Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬のお墓・供養塔


渋川市赤城町津久田の角田夢幻道人の遺髪塚。

角田無幻道人の遺髪塚 (1)
入口の標識。微妙に上向きの矢印が気になる。

角田無幻道人の遺髪塚 (2)
琴平山と言うらしいが、獣道に毛が生えた程度の道を上っていく。写真では分かりづらいが、けっこう急坂だ。

角田無幻道人の遺髪塚 (3)
太古の赤城山からの噴石だろうか。大石がゴロゴロしている。

角田無幻道人の遺髪塚 (4)
角田無幻道人の遺髪塚 (5)
角田夢幻道人の遺髪塚。
角田夢幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。

寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。

文化6年(1809年)京で没し真如堂に葬られたが、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

角田無幻道人の遺髪塚 (6)
墓碑銘は聖護院・藤原利恭撰文、中山簡斎の書。他の2面には夢幻書の円頓章が刻まれている。夢幻自身も幼少のころから教学を学ぶ傍ら書にも親しみ、在京中には光格天皇に自筆の千字文を奉呈している。後に「上毛三筆」と称されている。

角田無幻道人の遺髪塚 (7)
遺髪塚の前に2つお墓がある。遺髪塚の建立者(弟子)と無幻の末裔の方のものだという。

ところで、遺髪塚にはけっこうな急坂を上って行くのだが、ここに来る直前に前回紹介した「千石稲荷神社」に行ってきたので、もう疲労困憊。


高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。


高崎市倉渕町三ノ倉の藤鶴姫の墓。

藤鶴姫の墓 (1)
永禄9年(1566年)の箕輪城落城の際、長野業盛夫人・藤鶴姫は家来とともに城を脱出。藤鶴姫は上杉家の出であったため越後を目指したが、当地(高野谷戸)までたどり着いたところで、「オーイ」と呼ぶ家来の声を追手と思い違い自害したといわれる。

藤鶴姫の墓 (2)
家来は当地に藤鶴姫を埋葬、墓を造り供養したと伝わる。

藤鶴姫は19歳のたぐい稀な美貌の姫とされる。墓を穢すと鼻血が出るといい、厚く礼拝すると美人になるとの言い伝えがある。

業盛の子・亀寿丸(2歳)は家臣と落ち延び、和田山極楽院に匿われ後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主になったという。事実とすれば、藤鶴姫も亀寿丸と一緒に極楽院に逃げればよかったのにと思う。

ところで、藤鶴姫を長野業盛の父・業正の夫人とする説もある。藤鶴姫の墓は高崎市(旧倉渕村)の重文になっているが、名称は「箕輪城主夫人 藤鶴姫の墓」となっている。曖昧な名称だが、説明文を読むと業正夫人とある。

一方、現地の解説板(「藤鶴姫墓所の由来」地元関係者一同)には業盛夫人とある。業盛夫人説、業正夫人説のどちらも明確な根拠が有るわけではない。

今回、業盛夫人説をとったのは、落城時19歳なら業盛夫人だろうということもあるが、「姫」と呼ばれているから。前城主(業正)夫人なら、それなりの歳だろうし「◯◯の方」と呼ばれるかなぁと思ったので。


渋川市横堀の根本常南の墓。

根本常南の墓 (1)
根本常南の墓 (2)
根本常南は常陸国の出身で絵を好んで描いていたが、師事する師匠はなく宋画を手本としていた。若くして京都、江戸など諸国を巡り、後に仙台や鎌倉に滞在している。鎌倉では建長寺の誠拙禅師のもとで修行し、名を言成と改めている。

文化8年(1811年)上野国を訪れ、雙林寺に泊まって涅槃図(渋川市重文)を弟子の菅井梅関とともに完成させている。さらに同寺山門の格天井、榛名神社山門の格天井、その他の装飾画を手がけているうちに病にかかり、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812年)に49歳で没している。

墓があるのは、元升屋の寮の庭先である。


渋川市小野子の飯塚大学の石堂。

飯塚大学の石堂 (1)
飯塚大学は白井長尾氏の家臣で、白井城内の「白井の聖堂」で教学に当たったといわれ、「白井聖堂の教学の士」と尊敬を受けた。

石堂は飯塚大学が寛正5年(1464年)に没した後、関係者により天文17年(1548年)に建立された供養石堂。高さ141cm、幅88cm、奥行き88cm。前面に唐草文様、竪連子、幾何学的文様などが刻まれている。小野上地区の石堂では最古のもの。

飯塚大学の石堂 (2)
内部に像が安置されているが、人物像なのか仏像なのか分からない

飯塚大学の石堂 (3)
墓地内にある木の間の宝篋印塔(木の間は字名)。安永6年(1777年)の建立。

この墓地内には天明3年(1783年)浅間山の大噴火による泥流(浅間押し)で亡くなった方々の供養塔があるのだが、ちょっと草が生い茂っていて見つけられなかった。

渋川市金井の岸豊後守積保の墓。

岸豊後守積保の墓 (1)
岸豊後守積保は享保20年(1735年)宮大工の家に生まれる。実技を祖父から伝授され、明和年間(1764~72年)には京都で卜部氏に学び、豊後守の号を授けられるまでになった。

