Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 前橋市(旧市部)


前橋市総社町総社の巣烏神社。

巣烏神社 (1)
巣烏神社の創建は不詳。元は元総社町の巣烏分に鎮座していた。慶長9年(1604年)に同地の住民が現在の巣烏に移住した際、新住地の鎮守とするため遷宮させたと伝わる。

巣烏神社 (2)
こじんまりとした社殿。県道6号線(前橋箕郷線)の拡幅に境内地を提供したため、現在の境内はかなり狭くなってしまったようだ。

案内板には「境内には八坂社・疱瘡神・菅原社などが合祀されており(中略)社地には湯殿講碑、月待塔、庚申塔など庶民信仰の石神・石仏が安置されている」とあるが、見あたらなかった。

巣烏神社の巣烏分から当地への遷宮に関しては、一悶着あったようだ。住民は遷宮を社掌(旧制での神職のこと)・赤石備前守に再三要請したが了解が得られなかったため、止むなく夜半に大挙して押しかけ社殿を現在地まで運んだという。

なお、旧地には赤石家が板宮を置き祭祀を行っているという。


前橋市元総社町の化粧薬師(縁切り薬師)。

化粧薬師 (1)
化粧薬師 (2)
化粧薬師の謂われには大蛇伝説がある。当地の風呂沼に棲みついた大蛇が若い女性を要求し、里人が従わないと田畑を荒らし回った。里人はその厄を逃れるため、やむを得ず女性を人身御供とした。そこで犠牲になった女性を哀れんで薬師仏を造立、白粉と口紅を施し女性の霊を供養したといわれる。

区画整理事業(道路拡張・河川改修など)により、平成24年(2012年)牛池川(風呂川)に架かる薬師橋の袂から現在地に移転している。

化粧薬師 (3)
化粧薬師は嫁入り前の女性の化身であるため、嫁に行く娘はここを避けて通るようになり、その一方で離縁を願う女性はその望みが叶えられたという。そのため縁切り薬師とも呼ばれる。

お堂内には願掛けの人がお礼参りのときに奉納した(と思われる)小型の石仏も置かれている。薬師如来は衆生の病苦を救うとされ、特に眼病への霊験があると信じられていることからの風習。

化粧薬師 (4)
三大仏様と呼ばれる仏塔。元文4年(1739年)の造立。一万余りの小石に仏典の法華経、華厳経、般若経を墨書し、塔の下に納めたもの。昭和57年(1982年)に再建されている。

化粧薬師同様、区画整理事業のため平成24年(2012年)に現在地へ移転している。

化粧薬師 (5)
化粧薬師 (6)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。女人講塔(如意輪観音)は文政2年(1819年)の造立。

化粧薬師 (7)
道祖神。他の施設同様、平成24(2012年)年に現在地へ移転。

化粧薬師の謂われにある大蛇は、総社町総社の蛇穴山古墳の大蛇とされる。古墳を護った大蛇(被葬者とされる上毛野田道とも)が、当地では田畑を荒らし人身御供を要求している。伝説にも都合があると言うことかな(苦笑)。
(「上毛野田道の墳墓? -蛇穴山古墳-」参照)


前橋市大友町2丁目の大友神社。

大友神社 (1)
大友神社 (2)
大友神社の由緒は不詳だが、上野国神名帳記載の「従三位大友明神」とされる。上野国国府(総社神社周辺と推定されている)にかかわる職業集団の大友部が当地に土着し、八綱田命(豊入城彦命の子)を祀ったといわれる。

大伴部とは古代の大伴氏に属した部民で、ひとつの氏族というわけではない。大友町の地名由来は大友部からきているとされる。

大友神社 (3)
鳥居から社殿に繋がる境内の石畳は、最近の施行のようだ(真新しい)。狛犬は昭和15年(1940年)、灯籠は昭和6年(1930年)の奉納。

大友神社 (4)
大友神社 (5)
大友神社 (6)
社殿の建立年などは不明だが、コンクリート製で最近の建立のようだ。

大友神社 (7)
大友神社 (8)
社殿横には二十二夜さま(如意輪観音)などが並んでいる。中央の如意輪観音には寛政6年(1794年)の銘があった。

大友神社 (9)
大友神社 (10)
社殿裏には境内社・末社(猿田彦神、諏訪社、雷電社、秋葉社など)や双体道祖神。

大友神社 (11)
ご神木の榎。樹高約10m。

大友神社同様に上野国国府にかかわる職業集団と関係する神社として、前橋市江田町の鏡神社がある。(「八咫鏡を作った石凝姥命を祀る -鏡神社-」参照)


前橋市大渡町1丁目の王守神社。

王守神社 (1)
王守神社 (2)
王守神社の創建は不詳。伝説では王様(大君)一行がここを通りかかった際、奥方が産気づいたので仮の建物を作ってお産をした。その建物を神社にしたのが王守神社といわれる。

