上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 前橋市(旧郡部)


前橋市滝窪町の開姫神社。
前回の八柱神社の境内社である。(八柱神社は「前橋市滝窪町・八柱神社」参照)

開姫神社 (1)
開姫神社 (2)
開姫神社は明治7年(1874年)の創建。村の青年たちが赤城山に登る際、珍しい形の石を見つけた。持ち帰り寺沢川のほとりに祀ったのが始まり(後に現在地に遷座)。

先の大戦時、邪教撲滅運動の流れで石は穴を掘って埋められた。その後、人が馬に蹴られ亡くなるなどの災いが起こったため掘り出すことにした。しかし、石はいつ誰が出したということなく外に出ていたといわれる。

開姫神社 (3)
開姫は貝姫とも書くようだ。ご神体には赤い布がかけてあるが、その形はだいたい想像がつく(笑)。女性の下の病にご利益があるとされる。


前橋市滝窪町の八柱神社。

八柱神社 (1)
八柱神社 (2)
八柱神社 (3)
八柱神社の由緒は不詳。天照大神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神をご祭神としていることから八柱神社。

ちなみにご祭神の八神は、多紀理毘賣命・狭依毘賣命・多岐都毘賣命・天之忍穂耳之命・天津日子根命・活津日子根命・熊野久須毘命・天之穂日命。

八柱神社 (4)
八柱神社 (5)
社殿の建立年などは不詳。

八柱神社 (6)
八柱神社 (7)
境内社・末社群。猿田彦神、秋葉社、十二山神など。どれかは忘れてしまったが、石宮のひとつには寛政(1789~1801年)の銘が読み取れた。


前橋市河原浜町の柊(ひいらぎ)薬師。
前回の応昌寺の境外仏堂となる。(応昌寺は「前橋市河原浜町・慈恵山応昌寺」参照)

柊薬師 (1)
柊薬師 (2)
慈恵大師(元三大師)が当地への巡錫のおり、この地に柊の大木が繁茂しているのを見て霊地・霊場とせんと薬師如来の尊像を刻し安置したのが始まりとされる。

お堂は昭和55年(1980年)に改築されている。

柊薬師 (3)
柊薬師 (4)
中には手前に新しい薬師如来坐像と、後ろ(棚の上)に日光・月光を従えた薬師如来像がある。後ろのものは安山岩製の舟形(上部が破損)で、薬師如来など三尊が半肉刻されている。造立年代は不明。

現在、どちらが本尊扱いになっているのかな分からない。

柊薬師 (5)
柊薬師 (6)
「樹齢300年ほどの柊の古木がある」とのことだが、よく分からなった。一般にイメージする柊はトゲがある葉だが、お堂の周り木々を見る限りトゲは見当たらなかった(ように見えた)。樹齢を重ねていくとトゲが減ってくるといわれるので、そうなのかな。

調べたら葉にトゲのない丸葉柊というのがあるらしいが、園芸用の品種とあったので違うと思うし・・・。


前橋市河原浜町の慈恵山応昌寺。

応昌寺 (1)
応昌寺は天延3年(975年)慈恵大師が関東巡錫のおり当地に滞在し一宇を建立、千手観音を本尊として創建したと伝わる。観音像は大師の自刻で、悪疫を消除せんと誓願を立てたとされる。慈恵大師は第18代天台座主で、一般には通称である元三大師の名で知られる。

応昌寺 (2)
応昌寺 (3)
本堂は昭和42年(1967年)の建立。平成11年(1999年)に屋根の葺替えを行っている。柱に付けられている標板には「元三大師」の名と共に「御祈祷所」の文字も。元三大師が悪疫を払うよう誓願した由来通りである。

応昌寺 (4)
境内の六地蔵。

応昌寺 (5)
墓地には香川昇三・綾夫妻の墓がある。綾は香川栄養学園(女子栄養大学などを運営)の創始者。医学博士で計量カップ・計量スプーンを考案するなど、現代栄養学の基礎を築いた「栄養学の母」ともいえる女性。

