上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬のお墓・供養塔


高崎市新町の竹本百合太夫の墓。

竹本百合太夫の墓
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓。
百合太夫は文政年間(1818~31年)に新町に来て、横山家(屋号・金子屋)の養子となり、義太夫の師匠として天保3年(1832年)に没している。享年51。

竹本土佐太夫&百合太夫の墓
すぐ隣(向かって左)には、太夫・竹本土佐太夫の墓がある。
(「義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓」参照)

新町を中心に、多野藤岡地域では義太夫が盛んに行われるようになり、また著名な太夫も輩出している(藤岡出身の6代目・大西東造、吉井出身の7代目大西東造など)。これは江戸で活躍した百合太夫、土佐太夫が晩年を新町で過ごしたことが大きな要因である。

実は竹本土佐太夫の墓を訪問したとき、隣に百合太夫の墓があることは知っていたのだが、百合太夫の墓との確証が持てなかったので、紹介していなかった。今回、夫人の名が調べられ、墓石にその名も確認できたので紹介した。


藤岡市本郷の喜雲山龍田寺。

龍田寺 (1)
龍田寺は天正19年(1591年)依田呂郷が父・守芳の菩提を弔うために開基・創建した。開山は信州・信広寺第4世・大岫全察。

依田氏は同年に藤岡城主となっているが、嫡流のみ芦田氏を称して傍流は依田氏で通している。守芳・呂郷父子についてはよく分からないが、芦田50騎に依田姓が8騎いるので、傍流依田氏の家系と考えられる。

山門は平成27年(2015年)に改修されている。

龍田寺 (2)
本堂は万延元年(1860年)に火災で焼失、元治元年(1864年)に再建されている。現在の本堂を見ると、もう少し新しそうである。

龍田寺 (3)
本堂裏には位牌堂がある。立派な位牌堂である。

龍田寺 (4)
境内の宝篋印塔には宝暦8年(1758年)の銘があった。

町田菊次郎
町田菊次郎は地元本郷の出身で、高山長五郎の清温育の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)高山社2代目社長に就任。明治34年(1901年)には高山社蚕業学校を設立するなど、養蚕の担い手育成に務めた。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎の墓 (1)
町田菊次郎の墓 (2)
町田家墓所内の菊次郎の墓。左右の側面・裏面の3面には、菊次郎の経歴や業績がびっちり刻まれている。

関連
 「高山社2代目社長・町田菊次郎生家


藤岡市藤岡の福聚山天龍寺。

天龍寺 (1)
天龍寺は天正19年(1591年)芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝の室・了源院が栗須村の長源寺を城下に移したのが始まり。文禄2年(1593年)に一宇を建立し天龍寺と改称している。なお、長源寺跡は天龍寺の境外堂(祖師堂)となっている。
(祖師堂は「藤岡市下栗須・祖師堂(長源寺跡)」参照)

慶長5年(1600年)に康勝が大坂で不始末を犯し改易となると寺運も衰えたが、正保4年(1648年)に日自により再興されている。

天龍寺 (2)
天龍寺 (3)
山門は嘉永4年(1851年)の建立。

天龍寺 (4)
天龍寺 (5)
本堂も嘉永4年の建立とされる。現在の本堂見ると、近年の再建もしくは改築と思われる。

天龍寺 (6)
天龍寺 (7)
天龍寺 (8)
「庚申尊」の扁額の掛かったお堂。中を見ても何なのか分からなかった。中央の御簾内は青面金剛か馬頭観音だろうか。

天龍寺 (9)
天龍寺 (10)
鬼子母神堂の由緒は不明だが、鬼子母神は法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多い。

天龍寺 (11)
芦田康勝の室・了源院の墓。了源院は寺地を寄進し長源寺を当地に移し、芦田氏の祖・光徳の室(蘭庭院)の菩提を弔った。芦田氏の菩提寺である光徳寺は曹洞宗のため、法華教に深く帰依していた了源院は長源寺を移したのだろう。


藤岡市下栗須の祖師堂。

下栗須祖師堂 (1)
祖師堂は文永8年(1271年)日蓮宗開祖・日蓮が佐渡島に配流される際に宿泊した長谷川長源の屋敷跡。日蓮に帰依した長源夫妻は屋敷を寺(長源寺)とした。

下栗須祖師堂 (2)
下栗須祖師堂 (3)
天正19年(1591年)に芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝の室・了源院が城下に社地を寄進し、長源寺を移している。長源寺は文禄2年(1593年)に天龍寺と改称。旧長源寺跡地に一堂を建立し、日蓮の聖跡として護持してきたのが祖師堂である。現在のお堂は大正14年(1925年)の建立。

下栗須祖師堂 (4)
境内に建つ日蓮像。文永11年(1274年)に赦免された日蓮は佐渡島からの帰還途上、再度長源宅に寄るとお寺になっていたことを悦び、長源寺所蔵の大黒天像(福聚大黒天)を開眼した。その大黒天像も天龍寺に移され宝物となっている。

下栗須祖師堂 (5)
下栗須祖師堂 (6)
境内のお堂内には荼枳尼天らしき仏像があった。文殊菩薩じゃないと思うけど(自信なし)。

下栗須祖師堂 (7)
長谷川長源夫妻の墓。長源の元姓は栗生というが、日蓮が鎌倉に帰る途中まで送った際に、長谷川という川の名にちなみ姓にするよう日蓮から勧められ長谷川としたという。


高崎市大八木町の慈眼山妙音寺。

妙音寺 (1)
妙音寺は元和9年(1623年)の創建。正徳3年(1713年)に融通寺を合併した際に、現在の妙音寺に改称している。

妙音寺 (2)
山門前のペンギンの石像。意味合いは不明だが、可愛いからOK?