鳥居前の新しい灯籠は平成12年(2000年)の奉納。

王守神社 (3)
王守神社 (4)
社殿は平成5年(1993年)に改築されている。社殿前の狛犬は平成10年(1998年)の造立。

王守神社 (5)
王守神社 (6)
境内に石仏などが数多く置かれている。弁財天の石碑や道祖神などもある。地域内から境内に集積されたと思われる。

王守神社のご祭神は倭日向武日向彦八綱田命。毛野氏の始祖・豊城入彦命の子で、彦狭島王の父にあたる(彦狭島王と同一人物との説もある)。王守神社のご神体は彦狭島王の木像という。

伝説にある通りかかった王様は彦狭島王の子・御諸別王ではないかと勝手に推定している。彦狭島王は任地に着く前に亡くなっており(亡骸は上野国に葬られたとされる)、実際に東国を統治したのは御諸別王のため(日本書紀記載内容前提)。

また、大渡という地名の由来が、赤城神社(主祭神・豊城入彦命)へ参拝するために王が利根川を渡られたからとされる(王渡→大渡)ことも傍証。


前橋市大渡町1丁目の王山古墳。
現在は墳丘全体が王山公園として整備・保存されている。

王山古墳 (1)
王山古墳 (2)
王山古墳は全長75.6mの前方後円墳で、前方部幅63.1m、高さ3.9m、後円部径50m、高さ4.5mを誇る。6世紀初頭の造営と推定される。

主体部は後円部に両袖型の横穴式石室がある。石室全長16.4m、玄室長4.4m、羨道長12mと、県内最長の石室規模。石室は盗掘されており、わずかに歯が2本、辻金具の破片が数個出土したのみ。

王山古墳 (3)
王山古墳 (4)
墳丘は多数の川原石で覆われており、特に後円部の基壇上の墳丘は全て川原石で構成され「積石塚」と呼ばれる。全国的にも珍しいものである。

王山古墳 (5)
王山古墳 (6)
墳丘上には東屋風の休憩所や記念碑がある。記念碑は昭和52年(1977年)の設置。区画整備事業や保存のため公園化などの経緯が記載されている。古墳そのものの記念碑ではない。

王山古墳 (7)
公園南側に巨石があったが、古墳(石室関係)の一部だろうか?

王山古墳 (8)
墳丘上には小石が並んでいた(写真は一部)。後で調べたら、石室の位置が分かるように並べられているという。知っていたら、もっと真剣に見てきたのに。


前橋市石倉町4丁目の神明宮。

石倉神明宮 (1)
石倉神明宮の由緒は不詳。伝説では豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国遠征の際、身体を休めた場所だといわれる。

当地からそう遠くない総社町の二子山古墳は豊入彦命の墳墓との説が古くからある(他にも大室古墳群の前二子古墳などにも同様の伝承がある)。

石倉神明宮 (2)
石倉神明宮 (3)
石倉神明宮 (4)
社殿は平成2年(1990年)の改修。社殿前の灯籠は大正13年(1924年)の奉納。昭和天皇ご成婚記念とあった。

石倉神明宮 (5)
狛犬は昭和15年(1940年)の造立。

石倉神明宮 (6)
境内社の三峯者、淡島社、秋葉社(向かって右から)。

石倉神明宮 (7)
社殿裏に鳥居を備えた境内社があったが、詳細不明。

石倉神明宮 (8)
境内の百庚申。実際に百あるか不明(数えてない)。多くが文字庚申塔だが、青面金剛像が彫られたものもある。

石倉神明宮 (10)
境内の立派な松。

石倉神明宮 (11)
兄妹道祖神。江戸時代、美男美女の兄妹が別々に配偶者を探すため近郷に出かけた。そして兄妹がそれぞれ意中の人としたのは兄妹どうしであった。かくして2人は夫婦となったものの、村人らは畜生夫婦として相手にせず村外へ放逐した。2人は寂しく生涯を終えたといわれる。

なぜ道祖神とされ、神明宮に置かれているかは不明。


前橋市石倉町5丁目の石倉城二の丸公園。ここに石倉城址の碑が建立されている。

石倉城址 (1)
石倉城址 (2)
「石倉城二の丸公園」という名称は、石倉城の名を後世に残す良い名称だと思う。以前は「上石倉2号公園」と言った。

石倉城の本丸跡は利根川の浸食により崩落し跡形もなし。二の丸跡付近が当公園となっている。公園周りは宅地になっており、遺構らしきものは見当たらない。

石倉城址 (3)
石倉城址 (4)
石倉城址 (5)
石倉城址の碑は平成元年(1989年)の建立・整備。

石倉城は文明17年(1485年)に総社長尾氏・長尾憲景が築城したとされる。その後、享禄・天文・弘治年間(1528~58年)に数回の大洪水によって本丸などが流出。永禄年間(1558~70年)に武田勢が再築したとされる。なお、洪水時に利根川東岸に残った三の丸を元に築かれたのが厩橋城(前橋城)といわれる。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の北条攻めにより落城、石倉城は廃城となっている。