先の大戦中に学園は東京駒込から旧大胡町に疎開しており、不幸にも昇三が大胡で亡くなったため応昌寺に墓所がある。

以前に紹介した前橋市粕川町女渕の聖観音堂は、応昌寺の境外仏堂である。応昌寺が聖観音堂があった多福寺を昭和43年(1968年)に合併したため。
(「前橋市粕川町女渕・聖観音堂」参照)


前橋市大胡町の一法山勝念寺。

勝念寺 (1)
勝念寺は文禄3年(1595年)僧・行心の開山。その際、信徒有志の寄進により一宇を建立している。信徒が開基となり創建したとも言える。ただ、数度の火災に遭い古記録を失い詳細は不詳。

勝念寺 (2)
勝念寺 (3)
庚申塔など。甲子大黒天の石塔もある。甲子(きのえ)の夜に大黒天を祀り、甲子待と称して来福を願うもの。

勝念寺 (4)
勝念寺 (5)
本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。阿弥陀如来像は室町初期の作とされる。

勝念寺 (6)
境内の念仏供養塔(如意輪観音)。

勝念寺は浄土真宗(真宗大谷派)の寺院だが、大胡氏支配時の大胡郷は浄土真宗が広く信仰されていたと思われる。大胡郷を治めていた大胡氏は法然に帰依し念仏修行に励んでいる。「念仏往生伝」という書物には大胡小四郎秀村が法然の教えに従い、念仏を昼夜怠らなかったので極楽往生できたと書かれているほどである。

そのため、信徒有志がお寺を興す下地があったのだろう。ちなみに、現在の養林寺は大胡氏の念仏旧跡地に、牧野康成が養修寺を移転させたものである。
(「牧野家の菩提寺・無量山養林寺」参照)


前橋市大胡町の久栄山本応寺。

本応寺 (1)
本応寺は正応4年(1291年)大胡生まれの南条七郎次郎平時光が大檀那となり、日蓮の弟子・日興(日蓮正宗第二祖)を開山として創建。大檀那とは一般的にお布施をたくさんする檀家のことで、開創時に経済的支援をする場合は開基と同義語となる。

本応寺 (2)
本堂は昭和36年(1961年)の建立。昭和52年(1977年)に改築されている。

本応寺 (3)
本応寺 (4)
鐘楼は平成3年(1991年)の建立。

南条時光は正応3年(1290年)に大石寺(静岡県富士宮市)開創のため、一帯の土地を寄進し開基(大檀那)となっている。大石寺は日蓮正宗の総本山。時光は日蓮に帰依し、日興を師兄と仰いでいる。日蓮は時光の信仰心に対し「上野賢人殿」との称号を与え称賛している。

「上野殿」と聞くと上野国(群馬県一帯の旧名)を想像するが、駿河国富士上方上野郷の地頭であったから。時光が大胡生まれとは大胡町誌(昭和51年:1976年)に記載されているが、詳細は不明である。


前橋市堀越町の堀越共同墓地の石幢。

堀越共同墓地の石幢 (1)
堀越共同墓地の石幢は総高191cmの石燈籠形。円柱状の幢身に六角形の中台を乗せ、その上に六角柱の1面に1体ずつ6体の地蔵が彫った龕部を乗せている。江戸時代中期のものと推定される。

堀越共同墓地の石幢 (3)
地蔵像が彫りされている。

ちなみに、お寺の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、幢幡を6枚または8枚組み合わせてかけている様子を、六角・八角の石柱で表わしたものが石幢とされる。


前橋市堀越町の不二山金蔵院観音寺。

金蔵院 (1)
金蔵院はもとは不二山普門院金胎寺といい、元亀元年(1570年)祐慶上人の開山。明治42年(1902年)に玉蔵院と西方寺を合併し金蔵院と改称している。

