上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 前橋市(旧市部)


前橋関根町の石梁山金剛寺。

石梁山金剛寺 (1)
金剛寺は江戸時代初期の創建といわれる。詳細は分からない。

石梁山金剛寺 (2)
石梁山金剛寺 (3)
本堂の建立年などは不明だが、境内はきれいに整備されている。

石梁山金剛寺 (4)
石梁山金剛寺 (5)
本堂前の大日如来坐像と慈母観音像。

石梁山金剛寺 (6)
青面金剛塔。明和2年(1765年)の造立。

石梁山金剛寺 (7)
関根観音。平成7年(1995年)の建立。早世した少女の供養仏。

石梁山金剛寺 (8)
先の大戦で戦場に散った、関根町の英霊の供養塔。英霊に感謝。

石梁山金剛寺 (9)
石梁山金剛寺 (10)
境内の円空堂。円空仏が多数安置されている。

石梁山金剛寺 (11)
石梁山金剛寺 (12)
円空は江戸初期の修験層で、独特の作風を持った木彫りの仏像を残したことで有名。一説には約12万体の仏像を彫ったと伝えられる。ただ、お堂の仏像に円空作はないと思われる。

それにしても、いつから「円空仏」って一般名詞になったのだろう? 円空が彫ったから円空仏だと思っていたが、簡素化されたデザイン(形や比率にとらわれない)や木の素材感を出す表現法の仏像一般を「円空仏」って言うようになったようだ。

石梁山金剛寺 (13)
石梁山金剛寺 (14)
摩多利神御堂。摩多利神を祀る。大正年間(1912~26年)に金剛寺に遷されている。毎年3月24日に祭礼が行われ、病気平癒祈願などに多くの人が訪れるという。


前橋市関根町の赤城神社。

関根赤城神社 (1)
関根赤城神社 (2)
関根赤城神社は元亀2年(1571年)の創建と伝えられる。明治40年(1907年)に八幡宮、大山祇神社などを合祀している。鳥居は安永7年(1778年)の建立。

関根赤城神社 (3)
社殿前の灯籠は大正2年(1913年)の奉納。台座に「征露紀念」とあり、関根町から出征した方々の名も刻まれている(向かって左の灯籠)。ただ、右の灯籠には天保8年(1837年)の銘があった。左右で対になってないのかな。

関根赤城神社 (4)
関根赤城神社 (5)
関根赤城神社 (6)
社殿前の狛犬は昭和31年(1956年)の奉納。ちょっとコミカルな容姿に見えるのは着色のせいかな。

関根赤城神社 (7)
明治40年(1907年)に合祀された八幡宮の鳥居扁額。

関根赤城神社 (8)
境内社・末社。大山祇神、社秋葉宮、水神宮など。

このうち水神社(写真なし)は天明3年(1783年)の浅間山の大噴火時、当時の庄屋さんが適切な誘導をして村民を守ったということで、その苦労を讃えて祀られたもの。平成23年(2011年)に赤城神社境内に遷座している。


前橋市関根町の秋葉宮と天王宮。

秋葉宮と天王宮 (1)
秋葉宮と天王宮が並んで祀られている。元は別々に旧田口村内に祀られていたが、いつの頃からか集積されたようだ。国道17号前橋渋川バイパスの工事に伴い、現在地の移設されている。現在地は田口町ではなく関根町になる。

秋葉宮と天王宮 (2)
秋葉宮(左)と天網宮(右)。

秋葉宮は寛政4年(1792年)の造立。秋葉神(火之迦具土大神)は火防の神として知られる。田口村も天明3年(1783年)の浅間山大噴火による被害を受けており、その鎮護も含めての造立と推定される。

天王宮は文政3年(1820年)の造立。厄除けや疫病退散のご加護がある。昔から7月に村を挙げて祭祀を行ってきたが、ある年に祭に参加しない人たちがいたことがあり、その人たちに怪我などの災いが頻発したという。それ以来、また村人総出で祭りを行っているという。

現在も田口町と関根町(新町地区)で祭祀を行っている。


前橋市田口町の橘神社。

橘神社 (1)
橘神社 (2)
橘神社は元八幡宮で、その由緒は不詳。明治40年(1907年)に村内各社を合祀し橘神社と改称している。

一の鳥居は文化8年(1811年)の建立で、平成17年(2005年)の移築と碑に書かれていた。実はこの手前側に長い参道(畑の中)があり、その先にあったのかもしれない。石段途中の灯籠(右)は天保4年(1833年)の奉納。

橘神社 (3)
橘神社 (4)
二の鳥居。平成16年(2004年)の建立。

橘神社 (5)
橘神社 (6)
社殿は昭和8年(1933年)の建立。社名額は昭和30年(1955年)、拝殿前の狛犬は昭和36年(1961年)の奉納。

橘神社 (7)
本殿は一段高くなっているのだが、斜面の樹木で見えづらい。ここは八幡山(約170m)の山麓にあたる

橘神社 (8)
橘神社 (9)
橘神社 (10)
拝殿右側から八幡山を登っていくと境内社が祀られている。

橘神社 (11)
すぐ横には本殿屋根が見える。社殿の裏山と言えば分かり易いかな。

橘神社 (12)
橘神社 (13)
水分(みくまり)神社、雷電神社、福守さま。

水分神社はあまり聞かない名だが、ご祭神は天之水分大神で水の分配を司る神様(ご祭神には日本武尊も)。古くは橘山の山頂に祀られていたが、後に山の南麓に遷され、さらに明治40年に八幡宮(橘神社)に合祀されている。

