上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬のお墓・供養塔


太田市由良町の正英山威光寺。

威光寺2 (1)
威光寺は元徳2年(1330年)新田義貞の次男・義興の開基、吽海法印の開山で、正永山医光寺として開創。応永年間(1394~1428年)に横瀬貞氏が義興の冥福を祈るために伽藍を修復、義興の法名「威光寺殿従四位下前武衛傑伝正英大居士」から正英山威光寺と改称している。

威光寺2 (2)
威光寺2 (3)
門前の六地蔵や庚申塔類。六地蔵は天明8年(1788年)の造立。庚申関係(如意輪観音塔)には文化8年(1811年)の紀年銘があった。

威光寺2 (4)
威光寺2 (5)
本堂は平成12年(2000年)の新築建立。

威光寺2 (6)
境内の宝塔。寛政2年(1790年)の造立。

威光寺2 (7)
境内の隅に池があり、その奥にお堂がある。堂内を見ることができなかったので、詳細は分からない。

威光寺2 (8)
威光寺2 (9)
威光寺2 (10)
不動堂。本尊の不動尊像は一尺八寸(約54cm)の木像で、東大寺開山・良弁僧正の真作と伝えられる。新田義貞が上洛時に入手し当寺に寄進したという。

不動堂は明治42年(1909年)に火災に見舞われているが、その際猛火の中から檀家の方が不動明王像を運び出したという。お堂の再建は大正4年(1915年)。

威光寺2 (11)
威光寺2 (12)
威光寺2 (13)
弘法大師堂。木造の大師像を祀る。

威光寺2 (14)
新田義興の墓など3基が並んでいる。中央が新田義興の墓、右は義興の母・臺(台)姫の墓、左は義興従者の墓。

威光寺2 (15)
義興は義貞の次男で、義貞が北陸にて奮戦中の建武4年(1337年)奥州の北畠顕家の挙兵に呼応して上野国で挙兵。吉野で後醍醐天皇に謁見し元服、義興の名を賜る。鎌倉を一時奪還する等の戦果をあげたが、正平13年(1358年)江戸多摩川の矢口渡で謀殺される。享年28。

威光寺2 (16)
義興の生母・臺(台)姫の墓。由良光氏の娘で義貞の側室。法名の自性院は威光寺の院号になっている。

謀殺された義興の怨霊を鎮めようと祠を建て新田大明神として祀ったのが、東京都大田区矢口にある新田神社である。ここは破魔矢の発祥の地としても知られる。「新田神社」のHP内に、その由緒(義興のことや神社由来)が紙芝居風の動画で紹介されている。興味のある方は是非。


太田市脇屋町の脇屋山正法寺。

正法寺2 (1)
正法寺は山城国醍醐寺開山の聖宝僧正が東国遊化の際、延喜年間(901~23年)に創建。創建時は萬明山聖宝寺と称していた。元暦年間(1184~85年)新田義重が堂宇を修理し、元弘年間(1331~34年)に新田義貞の弟・脇屋義助が寺領と大般若経600巻を寄進している。

興国3年(北朝は康永元年、1342年)義助が伊予(愛媛県)国府にて病没(享年36)すると、寺僧が「正法寺殿傑山宗英大居士」という法号とともに遺髪を持参、以来脇屋山正法寺と改称した。なお、法号と遺髪を持参したのは児島高徳との伝承もある。

万治年間(1658~61年)に火災に遭い、観音免と呼ばれる地から現在地に移転したといわれている。観音免には脇屋氏の館もあったとされる。

正法寺2 (2)
正法寺2 (3)
仁王門は貞享2年(1685年)の建立。享和3年(1803年)に改築されている。昭和28年(1953年)には解体・基礎の打ち直しなどの大改修を行っている。

正法寺2 (4)
正法寺2 (5)
仁王像は阿像・吽像ともに像高2.6mほどで彩色されている。昭和63年(1988年)の解体修理の際、背面と顔面裏から銘文が発見され、貞享2年に京都の大仏師・左京入道勅法眼康祐の作と確認されている。

正法寺2 (6)
大鰐口は2m、530kg。貞享2年の鋳造(仁王門・仁王像とともに作成されたようだ)。しかし先の大戦時に供出。現在の鰐口は昭和57年(1982年)の鋳造。

正法寺2 (7)
正法寺2 (8)
本堂は文化4年(1807年)の脇屋大火により焼失。以降、観音堂を本堂としている。そのため扁額は「観音堂」。観音堂は享和3年(1803年)の建立。

正法寺2 (9)
新田氏の大中黒紋が輝く。

正法寺2 (10)
脇屋義助の石像。平成17年(2005年)の造立。

脇屋義助は兄・新田義貞と生品神社での挙兵から行動を共にし、義貞の死後も軍勢をまとめ奮戦している。興国3年には後村上天皇から中国・四国方面の総大将に任命され、四国に渡るも伊予国(愛媛県)で発病しそのまま病没している。

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正法寺2 (12)
義助の遺髪塚(向かって右)。左は義助の墓とする資料もあるが、後に造立された供養塔。見づらくて申し訳ないが、暦応3年(1340年)とある。これは北朝の年号であり、南朝では興国元年になる(一部資料には義助の没年を興国元年としているものもある)。南朝方として奮闘したのだから、せめて元号は南朝の興国を使わないといけないだろう。

正法寺2 (13)
移転前の旧地から出土した層塔。旧地は現在地から1kmほど離れた観音免と呼ばれる場所。昭和23年(1948年)の開墾作業中に見つかっている。その他にも五輪塔、承安2年(1300年)銘の板碑などが出土している。

正法寺2 (14)
正法寺2 (15)
本堂裏の宝物庫(らしき建物)。「文化財観音」とあったので、普段は本尊の聖観音像が安置されていると思われる。本尊の聖観音像は高さ155cmで鎌倉時代初期の作と考えられており、群馬県の重文に指定されている。伝承では行基が香木に彫刻した等身大の立像といわれるが、行基は奈良時代の僧なので時代が合わない。聖観音像は午年(12年に1度)のみご開帳される。

正法寺2 (16)
濡れ金仏地蔵。高さ205cmの銅製地蔵坐像。宝暦10年(1760年)下野国(栃木県)佐野の鋳物師・丸山孫右衛門清光の作。

正法寺2 (17)
大正天皇が皇太子時代に行啓された記念碑。揮毫は陸軍中将・川岸文三郎(太田市出身)。明治41年(1908年)近衛師団機動演習に際し、当寺でご休憩されている。

正法寺2 (18)
三鈷の松とあった。標柱には「中国北京 明の十三陵より」とあるので、そこからの移植だと思う。一般的に「三鈷の松」は弘法大師が唐から帰国するときに投げた三鈷杵が、高野山の松の木に引っかかっており、以降この松の木は「三鈷の松」と呼ばれ、葉が3葉になっており御利益があるといわれる。

葉を確認したわけではないし探してもいないが、3葉を見つけたら相当縁起が良い。


太田市金山町の大田山義貞院金龍寺。

金龍寺2 (1)
金龍寺は応永24年(1417年)横瀬貞氏が新田義貞の追善供養のため創建したとされる。寺号は義貞の法名「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」から。後に横瀬氏(由良氏)は下剋上により岩松氏を退け、実質的な金山城主となっている。そのため金龍寺も横瀬氏の菩提寺として興隆している。

天正18年(1590年)由良氏は常陸国牛久へ転封となり、金龍寺も牛久へ移転している(現在も茨城県龍ケ崎市にある)。現在の金龍寺は慶長年間(1596~1615年)に当地を領した榊原氏によって再興されている。

