Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 前橋市(旧市部)


前橋市石倉町1丁目の前橋ステーション跡。

前橋ステーション跡 (1)
前橋ステーション跡 (2)
石倉町1丁目交差点付近に、内藤分ステーション跡の碑が建っている。平成元年(1989年)の建碑。揮毫は福田赳夫元首相。

明治17年(1884年)に上野からの鉄道が前橋まで延伸され、当地に「内藤分ステーション」が設置された。正確には「内藤分停車場」だが、文明開化の当時は駅や停車場を「ステーション」と呼ぶのが一般的だったらしい。内藤分とは当時の地名で、戦国時代に当地を治めていた武田家重臣・内藤昌豊から来ている。「内藤のもの」といった意味。

当時は利根川に鉄橋がなく、内藤分ステーションが初代前橋駅の位置づけとなる。

内藤分ステーションの開業により、前橋から生糸・絹・米などの物資が東京に約4時間20分で届けられるようになった(以前は3日かかった)。特に前橋の生糸はわが国最大の輸出品として、日本の近代化に貢献している。

前橋ステーション跡 (3)
前橋ステーション跡 (4)
前橋ステーション跡 (5)
内藤分ステーションの碑から北に数十m(道の西側)のところに、蒸気機関車(C58)の動輪が展示され、ステーション跡の解説板などが設置されている。これは、このお宅の方が「近代化を進めた前橋の歴史を知ってもらいたい」と、平成27年(2015年)に自費で設置したもの。

明治22年(1889年)に栃木の小山ー前橋間が開通。こちらの前橋駅は現在の前橋駅の場所になる。そして、翌月には利根川に鉄道専用鉄橋が架かり、内藤分ー前橋間が接続されたことにより内藤分ステーションは廃止。5年でその役目を終えている。

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前橋市下石倉町の菅原神社。

下石倉菅原神社 (1)
下石倉菅原神社 (2)
下石倉菅原神社の創建は不詳。元は元総社の天神地区にあったものを当地に移したといわれる。また他説では、武田信玄が厩橋城を攻略するために石倉城を再築した際に、守護神として勧請したともいわれる。(「前橋市石倉町・石倉城址の碑」参照)

下石倉菅原神社 (3)
社殿前は松並木(ちょっと少ないが)のようになっている。以前は鳥居から続いていたのではないだろうか。

下石倉菅原神社 (4)
社殿前の灯籠は大正13年(1924年)と同14年(1925年)の奉納。

下石倉菅原神社 (5)
狛犬は昭和3年(1928年)の奉納。

下石倉菅原神社 (6)
下石倉菅原神社 (7)
下石倉菅原神社 (8)
社殿は明治20年(1887年)に火災で焼失したため、翌年に紅雲分村(現、紅雲町)にあった赤城神社の社殿を買い受けたもの。

これは旧制前橋中(現在の前橋高、当時は群馬中央病院のところにあった)拡張のため、前橋藩主・松平大和守が創建した赤城神社が大洞赤城神社(赤城山)に合併されることになったため。

下石倉菅原神社 (9)
下石倉菅原神社 (10)
二十二夜講関係かな。如意輪観音塔には文政7年(1824年)の銘が読み取れた。

境内には梅の木も多く、春先にはほのかな香りと各種合格の吉報を届けることだろう。

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前橋市南町2丁目の水神社。

水神社 (1)
水神社の由緒は不詳。江戸時代から当地は宗甫分(そうほぶん)と呼ばれ、利根川の対岸(小相木地区)との間に「実政の渡し」があった。その渡しの安全祈願のため、水の神・罔象女神(みつはのめのかみ)を祀ったものと考えられる。

利根川の氾濫により宗甫分は東に移動を余儀なくされ、かつては今の利根川の中ほどにあったといわれる水神社も現在地あたりに移っている。さらに、昭和53年(1978年)に開通した南部大橋のため、現在地へ若干の移動をしている。

水神社 (2)
社殿は明治21年(1888年)の建立。昭和53年(1978年)に社殿の修復(屋根の銅板葺き化など)を行っている。

社殿前の狛犬は昭和30年(1955年)の奉納。地元の方と北海道の方のお名前が刻まれていた。

水神社 (3)
水神社 (4)
拝殿扁額は「水神宮」になっている。内部扁額は「水神社」。

水神社 (5)
拝殿には天井絵が施されている。

水神社 (6)
水神社 (7)
水神社 (8)
社殿隣には境内社の神長宝神社。厄除招福・五穀豊穣の守護神として経津主神を祀る。

水神社 (9)
水神社 (10)
社殿裏の庚申塔や馬頭観音塔と石仏群。南部大橋開通に伴う区画整理の時に集積されたようだ。

水神社 (11)
神輿庫。水神社の夏祭り時、水難除け・無病息災・五穀豊穣を願って神輿の渡御が行われる。裸の若衆が神輿をかつぎ町内を練り歩く。その際に神輿に向かって水がかけられる。「はだか神輿」と呼ばれる。

この祭典は戦後中断していたが、昭和53年(1978年)の南部大橋の開通を祝し復活している。昨年は新型コロナの影響により中止。今年も無理かなぁ。

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前橋市(旧郡部を除く)

