Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬のお墓・供養塔


高崎市吉井町本郷の西蓮山弘福寺。

弘福寺 (1)
弘福寺は延宝3年(1675年)覚忍上人の創建。

弘福寺 (2)
弘福寺 (3)
本堂には本尊の五大尊明王を祀る。五大尊明王とは、不動明王・隆三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五明王のこと。真言宗の伝承される密教(東密)の形態である。

弘福寺 (4)
庚申塔と甲子塔。井池堂とあるので、応処斎渕臨の書(揮毫)と思われる。
(応処斎渕臨に関しては「高碕藩絵師・応処斎渕臨の墓」参照)

弘福寺 (5)
普門品供養塔と光明真言百万遍供養塔。普門品供養塔は法華経のうちの観音経を、光明真言供養塔は光明真言(梵字23文字)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。光明真言供養塔には寛政(1789~1801年)の銘がある。

弘福寺 (6)
六地蔵は平成16年(2004年)の建立。

弘福寺 (7)
弘福寺 (8)
十三仏巡り。令和元年(2019年)の造立。三途の川(石積み)も模してあった。

弘福寺 (9)
斎藤利安の墓。宝暦10年(1760年)本郷村の生まれ。幼時から学問を好み、農業を営むかたわら私塾を開き門弟を育てる。応処斎渕臨の書の師匠にあたる。天保5年(1834年)74歳で死去。弟子たちが墓石を建立している。

弘福寺には円空仏(高崎市の重文)がある。昭和50年(1975年)に位牌堂に安置されているのを発見された。寺伝では近くの民家にあったものを寺に納めたものといわれる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


上州まったり紀行の中から「お墓・供養塔」に関するものをリスト化したもの。一応、有名人・著名人、歴史的な人物(氏族)が対象。中には、「伝」・「?」も多いけどね(笑)。


前橋市(旧郡部を除く)
大室太郎の墓(観昌寺)
岩佐直治中佐の墓(松竹院)
前橋藩酒井家家老・高須隼人の墓(正幸寺)
平敦盛の供養塔(泉蔵寺)
石田玄圭の墓
静御前のお墓?
赤穂浪士・矢頭右衛門七の母の墓(大蓮寺)
新田義貞の首級を持ち帰った(?)「覚明」の墓(宝禅寺)
中臣羽鳥連の墓(釈迦尊寺)
名馬・磨墨の墓(祝昌寺)
酒井忠世家臣・本城氏の墓(長昌寺)
初代前橋市長・下村善太郎の墓(龍海院)
剣聖・上泉信綱の墓(西林寺)
石川氏の墓(最善寺)
常盤御前のお墓?(極楽寺)
静御前のお墓?(養行寺)
萩原朔太郎のお墓(政淳寺)
淀君のお墓?(元景寺)
秋元氏歴代の墓所
德川譜代・酒井家累代の墓(龍海院)


前橋市(旧大胡町、旧宮城村、旧粕川村、旧富士見村)
大前田英五郎の墓 その2
牧野家家老・山本帯刀の墓(長興寺)
伊勢崎藩主・稲垣長茂両親の墓(長興寺)
満蒙開拓移民の父・東宮鐡男陸軍大佐の墓(金剛寺)
北爪将監の供養塔(赤城寺)
梶原景時父子の墓?(珊瑚寺)
牧野家の菩提寺(養林寺)
大胡太郎(藤原重俊)の墓(長善寺)
大前田英五郎の墓
船津傳次平の墓


伊勢崎市、佐波郡(玉村町)
金井烏洲と一族の墓
国定忠治の墓 その2(善応寺)
俳人・栗庵似鳩の墓
板垣信方の墓(常清寺)
伊勢崎藩の藩校教授・浦野神村の墓
沼田景義のご子孫の墓(泉龍寺)
那波宗広の墓(泉龍寺)
大谷義継の孫・大谷隆昌の墓(龍昌院)
跡部氏累代の墓(紅厳寺跡)
弥勒寺音次郎・音八父子の墓
福島泰蔵大尉の墓(天人寺)
村上随憲の墓(長光寺)   
那波教元の墓?(富塚円福寺)
駒井政直・親直の墓(宝幢院)
駒井氏累代の墓(竹芳寺)
斎藤宜義の墓(宝蔵寺)
小畠武堯の墓(善応寺)
伊勢崎藩家老・関當義・重嶷父子の墓(同聚院)
那波小太郎・小次郎の墓(天増寺)
稲垣氏累代の墓(天増寺)
藤原秀郷(俵藤太)の供養塔(宝珠寺)
国定忠治の墓(養寿寺)


渋川市、北群馬郡(吉岡町、榛東村)
男性助産師・石田伍助の供養塔
白井長尾氏累代の墓(空恵寺)
角田無幻道人の遺髪塚
絵師・根本常南の墓
白井長尾氏家臣・飯塚大学の石堂
宮大工・岸豊後守積保の墓
堀口藍園の墓
高橋蘭斎の墓(遍照寺)
吉田芝渓の墓
伝・桃井直常の墓 その2(金剛寺跡)
伝・桃井直常の墓
新田一門・大島氏の墓
永岡形部左衛門の墓(興禅寺)
三原田城主・永井氏累代の墓(興禅寺)
山崎石燕の墓と鳥酔翁塚(雙林寺)
養蚕家・馬場重久の墓
里見義秀の供養塔?(金蔵寺)
本多廣孝の墓(源空寺)
木暮足翁の墓(真光寺)


高崎市(旧郡部を除く)
新田義重の墓?(永福寺)
熊の墓(妙音寺)
高崎五万石騒動中総代・山田勝弥の墓
高崎五万石騒動大総代・小島文次郎の墓(大森院)
高崎五万石騒動大総代・佐藤三喜蔵の墓(普門寺)
高崎五万石騒動大総代・高井喜三郎の墓
七士殉職供養塔
小栗上野介忠順の養嗣子・又一忠道の墓
軍師・山本勘助の子孫の墓(大雲寺)
稲川政右衛門の墓(常安寺)
根津政直の墓(常安寺)
お染の墓(木部町安楽寺)
木部範虎の墓(心洞寺)
木部白満の墓(光台寺)
岩鼻代官・吉川栄左衛門の墓(岩鼻町観音寺)
内村鑑三家の墓(若松町光明寺)
飯盛り女の墓(九品寺)
江原源衛左門重久の墓(慈眼寺)
井上保三郎の墓(荘厳寺)
長野氏累代の墓 その2(来迎寺)
徳川忠長の墓(大信寺)
元ロシア人兵士の墓(龍廣寺)
村上鬼城の墓(龍廣寺)
倉賀野城主・金井秀景の墓(永泉寺)


高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)
高崎藩絵師・応処斎渕臨の墓
義民・白田六右衛門の墓(龍源寺)
井伊直勝の側室の墓(仁叟寺)
地頭・長谷川氏の墓/地頭・溝口豊前守勝信の墓(仁叟寺)
奧平貞訓の墓(仁叟寺)
吉井藩代官・橳島家3代の墓(法林寺)
菅沼定利の墓(玄太寺)
義民・三木市右衛門の墓
竹本百合太夫の墓
竹本土佐太夫の墓
長野業盛夫人・藤鶴姫の墓
長谷川勘蔵の墓(光心寺)
榛名山座主・快尊、忠尊、快承の墓
長野業正の長男・吉業の墓(善龍寺)
由良国繁の墓?(金龍寺)
木部姫の供養塔(御沼オカミ神社)
織田信長、細川興秋の供養塔(弥勒寺)
火打金鍛冶職人・中野孫三郎の墓
土師清大夫の墓(浄泉寺)
大和郡山藩柳沢家2代・柳沢信鴻の継室の墓(宝勝寺)
福田赳夫元首相の墓(徳昌寺)
小串氏の墓所(地勝寺)
井伊直政の継父・松下源太郎の墓(龍門寺)
内藤昌豊・昌月父子の墓(善龍寺)
伝・長野業盛の墓
長野業正の墓(長純寺)
長野氏累代の墓(長年寺)
小栗上野介の墓(東善寺)