妙音寺 (3)
本堂は延享4年(1747年)の建立。大正4年(1915年)に屋根の葺き替え、昭和61年(1986年)に大改修を行っている。

妙音寺 (4)
妙音寺 (5)
観音堂には十一面観音を祀る。観音堂も延享4年の建立で、昭和61年に改修されている。

妙音寺 (6)
寛保2年(1742年)建像の釈迦如来坐像。寛保2年と言えば、台風による利根川の氾濫などで関東一円に大被害をもたらしている。その供養も兼ねての建像かな。

妙音寺 (7)
上記の釈迦如来坐像と並ぶようにある石塔には「先玉尊霊」とある。明治3年(1870年)8月の銘があり、山門前に出没した熊を村総出で退治した記念碑兼熊の墓(慰霊碑)だという。

当時のこの辺の山野は想像できないが、普通に熊が出る環境だったんだね。


渋川市北橘町上箱田の石田伍助の供養塔。

石田伍助の供養塔
石田伍助は旧北橘村に2名いたとされる男性助産師。取り上げられた子どもたちが「産子(うぶこ)」として、明治43年(1910年)に建立したもの。台座には建立に関わった192名の名前が刻まれている。

現在は「保健師助産師看護師法」の第3条に、「この法律において『助産師』とは、厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、褥婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子をいう」と規定されており、男性は助産師資格を取得できない。当然、助産師国家試験の受験資格も「女性」のみとなっている。


渋川市上白井の天霊山空恵寺。
前回訪問時(2012年)長尾氏累代の墓を見つけられなかったので、捲土重来を期し再訪。(「渋川市上白井・天霊山空恵寺 」参照)

空恵寺2 (1)
前回、本堂裏の洞窟みたいなところでくじけたが、よく見ると左に行く細い道があった。草木をかき分けてみたいな感じで坂を上って行く。途中何か分からないが建物があったが、それを無視しさらに上って行く。

空恵寺2 (2)
ありました。長尾氏累代の墓。
長尾氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。鎌倉時代末から南北朝期に上杉家の家臣となり、上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として各地に諸家を分立させ繁栄している。

空恵寺2 (3)
中央の宝篋印塔は、長尾氏祖先・鎌倉権五郎景正、もしくは白井長尾氏の祖・長尾景熙の墓といわれる。これは渋川市の解説板の内容。真偽は分からない。

調べてみたところ、鎌倉権五郎から長尾景弘(長尾氏初代)が出ているのは確かなようだ。また、白井長尾氏の祖は清景とする資料が多いが、清景と景熙の関係は分からない。

ちなみに、鎌倉権五郎を祀る五郎神社というのが伊勢崎市にある。
(「伊勢崎市太田町・五郎神社」参照)

空恵寺2 (4)
空恵寺2 (5)
17基の宝篋印塔・宝塔が並んでいるが、そのうち15基が長尾氏関係の墓とされる。景仲(3代)、景春(5代)など一部の台石には銘も残っているが、倒壊などに伴う積み替えで、原型をとどめているものはないようだ。

ただ、空恵寺が白井長尾氏の菩提寺で、これらの墓碑が長尾氏のものであることは間違いないこと。


渋川市赤城町津久田の角田夢幻道人の遺髪塚。

角田無幻道人の遺髪塚 (1)
入口の標識。微妙に上向きの矢印が気になる。

角田無幻道人の遺髪塚 (2)
琴平山と言うらしいが、獣道に毛が生えた程度の道を上っていく。写真では分かりづらいが、けっこう急坂だ。

角田無幻道人の遺髪塚 (3)
太古の赤城山からの噴石だろうか。大石がゴロゴロしている。

角田無幻道人の遺髪塚 (4)
角田無幻道人の遺髪塚 (5)
角田夢幻道人の遺髪塚。
角田夢幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。

寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。

文化6年(1809年)京で没し真如堂に葬られたが、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

角田無幻道人の遺髪塚 (6)
墓碑銘は聖護院・藤原利恭撰文、中山簡斎の書。他の2面には夢幻書の円頓章が刻まれている。夢幻自身も幼少のころから教学を学ぶ傍ら書にも親しみ、在京中には光格天皇に自筆の千字文を奉呈している。後に「上毛三筆」と称されている。