金蔵院 (2)
参道のは桜の木が並ぶ。春には綺麗な花を咲かせることだろう。

金蔵院 (3)
金蔵院 (4)
山門は平成9年(1997年)の建立。

金蔵院 (5)
金蔵院 (6)
本堂は昭和58年(1983年)の建立。

金蔵院 (7)
金蔵院 (8)
鐘楼堂は平成8年(1996年)の建立。

金蔵院 (9)
金蔵院 (10)
金蔵院 (11)
六地蔵や念仏供養塔(如意輪観音)、宝塔など。

金胎寺と合併した玉蔵院は、大胡城内にあり二宮赤城神社の別当寺であった。元は玉蔵院が金胎寺の本寺であったが、度重なる火災に遭い堂塔、什器、旧記を失っていた。


前橋市茂木町の八幡宮。

茂木八幡宮 (1)
茂木八幡宮 (2)
茂木八幡宮の由緒は不詳。

茂木八幡宮 (3)
茂木八幡宮 (4)
社殿内をのぞかせてもらうと、ご神体らしきものが見える。

茂木八幡宮 (5)
境内社の絹笠神社。石宮には明治31年(1898年)とある。中間部分のみ新しいようだ。

茂木八幡宮 (6)
茂木八幡宮 (7)
同じく境内社の三峰・古峰神社と弁天宮、天王社(八坂神社)。

茂木八幡宮 (8)
御嶽山三柱大神の碑。あ組講社を組織し、山岳信仰・修行を行ってきた旨の由来が書かれている。

ところで、明治42年(1909年)に旧大胡町(現在の前橋市大胡町・茂木町・堀越町・河原浜町など)の全社が近戸神社に合祀されている(合祀後、大胡神社と改称)。そのため、この八幡宮の位置づけは分からない。分祀されて旧社地に祀られている?
(大胡神社は「前橋市河原浜町・大胡神社」参照)


前橋市茂木町の熱田神社奥の院。

茂木熱田神社 (1)
茂木熱田神社の由緒は不詳。茂木村の鎮守であったが、明治42年(1909年)に近戸神社(大胡神社)に合祀されている。現在は奥の院が残されており、地元の方々が祭祀を行っている。

茂木熱田神社 (2)
祠前には小さな狛犬が鎮座している。

茂木熱田神社 (3)
熱田神社の境内社・末社群も近戸神社(大胡神社)に合祀されているが、祠裏には末社と思われる石宮が並んでいる。

* Google MAPでは茂木神社となっている。


前橋市茂木町の赤城山円城寺。

円城寺 (1)
円城寺は天長5年(828年)慈覚大師円仁の創建と伝わるが、寛永年間(1624~45年)の火災で古記録を失い、由緒・沿革は明らかでない。寛永5年(1628年)に全海法印が再建(中興)したといわれるので、火災はそれ以前と思われる。

円城寺 (2)
円城寺 (3)
境内の庚申塔や念仏供養塔など。

円城寺 (4)
石段を上ると観音堂と墓地がある。

円城寺 (5)
円城寺 (6)
円城寺 (7)
観音堂には本尊の千手観音(木像)を祀る。観音像は元禄元年(1688年)の造立。像高は4尺1寸(約123cm)。厨子の中のようだ。

旧観音堂は昭和42年(1967年)の台風により倒壊。その棟札には正徳3年(1713年)とあった。

円城寺 (8)
墓域の宝塔。紀年銘などは読めず。

写真はないけど、本堂前というか境内というか駐車場というかには、大きな桜の木(と思われる)が複数あり、春には相当美しい花を咲かせるのではないかと思った。


前橋市茂木町の宮柴山満善寺。

満善寺 (1)
満善寺は天長年間(824~34年)慈覚大師円仁の開創と伝わるが、寛政3年(1791年)の火災により堂塔、古記録、什宝類を失ったため詳細不明。

円仁は天台宗の第3代座主(比叡山延暦寺の貫主)。円仁が開山したり再興したと伝わる寺は、関東・東北だけでも500寺以上あるとされる。有名なところでは、浅草寺(浅草)・中尊寺(平泉)・立石寺(山形)などがある。

満善寺 (2)
本堂は安永4年(1775年)の建立。もちろん改修などはされているが、250年近い歴史を誇る。

満善寺 (3)
満善寺 (4)
満善寺 (5)
境内の不動堂。由緒などは不明。

境内に大胡城の裏鬼門除けとして八幡大菩薩(八幡宮)を祀っていた。そのため当地名(字名)は八幡と言う。八幡宮は明治初年の神仏分離などもあり、近戸神社(各社合祀後、大胡神社に改称)に合祀されている。

