上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 高崎市(旧多野郡)


高崎市吉井町多比良の多比良神社。

多比良神社 (1)
多比良神社 (2)
多比良神社は永禄年間(1558~70年)に新堀(多比良)城主・多比良豊後守友定が諏訪神社を勧請したことに始まる。大正8年(1919年)に阿夫利神社、粟島神社などを合祀し多比良神社と改称。

新堀城は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州侵攻の際に落城し、多比良友定は自刃したといわれているので、多比良神社の創建は永禄年間前半と思われる。

多比良神社 (3)
多比良神社 (4)
社殿は明治期に建立されたが、平成14年(2002年)に改築されている。

多比良神社 (7)
「忘れん 降雹災害之碑」。平成7年(1995年)の建碑とあったので、最近のものだ。

平成6年(1994年)9月に、多比良・多胡・安坪地区を中心に玉子大の雹と暴風雨により、田畑・桑園だけでなく家屋にも甚大な被害がでた。また、被害総額3億5000万に対し救済費がわずか190万だったことの両方を「忘れん」ということらしい。

多比良神社 (8)
社殿裏の双体道祖神。

多比良神社 (5)
多比良神社 (6)
境内の非板状の塔婆(板碑)。総高101cm、幅41cm、厚さ27cmで、牛伏砂岩製。上部に二条線、碑面に枠線を有し、阿弥陀如来を示す種子が彫られている。鎌倉時代・建治2年(1276年)の銘がある。

吾妻鏡に多比良小次郎の名が見えることなどから、多比良氏が当時からこの地に勢力をはり、板碑の建碑にも関係していると考えることもできる。


高崎市吉井町黒熊の三木市右衛門の墓。

三木市右衛門の墓 (1)
上信越自動車道北側の側道脇にある墓地に標柱が立っている。

三木市右衛門の墓 (2)
三木市右衛門の墓 (4)
三木市右衛門の墓。

市右衛門は当地を領していた旗本・倉橋内匠の圧政に耐えかねた農民の代表として幕府への直訴に及び、投獄・所払いの罰を受けた旧黒熊村の名主。

緑埜村(藤岡市)の名主・堀越三右衛門が、寛文7年(1677年)にまず直訴に及び成功したが、同年に死罪となる。しかし、倉橋内匠は懲りずに過酷な年貢取り立てを止めなかったため、市右衛門が翌年に2度目の直訴に及んだ。残念ながら事前に露見し、8年間の投獄の末、所払いとなる。

しかし2人の身を捨てた訴えにより、年貢を減らす処置がとられ、倉橋は追放となっている。

関連
 「義民 堀越三右衛門の墓
 「義民 堀越三右衛門と三木市右衛門を祀る・一行山光心寺


高崎市吉井町黒熊の黒熊山延命寺。

延命寺 (1)
延命地は文禄元年(1592年)の創建と伝わる。

延命寺 (2)
慶長元年(1596年)に焼失、翌年順慶法師が再建している。室町時代の作とされる一木彫りの勢至菩薩像(像高37cm)がある。本尊は薬師如来なので、阿弥陀三尊の脇侍と思われる勢至菩薩像は、もともと別寺のものか。

延命寺 (3)
延命寺 (4)
延命寺 (5)
墓地の宝篋印塔と五輪塔。宝篋印塔のひとつには元文3年(1738年)の紀年名が読み取れた。

延命寺 (6)
明治7年(1874年)には黒熊小学校(現入野小)が置かれた。現在も境内にブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

延命寺の院号は地蔵院と言い、境内に地蔵菩薩を祀る地蔵堂があるとのことだったが、それらしきお堂は見あたらなかった。見逃したかな。


高崎市吉井町多比良の新堀城跡。

新堀城跡 (1)
新堀城は多比良城とも呼ばれ、平井城(藤岡市)の別城であった。築城年代は不明だが、多比良氏の居城だった。多比良氏についてはよく分からないが、吾妻鏡に多比良小次郎の名が見えるので、鎌倉時代から当地に根付いていたと考えられる。