角田無幻道人の遺髪塚 (7)
遺髪塚の前に2つお墓がある。遺髪塚の建立者(弟子)と無幻の末裔の方のものだという。

ところで、遺髪塚にはけっこうな急坂を上って行くのだが、ここに来る直前に前回紹介した「千石稲荷神社」に行ってきたので、もう疲労困憊。


高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。


高崎市倉渕町三ノ倉の藤鶴姫の墓。

藤鶴姫の墓 (1)
永禄9年(1566年)の箕輪城落城の際、長野業盛夫人・藤鶴姫は家来とともに城を脱出。藤鶴姫は上杉家の出であったため越後を目指したが、当地(高野谷戸)までたどり着いたところで、「オーイ」と呼ぶ家来の声を追手と思い違い自害したといわれる。

藤鶴姫の墓 (2)
家来は当地に藤鶴姫を埋葬、墓を造り供養したと伝わる。

藤鶴姫は19歳のたぐい稀な美貌の姫とされる。墓を穢すと鼻血が出るといい、厚く礼拝すると美人になるとの言い伝えがある。

業盛の子・亀寿丸(2歳)は家臣と落ち延び、和田山極楽院に匿われ後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主になったという。事実とすれば、藤鶴姫も亀寿丸と一緒に極楽院に逃げればよかったのにと思う。

ところで、藤鶴姫を長野業盛の父・業正の夫人とする説もある。藤鶴姫の墓は高崎市(旧倉渕村)の重文になっているが、名称は「箕輪城主夫人 藤鶴姫の墓」となっている。曖昧な名称だが、説明文を読むと業正夫人とある。

一方、現地の解説板(「藤鶴姫墓所の由来」地元関係者一同)には業盛夫人とある。業盛夫人説、業正夫人説のどちらも明確な根拠が有るわけではない。

今回、業盛夫人説をとったのは、落城時19歳なら業盛夫人だろうということもあるが、「姫」と呼ばれているから。前城主(業正)夫人なら、それなりの歳だろうし「◯◯の方」と呼ばれるかなぁと思ったので。


渋川市横堀の根本常南の墓。

根本常南の墓 (1)
根本常南の墓 (2)
根本常南は常陸国の出身で絵を好んで描いていたが、師事する師匠はなく宋画を手本としていた。若くして京都、江戸など諸国を巡り、後に仙台や鎌倉に滞在している。鎌倉では建長寺の誠拙禅師のもとで修行し、名を言成と改めている。

文化8年(1811年)上野国を訪れ、雙林寺に泊まって涅槃図(渋川市重文)を弟子の菅井梅関とともに完成させている。さらに同寺山門の格天井、榛名神社山門の格天井、その他の装飾画を手がけているうちに病にかかり、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812年)に49歳で没している。

墓があるのは、元升屋の寮の庭先である。


渋川市小野子の飯塚大学の石堂。

飯塚大学の石堂 (1)
飯塚大学は白井長尾氏の家臣で、白井城内の「白井の聖堂」で教学に当たったといわれ、「白井聖堂の教学の士」と尊敬を受けた。

石堂は飯塚大学が寛正5年(1464年)に没した後、関係者により天文17年(1548年)に建立された供養石堂。高さ141cm、幅88cm、奥行き88cm。前面に唐草文様、竪連子、幾何学的文様などが刻まれている。小野上地区の石堂では最古のもの。

飯塚大学の石堂 (2)
内部に像が安置されているが、人物像なのか仏像なのか分からない

飯塚大学の石堂 (3)
墓地内にある木の間の宝篋印塔(木の間は字名)。安永6年(1777年)の建立。

この墓地内には天明3年(1783年)浅間山の大噴火による泥流(浅間押し)で亡くなった方々の供養塔があるのだが、ちょっと草が生い茂っていて見つけられなかった。


渋川市金井の岸豊後守積保の墓。

岸豊後守積保の墓 (1)
岸豊後守積保は享保20年(1735年)宮大工の家に生まれる。実技を祖父から伝授され、明和年間(1764~72年)には京都で卜部氏に学び、豊後守の号を授けられるまでになった。

棟梁として神社仏閣建造の指揮を執るとともに、多くの門弟を養成した。妙義神社の総門や伊勢崎市・宝憧院の本堂が代表作である。天明3年(1793年)49歳で没している。

岸豊後守積保の墓 (2)
積保の墓がある墓地は、旧寺院の墓所なのか岸家の墓所なのか不明だが、周りには立派な石塔や石仏が多くある。

関連
 「富岡市妙義町妙義・妙義神社 その2
 「駒井政直・親直の墓 -宝憧院-


渋川市渋川(上郷)の堀口藍園の墓。

堀口藍園の墓
漢学者・堀口藍園の墓。堀口家の墓地にある。文政元年(1818年)生まれの藍園は、木暮足翁、高橋蘭斎に国学、僧周休に漢詩を学ぶ。40歳で江戸・京都へ遊歴し多くの漢学者・漢詩人や勤王の志士らと交わる。

