きのえね)の夜に集まって大黒天を祀る講。江戸時代中頃から盛んになっている。

南玉住吉神社 (4)
社殿前の狛犬は昭和32年(1957年)の奉納。

南玉住吉神社 (5)
南玉住吉神社 (6)
南玉住吉神社 (7)
社殿は平成11年(1999年)に改修が行われている。本殿は18世紀初期の建立とされる。

南玉住吉神社 (8)
南玉住吉神社 (9)
神域を囲むように数多くの庚申塔が並ぶ。玉村町誌(平成7年:1995年刊)によると104基あるという。

南玉住吉神社 (10)
社殿裏に幹が横に丸く湾曲して伸びている松があった。幹が湾曲している松は、記憶にある限りでは桐生市・美和神社の「美和の上り松」、東吾妻町・奥田白鳥神社の「妙なる松」などがある。(「上野国十之宮・美和神社」「東吾妻町奥田・白鳥神社」参照)

住吉神社の松も何か名前を付けて名物にしたら?

佐波郡玉村町下之宮の梅龍山東林寺。

東林寺 (1)
東林寺は天治元年(1124年)僧・大元の開山と伝わる。

東林寺 (2)
二十二夜塔は宝暦9年(1759年)の造立。土台から傾いており、非常に危険な状態。向かって左は念仏供養塔、右は庚申塔。

東林寺 (3)
東林寺 (4)
本堂は一般民家の様な佇まい。老朽化しているが、瓦屋根だけは改修されているようだ。

東林寺 (5)
東林寺 (6)
本堂横の霊廟。昭和45年(1970年)に明治100年記念事業として建立。

東林寺 (7)
霊廟前の宝篋印塔。享保15年(1730年)の造立。

東林寺 (8)
百番供養塔や石仏群。右端の百番供養塔は天明6年(1786年)の造立。

東林寺 (9)
東林寺には寺宝として十一面観音像が祀られていた。桧の寄木造りで119cmの立像。室町~江戸初期の作と推定されている。

江戸末まで火雷神社に祀られていたが、明治期の神仏分離により別当寺であった東林寺に遷されている。現在は玉村町歴史資料館に保管・展示されている(写真は歴史資料館訪問時のもの)。

関連
 「玉村町下之宮・火雷神社
 「玉村町福島・玉村町歴史資料館


佐波郡玉村町小泉の重田家住宅。

重田家住宅 (1)
重田家住宅 (2)
重田家は江戸時代の中頃から代々医師を家業としており、初代当主は姫路藩主のお抱え医を務めていたといわれている。当地では昭和25年(1950年)まで開業していた(現在は高崎市内で開業)。

敷地内には住宅兼医院である「主屋」の他、付属建物として「穀蔵」「西の蔵」「東の蔵」「外便所」「井戸屋形」などが現存している。「主屋」と附属建物の多くが、平成13年(2001年)国の登録有形文化財として登録された。

令和3年(2021年)重田家より建造物と敷地、及び周囲の農地が玉村町に寄贈され、現在は玉村町が歴史的な貴重品の数々を整理中である。

表門は明治23年(1890年)、塀は明治25年(1892年)ころのものを、平成23年(2011年)に再建(再現)したもの。

重田家住宅 (3)
重田家住宅 (4)
主屋(住宅兼診療所)。明治16年(1883年)の建築。棟札が残されている。造りは多間取り(6間取り)型の農家住宅を基本とている。中央には式台を供えた立派な玄関があり、重田家の格式を示している。

重田家住宅 (5)
庭の植込みには「登録有形文化財」のプレートが。

重田家住宅 (6)
重田家住宅 (7)
重田家住宅 (8)
近年まで居住していたことから内部は住みやすいように改装されているが、それでも明治から昭和にかけての生活ぶりが偲ばれる(1F)。もちろん、一般庶民とは違うと思うが。

重田家住宅 (9)
重田家住宅 (10)
重田家住宅 (11)
2Fはまだ整理中のようだが、貴重なものがありそうだ。

重田家住宅 (12)
重田家は昭和2年(1927年)に玉村町域で電話が開通した際、旧芝根村の最初の加入者。次に芝根村役場が加入したのは昭和9年(1934年)のこと。