安中市
中山道坂本宿 下の本陣・金井家の墓(青松寺)
金井忠兵衛の墓
安中忠政の墓(全性寺)
医学者・荒木寅三郎の墓
山田三川の墓(龍昌寺)
新島襄の祖父と弟の墓(妙光院)
安中草三郎の妻・歌の墓?(東光院)
安中忠親の墓(桂昌寺)
安中忠清の墓(久昌寺)
下曽根氏累代の墓(信照寺)
詩人・大手拓次の墓
伊勢義盛の墓?(常楽寺)
碓氷定光の供養塔(金剛寺)
依田政知と後閑信純の墓(長源寺)
磯貝雲峰の墓(自性寺)
高崎藩主松平康長の娘・露姫の墓(実相寺)
大道寺政繁の墓(補陀寺)
簗瀬八幡平の首塚
太山融斉と柏木義圓の墓(西廣寺)
妖怪・チャンコロリンの墓(大泉寺)
小野栄重の墓(南窓寺)
井伊直政正室・唐梅院の墓(大泉寺)
伝佐々木盛綱夫妻の墓(松岸寺)
伝赤穂藩士・大野九郎兵衛の墓(松岸寺)


富岡市、甘楽郡(甘楽町、下仁田町、南牧村)
下仁田戦争・水戸天狗党戦死者の墓
小幡氏歴代の墓(興巌寺)
小幡藩織田家家老・吉田玄番家累代の墓(宝勝寺)
横尾丹波守吉泉の墓
稲部市五郎種昌の墓(金剛院)
橋本暮村の墓(伝宗寺)
高田大和守憲頼の墓(陽雲寺)
伝・庭屋氏累代の墓
七日市藩主・前田家御宝塔
富岡製紙工女の墓 その2(海源寺)
高橋道斎の墓(常住寺)
お菊の墓 その2
前田利家側室・明運尼の墓(永心寺)
長岡家歴代党首のの墓
お菊の墓(宝積寺)
小幡氏歴代の墓(宝積寺)
七日市藩歴代藩主の墓(長学寺)
富岡製紙工女の墓(龍光寺)
織田信雄の墓


藤岡市、多野郡(神流町、上野村)
義民・馬之助の墓(興春寺)
僧・実相の墓(光源院)
伝足利義輝の孫・木喰覚海上人の墓(光源院)
高山社2代目社長・町田菊次郎の墓(龍田寺)
芦田康勝の室・了源院の墓(天龍寺)
長谷川長源夫妻の墓(祖師堂)
道忠禅師の供養塔(浄法寺)
木地師の墓 その2(泉龍寺)
木地師の墓(宝蔵寺)
長谷川勘蔵の墓(光心寺)
土屋山城守高久の墓
松井宗直の墓 その2(光徳寺)
松井宗直の墓(源性寺)
高山遠江守重栄の墓(興禅院)
高山長五郎の墓(興禅院)
山内上杉氏累代の墓(円満寺)
菊川英山の墓(成道寺)
算聖・関孝和の墓(光徳寺)
芦田氏累代の墓(光徳寺)
長井正實の墓、依田信守・信政の墓(天陽寺)
義民 堀越三右衛門の墓


太田市(旧郡部を除く)
勾当内侍の墓(太田市・大圓寺)
新田義興の供養塔(太田・東光寺)
矢場氏累代の墓(恵林寺)
新田義忠の墓?(浄光寺)
新田義興の墓?(威光寺)
新田氏累代の墓(円福寺)
新田義貞の供養塔(金龍寺)
呑龍上人の墓・新田義重の墓(大光院)


太田市(旧新田町、旧尾島町、旧藪塚本町)
石田三成の娘・辰姫の墓(東楊寺)
初代古河公方・足利成氏の墓(東雲寺)
岩松守純・豊純父子の供養塔(長楽寺)
栄朝禅師の無縫塔(長楽寺)
世良田義季の墓?(長楽寺)
長楽寺5世・月船琛海の墓所(普光庵跡)
「日本の飛行機王」中島知久平の墓(徳性寺)
横瀬泰繁の墓?(龍得寺)
茂呂権蔵の墓(太田・普門寺)
長慶天皇の陵墓?(長慶寺)
伝・藪塚氏の墓
津軽藩代官・足立氏の墓(東楊寺)
勾当内侍の墓と新田義貞の首塚(花見塚公園)
悪源太義平の墓?(清泉寺)
岩松尚純夫妻の墓(尚純萩公園)
源義国の墓所?(義国神社)
伝・新田義重夫妻の墓
世良田義季累代の墓(長楽寺)


桐生市
大関・秀ノ山(9代横綱)の墓(定善寺)
高山彦九郎の長男・儀助の墓(定善寺)
楳本法神の墓(桐生市黒保根町・医光寺)
小田原の機利者・山上郷右衛門の供養塔(常廣寺)
桐生市名誉市民・森喜作氏の墓(大蔵院)
由良氏四天王・高橋英元の墓(祥雲寺)
下村昌伯の墓(龍泉院)
細川内膳の墓(文昌寺)
桐生氏累代の墓(西方寺)
由良成繁の墓(鳳仙寺)
彦部家の墓所(福厳寺)
伝・新田義貞の首塚(善昌寺)


みどり市
名誉県民・長谷川四郎元衆議院の墓(世音寺)
岡登景能の墓(国瑞寺)
山田氏および里見兄弟の墓


館林市、邑楽郡(大泉町、板倉町、邑楽町、千代田町、明和町)
平将門の供養塔(蚕福山神宮)
富岡氏末裔・野村孫兵衛と累代の墓(宝寿院)
岡戸畊榮の墓(宝珠寺)
3世・紫峰庵夫雪、4世・紫峰庵夫雪の墓(長性寺)
奇人・秋妻十兵衛の墓(光林寺)
細谷秀国の墓所(五位堂)
初代・紫峰庵夫雪の墓(授楽寺)
大谷休泊の墓
原田種政の墓?(龍興寺)
館林騒動・三義人の供養碑(教学院)
浮世絵師・北尾重光の墓(覚応寺)
徳川四天王・榊原康政の墓(善導寺)
榊原康政の孫・松平忠次の生母の墓(善長寺)
戸泉鋼作の墓(大道寺)
生田萬父祖の墓(大道寺)
田山花袋の姉の墓(常光寺)
新田義貞四天王・篠塚伊賀守重廣の墓(大信寺)
千代田町長・大谷典三氏の墓(舞木円福寺)
赤井照光の墓(光恩寺)
伝・児島高徳の墓(高徳寺)
富岡秀信の供養塔(龍泉院)
田中正造の墓(雲龍寺)
楠木正成の首塚?(楠木神社)
徳川四天王・榊原康政の墓(善導寺)
「お辻」の供養塔(善長寺)


