上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬の古民家・西洋建築


佐波郡玉村町小泉の重田家住宅。

重田家住宅 (1)
重田家住宅 (2)
重田家は江戸時代の中頃から代々医師を家業としており、初代当主は姫路藩主のお抱え医を務めていたといわれている。当地では昭和25年(1950年)まで開業していた(現在は高崎市内で開業)。

敷地内には住宅兼医院である「主屋」の他、付属建物として「穀蔵」「西の蔵」「東の蔵」「外便所」「井戸屋形」などが現存している。「主屋」と附属建物の多くが、平成13年(2001年)国の登録有形文化財として登録された。

令和3年(2021年)重田家より建造物と敷地、及び周囲の農地が玉村町に寄贈され、現在は玉村町が歴史的な貴重品の数々を整理中である。

表門は明治23年(1890年)、塀は明治25年(1892年)ころのものを、平成23年(2011年)に再建(再現)したもの。

重田家住宅 (3)
重田家住宅 (4)
主屋(住宅兼診療所)。明治16年(1883年)の建築。棟札が残されている。造りは多間取り(6間取り)型の農家住宅を基本とている。中央には式台を供えた立派な玄関があり、重田家の格式を示している。

重田家住宅 (5)
庭の植込みには「登録有形文化財」のプレートが。

重田家住宅 (6)
重田家住宅 (7)
重田家住宅 (8)
近年まで居住していたことから内部は住みやすいように改装されているが、それでも明治から昭和にかけての生活ぶりが偲ばれる(1F)。もちろん、一般庶民とは違うと思うが。

重田家住宅 (9)
重田家住宅 (10)
重田家住宅 (11)
2Fはまだ整理中のようだが、貴重なものがありそうだ。

重田家住宅 (12)
重田家は昭和2年(1927年)に玉村町域で電話が開通した際、旧芝根村の最初の加入者。次に芝根村役場が加入したのは昭和9年(1934年)のこと。

重田家住宅 (13)
重田家にはまだ小中学校にもピアノがない時代からあったという。小中学校の行事の際には、重田家からこのピアノを運んで使用したという。

重田家住宅 (14)
穀蔵。明治31年(1898年)の建造。

重田家住宅 (15)
西の蔵。昭和2年(1927年)の建造。入口は裏側にあるが、現在は主屋とつながり、中から入るようになっている。まだ玉村町のよる整理が進んでおらず、貴重なお宝が出てくるかも(笑)。

重田家住宅 (16)
東の蔵。昭和3年(1928年)の建造。家伝薬の材料保管庫であったとされる。

重田家住宅 (17)
井戸屋形。大正(1912~26年)初期の建築。

重田家住宅 (18)
外便所。昭和元年(1926年)の建築。昭和元年は12月25日~31日までしかないので、正しくは大正15年ではないかな。

重田家住宅 (19)
主屋裏の築山。主屋内から見て楽しめる造りになっているようだ。まだ整備が追いついていない状況。

重田家住宅 (20)
住宅の南にある重田家初代夫妻の墓。向かって右が初代・三郎兵衛英信、左が奥方の墓。奥方は姫路藩主の姫君といわれ、妙光院殿の戒名が刻まれている。院殿号からして藩主の姫君というのもうなづける。台座で調整し高さを合わせているが、墓石そのものは奥方の方が大きいのは、当時の身分が差が理由かな。

初代の墓石には元文(1736~41年)、奥方の墓石には宝永(1704~11年)の年号が刻まれている。没年と推定される。

初代は姫路藩の医師であったということから、松平朝矩の前橋転封により当地へ転居してきたと思っていたのだが、松平家の前橋転封は寛延2年(1749年)なので年代が合わない。まっ、細かいことはいいかな。


前橋市総社町総社の旧山賀酒造レンガ蔵。

旧山賀酒造レンガ蔵 (2)
旧山賀酒造レンガ蔵 (1)
旧山賀酒造のレンガ蔵は昭和2年(1927年)の建築。当時の北海道庁の庁舎を模したといわれる。約600平方mの2階建て瓦葺きで、レンガは英国積み。施行は前橋市石倉町の増田煉瓦(株)。

山賀酒造は明治初めから昭和45年(1970年)まで酒造りをしていた。最盛期は大正末(1920年ころ)で、年間約1,000石(1升瓶で10万本分)ほどの酒を造っていた。銘柄は「二子山」と「山瀬川」。

旧山賀酒造レンガ蔵 (3)
山賀酒造のマーク(商標)も煉瓦なのかな? 屋根瓦に「山」が入っている。

旧山賀酒造レンガ蔵 (4)
井戸の外周壁も煉瓦造り。

内部を改装してレストラン(2店舗)として営業していたが、現在は移転したようで空き倉庫になっているみたいだ。


邑楽郡大泉町寄木戸の不動尊。
宝寿院の境外仏堂である。(「大泉町寄木戸・天徳山宝寿院」参照)

寄木戸不動尊 (1)
寄木戸不動尊 (2)
当地には大正院という不動明王や役行者等を信仰・礼拝する山岳信仰の修験道行者・修験僧の住居を兼ねたお寺(草庵)があった。その境内に大正元年(1912年)に建立されたのが不動堂。