実は伊勢崎市堀口町にも宮柴山満善寺というお寺がある(院号は違う)。勝道上人開山の真言宗のお寺。寺院名が同じケースは比較的多いが、山号まで同じなのはほとんどない。両寺の関係はないと思うが。(「空海も修行した? -満善寺-」参照)


前橋市上大屋町の稲荷塚古墳。

稲荷塚古墳 (1)
稲荷塚古墳は直径約25mの円墳で、墳丘のまわりに周堀が巡らされていると考えられるので、それを含めると30mを超える規模と推定されている。埋葬施設など内部は未調査だが、横穴式石室と考えらる。

稲荷塚古墳 (3)
稲荷塚古墳 (4)
墳丘上に稲荷神社が祀られているので稲荷塚古墳の名称として残っているが、一の鳥居(扁額)は「牛頭天王宮」。いわゆる天王社(八坂神社)。

稲荷塚古墳 (5)
稲荷塚古墳 (6)
二の鳥居は「稲荷大明神」。稲荷神社である。

稲荷塚古墳 (7)
稲荷塚古墳 (8)
墳丘上のお社は稲荷神社。

稲荷塚古墳 (9)
稲荷社の横に石宮がある。これが天王社(八坂神社)かな。

稲荷塚古墳は大胡町25号墳とされているもの。旧大胡町には多くの古墳が確認されていたが、現在ではその形をとどめているものは稲荷塚古墳の他は、堀越古墳くらいになってしまっている。(堀越古墳は「前橋市堀越町・堀越古墳」参照)


前橋市鼻毛石町の八幡神社。

鼻毛石八幡神社 (1)
鼻毛石八幡神社 (2)
鼻毛石八幡神社の由緒は不詳だが、応仁年間(1467~69年)に京都・石清水八幡宮から分霊を勧請したとされる。

鼻毛石八幡神社 (3)
鼻毛石八幡神社 (4)
鼻毛石八幡神社 (5)
杉の大木に囲まれた参道を進むと二の鳥居がある。明治35年(1902年)に合祀された御霊神社のもの。

鼻毛石八幡神社 (6)
鼻毛石八幡神社 (7)
鼻毛石八幡神社 (8)
社殿は寛保元年(1741年)の大祭の夜に火災により焼失、嘉永3年(1850年)に再建された記録がある。現在の拝殿は近年の再建のようだ。本殿は嘉永当時のものかもしれない。

鼻毛石八幡神社 (9)
鼻毛石八幡神社 (10)
社殿横には日露戦争記念碑(揮毫は乃木希典大将)。一の鳥居横には軍馬応徴紀念碑。離れているがセットのような気がする。

軍馬応徴に関しては、前橋市西大室町の大室神社にも碑がある。赤城南麓では軍馬(と言うか馬)の飼育が行われていたのかな。
(大室神社は「前橋市西大室町・大室神社」参照)

鼻毛石八幡神社 (11)
源義家の硯石。寛治元年(1083年)に奥州へ向かう源義家が当地で休憩した際、従軍を願う者が多数集まった。義家はその名簿を作ろうと硯を取り出し、この石のくぼみに溜まっていた水をを使ったことから「硯石」と呼ばれる。

この硯石があったから、当地に源氏の氏神・八幡神を勧請したんだろう。


前橋市鼻毛石町の鼻石。

鼻石 (1)
鼻石 (2)
鼻石は赤城山の噴火時に飛来した噴石とされる。鼻の形をしているからと言われるが、良く分からない。鼻石には石祠が祀られており、神の宿る石「ご神石」として古くから雨乞い信仰の対象であったようだ。

当地が「鼻毛石」と呼ばれるようになったのは鼻石から来ている。「鼻石」「鼻ヶ石」などと表記されることもあったようだが、明治22年(1889年)の町村制施行時には「宮城村大字鼻毛石」となっている。