沼田市、利根郡(みなかみ町、片品村、川場村、昭和村)
加沢平次左衛門の墓
海野輝幸と嫡男・幸貞の墓(海野塚)
会津藩白虎隊・町野久吉の墓
伝・真田熊之助の墓 その2(天桂寺)
伝・真田熊之助の墓
上杉謙信の供養塔(如意寺)
土岐家旧藩主の墓石(東禅寺)
発智為時の墓(東光禅寺)
薄幸の女流歌人・江口きちの墓(桂昌寺)
伝・真田信利の墓(弥勒寺)
名胡桃城代・鈴木重則の墓?(正覚寺)
真田信政三男・信武の墓(成孝院)
真田信政二男・信守の墓(舒林寺)
沼田平八郎景義の墓(沼田大明神)
真田信政側室・浜松の局の墓(東源寺)
加藤清正の孫・藤枝正良の墓(妙光寺)
真田信吉側室・慶寿院の墓(妙光寺)
真田信吉の墓(天桂寺)
真田信之正室・小松姫の墓(正覚寺)
新田義宗の墓?(雲谷寺)


吾妻郡(中之条町、長野原町、草津町、嬬恋村、東吾妻町、高山村)
僧・空閑の墓
富豪・加部家の墓(大運寺)
吾妻太郎行盛の墓(長福寺)
小渕恵三元首相の墓(林昌寺)
平九の墓(皇大神宮)

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市吉井町片山の応処斎渕臨の墓。

応処斎渕臨の墓
応処斎渕臨は文化2年(1805年)吉井町片山に生まれる。本名は横尾佐十郎義之。江戸に出て江戸御絵所・狩野探渕守真に学ぶ。第一高弟となり、探渕から一文字を受け「渕臨」と号す。

吉井に帰郷後は高崎藩の絵師となり、多くの門弟を育てる。山水・仏画・鶴亀・人物画を能くし、吉井近隣の寺社に現存している。本郷村(現吉井町本郷)の斎藤利安に学んだ書も優れ、「井池堂」と号している。

明治3年(1870年)66歳で没す、横尾家墓地に葬られる。墓碑は門弟らによって建てられている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


邑楽郡大泉町坂田の蚕福山(こふくさん)神宮。
前回の坂田長良神社の境内社になる。(「大泉町坂田・長良神社」参照)

蚕福山神宮 (1)
蚕福山神宮 (2)
蚕福山神宮 (3)
蚕福山神宮の由緒は不詳。もとは東京三洋電機(現パナソニック)の構内に祀られていたが、中島飛行機製作所建設の際に現在地に遷している。とすると、大正8年(1919年)ころのことかな。

蚕福山神宮 (4)
蚕福山神宮 (5)
蚕福山神宮 (6)
本殿はこけら葺き、朱塗りで獅子頭や花鳥の彫刻が施されている。本殿は京都から運んだとの説がある。また、この際の受取人が平将門との伝説もある。

蚕福山神宮 (7)
社殿裏に平将門の墓(供養塔)がある。承平2年(932年)相馬小治郎とある。これは明治初年に将門の末裔とされる相馬氏が造立したもの。この供養塔も蚕福山神宮とともに遷されている。

将門が討死したのは天慶3年(940年)だが、承平2年は何だろう? 先に書いた蚕福山神宮の本殿を運ばせたのが将門で、それが承平2年なのかな。将門供養塔は遷座前の蚕福山神宮境内に造立されていることから、そんな想像をしてみた。

また相馬氏と将門の繋がりに関しては、将門の直系(将門の子・将国の子孫)とする説、将門の養子になった(とされる)平良文の末裔である千葉氏の分家とする説など、いくつかある。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市吉井町多胡の慈雲山龍源寺。

龍源寺(1)
龍源寺は華應存永が多胡村字元屋敷に創建したが、5世・智眼慶察のときに山崩れで堂宇・墓地ともに埋没した。正保3年(1646年)当地領主の旗本・門奈六左衛門の寄進により(開基)、仁叟寺9世・日州寿朔を招き曹洞宗として当地に中興開山。

龍源寺(2)
龍源寺(3)
山門は平成11年(1999年)の建立。

龍源寺(4)
龍源寺(5)
明治26年(1893年)山門以外を焼失。翌年再建されている。火災時に本尊も焼失してしまったため、廃寺となっていた陽福院(埼玉県賀美村)の三仏像を譲り受け、改めて本尊としている。現在の本堂は令和元年(2019年)の新築建立。

龍源寺(6)
本堂前の開基塔。平成31年(2019年)に開基である門奈六左衛門のご子孫の方が建立している。

龍源寺(7)
龍源寺(8)
ご神橋を渡っていくと魚籃(ぎょらん)観音という観音さまが鎮座している。魚籃(魚を入れる籠)を持っているのが特徴。

龍源寺(9)
境内の隅にカヤの木がある。まだ小さいが、龍源寺の本寺・仁叟寺のカヤの木(群馬県の天然記念物)の子株とのこと。(「仁叟寺の三銘木 ー仁叟寺 その4ー」参照)

龍源寺(10)
蚕影山の縁起碑。養蚕にご利益のある蚕影山大権現が、龍源寺脇の山腹に祀られていたが、平成15年(2003年)に本堂内に遷されている。

龍源寺(11)
義民と讃えられる白田六右衛門の墓。

白田六右衛門は多胡村の名主。元禄元年(1688年)に大干ばつが生じ、六右衛門はこの悲惨なありさまを目にして、意を決して領主より保管を命じられていた年貢米の殻倉を解放し、米をすべての人々に分け与えた。穀倉を許可なく開けることは重大な違法行為であり、六右衛門は捕えられ龍源寺前のキュウリ畑にて斬首された。元禄2年(1689年)のこと。24歳の若さであったという。

罪人として処罰されているため、墓石は非常に小さい。また、六右衛門がキュウリ畑で斬首されて以来、白田家はキュウリを作らない慣わしとなっている。

龍源寺(12)
参道には六右衛門の顕彰碑も建っている。

ちなみに、当地を治めていたのは公家から武士に転身したことで有名な鷹司松平信平。まだ7000石の旗本時代。孫の信清が大名(吉井藩主)になるのは宝永6年(1709年)のことである。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。

仁叟寺 (1)
仁叟寺は応永年間(1394~1428年)に奧平城主・奧平氏が奧平村公田に開創。大永2年(1523年)に奧平貞能が現在地に移している。その際の開基は雙林寺(渋川市中郷)4世・直翁裔正。

開創は奧平貞訓とされるが、これは法名(戒名)の「天祐院殿仁叟貞訓居士」からのもので、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。年代的には奧平貞俊あたりではないだろうか?

仁叟寺 (2)
惣門は寛政3年(1663年)の建立。江戸期の武家門の面影を留める切妻ヒノキ造り。

仁叟寺 (3)
山門前の餓鬼も時節柄マスクを付けていた。

仁叟寺 (4)
仁叟寺 (5)
山門は宝暦11年(1761年)の建立。2階部分に金剛力士像や五百羅漢を安置する。

仁叟寺 (6)
仁叟寺 (7)
本堂は大永2年(1522年)の建立。当然、種々の改修・改築はされているが、現在地に移転・建立された当時の姿を留めている。。

仁叟寺 (8)
本尊の釈迦牟尼仏を祀る。脇侍の迦葉仏、阿難ともども平成24年(2012年)に2年半の修理を終え、往年の輝きを取り戻している。

仁叟寺 (9)
仁叟寺 (10)
鐘楼堂は天和3年(1683年)の建立。最近では昭和53年(1978年)に改築されている。現在の梵鐘は平成13年(2001年)に新しく鋳造されている。