棟梁として神社仏閣建造の指揮を執るとともに、多くの門弟を養成した。妙義神社の総門や伊勢崎市・宝憧院の本堂が代表作である。天明3年(1793年)49歳で没している。

岸豊後守積保の墓 (2)
積保の墓がある墓地は、旧寺院の墓所なのか岸家の墓所なのか不明だが、周りには立派な石塔や石仏が多くある。

関連
 「本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
 「駒井政直・親直の墓 -宝憧院-


渋川市渋川(上郷)の堀口藍園(らんえん)の墓。

堀口藍園の墓
漢学者・堀口藍園の墓。堀口家の墓地にある。文政元年(1818年)生まれの藍園は、木暮足翁、高橋蘭斎に国学、僧周休に漢詩を学ぶ。40歳で江戸・京都へ遊歴し多くの漢学者・漢詩人や勤王の志士らと交わる。

帰郷後は私塾・金蘭吟社にて門弟の教育に力を注ぎ、吉田芝渓から続く渋川郷学を大成し完成させた。明治24年(1891年)74歳で没している。

渋川郷学についてはよく分からないが吉田芝渓が祖とされる。弟子の系譜として木暮足翁、高橋蘭斎、堀口藍園と続く(ようだ)。
*山崎石燕を渋川郷学の祖と呼ぶこともある

藍園墓地の大ケヤキ (1)
墓地内の大ケヤキ。根元周り14m、目通り周8.7m、樹高11m、枝張りは東西12m、南北14m。昭和38年(1963年)までは樹高が27mもあったが、幹の空洞化が進んだため、主幹の9mを残し伐採されてしまった。樹齢は約600年とされる。

藍園墓地の大ケヤキ (2)
藍園墓地の大ケヤキ (3)
現在も内部は空洞が大きいが、治療を施し樹勢を保っている。

渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
 「渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)
 「高橋蘭斎の墓 -遍照寺-


渋川市渋川(並木町)の光明山遍照寺。

遍照寺 (1)
遍照寺の創建は不詳。文化9年(1812年)に全焼。同14年(1817年)に再建されている。

遍照寺 (2)
山門は平成元年(1989年)の新築。

遍照寺 (3)
遍照寺 (4)
本堂は昭和54年(1979年)に内外の改修を行っている。扁額は高橋蘭斎の書。

遍照寺 (5)
高橋蘭斎の墓。
蘭斎は寛政11年(1799年)の生まれ。木暮足翁に和漢などを学ぶ。農家で馬問屋を兼ね名主も務めたが、医師を志し江戸に出て宇田川榕庵に蘭医学を学んだ。帰郷後は医業のかたわら塾を開き、堀口藍園ら多くの門弟を育成した。明治15年(1882年)84歳で死去。

渋川郷学は、山崎石燕-吉田芝渓-木暮足翁-高橋蘭斎-堀口藍園との流れのようだ。堀口藍園に関しては次回。


渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
 「渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)


渋川市渋川(御蔭)の吉田芝渓(しけい)の墓。

吉田芝渓の墓 (1)
吉田芝渓は宝暦2年(1752年)生まれの農学者。弟・翠屛とともに山崎石燕に儒学を学ぶ。寛政5年(1793年)に芝中に新田を開拓。その体験を「開荒須知」「養蚕須知」などに著した。この間に木暮足翁など多くの子弟を教育し「芝中の先生」と呼ばれた。文化8年(1811年)60歳で死去。

芝渓の実学の学風は、木暮足翁・高橋蘭斎・堀口藍園へと受け継がれ、「渋川郷学」と呼ばれるようになって行く。
*山崎石燕も渋川郷学の祖と呼ばれる

吉田芝渓の墓 (2)
吉田芝渓の墓 (3)
吉田芝渓の墓。
門弟の木暮足翁により建立されている。

吉田芝渓の墓 (4)
芝渓の墓の隣には、弟・翠屏の墓もある。

芝渓の墓はこの墓から100mくらいの所にもある。
吉田芝渓の墓 (5)
草が生い茂り、かき分けて中に入らせてもらった。戒名が刻まれている墓石が3つほど確認できたが、どれが芝渓の墓石かは分からなかった。以前は多くの墓石があったようだが、現在は確認できない。

吉田芝渓の墓 (6)
渋川市のHPによると、祖父母・父母・妻らの戒名・没年が彫られた一石を伴う墓石があると書かれているので、これかな? 唯一複数の戒名が刻まれている。

芝渓の墓はもう1ヶ所、ご子孫が建立した墓が渋川市元町にあるともいわれる(つまり計3ヶ所)。

渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚 -雙林寺 その2-
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)


桐生市新宿町の韋提山定善寺。

定善寺 (1)
定善寺 (2)
定善寺は寛永2年(1625年)桑誉了的上人の創建。桑誉了的上人は東京・増上寺の住職(現法主)も務めた高僧。

定善寺 (3)
山門前には呑龍上人像永代安置の碑がある。明治25年(1892年)に大田・大光院の呑龍さんを祀るようになり、定善寺は「呑龍さま」とも呼ばれる。本堂には呑龍さんの像と位牌が安置されている。