重田家住宅 (13)
重田家にはまだ小中学校にもピアノがない時代からあったという。小中学校の行事の際には、重田家からこのピアノを運んで使用したという。

重田家住宅 (14)
穀蔵。明治31年(1898年)の建造。

重田家住宅 (15)
西の蔵。昭和2年(1927年)の建造。入口は裏側にあるが、現在は主屋とつながり、中から入るようになっている。まだ玉村町のよる整理が進んでおらず、貴重なお宝が出てくるかも(笑)。

重田家住宅 (16)
東の蔵。昭和3年(1928年)の建造。家伝薬の材料保管庫であったとされる。

重田家住宅 (17)
井戸屋形。大正(1912~26年)初期の建築。

重田家住宅 (18)
外便所。昭和元年(1926年)の建築。昭和元年は12月25日~31日までしかないので、正しくは大正15年ではないかな。

重田家住宅 (19)
主屋裏の築山。主屋内から見て楽しめる造りになっているようだ。まだ整備が追いついていない状況。

重田家住宅 (20)
住宅の南にある重田家初代夫妻の墓。向かって右が初代・三郎兵衛英信、左が奥方の墓。奥方は姫路藩主の姫君といわれ、妙光院殿の戒名が刻まれている。院殿号からして藩主の姫君というのもうなづける。台座で調整し高さを合わせているが、墓石そのものは奥方の方が大きいのは、当時の身分が差が理由かな。

初代の墓石には元文(1736~41年)、奥方の墓石には宝永(1704~11年)の年号が刻まれている。没年と推定される。

初代は姫路藩の医師であったということから、松平朝矩の前橋転封により当地へ転居してきたと思っていたのだが、松平家の前橋転封は寛延2年(1749年)なので年代が合わない。まっ、細かいことはいいかな。


佐波郡玉村町小泉の飯玉神社。

小泉飯玉神社 (1)
小泉飯玉神社 (2)
小泉飯玉神社は応仁2年(1468年)那波氏が堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の飯玉神社より分霊を勧請したもの。那波氏が領内に創建した99社のひとつ。

明治24年(1891年)に村内の諏訪神社、神明宮などを合祀したが、明治44年(1911年)に小泉飯玉神社自体が火雷神社(下之宮)に合祀されている。現在、復祀されているのか個別に祀られているのかは不明。

小泉飯玉神社 (3)
鳥居の先は小泉地区の公民館になっており、社殿らしきものが見えない。

小泉飯玉神社 (4)
公民館敷地内の奥のフェンス際まで行くと、左手(公民館の奥側)に社殿がある。土蔵のような社殿だが、元の奉安殿のようにも見える。詳細は分からない。

小泉飯玉神社 (5)
社殿裏には境内社・末社が並ぶ。八坂神社、菅原神社、稲荷神社、小祝神社など。

小泉飯玉神社 (6)
大黒天(2基)と道祖神。

小泉飯玉神社 (7)
草の中に二十二夜塔(如意輪観音)が埋もれていた。


佐波郡玉村町箱石の浅間神社。

箱石浅間神社 (1)
箱石浅間神社 (2)
箱石浅間神社の由緒は不詳だが、富士山の浅間神社本宮の分霊を勧請したものと考えられる。明治39年(1906年)に箱石貫前神社に合祀されている。現在復祀されているのか、地域の方々が個別に祀っているのかは分からない。
(箱石貫前神社は「玉村町箱石・貫前神社」参照)

箱石浅間神社 (3)
箱石浅間神社 (4)
祠内には木製の神棚が安置されている。

箱石浅間神社 (5)
石仏が置かれているが、風化していて詳細不明。

箱石浅間神社 (6)
祠の横に石祠があり、富士浅間神社と刻されている。元々の浅間神社だと思われる。

ちなみに、この明治39年から「神社合祀政策」が政府により行われ、大正13年(1914年)までに、全国で7万社が合祀や廃社となった(20万社が13万社に減った)。これにより「一村一社」となった地域が多かった。