前橋市高井町・神明宮
前橋市総社町高井・高福山観音寺
群馬県水力発電発祥の地 ー植野(総社)発電所跡ー
前橋市総社町・御霊神社
前橋市総社町・勘九郎地蔵
前橋市総社町・総社城南出口の子育て地蔵尊
前橋市総社町・野馬塚神明宮
前橋市総社町・野馬の不動尊
前橋市総社町・旧山賀酒造レンガ蔵
前橋市総社町・八坂神社
前橋市総社町・巣烏神社
前橋市元総社町・化粧薬師(縁切り薬師)
前橋市大友町・大友神社
前橋市大渡町・王守神社
前橋市大渡町・王山古墳
前橋市石倉町・神明宮
前橋市石倉町・石倉城址の碑
片腕地蔵(身代わり地蔵) ー林倉寺ー
前橋市荻窪町・荻窪神社
前橋市総社歴史資料館
前橋市総社町・立石諏訪神社
前橋市総社町・熊谷稲荷神社
総社町の総鎮守 -総社神明宮-
前橋市小屋原町・稲荷神社
八咫鏡を作った石凝姥命を祀る -鏡神社-
前橋市東大室町・大室神社
大室城本丸跡に鎮座 -大室神社-
大胡城主・牧野康成の開基 -湯清寺-
国定忠治の愛妾・お徳の旧家屋 -観昌寺 その2-
大室太郎の墓 -観昌寺-
笂井町の氏神様 -笂井近戸神社-
前橋市・稲荷新田の薬師さま
前橋市亀里町・阿内宿の石幢
軍神・岩佐直治中佐の墓 -松竹院-
室町時代の鰐口 -東福寺-
前橋市最古の六地蔵石幢 -正法寺-
前橋市上青梨子町・淡島神社
前橋市青梨子町・菅原神社
「関東の名工」小林源太郎の彫刻 -植野稲荷神社-
天狗岩用水開削時の丁間台 -丁間稲荷神社-
高須隼人の墓 -正幸寺 その2-
慈覚大師の創建 -禅養寺-
歴代前橋藩主の崇敬社 -山王日枝神社-
石造阿弥陀如来三尊像 -後閑円満寺-
前橋市上大島町・近戸神社
百番観音 -浄土院-
前橋市・公田の岩舟地蔵
前橋市・小島田の阿弥陀如来坐像
群馬県最古の供養碑 -小島田の供養碑-
前橋市・江木の宝塔
前橋市江木町・六所神社
津久井磯の遺徳碑 -隆興寺 その2-
前橋公園の「楫取素彦と松陰の短刀」銅像
旧普蔵寺供養塔 -最善寺 その2-
前橋市・今井神社古墳
前橋市・富田の宝塔
前橋市・正円寺古墳
上州七福神・福禄寿を祀る -正円寺-
前橋市・桂萱大塚古墳
前橋城の鬼門除け -早虎稲荷神社-
前橋市・片貝能満虚空蔵地蔵尊
片貝神社の太々神楽 -片貝神社-
平敦盛の供養塔 -泉蔵寺-
赤い御霊石伝説 -小石神社-
「おくまんさま」の三つ足八咫烏石 -前橋市・熊野神社-
佐藤垢石の碑
お沓の言い伝え -前橋市・上新田雷電神社-
前橋市・鳥羽の大日如来および笠塔婆
応永の宝塔 -大福寺-
青栁大師 -龍蔵寺-
石田玄圭の墓
養蚕神楽 -春日神社-
「生糸のまち前橋」の近代化遺産 -旧安田銀行担保倉庫-
前橋市出身の英霊を祀る -厩橋護国神社-
日本最初の製糸工場 -前橋製糸場跡-
楫取素彦・寿夫妻の発願 -清光寺-
筑波山信仰 -無量寿寺-
前橋市日輪寺町・菅原神社
十一面観音伝説 -日輪寺-
魚遊寺伝説 -乗明院-
伝教大師・最澄の創建 -善光寺-
意外と怖い長壁神 -長壁神社-
静御前のお墓??
酒井重忠の建立 -観民稲荷神社-
市街地の発電所 -柳原発電所-
御真影御里御坊 -妙安寺-
赤穂浪士・矢頭右衛門七の母の墓 -大蓮寺-
広瀬川 白く流れたり -広瀬川遊歩道-
徳川家康の8男・仙千代を祀る -正幸寺-
酒井忠世の開基 -隆興寺-
松平直矩の開基 -永寿寺-
新田義貞の首塚? -新田塚古墳-
新田義貞の首級を持ち帰った(?)「覚明」の墓 -宝禅寺-
神明宮の外宮? -前橋千代田・稲荷神社-
太田道灌の建立?? -前橋千代田・神明宮-
酒井重忠所縁の寺 -源英寺-
前橋公園の日本庭園
学校院若王子大明神 -御霊神社-
中臣羽鳥連の墓 -釈迦尊寺-
名馬「磨墨」の蹄がご神体 -駒形神社-
大坂戦籠城之図 -前橋文学館 その2-
萩原朔太郎記念・水と緑と誌のまち前橋文学館
前橋厄除け大師 -蓮華院-
総社神社の別当寺 -徳蔵寺-
上野国府跡? -宮鍋神社-
名馬・磨墨の墓 -祝昌寺-
前橋市・金冠塚古墳
前橋市・亀塚山古墳
前橋市・天神山古墳
前橋市・天川二子山古墳
前橋市総社町・遠見山古墳
前橋市総社町・愛宕山古墳
鎌倉坂伝説 -善勝寺-
酒井忠世家臣・本城氏の墓 -長昌寺-
初代前橋市長・下村善太郎の墓 -龍海院 その2-
7世紀末の大型円墳 -荒砥富士山古墳-
白鳳時代の大伽藍寺院跡 -山王廃寺跡-
松平(直基)家の崇敬社 -前橋東照宮-
復活のイエス -前橋聖マッテア教会-
群馬初のカトリック教会 -前橋カトリック教会-
群馬初の公会堂 -群馬会館-
昭和時代の群馬の顔 -群馬県庁昭和庁舎-
江戸時代の年貢貯蔵庫 -上泉郷蔵-
剣聖・上泉信綱の墓 -西林寺-
安産の神様と巨石群 -産泰神社-
石川氏の墓 -最善寺-
前橋・大室公園 その6 -旧関根家住宅-
前橋・大室公園 その5 -前二子古墳-
前橋・大室公園 その4 -中二子古墳-
前橋・大室公園 その3 -後二子古墳-
前橋・大室公園 その2 -小二子古墳-
前橋・大室公園 その1 -M・1号古墳-
赤城神社 その3 -二宮・赤城神社-
前橋・八幡山古墳
単層四脚の総門 -大徳寺-
常盤御前のお墓? -極楽寺-
静御前のお墓? -養行寺-
上野国の総鎮守 -総社神社-
初めて見たオリンピックのメダル -総合スポーツセンター・スポーツ資料館-
萩原朔太郎のお墓 -政淳寺-
岩神の飛石 -岩神稲荷神社-
お虎が淵伝説 -虎姫観音-
のんびり散策 その2 -敷島公園・ばら園-
のんびり散策 -敷島公園-
お艶のその後・・・ -お艶が岩/お艶観音-
淀君のお墓? -元景寺-
上毛野田道の墳墓? -蛇穴山古墳-
秋元氏歴代の墓所 -宝塔山古墳-
秋元氏の菩提寺 -光巌寺-
徳川譜代・酒井家の菩提寺 -龍海院-
明治時代の迎賓館 -臨江閣-
水道タンクと資料館 -前橋市水道資料館-
ネコも入りたがる記念館 -萩原朔太郎記念館-
あたり一面草ぼうぼう -上野国分寺跡-