福守さま社は子宝・子孫繁栄の神。ちょっと良く分からないのだが、福守さまは水分神社のご神体のことらしい(福守神社というわけではない?)。その昔、広桃両堰の引き入れ口に引っかかっていたのを、人足が引き上げて堰の見張り小屋の傍らに祀ったのが始まりといわれている。

橘神社 (14)
福守さまのご神体。嘉永7年(1854年)、安政5年(1859年)などに奉納されているようだ。

橘神社 (15)
橘神社 (16)
合祀された多くの神社(石宮)が並んで鎮座している。琴平神社、石尊宮、粟島神社、大山祇神社、金加羅山宮、厳島神社など。

橘神社 (17)
橘神社 (18)
旧本殿は拝殿横に移築され、神輿収納庫や祓殿として使われている。

*福守さまに関する記述は、南橘村誌(昭和30年:1955年刊)を参考にしたが、現地には「福守神社」表記の案内板もあり、間違っていたら申し訳ないです。


前橋市田口町の百庚申。

百庚申 (1)
百庚申 (2)
田口町砂押山地区の墓地に百庚申がある。田口町の各所(特に沼田街道沿い)にあったものを当所に集積している。実際には百基はないようだが。

百庚申 (3)
中央には青面金剛像と千庚申供養塔。青面金剛は宝永3年(1706年)、千庚申塔は寛永11年(1799年)の造立。

庚申塔以外にも馬頭観音像(明和8年:1771年)、大日如来像(元文2年:1737年)も確認できた。


前橋市田口町の赤城山宝林寺。

宝林寺 (1)
宝林寺の由緒は不詳だが、越後国の僧が戦国時代の無常をはかなみ、戦没者供養のため橘山の南麓に草庵を営み観音像を安置したのが始まりとされる。後に現在地に移転する際、松平重良が開基となり林泉寺(新潟県上越市)から鉄山正鎖を招き開山としている。

宝林寺 (2)
宝林寺 (3)
山門の門扉には三つ葉葵紋が施されている。開基の松平重良についてはよく分からないが、本家に近い家系なのかな。庶流・傍流は葵紋を使えないので。

宝林寺 (4)
門前の六地蔵。正徳元年(1711年)の造立。

宝林寺 (5)
宝林寺 (6)
門前には馬頭観音や地蔵などの石仏も並ぶ。その中で特徴的な石仏があった。何かなと思うが、おそらく脱衣婆像。

宝林寺 (7)
宝林寺 (8)
山門からの距離の関係で、本堂の写真の両側が切れてしまった。

宝林寺 (9)
境内にも六地蔵がある。昭和56年(1981年)の造立。

宝林寺 (10)
石造観音菩薩坐像。二重の蓮華座に座り背に舟形の光背を背負っている。安山岩製で高さ48cm。応永20年(1413年)の銘がある。前橋市の重文に指定されている。

観音像は元は観音山古墳(現在は消滅)の墳頂に安置されていたが、平成17年(2005年)に宝林寺に遷されている。

宝林寺 (11)
宝林寺 (12)
大きな柿の木にたくさんの柿が実っていた。訪問時はまだ色づきが薄い感じだった。細長い実なので、干し柿にするタイプの渋柿かな(違っていたらすみません)。


前橋市田口町の角田無幻書の青面金剛塔。

角田無幻書の青面金剛 (1)
田口町の墓地の一角に女人講塚や庚申塔などが集積されている。

角田無幻書の青面金剛 (2)
如意輪観音が彫られている女人講塚。天保7年(1836年)の造立。

角田無幻書の青面金剛 (3)
角田無幻書の青面金剛 (4)
庚申塔、百番供養塔、念仏供養塔、仏塔(大日如来)が並んでいる。読めた限りでは明和8年(1771年)、寛政11年(1799年)、万延元年(1860年)の銘あった。

角田無幻書の青面金剛 (5)
その中に角田無幻書の青面金剛塔がある。寛政12年(1800年)の造立。

角田無幻は寛保3年(1743年)下野田村(現吉岡町)の花蔵寺に生まれ、宝暦8年(1758年)に津久田・林徳寺の法嗣(養子)になっている。寛政4年(1792年)に京都に上り、大善院の住職となり修験宗門弟の講学所・森学寮を創立し、門弟の指導に尽力している。また寛政12年(1800年)には、伝法大阿闍梨法印に叙せられている。
(「角田無幻道人の遺髪塚」参照)


前橋市田口町の塩原塚古墳。

塩原塚古墳 (1)
塩原塚古墳 (2)
塩原塚古墳は墳丘高さ3m、径14mの円墳である。周囲は川原石で1.3mの高さまで葺かれている。7世紀初頭の築造と推定される。

塩原塚古墳 (3)
塩原塚古墳 (4)
石室長は5.9m。角閃石安山岩の削石を五目積にしてあり、奥壁の一部に截石切組積が見られる。副葬品は直刀2本、小刀1本、耳環16個、馬具など101点が確認されている。骨や歯の出土状況から埋葬人数は7~8体と推定されるが、副葬品は最初の埋葬者のものと考えられている。