これは神社の数を減らし、残った神社に経費を集中させることで一定基準以上の設備・財産を備えさせ、神社の威厳を保たせることにあった。しかし地域住民からすれば「地域の鎮守がなくなる」ということで反対も多かった。先の大戦後、復祀という形で旧地に戻った神社も多い。


佐波郡玉村町箱石の薬王山養命寺。

養命寺 (1)
養命寺 (2)
養命寺は寛永18年(1641年)常楽寺の法印良範が自身の隠居寺として開山。

養命寺 (3)
門前の六地蔵。昭和55年(1980年)の造立。

養命寺 (4)
百番供養塔(2基)。1基は文政2年(1819年)の造立。

養命寺 (5)
養命寺 (6)
本堂は宝暦7年(1757年)に火災で焼失、同10年(1760年)に再建されている。現在の本堂は平成11年(1999年)の新築建立。なお、宝暦7年の火災時に創建からの本尊・薬師如来も焼失したため、その後は弘法大師を本尊としている。

養命寺 (7)
境内の庚申塔類。駒形のものは安永3年(1774年)の造立。

養命寺 (9)
養命寺 (10)
北向地蔵尊。堂内には大小3体の地蔵尊を祀る。

明治後期にこの一帯に疫病が流行したが、村境にあったお地蔵様のところで疫病が止まり、村内に入ってこなかった。そのことに感謝し養命寺境内にお堂を建て遷し祀ったと伝わる。

2月と7月の地蔵祭では、3体のうち小さい1体を厨子に入れそれを子ども達が担ぎ、「地蔵さまワッショイ」と連呼しながら地域を廻る。地域の人々はお地蔵様に線香やお賽銭を供え、無病息災などを祈願する。

地蔵祭は玉村町の重要無形民俗文化財に指定されている。



佐波郡玉村町箱石の貫前神社。

箱石貫前神社 (1)
箱石貫前神社の創建年は不詳。往古、上野国一宮・貫前神社の分霊を勧請したと伝わる。「上野国神名帳」記載の「那波郡布留明神」は当社とされている。

箱石貫前神社 (2)
灯籠は大正12年(1923年)の奉納。立派な灯籠だが「危険です! 絶対に上らないでください!」と表示されていた。県内では平成30年(2018年)に灯籠に上っていた中学生が、崩れた灯籠の下敷きになり亡くなるという痛ましい事故もあったので、こういう注意喚起は良いことだと思う。

箱石貫前神社 (3)
箱石貫前神社 (4)
箱石貫前神社 (5)
拝殿前の狛犬は昭和11年(1936年)の奉納。拝殿は元文5年(1740年)建立との棟札が残っている。おそらく以前の拝殿で、現在の拝殿ではないと思う。

箱石貫前神社 (6)
本殿は18世紀中ころの建立とされる。

箱石貫前神社 (7)
箱石貫前神社 (8)
箱石貫前神社 (9)
箱石貫前神社 (10)
明治39年(1906年)に村内の稲荷神社、諏訪神社、浅間神社を合祀している。浅間神社は見当たらなかった。

箱石貫前神社 (11)
境内社・末社群。台座に乗っているのは八坂神社と思われる。他は不明。

箱石貫前神社 (12)
「征清軍㱴馬碑」という碑があった。日清戦争に従軍、亡くなった軍馬の供養碑だと思う。この辺りが当時馬の産出地だったとは聞いたことがない。まあ、古代は馬の一大産出地だったけど。ちなみに古墳から出土した馬形埴輪数は群馬県が全国1位だ。


佐波郡玉村町川井の遍照山東栄寺。

東栄寺 (1)
東栄寺の創建は不詳。当初は川井山東照寺と号していた。寛永19年(1642年)に豪海が天台宗に改宗、そのため豪海を中興の祖としている。また、寺号が徳川家康の神名(東照大権現)であることをはばかり、東栄寺と改めている。