平成25年(2013年)に現在地に移転・改築されている。

寄木戸不動尊 (3)
堂内の不動明王像。

寄木戸不動尊 (4)
お堂前の線刻不動明王像。建立当時の本尊。「成田山」と刻まれていることから、成田山新勝寺の不動尊の分霊を祀ったと考えられる。

この不動尊にお参りすれば、女性は下の世話を受けず心穏やかに末期が迎えられるという言い伝えがある。このことから「ぽっくり不動尊」として、地元はもとより近隣からの参拝も多いという。

懐古庵
ぽっくり不動の隣にある懐古庵。宝珠院の別院。養蚕農家造りの古民家。平成21年(2009年)に宝珠院に寄贈されている。現在は檀徒の方々の集まりや、地域おこしを目的とした各種イベント、地域コミュニティーの場としても活用されている。


渋川市北橘町小室の郷蔵。

郷蔵 (1)
郷蔵 (2)
郷蔵は江戸時代、年貢を一時的に貯蔵するために造られたもので、小室郷蔵の建設年は不明だが、他村の例などから寛延2年(1749年)以前と考えられている。

現在の郷蔵は平成16年(2004年)の修理・復元。間口3間半、奥行3間半で土壁造り。旧北橘村地区ではこの郷蔵のみが現存し、県内でも6例が残るだけの貴重なものである(渋川市のHPから)。

ところで、過去に前橋市・上泉郷蔵とみどり市・桐原郷蔵を訪問したのだが、その際に調べた郷蔵の数が微妙に違う。

前橋市のHPでは「現在残っているものは少なく県内には3例があるだけです」。みどり市のHPでは「群馬県内に現存する郷蔵は4つが文化財指定を受けている」。

まあ細かいところを突つく気はないのだが、前橋市HPに従えば県内の郷蔵には行き尽くしたことになるが、みどり市・渋川市HPに従えばまだ行ってない郷蔵があることになる。と言うことで調べてみると、片品村に「幡谷郷蔵」と「上而郷蔵」があり、いずれも村の重文に指定されていた。

上泉、桐原、小室、幡谷、上而で5つ。みんな違うぞ(笑)。

関連
 「前橋市上泉町・上泉郷蔵
 「みどり市大間々町・桐原郷蔵


伊勢崎市境島村新地の養蚕農家群。

田島弥平旧宅
世界遺産・田島弥平旧宅がある境島村の新地地区には、同様の養蚕農家建築が多数ある。そのいくつかを紹介。(田島弥平旧宅は「世界遺産・田島弥平旧宅」参照)

桑麻館 (1)
桑麻館 (2)
田島弥平の本家にあたる田島武平宅。屋号は桑麻館。
文久3年(1863年)の建築で、木造2階建て入母屋造り、桟瓦葺き。田島武平は弥平とともに、島村養蚕業の指導者として活躍した。

進成館
田島乙三郎宅。屋号は進成館。
江戸時代末(幕末)の建築で、木造2階建て入母屋造り。桟瓦葺きで総櫓。

有鄰館 (1)
有鄰館 (2)
田島平内宅。屋号は有鄰館。
明治元年(1868年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで3つ櫓。

栄盛館
田島定吉宅。屋号は栄盛館。
文久元年(1861年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで3つ櫓。

對青廬 (1)
對青廬 (2)
田島林平宅。屋号は對青廬(たいせいろ)。
慶応2年(1866年)の建築で、木造2階建て切妻造り。桟瓦葺きで総櫓。

すべて田島家だが、みな親戚だという。

当主の名前は建築当時の方。これらの養蚕農家群は、田島弥平旧宅のように文化財指定されているわけでもなく、現在もご子孫が居住されているため、敷地内への立ち入りは不可です。敷地外から、かつ節度をもって見学させてもらいましょう。


伊勢崎市境島村の田島弥平旧宅。
平成25年(2013年)「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産のひとつとして世界遺産に登録された。

田島弥平旧宅 (1)
田島弥平旧宅は文久3年(1863年)に建てられ、1階を住居、2階を蚕室としている。瓦葺きの屋根に「総櫓(やぐら)」と呼ばれる換気のための窓を設けている。これにより、熱がこもるため養蚕農家には向かないとされてきた瓦葺きの住居を可能とした。

弥平旧宅の面積は約4000平方mで、主屋の他に一部の建造物が現存している。(見学は敷地内のみ可能)

田島弥平旧宅 (2)
田島弥平旧宅 (3)
東南を向く表門と、それに隣接する桑場。桑場は明治27年(1894年)の建築。

田島弥平旧宅 (4)
香月楼跡と別荘。香月楼は安政3年(1856年)に建築された2階建て総櫓の蚕室。弥平はこの蚕室で清涼育の実験をしたとされる。香月楼は昭和33年(1958年)に他所へ移築され、基礎の石組だけが残されている(写真ではよく分からない)。

別荘(写真)は2階建て1つ櫓。納屋の一部を切り取り、香月楼に移築・接続。晩年の弥平の隠居所だったといわれる。

田島弥平旧宅 (5)
新蚕室跡。明治5年(1872年)から8年にかけて建てられた2階建ての蚕室。主屋の2階と渡り投下でつながっていた。昭和27年(1952年)に解体された。現在は基壇の石組だけが残る。