赤城山南麓には巨石信仰が多く残っており、みな往古の赤城山噴火の噴石や岩屑なだれの集積である。

関連
 「前橋市上大屋町・産泰神社
 「前橋市粕川町深津・七ツ石雷電神社
 「伊勢崎市下触町・観音山万徳寺


前橋市柏倉町の諏訪神社。

柏倉諏訪神社 (1)
柏倉諏訪神社は明応2年(1493年)に信濃国諏訪大社から分霊を勧請したと伝わる。

柏倉諏訪神社 (2)
柏倉諏訪神社 (3)
鳥居扁額には諏訪神社の他、近戸神社と稲荷神社の名も刻されている。近戸神社と稲荷神社は明治40年(1907年)に合祀されている。

柏倉諏訪神社 (4)
柏倉諏訪神社 (5)
社殿は大正3年(1914年)に本殿を改築した際、本殿上屋を拝殿としていた。現在の拝殿は昭和40年(1965年)の建立。

柏倉諏訪神社 (6)
柏倉諏訪神社 (7)
本殿は文政8年(1825年)の建立。大正3年(1914年)、昭和40年(1965年)に改築されている。上屋は昭和40年の改築時に新築建立。

柏倉諏訪神社 (8)
神楽殿は明治2年(1869年)の建築。旧宮城村に現存する唯一の歌舞伎舞台。

柏倉諏訪神社 (9)
神楽殿舞台には稲わらが干してあった。年始用の新しい注連縄を作るためであろうか。

柏倉諏訪神社 (10)
境内に諏訪大社下社秋宮の「三葉の白松」が植樹されていた。諏訪大社実物の切り分けかは不明だが。「三葉の白松」は昭和天皇・皇后両陛下が行幸のおりご覧になったことから「天覧の白松」ともいわれる。

一般的な松葉は二葉だが、下社秋宮の「三葉の白松」はその名の通り三葉で、しかも落葉時に金色になるといわれている。そのため金運と延命長寿のご利益があるとされる。


前橋市富士見町横室の大カヤ。

横室の大カヤ (1)
横室の大カヤは、地元旧家である金澤氏が寛延2年(1749年)に邸外に諏訪神社を祀り、そのご神木としたもの。諏訪神社自体は、明治40年(1907年)に地元の赤城神社に合祀されている。

横室の大カヤ (2)
横室の大カヤ (3)
樹高24.2m、根回り14.4mで、樹齢は1000年以上ともいわれる。日本三大カヤのひとつに数えられている。ちなみにもう2つは、「浜北の大カヤ」(静岡県)、「与野の大カヤ」(埼玉県)である。

かつては秋になると4石(約720リットル)もの実をつけ、食料にしたり油を絞るなどして、地域住民の生活を支えたといわれる。なお、現在もカヤ及び敷地は金澤氏の所有(私有地)のため、見学の際はマナーを守りましょう。


前橋市粕川町稲里の馬頭観音立像と笠かぶり地蔵尊。

馬頭観音石像 (1)
馬頭観音石像 (2)
馬頭観音立像は三面六臂で安山岩製。像高は基壇含め185cm、塔身90cm、延享4年(1794年)稲里村民の建立。

事情は知らないが、修理跡が痛々しい。真っ二つになってしまっていたようだ。

笠かぶり地蔵 (1)
笠かぶり地蔵 (2)
馬頭観音像のすぐ隣にある笠かぶり地蔵尊立像。こちらも延享4年(1794年)の建立。笠をかぶった出生比丘形。台座の連弁も完備している。

どちらも貴重な石造文化財として、前橋市の重文に指定されている(もともと粕川村の重文)。


前橋市粕川町女渕の聖観音堂。

女渕の聖観音堂 (1)
女渕の聖観音堂 (2)
鳥居が建っているが境内には僧侶のお墓らしき石塔もあり、お寺が隣接していようだ。昭和40年(1965年)頃までは多福寺が別当寺(廃寺)だったというのでその名残か。

女渕の聖観音堂 (3)
女渕の聖観音堂 (4)
聖観音堂といわれるが、祀られているのは十一面観音。

女渕の聖観音堂 (5)
木造十一面観音立像は像高175.5cmで、平安時代末の作と推定されている。県内最古級の木彫仏。享保20年(1735年)に修理した旨の墨書が残っている。