帰郷後は私塾・金蘭吟社にて門弟の教育に力を注ぎ、吉田芝渓から続く渋川郷学を大成し完成させた。明治24年(1891年)74歳で没している。

渋川郷学についてはよく分からないが吉田芝渓が祖とされる。弟子の系譜として木暮足翁、高橋蘭斎、堀口藍園と続く(ようだ)。
*山崎石燕を渋川郷学の祖と呼ぶこともある

藍園墓地の大ケヤキ (1)
墓地内の大ケヤキ。根元周り14m、目通り周8.7m、樹高11m、枝張りは東西12m、南北14m。昭和38年(1963年)までは樹高が27mもあったが、幹の空洞化が進んだため、主幹の9mを残し伐採されてしまった。樹齢は約600年とされる。

藍園墓地の大ケヤキ (2)
藍園墓地の大ケヤキ (3)
現在も内部は空洞が大きいが、治療を施し樹勢を保っている。

渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚・最大山雙林寺 その2
 「渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)
 「高橋蘭斎の墓・光明山遍照寺


渋川市渋川(並木町)の光明山遍照寺。

遍照寺 (1)
遍照寺の創建は不詳。文化9年(1812年)に全焼。同14年(1817年)に再建されている。

遍照寺 (2)
山門は平成元年(1989年)の新築。

遍照寺 (3)
遍照寺 (4)
本堂は昭和54年(1979年)に内外の改修を行っている。扁額は高橋蘭斎の書。

遍照寺 (5)
高橋蘭斎の墓。
蘭斎は寛政11年(1799年)の生まれ。木暮足翁に和漢などを学ぶ。農家で馬問屋を兼ね名主も務めたが、医師を志し江戸に出て宇田川榕庵に蘭医学を学んだ。帰郷後は医業のかたわら塾を開き、堀口藍園ら多くの門弟を育成した。明治15年(1882年)84歳で死去。

渋川郷学は、山崎石燕-吉田芝渓-木暮足翁-高橋蘭斎-堀口藍園との流れのようだ。堀口藍園に関しては次回。


渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚・最大山雙林寺 その2
 「渋川郷学の祖・吉田芝渓の墓
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)


渋川市渋川(御蔭)の吉田芝渓(しけい)の墓。

吉田芝渓の墓 (1)
吉田芝渓は宝暦2年(1752年)生まれの農学者。弟・翠屛とともに山崎石燕に儒学を学ぶ。寛政5年(1793年)に芝中に新田を開拓。その体験を「開荒須知」「養蚕須知」などに著した。この間に木暮足翁など多くの子弟を教育し「芝中の先生」と呼ばれた。文化8年(1811年)60歳で死去。

芝渓の実学の学風は、木暮足翁・高橋蘭斎・堀口藍園へと受け継がれ、「渋川郷学」と呼ばれるようになって行く。
*山崎石燕も渋川郷学の祖と呼ばれる

吉田芝渓の墓 (2)
吉田芝渓の墓 (3)
吉田芝渓の墓。
門弟の木暮足翁により建立されている。

吉田芝渓の墓 (4)
芝渓の墓の隣には、弟・翠屏の墓もある。

芝渓の墓はこの墓から100mくらいの所にもある。
吉田芝渓の墓 (5)
草が生い茂り、かき分けて中に入らせてもらった。戒名が刻まれている墓石が3つほど確認できたが、どれが芝渓の墓石かは分からなかった。以前は多くの墓石があったようだが、現在は確認できない。

吉田芝渓の墓 (6)
渋川市のHPによると、祖父母・父母・妻らの戒名・没年が彫られた一石を伴う墓石があると書かれているので、これかな? 唯一複数の戒名が刻まれている。

芝渓の墓はもう1ヶ所、ご子孫が建立した墓が渋川市元町にあるともいわれる(つまり計3ヶ所)。

渋川郷学関連
 「山崎石燕の墓と鳥酔翁塚・最大山雙林寺 その2
 「真光寺の重要文化財」(木暮足翁の墓)


桐生市新宿町の韋提山定善寺。

定善寺 (1)
定善寺 (2)
定善寺は寛永2年(1625年)桑誉了的上人の創建。桑誉了的上人は東京・増上寺の住職(現法主)も務めた高僧。

定善寺 (3)
山門前には呑龍上人像永代安置の碑がある。明治25年(1892年)に大田・大光院の呑龍さんを祀るようになり、定善寺は「呑龍さま」とも呼ばれる。本堂には呑龍さんの像と位牌が安置されている。

定善寺 (4)
定善寺 (5)
江戸末に火災により伽藍は焼失。現在の本堂は嘉永2年(1849年)に再建されている。

定善寺 (6)
定善寺 (7)
境内の不動堂。天井から見つかった棟札によると、元治2年(1865年)に一乗院宝蔵寺に建立されたものと判明した。宝蔵寺(廃寺)から定善寺に移されたようだ。

定善寺 (8)
鐘楼。

定善寺 (9)
高山彦九郎の長男・儀助の墓。義介、義助とも。また3男とも言われる。桐生市の常見家に婿入り、孫の石九郎に高山家を再興させる。安政5年(1858年)没。