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前橋市高井町の神明宮。

高井神明宮 (1)
高井神明宮の由緒は不詳だが、本宮(石宮)が寛永19年(1642年)の建立とあることから、その頃の創建と推定される。

鳥居は大正2年(1913年)の建立。

高井神明宮 (2)
狛犬は大正15年(1926年)の奉納。獅子山上に鎮座する。

高井神明宮 (3)
高井神明宮 (4)
高井神明宮 (5)
社殿は元禄5年(1692年)に建立されたが、その後大破(理由不明)したので天明2年(1782年)に改築されている。

高井神明宮 (6)
高井神明宮 (7)
本殿には彫刻が施されているが、保護のためアクリル板(?)で覆われているため、外景が反射してちょっと見づらい。

高井神明宮 (8)
本宮。先に書いたように寛永19年(1642年)の建立。

高井神明宮 (9)
境内末社の八坂社、抜鉾社、絹笠社、阿夫利社、稲荷社。すべてに狐像が置かれており、区別がつかなかった。

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前橋市総社町高井の高福山観音寺。

高福山観音寺 (1)
高福山観音寺は元和・寛永年間(1615~45年)に僧・頼順の開山。元禄4年(1691年)には総社領主・安藤信富が自らの祈願所として観音堂を建立している。

総社藩は寛永10年(1633年)に秋元泰朝が甲斐谷村へ移封となり廃藩、高崎藩主・安藤重長に与えられた。重長は総社を信富の知行地とした。信富に関しては資料により重常、重昌、重保などとあり、良く分からない(重長の3男とされる)。

後に信富は総社領内で重税を課し、領民が幕府に直訴する騒動を起こしている。
(「前橋市総社町・熊谷稲荷神社」参照)

本堂は明治24年(1891年)に焼失。以降、観音堂を本堂としてきた。現在の本堂は平成25年(2013年)の新築建立。本尊は釈迦牟尼仏であったが、現在は馬頭観音が本尊になっているようだ。この馬頭観音は三面六臂で秘仏となっている。直接拝すると目が潰れるとの俗説が残っている。

高福山観音寺 (2)
高福山観音寺 (3)
庚申塔や日待塔(如意輪観音)など。日待塔には延宝8年(1680年)の銘がある。

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前橋市総社町植野の植野発電所(通称総社発電所)跡。

植野発電所跡 (1)
植野発電所は明治27年(1894年)に前橋電燈が群馬県で最初(全国でも5番目)に営業運転を開始した水力発電所である。天狗岩用水をせき止め50kWの電力を前橋市内に送電していたが、大正3年(1914年)に廃止となっている。

植野発電所跡 (2)
植野発電所跡 (3)
現在は総社町総社と総社町植野の境界を流れる天狗岩用水にかかる立石橋の下に、取水口の一部(レンガ積)が残るのみである。

植野発電所跡 (4)
レンガ積みの取水口には、水神さまが祀られている。

植野発電所跡 (5)
現在も水量豊富な天狗岩用水。天狗岩用水は総社藩主・秋元長朝が慶長9年(1604年)に3年をかけ完成させたもの。取入れ口付近の大岩を取り除く際、天狗が助けてくれたとされることから、その名が付いたという。

後に用水は高崎・玉村まで延長され、長さ25kmで田んぼの灌漑面積は600haに及ぶ。玉村町の上新田や下新田の地名は天狗岩用水の延長により開発された新田にちなんだもの。現在、利根川からの取入れ口(吉岡町漆原)に、群馬県が設置した天狗岩発電所が稼働している。(「用水路にある発電所 -天狗岩水力発電所-」参照)

ところで群馬県で最初の水力発電所は、日本織物が桐生工場の自家発電用として明治23年(1890年)に稼働させたものである。これは植野発電所より4年も前のこと。明治27年(1894年)に桐生電燈が設立され、日本織物水力発電所の電力を桐生町(当時)内へ供給を開始している。これは群馬県で2番目、全国で6番目の営業水力発電となる。

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前橋市総社町総社の御霊神社。

総社御霊神社 (1)
総社御霊神社は元は日枝神社で、その由緒は不詳だが光巌寺の鬼門除けとして祀られていた。秋元長朝が光巌寺を創建したのが慶長12年(1607年)なので、日枝神社の創建も同時期と考えられる。

昭和27年(1952年)に英霊210余柱を合祀し御霊神社となった。

総社御霊神社 (2)
社殿は紅葉(もみじ)山と呼ばれる小古墳上に鎮座する。楓の大木が繁っていたことからの名称のようだ。

総社御霊神社 (3)
日枝神社時代の社殿は、明治元年(1868年)に熊谷稲荷神社に移されている。現在の社殿は終戦時まで蛇穴山古墳上にあった奉安殿を移築したものである。

ちなみに奉安殿とは、戦前・戦中に天皇皇后両陛下の御真影と教育勅語を納めていた建物のこと。

総社御霊神社 (4)
元は奉安殿なので、門扉には菊の御紋があしらわれている。

総社御霊神社 (5)
石段下には外征紀念碑がある。明治39年(1906年)の建碑なので、日露戦争の戦勝記念のようだ。揮毫は大山巌元帥陸軍大将。西郷隆盛の従兄弟にあたる。