金龍寺2 (2)
木々に覆われた石段を昇っていく。石段は昭和13年(1938年)に整備・改修されている。

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金龍寺2 (4)
六地蔵は昭和52年(1977年)の造立。向かいには地蔵像や庚申塔・月待ち講塔などが並ぶ。

金龍寺2 (5)
本堂前の七福神。金龍寺は「上州太田七福神」の毘沙門天を祀る。

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金龍寺2 (8)
本堂の屋根には三つ葉葵紋と由良氏の五三桐紋が掲げられている。五三桐紋は岩松氏も使っているのと、両氏とも新田氏を示す大中黒紋も使っており紛らわしい。

金龍寺2 (9)
金龍寺2 (10)
本堂内部。ご本尊の釈迦如来。

金龍寺2 (11)
金龍寺2 (12)
金龍寺2 (13)
本堂の欄間彫刻。題材は知識がなく分からない。

金龍寺2 (14)
本堂裏にある新田義貞供養塔。供養塔は寛永14年(1637年)の義貞300回忌法要に際し造立されたもの。石英斑岩製の基礎部の上に安山岩製の多層塔を重ねたもの。総高は246cm。

金龍寺2 (15)
金龍寺2 (16)
義貞供養塔の前(と言うか下)には、横瀬国繁から由良成繁に至る歴代の金山城主とその一族の墓がある。由良氏五輪塔は9基あり、安山岩製で紀年銘・法名などが刻まれている。

横瀬氏(由良氏)は新田義貞の3男・義宗の子である貞氏(金龍寺開基)が横瀬氏へ入婿したとし、新田氏の一族であると自称するようになった。最終的には明治政府により、新田氏嫡流は岩松氏とされている。ちなみに、岩松氏は氏祖の時兼の父系が足利氏、母系が新田氏という家系。


太田市金山町の義重山大光院新田寺の2回目。
(1回目は「太田市金山町・義重山大光院新田寺」参照)

大光院2 (1)
前回、大光院の主な建物と呑龍上人、新田義重の墓所などを紹介した。大光院には他にも遺物や伝承にちなんだものがあるので紹介する。

大光院2 (2)
大光院2 (3)
弁天堂。「上州太田七福神」の弁財天を祀る。本尊は厨子の中のようだ。

大光院2 (4)
弁天堂のすぐ裏の雨乞いの池(古い資料には舞雲池とある)。その名の通り、干ばつの時などに雨を降らせる霊験があるという。沐浴の後に阿伽として池の水を呑龍上人(の墓前)に供えると雨を降らせる霊験があるという。

これは呑龍上人が林西寺住職の時、龍神に念仏を唱えることで雨を降らせたという伝承があるので、そこから呑龍上人に祈願すれば雨が降るとなったのだろう。

大光院2 (5)
甘露水の井戸。白水がこんこんと湧き出て、干ばつ時にも涸れることがないといわれる。手にすくい取って口を漱げば香気を感じるという。現在、井戸はなく屋根を付けた土管(?)が置かれているだけのように見える(覗き込んだわけではないが)。

口碑では、越後国高田の老僧・順応が不幸にも悪疫に罹ったが百薬の効なく、最後の頼みとして塩穀を絶ち呑龍上人に祈願した。すると夢のお告げで「御廟の下に霊水あり。これを服し、これに浴し、謹んで怪しむことなかれ」と。順応は霊夢に従い霊水を服し、浴したところ3日で病が癒えたという。以後、この水を甘露水というようになった。

大光院2 (6)
源次兵衛の墓。源次兵衛は武州(埼玉)の郷士の息子で、父の難病を治すため国禁を犯して鶴を猟殺(生き血を飲ませたかった)した若者。

元和2年(1616年)役人から追われる身となった源次兵衛は、呑龍上人に救いを求め大光院へ逃げ込む。呑龍上人は「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」と源次兵衛を庇い、大光院の住職の地位を捨て、源次兵衛とともに信州小諸の山中に身を隠した。

元和6年(1620年)に芝増上寺・観智国師の取りなし(死に際しての幕府への願い)で許され、大光院住職に復帰している。源次兵衛は形の上では出家していたので、大光院で生涯を終えている(詳細は不明)。

大光院2 (7)
大光院2 (8)
源次兵衛の墓を挟み、鶴塚(猟殺された鶴の供養塔かな)と如意輪観音像がある。


太田市金山町の義重山大光院新田寺。

大光院 (1)
慶長16年(1611年)新田氏の祖・義重に鎮守府将軍が追贈されたことから、徳川家康が義重の追善供養のため開山に呑龍上人を招き慶長18年(1613年)に創建。院号の大光院は義重の法名「大光院殿方山西公大禅定門」、寺号は新田氏(元は郡名)から。

家康は自らを源氏の一族であることにするため、義重の4男・義季の末裔を自称していた。義季の子孫が三河国へ移り松平家に入婿し、その8代目が家康ということになっている。

大光院 (2)
吉祥門は慶長20年(1615年)の建立。三つ葉葵の紋がさんぜんと輝く。平成12年(2000年)に屋根の全面修復を行い、建立当時の瓦と推定される「丸に三葉葵」の家紋が入った瓦屋根が復元されている。

大坂城落城の日に山門完成の報告を受けたので、家康が「大坂落城と山門完成の報が同時とはめでたいことである。これは徳川家にとって吉祥であるから、以後その門を吉祥門と名付け長く保存せよ」と命じたとされる。

大光院 (3)
家康の命令で創建されただけあり境内は広大だ。元は義重の父・義国の城地とされる。また境内地を調査した土井利勝らは、当地を「名山勝水古蹟霊場左右山中に烈在する。まさに『四神相応』の聖地」と家康に報告したという。

大光院 (4)
大光院 (5)
本堂は慶長18年の創建時の建立。江戸時代に6回の改修・修復が行われ、近年では大正14年(1925年)に大改修が行われている。扁額の揮毫は江戸末の有栖川宮家の尊超入道親王。

大光院 (6)
本堂前の灯籠。文政10年(1827年)の奉納。

大光院 (7)
大光院 (8)
本堂前の臥竜の松。巨龍が地に臥し、今まさに天に昇ろうとする勢いを表わすような姿から「臥龍松」と呼ばれている。呑龍上人の手植えと伝わることから「呑龍の松」とも。

臥龍松(樹齢700年といわれる)はかなり樹勢が衰えており、夏にもかかわらず幹枝のみの状況。壊死の心配も出てきている。

大光院 (9)
大光院 (10)
開山堂は昭和9年(1934年)の再建。もとの開山堂は明和8年(1771年)の建立。堂内には呑龍上人の尊像を祀る。尊像は元和8年(1622年)に上人自ら斧を取って彫刻したといわれる。高さ4尺3寸(約130cm)で、像容は上人の生き写しとされる。

大光院 (11)
大光院 (12)
梵鐘は明治42年(1909年)鋳造であったが、先の大戦時の供出。現在の梵鐘は昭和33年(1958年)落慶。

大光院 (15)
大光院 (16)
本堂の左奥にある新田義重の墓。元は金山の東麓菅ノ沢にあったものを大光院創建時に移したと伝わる。墓前の灯籠は延宝2年(1674年)幕府老中・安部正能の奉納と、元禄11年(1698年)伊勢崎藩主・酒井忠寬の奉納。ところが、灯籠が写っている写真がなかった・・・。

義重は武家の棟梁として名高い源義家の孫にあたる(義家3男・義国の長男)。父とともに関東に下向し足利荘を開拓。後に新田荘に移り同様に開拓。義重は新田荘を継承し、足利荘は弟の義康が継承した。後に「建武の新政」時に争った新田義貞と足利尊氏は両家の子孫。