定善寺 (10)
定善寺 (11)
大関・秀ノ山(9代横綱)の墓とその弟子・秀の森の墓。なぜ定善寺に秀ノ山の墓があるのか不明だが、かつては墓参する相撲取りも多かったという。ちなみに、現在秀ノ山という名は年寄り名跡として代々受け継がれている。
*番付最高が大関の時代なので、横綱は称号。

定善寺 (12)
カスリーン台風による渡良瀬川・桐生川の水害犠牲者供養碑。昭和22年(1947年)9月に大きな被害をもたらしたカスリーン台風。関東・東北を中心に死者1000名以上を出したが、群馬県でも592人が犠牲になっている。

ところで、定善寺には桑誉了的上人が朝廷より下賜された金で織られた袈裟が寺宝としてあったといわれる。しかし江戸末の火災により行方不明(多分焼失)となった。存在自体が不詳なところもあるが、事実ならなんと惜しいことか。


伊勢崎市境島村の金井烏洲と一族の墓。

金井烏洲と一族の墓 (1)
金井家墓地内に烏洲や父・兄弟・子の墓がある。

金井烏洲の墓
金井烏洲の墓。
烏洲は江戸時代後期の画家、勤皇家。高山彦九郎に師事し、後に頼山陽と交流し勤皇の志を強くしている。画家としては春木南湖の門下。江戸南画壇のひとりとして名を成した。

代表作の「赤壁夜遊図」は伊勢崎市の重文に指定されている。その他、前橋・龍海院や渋川・雙林寺などの大画面障壁画、伊勢崎・勝山神社拝殿の天井格子画なども手がけている。

以前、テレ東の「なんでも鑑定団」に烏洲の掛け軸が出品され、80万円の値が付いた(出張鑑定 IN 伊勢崎)。

烏洲の身内の墓。
金井萬戸の墓
父・萬戸(俳人)の墓。

金井莎邨の墓
兄・莎邨(詩人)の墓。

金井研香の墓
弟・研香(画家)の墓。

金井杏雨
2男・杏雨(画家)の墓。

3男・芸林、4男・之恭も、それぞれ画家、書家。之恭は貴族院議員も務めている。

金井烏洲と一族の墓 (2)
金井烏洲の副碑。昭和4年(1929年)の造立で、題額は東久邇宮妃殿下、撰文・書は渋沢栄一である。ちなみに、渋沢栄一はその功績から明治の人のイメージが強いが、実は昭和6年(1931年)までの長寿をまっとうしている(91歳)。

金井家は新田氏の流れをくむ岩松家の祖とされる岩松時兼の3男・長義から始まるとされる。当時、烏洲家は島村では名の知られた豪農であった。そのため、みな号を持つ文化人としても活動できたし、烏洲は江戸に出ることもできたということ。


太田市大舘町の東楊寺。
東楊寺には津軽藩代官・足立氏の墓があり訪問済みだが、石田三成の娘・辰姫の墓もあるので再訪した。(「津軽藩代官 足立氏の墓・東楊寺」参照)

辰姫の墓 (1)
辰姫の墓 (2)
石田三成の三女・辰姫の墓。

津軽藩・津軽家は関ヶ原の戦いの功績により、上野国2千石を加増されている。現在で言うと旧尾島町(現太田市)周辺。旧大舘村には津軽藩の陣屋が置かれ、参勤交代など江戸出府の際には藩主は東楊寺に滞在したという。

辰姫は慶長3年(1598年)ころ、高台院(ねね)の養女となり、慶長15年(1610年)ころ津軽藩2代藩主・信枚(のぶひら)に嫁いでいる。後に家康養女・満天姫が信枚の正妻となったため側室扱いとなった辰姫は大舘村に移され大舘御前と呼ばれていたが、元和9年(1623年)32歳で死去。

ちなみに辰姫は信枚との間に3代藩主・信義をもうけており、信義は大舘で生まれている。


前橋市西大室町の阿弥陀山観昌寺。

観昌寺 (1)
観昌寺の創建は不詳だが、室町初期建立の石塔が多数あることなどから、これ以前の創建と推定される。天文2年(1533年)に慶円上人が中興開山したといわれる。

観昌寺 (2)
山門脇の六地蔵。

観昌寺 (3)
観昌寺 (4)
本堂は明治18年(1885年)に火災で焼失、同23年(1890年)に再建されている。現在の本堂は昭和55年(1980年)の新築建立。

観昌寺 (5)
阿弥陀如来石像(写真手前右)は室町期の造立と推定されている。光背に六地蔵を配している。阿弥陀浄土へ六地蔵が送り届けるという意味を持っていると考えられる。その他にも多数の宝篋印塔などの石塔が並んでいる。

観昌寺 (6)
観昌寺 (7)
大室太郎の墓といわれる多宝塔。
大室太郎は南北朝期の地元豪族といわれるが、よく分からない。

観昌寺は本堂でアンサンブルコンサートや落語会を開催するなど、檀家や地域の皆さんとの交流を図っている。


藤岡市浄法寺の広厳山浄法寺。
前回、見落とした道忠禅師の供養塔を写真に撮るため再訪。
(「藤岡市浄法寺・広厳山浄法寺」参照)