定善寺 (4)
定善寺 (5)
江戸末に火災により伽藍は焼失。現在の本堂は嘉永2年(1849年)に再建されている。

定善寺 (6)
定善寺 (7)
境内の不動堂。天井から見つかった棟札によると、元治2年(1865年)に一乗院宝蔵寺に建立されたものと判明した。宝蔵寺(廃寺)から定善寺に移されたようだ。

定善寺 (8)
鐘楼。

定善寺 (9)
高山彦九郎の長男・儀助の墓。義介、義助とも。また3男とも言われる。桐生市の常見家に婿入り、孫の石九郎に高山家を再興させる。安政5年(1858年)没。

定善寺 (10)
定善寺 (11)
大関・秀ノ山(9代横綱)の墓とその弟子・秀の森の墓。なぜ定善寺に秀ノ山の墓があるのか不明だが、かつては墓参する相撲取りも多かったという。ちなみに、現在秀ノ山という名は年寄り名跡として代々受け継がれている。
*番付最高が大関の時代なので、横綱は称号。

定善寺 (12)
カスリーン台風による渡良瀬川・桐生川の水害犠牲者供養碑。昭和22年(1947年)9月に大きな被害をもたらしたカスリーン台風。関東・東北を中心に死者1000名以上を出したが、群馬県でも592人が犠牲になっている。

ところで、定善寺には桑誉了的上人が朝廷より下賜された金で織られた袈裟が寺宝としてあったといわれる。しかし江戸末の火災により行方不明(多分焼失)となった。存在自体が不詳なところもあるが、事実ならなんと惜しいことか。


伊勢崎市境島村の金井烏洲と一族の墓。

金井烏洲と一族の墓 (1)
金井家墓地内に烏洲や父・兄弟・子の墓がある。

金井烏洲の墓
金井烏洲の墓。
烏洲は江戸時代後期の画家、勤皇家。高山彦九郎に師事し、後に頼山陽と交流し勤皇の志を強くしている。画家としては春木南湖の門下。江戸南画壇のひとりとして名を成した。

代表作の「赤壁夜遊図」は伊勢崎市の重文に指定されている。その他、前橋・龍海院や渋川・雙林寺などの大画面障壁画、伊勢崎・勝山神社拝殿の天井格子画なども手がけている。

以前、テレ東の「なんでも鑑定団」に烏洲の掛け軸が出品され、80万円の値が付いた(出張鑑定 IN 伊勢崎)。

烏洲の身内の墓。
金井萬戸の墓
父・萬戸(俳人)の墓。

金井莎邨の墓
兄・莎邨(詩人)の墓。

金井研香の墓
弟・研香(画家)の墓。

金井杏雨
2男・杏雨(画家)の墓。

3男・芸林、4男・之恭も、それぞれ画家、書家。之恭は貴族院議員も務めている。

金井烏洲と一族の墓 (2)
金井烏洲の副碑。昭和4年(1929年)の造立で、題額は東久邇宮妃殿下、撰文・書は渋沢栄一である。ちなみに、渋沢栄一はその功績から明治の人のイメージが強いが、実は昭和6年(1931年)までの長寿をまっとうしている(91歳)。

金井家は新田氏の流れをくむ岩松家の祖とされる岩松時兼の3男・長義から始まるとされる。当時、烏洲家は島村では名の知られた豪農であった。そのため、みな号を持つ文化人としても活動できたし、烏洲は江戸に出ることもできたということ。


太田市大舘町の東楊寺。
東楊寺には津軽藩代官・足立氏の墓があり訪問済みだが、石田三成の娘・辰姫の墓もあるので再訪した。(「津軽藩代官・足立氏の墓 -東楊寺-」参照)

辰姫の墓 (1)
辰姫の墓 (2)
石田三成の三女・辰姫の墓。

津軽藩・津軽家は関ヶ原の戦いの功績により、上野国2千石を加増されている。現在で言うと旧尾島町(現太田市)周辺。旧大舘村には津軽藩の陣屋が置かれ、参勤交代など江戸出府の際には藩主は東楊寺に滞在したという。

辰姫は慶長3年(1598年)ころ、高台院(ねね)の養女となり、慶長15年(1610年)ころ津軽藩2代藩主・信枚(のぶひら)に嫁いでいる。後に家康養女・満天姫が信枚の正妻となったため側室扱いとなった辰姫は大舘村に移され大舘御前と呼ばれていたが、元和9年(1623年)32歳で死去。

ちなみに辰姫は信枚との間に3代藩主・信義をもうけており、信義は大舘で生まれている。



前橋市西大室町の阿弥陀山観昌寺。

観昌寺 (1)
観昌寺の創建は不詳だが、室町初期建立の石塔が多数あることなどから、これ以前の創建と推定される。天文2年(1533年)に慶円上人が中興開山したといわれる。