前橋市石倉町4丁目の昌林山林倉寺。

林倉寺 (1)
林倉寺は慶長2年(1597年)行海法印の開山。

林倉寺 (2)
山門は平成6年(1994年)の再建。

林倉寺 (3)
山門を入ってすぐ六地蔵が鎮座している。

林倉寺 (4)
林倉寺 (5)
本堂は明治28年(1895年)に火災により焼失。同年、再建されている。火災の原因は猟師の放った弾丸だという。それが発火、強風により延焼。

由緒書きに、本堂には本尊の阿弥陀如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩を祀るとあった。通常の阿弥陀三尊の形式は脇侍が観音菩薩と勢至菩薩なので、珍しい組合わせだ。釈迦如来三尊の場合、文殊菩薩と普賢菩薩が多いけど。

林倉寺 (6)
本堂前の伝教大師(最澄)像。平成13年(2001年)の造立。

林倉寺 (7)
十王堂は昭和63年(1988年)の再建。同時に安置されている十王像も修復を行っているようだ。

林倉寺 (8)
林倉寺 (9)
片腕地蔵。江戸時代中頃、強盗に襲われた主人の身代わりになって右腕を犠牲にしたとされ、災難を一身に引き受ける地蔵として身代わり地蔵とも呼ばれる。江戸時代末から明治期には、近郷近在の人々の信仰を集めたという。

林倉寺 (10)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。一番右の地蔵菩薩像には文化2年(1805年)、隣の女人講塔(如意輪観音)には文政10年(1827年)の銘が読み取れた。

林倉寺 (11)
明治天皇御野立所跡の碑。明治11年(1878年)に明治天皇が前橋町(当時)へ行幸された際、利根川には舟橋しかなかったため万一に備え林倉寺で衣服を着替えるために休息された。舟橋は川に舟を並べ、その上に板などを敷いた仮設の橋のこと。

明治天皇が利根川を渡る際には、旧前橋藩の水練師範が門人10人と共に水中から警護したという。万々が一にも、何かあったら大変だからね。


前橋市荻窪町の荻窪神社。

荻窪神社 (1)
荻窪神社 (2)
元和年間(1615~24年)から東・西荻窪村の氏神として八柱神社と神明宮が祀られていた。明治41年(1908年)に八柱神社、神明宮など村内各社を合併し、村名から荻窪神社と改称している。東・西荻窪村は明治5年(1872年)に合併、一村になっている。

荻窪神社 (3)
社殿前の狛犬は昭和9年(1934年)の造立。

荻窪神社 (4)
荻窪神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

荻窪神社 (6)
鳥居左側の庚申塔や石塔群。

荻窪神社 (7)
荻窪神社 (8)
境内社の石宮。上の写真は八坂神社かな。

荻窪神社は桂萱57号墳(円墳)上に鎮座している。と言っても、相当削平されており古墳にはまったく見えない。


前橋市総社町総社の総社歴史資料館。

総社歴史資料館 (1)
総社資料館が老朽化(耐震上の問題)し休館していたが、平成28年(2016年)に現在地へ移転、新築の総社歴史資料館としてオープンした。

1Fは「山王廃寺」や「総社古墳群」、「総社藩主・秋元氏」関連の展示。
総社歴史資料館 (2)
総社歴史資料館 (3)
大正時代初めに塔の心柱を支える塔心礎が偶然発見され、東日本を代表する古代の寺院であったことが分かった山王廃寺。

総社歴史資料館 (4)
総社歴史資料館 (5)
総社歴史資料館 (6)
総社歴史資料館 (7)
「放光寺」の文字瓦や軒丸瓦などは実物が展示されている。

放光寺は世界遺産「上野三碑」のひとつである山ノ上碑の碑文に登場する。山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、完全な形の碑では日本最古とされる。山ノ上碑は放光寺の僧・長利が、亡母の黒売刀自を供養するとともに、一族の系譜を記した墓誌。山ノ上碑の隣にある山ノ上古墳の被葬者が黒売刀自。

放光寺に関しては諸説あったが、山王廃寺から文字瓦が出土したことから、現在では放光寺=山王廃寺と推定されている。

関連
 「祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
 「白鳳時代の大伽藍寺院跡 -山王廃寺跡-

総社歴史資料館 (8)
総社歴史資料館 (9)
宝塔山古墳の家形石棺(レプリカ)とその破片(実物)。

総社歴史資料館 (10)
総社歴史資料館 (11)
総社二子山古墳出土の頭椎太刀と遠見山古墳出土の馬形埴輪。

2Fは古代から現代までの生活に関する展示。
総社歴史資料館 (12)
総社歴史資料館 (13)
総社歴史資料館 (14)
総社歴史資料館 (15)
農耕機具、養蚕器具、鍋の歴史、計量器具など。