大光院 (13)
大光院 (14)
呑龍上人の墓。上人は弘治2年(1556年)武蔵国埼玉郡一の割村(現春日部市)に生まれ、元和9年(1623年)入寂。世寿68。呑龍上人が捨て子などを弟子として養育したことなどの遺徳から「子育て呑龍」と呼ばれ、篤く信仰を集めている。

元和2年(1616年)孝心のため国禁を犯し保護鳥の鶴を殺してしまった源次兵衛を匿まい幕府から譴責されたが、元和7年(1621年)に赦免された逸話もある。本件に関する古蹟もあるので、その他の施設・遺跡も含めて次回ということで。


甘楽郡甘楽町白倉の榛名山圓明院。

圓明院 (1)
圓明院は天和2年(1682年)僧・永純の開山とされる。

圓明院 (2)
六地蔵は平成6年(1994年)の造立。

圓明院 (3)
参道の両側は桜並木になっている。季節が合えばきれいな桜が堪能できることだろう。参道は昭和45年(1970年)に整備されている。

圓明院 (4)
本堂までの傾斜地も築山風にきれいに整備されている。

圓明院 (5)
石段を上ると本堂。

圓明院 (6)
圓明院 (7)
本堂は昭和30年(1955年)の建立。

圓明院 (8)
圓明院 (9)
本堂前の六地蔵石幢。元禄12年(1699年)の造立。

圓明院 (10)
天明の絹一揆の指導者・山田清助と清蔵兄弟の墓。清助は清介とも。

天明元年(1781年)江戸幕府が上州・武州の絹市に対し、改所を設置し改料を商人から徴収するとの触書を出した。この改料が実質的な運上金(租税)だとして農民が反発、反対運動を起こした。

結果的に幕府は改所設置を撤回したため、農民側の勝利という結果となった。この騒動を天明の絹一揆、絹運上騒動などと呼ぶ。しかし、当然幕府の施策に反抗したのでただでは済まず、一揆を指導した人々は逮捕・処罰されている。

そのうちの白倉村の山田清助と清蔵兄弟は八丈島への流罪となった。弟・清蔵は島へ流される前に牢死、兄・清助は八丈島で在島41年後の文政6年(1823年)に死去したといわれる。

墓石は嘉永元年(1848年)に建立されている。事件から67年後のこと。これは同様に反対運動に関わった山田家関係者(親戚筋)が「流罪者両人の墓は60年を世に遠慮して、後に建ててくれ」と遺言したことから。

墓の建立者の名前も伝わっているが、墓石からは削られている。地元では義民とされている兄弟だが、罪人でもあるので色々しがらみもあったのだろう。


渋川市赤城町溝呂木の桂峯山大蓮寺跡

大蓮寺跡 (1)
大蓮寺の由緒は不詳。かなりの古刹であったとされる。明和8年(1771年)に勝保沢の名工・星野幸右衛門の父・三郎兵衛が本堂を再建した記録が残る。江戸時代末から無住となり、寺運も大きく傾き檀徒との関係も希薄になってしまった。

明治27年(1894年)に三原田の興禅寺に合併され、翌年には山門、本堂、須弥壇、本尊の阿弥陀如来までも興禅寺に移されている。また、庫裏のみ残して地区の公会堂とした。現在は「溝呂木構造改善センター」となっている。他にも消防団分署の詰所などがある。
(興禅寺は「渋川市赤城町三原田・三原田山興禅寺」参照)

大蓮寺跡 (2)
大蓮寺跡 (4)
大蓮寺跡 (3)
大蓮寺跡 (5)
大蓮寺跡 (6)
旧参道には寺跡であることを思い起こさせるように石仏・仏塔類が並んでいる。この石仏群は廃寺以降、永年草土に埋もれてしまっていたのを昭和56年(1981年)に地元の人々が整理したもの。

延享9年(1752年)造立の信州高遠の石工の手による百番供養塔や、天保12年(1842年)片品村出身の名筆家・萩原賢和(藤賢和)の筆による馬頭観音石塔などがある。

大蓮寺跡 (7)
墓地には長井坂城主・狩野隠岐守祐範の墓がある。狩野氏は藤原氏の出とされる。北条早雲以下北条氏に仕え、天正(1573~92年)の始めころ長井坂城主に任じられたようだ。
(長井坂城は「渋川市赤城町棚下・長井坂城跡」参照)

天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めで長井坂城は落城。時の城主である狩野隠岐守祐範は当地に土着・帰農している。


渋川市赤城町見立の見立の五輪塔。

見立の五輪塔 (1)
見立の五輪塔 (2)
見立の五輪塔。立派な五輪塔が2基並んでいる。伝承では見立城主・見立権太郎清平の墓と伝わる(もう1基は奥方か?)。

清平に関しては記録がほとんど残されてなく、関東管領・上杉憲顕の配下として「見立城に見立権太郎居れり」、また他では「見立城主見立権太郎清平は奥州見立権太郎家定の末孫である」と記載されている程度である。

上杉憲顕が上野国で戦をしていたのは観応2年(1351年)のことなので、古記録を信じるなら南北朝初期のころの人物のようだ。

清平がなぜ奥州から当地に来て城主になり得たのかは不明だが、この墓を古くから上屋を作り守ってきたのは奥州出身の一族(藤原秀衡の末裔といわれる)のようなので、旧見立村には少なからず奥州藤原氏の縁者が移り住んで来ていると考えられる。

ちなみに、見立城とは戦国時代に不動山城と呼ばれ、見立と樽・宮田の境界の山中にあった城のこと。城趾は渋川市(旧赤城村)の重文に指定されている。渋川市の解説では、築城は永禄年間(1558~70年)としている。


渋川市赤城町樽の田中堂。

田中堂 (1)
田中堂 (2)
田中堂と呼ばれるお堂は、須田氏一族の墓地にある。田中は当地の旧字名。お堂は畳敷きの部屋などがあり、仏事などを行うことができるようになっている。昔は庵主が住んでいたこともあるようだ。以前は「慈眼寺」という扁額か掛かっていたというので、元は慈眼寺という寺院の一部と考えられる。

須田氏は旧樽村の名家。北条家からの感状や知行書が伝わっている。また、江戸時代は材木商を営んでおり、延宝8年(1680年)沼田真田藩主・真田信利と両国橋改修用の材木調達の契約を結んでいる(最終納入先は江戸大和屋)。

結果的に真田家は材木の納入期限に間に合わず、さらに杉木茂左衛門の直訴なども重なり、真田信利は改易となったのは有名な話。
(「伝真田信利の墓・迦葉山弥勒護国寺 その2」参照)

田中堂 (3)
須田家当主は江戸時代末まで代々与兵衛を名乗っている。最後の与兵衛は豪商・中居屋重兵衛の実母「のぶ」を後妻に迎えている。当墓地に「のぶ」の墓がある。墓石には3名の戒名が刻まれているが、向かって左が「のぶ」のものである。推察するに、中央は最後の与兵衛、右は前妻ではないか。「のぶ」は明治26年(1893年)没。

田中堂 (4)
同じく当墓地にある須田門吉の墓。門吉は大前田英五郎の四天王のひとり。文久3年(1863年)没。通称「にっこり門吉」と呼ばれ、門吉がにっこり笑った時は怒りが頂天に達した時で、何をしでかすか分からないと恐れられた。

名家からも渡世人が出るんだね。それと、勘当もされないで実家筋の墓地に葬ってもらえるなんて。


富岡市富岡の宮崎山龍光寺。

龍光寺 (1)
龍光寺は長禄年間(1457~60年)奥平貞俊が宮崎村(現、富岡市宮崎)に創建。慶長15年(1610年)富岡町の創設とともに宮崎村から移っている。その時、寂誉道楽和尚を中興開山としている。寂誉道楽の姉は徳川家康の生母・於大の方(伝通院)。