道忠禅師供養塔 (1)
道忠禅師供養塔 (2)
浄法寺を創建したと伝わる道忠禅師の供養塔。
明応5年(1496年)の建立。「南無阿弥陀仏」の文字が見てとれる。道忠は天台宗ではないが、最澄との関連や浄法寺が天台宗となっていることから、「南無阿弥陀仏」と刻まれたんだろう。

道忠は唐招提寺を開いた鑑真の弟子で、東国を巡って律宗の教えを広めた高僧。その際に、浄法寺を開基したといわれる。道忠から菩薩戒を受けた円澄が最澄の弟子となったことから最澄と知り合い、最澄の天台宗発展のための支援も行っている。

相輪橖
道忠は浄法寺に最澄を招き、ここを東国布教の拠点としたといわれる。浄法寺の相輪橖は弘仁6年(815年)建立で、最澄存命中に完成した2橖の内の1橖。最澄がこの相輪橖の前で説教を行った際には、数万人が集まったと書く資料もあるが・・・。


多野郡上野村乙父の天岩山泉龍寺。

泉龍寺 (1)
泉龍寺は天正3年(1575年)僧・恵翁の開山。慶長3年(1598年)僧・善知がお堂を建立、寺容を整備した。

泉龍寺 (2)
入り口右側に建つ庚申塔。この庚申塔は庚申の文字が100刻まれている「一石百庚申塔」と呼ばれるもの。上野村では唯一。高さ245cm、幅52cmで、江戸末の文久元年(1861年)の銘がある。

泉龍寺 (3)
入り口左側には閻魔大王像。

泉龍寺 (4)
永徳元年(1381年)から同2年にかけて書写された大般若経600巻の内、現存する599巻が所蔵されている宝物庫。ちなみに永徳は南北朝期の北朝の年号。南朝は弘和。

書写は金讃山大光普照寺(埼玉県神川町)などの僧の手により、現在の乙父神社に奉納されたもの。泉龍寺に移った理由は不明。後に100巻余りが焼失したが、江戸時代に複数回にわたり修復されている。焼失の修復なので再書写したということ。

泉龍寺 (5)
本堂脇にある木地師の墓。
高さ48cmの舟形で聖観音像が浮き彫りされており、幼児のものと言われている。上部に菊のご紋があしらわれている。

木地師の墓は同じく上野村の宝蔵寺にもある。
(木地師については「上野村新羽・天守山宝蔵寺」参照)

木地師の墓は、塩ノ沢タルノ沢地内で発見され泉龍寺に移されている。地図で調べたら塩ノ沢って、相当山奥の方だった。木地師が職業がら山奥で生活していたことが分かる。


多野郡上野村新羽の天守山宝蔵寺。

宝蔵寺 (1)
宝蔵寺の由緒は不明だが、天真という僧が当地を行脚中、野栗沢川の川底から阿弥陀如来像を見つけたことから、それを本尊として創建したと伝わる。

天真が天真自性だとすると、南北朝期(1370~80年)の僧なので、その頃の創建か。

宝蔵寺 (2)
宝蔵寺 (3)
意外に(失礼)立派な山門。よく見ると2階に梵鐘が吊されており鐘楼門であった。

宝蔵寺 (4)
宝蔵寺 (5)
本堂側から見ると梵鐘がよく見える。階段がついているので登らせてもらった。

宝蔵寺 (6)
宝蔵寺 (7)
由緒にある本尊の阿弥陀如来を祀る本堂。本堂の扁額は「救世殿」。

宝蔵寺 (9)
宝蔵寺 (10)
宝蔵寺は南毛観音霊場の32番札所である。写真は観音堂だと思われるが、扁額は「御巣鷹山」。上野村は江戸時代「山中領(天領)」で、鷹狩り用の鷹を育てていた場所。そのため御巣鷹山という地名(山)がある。

JAL機が不幸にも御巣鷹の尾根に墜落したため、御巣鷹山の名前は全国区になってしまった。

宝蔵寺 (8)
宝蔵寺 (9)
参道脇の木地師の墓。

木地師とは轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆、木鉢、杓子などの木工用品を加工・製造する職人のこと。文徳天皇(在位850~58年)の第一皇子・惟喬親王が木工技術を伝授したといわれる。

木地師は材木が豊富な場所を10~20年単位で移動し、里人などとの交易で生計を立てていた。木地師は惟喬親王の家臣の末裔を称し、「菊の紋章」の使用が許されていた。そのため、戒名の上に菊の紋章が彫られている。


前橋市本町の高浜山松竹院梅林寺。

松竹院 (1)
松竹院は前橋城内の高浜曲輪内に永禄元年(1558年)に創建。そのため山号を高浜山という。

松竹院 (2)
松竹院 (3)
昭和20年(1945年)の前橋大空襲にて寺は焼失したが、昭和39年(1964年)に再建された。

岩佐空佐
松竹院 (4)
松竹院 (5)
岩佐直治海軍中佐の墓。享年26歳。
岩佐中佐は昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際、「甲標的」と呼ばれる小型潜水艇で海中より決死の攻撃を敢行し戦死した。この決死の攻撃による戦功が評価され「軍神」と呼ばれた。(他の戦死者と合わせた「九軍神」のひとり)