塩原塚古墳 (5)
塩原塚古墳は昭和10年(1935年)の群馬県下一斉古墳調査から漏れたため、上毛古墳綜覧(昭和13年:1938年刊)に記載がない。そのため「名もなき小円墳」とされてきた。

しかし昭和29年(1954年)に群馬大の発掘調査で、上記のような石室が確認され多数の副葬品が出土したことから、土地所有者の名前をとり塩原塚古墳と名付けられた。そして昭和58年(1983年)には前橋市の史跡に指定されている。


前橋市田口町の薬師如来像と筆子塚

薬師如来と筆子塚 (1)
桃木川の西側に両手で薬つぼを持った薬師如来石像と、それに並んで塩原慎斎の弟子が建てた筆子塚がある。

薬師如来と筆子塚 (2)
薬師如来石像は文化2年(1805年)の造立。土台には「薬師講 新町中・田口村中・関根村中・荒牧村・横室村・真壁村・米野村・中箱田村・下箱田村・川端村」等の銘があり、近郷の村々から広く信仰されていたことが分かる。

この薬師さまは「やん目」の仏様と呼ばれ、目の病気にかかったときは薬師さまに祈願すると治るとされる。

ある時、この薬師さまを宝林寺に遷すことになり村人が大勢で運ぼうとしたが、土地を離れるのを悲しんでとても重くなり運べなくなってしまった。そこで元の場所に戻そうとしたところ、今度は軽くなり容易に動かすことができたと伝えられている。

薬師如来と筆子塚 (3)
筆子塚は嘉永5年(1852年)に塩原慎斎の弟子たちが慎斎のために建てたものである。一般的に筆子塚とは、寺子屋などの教え子が死んだ師匠の遺徳を偲んで建てる墓(供養塔)のこと。寺子屋の生徒のことを「筆子」と言ったため。

この筆子塚は慎斎の生前に建てられているので、厳密には筆子碑とでも言うのかな。石碑の碑文は慎斎の戒名であるが、慎斎は龍海院の住職から生前に戒名を授けられていた。碑文は慎斎の筆による。(「塩原慎斎の墓」参照)

慎斎は弟子に対して我が子のように深い愛情を持って指導したので、老若を問わず「お師匠さま」の愛称で呼ばれた。弟子の中には北橘村や富士見村から通ってきた者もいたという。


前橋市田口町の塩原慎斎の墓。

塩原慎斎の墓
塩原慎斎は文化3年(1806年)に旧田口村に生まれ、江戸に出て医学の勉学に励み医者となる。帰郷後は医業の傍ら近隣の人々の願いにより寺子屋を開き、子弟の教育を行った。明治12年(1879年)73歳にて死去。

戒名は「賢良院漌隆慎斎醫士」。これは龍海院(前橋市紅雲町)の住職から生前に授けられたもの。難病にかかった住職が慎斎の評判を聞きつけ受診。慎斉が昼夜問わず熱心に世話をしたところ、病気はすっかり快癒したという。そのお礼である。

円筒形の墓石には、慎斎の戒名を囲むように5名の女性の戒名が彫られており、それぞれが夫人とされる。5人もの夫人というと艶家と勘違いするが、病気の女性を引き取り面倒を見ていたからだといわれる。


前橋市田口町の阿弥陀如来石。

阿弥陀如来石
阿弥陀如来石は上部に穴のある平らな石で、この石が阿弥陀如来さまとして地域住民に信仰されている。特に足(脚)の病気を治してくれるとされ、古くは遠方からお参りに来る人もいたという。

表面を見る限り、特に阿弥陀如来像が彫刻や線刻されているわけではないようだ。

この阿弥陀如来さまには、次のような伝説(逸話)が残っている。法華沢(現、田口町内)に表面を土盛りした石橋があった。いつからか、この橋を渡る人に足の病気が多くみられるようになった。また荷馬もこの橋の前で止まってしまうようになった。

そこで神託を聞くと、土橋の下に一枚の石が土台になっているが、この石は以前阿弥陀如来として信仰された石碑であるという。この石を掘り出して祀れば、病気の人も全快し通行にも支障がなくなるとのことだった。

そこで村人たちはすぐに石を掘り出し現在地に祀った。すると人々の病気も治り、荷馬が止まってしまうこともなくなったという。

なお、上部の穴は石を運ぶ際に、紐などを通したのではないかと考えられている。


前橋市池端町の太子山天明寺。

天明寺 (1)
天明寺の由緒は不詳だが、天明年間(1781~89年)の開創のため天明寺と名付けられたと伝わる。ただ、歴代住職の墓碑中に貞享3年(1686年)との記載もあるので、天明年間以前の創建の可能性もある。

天明寺 (2)
天明寺 (3)
天明寺 (4)
天明寺は明治の中ごろから無住(他寺兼務)の状態が続いていたが、現在の住職が専任となって以降、各種再興途上のようだ。