総社地区はある意味、歴史の宝庫なので見応えがある。


前橋市総社町植野の立石諏訪神社。

立石諏訪神社 (1)
立石諏訪神社 (2)
立石諏訪神社は文禄4年(1596年)総社藩主・諏訪頼水が上諏訪神社、下諏訪神社の2社を字元屋敷に勧請したのが始まりと伝わる。明治31年(1898年)利根川の洪水により下諏訪神社の社殿が崩壊・流出したため、明治32年(1899年)に上社・下社を合祀し、諏訪神社として現在地に遷座している。

立石諏訪神社 (3)
立石諏訪神社 (4)
立石諏訪神社 (5)
現在の社殿は平成26年(2014年)の新築。旧拝殿は上下両社を合わせたため、三間社の中央間をはさんで、東西に礼拝場を持つ特殊な構造であったという。

立石諏訪神社 (6)
参道には平成26年(2014年)氏子の皆さんが奉納した石灯籠が並ぶ。

立石諏訪神社 (7)
立石諏訪神社 (8)
成田山不動尊の石碑と不動明王像。

立石諏訪神社に伝わる獅子舞は前橋市の重要無形民俗文化財に指定されており、毎年秋の例祭時に奉納される。一人立ちの三頭の獅子とカンカチの計4人による豪快な舞。獅子頭の顎紐を修理した際、内部から「壬正徳弐歳」と書かれた布が見つかっており、正徳2年(1712年)には既に行われていたと考えられる。


前橋市総社町総社の熊谷稲荷神社。

熊谷稲荷神社 (1)
熊谷稲荷神社 (2)
熊谷稲荷神社は宝暦6年(1709年)、熊谷(埼玉県)の稲荷神社の分霊を勧請したといわれる。それ以前から神社があったようだが詳細は不明。

熊谷稲荷神社は大小路古墳(総社7号墳)の墳丘上に建つ。大小路古墳は直径約20m、高さ2mの円墳。

熊谷稲荷神社 (3)
社殿は光巌寺東北の紅葉山の日枝神社を移築したといわれ、桃山時代の様式をもつ。

熊谷稲荷神社 (4)
昭和2年(1927年)銘の絹笠大神。

熊谷稲荷神社 (5)
多数のお地蔵さん(?)。風化していてよく分からない。

創建にまつわる逸話を少し。
寛永10年(1633年)に総社藩主・秋元泰朝が甲斐谷村へ移封となり、総社藩は廃藩となった。その後は高崎藩(安藤重長)の領地となり、安藤重長は3男・重富(重常とも)に総社を与え、重富は高田弥兵太を代官として総社を管理させた。

重富、高田は重税を課したため農民は困窮し、遂には宝暦6年(1709年)幕府への直訴に及んだ。その際、直訴代表は捕らえられたが、熊谷の稲荷神社で祈願したところ、訴えが認められ死罪も免れることができた。これらは稲荷神社のご加護によるとし、稲荷神社を勧請し熊谷稲荷神社と改称したという。

訴えが認められた裏には、老中・秋元喬朝(泰朝の子・富朝の養嗣子)の援助があった。秋元氏は藩主時代の善政も含め、総社に於いて崇敬されている。


前橋市総社町総社の神明宮。総社大神宮、粟島大神宮とも呼ばれる。

総社神明宮 (1)
総社神明宮 (2)
総社神明宮は慶長9年(1604年)総社藩主・秋元長朝が伊勢神宮を勧請し創建。総社城の大手門西にあたる。

総社神明宮 (3)
伊勢神宮の遙拝殿。天明8年(1788年)に外宮、寛政3年(1791年)には内宮の遙拝殿を造営した。遙拝殿は12本の丸柱の門構えの特殊な構造となっている。現在の遙拝殿が当時のものかなどは分からない。

総社神明宮 (4)
総社神明宮 (5)
社殿は平成24年(2012年)に改修が行われている。

総社神明宮 (6)
百番供養塔、六十六部供養塔。百番供養塔は100ヶ所の札所を巡礼した記念塔。一般的には西国33札所、坂東33札所、秩父34札所の組合わせが多い。六十六部供養塔は、全国六十六ヶ国の霊場に大乗妙典(法華経)を奉納することを目的とした巡礼の記念塔。

総社神明宮 (7)
総社町道路元標。大正9年(1920年)に道路法の規定により道程の基準点として設置されたもの。

総社は総社城の城下町であり、佐渡奉行街道の宿場町でもあった。本陣、脇本陣、問屋が置かれ、安永2年(1773年)には曽我家(問屋)へ高山彦九郎が宿泊している。

ところで、総社神明宮は境内のほぼ全域が月極駐車場になっており、興醒めもいいところ。いろいろ事情はあるのだろうが・・・。


前橋市小屋原町の稲荷神社。

小屋原稲荷神社 (1)
小屋原稲荷神社 (2)
小屋原稲荷神社は慶長年間(1596~1615年)に、住民が農作物の豊作が続くこと、住民が安心して暮らせるようにと創建したという。