東栄寺 (2)
本堂は天保年間(1830~44年)に焼失、弘化2年(1845年)に再建されている。現在の本堂は新しく見えるので、近年の再建のようだ。

東栄寺 (3)
二十二夜塔(如意輪観音、向かって右端)は延享4年(1745年)、青面金剛(右から3番目)は天保3年(1832年)の造立。溶岩の灯籠(左端)は天明3年(1783年)の浅間山大噴火の際のもの。この辺りの寺社には多い。

東栄寺 (4)
大黒天の石塔は文化12年(1815年)の造立。

東栄寺 (5)
庚申塔(左)と道祖神(右)。庚申塔は明和元年(1764年)、道祖神は寛政年間(1789~1801年)の造立。


佐波郡玉村町川井の八幡宮。
川井地区にはもうひとつ八幡宮があるため、区別する意味で東八幡宮や下の八幡宮と呼ばれている。(西八幡宮は「玉村町川井・西八幡宮」参照)

川井東八幡宮 (1)
川井東八幡宮 (2)
川井東八幡宮は天正年間(1573~92年)に金窪城主・斎藤定盛が武運長久のため山城国・石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まり。これは川井西八幡宮の由緒と同一である。

川井東八幡宮 (3)
社殿前の灯籠は浅間山の噴火(天明の浅間焼け)の際に流れてきた溶岩を加工して造られている。天明3年(1783年)の浅間山大噴火では、当地も押し寄せた溶岩混じりの泥流により大きな被害を受けている。

川井東八幡宮 (4)
川井東八幡宮 (5)
社殿は大正元年(1912年)に火災で焼失、大正3年(1914年)に再建されている。

東八幡宮には誉田別命(ご祭神、八幡神・応神天皇)の弓持坐像が宝物として残されているという。火災を逃れられたのかな。社殿内に安置されているか、別場所で保管されているかは不明。

川井東八幡宮 (6)
「御成婚」と書かれた石碑(左)と「斎藤千代碑」。御成婚の石碑は大正13年(1924年)とあったので、昭和天皇のご結婚を祝してのもの。斎藤千代碑には短歌が記されているので、地元の歌人であろうか?


佐波郡玉村町川井の八幡宮。
川井地区にはもうひとつ八幡宮があるため、区別する意味で「西八幡宮」や「上の八幡宮」と呼ばれている。

川井西八幡宮 (1)
川井西八幡宮は天正年間(1573~92年)に金窪城主・斎藤定盛が武運長久のため山城国・石清水八幡宮の分霊を勧請したのが始まり。天正年間と言っても、天正10年(1582年)の神流川の合戦で斎藤氏は没落しているので、それ以前の創建となる。
(斎藤定盛は「玉村町川井・八千矛神社」参照)

一の鳥居は烏川の堤防側にある。手前の木が生い茂っており鳥居を隠すような感じになっている。

川井西八幡宮 (2)
二の鳥居は前を通る道路沿いに建っている。

川井西八幡宮 (3)
川井西八幡宮 (4)
拝殿は棟札から延享3年(1746年)の建立、宝永3年(1706年)に改築した旨の棟札もあるという。現在の拝殿の詳細は不明。本殿(覆屋内)は18世紀の建立とされる。

川井西八幡宮 (5)
社殿裏の境内社・末社群。秋葉社、稲荷社など。

現在は神流川が群馬県と埼玉県の県境になっており、埼玉県上里町は完全に別地域であるが、当時は神流川や烏川がどの辺を流れていたかは知らないが、上里町と玉村町の南西部は同じ地域だったのだろう。


佐波郡玉村町川井の八千矛神社。

八千矛神社 (1)
八千矛神社 (2)
八千矛神社は弘化年間(1844~48年)の創建。武運長久の神として摩利支天を祀っていたが、明治期の神仏分離により大国主神を祭神とし、その別称である八千矛神を社名としている。大国主は永禄年間(1558~70年)から祀られていたとされる。