観昌寺 (2)
山門脇の六地蔵。

観昌寺 (3)
観昌寺 (4)
本堂は明治18年(1885年)に火災で焼失、同23年(1890年)に再建されている。現在の本堂は昭和55年(1980年)の新築建立。

観昌寺 (5)
阿弥陀如来石像(写真手前右)は室町期の造立と推定されている。光背に六地蔵を配している。阿弥陀浄土へ六地蔵が送り届けるという意味を持っていると考えられる。その他にも多数の宝篋印塔などの石塔が並んでいる。

観昌寺 (6)
観昌寺 (7)
大室太郎の墓といわれる多宝塔。
大室太郎は南北朝期の地元豪族といわれるが、よく分からない。

観昌寺は本堂でアンサンブルコンサートや落語会を開催するなど、檀家や地域の皆さんとの交流を図っている。


藤岡市浄法寺の広厳山浄法寺。
前回、見落とした道忠禅師の供養塔を写真に撮るため再訪。
(「伝教大師ゆかりの寺 -浄法寺-」参照)

道忠禅師供養塔 (1)
道忠禅師供養塔 (2)
浄法寺を創建したと伝わる道忠禅師の供養塔。
明応5年(1496年)の建立。「南無阿弥陀仏」の文字が見てとれる。道忠は天台宗ではないが、最澄との関連や浄法寺が天台宗となっていることから、「南無阿弥陀仏」と刻まれたんだろう。

道忠は唐招提寺を開いた鑑真の弟子で、東国を巡って律宗の教えを広めた高僧。その際に、浄法寺を開基したといわれる。道忠から菩薩戒を受けた円澄が最澄の弟子となったことから最澄と知り合い、最澄の天台宗発展のための支援も行っている。

相輪橖
道忠は浄法寺に最澄を招き、ここを東国布教の拠点としたといわれる。浄法寺の相輪橖は弘仁6年(815年)建立で、最澄存命中に完成した2橖の内の1橖。最澄がこの相輪橖の前で説教を行った際には、数万人が集まったと書く資料もあるが・・・。


多野郡上野村乙父の天岩山泉龍寺。

泉龍寺 (1)
泉龍寺は天正3年(1575年)僧・恵翁の開山。慶長3年(1598年)僧・善知がお堂を建立、寺容を整備した。

泉龍寺 (2)
入り口右側に建つ庚申塔。この庚申塔は庚申の文字が100刻まれている「一石百庚申塔」と呼ばれるもの。上野村では唯一。高さ245cm、幅52cmで、江戸末の文久元年(1861年)の銘がある。

泉龍寺 (3)
入り口左側には閻魔大王像。

泉龍寺 (4)
永徳元年(1381年)から同2年にかけて書写された大般若経600巻の内、現存する599巻が所蔵されている宝物庫。ちなみに永徳は南北朝期の北朝の年号。南朝は弘和。

書写は金讃山大光普照寺(埼玉県神川町)などの僧の手により、現在の乙父神社に奉納されたもの。泉龍寺に移った理由は不明。後に100巻余りが焼失したが、江戸時代に複数回にわたり修復されている。焼失の修復なので再書写したということ。

泉龍寺 (5)
本堂脇にある木地師の墓。
高さ48cmの舟形で聖観音像が浮き彫りされており、幼児のものと言われている。上部に菊のご紋があしらわれている。

木地師の墓は同じく上野村の宝蔵寺にもある。
(木地師については「木地師の墓 -上野村・宝蔵寺-」参照)

木地師の墓は、塩ノ沢タルノ沢地内で発見され泉龍寺に移されている。地図で調べたら塩ノ沢って、相当山奥の方だった。木地師が職業がら山奥で生活していたことが分かる。


多野郡上野村新羽の天守山宝蔵寺。

宝蔵寺 (1)
宝蔵寺の由緒は不明だが、天真という僧が当地を行脚中、野栗沢川の川底から阿弥陀如来像を見つけたことから、それを本尊として創建したと伝わる。

天真が天真自性だとすると、南北朝期(1370~80年)の僧なので、その頃の創建か。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
意外に(失礼)立派な山門。よく見ると2階に梵鐘が吊されており鐘楼門であった。

宝蔵寺 (4)
宝蔵寺 (5)
本堂側から見ると梵鐘がよく見える。階段がついているので登らせてもらった。

宝蔵寺 (6)
宝蔵寺 (7)
由緒にある本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。本堂の扁額は「救世殿」。

宝蔵寺 (9)
宝蔵寺 (10)
宝蔵寺は南毛観音霊場の32番札所である。写真は観音堂だと思われるが、扁額は「御巣鷹山」。上野村は江戸時代「山中領(天領)」で、鷹狩り用の鷹を育てていた場所。そのため御巣鷹山という地名(山)がある。

JAL機が不幸にも御巣鷹の尾根に墜落したため、御巣鷹山の名前は全国区になってしまった。

宝蔵寺 (8)
宝蔵寺 (9)
参道脇の木地師の墓。

木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆、木鉢、杓子などの木工用品を加工・製造する職人のこと。文徳天皇(在位850~58年)の第一皇子・惟喬親王が木工技術を伝授したといわれる。