小屋原稲荷神社 (3)
二ノ鳥居は平成25年(2013年)の建立。

小屋原稲荷神社 (4)
小屋原稲荷神社 (5)
小屋原稲荷神社 (6)
小屋原稲荷神社 (7)
社殿は創建と同時に造営され、その後宝暦8年(1758年)に改修されている。現在の社殿は昭和11年(1936年)の建立。

小屋原稲荷神社 (8)
小屋原稲荷神社 (9)
「多野叶山貫通石」というものがあった。石に貫通穴が開いていることから「初志貫徹」「難関突破」「祈願成就」の御利益があるパワースポットだという。多野叶山とは、多野郡神流町の叶山のことだろうか。

ちなみに、神流町の叶山は石灰を産出するので、現在も石灰鉱山として稼働している(秩父太平洋セメント)。石灰岩が雨などの浸食で穴が開いたのを、縁起の良い石としているってことかな。


前橋市江田町の鏡神社。

鏡神社 (1)
鏡神社の創建は不詳だが、大和国の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)から石凝姥命(いしこりどめのみこと)の分霊を勧請したと伝わる。また「上野国神名帳」記載の「鏡明神」は鏡神社のことだとされる。

石凝姥命を勧請したのは上野国国府(総社神社周辺と推定されている)に大和国から呼び寄せられた鏡作りの技術者だと考えられている。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。

鏡神社 (2)
鏡神社 (3)
向かって右側(東?)からの入口に建つ鳥居。

鏡神社 (4)
鏡神社 (5)
鏡神社 (6)
上野国神名帳に記載されている古社だが、その後朽ち果てるほどに廃れていたが、慶長年間(1596~1615年)に富澤氏・小野里氏の手で再建されている。富澤氏・小野里氏についてはよく分からないが、現在も江田町には富澤(富沢)さん・小野里さんが多数お住まいである。

鏡神社 (7)
余り広くない境内に多数の境内社・末社が並んでいる。

鏡神社 (8)
道を挟んでの境外にも末社が鎮座している。

鏡神社 (9)
旧鳥居の扁額だと思うが、現在は拝殿に掲額されている。この扁額かは分からないが、安永年間(1772~81年)に岩松義寄が揮毫した扁額を鳥居に掲げたところ、神社前を乗馬で通行する人が必ず落馬したため、扁額を撤去したら事故は起こらなくなったという。この扁額は宝物とし現存している。

義寄の頃から岩松家では「ネズミ除け」「キツネ憑封じ」などの呪術まがいのことを行っており、そいうことから馬が怯えたのかな。


前橋市東大室町の大室神社。

東大室神社 (1)
大室神社の旧名称は近戸神社で、明治41年(1908年)に近郷の十数社を合祀して大室神社となった。旧近戸神社の由緒は不詳。

地図には東大室神社と記載されているが、正式には大室神社のようだ。

東大室神社 (2)
東大室神社 (3)
鳥居の扁額は「大室神社」。

東大室神社 (4)
東大室神社 (5)
東大室神社 (6)
大正3年(1914年)に現在地に社殿を造営、中神沢から遷座している。拝殿の扁額も「大室神社」。

東大室神社 (7)
拝殿に由緒書きらしきものが掲示されているのだが、まったく読めなかった。

前回紹介した西大室町の「大室神社」と同しく明治41年に大室神社と改称しているので、東西の旧大室村(当時は荒砥村)がそれぞれ大室神社を鎮守としていたのだろう。

その後、事情は知らないが東大室側は便宜上、東大室神社と表記されるようになった?
(西大室町の大室神社は地図に「大室神社」と記載されている)


前橋市西大室町の大室神社。

大室神社 (1)
大室神社の旧名称は熊野神社で、明治41年(1908年)に近郷の十数社を合祀して大室神社となった。旧熊野神社の創建は不詳だが、江戸中期に大室城本丸跡である当地に遷座している。

大室神社 (2)
大室神社 (3)
大室神社 (4)
鳥居は2つあるが、2つ目の扁額が大室神社。また、参道から少し外れたところにもう1基ある。合祀された神社の鳥居かも。

大室神社 (5)
大室神社 (6)
拝殿内には江戸末期から明治にかけての国学者・井上正香が所持していた漢籍が保管されている。

大室神社 (7)
本殿には明治11年(1878年)に発掘調査が行われ前二子・後二子古墳などから出土した遺物(太刀、馬具、土師器、高台椀など)が宝物として保管されていた。現在は前橋市教育委員会に収蔵。

大室古墳群は下記参照。
 「M-1号古墳」「小二子古墳」「後二子古墳」「中二子古墳」「前二子古墳
 
大室神社 (8)
東神沢川に架かっていた太鼓橋。平成23年(2011年)の復元。

大室神社 (9)
大室神社 (10)
日清・日露戦没者紀念碑にならんで、「軍馬慶徴紀年紀念碑」が建っている。この辺りは軍馬が飼育されていた?