新堀城跡 (2)
現在は畑が拡がっており、素人のオレには遺構らしきものは見分けられなかった。

新堀城は平井城の背後を守る城であると同時に、関東管領・山内上杉氏の宝物を保管する宝物城であったとされる。永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に落城・焼失。

時の城主・多比良友定は「上杉家の宝物を信玄に奪われては末代までの恥。今日は北風が強いので火をかけて焼いてしまおう。自分は宝物が焼けるのを見届けて自害する」と言い火をかけたとされる。多比良氏方は全滅したと伝わる。

地元には、宝物に関する伝説が残っている。「朝日さす 夕日かがやく 楠のふもとに 小判千枚朱が千枚」との宝のありかを示すような歌が伝わっている。当時、大手門横に楠の大木があり、30日も焼け続けたといわれている。この楠(跡)の下に埋まっている?

また、堀の北西端の外に「殿様井戸」と呼ばれる古井戸があり、落城時に宝物を投げ込んだともいわれる。もちろん現在井戸は埋まっているが、今も水が湧き出ているという。

新堀城自体は、武田氏の後、織田氏(滝川一益)、北条氏と城主が変わったが、豊臣秀吉の北条攻め(天正18年:1590年)により廃城となっている。


高崎市吉井町多比良の瑠璃山普賢寺。

普賢寺 (1)
普賢寺は延喜年間(901~23年)に比叡山13世座主・法姓坊尊意が当地で修行中に開山したという。明治末から大正年間に、近隣の柳谷阿弥陀堂、諏訪前観音堂、西浦大日堂などを合併。昭和30年(1955年)には清瀧寺、瀧の前観音堂を合併している。

普賢寺 (2)
山門は昭和30年に合併した清瀧寺から移築したもの。それまでの山門は元禄年間(1688~1704年)建立。老朽化のため取り壊されている。

普賢寺 (3)
堂宇は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州攻略時に焼失(直接は新堀城落城時の火災)。貞享年間(1684~87年)に再建されている。現在も本堂下や付近を掘ると、焼けた瓦や土が出てくるという。(関連「武田信玄の陣城跡・天久沢観音堂」)

普賢寺 (4)
普賢寺 (5)
鐘楼は昭和13年(1938年)の再建。梵鐘は先の大戦中に供出されたが、再鋳されている。

元の梵鐘には次のような伝説が残されている。江戸時代に大飢饉に見舞われた時、村人は鐘を吉井宿商人に質入しようと天久沢の下まで運んだが、そこでどうしても動かせなくなった。鐘が行くのを嫌がっていると思った村人は元へ戻すことにした。すると鐘は自ら転がり元に戻ったという。

普賢寺 (6)
境内の宝篋印塔。相輪部がない。寛保3年(1743年)の銘が見て取れた。

普賢寺 (7)
普賢寺 (8)
境内の天満宮。中には天神様(菅原道真)と思われる像がおられる。祠は平成20年(2008年)の新築建立。合併された清瀧寺から遷されたもの。

清瀧寺は菅原道真ゆかりの寺で(真偽不明だが)、境内には道真が幼少時に苦学したところと伝わる「天神の井戸」があった。また、道真直筆とされる法華経が伝わっており、これも普通賢寺に移されている。

ついでの話として、清瀧寺の本堂は昭和31年(1956年)に神流町(当時は万場町)柏木の大林寺に移築されている。
(「神流町柏木・永松山大林寺」参照)


高崎市新町の竹本百合太夫の墓。

竹本百合太夫の墓
義太夫界の大家・竹本百合太夫の墓。
百合太夫は文政年間(1818~31年)に新町に来て、横山家(屋号・金子屋)の養子となり、義太夫の師匠として天保3年(1832年)に没している。享年51。

竹本土佐太夫&百合太夫の墓
すぐ隣(向かって左)には、太夫・竹本土佐太夫の墓がある。
(「義太夫節の太夫・竹本土佐太夫の墓」参照)