十一面観音立像は秘仏であり、60年に1度ご開帳される。内部にそれらしき観音像が見えるが、前立像だと思う。観音像は厨子に納められている。

行基が天平9年(737年)の関東巡教の際に、当地に留まり造立したとの伝承がある。もとは行基ヶ原というところにあったが、後に現在の聖観音堂に納められたという。


前橋市粕川町月田の赤城浅間神社。

赤城浅間神社 (1)
赤城浅間神社 (2)
赤城浅間神社は慶長17年(1612年)石橋平左衛門という者が富士山頂の浅間神社から分霊を勧請し創建したと伝わる。富士山に7度登頂し大願成就した記念のようだ。

写真では分かりづらいが、この鳥居、非常に背が低い。屈まないとくぐれない。

赤城浅間神社 (3)
祠と石塔が置かれているが、どれが何なのかよく分からない。勝手に思うと、写真右の祠が浅間神社か。

赤城浅間神社 (4)
後に赤城神社が合祀されたのだと思うが、手前が赤城神社か? もしかしたら赤城神社は赤城山そのものがご神体で、祠は里宮の位置づけかも。

赤城浅間神社 (5)
「君が代石(さざれ石)」との案内板あった。石そのものは赤城山の噴火時に噴出した花崗岩らしい。小さな石が長い年月を掛け巌になる「君が代」の歌詞のさざれ石。

創建者である石橋家が代々守り続けてきているようで、地域の守り神として「ふじけんさま」と呼ばれ地元の方々から慕われている。


前橋市横沢町の石塔婆。

横沢の石塔婆 (1)
横沢の石塔婆は赤城山から噴出した輝石安山岩製で、頂面に大日如来、南面に観音菩薩、西面に阿弥陀如来、北面に釈迦如来、東面に薬師如来を意味する種子(梵字)が刻まれている。

横沢の石塔婆 (2)
紀年銘は、観音菩薩に暦応2年(1339年)、阿弥陀如来に暦応5年(1342年)、釈迦如来に康永2年(1343年)とあり、3つの年に渡っている。いずれも南北朝期の北朝の年号。どの年も2月18日の観音菩薩の有縁日であることから、観音信仰の対象として造られたものと考えられている。

また、願主の長源子満が康永2年(1343年)に亡くなったと思わせる「辞世敬白」との銘文も刻まれている。

横沢の石塔婆 (3)
付近に宝篋印塔の残片があったが、当地は満福庵という寺院があったらしい。


前橋市大前田町の世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像。

世良田薬師(1)
世良田薬師(2)
世良田薬師堂には、阿弥陀如来坐像と薬師如来坐像が納められている。ちょうと日差しの関係で、薬師如来坐像に直射日光が当たっていて・・・。

世良田薬師(3)
阿弥陀如来坐像は凝灰岩製で、総高70cm、像高42.5cm、総幅48cm、像幅32cm。石材は旧笠懸町の天神山からの産出。上段に連弁が薄肉彫りされた2段の蓮座と舟形光背を持つ。彫刻の手法などから、鎌倉時代後期の造立と推定されている。保存状態が非常に良く、前橋市の重文になっている。

世良田薬師(4)
日差しで見づらいけど、薬師如来坐像。

世良田薬師(5)
世良田薬師(6)
世良田薬師(7)
薬師堂の前には、石仏、仏塔などが多数ある。元々は寺院だった?

世良田薬師(8)
大前田町夜泣き伝説の石「夜泣き石」というのがあった。伝説は調べても分からなかったが、子どもの夜泣きが治るという石か、それとも石が泣くのか?


前橋市堀越町の堀下の仏像群。

堀下の仏像群 (1)
仏像群は、堀越町内のあった長慶寺(廃寺)が明治8年(1875年)に火災に遇い、薬師如来像1体と十二神将像を救出し、現在地に移転したものである。

堀下の仏像群 (2)
中央の薬師如来像は石造で、台座ともに42cm。享和元年(1801年)の銘がある。

堀下の仏像群 (3)
十二神将像は木造で、台座ともに46cm。

お堂に「電話をくれれば説明します」みたいな張り紙があった。事前に知ってればお願いしたんだけどなあ。


前橋市粕川町室沢の八雲神社。

八雲神社 (1)
八雲神社 (2)
八雲神社の由緒は不明。扁額が「八王子」となっているので、八王子神社だったのかもしれない。一般的に八王子神社も八雲神社も祭神は素戔嗚尊なので。

八雲神社 (3)
手水舎(舎でなく鉢か)の竹筒が取れてしまっているのはまだしも、どうやって水を出すのか?