本尊の不動明王を祀る本堂は新しく見える。新築なのか改築なのかは分からない。

天明寺 (5)
境内の女人講(如意輪観音)や百番供養塔。

天明寺 (6)
本堂などがある境内地から数百メートル離れた場所に、境外仏堂として不動堂(護摩堂)などがある。

天明寺 (7)
天明寺 (8)
天明寺 (9)
不動堂(護摩堂)は平成24年(2012年)の建立。前年に朝天山日輪寺(前橋市)から護摩壇を譲り受けている。

天明寺 (10)
天明寺 (11)
不動堂の隣には聖天堂(清里聖天)がある。平成29年(2017年)の建立。聖天は大聖歓喜自在天と言い、インドの仏教守護神のひとつ。インド神話のガネーシャに当たり、仏教に取り入れられてからは富貴・子孫・消厄の得の神とされる。

天明寺 (12)
天明寺(不動堂)では毎年12月に「白菜加持・柴燈護摩供」が行われる。無病息災・所願成就を祈り護摩が焚き上げられる柴燈大護摩供で、その後山伏たちが火渡りを行う(一般参加も可能)。


前橋市池端町の神明宮。

池端神明宮 (1)
池端神明宮の由緒は不詳。上野国神明町記載の「従五位 池岸明神」は当社と推定されている。明治6年(1873年)小出神社を合祀している。

鳥居は明治42年(1909年)の建立。

池端神明宮 (2)
鳥居横の石宮や石塔類。八坂神社、双体道祖神、猿田彦神など。右端の八坂神社の石宮には明治32年(1899年)の銘がある。

池端神明宮 (4)
池端神明宮 (5)
社殿は明治42(1909年)の建立。本殿は平成7年(1995年)に修理されている。社殿が建っているのは清里村3号墳と呼ばれる円墳の墳丘上。墳丘は直径35.8m、高さ5.8m。

石段下の灯籠は明治31年(1898年)の奉納。

池端神明宮 (6)
池端神明宮 (7)
石段の下(両側)に境内社・末社群が並ぶ。石塔形の衣笠大神は明治31年(1898年)の銘がある。その他、菅原社、雷電社、琴平宮、疱瘡社など。

池端神明宮 (8)
社殿左側に小出神社跡の石碑。明治6年に合祀された小出神社のことだろうか?

口碑によると、昔は村の西部に大池があり、西南北の三方が高かったので池の東側に村が形成された。池の端なの池端村と号した伝わる。現在は山林となっているが、その東南の地区を池尻というのは名残であるという。このように「池」にちなんだ名称が多く、神明宮も「池岸明神」と呼ばれていたと伝わる。


前橋市上青梨子町の神明山瑞雲寺。

瑞雲寺 (1)
瑞雲寺は寛永18年(1642年)瑞雲東鷟道の創建とされる。本堂はかなり老朽化しており、無住になってかなり長い時間が経っているようだ。

瑞雲寺 (2)
女人講塔、地蔵像、六地蔵(右から)。

瑞雲寺 (3)
湯殿山供養塔。あまり見かけないが、一般的には湯殿山参拝記念に造立する場合が多い。刻像塔になっており、大日如来が彫られている。

隣に淡島神社(元神明宮)があり、その山号から別当寺であった思われる。
(淡島神社は「前橋市上青梨子町・淡島神社」参照)


前橋市清野町の八幡宮。

清野八幡宮 (8)
清野八幡宮 (9)
清野八幡宮の由緒は不詳。口碑によると、永禄9年(1566年)箕輪城落城時に敗残兵数名が当村に落延び土着・帰農。開墾作業中に小石祠を発見。表面には八幡宮、側面には寛和2年(986年)の刻字があった。そこで山城国石清水八幡宮の弊串を得て、弓矢を埋め鎮守として奉祀したしたのが始まりという。

鳥居は享保15年(1730年)の建立。

清野八幡宮 (10)
清野八幡宮 (11)
社殿の建立年などは不明。

清野八幡宮 (12)
清野八幡宮 (13)
境内社・末社群。八坂社、琴平社、神明宮、榛名社など。石塔型は秋葉大権現。

清野八幡宮 (7)
清野八幡宮には獅子舞が伝えられており、前橋市の重要無形民俗文化財に指定されている。吉岡町南下の下八幡宮から慶長年間(1596~1615年)に伝わったとされ、秋の例祭時に奉納される。(下八幡宮は「吉岡町南下・下八幡宮」参照)

当地は元野良犬村のため「野良犬獅子舞」として知られている。野良犬とはすごい村名だ。如来堂があったため「如来野村」と称していたが、江戸時代始め三国街道整備後に村ごと当地に移転してきた際、狼が多かったので狼の字を分けて「野良犬村」としたといわれる。

ちなみに、明治22年(1889年)に池端村・青梨子村・上青梨子村と野良犬村が合併し清里村になっている。これは池端の池のさんずいと青梨子の青を合わせ「清」、野良犬の野の里へんの「里」で「清里村」。

さらについでに、昭和30年(1955年)に前橋市に編入される際には、清里村の「清」と野良犬村の「野」で「清野町」になっている。他の旧村は「池端町」「青梨子町」「上青梨子町」と元の村名を町名にしている。