木地師は材木が豊富な場所を10~20年単位で移動し、里人などとの交易で生計を立てていた。木地師は惟喬親王の家臣の末裔を称し、「菊の紋章」の使用が許されていた。そのため、戒名の上に菊の紋章が彫られている。


前橋市本町の高浜山松竹院梅林寺。

松竹院 (1)
松竹院は前橋城内の高浜曲輪内に永禄元年(1558年)に創建。そのため山号を高浜山という。

松竹院 (2)
松竹院 (3)
昭和20年(1945年)の前橋大空襲にて寺は焼失したが、昭和39年(1964年)に再建された。

岩佐空佐
松竹院 (4)
松竹院 (5)
岩佐直治海軍中佐の墓。享年26歳。
岩佐中佐は昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際、「甲標的」と呼ばれる小型潜水艇で海中より決死の攻撃を敢行し戦死した。この決死の攻撃による戦功が評価され「軍神」と呼ばれた。(他の戦死者と合わせた「九軍神」のひとり)

岩佐中佐らの死は連合艦隊の空母機動部隊艦載機による真珠湾攻撃より前で、対米戦初の戦死者である。

甲標的
グアムに残る「甲標的」。
「甲標的」での攻撃は決して「特攻」ではないが、出撃した10名は決死の覚悟であったことは事実である。岩佐中佐は出撃時に「私の最後の任務達成に向けて出撃致します。終いに臨み伊号第二十二潜水艦の武運長久を祈ります。さようなら」と挨拶し、その覚悟が分かる。

計画は真珠湾内に潜入して海底で待機し、艦載機による空襲後に撃ち漏らした敵艦を、装備している2本の魚雷で攻撃、湾外に脱出するというものだったが・・・。

松竹院 (6)
墓所には岩佐中佐の両親に宛てた遺書が碑として建立されている。

松竹院 (7)
当時、「軍神岩佐中佐」という歌が作られている。

良い悪いは別にして、「九軍神」(甲標的による戦死者)は大々的に海軍合同葬が行われるなど、戦意高揚に利用された面もある。しかし、岩佐中佐をはじめとした英霊のおかげで今日の平和・繁栄があることを、現在を生きる我々は決して忘れてはいけない。


伊勢崎市曲輪町の施無畏山善応寺。

善応寺 (1)
善応寺 (2)
善応寺には国定忠治の墓があるのだが、前回訪問時は見つけられなかったので再訪した。
(「小畠武堯の墓 -善応寺-」参照)

国定忠治の墓2 (1)
国定忠治の墓。愛妾のお徳(菊池徳)が、処刑場より遺体の一部を盗み出し、そのうちの片腕を善応寺に預けたとされる。(「国定忠治終焉の地 その2 -処刑場跡-」参照)

国定忠治の墓2 (2)
写真ではよく分からないが、「情深墳」と刻まれている。

国定忠治の墓2 (3)
墓石側面には「嘉永三戌年十二月廿一日 長岡徳」とある。長岡とは忠治の本姓。

国定忠治の墓2 (4)
墓石裏には「念仏百万遍供養塔」。

伊勢崎市国定町・養寿寺の墓石は、忠治の博才にあやかり墓石の角を削って持ち帰る人が多く墓石が丸くなっているが、情深墳は猛々しい性格の女性だったといわれるお徳の怨念が籠もっているとされるため、墓石を削ると「運まで削る」といわれ、建立時の姿を残している。(「国定忠治の墓 -養寿寺-」参照)

善応寺には第2次大戦時の空襲で焼失するまでは、実際に「忠治の片腕」と伝えられるものが保管されていたという。


高崎市吉井町小串の一行山光心寺。

光心寺 (1)
光心寺は、義民・堀越三右衛門の霊を弔うため、寛文8年(1668年)に近郊村民が万日堂を建立したのが始まり。その後、元禄13年(1700年)に三木市右衛門の霊をあわせ弔うため光心寺と改められている。

堀越三右衛門が刑死したのは寛文7年(1667年)、三木市右衛門が獄に繋がれたのが寛文8年(1668年)。また、市右衛門が亡くなったのは元禄12年(1699年)とされる。

光心寺 (2)
光心寺 (3)
光心寺は堀越三右衛門が処刑された跡地に建つ。本堂は享保2年(1717年)に焼失したが、寛保2年(1742年)に再建されている。

光心寺 (4)
堀越三右衛門、三木市右衛門の遺徳碑。平成元年(1989年)の建立。

長谷川勘蔵の墓
墓地には長谷川勘蔵の墓がある。勘蔵は小串村の名主で、江戸幕府設置(8代将軍・吉宗の時)の目安箱へ意見書を出している。勘蔵の「箱訴」といわれる。嘉永3年(1850年)のこと。

幕末の時勢に対し、太平に慣れた上下とも奢侈(しゃし)に流れ、日光東照宮の華麗さ、武家の奢侈と内実の困窮、役人の専横堕落、飢饉対策の不備、江戸の膨張と地方の衰微、などを訴えたもの。