鳥居扁額は「摩利支天宮」(写真が見づらいが)。現在も「川井の摩利支天」と呼ばれる。

八千矛神社 (3)
石段脇の巨岩。溶岩のようなので、浅間山の噴火(天明の浅間焼け)時に流れ着いたものだろうか(加工はされている)。

八千矛神社 (4)
社殿は平成12年(2000年)に屋根瓦の葺替えを行っている。

八千矛神社 (5)
拝殿破風には昇り龍の彫刻が施されている。

八千矛神社 (6)
奉納額も「摩利支天尊」。昭和47年(1972年)の奉納。この時点では八千矛神社になって約100年経っている。それだけ「摩利支天」として親しまれているということ。

八千矛神社 (7)
八千矛神社の鎮座地は川井城の楼台跡とされる。川井城は金窪城(烏川の対岸、現在の埼玉県上里町)城主・斎藤定盛(定光とも)の築城とされる。築城時期は定盛が金窪城主になってからと考えられているので、天文年間(1532~55年)あたりかな。城を守っていたのは定盛の弟・基盛である。

斎藤定盛は下茂木の法連寺を再興した斎藤盛光の嫡男。斎藤氏は関東管領・山内上杉氏の家臣であったが、上杉憲政が天文21年(1552年)に越後に逃亡すると北条氏に従っている。(斎藤盛光は「玉村町下茂木・妙日山法連寺」参照)

天正10年(1582年)の「本能寺の変」後の神流川の合戦時に、金窪城、川井城とも滝川一益軍に攻略され落城。斎藤氏は没落している。なお、川井城の落城は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻め時との説もある。

八千矛神社 (8)
八千矛神社 (9)
社殿前の灯籠。この灯籠(2つ)の側面に、箕輪城没城後に和田氏に従っていた清水内記藤原邦正、松本兵右衛門宗炭、松本金左衛門吉勝譲が、慶長12年(1607年)に那波郡川合城に移住した、という趣旨のことが刻まれている(全部読めたわけではない。また表記は刻字を尊重)。

清水内記は斎藤定盛の娘を娶っているが、移住後帰農したと考えられる。摩利支天を祀ったのはその子孫であるという。


佐波郡玉村町五料の関所跡。

五料の関所跡 (1)
五料の関所は日光例幣使街道に設置されていた関所。利根川を渡る手前(玉村町側)にあった。戦国期に那波氏の家臣・石倉氏が関所を設けて私的に関銭を取っていた。天正18年(1590年)に那波氏が滅んだ後、慶長6年(1601年)に前橋藩が石倉氏の関所を藩の関所としている。

その後、例幣使街道の整備により、元和2年(1616年)正式に例幣使街道の関所となっている。設置年に関しては寛永8年(1631年)、寛永13年(1636年)、元禄10年(1697年)などとする説もある。

五料の関所跡 (2)
現在は門柱礎石と井戸が残るのみである。解説板に関所の図が描かれていたので赤丸を付けてみた。

五料の関所跡 (3)
五料の関所跡 (4)
門柱の礎石。現在の道幅の両側にある。

五料の関所跡 (5)
五料の関所跡 (6)
関所跡からそのまま進むと利根川の堤防に出る。サイクリングロードになってるのかな。左側を見ると五料橋がすぐそこに見える。

五料の関所跡 (7)
五料の関所跡 (8)
堤防を五料橋側に少し行くと左側に井戸がある。

天明3年(1783年)の浅間山大噴火時には、利根川を流れてきた泥流により関所は埋没している。屋根が見えるだけだったといわれる。五料の関所は明治元年(1868年)に廃止されている。


佐波郡玉村町五料の至徳山常楽寺。

常楽寺 (1)
常楽寺は天平年間(729~49年)行基の開山と伝わる。四徳山安国常楽寺と号した。至徳年間(1384~87年)に至徳山と改めている。

行基は聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘され、その功績などから東大寺の「四聖」の一人に数えられている。行基が開創(開山・開基)したとされる寺院は全国に約600寺あるとされるが(群馬県内にも多い)、その多くは伝承の域を出ない(常楽寺がそうだと言っているわけではない)。