仁叟寺 (11)
旧梵鐘(鐘楼堂と同じ天和3年の鋳造)は、現在は本堂内に安置されている。小型の梵鐘であるが、江戸幕府御用鋳物師・椎名伊豫守吉広の作。吉広は芝・増上寺の巨鐘や上野・寛永寺の宝塔などの作者として知られる。先の大戦時にも、その歴史的な価値から供出を免れている。

仁叟寺 (12)
仁叟寺 (13)
創建時の開基とされる奧平貞訓の墓(中央)。先にも書いたが、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。

向かって右の宝篋印塔は「応永の塔」と呼ばれ、奧平村(開創地)から移した貞訓の墓と伝えられる。応永32年(1425年)の銘がある。見る限り集成っぽい。

手前の2基の宝篋印塔は、天文5年(1536年)と天文23年(1554年)の銘がある。こちらも集成のようだ。

仁叟寺 (14)
地頭・長谷川氏の墓。長谷川淡路守(向かって右)と長谷川讃岐守(左)。讃岐守が父で淡路守が息子。子孫に「鬼平」こと長谷川平蔵がいる。

仁叟寺 (15)
地頭・溝口豊前守勝信の墓。

仁叟寺 (16)
井伊直勝の側室の墓。直勝は井伊家安中藩2代藩主で、徳川四天王・直政の孫にあたる。

仁叟寺は当地に移転以来500年近く火災に遭っていない希有な寺院である。明治23年(1890年)には全県全宗派の中から世良田・長楽寺と仁叟寺の2寺のみが、明治政府から古社寺保存法の指定を受けている。

仁叟寺には今回紹介した以外にも多くの施設や諸仏(新旧いろいろ)、名木などがあるので、引き続き紹介していく。と言うことでつづく。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市吉井町吉井の菩提山法林寺。

法林寺 (1)
法林寺は天正8年(1580年)の草創、開院は文禄2年(1593年)で開山は住蓮社安誉上人。

法林寺 (2)
法林寺 (3)
法林寺 (4)
六地蔵と願就地蔵尊。願就地蔵って、名前がいいね。

法林寺 (5)
通称「法れん寺」横丁というところが参道で、本堂は北向きである。本尊の阿弥陀如来像は鋳造で、鎌倉時代の作と推定される。総高42.8cmで、重さが10kg以上ある。

法林寺 (6)
法林寺 (7)
蔵のような建物の中を見たら仏像が多数並んでいた。本堂には「西国、坂東、秩父の併せて百体の観世音菩薩像が掲げられている」とのことなので、それらを移したのではないかな。

法林寺 (8)
鐘楼堂。宝永7年(1694年)鋳造の梵鐘があり大正時代には吉井町の時報に使用されていたが、先の大戦時に供出。

法林寺 (9)
墓地内にあるカヤの木。樹高約38m、目通り周4.2m、根元周り7m。枝張りは東西11m、南北13mなっている。本幹上部は剪定されているようだが、落雷でもあったのか(分からないけど)。

法林寺 (11)
吉井藩の代官を務めた橳島(ぬでじま)家の墓がある。初代・丹斎高堅、2代・丹太夫高茂、3代・丹治高行は、藩政と領内の民政に尽力している。

吉井藩は宝永6年(1709年)松平信清によって再々立藩以降、藩主は代々江戸定府のため、代官は地元でも最高責任者。3代・丹治高行の時に明治維新を迎え、高行は岩鼻県監察を務めている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市吉井町吉井の吉井山玄太寺

玄太寺 (1)
玄太寺は慶長5年(1600年)吉井藩主・菅沼定利の開基、仁叟寺10世・月峯牛雪の開山。菅沼氏の祈願所となった。

玄太寺 (2)
門標横には地蔵菩薩像。

玄太寺 (3)
本堂は昭和30年(1955年)に焼失、同32年(1957年)に再建されている。

旧吉井町役場(吉井支所)の近くにあり、街中のため境内は非常に狭い(昔は広かったんだろうけど)。パッと見、境内中お墓と思えるほど。

玄太寺 (4)
本堂前の菅沼定利の墓。菅沼定利は領内で検地を実施し、六斎市を催すなど治政の安定化に努めた。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の一員として信州上田城の真田昌幸攻めに参加している。ただ、これが原因で秀忠軍は関ヶ原に遅参している。

定利は慶長7年(1602年)に死去すると、同じく吉井町の仁叟寺に葬られたが、宝暦6年(1756年)末裔・菅沼定用により玄太寺に移されている。

玄太寺 (5)
観音堂。観音堂は玄太寺より古く、菅沼定利が関ヶ原出陣時にこの観音さまに戦勝祈願を行い出陣している。定利は戦中に危ういところ難を逃れたので、この観音さまを大いに信仰し玄太寺を創建したとされる。

玄太寺 (6)
玄太寺 (7)
玄太寺 (8)
本尊の聖観音像は弘法大師の御作とされる。弘法大師が修行中のまだ25歳のとき、大病を患い一命が危うい状態となった。その際、観音さまの霊夢を感じ観音像を彫り祈願したところ、たちどころに快癒したという。その観音像を守護し巡国中、当地に堂庵を結び観音像を安置したという。

観音堂は天保5年(1835年)焼失、明治13年(1880年)の再建。扁額はほぼ読めない。

玄太寺 (9)
観音堂境内の弘法大師像。

玄太寺 (10)
宝塔。立派な宝塔である。ただ、紀年銘などは見てこなかった。

玄太寺 (11)
阿弥陀三尊石像。中央の阿弥陀如来像は後背が一部欠損している。他の二尊は観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像と思われる。上部が欠損しているが、いずれも阿弥陀如来の脇侍と思われる。鎌倉時代の作と推定されている。

相当風化が進んでおり、屋根だけでなく、覆屋で防護するなりの対策が必要だと思う。

このエントリーをはてなブックマークに追加


邑楽郡大泉町寄木戸の天徳山宝寿院法華寺。

宝寿院 (1)
加富貴御前は楠木正行(楠木正成の嫡子)が四條畷の戦いにおいて討死(正平3年/貞和4年(1348年))した後、南朝の再起を図るため16人の家臣(小泉十六氏)と上野国小泉に下向してきたとされる。ここで法志庵という草庵を結び、一族の供養・菩提を弔った。

後の天正年間(1573~93年)に龍泉院3世・窈山正精が宝珠庵として開山。一時衰退するが、元禄4年(1701年)に3世・悦山正欣が宝珠庵を当地に移転し中興、宝寿院と改める。その際の開基は小泉城主の富岡氏末裔・野村孫兵衛である。

宝寿院 (2)
門前にはお地蔵さんが並ぶ。

宝寿院 (3)
宝寿院 (4)
山門前に大きな鳥かごがあり、たくさんの小鳥が囀っていた。

宝寿院 (5)
宝寿院 (6)
山門は昭和62年(1987年)の再建。

宝寿院 (7)
本堂は昭和45年(1970年)の再建。平成21年(2009年)改修。

宝寿院 (8)
中興開基の野村孫兵衛と累代の墓。

宝寿院 (9)
推定樹齢450年とされるイトヒバ。

宝寿院 (10)
毘沙門天像。寄木戸地区には昭和30年(1955年)ころまで毘沙門堂があり、毘沙門天信仰があったとされる。そこで祀られてた毘沙門天を宝寿院に遷した平成11年(1999年)の造立。

宝寿院 (11)
宝寿院 (12)
平成25年(2013年)建立の毘沙門堂と毘沙門天像。先に毘沙門天が宝寿院に遷されたことを機に、楠木一族や毘沙門天を信仰していた先人の供養のため毘沙門堂を再建。