奥平貞俊は旧吉井町奥平から三河国へ移住したとされる(三河奥平氏の初代)。天正18年(1590年)宮崎に3万石を領した奥平信昌は、貞俊から5代末となる。

山門は昭和60年(1985年)の建立。山門前の大灯籠は昭和18年(1943年)の奉納。

龍光寺 (2)
龍光寺 (3)
龍光寺 (4)
山門の門扉には彫刻が施されている。鳳凰や龍。

龍光寺 (5)
龍光寺 (6)
本堂は明治23年(1890年)に火災により焼失。後に檀徒の浄罪などを得て再建されている。現在の本堂は平成13年(2001年)の建立。

龍光寺 (7)
龍光寺 (8)
梵鐘は無銘ではあるが竜頭・鐘身・草の間の唐草模様・乳の配列などから室町時代の鋳造とされる。このような歴史的価値が考慮され、先の大戦時の供出を免れている。

龍光寺 (9)
龍光寺 (10)
龍光寺 (11)
「子育て呑龍上人」との扁額が掛かったお堂。呑流堂とでも言うのかな。厨子内の木像(御簾でお顔は見えないが)は呑龍上人と思われる。実は呑龍上人は龍光寺の第2代住職(富岡に移転後)を務めている。その後、太田・大光院新田寺の開山となり移っている。

龍光寺 (12)
龍光寺 (13)
龍光寺 (14)
観音堂。千手観音を祀る。由来などは分からない。

龍光寺 (15)
龍光寺 (16)
板碑は高さ約140cm、幅約45cmで緑泥片岩製。貞治3年(1364年)の銘がある。貞治は南北朝期の北朝側の年号(南朝は正平)。富岡市や甘楽町・下仁田町あたりに残されている石造物には北朝の年号が多い。富岡市内にも光厳寺のように北朝初代天皇である光厳天皇が開基したとされる寺院もあるけど。

龍光寺 (17)
本堂前の大銀杏。樹高25m、目通し周り5m、根回り9.5m、枝張りは東西15m・で、樹齢は約380年以上と推定されている。この銀杏の木は、龍光寺が宮崎から富岡に移った際に宮崎から移植したといわれている。

龍光寺 (18)
龍光寺 (19)
墓地にある富岡製糸場で働いていた工女さんの墓。48人が眠る。

開業の翌年、明治6年(1873年)には工女総数404人に達し、品質優良な生糸は海外でも名声を博していた。工女さんたちは北は北海道、南は九州から集まっており、帰郷後は指導者として活躍した人もいる。しかし不幸にして病に倒れ、富岡で亡くなった工女さんも多い。

明治7年(1874年)から明治30年(1897年)までの間に60人の工女さんが亡くなっている。国の繁栄のために故郷の親元を離れ、病により異郷のこの地で命を落とした乙女たちのご冥福を改めてお祈りする。

富岡市内の海源寺にも工女さんと工男さんのお墓がある。
(「富岡市富岡・中法山海源寺」参照)


富岡市宮崎の華鶏山桃林寺。

桃林寺 (1)
桃林寺は天正19年(1591年)松平右京太夫家治の開基、開山は下丹生村・永隣寺住職の春慶和尚である。松平家治は奥平信昌の次男で、徳川家康の養子となったため松平姓を与えられている。

家治の母(信昌の正室)は徳川家康の長女・亀姫であり、その血筋から養子に求められたと考えられている。家治は天正8年(1579年)生まれで、8歳の時に養子になったが天正20年(1592年)に13歳で亡くなっている。

天正19年に家治は12歳のため、実質的には桃林寺は父である信昌の開基と考えられる。信昌が宮崎に3万石を得たのは天正18年なので。

桃林寺 (2)
桃林寺 (3)
門前の石仏・石塔と六地蔵。

桃林寺 (4)
桃林寺は再三火災に遭っており、古記録などは焼失している。本堂前の燈籠は平成15年(2003年)の奉納。

桃林寺 (5)
本堂前の宝篋印塔。開基・松平家治の墓と伝えられている。寛政2年(1790年)に小幡藩主・松平忠福が建立したとされる。没年と年代的にズレがあるが、墓碑を新たに建立したのか供養塔として建立したのかは不明。

松平忠福は奥平松平家(家治の末弟・忠明が、家治の死後に家康の養子となり松平を名乗っている)の忠尚系と呼ばれる家系。

家治の墓に関しては、昭和3年(1928年)刊の「北甘楽郡史」には「遺骸はなしと伝わる」とあるが、寛政年間(1789~1801年)に江戸幕府が編修した大名や旗本の家譜集である「重修家譜」には「家治を桃林寺に葬る」とある。真偽はいかに?


富岡市富岡の大虎山栖雲寺。

栖雲寺 (1)
栖雲寺 (2)
栖雲寺は寛永4年(1627年)長翁全孫和尚の開山。山門の扁額は「古叢林」(こそうりん)。歴史の古い(長い)大きな禅宗の寺院といった意味。

栖雲寺 (3)
門前の「御虎石」。虎御前が建てたという供養塔。享徳元年(1452年)に古崖聖来という者が当地から発掘したとされる。栖雲寺の創建以前よりあることになる。この御虎石が山号の大虎山の由来となっている。それにしても大きい。

虎御前とは鎌倉時代初期の遊女。富士の巻狩りの際に起こった曾我兄弟の仇討ちで知られる曾我祐成の妾とされる。「吾妻鏡」にも登場することから、実在の女性と考えられている。日本各地に虎御前の伝承と結び付けられた石が存在する(大磯町、足柄峠、大分市など)。

*資料によっては「虎御石」と表記されているものもあり。

栖雲寺 (4)
門前の六地蔵。昭和38年(1963年)の造立。

栖雲寺 (5)
栖雲寺 (6)
本堂の建立年は分からないが、昭和28年(1953年)に瓦葺きに改修している。

栖雲寺 (7)
栖雲寺 (8)
梵鐘は天明2年(1782年)の鋳造だが先の大戦中に供出。現在の梵鐘は再鋳造。半鐘は寛延2年(1749年)鋳造で、供出を免れ消防団詰め所の警報用として使用されていた(現在も使用されているかは不明)。

栖雲寺 (9)
栖雲寺 (10)
境内の薬師堂。薬師如来像の由緒は明らかではないが、栖雲寺開創以前から当地に祀られていたとされる。お堂は平成11年(1999年)の再建。

栖雲寺 (11)
栖雲寺 (12)
薬師如来と脇侍の日光・月光菩薩の三尊。ちょっとイメージが違うほどの金ピカ。弘安4年(1281年)作との説もあるようだが。別物かな。

栖雲寺 (13)
観音菩薩像の地下が合祀墓(霊廟)になっている。檀家の方が平成19年(2007年)の造営している。

栖雲寺 (14)
江戸期に当地を領していた旗本・筧源左衛門保寿の墓。栖雲寺に多くの寄進をしており、中興開基とされている。筧氏や源左衛門保寿のことはよく分からないが、保寿は寛政元年(1789年)に没しているようだ。

栖雲寺 (15)
保寿の母親の墓。保寿が安永2年(1773年)に建立したとの銘がある。

栖雲寺には筧氏が奉納したという金銅製の聖観音像(約15cm)が寺宝となっている。唐の代宗皇帝が光明皇后に贈ったものだという。こんなすごい物を、なぜ江戸時代の旗本が持っていた? 事実なら国宝級だね。


安中市松井田町下増田の義人・潮藤左衛門の墓。

義人・潮藤左衛門 (1)
潮家墓地の潮藤左衛門と奥方の墓。

元禄15年(1702年)に安中に移封された内藤丹波守政森は、新田開発を行いながら重税(年貢・課役)を強いたため領民の不満は大きかった。享保(1716~36年)のころには浅間山の噴火や天候不順による凶作が続き、農民の窮状は過酷を極めた。