関連
 「前橋市総社町・熊谷稲荷神社
 「上毛野田道の墳墓? -蛇穴山古墳-

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前橋市総社町総社の勘九郎地蔵。

勘九郎地蔵 (1)
勘九郎地蔵 (2)
江戸時代末、当地には伝授庵という寺があり、そこへ勘九郎という旅の僧侶がやって来て即身仏になるための修行を重ねていた。そして村人が見守る中、立派に即身仏になられたという。この仏を敬い、明治24年(1891年)に町の人たちによって、この地蔵が建立された。現在も交通安全や学業成就などのご利益があるとされる。

ちなみに、即身仏とは生きたまま土中などに入定し(空気穴は通す)、読経や瞑想を続けながらそのままミイラ化すること。主に衆生救済を目的とする。

勘九郎地蔵 (3)
勘九郎地蔵 (4)
お堂内には奉納された地蔵像が多数収められている。多くの願が成就しているようだ。

勘九郎地蔵 (5)
お堂脇の琴平宮石塔。明治25年(1892年)の銘がある。勘九郎地蔵との関連は分からない。

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前橋市総社町総社の総社城南出口の子育て地蔵尊。

総社城南出口の子育地蔵 (1)
当地付近は総社城の城下町と旧元総社村との通路として用いられており、ここに木戸を設置し南出口としていた。この付近には五千石用水から分流し小川原堰から南流する用水があり、18世紀初頭に子どもの水難事故が発生したため、その供養として石造地蔵菩薩像が造立されたという。

以後、子どもの守護や子育て地蔵尊として地域に根付いている。

総社城南出口の子育地蔵 (2)
お堂内には小さな地蔵像が多数奉納されている。ご利益があった方がお礼参り時に奉納したものだろう。

総社城南出口の子育地蔵 (3)
総社城南出口の子育地蔵 (4)
総社城南出口の子育地蔵 (5)
地蔵堂の周りには双体道祖神、馬頭観音像、庚申塔などが集積されている。双体道祖神には紀年銘は見られないが「十一月吉日 鍛冶町」とある。鍛冶町は総社町内の旧字名らしい。

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前橋市総社町総社の野馬塚神明宮。

野馬塚神明宮 (1)
野馬塚神明宮 (2)
野馬塚神明宮の由緒は不詳。野馬塚村の鎮守として勧請・創建されたと推定される。

野馬塚神明宮 (3)
社殿(というか祠)は昭和40年(1965年)に旧前橋工高敷地内にあった稲荷神社から移築している。

ちなみに、前橋工は平成17年(2005年)に前橋市石関町に移転したが、当時は石神町(現在のスーパー・ベイシアの所)にあった。

野馬塚神明宮 (4)
野馬塚神明宮 (5)
青面金剛像と双体道祖神。双体道祖神は享保6年(1721年)の造立。

野馬塚神明宮は総社城の南木戸のすぐ外に位置する。総社城は秋元長朝が慶長12年(1607年)に築城し、その子・泰朝まで約30年間秋元氏の居城であった。泰朝が寛永10年(1633年)に甲斐谷村に移封され、総社藩は高崎藩所領となっている。

長朝が城下町の整備・建設を行った慶長年間には、多くの住民が移住してきているので、野馬塚神明宮の創建もその時期ではないだろうか。

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前橋市総社町2丁目の野馬の不動尊。

野馬の不動尊 (1)
野馬の不動尊 (2)
野馬の不動尊は密教信者により奉安されたものと考えられる。本尊の不動明王は江戸時代(18世紀末)の作と推定されている。

現在の不動堂は平成10年(1998年)の建立。お堂前の灯籠は昭和4年(1929年)の奉納。

野馬の不動尊 (3)
中は真っ暗だったが、何とか撮った写真。多くの仏像類が安置されている。ご本尊はよく分からず。

野馬の不動尊 (4)
境内の千部供養塔(右)と摩多利神(左)。千部供養塔は延享元年(1744年)、摩多利神は安政5年(1858年)の銘が読み取れた。

千部供養塔(経典読誦塔)はお経を一千回など一定回数読誦したことを記念する供養塔。また摩多利神は江戸後期には「疫病退散」のご利益があるとされていた。

お経を読誦する理由は様々だろうが摩多利神と併せて考えると、利根川の氾濫などの自然災害とそ後に蔓延する疫病除けを祈願してのものではないだろうか。

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前橋市総社町総社の旧山賀酒造レンガ蔵。

旧山賀酒造レンガ蔵 (2)
旧山賀酒造レンガ蔵 (1)
旧山賀酒造のレンガ蔵は昭和2年(1927年)の建築。当時の北海道庁の庁舎を模したといわれる。約600平方mの2階建て瓦葺きで、レンガは英国積み。施行は前橋市石倉町の増田煉瓦(株)。

山賀酒造は明治初めから昭和45年(1970年)まで酒造りをしていた。最盛期は大正末(1920年ころ)で、年間約1,000石(1升瓶で10万本分)ほどの酒を造っていた。銘柄は「二子山」と「山瀬川」。

旧山賀酒造レンガ蔵 (3)
山賀酒造のマーク(商標)も煉瓦なのかな? 屋根瓦に「山」が入っている。

旧山賀酒造レンガ蔵 (4)
井戸の外周壁も煉瓦造り。

内部を改装してレストラン(2店舗)として営業していたが、現在は移転したようで空き倉庫になっているみたいだ。

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前橋市総社町総社の八坂神社。

総社八坂神社 (1)
総社八坂神社の創建は不詳だが、元総社の巣烏分から遷宮している。当初は用水路上に遷座していた。同様に巣烏分から遷座している巣烏神社が慶長9年(1604年)なので、総社八坂神社の遷座も同年頃と考えられる。(「前橋市総社町・巣烏神社」参照)