前橋市清野町の八幡山神宮寺。

神宮寺 (1)
神宮寺は慶長3年(1598年)亮慶の創建とされる。

神宮寺 (2)
神宮寺 (3)
現在は小さなお堂があるのみのようだ。本尊の阿弥陀仏が祀られている。

神宮寺 (4)
お堂前に石仏・石塔類(地蔵像、馬頭観音塔、二十三夜塔、庚申塔など)が並んでおり、お寺の雰囲気は少しだが残されている。

神宮寺 (5)
隣には「清野町集会所」があり、集会所の方が数倍大きな建物。

想像するに、現在集会所となっているところも含めて元は神宮寺の境内だったのだろう。理由は分からないが、神宮寺は小さなお堂のみになっている。すぐ裏には墓地もあるので、神宮寺が廃寺になっているわけではないと思う。


前橋市青梨子町の諏訪神社。

青梨子諏訪神社 (1)
青梨子諏訪神社 (2)
青梨子諏訪神社は慶長12年(1607年)の創建と伝わる。

青梨子諏訪神社 (3)
鳥居は石造で建立年などは摩耗により判別できなかったが、向かって左側の反増の部分が壊れている。直ぐに倒壊するわけではないが、ぼちぼち修理した方がいいのでは。

青梨子諏訪神社 (4)
鳥居前の大きな庚申塔には寛政(1789~1801年)の銘があった。

青梨子諏訪神社 (5)
青梨子諏訪神社 (6)
社殿の建立年などは不明。屋根の銅板葺も剥がれてきている。まあ、地域の神社はなかなか先立つものがないのでしょうがないね。

青梨子諏訪神社 (9)
境内社・末社。詳細は分からない。

青梨子諏訪神社 (7)
青梨子諏訪神社 (8)
境内の杉の大木。大きな樹洞ができている。

青梨子諏訪神社が鎮座しているのは諏訪山古墳(清里村1号墳)の墳丘上になる。諏訪山古墳は直径63m、高さ5.2mの円墳で、埴輪なども見つかっているという。


前橋市青梨子町の熊野神社。

青梨子熊野神社 (1)
青梨子熊野神社の由緒は不詳。上野国神名帳の従三位小奈智明神は当社とされているので、熊野三山の熊野那智大社からの勧請と考えられる。

ただ、ご祭神が熊野夫須美大神の他、家都美御子大神、熊野速玉大神も祀られていること、以前は熊野三山権現と呼ばれていたことなどから、那智からというよりも熊野三山からの勧請と考えた方が適切だと思われる。

青梨子熊野神社 (2)
青梨子熊野神社 (3)
鳥居の扁額は「熊野山」。

青梨子熊野神社 (4)
狛犬は昭和12年(1937年)の奉納。台石裏には「祈願 日支事変 戦勝 出征将士 武運長久」とあり、出征した方々のお名前が刻まれている。

青梨子熊野神社 (5)
青梨子熊野神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

青梨子熊野神社 (7)
青梨子熊野神社 (8)
青梨子熊野神社 (9)
青梨子熊野神社 (10)
拝殿正面の昇り龍や海老虹梁彫刻など、素晴らしい彫刻が施されている。

青梨子熊野神社 (11)
青梨子熊野神社 (12)
秋葉大権現などの境内社や末社。

文政10年(1827年)には京都の富小路刑部卿・藤原貞直から、領主である沼田藩主・土岐頼功を通して白銀3枚が寄進されている。これは富小路家の先代が重病になった際、当社に祈願したところ霊験により快癒したのに感謝してのこと。

沼田藩と言われるとえっと思うが、青梨子町辺りは江戸初期は総社藩領だったが、明和元年(1764年)から沼田藩領になっている(そのまま明治を迎えている)。


前橋市上泉町の諏訪神社。

上泉諏訪神社 (1)
上泉諏訪神社の創建年などは不詳。古くは日枝神社であったが、ご祭神が7神であったことから七社神社とも呼ばれていた。明治41年(1908年)に近郷他社を合祀し上泉神社と改称。その後、昭和4年(1929年)に現在の諏訪神社と再改称している。建御名方神が祀られていたこともあるが、当地の小字名から諏訪神社としたようだ。

石鳥居は昭和3年(1928年)の建立。鳥居前にはご神橋が残っている。

上泉諏訪神社 (2)
上泉諏訪神社 (3)
二ノ鳥居。

上泉諏訪神社 (4)
狛犬は大正6年(1917年)の奉納。

上泉諏訪神社 (5)
上泉諏訪神社 (6)
社殿の建立年などは不明。

上泉諏訪神社 (7)
上泉諏訪神社 (8)
上泉諏訪神社 (9)
本殿には素晴らしい彫刻が施されている。

上泉諏訪神社 (10)
海老虹梁の龍も素晴らしい。

上泉諏訪神社 (11)
境内社の出羽三山や赤城神社、神明宮、八幡宮、琴平宮など。

秋の例祭時には「上泉の獅子舞」(前橋市の重要有形民俗文化財)が奉納される。上泉の獅子舞は承和年間(834~48年)に始まるとされ、現在使われている獅子頭や笛などは剣聖・上泉信綱が奉納したとされる。

舞の特徴は非常にゆったりとした優雅なもので、県内に現存する獅子舞は数多くあるが、その源流はいずれにも属さないとされている。

上泉諏訪神社 (12)
鳥居前に建つ田村平衛氏の石像。田村氏は旧桂萱村の名士(名主・区長・地主総代などを歴任)で、その功績から大正15年(1926年)に銅像が建立された。しかし先の大戦で供出、台座のみとなっていたが平成20年(2008年)に石像が再建されている。