田島弥平旧宅 (6)
井戸は主屋が建築された文久3年には、既に存在していた。上屋は大正3年(1914年)の建築。

田島弥平旧宅 (7)
東門。実際は北東向き。隣の小屋は蚕具置き場。

田島弥平旧宅 (8)
庭に建つ貞明皇后行啓紀念碑。大正天皇皇后・貞明皇后が田島家を行啓されたことを記念し、昭和23年(1948年)に建碑。田島弥平が宮中養蚕の世話方として奉仕したため。(本家・田島武平も世話方を務めている)

田島弥平旧宅 (9)
田島弥平旧宅 (10)
敷地内にある鳥居まである屋敷神様。さすがに立派だ。

弥平は養蚕技術の改良を重ね「清涼育」の普及に努め、全国から多くの養蚕伝習生が訪れ研修を受け、その技術を全国に広めていった。

田島弥平に関しては「田島弥平顕彰碑」の方に書いたのでご参照ください。

これで「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成遺産4つを訪問することができた。富岡製糸場と高山社跡は世界遺産登録前に訪問していたけど。
 「日本で最初の 富岡製糸
 「藤岡市高山・高山社跡
 「世界遺産・荒船風穴


渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台。

上三原田の歌舞伎舞台 (1)
上三原田の歌舞伎舞台 (2)
上三原田の歌舞伎舞台は、大工の永井長治郎が上方に修行に行き、帰郷後の文政2年(1819年)、天竜寺境内に建築したと伝えられている。明治15年(1882年)に現在地に移築されている。

舞台の特徴は、三方の板壁を外側に倒して、舞台面を2倍以上の広さにするガンドウ機構。舞台の奥に遠見と呼ぶ背景をつけ、奥行きを深く見せる遠見機構。平舞台いっぱいの回転部を回転させる柱立式廻転機構。二重と呼ぶ小舞台を天井・奈落の双方からせり上げ、せり下ろすセリヒキ機構。これらの機構は全国に例を見ない特殊な機構となっている。

上三原田の歌舞伎舞台 (3)
この舞台での歌舞伎公演は途中何度か中断されたが、地元伝承委員会による舞台操作技術の伝承と古典芸能保存会による地芝居の復活により、現在も歌舞伎が公演されている。

写真は歌舞伎舞台前に設置されている平成13年(2001年)の公演の様子。

上三原田の歌舞伎舞台 (4)
今年(2018年)の公演は11月25日に開催され、こども歌舞伎や農村歌舞伎が上演される予定である。また、来年(2019年)は歌舞伎舞台が作られてから200年にあたる。何か特別な催し物があるかも。

ところで、tvk(テレビ神奈川)が制作し、GTV(群馬テレビ)でも放送されている「キンシオ」って知ってる? イラストレーターのキン・シオタニが街ブラをする番組で、現在は「一文字地名の旅」(関東各地の漢字一文字の地名辺りをブラブラする)というコーナーが中心になっている。それで、渋川市赤城町樽が取り上げられたとき、この歌舞伎舞台を時間を割いて紹介していた。マイナーなローカル番組だけど、けっこう面白いよ。GTVでは月曜の夜11時から放送中。

追記(2019.7.29)
「キンシオ」は土曜日の21時に移動しています。現在は「元号地名の旅」シリーズです。

追記(2022.5.16)
「キンシオ」は終了しました。



渋川市赤城町津久田の人形舞台。
上の森八幡宮の境内にある。
(「渋川市赤城町津久田・上の森八幡宮」参照)


津久田の人形舞台 (2)
人形舞台は文化8年(1811年)に歌舞伎舞台として建造され、後に正面1軒幅の床板が撤去できるように改造し、人形舞台としても使用できるようになっている。

舞台奥の床が2尺6寸(約86cm)上げられ、造りつけ3重になっている他、奥壁・左右壁(1軒幅)にガンドウ返しが設けられ、折畳式底束がつけられた珍しい造りの舞台である。

津久田人形は三人遣いによる文楽の江戸系人形といわれ、38体が現存している。享保8年(1723年)に角田氏一族が「桜座」を結成したと古文書に記されていることから、人形芝居も同時期に始められたと考えられてる。

平成25年(2013年)から津久田人形操作伝承委員会として活動を再開している。


渋川市赤城町津久田の歌舞伎舞台。
津久田赤城神社の境内にある。(「渋川市赤城町津久田・赤城神社」参照)

津久田鏡の森歌舞伎舞台
鏡の森歌舞伎舞台は、明治2年(1867年)の建築と考えれている。間口5間、奥行5間半、入母屋造の固定式農村歌舞伎舞台。内部は平舞台・二重・三重の3部分に分けられ、平舞台左右の板壁は、開演時は外に倒され、舞台面を広げるガンドウ機構になっている。

旧赤城村(現渋川市赤城町)から沼田、水上にかけては、江戸時代から地域芝居として人形浄瑠璃歌舞伎が盛んな地域だった。

旧赤城村には、鏡の森歌舞伎舞台以外にも、上三原田歌舞伎舞台や津久田人形舞台など歴史的な芸能遺構が残されている。


沼田市上発知町の歌舞伎舞台。

上発地知の歌舞伎舞台 (1)
上発地知の歌舞伎舞台 (2)
諏訪神社・武尊神社合祀神社。正式名称は知らない。諏訪神社? 武尊神社?