総社八坂神社 (2)
昭和8年(1933年)の大渡橋新架橋・道路拡幅により用水路は南側に移ったため、八坂神社は現在地に移転している。お社はまだ新しそうだ。

総社八坂神社 (3)
庚申塔(左3つ)と湯殿講碑(一番右)。

総社八坂神社 (4)
女人講(地蔵菩薩)碑。如意輪観音が彫刻されているものは多いが、地蔵菩薩はあまり見ない気がする。

総社八坂神社 (5)
総社八坂神社 (6)
馬頭観音と石神・石仏群。

総社八坂神社は巣烏神社から北に50mくらいのところに鎮座している。巣烏神社の案内板「境内には八坂社・疱瘡神・菅原社などが合祀されており(中略)社地には湯殿講碑、月待塔、庚申塔など庶民信仰の石神・石仏が安置されている」と内容が合致するので(疱瘡神・菅原社は見あたらないが)、ここは巣烏神社の境外地かもしれない。

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前橋市総社町総社の巣烏神社。

巣烏神社 (1)
巣烏神社の創建は不詳。元は元総社町の巣烏分に鎮座していた。慶長9年(1604年)に同地の住民が現在の巣烏に移住した際、新住地の鎮守とするため遷宮させたと伝わる。

巣烏神社 (2)
こじんまりとした社殿。県道6号線(前橋箕郷線)の拡幅に境内地を提供したため、現在の境内はかなり狭くなってしまったようだ。

案内板には「境内には八坂社・疱瘡神・菅原社などが合祀されており(中略)社地には湯殿講碑、月待塔、庚申塔など庶民信仰の石神・石仏が安置されている」とあるが、見あたらなかった。

巣烏神社の巣烏分から当地への遷宮に関しては、一悶着あったようだ。住民は遷宮を社掌(旧制での神職のこと)・赤石備前守に再三要請したが了解が得られなかったため、止むなく夜半に大挙して押しかけ社殿を現在地まで運んだという。

なお、旧地には赤石家が板宮を置き祭祀を行っているという。

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前橋市元総社町の化粧薬師(縁切り薬師)。

化粧薬師 (1)
化粧薬師 (2)
化粧薬師の謂われには大蛇伝説がある。当地の風呂沼に棲みついた大蛇が若い女性を要求し、里人が従わないと田畑を荒らし回った。里人はその厄を逃れるため、やむを得ず女性を人身御供とした。そこで犠牲になった女性を哀れんで薬師仏を造立、白粉と口紅を施し女性の霊を供養したといわれる。

区画整理事業(道路拡張・河川改修など)により、平成24年(2012年)牛池川(風呂川)に架かる薬師橋の袂から現在地に移転している。

化粧薬師 (3)
化粧薬師は嫁入り前の女性の化身であるため、嫁に行く娘はここを避けて通るようになり、その一方で離縁を願う女性はその望みが叶えられたという。そのため縁切り薬師とも呼ばれる。

お堂内には願掛けの人がお礼参りのときに奉納した(と思われる)小型の石仏も置かれている。薬師如来は衆生の病苦を救うとされ、特に眼病への霊験があると信じられていることからの風習。

化粧薬師 (4)
三大仏様と呼ばれる仏塔。元文4年(1739年)の造立。一万余りの小石に仏典の法華経、華厳経、般若経を墨書し、塔の下に納めたもの。昭和57年(1982年)に再建されている。

化粧薬師同様、区画整理事業のため平成24年(2012年)に現在地へ移転している。

化粧薬師 (5)
化粧薬師 (6)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。女人講塔(如意輪観音)は文政2年(1819年)の造立。

化粧薬師 (7)
道祖神。他の施設同様、平成24(2012年)年に現在地へ移転。

化粧薬師の謂われにある大蛇は、総社町総社の蛇穴山古墳の大蛇とされる。古墳を護った大蛇(被葬者とされる上毛野田道とも)が、当地では田畑を荒らし人身御供を要求している。伝説にも都合があると言うことかな(苦笑)。
(「上毛野田道の墳墓? -蛇穴山古墳-」参照)

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前橋市大友町2丁目の大友神社。

大友神社 (1)
大友神社 (2)
大友神社の由緒は不詳だが、上野国神名帳記載の「従三位大友明神」とされる。上野国国府(総社神社周辺と推定されている)にかかわる職業集団の大友部が当地に土着し、八綱田命(豊入城彦命の子)を祀ったといわれる。

大伴部とは古代の大伴氏に属した部民で、ひとつの氏族というわけではない。大友町の地名由来は大友部からきているとされる。

大友神社 (3)
鳥居から社殿に繋がる境内の石畳は、最近の施行のようだ(真新しい)。狛犬は昭和15年(1940年)、灯籠は昭和6年(1930年)の奉納。

大友神社 (4)
大友神社 (5)
大友神社 (6)
社殿の建立年などは不明だが、コンクリート製で最近の建立のようだ。

大友神社 (7)
大友神社 (8)
社殿横には二十二夜さま(如意輪観音)などが並んでいる。中央の如意輪観音には寛政6年(1794年)の銘があった。

大友神社 (9)
大友神社 (10)
社殿裏には境内社・末社(猿田彦神、諏訪社、雷電社、秋葉社など)や双体道祖神。

大友神社 (11)
ご神木の榎。樹高約10m。

大友神社同様に上野国国府にかかわる職業集団と関係する神社として、前橋市江田町の鏡神社がある。(「八咫鏡を作った石凝姥命を祀る -鏡神社-」参照)

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前橋市大渡町1丁目の王守神社。

王守神社 (1)
王守神社 (2)
王守神社の創建は不詳。伝説では王様(大君)一行がここを通りかかった際、奥方が産気づいたので仮の建物を作ってお産をした。その建物を神社にしたのが王守神社といわれる。

鳥居前の新しい灯籠は平成12年(2000年)の奉納。

王守神社 (3)
王守神社 (4)
社殿は平成5年(1993年)に改築されている。社殿前の狛犬は平成10年(1998年)の造立。

王守神社 (5)
王守神社 (6)
境内に石仏などが数多く置かれている。弁財天の石碑や道祖神などもある。地域内から境内に集積されたと思われる。

王守神社のご祭神は倭日向武日向彦八綱田命。毛野氏の始祖・豊城入彦命の子で、彦狭島王の父にあたる(彦狭島王と同一人物との説もある)。王守神社のご神体は彦狭島王の木像という。