毘沙門天と楠木一族の関係は、正成は両親が信貴山の朝護孫子寺(奈良県生駒郡)の毘沙門天に祈って授かった子とされることから。

このエントリーをはてなブックマークに追加


邑楽郡千代田町下中森の愛宕山宝珠寺。

宝珠寺 (1)
宝珠寺 (2)
宝珠寺の由緒は不詳。山門は平成11年(1999年)に改修されている。

宝珠寺 (3)
宝珠寺 (4)
明治43年(1910年)の利根川氾濫により堤防が決壊、宝珠寺は砂礫のため埋没。その後再建したが、大正元年(1912年)台風により倒壊。同3年(1914年)村内観音堂を移して本堂としている。
(明治43年の利根川氾濫に関しては「千代田町萱野・瀧澤山洞源寺」参照)

現在の本堂は平成28年(2016年)の新築建立。

宝珠寺 (5)
宝珠寺 (6)
境内の庚申塔・青面金剛像やお地蔵さん。

宝珠寺 (7)
志海上人と宗海上人の供養塔(行人塚)。寛文11年(1671年)利根川の洪水に村人が難渋している姿を見、その苦難を救おうと2人の行人が堤防に穴を掘り、その中に入って入定した。村人は行人塚として祀り、寛保18年(1733年)には供養塔を建立した。

その後、利根川の改修により行人塚は河川敷となったが、供養塔は村の観音堂に移し供養を続けてきた。しかし、村のために一身を捧げてくれた大恩人が忘れられる恐れもあり、供養塔を昭和49年(19748年)宝珠寺境内に移している。

前側の新しい供養塔は昭和62年(1987年)の建立。

宝珠寺 (8)
岡戸畊榮(こうえい)の墓。当地生まれの岡戸畊榮(本名:幸四郎)は幼少より学問を好み、江戸で漢学や国学を学ぶ。帰郷後はさらに書や俳諧も究め、館林で私塾を開き青少年の教育に励み多くの人材を世に出している。大正10年(1921年)71歳で永眠。

このエントリーをはてなブックマークに追加


邑楽郡千代田町上五箇の医王山長性寺。

長性寺 (1)
長性寺は寛永15年(1639年)僧・雄等が上中森に開創。

長性寺 (2)
長性寺 (3)
本堂は嘉永4年(1851年)に火災により焼失。再建後の明治43年(1910年)利根川の氾濫で跡形もなく流出。翌44年に字石頭に仮本堂を建てたが荒廃。昭和48年(1973年)字駒形(現在地)に本堂を建立している。
(明治43年の利根川氾濫に関しては「千代田町萱野・瀧澤山洞源寺」参照)

長性寺 (4)
百番供養塔。西国33ヶ所、板東33ヶ所、秩父34ヶ所の100霊場の巡拝達成記念。お年寄りや身体の弱い方などが、この供養塔をお参りすることで100ヶ所巡拝したことと同じご利益が得られるとされる。

長性寺 (5)
本堂前の仏足石。長指相で足下二輪相になっている。

長性寺 (6)
本堂から数百m離れた所にある長性寺北の堂。

長性寺 (7)
3世・紫峰庵夫雪の墓。
初代・夫雪の子。文学を好み、江戸に出て亀田綾瀬に漢学を学ぶ。帰郷後は村内子弟のための塾を開いている。書道にも秀でていたという。慶応3年(1867年)没。享年60歳。

同じく上五箇の愛宕神社に3世を顕彰する「夫雪翁誌碑」がある。
(「亀田三先生の筆跡 -上五箇愛宕神社-」参照)

長性寺 (8)
4世・紫峰庵夫雪の墓。
3世・夫雪の子。幼くして文学を嗜み、父祖の意志を継ぎ門弟を育てる。明治9年(1876年)小学校教員となり、同21年(1888年)夫雪の名跡を継ぐ。大正11年(1922年)没。享年80歳。

ちなみに、初代のお墓は上中森の授楽寺にある(2世は初代の弟子で血縁関係はない)。
(「初代・紫峰庵夫雪の墓 -授楽寺-」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


邑楽郡邑楽町秋妻の秋妻山光林寺。

光林寺 (1)
光林寺は天長2年(825年)恵海上人の開創で、永仁5年(1297年)時宗2代・遊行上人である他阿(真教上人)の中興開山。

光林寺 (2)
光林寺 (3)
現在の本堂は昭和53年(1978年)の建立。

光林寺 (4)
光林寺 (5)
境内の観音堂。昭和54年(1979年)に改修されている。祀られている子安観音は行基の作と伝わる。

光林寺 (6)
馬頭観音や百番供養塔など。

光林寺 (7)
聖観音像。

光林寺 (8)
無縁墓の中に「奇人秋妻十兵衛」と呼ばれた築地十兵衛の墓がある。文政11年(1829年)に没した十兵衛さんは数々の奇行のため「奇人」と呼ばれていた。ただその奇行といわれているものを見る限りでは、生真面目な人だったという印象。多少融通が利かない面もあったようだが。

最期は、突然の雷の中、皆が逃げろと言うのに「雷様は鳴るのが商売、オレは田の草刈りが商売」と逃げなかった。すると腰のキセルに落雷し亡くなったという。

光林寺 (9)
墓地の一角にあるBー29搭乗員の埋葬地跡。
昭和20年(1945年)2月10日、太田市の中島飛行機製作所の爆撃に飛来した118機のBー29のうち2機が空中衝突し、光林寺の西南600mの地点に墜落。乗員23名が犠牲となった。死亡した23名は光林寺の墓地に手厚く埋葬された。

戦後まもなく進駐軍が遺体を引き取りにきたが、丁重に葬られていた事に驚き、大変感謝していたという。以降、光林寺では毎年お盆にBー29搭乗員の冥福を祈っている。

同じ秋妻の清岩寺にもBー29搭乗員の慰霊碑がある。
(「B-29・グラマン搭乗員の慰霊碑 -清岩寺-」参照)

このエントリーをはてなブックマークに追加


邑楽郡邑楽町篠塚の五位堂。

五位堂 (1)
五位堂の由緒は不詳。細谷秀国が新田義貞の鎌倉幕府倒幕の恩賞として「従五位右馬助」に叙任され、人々が秀国のことを五位殿と呼んでいたことに由来すると伝わる。

細谷氏は新田宗家5代・政氏の長男・国氏が細谷に領地を得たことから細谷氏を名乗っている。ちなみに、新田宗家は政氏の5男・基氏が継いでいる。基氏の孫が歴史に名高い義貞である。

秀国は細谷氏の祖・国氏の孫で、新田義貞(宗家8代)とは「はとこ」の関係。延元3年(1338年)の義貞討死後も再起を図ろうと丹後国(京都府)に身を潜めていたが、正平2年(1347年)帰郷している(北朝では貞和3年)。太平記に「天下の人傑、武略の名将」と評されるほどの人物。

五位堂 (2)
五位堂 (3)
堂内には阿弥陀如来像を中心に千一体仏が安置され、子授け仏として信仰を集めている。現在でも木製の小さな仏像を借り受け、子宝に恵まれると返す習わしがある。