上発地知の歌舞伎舞台 (3)
上発地知の歌舞伎舞台 (4)
境内にある歌舞伎舞台。

江戸時代の舞台で間口5間・奥行き3間。明治32年(1899年)に改装されている。上下2台の組立下座もあり、歌舞伎に必要な付属品・幕・ふすま・大道具・小道具も保存されている。

舞台を広く立体的に使用するために、迫山車3台・二重引分け2台等、独特の仕掛け装置がある。これらの仕掛け装置を設置すると、間口は約3倍近い大がかりで特異な舞台となる。

平成10年(1998年)に保存修理が行われている。明治時代末には歌舞伎が盛んに演じられていという。


渋川市渋川の旧入沢家住宅。

旧入沢家住宅 (1)
旧入沢家住宅は江戸時代初期(17世紀はじめ)の開口部の少ない農家造りの特徴をよく示している。間口約11間、奥行き約5間半で、総体的に構造が低い。昭和54年(1979年)に渋川八幡宮境内へ移築・復元している。

旧入沢家住宅 (2)
旧入沢家住宅 (3)
旧入沢家住宅 (4)
芯柱の細材や珍しい置床、欄間の桃山風狐、広い土間などは、古さを表している。用材には雑木などが使われ、丸刀の手斧(ちょうな)で仕上げられている。

写真はないが、納戸に帳台構えを付け、就寝用のワラが飛びださないようにしてあり、昔の寝室の様子を伝えている。

実は戸が閉まっていて、中に入れるか分からなかったんだけど、開けてみたら開いたので入っちゃった。さらに真っ暗で何も見えなかったのだが、スイッチがあったので押したら、ひとつ電燈がついたので中の写真がある。

もちろん、電燈を消して、戸をきちんと閉めてきたことは言うまでもない。


前橋市住吉町2丁目の旧安田銀行担保倉庫。

旧安田銀行担保倉庫 (1)
旧安田銀行担保倉庫 (2)
旧安田銀行担保倉庫 (3)
旧安田銀行担保倉庫は大正2年(1913年)に建築された生糸担保倉庫である。その名の通り同行が金を貸し出す際、担保として預かる生糸や繭の倉庫として使われていた。

幅54m、奥行き11mの2階建てで、昭和20年(1945年)8月5日の前橋大空襲でも焼け残った(南側にもう1棟あったが、こちらは焼失している)。

旧安田銀行担保倉庫 (4)
旧安田銀行担保倉庫 (5)
外壁には日本煉瓦製造会社の煉瓦が使用されている。積み上げ方式は横幅37.9cmの長手の段と、横幅27.9cmの小口の段を交互積み重ねたイギリス積みである。

旧安田銀行担保倉庫 (6)
倉庫の入口は3重扉で、写真の1番外側の扉は鉄製で内側に壁土と漆喰が塗りつけてある。2番目の扉は木枠に金網の入った引き戸、1番内側の扉は壁土と漆喰が塗られた引き戸であった。

旧安田銀行担保倉庫は、創建当時の姿を今に伝える貴重な近代化遺産である。


安中市松井田町新堀の旧松井田町役場。

旧松井田役場 (1)
旧松井田役場 (2)
旧松井田町役場は昭和31年(1956年)建築家・白井晟一の設計。平成4年(1992年)に新役場が完成、役場機能は新庁舎に移転。その後は公民館を経て文化財資料室として、町内の遺跡などからの出土遺物を展示していたが、現在は耐震強度上の問題から閉館している。

旧松井田役場 (3)
岩のような壁やカーブしたバルコニーなど、当時としては進歩的な建物であった。

旧松井田役場 (4)
旧松井田役場 (5)
切妻の大屋根を5本の円柱で支える姿は、神殿のように見えるため「畑のパルテノン」とも呼ばれていたらしい。

旧松井田役場 (6)
建物内の見学ができるか聞きに入ったが、先にも書いたように耐震強度の問題で不可であった(職員は常駐している?)。階段の写真は白井晟一。

オレのイメージにある松井田町と、この建物(町役場)がどうにも一致しない。簡単に言うと「この田舎町になぜこの建物が」ということ(笑)。新築時はかなり異彩を放っていたんじゃないかな。

かなり老朽化しているが、貴重な建築物なので補修をして後世に遺すことも考えた方がいいと思う。費用の問題はあると思うが松井田町は安中市になったので(2006年合併)、何とかなるんじゃないの?


館林市本町2丁目の外池商店。

外池商店 (1)
外池商店は江戸時代の創業で、屋号を「和泉屋」という。江戸時代中期、近江の国(滋賀県)から移り込み、造り酒屋を営んでいたが、明治33年(1900年)には味噌、醤油の製造業に変わり、現在は酒の小売業を行っている。

外池商店 (2)
現在の店舗は昭和4年(1929年)の建築で、木造2階建て切妻、瓦葺、平入り、桁行4間、1階正面は下屋が張りだし、2階は格子戸となっている。

敷地内にある蔵は「百々歳蔵(ももぜくら)」と名付けられ、コンサートなどを行うことができるホールとして使用されている。築200年にちなみ、百を2つ重ねた名称のようだ。

同市内の分福酒造店舗(毛塚記念館)と同様町屋の特徴を備えている。
(「館林市本町二丁目・毛塚記念館」参照)