八雲神社 (4)
八雲神社 (5)
八雲神社 (6)
社殿は平成3年(1991年)に改修されている。

八雲の「のんのさま」とはご祭神の素戔嗚尊のことで、詩人・野口雨情は大正14年(1925年)に室沢を訪れた際、「八雲ののんのさま気が荒い 室沢の若衆にゃ手を出すな」と詠んでいる。

八雲神社の秋の例祭は子どもが主役で、子ども相撲が境内の土俵で行われるという。行ったときは、境内が草ボウボウで土俵には気づかなかった。


前橋市粕川町月田の鏡手塚古墳。

鏡手塚古墳 (1)
鏡手塚古墳 (2)
鏡手塚古墳は周堀を含めた最大長50mの前方後円墳で、墳丘部分のみの長さは28m、後円部の直径は17m、高さは3mである。石室は後円部にあり、粕川系の安山岩の自然石を用いた乱石積み片袖型横穴式石室で、全長約6m、最大幅1.3m、高さ1.73mである。

墳丘から人物、馬などの形象埴輪が、石室内部からは直刀五振の他、耳環、鉄鏃などが多数出している。出土遺物、石室の形態などから、6世紀中ころの築造と推定される。

ちょっと面倒くさがって離れた写真しか撮ってない。(上の写真が南側から、下の写真は北側から)


前橋市粕川町月田の壇塚古墳。

壇塚古墳 (1)
壇塚古墳 (2)
壇塚古墳は二段に構築された円墳で、周囲を含めた直径は約40m、墳丘は直径25m、高さ4m。6世紀後半の築造と推定される。

墳丘全面が人頭大の河原石を用いた葺石で覆われ、周堀は墳丘からやや離れて検出し、石室前に「渡り」を設けていた。

壇塚古墳 (3)
壇塚古墳 (4)
石室は粕川系の安山岩の自然石を用いており、乱石積み片袖型横穴式石室。全長7.42m、最大幅2.05m、高さ1.9m。

石室開口部は、埋没防止のため土嚢が積んであるが、埋没しそうな雰囲気。石室内を覗いて見たら、崩落防止の鉄柱が見えた。(写真には写らなかったけど)

遺物は石室入口部から人物、馬、器材などの埴輪類、石室内から直刀三振、小刀二振、刀子、鉄鏃、耳環、玉類などが出土している。また、墳丘部からは家型埴輪や器材埴輪も出土している。


前橋市粕川町女渕の女渕城址。

女渕城址 (1)
女渕城址は「おなぶち城址公園」として整備されている。

女渕城址 (2)
女渕城の築城者・年代は不明だが、戦国時代には武田氏、上杉氏、北条氏などが領有している。

女渕城址 (3)
本丸は東西40m、南北30mと広いが、現在は一面畑となっている。

女渕城址 (4)
女渕城址 (5)
女渕城址 (6)
城址は東西200m、南北450mの広域で、主要郭は南北320m、最大幅90mの水濠の東側に南北に配置されている。

女渕城址 (7)
西曲輪は水濠を挟んで西側にあり、堀を巡らせていた。立派な門があるが何だろう? 橋の手前に「私有地につき立ち入り禁止」の旨あったが、門の奥に民家があるようにも見えない。土地が個人所有になっているということかな。

女渕城址 (8)
二の丸跡は芝生広場として整備されている。三の丸跡は前回紹介した女渕御霊神社が鎮座している。(「前橋市粕川町女渕・御霊神社」参照)

女渕城址 (9)
二の丸と三の丸間の土塁。

女渕城は上杉謙信が平井城(藤岡市)を奪還した永禄3年(1560年)上杉氏勢力下に入る。足利長尾氏(景長)が城主だったが、娘婿の顕長は由良成繁の3男のため、足利長尾氏は由良氏の別働隊となり、由良氏同様北条氏配下に。そのため、女渕城は豊臣秀吉の小田原攻め(天正18年:1590年)時、他の北条方の城同様落城、廃城となっている。