五位堂 (4)
秀国の墓所(?)。邑楽町教育委員会設置の五位堂の標柱の側面に墓所とあったので。写真の塚のようなものがそうなのかな。

ただ、五位堂のすぐ隣に細谷家累代の墓地があり、この中にあるかなぁとも思った。立派な宝篋印塔も数基あったし。

五位堂 (5)
五位堂と細谷家墓地を覆うように大きなシラカシがある。樹高18.5mで根回りは6.6mの巨木。幹は4本に分かれ、幹周りは最大2.6m。

細谷館跡 (1)
細谷館跡 (2)
五位堂から北に数百mのところに、秀国にが帰郷後に居住した館跡がある。細谷館や右馬助館と呼ばれる。

遺構は東西160m、南北130mに及び、末裔が天正18年(1590年)に帰農するまで、在地武士の本拠となっていた。年代的に由良氏に従い北条方となっていたようだ。

細谷館跡 (3)
県道沿いに塁濠跡が残り、中世豪族の屋敷構えをよく伝えている。

細谷氏、ならびに秀国に関して何も知らなかったので、この記事を書くにあたっていろいろ調べたことで、非常に勉強になった。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市寺尾町の太白山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺 (2)
永福寺は新田氏の祖・義重が開創した永福庵が始まりと伝わる。

永福寺 (3)
永福寺 (4)
永福寺 (5)
堂宇は大正7年(1918年)に火災により焼失。昭和3年(1928年)に再建されている。但し、山門のみ火災を免れ天明3年(1783年)の建立時の姿を残している。本堂屋根には新田氏の家紋「大中黒」が。

永福寺 (6)
永福寺 (7)
梵鐘は享保7年(1722年)に鋳物師・中林儀右衛門惟貞の鋳造。総高106cm、口径64cm、撞座には菊のご紋が使用され、池の間には仏語などが刻まれている。先の大戦時に供出を免れている。

永福寺 (8)
永福寺 (9)
境内の観音堂。永福寺は昭和55年(1980年)に開創された新選高崎33観音の8番札所になっている。

永福寺 (10)
永福寺 (11)
墓地には新田義重の墓がある。

源頼朝が挙兵した際、義重はすぐに参陣せず日和見的な態度をとったため、鎌倉幕府内で新田氏が冷遇される原因となった。頼朝挙兵時、義重は寺尾城(館)に籠もっていたとされ、その「寺尾」には太田・新田荘説と高崎寺尾説がある。どちらも決め手に欠けるのだが、どちらにも地元有志が建てた碑や説明板などがある。

なお、永福寺には義重の法号を記した位牌が残されている。

新田義重の墓関連
太田金山 子育呑龍」(太田市金山町・大光院新田寺)
畑の中の古墓 -伝新田義重夫妻の墓-」(太田市徳川町・義季館跡)
新田氏累代の墓 -円福寺-」(太田市別所町・円福寺の五輪塔・石塔群の中に義重の墓があるとする説もある)

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市下日野の猪田山興春寺。

興春寺 (1)
興春寺 (2)
興春寺は興禅院2世・雪山東天和尚の開山。創建年は定かではないが、雪山東天の没年が寛永18年(1641年)なので、江戸初期の創建と考えられる。興春寺はちょっと山中にあり、山門もなくお寺らしくない佇まい。本堂は比較的新しく、近年の建立と思われる。

興春寺 (3)
興春寺 (4)
お寺らしいものはと言うと、石仏が数基見られるくらい。

興春寺 (5)
本堂脇から山道を登ると狭い墓地がある。そこにある義民・馬之助の墓。

馬之助は下日野村の農民で「御荷鉾山一件」の農民総代。訴願により目的を達したが、所払い(追放)となった。後に赦免されたが帰村せず、嘉永2年(1849年)奥州白河で没している。

「御荷鉾山一件」とは、文政・天保年間(1818~45年)に上日野・下日野・金井3村の農民による哀訴事件。3村の役人と吉井藩役人が共謀し、吉井宿商人に御荷鉾山(土地)を売却、入会権を守るため3村農民が幕府に強訴したもの。

総代4名(上日野村・常吉、下日野村・馬之助、金井村・作右衛門と繁右衛門)と、金井村の幸右衛門(繁右衛門の子)、寅五郎の6名が捕縛・入牢。幸右衛門と寅五郎は獄死。繁右衛門は宿預け後に病死。常吉、馬之助、作右衛門は所払いとなった(後に赦免)。

一般にはまったく知られてない農民の強訴事件。群馬県では茂左衛門が有名だけど、他にも数多くの義民が命がけで強訴している。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市篠塚の義輝山光源院。

光源院 (1)
光源院は木喰覚海上人が篠塚伊賀守重廣の館跡に、万仏の中心である大日如来祀り開山したのが始まりと伝わる。当時は無量山大日寺と言ったが、開山の木喰覚海上人が、実は室町幕府第13代将軍・足利義輝の孫だったため、後に義輝山光源院となっという。光源院は義輝の戒名「光源院融山道圓」からと思われる。

ところで、足利義輝は永禄8年(1565年)に松永久秀、三好三人衆に攻められ殺害されている。記録に残る義輝実子は輝若丸がいるが、3ヶ月で病死したとされる。真偽不明な説では、義高(2男)、義辰(3男)がいたともいわれる。

光源院 (2)
光源院は明治初年に廃寺になっており、現在は「閻魔堂」と呼ばれるお堂があるのみ。なので、正確には「旧光源院」と言った方がいいのかもしれない。地元では光源院よりも「閻魔堂」の名称で呼ばれている。

光源院 (3)
屋根瓦には「足利二つ引」家紋が刻されている。

光源院 (4)
開山塔と呼ばれる木喰覚海上人の墓。木喰覚海上人は高野山で僧となり湯殿山で修行した修験者とされる。天台宗の僧兵に追われ当地に来たといわれる。

光源院 (5)
光源院10世で、中興とされる実相の墓。文政7年(1824年)没。

光源院 (6)
実相墓の隣の墓碑(写真左)は、実相没後の33回忌にあたる安政3年(1856年)に建てられたもの。発起人筆頭に馬庭念流18世・樋口定伊の名がある。学問・仏教の弟子だったようだ。

この墓碑に「当院は覚海義高僧正の剏(はじ)むる所なり」とある。「義高」は義輝の2男とされる義高のことかな。 まあ、義輝の子でも孫でも、そういう謂れが残っているのは、木喰覚海上人が足利氏ゆかりの人だと信じる何かがあったのだろう。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市吉井町黒熊の三木市右衛門の墓。

三木市右衛門の墓 (1)
上信越自動車道北側の側道脇にある墓地に標柱が立っている。

三木市右衛門の墓 (2)
三木市右衛門の墓 (4)
三木市右衛門の墓。

市右衛門は当地を領していた旗本・倉橋内匠の圧政に耐えかねた農民の代表として幕府への直訴に及び、投獄・所払いの罰を受けた旧黒熊村の名主。

緑埜村(藤岡市)の名主・堀越三右衛門が、寛文7年(1677年)にまず直訴に及び成功したが、同年に死罪となる。しかし、倉橋内匠は懲りずに過酷な年貢取り立てを止めなかったため、市右衛門が翌年に2度目の直訴に及んだ。残念ながら事前に露見し、8年間の投獄の末、所払いとなる。

しかし2人の身を捨てた訴えにより、年貢を減らす処置がとられ、倉橋は追放となっている。

関連
 「義民・堀越三右衛門の墓
 「義民・堀越三右衛門、三木市右衛門を祀る -光心寺-

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市新町の竹本百合太夫の墓。

竹本百合太夫の墓
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓。
百合太夫は文政年間(1818~31年)に新町に来て、横山家(屋号・金子屋)の養子となり、義太夫の師匠として天保3年(1832年)に没している。享年51。

竹本土佐太夫&百合太夫の墓
すぐ隣(向かって左)には、太夫・竹本土佐太夫の墓がある。
(「義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓」参照)