伝説にある通りかかった王様は彦狭島王の子・御諸別王ではないかと勝手に推定している。彦狭島王は任地に着く前に亡くなっており(亡骸は上野国に葬られたとされる)、実際に東国を統治したのは御諸別王のため(日本書紀記載内容前提)。

また、大渡という地名の由来が、赤城神社(主祭神・豊城入彦命)へ参拝するために王が利根川を渡られたからとされる(王渡→大渡)ことも傍証。

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前橋市大渡町1丁目の王山古墳。
現在は墳丘全体が王山公園として整備・保存されている。

王山古墳 (1)
王山古墳 (2)
王山古墳は全長75.6mの前方後円墳で、前方部幅63.1m、高さ3.9m、後円部径50m、高さ4.5mを誇る。6世紀初頭の造営と推定される。

主体部は後円部に両袖型の横穴式石室がある。石室全長16.4m、玄室長4.4m、羨道長12mと、県内最長の石室規模。石室は盗掘されており、わずかに歯が2本、辻金具の破片が数個出土したのみ。

王山古墳 (3)
王山古墳 (4)
墳丘は多数の川原石で覆われており、特に後円部の基壇上の墳丘は全て川原石で構成され「積石塚」と呼ばれる。全国的にも珍しいものである。

王山古墳 (5)
王山古墳 (6)
墳丘上には東屋風の休憩所や記念碑がある。記念碑は昭和52年(1977年)の設置。区画整備事業や保存のため公園化などの経緯が記載されている。古墳そのものの記念碑ではない。

王山古墳 (7)
公園南側に巨石があったが、古墳(石室関係)の一部だろうか?

王山古墳 (8)
墳丘上には小石が並んでいた(写真は一部)。後で調べたら、石室の位置が分かるように並べられているという。知っていたら、もっと真剣に見てきたのに。

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前橋市石倉町4丁目の神明宮。

石倉神明宮 (1)
石倉神明宮の由緒は不詳。伝説では豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国遠征の際、身体を休めた場所だといわれる。

当地からそう遠くない総社町の二子山古墳は豊入彦命の墳墓との説が古くからある(他にも大室古墳群の前二子古墳などにも同様の伝承がある)。

石倉神明宮 (2)
石倉神明宮 (3)
石倉神明宮 (4)
社殿は平成2年(1990年)の改修。社殿前の灯籠は大正13年(1924年)の奉納。昭和天皇ご成婚記念とあった。

石倉神明宮 (5)
狛犬は昭和15年(1940年)の造立。

石倉神明宮 (6)
境内社の三峯者、淡島社、秋葉社(向かって右から)。

石倉神明宮 (7)
社殿裏に鳥居を備えた境内社があったが、詳細不明。

石倉神明宮 (8)
境内の百庚申。実際に百あるか不明(数えてない)。多くが文字庚申塔だが、青面金剛像が彫られたものもある。

石倉神明宮 (10)
境内の立派な松。

石倉神明宮 (11)
兄妹道祖神。江戸時代、美男美女の兄妹が別々に配偶者を探すため近郷に出かけた。そして兄妹がそれぞれ意中の人としたのは兄妹どうしであった。かくして2人は夫婦となったものの、村人らは畜生夫婦として相手にせず村外へ放逐した。2人は寂しく生涯を終えたといわれる。

なぜ道祖神とされ、神明宮に置かれているかは不明。

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前橋市石倉町5丁目の石倉城二の丸公園。ここに石倉城址の碑が建立されている。

石倉城址 (1)
石倉城址 (2)
「石倉城二の丸公園」という名称は、石倉城の名を後世に残す良い名称だと思う。以前は「上石倉2号公園」と言った。

石倉城の本丸跡は利根川の浸食により崩落し跡形もなし。二の丸跡付近が当公園となっている。公園周りは宅地になっており、遺構らしきものは見当たらない。

石倉城址 (3)
石倉城址 (4)
石倉城址 (5)
石倉城址の碑は平成元年(1989年)の建立・整備。

石倉城は文明17年(1485年)に総社長尾氏・長尾憲景が築城したとされる。その後、享禄・天文・弘治年間(1528~58年)に数回の大洪水によって本丸などが流出。永禄年間(1558~70年)に武田勢が再築したとされる。なお、洪水時に利根川東岸に残った三の丸を元に築かれたのが厩橋城(前橋城)といわれる。

天正18年(1590年)の豊臣秀吉の北条攻めにより落城、石倉城は廃城となっている。

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前橋市石倉町4丁目の昌林山林倉寺。

林倉寺 (1)
林倉寺は慶長2年(1597年)行海法印の開山。

林倉寺 (2)
山門は平成6年(1994年)の再建。

林倉寺 (3)
山門を入ってすぐ六地蔵が鎮座している。

林倉寺 (4)
林倉寺 (5)
本堂は明治28年(1895年)に火災により焼失。同年、再建されている。火災の原因は猟師の放った弾丸だという。それが発火、強風により延焼。

由緒書きに、本堂には本尊の阿弥陀如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩を祀るとあった。通常の阿弥陀三尊の形式は脇侍が観音菩薩と勢至菩薩なので、珍しい組合わせだ。釈迦如来三尊の場合、文殊菩薩と普賢菩薩が多いけど。

林倉寺 (6)
本堂前の伝教大師(最澄)像。平成13年(2001年)の造立。

林倉寺 (7)
十王堂は昭和63年(1988年)の再建。同時に安置されている十王像も修復を行っているようだ。

林倉寺 (8)
林倉寺 (9)
片腕地蔵。江戸時代中頃、強盗に襲われた主人の身代わりになって右腕を犠牲にしたとされ、災難を一身に引き受ける地蔵として身代わり地蔵とも呼ばれる。江戸時代末から明治期には、近郷近在の人々の信仰を集めたという。

林倉寺 (10)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。一番右の地蔵菩薩像には文化2年(1805年)、隣の女人講塔(如意輪観音)には文政10年(1827年)の銘が読み取れた。