岩佐中佐らの死は連合艦隊の空母機動部隊艦載機による真珠湾攻撃より前で、対米戦初の戦死者である。

甲標的
グアムに残る「甲標的」。
「甲標的」での攻撃は決して「特攻」ではないが、出撃した10名は決死の覚悟であったことは事実である。岩佐中佐は出撃時に「私の最後の任務達成に向けて出撃致します。終いに臨み伊号第二十二潜水艦の武運長久を祈ります。さようなら」と挨拶し、その覚悟が分かる。

計画は真珠湾内に潜入して海底で待機し、艦載機による空襲後に撃ち漏らした敵艦を、装備している2本の魚雷で攻撃、湾外に脱出するというものだったが・・・。

松竹院 (6)
墓所には岩佐中佐の両親に宛てた遺書が碑として建立されている。

松竹院 (7)
当時、「軍神岩佐中佐」という歌が作られている。

良い悪いは別にして、「九軍神」(甲標的による戦死者)は大々的に海軍合同葬が行われるなど、戦意高揚に利用された面もある。しかし、岩佐中佐をはじめとした英霊のおかげで今日の平和・繁栄があることを、現在を生きる我々は決して忘れてはいけない。


伊勢崎市曲輪町の施無畏山善応寺。

善応寺 (1)
善応寺 (2)
善応寺には国定忠治の墓があるのだが、前回訪問時は見つけられなかったので再訪した。
(「小畠武堯の墓・施無畏山善応寺」参照)

国定忠治の墓2 (1)
国定忠治の墓。愛妾のお徳(菊池徳)が、処刑場より遺体の一部を盗み出し、そのうちの片腕を善応寺に預けたとされる。(「東吾妻町大戸・国定忠治処刑場跡」参照)

国定忠治の墓2 (2)
写真ではよく分からないが、「情深墳」と刻まれている。

国定忠治の墓2 (3)
墓石側面には「嘉永三戌年十二月廿一日 長岡徳」とある。長岡とは忠治の本姓。

国定忠治の墓2 (4)
墓石裏には「念仏百万遍供養塔」。

伊勢崎市国定町・養寿寺の墓石は、忠治の博才にあやかり墓石の角を削って持ち帰る人が多く墓石が丸くなっているが、情深墳は猛々しい性格の女性だったといわれるお徳の怨念が籠もっているとされるため、墓石を削ると「運まで削る」といわれ、建立時の姿を残している。(「国定忠治の墓 -養寿寺-」参照)

善応寺には第2次大戦時の空襲で焼失するまでは、実際に「忠治の片腕」と伝えられるものが保管されていたという。


高崎市吉井町小串の一行山光心寺。

光心寺 (1)
光心寺は、義民・堀越三右衛門の霊を弔うため、寛文8年(1668年)に近郊村民が万日堂を建立したのが始まり。その後、元禄13年(1700年)に三木市右衛門の霊をあわせ弔うため光心寺と改められている。

堀越三右衛門が刑死したのは寛文7年(1667年)、三木市右衛門が獄に繋がれたのが寛文8年(1668年)。また、市右衛門が亡くなったのは元禄12年(1699年)とされる。

光心寺 (2)
光心寺 (3)
光心寺は堀越三右衛門が処刑された跡地に建つ。本堂は享保2年(1717年)に焼失したが、寛保2年(1742年)に再建されている。

光心寺 (4)
堀越三右衛門、三木市右衛門の遺徳碑。平成元年(1989年)の建立。

長谷川勘蔵の墓
墓地には長谷川勘蔵の墓がある。勘蔵は小串村の名主で、江戸幕府設置(8代将軍・吉宗の時)の目安箱へ意見書を出している。勘蔵の「箱訴」といわれる。嘉永3年(1850年)のこと。

幕末の時勢に対し、太平に慣れた上下とも奢侈(しゃし)に流れ、日光東照宮の華麗さ、武家の奢侈と内実の困窮、役人の専横堕落、飢饉対策の不備、江戸の膨張と地方の衰微、などを訴えたもの。

関連
 「義民 堀越三右衛門の墓
 「義民 三木市右衛門の墓


多野郡神流町平原(へばら)の土屋山城守高久の墓。

ここは延命寺というお寺だが、無住で本堂の老朽化が進み、お寺として機能しているか不明のような感じ。土屋山城守高久の墓は本堂の裏山にあるが、墓地として整備されている状態ではない。足を滑らせながらの確認となった。

土屋山城守高久の墓 (1)
土屋山城守高久の墓。
土屋山城守は武田家の家臣で、武田勝頼の嫡男・信勝を上州に落ち延びさせたという伝説を持つ。

通説では、信勝は父・勝頼とともに天正10年(1582年)天目山にて自害している。16歳であった。

しかし下仁田町などに伝わる古文書によると、「勝頼は信勝の身代わりを立てて自害させ、本当の信勝は土屋山城守とともに峠を越え山中領(上野村・神流町)に入り、さらに南牧村に逃れた」(要約)という。