享保12年(1727年)には領内21ヶ村の名主・組頭が藩に対して幾度となく年貢課役減免の要請を行った(安中藩での百姓一揆、年貢減免運動などと呼ばれる)。藩は一部譲歩したが、下増田下村名主・潮藤左衛門は納得せず、江戸に向かい幕府への直訴の機をうかがっていた。

しかし安中藩御用の捕り手に捕縛されてしまった(直訴未遂)。そして享保13年(1728年)6月29日、増田川河原にて打ち首に処せられた(妻子も同罪とされた)。

藤左衛門夫妻の墓が建てられたのは、処刑から42年後の明和7年(1770年)のことである。寛延2年(1749年)に内藤家が安中から三河挙母に移封されたことも大きな要因だと考えられる。

義人・潮藤左衛門 (2)
義人・潮藤左衛門 (3)
潮家墓地から100mほど増田川の方へ向かうと、地域の方々が建立した藤左衛門の「義人 潮藤左衛門散華の地」碑がある。平成15年(2023年)の建立。

義人・潮藤左衛門 (4)
顕彰碑には、時代背景やことの顛末などが記されている。

義人・潮藤左衛門 (5)
現在の増田川。当時とは川の流れも変っているだろうが、今も静かに流れている。

藤左衛門処刑後、安中藩はこれに続く人物の出ることを恐れ、その行動を口にすることを禁止するとともに、その記録(文書)を焼き捨てたとされる。そのため藤左衛門に関する記録は断片的にしか残っていない。


前橋市西大室町の長尾景英の供養塔。地元では「めいがん様」と呼ばれている。

めいがん様 (1)
長尾景英は白井長尾氏6代当主。父・景春が主家である関東管領・山内上杉顕定、山内上杉家家宰である総社長尾氏・長尾忠景に対し反乱を起こした(長尾景春の乱)ため、当初は景春とともに戦うが後に景春と対立。景英は景春の下を離れて顕定に降り、山内上杉家の重臣に復帰している。

家督を嫡子・景誠に譲った後は、大室城に隠棲していたとされる。大永7年(1527年)に没している。48歳とされる。

めいがん様 (2)
長尾景英の供養塔とされる五輪塔。「明巌宗哲禅定門」と刻されており、その読みから「めいがん様」と呼ばれている。また「めいがん」との読みから、目の神様として信仰されるようになった。

景英の墓は渋川市上白井の空恵寺にあり、その戒名は「明岩窓哲」である。「めいがん様」とは漢字が異なっているが同じ読みである。
(長尾氏累代の墓は「白井長尾氏累代の墓・天霊山空恵寺 その2」参照)

なお、地元では「めいがん様」は景英の父である景春の供養塔(墓)で、景英が建立したと伝えられている。理由は分からない。なお、前橋市の「城南地区文化財巡り」にも景春の供養塔との説明が書かれている。ちなみに、景春の墓も空恵寺にある。


前橋市富士見町石井の石井山珊瑚寺の3回目。
今回は主に源頼朝や梶原景時父子の墓とされる中世の石造物について。
(過去記事は「珊瑚寺」「珊瑚寺2」参照)

珊瑚寺 (1)
地蔵堂の右奥に南北朝期の板碑や多宝塔が集積されている。

珊瑚寺 (2)
板碑が3基並んでおり、前橋市の重文に指定されている。左から正和22年(1315年)建武元年(1334年)、建武2年(1335年)の造立。

珊瑚寺 (3)
右の板碑に「源よりとも」と刻されているため、源頼朝の墓(供養塔)とされている。

珊瑚寺 (4)
珊瑚寺 (5)
南北朝期のものと推定される多宝塔。梶原景時父子の墓(供養塔)とされる。「梶原景時父子墓」と彫られている石は後世のもの。

正治年間(1199~1201年)に梶原景時の女(むすめ)が尼僧となり、源頼朝・景時と景季ら息子たちの菩提を弔うため移り住んだとされる由緒と関連する遺物となる。

源頼朝の没年は建久10年(1199年)。梶原景時は頼朝の死後も2代・頼家の宿老(13人の合議制)として重用されたが、すぐに三浦義村・和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて失脚、鎌倉から追放された。

正治2年(1200年)梶原一族は上洛を企てたが、途中で在地の武士と諍い(戦闘)になり、一族は討死や自害をしている。

梶原景時は石橋山の合戦で、洞に隠れていた頼朝を見逃し助けたというエピソードが有名。また、嫡男の景季は宇治川の合戦で、佐々木高綱と先陣争いをしたことで名を残す。二男・景高、三男・景茂も源平の合戦に参陣している。

梶原景時の女の遺志を後の尼僧が引き継ぎ、約130年ほど経って板碑や多宝塔という形にしたと考えると、歴史は楽しいと感じる。事実は?だが。

以下、つづく。次回は「珊瑚寺の七不思議」について紹介する。


前橋市田口町の塩原慎斎の墓。

塩原慎斎の墓
塩原慎斎は文化3年(1806年)に旧田口村に生まれ、江戸に出て医学の勉学に励み医者となる。帰郷後は医業の傍ら近隣の人々の願いにより寺子屋を開き、子弟の教育を行った。明治12年(1879年)73歳にて死去。

戒名は「賢良院漌隆慎斎醫士」。これは龍海院(前橋市紅雲町)の住職から生前に授けられたもの。難病にかかった住職が慎斎の評判を聞きつけ受診。慎斉が昼夜問わず熱心に世話をしたところ、病気はすっかり快癒したという。そのお礼である。

円筒形の墓石には、慎斎の戒名を囲むように5名の女性の戒名が彫られており、それぞれが夫人とされる。5人もの夫人というと艶家と勘違いするが、病気の女性を引き取り面倒を見ていたからだといわれる。


北群馬郡吉岡町下野田の法雲山華蔵寺。

華蔵寺 (1)
華蔵寺は永正16年(1519年)元山法印の開山。

華蔵寺 (2)
山門前の中の島に弁財天が祀られている。石祠は宝永5年(1708年)の造立で、高さ132cm、棟幅75cm、奥行き86cm。

華蔵寺 (3)
華蔵寺 (4)
屋根の棟(左右とも)にふっくらした鬼面が彫られている。鬼面は高さ15cm、幅12cm。鬼と言うがふっくら顔で優しい目をしており、口元は微笑んでいるように見える。本当に鬼?

南下の下八幡宮にも鬼面の彫られた石祠あがある。(「吉岡町南下・下八幡宮」参照)

華蔵寺 (5)
華蔵寺 (6)
観音堂。祠の扉が閉まっており詳細不明。

華蔵寺 (7)
庚申塔が並んでいる。どれかは分からなかったが、角田無幻の書によるものがあるらしい。角田無幻は華蔵寺の生まれの書家。(無幻の詳細は「角田無幻道人の遺髪塚」参照)

華蔵寺 (8)
中央の青面王・一石庚申塔は万延元年(1860年)の造立。

華蔵寺 (9)
本堂は老朽化しているようだが、現役なのかな。他に本堂らしき建物はなかったと思うが。

華蔵寺 (10)
8世・浄聖院亮衍(りょうえん)の墓。亮衍は修験者(山伏)であり、国学者でもあった。和漢の知識に秀でており、また稀代の蔵書家でもあった。国学者・塙保乙一が編纂した「群書類従」の編集に携わったと伝わる。

亮衍は角田無幻の兄であり、無幻とともに京都で修験学則の選定などに尽力している。文化3年(1806年)京都で没している。

華蔵寺 (11)
亮衍が創設した獅子園書庫。聖教類(仏教関係書)を含む、貴重な典籍や古文書など多くの資料を収蔵している。建屋じたいはまだ新しい。

亮衍は本居宣長や屋代弘賢らとも親交がある傑出した国学者であったが、修験者であったためその存在が疑問視されていた。この獅子園書庫の発見が亮衍の実在を証明することとなった。