前橋市上泉町の赤城山玉泉寺。

玉泉寺 (1)
玉泉寺は応永26年(1419年)頼慶僧都の開山、上泉城主・上泉憲綱の開基とされる。その後、利根川洪水や戦乱などにより天正2年(1574年)に現在地へ移転している。

玉泉寺 (2)
玉泉寺 (3)
玉泉寺 (4)
山門前の仁王像は平成21年(2009年)の建立。

玉泉寺 (5)
山門内には「おみくじ」の自動販売機。ガチャガチャ風。右上は「こどもおみくじ おもちゃ入り」もある。

玉泉寺 (6)
玉泉寺 (7)
本堂は明治後期の建立。平成5年(1993年)に大規模改築が行われている。

玉泉寺 (8)
本堂前の金剛聖水受處(処)。平成22年(2010年)の造立。大日如来が坐する台に4仏(阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来かな)彫られているので、これで金剛界の大日如来を表わしているのだと思う。

玉泉寺 (9)
弘法大師(空海)像。平成3年(1991年)の造立。

玉泉寺 (10)
六地蔵。平成3年(1991年)の造立。

玉泉寺 (11)
玉泉寺 (12)
境内の閻魔堂。由緒などは不明。閻魔大王の尊顔がちょっとアニメチック。

玉泉寺 (13)
閻魔堂の前には「極楽行 地獄行」の行き先が書かれたバス停が置かれている。閻魔大王が死者の生前の罪を裁くとされるから。

ところで、玉泉寺の由緒は境内にあった「玉泉寺縁起の碑」から抜粋したものだが、開基の上泉憲綱の名は上泉氏の系譜には見当たらない。また創建年も上泉氏の祖とされる義秀よりも古い。ただ、上泉氏の系譜じたいがはっきりしていないので、何とも言えない面はあるけど。

上泉氏と言えば剣聖とうたわれた上泉信綱が有名である。
 (「剣聖 上泉信綱の墓・恵雲山西林寺」参照)


前橋市朝倉町3丁目の飯玉神社。

朝倉飯玉神社 (1)
朝倉飯玉神社 (2)
朝倉飯玉神社は寛政2年(1790年)の勧請と伝わる。

朝倉飯玉神社 (3)
朝倉飯玉神社 (4)
朝倉飯玉神社 (5)
二の鳥居、灯籠は明治33年(1900年)の建立。

朝倉飯玉神社 (6)
朝倉飯玉神社 (7)
社殿は平成11年(1999年)の建立。それまでは創建時(寛政2年)建立の社殿であった(もちろん修築有りだが)。

朝倉飯玉神社 (8)
朝倉飯玉神社 (9)
境内社・末社(諏訪社・神明宮・八幡宮・菅原社・熊野社・稲荷社など)。

朝倉飯玉神社 (10)
朝倉飯玉神社 (11)
境内の杉の大木(樹高19m)と松(樹高13m)。

朝倉飯玉神社 (12)
日露戦役凱旋記念碑。揮毫は大山巌元帥。西郷隆盛の従兄弟としても有名。現在よく見る西郷隆盛の肖像画(キヨッソーネ画)は、顔の上半分を西郷従道(弟)、下半分を大山巌をモデルにして描いたといわれる。


前橋市朝倉町の示現山永福寺。

永福寺 (1)
永福寺の創建年などは不詳。尊栄の開基、後に玄海の中興とされる。

永福寺 (2)
本堂はコンクリート製で、一般的なお寺の本堂とは違う趣きである。

永福寺 (3)
境内の石造物。左から二十二夜塔(如意輪観音)は天明4年(1784年)、庚申塔は寛政12年(1800年)、念仏供養塔は元禄13年(1700年)の造立。一番右は八臂の馬頭観音かな。

永福寺 (4)
永福寺 (5)
地蔵像(上の写真)は昭和58年(1983年)の造立。もう一体はまだ新しそうだ。六道能化とある。

六道能化とは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つのそれぞれの世界で、地蔵尊が苦しむ衆生を救ってくれるという信仰。寺院入口(山門付近など)や墓地入口などに、六地蔵が置かれるのはそういう理由から。


前橋市上佐鳥町の佐鳥山西光寺。

西光寺 (1)
西光寺は弘仁年間(810~24年)法相宗の僧・徳一の開基。法相宗は中国・唐代創始の大乗仏教宗派の一つ。現在では奈良の興福寺、薬師寺がこの宗派。その後、応安3年(1370年)に天台宗に改宗。この時の村雄法印を中興としている。

西光寺 (2)
西光寺 (3)
本堂は天保15年(1845年)火災により焼失、安政5年(1860年)に再建されている。現在の本堂は平成14年(2002年)の建立。本堂には本尊の阿弥陀如来像を祀る。天保の火災時も本尊は被災を免れている。

西光寺 (4)
左から毘沙門天、弁財天、大黒天。

西光寺 (5)
西光寺 (6)
観音像(上)と地蔵像(下)。地蔵像に六道能化と書かれているが、これは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つのそれぞれの世界で、地蔵尊が苦しむ衆生を救ってくれるという信仰。寺院入口(山門付近など)や墓地入口などに地蔵像が6つ置かれるのは、そういう理由から。