その後、土屋山城守は旧中里村に移り住み、文禄2年(1593年)に当地で亡くなったとされる。

土屋山城守高久の墓 (2)
ちょっと見づらいが、墓石には「文禄二年四月十七日 土屋山城守高久」とある。

土屋山城守が晩年を当地で暮らしていたのは事実のようだ。しかし信勝を落ち延びさせた伝説はどうなんだろう。

ちなみに、信勝は南牧村で過ごしていたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣に豊臣方(浪人)とし参陣し、討ち死にしたという。ついでに信勝には3人の男子がいて、長男(信義)が信勝の首級を持ち帰り南牧村に埋葬したという。信義の墓は下仁田町にあるという。

少し興味があるので、見つけに行ってみようかな。


前橋市三河町の狐雲山正幸寺。
真田家改易後、沼田の再検地を行った高須隼人のお墓があるので再訪した。
(以前の訪問記は「前橋市三河町・狐雲山正幸寺」参照)

真田家沼田藩5代・真田信利が、本家松代藩の跡継ぎ争いに破れ、本家と対抗するため表高3万石に対して実高14万4000石を強引に打ち出したことから領民は飢餓に苦しみ、杉木茂左衛門の直訴騒動を起こし信利は改易された(別要因もあり)。
(「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)

高須家は前橋藩主・酒井家の家老職の家柄で、忠世・忠清などが老中として江戸にいることが多かったため、実質地元を取り仕切っていた。代々「隼人」を名乗っている。

真田家改易後、沼田は幕府の天領となり、再検地を行ったのが5代目高須隼人である。

高須隼人の墓 (1)
高須家墓所。寛永6年(1629年)から延享4年(1746年)までの37基の石殿型石塔がある。

高須隼人の墓 (2)
5代目隼人の墓。名を広儒(ひろもと)と言う。
旧真田沼田藩の再検地で、実際以上に重くなっていた年貢が大きく軽減されることになったので、沼田領民からは「お助け縄」と呼ばれ感謝された。5代目隼人は、正徳3年(1713年)に亡くなってている。

酒井氏の姫路転封(寛延2年:1749年)に伴い、高須家も姫路へ移っている。高須家のその後の詳細は不明であるが、天保年間(1831~45年)に断絶したと伝えられている。


安中市松井田町坂本の青松寺跡。

青松寺 (1)
青松寺 (2)
青松寺の由緒は不明。青松寺は江戸時代中期に洞松寺に合併されている(その洞松寺も明治初年に碓氷山金剛寺に合併している)。現在旧地には阿弥陀堂と墓地が残っている。

青松寺 (3)
坂本宿の本陣・金井家の墓。
立派な石塔が数多くある。写真左の大きな石塔は、後から笠を乗せたのかな?

坂本宿は中山道69次の17番目の宿場。碓氷峠と碓氷関所の間にあるため、大名行列のすれ違いのため、本陣が2つあった。上の本陣・佐藤家と下の本陣・金井家。金井家本陣には、文久元年(1861年)公武合体のため徳川家茂に嫁ぐ和宮内親王が宿泊している。

青松寺 (4)
失礼ながら墓碑を見させていただいたところ、「金井淡路守高勝四男金井源三郎勝治十三代」との記載があったので、倉賀野城主・金井淡路守秀景の末裔のようだ(金井秀景と金井高勝の関係は分からず)。

以前紹介した板鼻宿で牛馬宿を営んでいた金井忠兵衛(旅行記を残す)も金井秀景の末裔といわれている。(「金井忠兵衛の墓」参照)


安中市板鼻1丁目の金井忠兵衛の墓。

金井忠兵衛の墓
金井家墓所にある金井忠兵衛の墓。

金井家は倉賀野城主・金井秀景の末裔といわれ、中山道・板鼻宿で牛馬宿を営んでいた名家。牛馬宿は宿場の本陣・脇本陣に次ぐ宿格で、その名の通り牛や馬などを泊める以外にも幕府役人などの定宿となっていた。

ちなみに本陣は木島家で、幕末の公武合体で14代将軍・徳川家茂に嫁ぐため中山道を下った和宮内親王がご宿泊された書院が残っている。
(「皇女和宮のご泊所 -板鼻本陣跡-」参照)

忠兵衛は旅日記「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」を残したことで、その名を残している。文化5年(1822年)に自身の伊勢神宮、長崎、出雲大社などへの旅の記録。

この旅行記には、各地の宿の食事の内容や、泊まり心地の善し悪しなど、現在のガイドブックブックとグルメ本を合わせたような内容。

さらには、各地の文化風習に加え、どこそこに美人がいたなどの記載もある。長崎では、地元では絶対にお目にかかれない異国人(オランダ人や清国人)や異国船の様子も綴っている。

忠兵衛の「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、末裔が土蔵から発見したものであるが、当時の旅事情のみならず各地の食文化を知る上で大きな役割を果たしている。

なお、この「伊勢参宮 並 大社拝礼紀行」は、平成3年(1991年)に「金井忠兵衛旅日記」(金井方平編、高崎市・あさを社)として出版されている。

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