吾妻郡高山村尻高の「添うが森」と「添わずが森」。
高山村内を東西に流れる名久田川を挟み、南側に「添うが森」、北側に「添わずが森」が相対している。

添うが森 (1)
名久田川南の森の中に入って行くと、鳥居と石祠が見えてくる。「添うが森」と呼ばれる。

添うが森 (2)
添うが森 (3)
添うが森 (4)
「あわび姫」と呼ばれた女性とその子・小太郎の墓とされる石祠。「添うが森」と呼ばれるようになったのは次の伝承による。

平将門の乱(天慶2年:939年)鎮圧のため当地に下向していた小野俊明は「あわび姫」と呼ばれる女性を慕うようになり、そのせいで出陣の機を逸してしまった。俊明はそのことを恥じて、出家して名を熱退(袮津太江とも)と改め龍海山泉照寺(現、熊野山泉龍寺)の住職となった。

天慶7年(944年)あわび姫は一子・小太郎を伴い熱退に逢いに来たが、熱退は決して逢おうとしなかった。そしてあわび姫に歌を贈った。「美しき花に一足踏み迷ひ 出家の道にかがやきにけり」
*「かがやく」は当地の言葉で「探し求める」ことを言う

あわび姫は大いに悲しみ、小太郎とともに名久田川に身を投げてしまった。その際に一首残している。「半形となるもあわびの片思ひ 未来は深く添うが森せぬ」

村人はあわび姫母子を哀れんで亡骸を葬った。この塚を鳥見塚といい、この塚に願いをかけると必ず叶うというので「添うが森」と呼ぶようになった。

今風に言うと恋愛成就のパワースポットといったところかな。

添わずが森 (1)
「添うが森」から名久田川を挟んだ北側、国道145号脇を上って行くと石祠が見えてくる。「添わずが森」と呼ばれる。

添わずが森 (2)
添わずが森 (3)
この石祠は熱退の墓とされる。

「添わずが森」と呼ばれるのは、熱退とあわび姫の伝承の続きによる。

天延3年(975年)熱退は病に倒れ、「吾れ死なば鳥見塚の相向かいに埋めよ」と遺言し、一首の歌を残して亡くなった。「身を思へば世に名を汚す人々の 迷ひの花を散らしけるらむ」

村人は遺言に従い「鳥見塚」と名久田川を挟んだ向かいの地に葬り、「熱退の塚」と名づけた。その後、熱退の亡霊が悪縁切れない人の夢枕に立ち、「吾れを信ずれば必ず縁を切らせるであろう」と言った。そこで願をかけると縁を切ることができたので、熱退の塚を「添わずが森」と呼ぶようになったとされる。

こちらは逆に縁切り成就のパワースポットかな。


前橋市上新田町の末風山福徳寺。

福徳寺 (1)
福徳寺 (2)
福徳寺は文和年間(1352~56年)乗弘大徳が末風郷に草庵を結んだのが始まりとされる。天正元年(1573年)に諸国を遍歴していた覚伝が草庵に逗留し、十一面観音を祀り末風山福徳寺とした。

また覚伝は同年に雷電神社も創建、白馬像を献納している。
(雷電神社は「前橋市上新田町・雷電神社」参照)

福徳寺 (3)
門前の宝塔。元文元年(1736年)の造立。

福徳寺 (4)
本堂前の臥竜松(クロマツ)。

福徳寺 (5)
福徳寺 (6)
本堂は平成18年(2006年)の建立。

福徳寺 (7)
福徳寺 (8)
梵鐘は正徳4年(1714年)に地元の名工・倉林伝左衛則盈の作。先の大戦時も文化財としての価値が認められ、供出を免れている。

福徳寺 (9)
福徳寺 (10)
薬師如来石像。旧上新田町薬師(現在は朝日が丘町)にあったものを福徳寺に移転している(時期不明)。

福徳寺 (11)
お花地蔵。上新田村の庄屋の家にお花という若い女中がいた。お花の作った庄屋の食事に針が混入しており、厳しく叱られてしまった。お花は心当たりもなく、身に覚えのない口惜しさから村はずれの池に身を投げてしまった。後に庄屋はお花の心を察して、池のほとりに地蔵を建て、村人と一緒にお花の霊を弔った。

女中仲間の嫉妬からの悪巧みだと思うが、こういう逸話は各地に残っている。
(「前橋のお虎さん」「甘楽のお菊さん」「安中の八重さん」)

福徳寺 (12)
本堂前の弘法大師像。平成18年(2006年)の造立。

福徳寺 (13)
随筆家・佐藤垢石の墓。垢石については雷電神社に「佐藤垢石の碑」がある。
(「佐藤垢石の碑」参照)

福徳寺 (14)
歴代住職の墓域の開山・覚伝の墓。

福徳寺には明治15年(1882年)殿田学校が置かれ、上新田村・下新田村・小相木村の子ども達が勉学を学んでいる。殿田学校は明治18年(1885年)に箱田学校と合併。箱田学校は現在の市立東小の前身にあたる。


前橋市古市町1丁目の古市町公民館敷地内にある和尚塚の多宝塔。

和尚塚の多宝塔、他 (1)
和尚塚の多宝塔、他 (2)
和尚塚は和尚六部を葬った塚(墓)で、多宝塔はその墓碑とされる。和尚六部についてはまったく分からない。多宝塔は14世紀末のものとされ、塔の層は一部石材が異なっている。

塚は大正6年(1917年)の上越線敷設時に削平され、その土は線路や新前橋駅前の道路に使用された。多宝塔は古市町公民館敷地内に移設されている。

和尚塚の多宝塔、他 (3)
和尚塚の多宝塔、他 (4)
和尚塚の多宝塔、他 (5)
多宝塔を囲むように石仏群が置かれている。年代が多宝塔(14世紀末)と違うようなので(もっと新しい)、近郷からの集積のようだ。

和尚塚の多宝塔、他 (6)
公民館敷地内には、他にも石造物が多数置かれている。カラフルな供養塔は明治期のもの。着色は随時行っているのかな。宝塔(写真右端)は寛延3年(1750年)の造立。

和尚塚の多宝塔、他 (7)
和尚塚の多宝塔、他 (8)
薬師堂内には多数の薬師如来石像。3体は大きめ。

和尚塚の多宝塔、他 (9)
公民館の隣の公園に「古市音頭」の碑があった。明るく元気になりそうな歌詞だ。

ちなみに、和尚塚の土が再利用されている新前橋駅は大正10年(1921年)の開業で、今年は100周年にあたる。萩原朔太郎は「荒寥たる田舎の小駅なり」表現していたが、現在は1日の平均乗者数が高崎駅、前橋駅に次ぐ群馬県3位の駅になっている。


前橋市河原浜町の慈恵山応昌寺。

応昌寺 (1)
応昌寺は天延3年(975年)慈恵大師が関東巡錫のおり当地に滞在し一宇を建立、千手観音を本尊として創建したと伝わる。観音像は大師の自刻で、悪疫を消除せんと誓願を立てたとされる。慈恵大師は第18代天台座主で、一般には通称である元三大師の名で知られる。

応昌寺 (2)
応昌寺 (3)
本堂は昭和42年(1967年)の建立。平成11年(1999年)に屋根の葺替えを行っている。柱に付けられている標板には「元三大師」の名と共に「御祈祷所」の文字も。元三大師が悪疫を払うよう誓願した由来通りである。