館林市本町2丁目の旧二業見番組合事務所。

旧二業見番組合事務所 (1)
二業とは芸者さんの置屋と料亭のことで、見番はそれらの取次ぎや料金の精算・取り締まりをしたところ。

建物は昭和13年(1938年)に建てられたもので、木造2階建、入母屋、桟瓦葺。1階が下見板張、2階が真壁造、白漆喰仕上げとなっている。正面は左右対称で両側を前に出させる事で、切妻屋根が重なるようになっており、手摺を廻す事で楼閣風の意匠にしている。

旧二業見番組合事務所 (2)
1階が事務所で、2階は芸者さんの稽古場であった舞台付き36畳の大広間がある。3方の壁には松や竹が描かれ、当時の華やかな空間が残されている。

現在は本町2丁目東区民会館として地域の方々に利用されている。ということは、中に入っても良かったのかな?


館林市本町2丁目の毛塚記念館。

毛塚記念館 (1)
毛塚記念館は江戸時代に建築された「分福酒造」の店舗である。分福酒造は江戸時代に創業し、かつて「丸木屋本店」を名乗った造り酒屋である。

毛塚記念館 (2)
毛塚記念館 (3)
建物の正確な建築年は不明だが、地籍図などから江戸時代末と推定されている。

木造2階建て、切妻、瓦葺き、平入、建築面積61平方mで、正面1階部分は下屋が張りだしている。正面は略格子戸で外壁は下見板張り縦押縁押さえ、妻部分のみは真壁造り、白漆喰仕上げ。

昭和50年(1975年)に酒蔵が野辺町に移転、さらに平成9年(1997年)に母屋が取り壊しとなり正面の店舗部分だけが残された。

現在は毛塚記念館として、当時使用した道具や家財、資料などが展示されている。見学してくればよかったと、ちょっと後悔。


藤岡市本郷の町田菊次郎の生家。

町田菊次郎生家 (1)
町田菊次郎生家 (2)
町田菊次郎生家 (3)
高山社2代目社長である町田菊次郎の家で、高山社の分教場としても活用された。

母屋は木造2階建て、切り妻造り、瓦ぶきで屋根で、上には4つの天窓が設けられ、屋内の間取りは高山社跡に残る母屋兼蚕室(明治24年建築)と酷似している。

町田菊次郎
町田菊次郎は高山長五郎の遺志を継いで、明治19年(1886年)2代目社長として清温育の普及に尽力した人物。菊次郎は勧業博覧会でたびたび受賞するなど、高山社の名声を高めている。

明治34年(1901年)には私立甲種高山社蚕業学校を設立(初代校長)、全国から生徒を受け入れて清温育を全国に普及させるのに尽力した。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎頌徳碑
藤岡市藤岡の諏訪神社にある町田菊次郎頌徳碑。

生家にはご子孫が住まわれているので、見学の際は一声かけてから。


吾妻郡高山村中山の三国街道中山宿の本陣跡。

中山宿 (1)
中山宿 (2)
中山宿は本宿と新田宿に分かれ、交代制で業務を営んでいた。これは新田宿本陣跡。

新田宿の本陣は文政年間(1818~30年)に焼失しだが、平形家が問屋であったこともあり、長岡藩主をはじめ三国街道筋の荷主飛脚問屋、その宰領の寄進によって、本陣として復興された。

写真の門屋と母屋の間には殿様が泊まった棟があり、上段の間、違い棚の床の間、畳敷きで木戸の無い風呂場、近臣が控えた次の間、宿札などが当時のまま保存されているという。

中山宿 (3)
中山宿 (4)
本宿の本陣は大正12年(1923年)に火災で焼失し、街道に面した門構のみが残っている。

三国街道は五街道に次ぐ要路として慶長17年(1612年)に整備された。それは天領(直轄地)である佐渡金山の重要性を示している。越後からは金を始めとし、米や海産物が多く輸送されたが、江戸からは「佐渡送り」と呼ばれた金山で労役につく犯罪人や無宿人も多数連行されている。


富岡市一ノ宮の富岡市社会教育館。

富岡市社会教育館 (1)
富岡市社会教育館 (2)
富岡市社会教育館は、昭和11年(1934年)「東国敬神道場」として建築された近代和風の建物である。

富岡市社会教育館 (3)
富岡市社会教育館 (4)
富岡市社会教育館 (5)
昭和9年(1932年)に行われた陸軍特別大演習に昭和天皇が行幸され、貫前神社を参拝された。これをきっかけに県民運動が起こり建設の運びとなった。

富岡市社会教育館 (6)
富岡市社会教育館 (7)
富岡市社会教育館 (8)
富岡市社会教育館 (9)
建設後は群馬県に移管され、県民一般の精神修養の場となった。戦後は「群馬県公民会館」や「群馬県立社会教育館」と改称され、宿泊型の教育施設として県民に利用されてきた。平成17年(2005年)に富岡市に移管されている。

日本の伝統的な建築要素を各所に採用し、和風を強調した見事な建築で、昭和初期の時代背景をうかがい知る貴重な建築物である。

富岡市社会教育館 (10)
それにしても規模が大きい。長い廊下が趣きを増幅しているように感じた。

平成20年(2008年)には国の登録有形文化財に指定されている。


太田市押切町の中島知久平邸。

中島知久平邸 (1)
中島飛行機の創業者・中島知久平が両親のための建てた近代和風建築。写真は表門と門衛所。主屋は昭和5年(1930年)、門衛所は昭和6年(1931年)の上棟。