新町を中心に、多野藤岡地域では義太夫が盛んに行われるようになり、また著名な太夫も輩出している(藤岡出身の6代目・大西東造、吉井出身の7代目大西東造など)。これは江戸で活躍した百合太夫、土佐太夫が晩年を新町で過ごしたことが大きな要因である。

実は竹本土佐太夫の墓を訪問したとき、隣に百合太夫の墓があることは知っていたのだが、百合太夫の墓との確証が持てなかったので、紹介していなかった。今回、夫人の名が調べられ、墓石にその名も確認できたので紹介した。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市本郷の喜雲山龍田寺。

龍田寺 (1)
龍田寺は天正19年(1591年)依田呂郷が父・守芳の菩提を弔うために開基・創建した。開山は信州・信広寺第4世・大岫全察。

依田氏は同年に藤岡城主となっているが、嫡流のみ芦田氏を称して傍流は依田氏で通している。守芳・呂郷父子についてはよく分からないが、芦田50騎に依田姓が8騎いるので、傍流依田氏の家系と考えられる。

山門は平成27年(2015年)に改修されている。

龍田寺 (2)
本堂は万延元年(1860年)に火災で焼失、元治元年(1864年)に再建されている。現在の本堂を見ると、もう少し新しそうである。

龍田寺 (3)
本堂裏には位牌堂がある。立派な位牌堂である。

龍田寺 (4)
境内の宝篋印塔には宝暦8年(1758年)の銘があった。

町田菊次郎
町田菊次郎は地元本郷の出身で、高山長五郎の清温育の講義を聴き興味を持ち、明治8年(1875年)に入門。明治19年(1886年)高山社2代目社長に就任。明治34年(1901年)には高山社蚕業学校を設立するなど、養蚕の担い手育成に務めた。大正6年(1917年)66歳で死去。

町田菊次郎の墓 (1)
町田菊次郎の墓 (2)
町田家墓所内の菊次郎の墓。左右の側面・裏面の3面には、菊次郎の経歴や業績がびっちり刻まれている。

関連
 「高山社2代目社長・町田菊次郎生家

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市藤岡の福聚山天龍寺。

天龍寺 (1)
天龍寺は天正19年(1591年)芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝の室・了源院が栗須村の長源寺を城下に移したのが始まり。文禄2年(1593年)に一宇を建立し天龍寺と改称している。なお、長源寺跡は天龍寺の境外堂(祖師堂)となっている。
(祖師堂は「日蓮の聖跡・長源寺跡 -祖師堂-」参照)

慶長5年(1600年)に康勝が大坂で不始末を犯し改易となると寺運も衰えたが、正保4年(1648年)に日自により再興されている。

天龍寺 (2)
天龍寺 (3)
山門は嘉永4年(1851年)の建立。

天龍寺 (4)
天龍寺 (5)
本堂も嘉永4年の建立とされる。現在の本堂見ると、近年の再建もしくは改築と思われる。

天龍寺 (6)
天龍寺 (7)
天龍寺 (8)
「庚申尊」の扁額の掛かったお堂。中を見ても何なのか分からなかった。中央の御簾内は青面金剛か馬頭観音だろうか。

天龍寺 (9)
天龍寺 (10)
鬼子母神堂の由緒は不明だが、鬼子母神は法華経の守護神として日蓮宗・法華宗の寺院で祀られることが多い。

天龍寺 (11)
芦田康勝の室・了源院の墓。了源院は寺地を寄進し長源寺を当地に移し、芦田氏の祖・光徳の室(蘭庭院)の菩提を弔った。芦田氏の菩提寺である光徳寺は曹洞宗のため、法華教に深く帰依していた了源院は長源寺を移したのだろう。

このエントリーをはてなブックマークに追加


藤岡市下栗須の祖師堂。

下栗須祖師堂 (1)
祖師堂は文永8年(1271年)日蓮宗開祖・日蓮が佐渡島に配流される際に宿泊した長谷川長源の屋敷跡。日蓮に帰依した長源夫妻は屋敷を寺(長源寺)とした。

下栗須祖師堂 (2)
下栗須祖師堂 (3)
天正19年(1591年)に芦田(藤岡)城主・芦田(依田)康勝の室・了源院が城下に社地を寄進し、長源寺を移している。長源寺は文禄2年(1593年)に天龍寺と改称。旧長源寺跡地に一堂を建立し、日蓮の聖跡として護持してきたのが祖師堂である。現在のお堂は大正14年(1925年)の建立。

下栗須祖師堂 (4)
境内に建つ日蓮像。文永11年(1274年)に赦免された日蓮は佐渡島からの帰還途上、再度長源宅に寄るとお寺になっていたことを悦び、長源寺所蔵の大黒天像(福聚大黒天)を開眼した。その大黒天像も天龍寺に移され宝物となっている。

下栗須祖師堂 (5)
下栗須祖師堂 (6)
境内のお堂内には荼枳尼天らしき仏像があった。文殊菩薩じゃないと思うけど(自信なし)。

下栗須祖師堂 (7)
長谷川長源夫妻の墓。長源の元姓は栗生というが、日蓮が鎌倉に帰る途中まで送った際に、長谷川という川の名にちなみ姓にするよう日蓮から勧められ長谷川としたという。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市大八木町の慈眼山妙音寺。

妙音寺 (1)
妙音寺は元和9年(1623年)の創建。正徳3年(1713年)に融通寺を合併した際に、現在の妙音寺に改称している。

妙音寺 (2)
山門前のペンギンの石像。意味合いは不明だが、可愛いからOK?

妙音寺 (3)
本堂は延享4年(1747年)の建立。大正4年(1915年)に屋根の葺き替え、昭和61年(1986年)に大改修を行っている。

妙音寺 (4)
妙音寺 (5)
観音堂には十一面観音を祀る。観音堂も延享4年の建立で、昭和61年に改修されている。

妙音寺 (6)
寛保2年(1742年)建像の釈迦如来坐像。寛保2年と言えば、台風による利根川の氾濫などで関東一円に大被害をもたらしている。その供養も兼ねての建像かな。

妙音寺 (7)
上記の釈迦如来坐像と並ぶようにある石塔には「先玉尊霊」とある。明治3年(1870年)8月の銘があり、山門前に出没した熊を村総出で退治した記念碑兼熊の墓(慰霊碑)だという。

当時のこの辺の山野は想像できないが、普通に熊が出る環境だったんだね。

このエントリーをはてなブックマークに追加


渋川市北橘町上箱田の石田伍助の供養塔。

石田伍助の供養塔
石田伍助は旧北橘村に2名いたとされる男性助産師。取り上げられた子どもたちが「産子(うぶこ)」として、明治43年(1910年)に建立したもの。台座には建立に関わった192名の名前が刻まれている。

現在は「保健師助産師看護師法」の第3条に、「この法律において『助産師』とは、厚生労働大臣の免許を受けて、助産又は妊婦、褥婦若しくは新生児の保健指導を行うことを業とする女子をいう」と規定されており、男性は助産師資格を取得できない。当然、助産師国家試験の受験資格も「女性」のみとなっている。

このエントリーをはてなブックマークに追加


渋川市上白井の天霊山空恵寺。
前回訪問時(2012年)、長尾氏累代の墓を見つけられなかったので、捲土重来を期し再訪。(「渋川市上白井・空恵寺 」参照)

空恵寺2 (1)
前回、本堂裏の洞窟みたいなところでくじけたが、よく見ると左に行く細い道があった。草木をかき分けてみたいな感じで坂を上って行く。途中何か分からないが建物があったが、それを無視しさらに上って行く。