林倉寺 (11)
明治天皇御野立所跡の碑。明治11年(1878年)に明治天皇が前橋町(当時)へ行幸された際、利根川には舟橋しかなかったため万一に備え林倉寺で衣服を着替えるために休息された。舟橋は川に舟を並べ、その上に板などを敷いた仮設の橋のこと。

明治天皇が利根川を渡る際には、旧前橋藩の水練師範が門人10人と共に水中から警護したという。万々が一にも、何かあったら大変だからね。

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前橋市荻窪町の荻窪神社。

荻窪神社 (1)
荻窪神社 (2)
元和年間(1615~24年)から東・西荻窪村の氏神として八柱神社と神明宮が祀られていた。明治41年(1908年)に八柱神社、神明宮など村内各社を合併し、村名から荻窪神社と改称している。東・西荻窪村は明治5年(1872年)に合併、一村になっている。

荻窪神社 (3)
社殿前の狛犬は昭和9年(1934年)の造立。

荻窪神社 (4)
荻窪神社 (5)
社殿の建立年などは不明。

荻窪神社 (6)
鳥居左側の庚申塔や石塔群。

荻窪神社 (7)
荻窪神社 (8)
境内社の石宮。上の写真は八坂神社かな。

荻窪神社は桂萱57号墳(円墳)上に鎮座している。と言っても、相当削平されており古墳にはまったく見えない。

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前橋市総社町総社の総社歴史資料館。

総社歴史資料館 (1)
総社資料館が老朽化(耐震上の問題)し休館していたが、平成28年(2016年)に現在地へ移転、新築の総社歴史資料館としてオープンした。

1Fは「山王廃寺」や「総社古墳群」、「総社藩主・秋元氏」関連の展示。
総社歴史資料館 (2)
総社歴史資料館 (3)
大正時代初めに塔の心柱を支える塔心礎が偶然発見され、東日本を代表する古代の寺院であったことが分かった山王廃寺。

総社歴史資料館 (4)
総社歴史資料館 (5)
総社歴史資料館 (6)
総社歴史資料館 (7)
「放光寺」の文字瓦や軒丸瓦などは実物が展示されている。

放光寺は世界遺産「上野三碑」のひとつである山ノ上碑の碑文に登場する。山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、完全な形の碑では日本最古とされる。山ノ上碑は放光寺の僧・長利が、亡母の黒売刀自を供養するとともに、一族の系譜を記した墓誌。山ノ上碑の隣にある山ノ上古墳の被葬者が黒売刀自。

放光寺に関しては諸説あったが、山王廃寺から文字瓦が出土したことから、現在では放光寺=山王廃寺と推定されている。

関連
 「祝・世界記憶遺産登録 上野三碑再訪
 「白鳳時代の大伽藍寺院跡 -山王廃寺跡-

総社歴史資料館 (8)
総社歴史資料館 (9)
宝塔山古墳の家形石棺(レプリカ)とその破片(実物)。

総社歴史資料館 (10)
総社歴史資料館 (11)
総社二子山古墳出土の頭椎太刀と遠見山古墳出土の馬形埴輪。

2Fは古代から現代までの生活に関する展示。
総社歴史資料館 (12)
総社歴史資料館 (13)
総社歴史資料館 (14)
総社歴史資料館 (15)
農耕機具、養蚕器具、鍋の歴史、計量器具など。

総社地区はある意味、歴史の宝庫なので見応えがある。

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前橋市総社町植野の立石諏訪神社。

立石諏訪神社 (1)
立石諏訪神社 (2)
立石諏訪神社は文禄4年(1596年)総社藩主・諏訪頼水が上諏訪神社、下諏訪神社の2社を字元屋敷に勧請したのが始まりと伝わる。明治31年(1898年)利根川の洪水により下諏訪神社の社殿が崩壊・流出したため、明治32年(1899年)に上社・下社を合祀し、諏訪神社として現在地に遷座している。

立石諏訪神社 (3)
立石諏訪神社 (4)
立石諏訪神社 (5)
現在の社殿は平成26年(2014年)の新築。旧拝殿は上下両社を合わせたため、三間社の中央間をはさんで、東西に礼拝場を持つ特殊な構造であったという。

立石諏訪神社 (6)
参道には平成26年(2014年)氏子の皆さんが奉納した石灯籠が並ぶ。

立石諏訪神社 (7)
立石諏訪神社 (8)
成田山不動尊の石碑と不動明王像。

立石諏訪神社に伝わる獅子舞は前橋市の重要無形民俗文化財に指定されており、毎年秋の例祭時に奉納される。一人立ちの三頭の獅子とカンカチの計4人による豪快な舞。獅子頭の顎紐を修理した際、内部から「壬正徳弐歳」と書かれた布が見つかっており、正徳2年(1712年)には既に行われていたと考えられる。

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前橋市総社町総社の熊谷稲荷神社。

熊谷稲荷神社 (1)
熊谷稲荷神社 (2)
熊谷稲荷神社は宝暦6年(1709年)、熊谷(埼玉県)の稲荷神社の分霊を勧請したといわれる。それ以前から神社があったようだが詳細は不明。

熊谷稲荷神社は大小路古墳(総社7号墳)の墳丘上に建つ。大小路古墳は直径約20m、高さ2mの円墳。

熊谷稲荷神社 (3)
社殿は光巌寺東北の紅葉山の日枝神社を移築したといわれ、桃山時代の様式をもつ。

熊谷稲荷神社 (4)
昭和2年(1927年)銘の絹笠大神。

熊谷稲荷神社 (5)
多数のお地蔵さん(?)。風化していてよく分からない。

創建にまつわる逸話を少し。
寛永10年(1633年)に総社藩主・秋元泰朝が甲斐谷村へ移封となり、総社藩は廃藩となった。その後は高崎藩(安藤重長)の領地となり、安藤重長は3男・重富(重常とも)に総社を与え、重富は高田弥兵太を代官として総社を管理させた。