中島知久平邸 (2)
中島知久平邸 (3)
正面玄関の車寄せ。床には御影石が敷かれている。中央に照明を1基吊り、四周に家紋の彫物を施した蟇股を配している。

玄関を入るとシャンデリアが掛かった22.5畳の玄関広間が広がる。(写真は撮り忘れた)

中島知久平邸 (5)
中島知久平邸 (6)
中島知久平邸 (7)
玄関右手に2間続きの応接室がある。応接間には大理石の暖炉が置かれ、窓やドアにはステンドグラスで装飾されている。知久平邸で洋風になっているのは応接間のみである。

実は現在公開されているのはここまで。耐震強度の問題で、他の部屋、建屋は非公開。太田市では耐震補強を行ったうえで公開予定という。

主屋は、玄関棟、客室棟、居間棟、食堂棟など複数棟からなり、回廊式の構造をとり、中庭を囲んだ「ロ」の字型となっている。主屋南側の前庭から、客室棟と居間棟の一部は見学することができる。

中島知久平邸 (8)
客間棟の次の間は、折上天井でシャンデリアが吊るされている。地袋と軍配片の窓を備えた書院と押入れがあり、押入れの襖絵には波、雲に千鳥が描かれている。

中島知久平邸 (9)
客間(奥はさきほどの次の間)。2基のシャンデリアが吊るされており、棚・床・付書院が見える。現在敷かれている絨毯は、玄関広間に敷かれていたもの。

中島知久平邸 (10)
居間棟の両親居間。年代もののソファーが置かれていた。当時のものかな。

中島知久平邸 (11)
中島知久平邸 (12)
広大な前庭から見た玄関棟(応接間側)と客室棟。下の写真は客室棟を正面から。ちなみに庭は約3000平方m。

中島知久平邸 (13)
建設当時の知久平邸(昭和7年:1932年撮影、太田市のHPから)。写真右側が玄関で、左上が前庭と客室棟。その下が居間棟。(赤字の説明はオレの追記)

中島知久平邸は敷地面積1万平方mを超える大きなもので、当時の知久平の経済力が窺われる。知久平は大正6年(1917年)に中島飛行機の前身会社を設立し、家を建てた昭和5年(1930年)には衆議院議員に当選している。

この当時はもう飛行機王と呼ばれていたんだと思うが、建築費は当時の金額で約100万円。現在の金額に換算するといくら位になるのだろう??


高崎市新町の明治天皇行在所(あんざいしょ)。

明治天皇行在所 (1)
明治天皇行在所 (2)
明治天皇が明治11年(1878年)に北陸・東海道各地の巡幸のおり、官営新町屑糸紡績所に行幸された。その際、新町に宿泊されることになり、行在所を新築し宿泊いただいた。

明治天皇行在所 (3)
明治天皇行在所 (4)
当時は、木造瓦葺き平屋建の本屋と付属家の2棟で、旧中山道に面して正門を設け、周囲は高さ9尺の総板塀で囲い、庭には数株の若松が植えられていた。

翌明治12年(1879年)には、英照皇太后の伊香保行啓時の宿泊所にもなっている。ちなみに、英照皇太后は孝明天皇の女御で、明治天皇の嫡母(実母ではない)。皇后を経ずに皇太后になっている。

行在所を新築して天皇をお迎えしたのは大変珍しいことであったが、建築費788円のうち、県からの借金550円以外は新町住民の方々の寄付で賄われている。


吾妻郡中之条町大字中之条町の白井屋。

白井屋 (1)
白井屋(山崎家)は格子戸や「旅人宿」の看板のある建物。

この辺りは、明治20年代(1887年~)に官庁街となったことから、吾妻郡中から多くの人が訪れるようになり、旅館も足りないということで、明治25年(1892年)頃に居宅を利用して旅館を開業した。

白井屋 (2)
白井屋 (3)
間口7間、奥行5間半、切妻造りの木造2階建てで、2階に客室が6室、1階には玄関・帳場・居宅も含め5室ある。2階はせがい造りで客間の手摺が前に張り出していて、障子窓が当時のまま外部に晒されている。

戦後も衣類などの行商人や富山の薬屋などが利用していたが、時代の変化とともに利用客が減り、昭和54年(1979年)に廃業している。(現在は、会計事務所になっているようだ。)

格子戸や「旅人宿」の看板などは、明治の宿屋の姿をよくとどめている。


吾妻郡中之条町大字中之条町の町田家住宅。

町田家住宅 (1)
町田家住宅は江戸時代末期に建てられた建物で、役宅兼住宅の役割を担った歴史的な屋敷構えである。

町田家は中之条町屈指の旧家で、代々名主を務めている。文化年間(1804~17年)には大総代として村役人の代表を務めている。

町田家住宅 (2)
明治6年(1873年)に群馬県第20大区長につくと、破風造りの玄関から3部屋を役所とし、間もなく検事出張所(警察と裁判所のような役所)も併設している。