関連
 「義民・堀越三右衛門の墓
 「義民・三木市右衛門の墓


多野郡神流町平原(へばら)の土屋山城守高久の墓。

ここは延命寺というお寺だが、無住で本堂の老朽化が進み、お寺として機能しているか不明のような感じ。土屋山城守高久の墓は本堂の裏山にあるが、墓地として整備されている状態ではない。足を滑らせながらの確認となった。

土屋山城守高久の墓 (1)
土屋山城守高久の墓。
土屋山城守は武田家の家臣で、武田勝頼の嫡男・信勝を上州に落ち延びさせたという伝説を持つ。

通説では、信勝は父・勝頼とともに天正10年(1582年)天目山にて自害している。16歳であった。

しかし下仁田町などに伝わる古文書によると、「勝頼は信勝の身代わりを立てて自害させ、本当の信勝は土屋山城守とともに峠を越え山中領(上野村・神流町)に入り、さらに南牧村に逃れた」(要約)という。

その後、土屋山城守は旧中里村に移り住み、文禄2年(1593年)に当地で亡くなったとされる。

土屋山城守高久の墓 (2)
ちょっと見づらいが、墓石には「文禄二年四月十七日 土屋山城守高久」とある。

土屋山城守が晩年を当地で暮らしていたのは事実のようだ。しかし信勝を落ち延びさせた伝説はどうなんだろう。

ちなみに、信勝は南牧村で過ごしていたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に豊臣方(浪人)とし参陣し、討ち死にしたという。ついでに信勝には3人の男子がいて、長男(信義)が信勝の首級を持ち帰り南牧村に埋葬したという。信義の墓は下仁田町にあるという。

少し興味があるので、見つけに行ってみようかな。


前橋市三河町の狐雲山正幸寺。
真田家改易後、沼田の再検地を行った高須隼人のお墓があるので再訪した。
(以前の訪問記は「徳川家康の8男・仙千代を祀る -正幸寺-」参照)

真田家沼田藩5代・真田信利が、本家松代藩の跡継ぎ争いに破れ、本家と対抗するため表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出したことから領民は飢餓に苦しみ、杉木茂左衛門の直訴騒動を起こし信利は改易された(別要因もあり)。
(「伝・真田信利の墓 -迦葉山弥勒寺 その2-」参照)

高須家は前橋藩主・酒井家の家老職の家柄で、忠世・忠清などが老中として江戸にいることが多かったため、実質地元を取り仕切っていた。代々「隼人」を名乗っている。

真田家改易後、沼田は幕府の天領となり、再検地を行ったのが5代目高須隼人である。

高須隼人の墓 (1)
高須家墓所。寛永6年(1629年)から延享4年(1746年)までの37基の石殿型石塔がある。

高須隼人の墓 (2)
5代目隼人の墓。名を広儒(ひろもと)と言う。
旧真田沼田藩の再検地で、実際以上に重くなっていた年貢が大きく軽減されることになったので、沼田領民からは「お助け縄」と呼ばれ感謝された。5代目隼人は、正徳3年(1713年)に亡くなってている。

酒井氏の姫路転封(寛延2年:1749年)に伴い、高須家も姫路へ移っている。高須家のその後の詳細は不明であるが、天保年間(1831~45年)に断絶したと伝えられている。


安中市松井田町坂本の青松寺。

青松寺 (1)
青松寺 (2)
青松寺の由緒は不明。現在は阿弥陀堂が残るのみ。と言っても、一見物置のような造り。

青松寺 (3)
坂本宿の本陣・金井家の墓。
立派な石塔が数多くある。写真左の大きな石塔は、後から笠を乗せたのかな?

坂本宿は中山道69次の17番目の宿場。碓氷峠と碓氷関所の間にあるため、大名行列のすれ違いのため、本陣が2つあった。上の本陣・佐藤家と下の本陣・金井家。

金井家本陣には、文久元年(1861年)公武合体のため徳川家茂に嫁ぐ和宮内親王が宿泊している。

青松寺 (4)
失礼ながら墓碑を見させていただいたところ、「金井淡路守高勝四男金井源三郎勝治十三代」との記載があったので、倉賀野城主・金井淡路守秀景の末裔のようだ。(金井秀景と金井高勝の関係は分からず)

以前紹介した板鼻宿で牛馬宿を営んでいた金井忠兵衛(旅行記を残す)も金井秀景の末裔といわれている。(「金井忠兵衛の墓」参照)


安中市板鼻1丁目の金井忠兵衛の墓。

金井忠兵衛の墓
金井家墓所にある金井忠兵衛の墓。

金井家は倉賀野城主・金井秀景の末裔といわれ、中山道・板鼻宿で牛馬宿を営んでいた名家。牛馬宿は宿場の本陣・脇本陣に次ぐ宿格で、その名の通り牛や馬などを泊める以外にも幕府役人などの定宿となっていた。

ちなみに本陣は木島家で、幕末の公武合体で14代将軍・徳川家茂に嫁ぐため中山道を下った和宮内親王がご宿泊された書院が残っている。
(「皇女和宮のご泊所 -板鼻本陣跡-」参照)