西光寺 (7)
伝教大師(最澄)像。平成3年(1991年)の造立。

西光寺 (8)
上川淵小発祥の碑。昭和57年(1982年)の建碑。安政年間(1855~60年)から寺子屋が置かれ、明治7年(1874年)に春日学校(上川淵小の前身)となっている。現在の上川淵小は東隣りの朝倉町にある。


前橋市橳島(ぬでじま)町の飯玉神社。

橳島飯玉神社 (1)
橳島飯玉神社 (2)
橳島飯玉神社の由緒は不詳。境内全体がシイの木の大木群で覆われ、鎮守の森の雰囲気。

橳島飯玉神社 (3)
橳島飯玉神社 (4)
橳島飯玉神社 (5)
社殿は大正元年(1912年)の建立。平成14年(2002年)に改築されている。

橳島飯玉神社 (6)
橳島飯玉神社 (7)
社殿左に御嶽塚。塚頂に御嶽山神社、三笠山神社、八海山神社の石碑。途中にも境内社の大國神社、火雷神社、倭文神社などの石祠や道祖神が置かれている。

中ほどにある「御即位紀念」に大正4年(1915年)とあるように見えたので、御嶽塚の造成や境内社の配置などは同年のことだと思う。

橳島飯玉神社 (8)
弥功霊神、通称「こんどう様」。前橋藩の役人・近藤弥市を祀ったもの。天保の大飢饉(1836年ころから数年)による凶作で、橳島村は大被害を受けた。その対応にあたったのが近藤弥市で、安政元年(1854年)まで村の復興の世話をした。

村人はその遺徳を偲び、文久3年(1863年)に弥功霊神として祀ったもの。昭和31年(1956年)に飯玉神社境内に遷っている。

前橋市六供町の八幡宮。

六供八幡宮 (1)
六供八幡宮 (2)
六供八幡宮は大同3年(808年)に当地の守護神として勧請されたと伝わる。

一の鳥居は平成29年(2017年)の建立。それまでの一の鳥居は平成4年(1992年)の建立だが、平成22年(2010年)には腐食のため撤去されている。木製の鳥居って、意外と寿命が短いのね。

六供八幡宮 (3)
鳥居横には秋葉大神(右)と大黒天(左の祠)。

六供八幡宮 (4)
六供八幡宮 (5)
二の鳥居(石鳥居)は昭和天皇即位記念のようだ。と言うことは昭和初期の建立。

六供八幡宮 (6)
六供八幡宮 (7)
六供八幡宮 (8)
社殿は明治4年(1871年)の建立。昭和初期の改築・修築に続き、昭和40年(1965年)に屋根を銅板葺に改築。

六供八幡宮 (9)
六供八幡宮 (10)
六供八幡宮 (11)
境内社の厳島神社。慶長16年(1611年)の勧請とされる。弁天池もあるが、現在は空池の状態。

六供八幡宮 (12)
六供八幡宮 (13)
境内社の飯玉社、雷電社、神明社、菅原社など。

六供八幡宮 (14)
御嶽山神社、三笠山神社、八海山神社。

六供八幡宮 (15)
庚申塔や二十三夜講塔など。

六供八幡宮 (16)
境内の力石。28貫(約105kg)、55貫(約206kg)など3個ある。大正9年(1920年)の力だめし大会では、六供村(当時は前橋市の大字)の方が55貫を持上げた記録が残っているという。


前橋市小相木町の富士浅間神社。

富士浅間神社 (1)
小相木富士浅間神社の創建は、群馬郡誌(大正14年/1925年)によると景雲3年とされる。ただ、景雲は中国・唐の元号で、日本で同じような元号は神護景雲があるが。ちなみに神護景雲だと3年は769年。

境内入口にあった史跡標柱には、慶長7年(1602年)に御師が活動の拠点として創建したとある。御師とは社寺へ参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする人(僧など)のことである。

群馬郡誌の記載内容はちょっと怪しいかな。

富士浅間神社 (2)
社殿前の灯籠(手前)は昭和50年(1975年)、奥側は嘉永4年(1851年)の奉納。

富士浅間神社 (3)
富士浅間神社 (4)
社殿は昭和14年(1939年)の建立。社殿前の狛犬も同年の奉納。

小相木富士浅間神社は利根川の氾濫のため、数度の移転を経て昭和14年に現在地に遷座している。そのため社殿などはみな同年の建立である。

富士浅間神社 (5)
富士浅間神社 (6)
境内社・末社。詳細は分からない。

富士浅間神社 (7)
富士浅間神社 (8)
猿田彦神が数多く並ぶ。地区内からの集積と思われる。

中世に猿田彦神は庚申信仰や道祖神と結びついている。今でも路傍に「猿田彦大神」などと刻された石碑(塔)を多く見かけるのは、そういう理由からである。


前橋市箱田町の菅原神社。

箱田菅原神社 (1)
箱田菅原神社 (2)
箱田菅原神社の由緒は不詳。鳥居は平成15年(2003年)の建立。

箱田菅原神社 (3)
箱田菅原神社 (4)
社殿の建立年などは不明。主祭神はもちろん菅原道真だが、脇祭神として天穂日命(あめのほひ)を祀っている。天穂日命は農業、養蚕の神としても信仰されている。