町田家住宅 (3)
明治11年(1873年)から明治20年(1887年)までは、吾妻郡役所として利用された。

通称「カクイチ」と呼ばれている。理由は良く知らない。角にあるからと聞いたことがあるような、ないような。


近代化遺産とは、江戸時代末期から昭和20年代(終戦時期)までの間に近代手法によって造られた建造物のことをいう。

今回はノコギリ屋根工場群を3つ紹介。

桐生市東久方町の旧金谷レース工業。
旧金谷レース工業 (1)
旧金谷レース工業 (2)
金谷レース工業のノコギリ屋根工場は、大正8年(1919年)の建築。外壁のレンガは日本煉瓦製造社製である。建築当初のノコギリ屋根は8連であったが、現在は4連となっている。レンガ壁をもつノコギリ屋根工場としては桐生市で唯一の現存建造物である。ノコギリ屋根工場は平成20年(2008年)に改装され、カフェになっている。

桐生市東久方町の旧斎憲テキスタイル工場。
旧斎憲テキスタイル工場 (1)
旧斎憲テキスタイル工場 (2)
斎憲テキスタイル工場は昭和2年(1927年)に建築された大谷石造りの工場。当初は3連だったが増築されて5連となった。現在は酒屋さんのワインセラーとなっている。

桐生市東久方町の旧住善織物工場。
旧住善織物
住善織物工場は大正11年(1922年)に建築された鉄筋コンクリート造りの工場。桐生市に残る唯一の鉄筋コンクリート造りのノコギリ屋根である。現在はアトリエとして利用されている。

桐生市は戦災にあわなかったことから、現在でも建造物をはじめとする多くの近代化遺産が残っている。

そう言えば、以前行った広沢町の「桐生自動車博物館」もノコギリ屋根工場だね(旧飯塚織物工場)。(「桐生市広沢町・桐生自動車博物館」参照)


桐生市本町の矢野本店&有鄰館。

有鄰館 (1)
矢野本店は享保2年(1717年)の創業で、寛延2年(1749年)に現在地に店舗を構えて以来、桐生の商業発展に大きく寄与してきた。店舗は大正5(1916年)の建築で、木造2階建て、切妻、桟瓦葺きで、江戸時代以来の商家建築である。

現在は内部を改装し、矢野園(お茶、お米・喫茶有鄰)として営業致している。

有鄰館 (2)
有鄰館 (5)
有鄰館は矢野本店敷地内に建てられた煉瓦造り建物を含む11棟の歴史的建築物群の総称(旧矢野蔵群)。古いものは天保14年(1843年)建造で、他も明治・大正期に建造されている。

有鄰館 (3)
有鄰館 (6)
煉瓦蔵の外観と内部。煉瓦建造物としては、桐生市最大規模を誇る。

有鄰館(旧矢野蔵群)は、平成6年(1994年)に桐生市に寄贈され、現在はコンサートの舞台や文化・芸術展などの会場として活用されている。


有鄰館 (3)
明治23年(1890年)の矢野蔵群(株式会社 矢野のHPより)。

創業者の矢野久左衛門は近江の商人で、当主は代々久左衛門を名乗り、清酒の醸造から、味噌、醤油の醸造、荒物、染料、薬、呉服と商売を広げている。


前橋市大手町2丁目の群馬会館。

群馬会館 (1)
群馬会館 (2)
昭和天皇即位の記念事業として、1930年(昭和5年)に建築された地上4階、地下1階の県内初の公会堂。

群馬会館 (3)
外装は1階部分が石張りで、2階から上部がスクラッチタイルとモルタルを交互に配している。

1階の主要開口部の上部は、ファンライトと呼ばれる半円形の欄間を取り付け、2階から上部は縦長の窓を採用し、最上部には6角形飾り窓になっている。

群馬県庁や前橋市役所が隣接する行政の中心点にあり、当時盛んに使われたルネサンス様式を採り入れた重厚な建物。館内には、定員410名の多目的ホールや広間・会議室があり、地下には食堂(洋食)などがある。

1983年(昭和58年)の「あかぎ国体」開催時には、天皇陛下と美智子皇后(当時は皇太子ご夫妻)が来県の際、昼食を取られている。

群馬会館は、今日に至っても当時の面影をそのままに、群馬県の文化財として多くの県民に親しまれている。

県庁昭和庁舎と雰囲気が似ているのは、時代背景もあるが設計者が一緒だからかな。


前橋市大手町1丁目の群馬県庁昭和庁舎。

昭和庁舎 (1)
昭和庁舎 (2)
昭和庁舎は昭和3年(1928年)に建設され、平成11年(1991年)まで70年以上の永きにわたり県庁の本庁舎として使用されてきた。

昭和庁舎 (3)
1階外壁を擬石タイル張り、2・3階をスクラッチタイル張りとした昭和初期の典型的洋風建造物。当時としては関東近県で最も先進的な建築技術を駆使した建造物であった。

1階の主要開口部の上部はファンライトと呼ばれる半円形の欄間を取り付け、2階から上部は縦長の窓を採用している。また正面玄関車寄せには大型なアーチ状の開口としている。