忠兵衛は旅日記「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」を残したことで、その名を残している。文化5年(1822年)に自身の伊勢神宮、長崎、出雲大社などへの旅の記録。

この旅行記には、各地の宿の食事の内容や、泊まり心地の善し悪しなど、現在のガイドブックブックとグルメ本を合わせたような内容。

さらには、各地の文化風習に加え、どこそこに美人がいたなどの記載もある。長崎では、地元では絶対にお目にかかれない異国人(オランダ人や清国人)や異国船の様子も綴っている。

忠兵衛の「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、末裔が土蔵から発見したものであるが、当時の旅事情のみならず各地の食文化を知る上で大きな役割を果たしている。

なお、この「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、平成3年(1991年)に「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社)として出版されている。


北群馬郡吉岡町南下の金剛寺跡。

金剛寺跡 (1)
金剛寺跡 (2)
金剛寺の創建、廃寺などの由緒は不明だが、現在は不動堂のみが残っている(不動堂のみ後の再建かも)。

金剛寺跡 (3)
金剛寺跡は桃井(東)城の南面にあり、桃井氏ゆかり寺院とされる。境内の宝篋印塔は桃井直常の墓とも供養塔ともいわれる。吉岡町には桃井直常の墓と伝わる五輪塔もある。
(「伝・桃井直常の墓」参照)

宝篋印塔の基礎正面には「浄眼大禅定門應永13年(1408年)」の刻字があるが、基礎や塔身部は後世のもののようである。ただ、笠部などは室町初期の形態を備えている。

直常の墓や供養塔とするには異論もあり、吉岡町の案内板にはその旨は一言も書かれていない。しかし、直常の墓(供養塔)との伝承から、後に基礎や塔身をそれに合わせたとも考えられる(個人的意見、根拠なし)。

金剛寺跡 (4)
不動堂脇にある五輪塔群。直常に従って討ち死にした人々の墓・供養塔ともいわれている。


北群馬郡吉岡町南下の桃井塚。
桃井直常の墓との伝承がある。

桃井直常の墓
桃井直常の墓と伝わる五輪塔(向かって右)。左は直常夫人の供養塔とされる。

直常は元弘3年(1333年)足利尊氏の六波羅探題攻めに従い、室町幕府開府後は若狭守護、伊賀守護、越中守護に任じられている。

観応擾乱(足利直義派と高師直派の対立)では直義側に付き奮闘。その後も反幕府的な軍事行動をおこなっていたが、応安4年(1371年)五位荘の合戦(現在の富山県高岡市)で敗れて消息不明となっている。

その後の行方は分からず、富山市近在で没したとも桃井郷へ帰郷後没したともいわれる。没年は永和2年(1376年)とされるが、定かではない。


邑楽郡千代田町上中森の天徳山授楽寺。

授楽寺 (1)
授楽寺は文禄3年(1594年)鷹山廣俊の開創と伝わる。

授楽寺 (2)
授楽寺 (3)
江戸末の文化15年(1818年)に伽藍が再建されたが、明治43年(1910年)利根川の氾濫により大きな被害を受ける。昭和初期(4~12年にかけ)に檀家・地元の方々の浄財にて再建。

現在の本堂は平成6年(1994年)の新築。

授楽寺 (4)
授楽寺 (5)
無縁墓の一角に初代・紫峰庵夫雪の墓がある。
初代・紫峰庵夫雪は江戸後期の俳人で、常陸国(茨城県)筑波郡の出身。5世太白堂に学び諸国を巡った後、当地に庵を結び多くの弟子を得ている。弘化2年(1854年)97歳で没している。

紫峰庵夫雪の俳号は、確認できただけで4世まで引き継がれている。

授楽寺 (6)
慈母観音像。この観音像の足をなでたところ、足や腰の痛みが和らいだことから、「足なで観音」と呼ばれている。


甘楽郡下仁田町の水戸天狗党戦死者の墓。

下仁田は幕末に尊王攘夷を唱える水戸天狗党と幕府の命を受けた高崎藩との間で、激しい戦闘が行われている。世に言う下仁田戦争(元治元年:1864年)。

下仁田戦争は水戸天狗党が勝利しているが、高崎藩戦死者36名、天狗党死者4名。水戸天狗党の死者4名は、下仁田町内に葬られている(3ヶ所)。

本誓寺 (1)
本誓寺 (2)
下仁田町下仁田の光明山本誓寺。本誓寺には水戸天狗党・久保田藤吉、斎藤仲次の墓がある。

久保田藤吉・斎藤仲次の墓
久保田藤吉、斎藤仲次の墓。
下仁田戦争の中でも安導寺の戦いは激戦地の一つであり、この戦いで両名は戦死している。

野村丑之助の墓
同じく下仁田町下仁田にある野村丑之助の墓。
野村は右手を切り落とされる重傷を負ったことから、足手まといになることを潔しとせず切腹して果てている。なんと、僅か13歳。野村の死は下仁田戦争の悲話として語り継がれている。

義烈照千古の碑
野村の墓の傍らには「義烈千古を照らす」の碑が建つ。碑は昭和16年(1941年)下仁田町旭町内有志が募金を募り建立している。碑文は頭山満。頭山満は明治から昭和前期にかけて活動したアジア主義者の巨頭、玄洋社の総帥。