新町を中心に、多野藤岡地域では義太夫が盛んに行われるようになり、また著名な太夫も輩出している(藤岡出身の6代目・大西東造、吉井出身の7代目大西東造など)。これは江戸で活躍した百合太夫、土佐太夫が晩年を新町で過ごしたことが大きな要因である。

実は竹本土佐太夫の墓を訪問したとき、隣に百合太夫の墓があることは知っていたのだが、百合太夫の墓との確証が持てなかったので、紹介していなかった。今回、夫人の名が調べられ、墓石にその名も確認できたので紹介した。


高崎市新町の藤木山龍光寺。

新町・龍光寺 (1)
龍光寺は寛永元年(1624年)、毘沙吐(びさど)村(埼玉県上里町)に僧・文応が開山。弘化3年(1846年)に同村を襲った大洪水のため壊滅的な被害を受け、安政年間(1855~60年)ころまでに全村で新町に移住することになった。同時期に龍光寺も現在地に遷っている。

同様に諏訪神社も毘沙吐村から遷っている。
(「毘沙吐村(埼玉県)から遷座・新町諏訪神社」参照)

新町・龍光寺 (2)
新町・龍光寺 (3)
新町に遷った後の明治12年(1879年)に本堂を建立したが、明治34年(1901年)に事情により寺号を喪失。そのため荒廃してしまったが、昭和4年(1929年)に安中の海雲寺住職・土屋楳堂が檀徒の依頼により再興(寺号の再取得は昭和23年:1948年)。現在の本堂は平成7年(1993年)の新築。

新町・龍光寺 (4)
境内の六地蔵などの石仏群。前列に並んでいる六地蔵などは新しそうだが、後列の石仏は毘沙吐村当時のものだろうか?

新町・龍光寺 (5)
宝篋印塔。基礎部分は別石のようだ。

新町・龍光寺 (6)
忠霊供養塔。墓地にも英霊のお墓が整然と並んでいた。

ところで、寺号を喪失するとはどういうことなのかな。本堂新築記念碑には尾張国知多郡荒尾村に「移す」とあったけど。


高崎市新町の八坂神社。

新町八坂神社 (1)
新町八坂神社 (2)
新町八坂神社の創建は不詳だが、中山道の上野国玄関口にあたるため、疫病の侵入と蔓延を防ぐことを祈願して建立されたと伝えられる。

新町八坂神社 (3)
新町八坂神社 (4)
新町八坂神社 (6)
現在は小さな祠が覆屋の中に鎮座しているのみである。

新町八坂神社 (5)
八坂神社の脇に(境内かも)、「傘(からかさ)に おしわけ見たる 柳かな」の芭蕉の句碑がある。地元の俳人である小渕湛水と笛木白建が、寛政5年(1793年)から天保5年(1835年)の間に建てたとされる。

新町八坂神社 (7)
江戸時代、八坂神社の隣には「柳茶屋」と呼ばれた島田屋があり、旅人の憩いの場となっていた。「柳茶屋」と呼ばれたのは近くに柳の大木があったからで、そのため湛水らはこの地を選んで柳にまつわる句碑を建碑したと考えられる。写真は神社横に掲示されている当時の想像図。

句碑は「柳茶屋」の廃業(時期不明)とともに行方知れずになっていたようで、現在の場所に戻ってきたのは昭和29年(1954年)のことである。


高崎市新町の笛木山専福寺。

専福寺 (1)
専福寺は万治3年(1660年)仙雅房賢宗の開山。

専福寺 (2)
本堂は寛文6年(1666年)に火災により焼失、安永3年(1715年)に再建されている。その後、大正15年(1926年)に大改修が行われている。火災により本尊(不動明王)も焼けてしまい、現在の本尊は元禄7年(1694年)のもの。なお、火災時に東方へ飛んで行く不動明王を小林伊左衛門というものが見たと伝わっている。

ついでの話だが、小林伊左衛門は新町宿本陣・小林甚左衛門の弟で、倉賀野宿から新町宿間の烏川の渡船を賃金を取って営業することを前田家から許された人物。加賀・前田家が、従来の玉村宿を過ぎてから渡川する中山道を、新町宿手前で渡川するルートに変えたため新町宿が形成され、この辺りは加賀街道と呼ばれ、前田家が一種の権限を持っていたとされる。