ところで、大室城は二の丸跡の東側、南側、北側に、現在も水を湛えた堀が残っている。事前知識なく行ったので、まったく気づかなかった。


前橋市西大室町の月照山湯清寺。

湯清寺 (1)
湯清寺は慶長2年(1597年)大胡城主・牧野康成の開基、長善寺・大通祖参の開山。

湯清寺 (2)
湯清寺 (3)
本堂は明治12年(1879年)に火災により焼失。古文書など、記録や什宝も焼失した。現在の本堂は昭和7年(1932年)の再建。

湯清寺 (4)
廻国供養塔。廻国は一般的には日本全国66国を巡礼し、1国1カ所の霊場に法華経を1部ずつ納めることを言う。霊場は固定化されていないので、いろいろな「廻国」があったようだ。

湯清寺 (5)
猿田彦大神。築山のようになっているが、見ると庚申塔などが集められている。

牧野康成の戒名が月照院殿なので、月照山という山号から牧野家の関係寺と分かる。ちなみに、牧野家の菩提寺は堀越町の養林寺。
(「牧野家の菩提寺 -養林寺-」参照)


前橋市西大室町の阿弥陀山観昌寺。
(「大室太郎の墓 -観昌寺-」参照)
観昌寺には、国定忠治の愛妾・お徳が居住していた家屋が移築されている。

お徳の旧家屋
観昌寺は明治18年(1885年)に火災により旧庫裏が焼失。そのため旧赤堀町から国定忠治の愛妾・菊池徳が住んでいた家屋を移築し使用していた。現在は法事会館として使用されている。

国定忠治には「お鶴」という本妻がいたが、職業柄(?)愛妾もたくさんいた。伝えられているだけで「つま」「お町」「貞」「お徳」がいる。「お徳」は忠治晩年の愛妾。

国定忠治は大戸の関所破りの罪で嘉永3年(1850年)に磔刑で処刑されたが、「お徳」が遺体の一部を盗みだし養寿寺と善応寺に埋葬したといわれる。

「お徳」は猛々しい性格の女性だったといわれ、忠治の死後は「女国定」「女侠」と呼ばれるほどだった。後に自ら事業に乗り出し、大地主となっている。そのため、立派な家の住んでいたようだ。

関連
 「国定忠治の墓 -養寿寺-
 「国定忠治の墓 その2 -善応寺 その2-」 


前橋市西大室町の阿弥陀山観昌寺。

観昌寺 (1)
観昌寺の創建は不詳だが、室町初期建立の石塔が多数あることなどから、これ以前の創建と推定される。天文2年(1533年)に慶円上人が中興開山したといわれる。

観昌寺 (2)
山門脇の六地蔵。

観昌寺 (3)
観昌寺 (4)
本堂は明治18年(1885年)に火災で焼失、同23年(1890年)に再建されている。現在の本堂は昭和55年(1980年)の新築建立。

観昌寺 (5)
阿弥陀如来石像(写真手前右)は室町期の造立と推定されている。光背に六地蔵を配している。阿弥陀浄土へ六地蔵が送り届けるという意味を持っていると考えられる。その他にも多数の宝篋印塔などの石塔が並んでいる。

観昌寺 (6)
観昌寺 (7)
大室太郎の墓といわれる多宝塔。
大室太郎は南北朝期の地元豪族といわれるが、よく分からない。

観昌寺は本堂でアンサンブルコンサートや落語会を開催するなど、檀家や地域の皆さんとの交流を図っている。


前橋市笂井(うつぼい)町の近戸神社。

笂井近戸神社 (1)
笂井近戸神社 (2)
笂井近戸神社は南北朝期に、南朝方の藤原氏の人物がこの地に来て地名を宇津保井と名付け、春日大社の末社として祠を建て千鹿頭明神と称したのが始まりと伝わる。

笂井近戸神社 (3)
笂井近戸神社 (4)
鳥居は宝永2年(1705年)に宝蔵寺(近戸神社の別当寺)の良寧らの寄進といわれる。

笂井近戸神社 (5)
笂井近戸神社 (6)
笂井近戸神社 (7)
社殿は豊臣秀吉の小田原攻め時(天正18年:1590年)に焼失したが、宝永2年(1705年)に再建されている。

笂井近戸神社 (8)
奉納されている絵馬は、女性が近戸神社に参拝している様子を描いているようだ。

笂井近戸神社 (9)
神楽殿。春の例祭では産泰神社の太々神楽が行われる。

笂井近戸神社 (10)
笂井近戸神社 (11)
境内社の絹笠神社。岩(?)はご神体なのか。

いつの頃からか、宇津保井を笂井と書くようになったと言う。笂(矢を入れる竹製の筒)を作る職人さんが多かったから?