応昌寺 (4)
境内の六地蔵。

応昌寺 (5)
墓地には香川昇三・綾夫妻の墓がある。綾は香川栄養学園(女子栄養大学などを運営)の創始者。医学博士で計量カップ・計量スプーンを考案するなど、現代栄養学の基礎を築いた「栄養学の母」ともいえる女性。

先の大戦中に学園は東京駒込から旧大胡町に疎開しており、不幸にも昇三が大胡で亡くなったため応昌寺に墓所がある。

以前に紹介した前橋市粕川町女渕の聖観音堂は、応昌寺の境外仏堂である。応昌寺が聖観音堂があった多福寺を昭和43年(1968年)に合併したため。
(「前橋市粕川町女渕・聖観音堂」参照)


藤岡市森の少林山泉通寺。

泉通寺 (1)
泉通寺は永正6年(1509年)長年寺2世・宝晃知證の開山、小林出羽守政忠の開基。山号の少林山は政忠の法名「少林院殿光山宗厳」から。また、政忠は長根村(現吉井町長根)の熊野権現(現長根神社)に鰐口を奉納した小林豊後守秀政の弟である。
(「高崎市吉井町長根・長根神社」参照)

秀政が鰐口を奉納したのが天正17年(1589年)なので、弟である政忠が永正6年に泉通寺を開基しているのは、年代的に少し疑問が残る。永禄6年(1563年)だと合うのだが・・・。

泉通寺 (2)
泉通寺 (3)
門前の六地蔵や石仏類。

泉通寺 (4)
山門から本堂の間には松が植えられており、松並木のようになっている。

泉通寺 (5)
泉通寺 (6)
本堂には本尊の釈迦如来を祀る。

泉通寺 (7)
開基の小林忠政の墓(供養塔)。

泉通寺 (8)
境内の藤岡市小野地区戦没者供養塔(忠魂碑)。

泉通寺 (9)
泉通寺 (10)
梵鐘は先の大戦時に供出、昭和30年(1955年)に再建されている。

梵鐘には「報恩孝順大和尚」とある。孝順は泉通寺17世として嘉永7年(1855年)~安政5年(1859年)まで住職を務めている。孝順は物理の知識を持ち合わせており、中村堰と呼ばれる用水施設の暗きょ化を行い水害に強い灌漑水路としている。これにより小野地区周辺の稲作耕地は飛躍的に増えることとなった。


安中市安中の大日山慈恩寺。

慈恩寺 (1)
慈恩寺 (2)
慈恩寺は元亀・天正年間(1570~92年)の創建と伝わる。元は湯沢山中にあったが、中山道の整備とともに交通の流れが変わると、寛永(1624~45年)の頃に現在地へ移っている。創建場所と伝わる地には、大日如来を祀った大日堂がある。

慈恩寺 (3)
慈恩寺 (4)
六地蔵が彫られている宝塔。風化の具合でお地蔵さんの目がくりっとして、可愛く感じられる。

慈恩寺 (5)
安中藩士・関島成章の墓。関島は安中藩の祐筆で「両野私記」などの著作を残している。その中で「八重が淵伝説」の基になった記録を書いている。それは安中藩主・水野元知の奥方は嫉妬深く、側女を毒虫と共に箱に入れて淵に沈めたという「伝聞」。

水野元知は安中水野家2代目。元知は寛文7年(1667年)に乱心し妻を切りつけたとして改易されている。しかし実は奥方の嫉妬が酷く、腰元を寵愛していると疑い切りつけたのを、逆に元知が切りつけたと幕府に報告されたため。報告したのは奥方の父・水野忠善とされる。

関島は板倉家が藩主時代の文化年間(1804~18年)に亡くなっている人物。150年近く前の「伝聞」を書いただけなんだけど、現在まで語り継がれることになった。

関連
 「安中市安中・八重が渕の碑


邑楽郡大泉町上小泉の夜盗(よとう)の墓。
大泉町斎場内(道路側)にある。

夜盗の墓 (1)
夜盗の墓 (2)
その昔、間之原地区の農家(旧家)に盗賊が押し入り金品を奪って逃げたが、使用人に追いつめられ切り殺された。そのたたりを恐れ墓を建て霊を慰めた。

これを「夜盗の墓」と呼んで、今でもお参りをする人がいるという。


高崎市吉井町本郷の西蓮山弘福寺。

弘福寺 (1)
弘福寺は延宝3年(1675年)覚忍上人の創建。

弘福寺 (2)
弘福寺 (3)
本堂には本尊の五大尊明王を祀る。五大尊明王とは、不動明王・隆三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五明王のこと。真言宗の伝承される密教(東密)の形態である。

弘福寺 (4)
庚申塔と甲子塔。井池堂とあるので、応処斎渕臨の書(揮毫)と思われる。
(応処斎渕臨に関しては「高碕藩絵師・応処斎渕臨の墓」参照)

弘福寺 (5)
普門品供養塔と光明真言百万遍供養塔。普門品供養塔は法華経のうちの観音経を、光明真言供養塔は光明真言(梵字23文字)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。光明真言供養塔には寛政(1789~1801年)の銘がある。

弘福寺 (6)
六地蔵は平成16年(2004年)の建立。

弘福寺 (7)
弘福寺 (8)
十三仏巡り。令和元年(2019年)の造立。三途の川(石積み)も模してあった。

弘福寺 (9)
斎藤利安の墓。宝暦10年(1760年)本郷村の生まれ。幼時から学問を好み、農業を営むかたわら私塾を開き門弟を育てる。応処斎渕臨の書の師匠にあたる。天保5年(1834年)74歳で死去。弟子たちが墓石を建立している。

弘福寺には円空仏(高崎市の重文)がある。昭和50年(1975年)に位牌堂に安置されているのを発見された。寺伝では近くの民家にあったものを寺に納めたものといわれる。


高崎市吉井町片山の応処斎渕臨の墓。

応処斎渕臨の墓
応処斎渕臨は文化2年(1805年)吉井町片山に生まれる。本名は横尾佐十郎義之。江戸に出て江戸御絵所・狩野探渕守真に学ぶ。第一高弟となり、探渕から一文字を受け「渕臨」と号す。

吉井に帰郷後は高崎藩の絵師となり、多くの門弟を育てる。山水・仏画・鶴亀・人物画を能くし、吉井近隣の寺社に現存している。本郷村(現吉井町本郷)の斎藤利安に学んだ書も優れ、「井池堂」と号している。

明治3年(1870年)66歳で没す、横尾家墓地に葬られる。墓碑は門弟らによって建てられている。


邑楽郡大泉町坂田の蚕福山(こふくさん)神宮。
前回の坂田長良神社の境内社になる。(「大泉町坂田・長良神社」参照)

蚕福山神宮 (1)
蚕福山神宮 (2)
蚕福山神宮 (3)
蚕福山神宮の由緒は不詳。もとは東京三洋電機(現パナソニック)の構内に祀られていたが、中島飛行機製作所建設の際に現在地に遷している。とすると、大正8年(1919年)ころのことかな。

蚕福山神宮 (4)
蚕福山神宮 (5)
蚕福山神宮 (6)
本殿はこけら葺き、朱塗りで獅子頭や花鳥の彫刻が施されている。本殿は京都から運んだとの説がある。また、この際の受取人が平将門との伝説もある。

蚕福山神宮 (7)
社殿裏に平将門の墓(供養塔)がある。承平2年(932年)相馬小治郎とある。これは明治初年に将門の末裔とされる相馬氏が造立したもの。この供養塔も蚕福山神宮とともに遷されている。

将門が討死したのは天慶3年(940年)だが、承平2年は何だろう? 先に書いた蚕福山神宮の本殿を運ばせたのが将門で、それが承平2年なのかな。将門供養塔は遷座前の蚕福山神宮境内に造立されていることから、そんな想像をしてみた。