前橋市粕川町女渕の御霊神社。

女渕御霊神社 (1)
女渕御霊神社 (2)
女渕御霊神社は元慶年間(877~85年)に、当地の豪族・南渕秋郷が勧請したといわれる。南渕秋郷は住民から慕われ「御南渕様」と呼ばれており、それが「おなぶち」と変化したのが、「女渕」の地名の始まりという(他説あり)。

女渕御霊神社 (3)
女渕御霊神社 (4)
天文年間(1532~55年)に長尾顕長の家臣・荒井図書允が再興したという。

長尾顕長は由良成繁の3男。足利長尾氏に婿入りし長尾氏を名乗る。ただ、顕長の生まれは弘治2年(1556年)とされているので、「天文年間に家臣が再興」というのは、少し年代がズレているようだ。

女渕御霊神社 (5)
女渕御霊神社 (6)
女渕御霊神社 (7)
女渕御霊神社は女渕城の三の丸(跡)に位置している。当地に遷座したのは安政5年(1858年)。女渕城は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻め時に廃城となっている。

女渕御霊神社 (8)
女渕御霊神社 (9)
女渕御霊神社 (10)
女渕御霊神社には太々神楽が伝わる。明治10年(1877年)に近戸神社(現大胡神社)から伝授された「里神楽」である。曲目は多くあるが、いずれも天下泰平、五穀豊穣を祈るものである。(神楽の写真は群馬県教育文化事業団HPより借用)


前橋市大前田町の諏訪神社。

大前田諏訪神社 (1)
大前田諏訪神社は応永10年(1403年)諏訪大社からの勧請と伝わる。

大前田諏訪神社 (2)
大前田諏訪神社 (3)
拝殿は質素な造りだが、味わいのある古社といった感じ。扁額は薄くなってきており読みづらい。

大前田諏訪神社 (4)
大前田諏訪神社 (5)
本殿はきれいな彫刻が施されている。

大前田諏訪神社 (6)
大前田諏訪神社には獅子舞が伝承されている。
大前田の獅子舞は宝暦年間(1751~63年)に始まったとされ、古くは西原の下の諏訪神社で行われていたが、保存庫が火災にあったとき、獅子頭3体が火の玉となってが今の諏訪神社の方へ飛んで行ったので、それからこの場所で行うようになったという。(写真は群馬県教育文化事業団HPから拝借)

大前田諏訪神社 (7)
伝統の獅子舞を詠った氏子の方の歌碑。

大前田諏訪神社 (8)
よく分からないが、当地は「東福寺」「大前田学校」跡地という標柱があった。大前田諏訪神社の隣には公民館があったので、そこが東福寺跡地で、大前田学校が置かれていたのかも。


前橋市市之関町の住吉神社。

市之関住吉神社 (1)
市之関住吉神社 (2)
市之関住吉神社 (3)
市之関住吉神社の創建は不詳だが、室町時代初期と考えられている。大正5年(1916年)近隣の大山祇神社、稲荷神社、天満宮などを合祀し、住吉神社となっている。

石段左の2本の楓は、末永く寄り添う夫婦にちなんで「夫婦楓」と呼ばれている。

市之関住吉神社 (4)
手水舎はセンサーが付いているようで、近づくと自動的に水が出てきた。

市之関住吉神社 (5)
市之関住吉神社 (6)
社殿は昭和35年(1960年)の改築。拝殿内には前橋市の重文である「狂歌合わせの額」が掲げられているが、見えなかった。

市之関住吉神社 (7)
扁額は平成27年(2015年)の新調。書は中曽根弘文参議院議員。

市之関住吉神社 (8)
宮城流和算家・六本木忠右衛門の門人が、慶応4年(1868年)に奉納した算額。前橋市の重文になっている。

市之関住吉神社 (9)
総欅造りの本殿。と言っても写真では覆屋で見えないが。

宮城地区は江戸時代から寺子屋や私塾が多数あり、学問に打ち込む人々が多く、そのため和算の成果としての算額や、狂歌の額などが奉納されている。

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