専福寺 (3)
境内にも不動明王像が鎮座していた。

専福寺 (4)
梵鐘は昭和54年(1979年)に檀徒から寄進されている。

専福寺 (5)
専福寺 (6)
境内の薬師堂。

専福寺 (7)
樹齢400年といわれるクスノキとカヤ。

以前、新町宿の見通し灯籠を紹介したときに、新町宿に滞留していた小林一茶が半ば強制的に寄進させられた逸話を紹介したが、寄進をしつこく依頼したのは専福寺の世話人だという。(「高崎市新町・新町宿見透し灯籠-」参照)


高崎市新町の諏訪神社。
以前、旧中山道沿いの諏訪神社を紹介したが、こちらは烏川沿い(岩倉橋の袂側)の諏訪神社。どう書き分ければいいのか難しい・・・。

新町諏訪神社2 (1)
諏訪神社は延長3年(925年)に毘沙吐(びさど)村に創建されたと伝わる。毘沙吐村は現在の埼玉県上里町毘沙吐。神流川と烏川が合流する辺り。

弘化3年(1846年)に同村を襲った大洪水のため壊滅的な被害を受け、安政年間(1855~60年)ころまでに全村で新町の下河原に移り住むことになった。同時期に諏訪神社も現在地に遷座している。

新町諏訪神社2 (2)
新町諏訪神社2 (3)
新町諏訪神社2 (4)
社殿は宝暦年間(1751~64年)の建立。

新町諏訪神社2 (5)
中央に諏訪社、右に大杉社、左に稲荷社の三社を祀る三社宮となっている。写真では分かりづらいが、諏訪社は海老虹梁の彫刻など精巧な造りとなっている。

新町諏訪神社2 (6)
境内には沿革を記した碑がある。昭和10年(1935年)の建立。

ちなみに、上里町毘沙吐地区は住民登録0人で、地名のみが残っているだけだという。


高崎市新町の竹本土佐太夫の墓。

竹本土佐太夫の墓 (1)
義太夫節の太夫である竹本土佐太夫の墓。
竹本土佐太夫は初代から7代目までいるが、3代目だと思う。江戸末から明治の人で、晩年を新町で過ごしている。

竹本土佐太夫の墓 (2)
左側面に「播州池田米屋町 加茂屋利兵衛倅 竹本土佐太夫」とある。

義太夫節は竹本義太夫が始めた浄瑠璃の一種。ビートたけしの祖母が女義太夫の太夫だったと「たけしくん、ハイ!」(ビートたけし著)で読んだ記憶がある。

ところで竹本土佐太夫の墓は、旧多野郡新町の重文に指定されていたようだが、高崎市に合併後の重文にはなっていない。なぜ?

山崎栄造の墓
同じ墓地内にある山崎栄造の墓。
群馬県医学校(現群馬大医学部)の初代校長・大久保適斎が、明治27年(1894年)に行った群馬県内初の人体解剖に身体を提供した人物。大久保に恩があった山崎が申し出たといわれる。


上野三碑がユネスコの「世界記憶遺産」に登録された(2017年)のを機に、多湖碑(高崎市吉井町池)、金井沢碑(高崎市山名町)、山ノ上碑(高崎市山名町)を再訪した。

多胡碑
多湖碑は和銅4年(711年)に多胡郡が設置され、その郡吏に羊太夫という人物が任命されたのを記念して造られたという説が有力。

以前の訪問は2010年(「上毛かるた紀行」)だが、変わったところは案内板がきれいになっていたことくらい。従来から「吉井いしぶみの里公園」として整備され、「多胡碑記念館」も併設されていたので。(「昔を語る 多胡の古碑」参照)

金井沢碑 (1)
金井沢碑は神亀3年の(726年)の建碑で、高崎佐野にあった屯倉の管理者の子孫が、先祖の冥福を祈るため仏教に入信するという誓いが刻まれている。

金井沢碑 (2)
きれいな歩道(木道)が整備され、碑までの通路が大きく改善されていた。以前の訪問時(2010年)は、訪れる人もほとんどいないため、あぜ道のような通路はクモの巣だらけで、巣を払いながら登って行った。(「高崎市山名町・金井沢碑」参照)