また相馬氏と将門の繋がりに関しては、将門の直系(将門の子・将国の子孫)とする説、将門の養子になった(とされる)平良文の末裔である千葉氏の分家とする説など、いくつかある。


高崎市吉井町多胡の慈雲山龍源寺。

龍源寺(1)
龍源寺は華應存永が多胡村字元屋敷に創建したが、5世・智眼慶察のときに山崩れで堂宇・墓地ともに埋没した。正保3年(1646年)当地領主の旗本・門奈六左衛門の寄進により(開基)、仁叟寺9世・日州寿朔を招き曹洞宗として当地に中興開山。

龍源寺(2)
龍源寺(3)
山門は平成11年(1999年)の建立。

龍源寺(4)
龍源寺(5)
明治26年(1893年)山門以外を焼失。翌年再建されている。火災時に本尊も焼失してしまったため、廃寺となっていた陽福院(埼玉県賀美村)の三仏像を譲り受け、改めて本尊としている。現在の本堂は令和元年(2019年)の新築建立。

龍源寺(6)
本堂前の開基塔。平成31年(2019年)に開基である門奈六左衛門のご子孫の方が建立している。

龍源寺(7)
龍源寺(8)
ご神橋を渡っていくと魚籃(ぎょらん)観音という観音さまが鎮座している。魚籃(魚を入れる籠)を持っているのが特徴。

龍源寺(9)
境内の隅にカヤの木がある。まだ小さいが、龍源寺の本寺・仁叟寺のカヤの木(群馬県の天然記念物)の子株とのこと。(「仁叟寺の三銘木 ー仁叟寺 その4ー」参照)

龍源寺(10)
蚕影山の縁起碑。養蚕にご利益のある蚕影山大権現が、龍源寺脇の山腹に祀られていたが、平成15年(2003年)に本堂内に遷されている。

龍源寺(11)
義民と讃えられる白田六右衛門の墓。

白田六右衛門は多胡村の名主。元禄元年(1688年)に大干ばつが生じ、六右衛門はこの悲惨なありさまを目にして、意を決して領主より保管を命じられていた年貢米の殻倉を解放し、米をすべての人々に分け与えた。穀倉を許可なく開けることは重大な違法行為であり、六右衛門は捕えられ龍源寺前のキュウリ畑にて斬首された。元禄2年(1689年)のこと。24歳の若さであったという。

罪人として処罰されているため、墓石は非常に小さい。また、六右衛門がキュウリ畑で斬首されて以来、白田家はキュウリを作らない慣わしとなっている。

龍源寺(12)
参道には六右衛門の顕彰碑も建っている。

ちなみに、当地を治めていたのは公家から武士に転身したことで有名な鷹司松平信平。まだ7000石の旗本時代。孫の信清が大名(吉井藩主)になるのは宝永6年(1709年)のことである。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。

仁叟寺 (1)
仁叟寺は応永年間(1394~1428年)に奧平城主・奧平氏が奧平村公田に開創。大永2年(1523年)に奧平貞能が現在地に移している。その際の開基は雙林寺(渋川市中郷)4世・直翁裔正。

開創は奧平貞訓とされるが、これは法名(戒名)の「天祐院殿仁叟貞訓居士」からのもので、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。年代的には奧平貞俊あたりではないだろうか?

仁叟寺 (2)
惣門は寛政3年(1663年)の建立。江戸期の武家門の面影を留める切妻ヒノキ造り。

仁叟寺 (3)
山門前の餓鬼も時節柄マスクを付けていた。

仁叟寺 (4)
仁叟寺 (5)
山門は宝暦11年(1761年)の建立。2階部分に金剛力士像や五百羅漢を安置する。

仁叟寺 (6)
仁叟寺 (7)
本堂は大永2年(1522年)の建立。当然、種々の改修・改築はされているが、現在地に移転・建立された当時の姿を留めている。。

仁叟寺 (8)
本尊の釈迦牟尼仏を祀る。脇侍の迦葉仏、阿難ともども平成24年(2012年)に2年半の修理を終え、往年の輝きを取り戻している。

仁叟寺 (9)
仁叟寺 (10)
鐘楼堂は天和3年(1683年)の建立。最近では昭和53年(1978年)に改築されている。現在の梵鐘は平成13年(2001年)に新しく鋳造されている。

仁叟寺 (11)
旧梵鐘(鐘楼堂と同じ天和3年の鋳造)は、現在は本堂内に安置されている。小型の梵鐘であるが、江戸幕府御用鋳物師・椎名伊豫守吉広の作。吉広は芝・増上寺の巨鐘や上野・寛永寺の宝塔などの作者として知られる。先の大戦時にも、その歴史的な価値から供出を免れている。

仁叟寺 (12)
仁叟寺 (13)
創建時の開基とされる奧平貞訓の墓(中央)。先にも書いたが、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。

向かって右の宝篋印塔は「応永の塔」と呼ばれ、奧平村(開創地)から移した貞訓の墓と伝えられる。応永32年(1425年)の銘がある。見る限り集成っぽい。

手前の2基の宝篋印塔は、天文5年(1536年)と天文23年(1554年)の銘がある。こちらも集成のようだ。

仁叟寺 (14)
地頭・長谷川氏の墓。長谷川淡路守(向かって右)と長谷川讃岐守(左)。讃岐守が父で淡路守が息子。子孫に「鬼平」こと長谷川平蔵がいる。

仁叟寺 (15)
地頭・溝口豊前守勝信の墓。

仁叟寺 (16)
井伊直勝の側室の墓。直勝は井伊家安中藩2代藩主で、徳川四天王・直政の孫にあたる。

仁叟寺は当地に移転以来500年近く火災に遭っていない希有な寺院である。明治23年(1890年)には全県全宗派の中から世良田・長楽寺と仁叟寺の2寺のみが、明治政府から古社寺保存法の指定を受けている。

仁叟寺には今回紹介した以外にも多くの施設や諸仏(新旧いろいろ)、名木などがあるので、引き続き紹介していく。と言うことでつづく。


高崎市吉井町吉井の菩提山法林寺。

法林寺 (1)
法林寺は天正8年(1580年)の草創、開院は文禄2年(1593年)で開山は住蓮社安誉上人。

法林寺 (2)
法林寺 (3)
法林寺 (4)
六地蔵と願就地蔵尊。願就地蔵って、名前がいいね。

法林寺 (5)
通称「法れん寺」横丁というところが参道で、本堂は北向きである。本尊の阿弥陀如来像は鋳造で、鎌倉時代の作と推定される。総高42.8cmで、重さが10kg以上ある。

法林寺 (6)
法林寺 (7)
蔵のような建物の中を見たら仏像が多数並んでいた。本堂には「西国、坂東、秩父の併せて百体の観世音菩薩像が掲げられている」とのことなので、それらを移したのではないかな。

法林寺 (8)
鐘楼堂。宝永7年(1694年)鋳造の梵鐘があり大正時代には吉井町の時報に使用されていたが、先の大戦時に供出。

法林寺 (9)
墓地内にあるカヤの木。樹高約38m、目通り周4.2m、根元周り7m。枝張りは東西11m、南北13mなっている。本幹上部は剪定されているようだが、落雷でもあったのか(分からないけど)。

法林寺 (11)
吉井藩の代官を務めた橳島(ぬでじま)家の墓がある。初代・丹斎高堅、2代・丹太夫高茂、3代・丹治高行は、藩政と領内の民政に尽力している。

吉井藩は宝永6年(1709年)松平信清によって再々立藩以降、藩主は代々江戸定府のため、代官は地元でも最高責任者。3代・丹治高行の時に明治維新を迎え、高行は岩鼻県監察を務めている。

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