大曽根繁蔵の墓
同じく下仁田町下仁田にある大曽根繁蔵の墓。
大曽根繁蔵は梅沢峠を見張っていたが、下小坂関口付近で高崎藩と遭遇、安導寺の戦いで戦死している。

里見家蔵 (1)
里見家蔵 (2)
高崎藩の本陣となった里見家の蔵。当時の弾痕が残る。

下仁田戦争は鎧・兜をつけ、槍・刀で白兵戦があった、最後の戦いといわれている。下仁田戦争から4年後、明治の世が訪れ近代国家としての歩みを進めていくことになる。

下仁田戦争関連
 「下仁田町ふるさとセンター歴史民俗資料館」(現、下仁田町歴史館)
 「下仁田戦争の碑 -義烈千秋の碑 & 維新之礎碑-


甘楽郡甘楽町国峰の興巌寺。

興巌寺 (1)
興巌寺 (2)
興巌寺(こうがんじ)の由緒は不明。

興巌寺 (3)
本堂は平成12年(2000年)の新築。本堂新築記念碑に「450余年」とあったので、単純計算で1550年前後、天文から弘治(1532~58年)あたりの創建?

興巌寺 (4)
興巌寺は小幡七福神の大黒天を祀る。

興巌寺 (5)
墓地内にある一石五輪塔。その名の通り、1つの石から彫り出した五輪塔。3基とも天引石(砂岩)で造られている。高さは56~58cmとそれほど大きくない。いずれも直線的な軒型をしており、13~14世紀の造立と推定される。小幡氏、藤田氏の供養塔と伝えられているが、定かではない。

風化のためか火輪と風輪間には亀裂が入っており、分離状態(上に乗っているだけ)になっている。

興巌寺 (6)
興巌寺 (7)
墓地内に「国峯城主 小幡氏歴代」という碑があったので、その後ろを見たら小幡氏歴代の墓(宝篋印塔)があった。塔身部は後世のもののようだが、そこには「顕高」「信龍斎全賢(憲重)」「泉龍斎聖賢(不明)」「信定」「重定」「信貞」「信真」の名がみえる。
*( )内はオレの記載

小幡氏に関しては詳しくないが、顕高、憲重、信貞は親子孫の関係で、顕高の法名が「興巌宗賢庵主」とあったので、勝手な想像を働かせると、興巌寺は憲重が父・顕高の菩提を弔うため創建したのかも。

後付けの塔身部に弘治3年(1557年)ともあったので、単純計算からの創建推定年とだいたい合っている。うぅ~ん、自己満。(一石五輪塔の年代とは、ちょっと合わないけど・・・)

ちなみに、小幡氏歴代の墓は宝積寺にもある。
 「小幡氏歴代の墓 -宝積寺-


館林市北成島町の大谷休泊の墓。

大谷休泊の墓 (1)
大谷休泊の墓 (2)
大谷休泊は戦国期の農政家。関東管領・山内上杉憲政の下で、農業事業や開拓事業を執り行っていたが、天文21年(1552年)に平井城が北条氏に攻められ憲政が越後に逃げると、館林城の長尾顕長に招かれ、館林周辺の開発事業を行った。

渡良瀬川から、後に「上休泊堀」と名付けられる堀を掘り、新田開発を進めた。また、多々良沼からも「下休泊堀」を掘り、同様に開墾を進めた。その結果、多くの新田が誕生し農業生産力は飛躍的に向上した。

さらには、150万本もの松を植林し、「大谷原山林」を造成。これは防風林としての役目を果たし、現在もその一部が残っている。

大谷休泊の墓 (3)
墓地は「大谷休泊記念公園」として整備され、休泊の事業を示す大きな解説板も立っている。

休泊は天正6年(1578年)57歳で没している。



館林市高根町の妙高山龍興寺。

龍興寺 (1)
龍興寺 (2)
龍興寺 (3)
龍興寺の由緒は不明だが、天正年間までは高根寺と称していたと考えられる(北条氏邦が出した天正12年(1584年)の虎印制札に高根寺とあるため)。

榊原康政の家老・原田種政が中興開基したとの謂れもあるので、龍興寺となったのは、康政が館林に入った天正18年(1590年)以降と思われる。

龍興寺 (4)
参道脇にある五輪塔。非常に立派な五輪塔である。中興開基の原田種政の墓(五輪塔)があるということだったので、これが原田種政の墓ではないかと勝手に推定。

原田種政は九州肥前の豪族・原田種高の三男で、種高の死後徳川家康に仕える。天正10年(1582年)の徳川家と北条家の合戦の際に功名をあげ、榊原康政が家康に頼み家臣にもらい受け、家老として重用したといわれる。寛永5年(1628年)に73歳で没している。

龍興寺 (5)
境内にある館林市多々良地区の戦没者供養塔「英霊之碑」。館林市には戦没者を祀る施設が多い。祖国のために散った英霊をお祀りすることは当然であり、また素晴らしいことである。

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