重富、高田は重税を課したため農民は困窮し、遂には宝暦6年(1709年)幕府への直訴に及んだ。その際、直訴代表は捕らえられたが、熊谷の稲荷神社で祈願したところ、訴えが認められ死罪も免れることができた。これらは稲荷神社のご加護によるとし、稲荷神社を勧請し熊谷稲荷神社と改称したという。

訴えが認められた裏には、老中・秋元喬朝(泰朝の子・富朝の養嗣子)の援助があった。秋元氏は藩主時代の善政も含め、総社に於いて崇敬されている。

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前橋市総社町総社の神明宮。総社大神宮、粟島大神宮とも呼ばれる。

総社神明宮 (1)
総社神明宮 (2)
総社神明宮は慶長9年(1604年)総社藩主・秋元長朝が伊勢神宮を勧請し創建。総社城の大手門西にあたる。

総社神明宮 (3)
伊勢神宮の遙拝殿。天明8年(1788年)に外宮、寛政3年(1791年)には内宮の遙拝殿を造営した。遙拝殿は12本の丸柱の門構えの特殊な構造となっている。現在の遙拝殿が当時のものかなどは分からない。

総社神明宮 (4)
総社神明宮 (5)
社殿は平成24年(2012年)に改修が行われている。

総社神明宮 (6)
百番供養塔、六十六部供養塔。百番供養塔は100ヶ所の札所を巡礼した記念塔。一般的には西国33札所、坂東33札所、秩父34札所の組合わせが多い。六十六部供養塔は、全国六十六ヶ国の霊場に大乗妙典(法華経)を奉納することを目的とした巡礼の記念塔。

総社神明宮 (7)
総社町道路元標。大正9年(1920年)に道路法の規定により道程の基準点として設置されたもの。

総社は総社城の城下町であり、佐渡奉行街道の宿場町でもあった。本陣、脇本陣、問屋が置かれ、安永2年(1773年)には曽我家(問屋)へ高山彦九郎が宿泊している。

ところで、総社神明宮は境内のほぼ全域が月極駐車場になっており、興醒めもいいところ。いろいろ事情はあるのだろうが・・・。

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前橋市小屋原町の稲荷神社。

小屋原稲荷神社 (1)
小屋原稲荷神社 (2)
小屋原稲荷神社は慶長年間(1596~1615年)に、住民が農作物の豊作が続くこと、住民が安心して暮らせるようにと創建したという。

小屋原稲荷神社 (3)
二ノ鳥居は平成25年(2013年)の建立。

小屋原稲荷神社 (4)
小屋原稲荷神社 (5)
小屋原稲荷神社 (6)
小屋原稲荷神社 (7)
社殿は創建と同時に造営され、その後宝暦8年(1758年)に改修されている。現在の社殿は昭和11年(1936年)の建立。

小屋原稲荷神社 (8)
小屋原稲荷神社 (9)
「多野叶山貫通石」というものがあった。石に貫通穴が開いていることから「初志貫徹」「難関突破」「祈願成就」の御利益があるパワースポットだという。多野叶山とは、多野郡神流町の叶山のことだろうか。

ちなみに、神流町の叶山は石灰を産出するので、現在も石灰鉱山として稼働している(秩父太平洋セメント)。石灰岩が雨などの浸食で穴が開いたのを、縁起の良い石としているってことかな。

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前橋市江田町の鏡神社。

鏡神社 (1)
鏡神社の創建は不詳だが、大和国の鏡作坐天照御魂神社(かがみつくりにいますあまてらすみたまじんじゃ)から石凝姥命(いしこりどめのみこと)の分霊を勧請したと伝わる。また「上野国神名帳」記載の「鏡明神」は鏡神社のことだとされる。

石凝姥命を勧請したのは上野国国府(総社神社周辺と推定されている)に大和国から呼び寄せられた鏡作りの技術者だと考えられている。石凝姥命は日本神話に登場する神で、天照大神の岩戸隠れの際に八咫鏡を作ったことで知られる。

鏡神社 (2)
鏡神社 (3)
向かって右側(東?)からの入口に建つ鳥居。

鏡神社 (4)
鏡神社 (5)
鏡神社 (6)
上野国神名帳に記載されている古社だが、その後朽ち果てるほどに廃れていたが、慶長年間(1596~1615年)に富澤氏・小野里氏の手で再建されている。富澤氏・小野里氏についてはよく分からないが、現在も江田町には富澤(富沢)さん・小野里さんが多数お住まいである。

鏡神社 (7)
余り広くない境内に多数の境内社・末社が並んでいる。

鏡神社 (8)
道を挟んでの境外にも末社が鎮座している。

鏡神社 (9)
旧鳥居の扁額だと思うが、現在は拝殿に掲額されている。この扁額かは分からないが、安永年間(1772~81年)に岩松義寄が揮毫した扁額を鳥居に掲げたところ、神社前を乗馬で通行する人が必ず落馬したため、扁額を撤去したら事故は起こらなくなったという。この扁額は宝物とし現存している。

義寄の頃から岩松家では「ネズミ除け」「キツネ憑封じ」などの呪術まがいのことを行っており、そいうことから馬が怯えたのかな。

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前橋市東大室町の大室神社。

東大室神社 (1)
大室神社の旧名称は近戸神社で、明治41年(1908年)に近郷の十数社を合祀して大室神社となった。旧近戸神社の由緒は不詳。

地図には東大室神社と記載されているが、正式には大室神社のようだ。

東大室神社 (2)
東大室神社 (3)
鳥居の扁額は「大室神社」。

東大室神社 (4)
東大室神社 (5)
東大室神社 (6)
大正3年(1914年)に現在地に社殿を造営、中神沢から遷座している。拝殿の扁額も「大室神社」。

東大室神社 (7)
拝殿に由緒書きらしきものが掲示されているのだが、まったく読めなかった。

前回紹介した西大室町の「大室神社」と同しく明治41年に大室神社と改称しているので、東西の旧大室村(当時は荒砥村)がそれぞれ大室神社を鎮守としていたのだろう。

その後、事情は知らないが東大室側は便宜上、東大室神社と表記されるようになった?
(西大室町の大室神社は地図に「大室神社」と記載されている)

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