箱田菅原神社 (5)
社殿前の寒紅梅。菅原道真と言えば梅なので、良い組合わせだ。

箱田菅原神社 (6)
境内には椿も植樹されている。

箱田菅原神社 (7)
箱田菅原神社 (8)
境内社や双体道祖神。双体道祖神には享保12年(1727年)(右)、元文5年(1740年)(左)の紀年銘がある。

ところで、写真を見て気付いたのだが(現場では気付かず)、1枚目の鳥居の写真の下側に1対の石造物がある。左右にあり「東大橋」(左)「あずまおおはし」(右)と読める。滝川に架かる東大橋の旧橋の橋名板を移築したものかな?


前橋市箱田町の教行山常円寺。

常円寺 (1)
常円寺の由緒は不詳。

常円寺 (2)
常円寺 (3)
常円寺 (4)
参道の六地蔵と二十二夜講塔(如意輪観音)。二十二夜塔には文政6年(1823年)の銘がある。

常円寺 (5)
百八十八番供養塔。平成9年(1997年)の造立。檀徒及び有志が一致協力し、秩父34霊場、西国33霊場など188霊場を巡拝した記念。

常円寺 (6)
常円寺 (7)
本堂には本尊の十一面観音を祀る。

常円寺 (8)
本堂前の庚申塔、大日如来像、八十八番供養塔。

常円寺 (9)
常円寺には明治7年(1874年)に箱田学校が置かれている。現在の前橋市立東小の前身となる。明治18年(1885年)まで東地区教育の基礎を築いている。


前橋市箱田町の観音堂。

箱田観音堂 (1)
箱田観音堂の由緒は不詳。隣接する墓地や僧侶の墓らしき墓石などから、以前はお寺だったのではないかと思われる。

箱田観音堂 (2)
お堂前には女人講(二十二夜講)の如意輪観音塔。弘化2年(1846年)の造立。

箱田観音堂 (3)
百番供養塔(両側の2基)と六十六部供養塔(中央)。紀年銘はそれぞれ文化2年(1805年)、明和5年(1768年)、文政元年(1818年)。

箱田観音堂 (4)
箱田観音堂 (5)
観音堂というので観音菩薩を祀っているのだと思うが、如何せん真っ暗で中ははっきりせず。写真に写った範囲では手前に神輿、奥に仏像が見られる。

箱田観音堂 (6)
箱田観音堂 (7)
堂前には手作りの三重塔と手書きの観音様(だと思う)。地元の観音堂といった雰囲気を醸し出している。

観音堂には「かつぎ地蔵」が安置されている。箱田町と隣の後家町を中心に行われる「かつぎ地蔵祭り」の主役。今回訪問の主役もかつぎ地蔵(見えなかったが)。

子どもの幸福と健やかな成長を願って、子どもたちが和讃・念仏を唱えながらお地蔵さまが乗った台車を巡行させるもの。このお地蔵さま(かつぎ地蔵)は、正徳5年(1715年)後家村の宮大工・田村八兵衛が造立したとされている。

昭和32年(1957年)を最後に中断していたが、昭和58年(1983年)に復活している。

箱田観音堂 (8)
境内入口脇に高原智作先生の墓がある。お墓と言っても墓碑だと思うが。高原先生は大正末から昭和初期の旧前橋東小(当時は尋常小?)の校長先生。旧東小の教育発展に尽力された方らしい。在任中に亡くなり、その遺徳に報いるため村民が墓碑を建立している。


前橋市川曲町の諏訪神社。

川曲諏訪神社 (1)
川曲諏訪神社の由緒は不詳。明治40年(1907年)に村内の八坂神社や近郷の飯玉神社などを合祀している。

鳥居は平成28年(2016年)の建立。この年に境内整備、社殿修築などを併せて行っている。そのため境内は整然としており、非常にきれいだ。

川曲諏訪神社 (2)
川曲諏訪神社 (3)
社殿は明治43年(1910年)に群馬郡倉賀野町(現在高崎市倉賀野町)の三光寺稲荷神社から購入・移築したもの。三光寺稲荷神社は前年(明治42年)に倉賀野神社に合祀されている。拝殿には天井絵も施されており(見られなかったが)、玉村の絵師・千輝玉斎の作とされる。

川曲諏訪神社 (4)
川曲諏訪神社 (5)
拝殿の漆喰彫刻。唐獅子牡丹かな。

川曲諏訪神社 (6)
木鼻には狐の彫刻が施されており、稲荷神社であったことの名残を示す。

川曲諏訪神社 (7)
社殿裏の境内社(八坂社、稲荷社、飯玉社、琴平社など)。

川曲諏訪神社 (8)
川曲諏訪神社 (9)
鳥居横と社殿裏(2本)の計3本の立派な松の大木が神社を守護している。

ちなみに、倉賀野神社に合祀された三光寺稲荷神社の稲荷神だが、後に地元老人の夢枕に現れて「元の場所に戻りたい」と訴えたという。そのため地元の方々が寄付を募り、昭和11年(1936年)に元の場所に冠稲荷神社として再祀されている。

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