山ノ上碑 (1)
山ノ上碑は天武天皇10年(681年)の建碑で、隣の古墳(山ノ上古墳)に眠ると考えられている放光寺の僧・長利の母の墓誌と考えられている。
(「高崎市山名町・山ノ上碑」参照)

山ノ上碑 (2)
山ノ上碑も道路から石段までの間にきれいな木道が整備されていた。また、石段周りも樹木が伐採され、すっきりしていた(前回訪問2010年)。

上野三碑を訪問した2010年は、「上毛かるた紀行」「上州まったり紀行」を始めた年で、紀行文を改めて読み直すと稚拙な文章で恥ずかしい。また、写真もひどいなぁ。

ところで、もともと三碑とも国の特別史跡に指定されていたにも関わらず、金井沢碑と山ノ上碑は歩道の整備に問題があった。それが「世界記憶遺産」登録を目指す一環として、2015年に木道やトイレなどが整備され、これだけきれいになった。やる気になればできるんだから、他の文化財保護などもよろしく。もちろん、高崎市以外も。

世界記憶遺産登録活動、そして登録で、どれくらい見学者(観光客?)が増えているか知らないが、碑を守ってきてくれた地域住民の方々への配慮も必要だね。特に山ノ上碑は少し狭い生活道を行くことになるので。


高崎市吉井町小串の一行山光心寺。

光心寺 (1)
光心寺は、義民・堀越三右衛門の霊を弔うため、寛文8年(1668年)に近郊村民が万日堂を建立したのが始まり。その後、元禄13年(1700年)に三木市右衛門の霊をあわせ弔うため光心寺と改められている。

堀越三右衛門が刑死したのは寛文7年(1667年)、三木市右衛門が獄に繋がれたのが寛文8年(1668年)。また、市右衛門が亡くなったのは元禄12年(1699年)とされる。

光心寺 (2)
光心寺 (3)
光心寺は堀越三右衛門が処刑された跡地に建つ。本堂は享保2年(1717年)に焼失したが、寛保2年(1742年)に再建されている。

光心寺 (4)
堀越三右衛門、三木市右衛門の遺徳碑。平成元年(1989年)の建立。

長谷川勘蔵の墓
墓地には長谷川勘蔵の墓がある。勘蔵は小串村の名主で、江戸幕府設置(8代将軍・吉宗の時)の目安箱へ意見書を出している。勘蔵の「箱訴」といわれる。嘉永3年(1850年)のこと。

幕末の時勢に対し、太平に慣れた上下とも奢侈(しゃし)に流れ、日光東照宮の華麗さ、武家の奢侈と内実の困窮、役人の専横堕落、飢饉対策の不備、江戸の膨張と地方の衰微、などを訴えたもの。

関連
 「義民 堀越三右衛門の墓
 「義民 三木市右衛門の墓


高崎市吉井町馬庭の薬師堂。

馬庭の薬師堂 (1)
吉井高のすぐ北側に薬師堂があり、その堂内に3体の石仏が安置されている。3体とも坐像で牛伏砂岩製。

馬庭の薬師堂 (2)
写真左が薬師如来坐像。左手に薬壷を持ち、光背は桃形である。厚肉彫りで肩の張りは大きく、膝は張りが少ない。

中央は阿弥陀如来座像。阿弥陀定印を結び、頭部はやや猪首状である。通肩厚肉彫りで肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高99.5cm。