前橋市稲荷新田町の薬師堂。

稲荷新田の薬師様 (1)
稲荷新田の薬師様 (2)
平成4年(1992年)建立の薬師堂内には、多数の石仏が安置されている。千数百体あると言うが、数えたわけではないの分からないが、もうちょっと少ないような気がする。

稲荷新田の薬師様 (3)
この「薬師さま」に願をかけると万病に効くと言われ、周辺地域からも参拝する人が多い。願をかけるときは手を水で濡らし、具合の悪い石仏の部分をなでることから、俗に「濡れ薬師」とも呼ばれる。

伝説では、ある武士が石仏を背負ってここまで来たが、重くなったのでここに留まりたいのだと思い、当地に安置したといわれる。

ただ、石仏は「薬師さま」と呼ばれているが、印相や像容から阿弥陀如来と考えられている。風化と信仰(なでる)による摩耗が激しく判然としないが、特徴から南北朝期のものと推定される。

多数の石仏があるのは、「薬師さま」に願をかけた人々が石工に頼んで造り、奉納したものといわれる。


前橋市亀里町阿内宿の石幢。

亀里町阿内宿の石幢 (1)
亀里町阿内宿の石幢 (2)
石幢は安山岩製で明応7年(1498年)の銘がある。前橋市内でも、古い時期のものである。

銘文に「時正七分全得逆修善根」とあるので、生前供養のため造立したことが分かる(逆修)。また「七分全得」とは、死者の供養はその福の七分の一を死者が受け、七分の六を供養した者が受けるというが、生前に自分で供養を行えば、七分全部得ることになるという意味。まあ、死者と供養者が同一なのだから、そうだよね。


前橋市本町の高浜山松竹院梅林寺。

松竹院 (1)
松竹院は前橋城内の高浜曲輪内に永禄元年(1558年)に創建。そのため山号を高浜山という。

松竹院 (2)
松竹院 (3)
昭和20年(1945年)の前橋大空襲にて寺は焼失したが、昭和39年(1964年)に再建された。

岩佐空佐
松竹院 (4)
松竹院 (5)
岩佐直治海軍中佐の墓。享年26歳。
岩佐中佐は昭和16年(1941年)の真珠湾攻撃の際、「甲標的」と呼ばれる小型潜水艇で海中より決死の攻撃を敢行し戦死した。この決死の攻撃による戦功が評価され「軍神」と呼ばれた。(他の戦死者と合わせた「九軍神」のひとり)

岩佐中佐らの死は連合艦隊の空母機動部隊艦載機による真珠湾攻撃より前で、対米戦初の戦死者である。

甲標的
グアムに残る「甲標的」。
「甲標的」での攻撃は決して「特攻」ではないが、出撃した10名は決死の覚悟であったことは事実である。岩佐中佐は出撃時に「私の最後の任務達成に向けて出撃致します。終いに臨み伊号第二十二潜水艦の武運長久を祈ります。さようなら」と挨拶し、その覚悟が分かる。

計画は真珠湾内に潜入して海底で待機し、艦載機による空襲後に撃ち漏らした敵艦を、装備している2本の魚雷で攻撃、湾外に脱出するというものだったが・・・。

松竹院 (6)
墓所には岩佐中佐の両親に宛てた遺書が碑として建立されている。

松竹院 (7)
当時、「軍神岩佐中佐」という歌が作られている。

良い悪いは別にして、「九軍神」(甲標的による戦死者)は大々的に海軍合同葬が行われるなど、戦意高揚に利用された面もある。しかし、岩佐中佐をはじめとした英霊のおかげで今日の平和・繁栄があることを、現在を生きる我々は決して忘れてはいけない。


前橋市三河町の朝雲山東福寺。

東福寺 (1)
東福寺は永禄2年(1559年)日輪寺の僧・宥智が、現在の川端町に創建。その後、寛永13年(1636年)に前橋藩主・酒井忠世が現在地へ移転させている。

東福寺 (2)
東福寺 (3)
本堂は東南アジア的な趣があり、特徴的な造りをしている。

東福寺 (4)
本堂前の仏足石。

東福寺 (5)
鰐口は青銅製で径14.5cm、縁4cm、中央6.7cm。応永13年(1405年)の銘がある。表裏ともに7条の同心円の紐があり、撞座、中区、銘文帯に区分されている。前橋市の重文に指定されている。(写真の本堂に吊されているのは重文の鰐口ではない)

銘文中に「武蔵国比企郡延益郷地蔵堂」(現小川町)とあり、元々は延益郷の地蔵堂に掛けられていたものと考えられている。東福寺の所有となった経緯は不明だが、諸説が言い伝えられている。

前橋市のHPに、赤城山地蔵岳山頂の地蔵堂→勢多郡粕川村西福寺→東福寺とあるが、これも真偽不明である。

銘のある鰐口としては県内で2番目に古いものである。県内最古は、伊勢崎市の延文2年(1357年)銘。


前橋市青梨子町の神明山正法寺。

正法寺 (1)
正法寺 (2)
正法寺の由緒は不明。

正法寺 (3)
一石に六地蔵が彫られている。

正法寺 (7)
三体薬師。正法寺の近郷に別々に祀られていた3体の薬師如来を、平成12年(2000年)に移したもの。

正法寺 (4)
文明18年(1486年)銘のある六地蔵石幢。輪廻車の穴があるものとしては前橋市最古である。群馬県内でみても3番目に古い。付いている車は後付けと思う。ちなみに、県内最古は高崎市下滝町・慈眼寺の文明3年(1471年)。

正法寺 (5)
正法寺 (6)
塔身には檀陀、宝印、宝珠、持地、除蓋障、日光の6地蔵が配置されている。新しい塔身に地蔵像だけ埋め込む補修をしたのかな?