昭和庁舎 (4)
昭和庁舎 (5)
1階玄関ホールの壁には名誉県民の方の肖像画が飾られていた。

ちなみに名誉県民は長谷川四郎(元衆議院副議長)、土屋文明(詩人)、福田赳夫(元首相)、福澤一朗(画家)、小渕恵三(元首相)、牛久保海平(元サンデン社長)、星野富弘(画家)、中曽根康弘(元首相)の各氏。また最近、福田康夫(元首相)を名誉県民にする意思を知事が明らかにしている。

昭和庁舎 (6)
2階には群馬県の歴代首相を顕彰する「上州人宰相記念堂」(展示室)がある。

昭和庁舎 (7)
昭和庁舎 (8)
昭和庁舎 (9)
昭和庁舎 (10)
群馬県出身の歴代首相、福田赳夫、中曽根康弘、小渕恵三、福田康夫の各氏に関する事績が展示されている。

まあ、パネルばっかりであんまりおもしろくないけどね(覗き見タイプのちょっとした映像もあるけど。)。

第2次世界大戦終戦時の首相である鈴木貫太郎はカウント外。今の小学生時代(厩橋学校:現 桃井小)に転居してきたから? パンフを見たら、鈴木貫太郎は大阪府でカウントされていた。出生地が大阪だから。確かに群馬県民から見れば、鈴木貫太郎はなじみが薄い。


太田市本町の旧金山図書館。太田公民館の敷地内。

旧金山図書館 (1)
旧金山図書館 (2)
旧金山図書館 (3)
明治・大正時代の太田出身の実業家・葉住利蔵(1866~1926年)が私財を投じて建設、私立の図書館として大正11年(1922年)に開館した。

旧金山図書館 (4)
木造平屋建て、入母屋造り桟瓦葺で、40坪の閲覧室と3坪の玄関からなる。

窓は開閉自在の回転窓で、通風・採光が十分配慮され、図書館機能が建築構造の中によく活かされている。当時の洋風建築の要素を取り入れる一方で、屋根などは和風建築も踏襲しており、和様混合の擬洋風建築と言える。

屋根の鬼瓦(?)には、金山の文字が見える。

建築当時は閲覧室のほか、2階建て土蔵造りの書庫、管理者用の和風住宅が付設されていたが、現在は残っていない。その後、図書館は太田町に寄付され、昭和44年(1969年)まで公立図書館として使用された。現在は太田公民館の別館として使用されている。

時期的なものかもしれないが、正面側に木が多く良い写真が撮れず、全体像は裏からのものでご勘弁を。


太田市世良田町の旧世良田町役場。

旧世良田村役場 (0)
旧世良田村役場庁舎・正門は、昭和3年(1928年)に建設されたもの。

旧世良田村役場 (2)
旧世良田村役場 (3)
鉄筋コンクリート造り2階建ての建物で、正面を南に向きに建てられている。平面形をコの字形とし、正面には玄関ポーチを突き出す形で、基礎・腰部は大理石、外壁はモルタル、華美な装飾を排除した昭和初期の庁舎建築の典型。

平面規模は正面18.4m、側面19.4mで、外部、内部とも改造は少なく建造当初の姿をよくとどめている。現在は「尾島文化財事務所」として使用されている。

旧世良田村役場 (4)
敷地南側の街路沿いにある門柱。鉄筋コンクリート造,大谷石張の門柱4本からなる。主柱は4.5m、左右の脇柱は2mの間隔で立つ。高さ2.1mで、頂部には雪洞灯を設ける。年代、意匠とも庁舎と一連のもので、役場の正面景観を形作っている。

世良田村は明治22年(1889年)の町村制施行に伴い、世良田村、徳川村、上矢島村など12村が合併してできたが、昭和32年(1957年)世良田、徳川など旧5村は尾島町、上矢島村など旧7村は境町にと、分割編入され消滅している。

現在は、平成の大合併で、尾島町は太田市、境町は伊勢崎市になっている。


高崎市八島町の高崎市美術館 & 旧井上房一郎邸。

高崎市美術館 (1)
高崎市美術館は平成3年(1991年)の開館。

優雅に絵を見に行ったと言いたいところだけど、実は旧井上房一郎邸を見に行った。旧井上邸は高崎市美術館の裏にあるのだが、美術館に併設の形になっているので美術館に入らないと旧井上邸に行けない。

井上房一郎邸 (1)
観音山の観音様を建てたことで有名な井上工業の創始者・井上保三郎の長男・房一郎氏が、昭和27年(1952年)に自邸として建てた住宅。

房一郎氏は、井上工業の社長も務めているが、ブルーノ・タウトの招請や群響の創設に尽力するなど文化活動にも大きな足跡を残した。

井上房一郎邸 (2)
井上房一郎邸 (3)
井上房一郎邸 (4)
群馬音楽センターの設計者として有名な建築家アントニン・レーモンドが、東京・麻布に建てた住宅を気に入った房一郎氏がそれを模して建てたもの。

柱筋が外壁からずらされた平面計画や、柱や垂木を二つ割りの丸太で挟み込む「鋏み状トラス」を用いた構法など、レーモンドの住宅建築の特徴が随所に見える。

井上房一郎邸 (5)
井上房一郎邸 (6)
庭園は当時のままなのかは不明だが、よく手入れが行き届き綺麗である。

井上房一郎邸 (7)
旧井上邸の西側には高層マンションが林立しており、その中の平屋との対比が何とも言えない。

↑このページのトップヘ