常楽寺 (2)
常楽寺 (3)
常楽寺 (4)
山門前の参道には多くの石仏・石塔類が並ぶ。二十二夜塔(如意輪観音)は享保4年(1719年)、地蔵菩薩像は安政5年(1858年)、百番供養塔は寛政6年(1794年)の銘が読み取れた。

常楽寺 (5)
本堂は明治18年(1885年)に焼失、同24年(1891年)に再建されている。直近では平成13年(2001年)に改修されている。

常楽寺 (6)
本堂前に薬師如来像(左)と馬頭観音像(右)が置かれている。いずれも室町(南北朝)期の作とされる。薬師堂に納められているとのことだったが、境内にお堂は見当たらず、本堂前に置かれていた。

常楽寺 (7)
常楽寺 (8)
弘法大師像。天保5年(1834年)の大師1000年忌の造立。

常楽寺 (9)
常楽寺 (10)
無縁仏墓の頂上の石仏(石像)は室町(南北朝)期の弘法大師像とされる。

常楽寺 (11)
法華経二千部供養塔。文化8年(1811年)の造立。

常楽寺 (12)
常楽寺 (13)
境内の池。ツツジが綺麗に咲いていた。本堂改修前の屋根瓦も置かれていた。

常楽寺は天明3年(1783年)の浅間山大噴火時、利根川を流れてきた泥流により多くが埋没している。当時は人手で掘り出すしかなかったが、復興を遂げている。


佐波郡玉村町五料の飯玉神社。

五料飯玉神社 (1)
五料飯玉神社 (2)
五料飯玉神社は応仁2年(1468年)那波氏が堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の飯玉神社より分霊を勧請したもの。明治40年(1907年)に近隣の石神神社、白山神社、養蚕神社を合祀している。

参道は西側から入り、社殿前で北転する。参道は昭和15年(1940年)に整備されたようだ。元は南側にまっすぐ参道が延びていたのだと思う。

鳥居前の灯籠は文政4年(1821年)の奉納。

五料飯玉神社 (3)
五料飯玉神社 (4)
五料飯玉神社 (5)
社殿は平成19年(2007年)の新築建立。ただ新築は拝殿と本殿覆屋のみのように見える。

五料飯玉神社 (6)
本殿には見事な彫刻が施されているが、防護網の目が細かく見づらい。写真も防護網の方にフォーカスされてしまい、上手く撮れなかった。

五料飯玉神社 (7)
社殿脇には多くの力石が置かれている。

五料飯玉神社 (8)
五料飯玉神社 (9)
境内社の八幡宮、菅原神社、八坂社などと、不完全な形の御神灯や石宮。

五料飯玉神社に合祀された水神宮のお祭りとして「水神祭」が伝わっている。利根川と烏川が合流する五料地区は水運が発達し、船頭も多かったことから水難除け祈願から始まったとされている。


動画があったので参考までに。

麦わらや竹などから約7mの舟を造り、地区内を曳いて廻った後に利根川に流す。水神祭は群馬県の重要無形民俗文化財に指定されている。

*今年(令和4年度)の水神祭は、新型コロナウイルスによる感染症の動向に鑑みて、規模を縮小して関係者で執り行うことになったとのこと。


佐波郡玉村町飯倉の飯玉神社。

飯倉飯玉神社 (1)
飯倉飯玉神社 (2)
飯倉飯玉神社は応仁年間(1467~69年)那波氏が堀口村(現在の伊勢崎市堀口町)の飯玉神社より分祀し創建。那波氏が領内に創建した99社のひとつ。天正18年(1590年)に那波氏が滅んだ後も、郷民が鎮守として祀り続けてきた。
(堀口飯玉神社は「伊勢崎市堀口町・飯玉神社」参照)