前橋市上青梨子町の淡島神社。

上青梨子淡島神社 (1)
元は神明宮で、その創建は天長年間(824~34年)と伝わる。明治45年(1912年)に淡島神社、琴平宮を合祀し大木神社となったが、昭和35年(1960年)に淡島神社と改称している。

上青梨子淡島神社 (2)
上青梨子淡島神社 (3)
社殿は安永5年(1776年)の再建とされるが、現在の社殿かは分からない。

上青梨子淡島神社 (4)
鳥居脇の双体道祖神。

淡島神社では上青梨子町の盆踊りが隔年で行われる。上青梨の盆踊りは300年の歴史がある伝統芸能行事である。踊りの種類は、古くから「三つ打ち」「回り打ち」「手ぬぐい踊り」「石投げ」「糸挽き」の5種類があり、先祖の霊を慰めるだけでなく、日照りの時には雨乞いの踊りとして、豊作の時には豊年踊りとして行われていた。


前橋市青梨子町の菅原神社。

青梨子菅原神社 (1)
青梨子菅原神社 (2)
青梨子菅原神社 (3)
青梨子菅原神社は寛永12年(1635年)の創建と伝わる。

青梨子菅原神社 (4)
参道は両側からの木々に覆われ、ちょっと前屈みにならないと歩きづらいくらい。

青梨子菅原神社 (5)
青梨子菅原神社 (6)
青梨子菅原神社 (7)
二の鳥居には元禄6年(1693年)の文字が彫られている。

青梨子菅原神社 (8)
青梨子菅原神社 (9)
青梨子菅原神社 (10)
大きくなく質素な社殿だが、雰囲気は良い。

青梨子菅原神社 (11)
菅原神社らしく牛の像がある。
菅原道真と牛の逸話は、道真が丑年生まれで丑の日に亡くなったとか、茸狩りの時に牛が寄ってきたとか、太宰府に流されていくときに藤原氏の刺客を倒したとか、いろいろある。

青梨子菅原神社 (12)
宮中献納俳句の碑。
地元の方の俳句が献納句に選ばれたのだろうか? だとしたら、相当すごいことだと思う。


前橋市総社町桜ヶ丘の植野稲荷神社。

植野稲荷神社 (1)
植野稲荷神社 (2)
植野稲荷神社の創建は不詳だが、赤松氏の創建と伝わる。赤松氏は(総社)勝山城主で、新田義貞の鎌倉攻め(元弘3年:1333年)に参加したといわれる。

植野稲荷神社 (3)
植野稲荷神社 (4)
植野稲荷神社 (5)
正保年間(1645~48年)に赤松氏の末裔・関口氏が石祠を建立。現在の社殿は元治元年(1864年)の再建。平成6年(1994年)に修復されている。

植野稲荷神社 (6)
植野稲荷神社 (7)
植野稲荷神社 (8)
拝殿の彫刻は「関東の名工」と称された熊谷出身の小林源太郎正俊の傑作。

植野稲荷神社 (9)
植野稲荷神社 (10)
神楽殿。植野稲荷神社の太々神楽は、江戸末期に群馬郡六郷村(現高崎市小塙町)烏子神社から伝承されたと伝えられている。

江戸初期(前橋藩主が酒井忠世のころ)、境内に希なる榎の大木があったことから、一本木稲荷神社とも称する。この榎の大木は、現在はない(枯れた?)ようだ。


前橋市問屋町の丁間(ちょうけん)稲荷神社。

丁間稲荷神社 (1)
慶長7年(1602年)の総社藩・秋元長朝による天狗岩用水開削の際、丁間台(測量器)を据え測量の起点としたといわれている。

天狗岩用水完成後、水田守護神を祭祀していたが、天保年間(1831~45年)に京都・伏見稲荷を勧請した。

丁間稲荷神社 (2)
丁間稲荷神社 (3)
丁間稲荷神社 (4)
現在の社殿は昭和38年(1963年)の再建。社殿は総社稲荷山古墳上に鎮座している。丁間稲荷神社があるので、稲荷山古墳と呼ばれるようになったのであろう。

丁間稲荷神社 (5)
境内の笠薬師塔婆。総高112cmで県内最古の様式を持つ笠塔婆。塔身4面には釈迦如来、薬師如来、弥勒菩薩、阿弥陀如来が、二重の火炎光背とともに薄肉彫りされている。笠石の様式から、平安末期から鎌倉時代初期の造立と推定される。

道路建設のため、300m北から丁間稲荷神社の境内に移設されている。

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