空恵寺2 (2)
ありました。長尾氏累代の墓。
長尾氏は桓武平氏の流れをくむ鎌倉氏の一族。鎌倉時代末から南北朝期に上杉家の家臣となり、上杉氏が関東管領として関東・越後に勢力を広げると、その家宰や越後・上野・武蔵の守護代として各地に諸家を分立させ繁栄している。

空恵寺2 (3)
中央の宝篋印塔は、長尾氏祖先・鎌倉権五郎景正、もしくは白井長尾氏の祖・長尾景熙の墓といわれる。これは渋川市の解説板の内容。真偽は分からない。

調べてみたところ、鎌倉権五郎から長尾景弘(長尾氏初代)が出ているのは確かなようだ。また、白井長尾氏の祖は清景とする資料が多いが、清景と景熙の関係は分からない。

ちなみに、鎌倉権五郎を祀る五郎神社というのが伊勢崎市にある。
(「鎌倉権五郎景正を祀る -五郎神社-」参照)

空恵寺2 (4)
空恵寺2 (5)
17基の宝篋印塔・宝塔が並んでいるが、そのうち15基が長尾氏関係の墓とされる。景仲(3代)、景春(5代)など一部の台石には銘も残っているが、倒壊などに伴う積み替えで、原型をとどめているものはないようだ。

ただ、空恵寺が白井長尾氏の菩提寺で、これらの墓碑が長尾氏のものであることは間違いないこと。

このエントリーをはてなブックマークに追加


渋川市赤城町津久田の角田夢幻道人の遺髪塚。

角田無幻道人の遺髪塚 (1)
入口の標識。微妙に上向きの矢印が気になる。

角田無幻道人の遺髪塚 (2)
琴平山と言うらしいが、獣道に毛が生えた程度の道を上っていく。写真では分かりづらいが、けっこう急坂だ。

角田無幻道人の遺髪塚 (3)
太古の赤城山からの噴石だろうか。大石がゴロゴロしている。

角田無幻道人の遺髪塚 (4)
角田無幻道人の遺髪塚 (5)
角田夢幻道人の遺髪塚。
角田夢幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。

寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。

文化6年(1809年)京で没し真如堂に葬られたが、上州の弟子たちが遺髪と爪を持ち帰り、夢幻道人建立の寂照山という寺の跡に遺髪塚を建てた。

角田無幻道人の遺髪塚 (6)
墓碑銘は聖護院・藤原利恭撰文、中山簡斎の書。他の2面には夢幻書の円頓章が刻まれている。夢幻自身も幼少のころから教学を学ぶ傍ら書にも親しみ、在京中には光格天皇に自筆の千字文を奉呈している。後に「上毛三筆」と称されている。

角田無幻道人の遺髪塚 (7)
遺髪塚の前に2つお墓がある。遺髪塚の建立者(弟子)と無幻の末裔の方のものだという。

ところで、遺髪塚にはけっこうな急坂を上って行くのだが、ここに来る直前に前回紹介した「千石稲荷神社」に行ってきたので、もう疲労困憊。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。

このエントリーをはてなブックマークに追加


高崎市倉渕町三ノ倉の藤鶴姫の墓。

藤鶴姫の墓 (1)
永禄9年(1566年)の箕輪城落城の際、長野業盛夫人・藤鶴姫は家来とともに城を脱出。藤鶴姫は上杉家の出であったため越後を目指したが、当地(高野谷戸)までたどり着いたところで、「オーイ」と呼ぶ家来の声を追手と思い違い自害したといわれる。

藤鶴姫の墓 (2)
家来は当地に藤鶴姫を埋葬、墓を造り供養したと伝わる。

藤鶴姫は19歳のたぐい稀な美貌の姫とされる。墓を穢すと鼻血が出るといい、厚く礼拝すると美人になるとの言い伝えがある。

業盛の子・亀寿丸(2歳)は家臣と落ち延び、和田山極楽院に匿われ後に出家して鎮良と名乗り、極楽院2代目の院主になったという。事実とすれば、藤鶴姫も亀寿丸と一緒に極楽院に逃げればよかったのにと思う。

ところで、藤鶴姫を長野業盛の父・業正の夫人とする説もある。藤鶴姫の墓は高崎市(旧倉渕村)の重文になっているが、名称は「箕輪城主夫人 藤鶴姫の墓」となっている。曖昧な名称だが、説明文を読むと業正夫人とある。

一方、現地の解説板(「藤鶴姫墓所の由来」地元関係者一同)には業盛夫人とある。業盛夫人説、業正夫人説のどちらも明確な根拠が有るわけではない。

今回、業盛夫人説をとったのは、落城時19歳なら業盛夫人だろうということもあるが、「姫」と呼ばれているから。前城主(業正)夫人なら、それなりの歳だろうし「◯◯の方」と呼ばれるかなぁと思ったので。

このエントリーをはてなブックマークに追加


渋川市横堀の根本常南の墓。

根本常南の墓 (1)
根本常南の墓 (2)
根本常南は常陸国の出身で絵を好んで描いていたが、師事する師匠はなく宋画を手本としていた。若くして京都、江戸など諸国を巡り、後に仙台や鎌倉に滞在している。鎌倉では建長寺の誠拙禅師のもとで修行し、名を言成と改めている。

文化8年(1811年)上野国を訪れ、雙林寺に泊まって涅槃図(渋川市重文)を弟子の菅井梅関とともに完成させている。さらに同寺山門の格天井、榛名神社山門の格天井、その他の装飾画を手がけているうちに病にかかり、横堀宿升屋の寮で文化9年(1812年)に49歳で没している。

墓があるのは、元升屋の寮の庭先である。

このエントリーをはてなブックマークに追加


渋川市小野子の飯塚大学の石堂。

飯塚大学の石堂 (1)
飯塚大学は白井長尾氏の家臣で、白井城内の「白井の聖堂」で教学に当たったといわれ、「白井聖堂の教学の士」と尊敬を受けた。

石堂は飯塚大学が寛正5年(1464年)に没した後、関係者により天文17年(1548年)に建立された供養石堂。高さ141cm、幅88cm、奥行き88cm。前面に唐草文様、竪連子、幾何学的文様などが刻まれている。小野上地区の石堂では最古のもの。

飯塚大学の石堂 (2)
内部に像が安置されているが、人物像なのか仏像なのか分からない

飯塚大学の石堂 (3)
墓地内にある木の間の宝篋印塔(木の間は字名)。安永6年(1777年)の建立。

この墓地内には天明3年(1783年)浅間山の大噴火による泥流(浅間押し)で亡くなった方々の供養塔があるのだが、ちょっと草が生い茂っていて見つけられなかった。

このエントリーをはてなブックマークに追加

渋川市金井の岸豊後守積保の墓。

岸豊後守積保の墓 (1)
岸豊後守積保は享保20年(1735年)宮大工の家に生まれる。実技を祖父から伝授され、明和年間(1764~72年)には京都で卜部氏に学び、豊後守の号を授けられるまでになった。

棟梁として神社仏閣建造の指揮を執るとともに、多くの門弟を養成した。妙義神社の総門や伊勢崎市・宝憧院の本堂が代表作である。天明3年(1793年)49歳で没している。

岸豊後守積保の墓 (2)
積保の墓がある墓地は、旧寺院の墓所なのか岸家の墓所なのか不明だが、周りには立派な石塔や石仏が多くある。

関連
 「本殿の修理が完了しました -妙義神社 その2-
 「駒井政直・親直の墓 -宝憧院-

このエントリーをはてなブックマークに追加

↑このページのトップヘ