鳥居は平成5年(1993年)の建立。皇太子殿下(現天皇陛下)の御成婚記念とあった。

飯倉飯玉神社 (3)
飯倉飯玉神社 (4)
飯倉飯玉神社 (5)
拝殿は19世紀中ころ、本殿は18世紀中ころの建立とされる。本殿は覆屋内なので見られないけど。

飯倉飯玉神社 (6)
飯倉飯玉神社 (7)
境内に富士塚のようなものがあるが、その上に鎮座するのは境内社の諏訪神社。

飯倉飯玉神社 (8)
飯倉飯玉神社 (9)
麓には養蚕神(石碑)や石上社、比叡大神(石碑)。

飯倉飯玉神社 (10)
五軒組氏神様。五軒の斎藤さんの氏神だという。

飯倉飯玉神社 (11)
飯倉飯玉神社 (12)
境内社の天満宮。囲われている大杉の根元に天満宮が鎮座している。

飯倉飯玉神社 (13)
飯倉飯玉神社 (14)
境内に遊具が設置されている。滑り台や鉄棒、ブランコは他所でも見かけるが、シーソーはあまり見ない。

飯倉飯玉神社 (15)
隣の飯倉公民館の敷地一角に「浸水水位」と矢印の書かれた案内板が設置されている。昭和22年(1947年)のキャサリーン(カスリーン)台風による烏川の洪水時の最高水位らしい。数値は書かれていないが2m以上あったと思う。

群馬県内で592人の死者を出す大災害となった。この表示が水害対策になるわけではないが、災害を忘れないためにはよい試みだと思う。


佐波郡玉村町飯倉の飯玉山慈恩寺。

慈恩寺 (1)
慈恩寺 (2)
慈恩寺は明和3年(1766年)心頼法印の開山。心頼は父から譲られた(相続した)田畑を利用し新寺を建て、仏門に入ったとされる。

山門は武家屋敷の長屋門風だ。

慈恩寺 (3)
吹き流しが風にそよいでいた。吹き流しには魔除けの意味があるので、上げているのかな。

慈恩寺 (4)
本堂は明治36年(1903年)に落雷で焼失、同39年(1906年)に再建されている。近年では平成12年(2000年)に改修されている。

慈恩寺 (5)
六地蔵。

慈恩寺 (6)
百番供養塔。文政13年(1830年)の造立。百番供養塔は100ヶ所の札所を巡礼した記念塔。四国、西国、秩父と記されていた。

県内の百番巡礼は西国33札所、坂東33札所、秩父34札所の組合わせが多い。四国は遠いうえに海を渡らないといけないので、上野国からはなかなか大変だったと思う(もちろん西国も遠いけど)。

慈恩寺 (7)
宝篋印塔。紀年銘は見あたらなかった。相輪部がない状態。下に宝珠らしきものが置かれているが、別の宝篋印塔のものだと思う。

慈恩寺 (8)
地蔵菩薩(左)は分かるが、右の石仏は何だろう。馬頭観音かな。

慈恩寺には明治19年(1886年)から同25年(1892年)まで五料尋常小学校が置かれている。明治25年に芝根尋常小学校(現在の玉村町立芝根小学校)が創立、統合されている。


佐波郡玉村町上福島の北部公園内のバラ園。

玉村町北部公園 バラ園 (1)
バラ園には80種・380本のバラが植栽されている。四季咲きのバラが多いので四季を通じて楽しむことができるという。バラは玉村町の「町の花」になっている。

玉村町北部公園 バラ園 (2)
玉村町北部公園 バラ園 (3)
玉村町北部公園 バラ園 (4)
玉村町北部公園 バラ園 (5)
玉村町北部公園 バラ園 (6)
玉村町北部公園 バラ園 (7)
玉村町北部公園 バラ園 (8)
玉村町北部公園 バラ園 (9)
玉村町北部公園 バラ園 (10)
アウェイクニング、アスピリンローズ、ヴェスターラント、エル、ストロベリーアイス、つるブルームーン、ネオン、マイナウフォイアー、ロイヤルサンセット、月光、新雪、マジックメイディランド、ラヴェンダードリームなどの品種があるようだ。

写真の順番と品種の記載順は、まったく対応してないです。写真を撮っている途中で分からなくなってしまった。すみません。

*訪問日は5月下旬なので、現在の開花状況とは異なります。

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