右は地蔵菩薩坐像。秘印を結び、光背は舟形、頭部はやや猪首状、通肩厚肉彫りで、肩は張りが大きく、膝は張りが少ない。総高86.5cm。

3体とも砂岩製なので、風化が進んでいる。お堂ができる前は露座であったためであろう。


高崎市吉井町長根の恩行寺古墳。

恩行寺古墳 (1)
恩行寺古墳は鏑川右岸の上位段丘面の先端部に築かれた円墳で、墳丘径40m、高さ7mの規模を誇る。墳頂部には17mの平坦面を作っている。

恩行寺古墳 (2)
恩行寺古墳 (3)
墳丘外面には河原石を使用した葺石が確認されている。西から南側にかけて周堀の跡が残り、主体部は竪穴式と推定されるが、未調査のため埋葬施設や副葬品については不明である。

現地案内板には6世紀後半から7世紀前半の築造と書かれていたが、高崎市HPでは5世紀前半と書いてあった。時期が大きく違うが・・・。


高崎市吉井町長根の医王山恩行寺。

恩行寺 (1)
恩行寺は正和2年(1313年)堤宗重の開基、星慶法印の開山。当時は薬王坊。応永10年(1403年)当山6世・明全法印の時、医王山恩行寺と改称。元亀元年(1570年)に長根城主・小幡縫殿介の援助により堂宇を改修している。

開基の堤宗重については一切不明。小幡縫殿介は年代的に小幡憲重あたりではないか?

恩行寺 (2)
現在の本堂は元禄4年(1691年)の建立。当然、改修が多々行われているが、平成に入ってから屋根の吹き替え、床・天井の張り替えを行っている。

恩行寺 (3)
恩行寺 (4)
境内の草木の中にお堂が見えたので覗いて見たら、座棺輿らしき物があった。座棺輿とは、土葬する際に座った姿勢で遺体を納め(座棺)、それを運ぶ輿のこと。土葬が行われなくなって久しいと思われ、お堂も草木に埋もれてしまっている。

恩行寺 (5)
恩行寺 (6)
本堂の南側にある峰薬師堂。名前の通り薬師如来が祀られていると思うが、残念ながら中は見えなかった。平成20年(2008年)に改築されている。

恩行寺 (7)
平成19年(2007年)開眼の「ながね観音」。

恩行寺の南側の山には恩行寺古墳がある。
(次回紹介予定)


高崎市吉井町長根の長根城址。

長根城址 (1)
長根城は鏑川南の段丘端に築かれた長根氏の居城である。永禄年間(1558~70年)長根重清の築城とされる。

長根重清は児玉党・小幡氏の出で、関東管領上杉氏に従い、武田信玄の西上州侵攻後は武田氏に従っている。天正8年(1580年)の武田勝頼の膳城素肌攻めの際に討死している。
(膳城の素肌攻めは「武田勝頼の素肌攻め・膳城跡」参照)

両側は墓地になっているが、この土壇は虎口の名残ではないだろうか。

長根城址 (2)
長根城址 (3)
本丸跡は畑になっている。往時は南から西にかけて堀が巡っていたらしい。

長根城址 (4)
長根城は天正18年(1590年)の北条氏滅亡時に廃城になったと推定されるが、その後本丸跡には光円寺が建立された。六地蔵はその名残か。

明治8年(1875年)から同42年(1909年)までは長根学校が置かれており、その後農地化が進んだと考えられる。


高崎市吉井町池の南高原1号古墳。

南高原1号古墳 (1)
南高原1号古墳 (2)
南高原1号古墳 (3)
南高原1号古墳は、元々吉井町神保にあった径17mの円墳。低い基壇を有する二段築成を呈している。周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には葺石が残っていた。7世紀の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

南高原1号古墳 (4)
南高原1号古墳 (5)
石室は南側に開口する横穴式。石室全長は約8mで、石材は牛伏砂岩を用いている。

南高原1号古墳 (6)
南高原1号古墳 (7)
巨大な天井石。

発掘調査時、石室の天井石、奥壁、袖部を除く左右の側壁、羨道の左右側壁が残っていた。


高崎市吉井町池の片山1号古墳。

片山1号古墳 (1)
片山1号古墳 (2)
片山1号古墳は、元々吉井町片山にあった径32.6mの円墳。周囲に巡る堀跡を含めると径約50mの規模を誇る。4世紀末から5世紀初頭の築造と推定される。吉井いしぶみの里公園内に移築・復元されている。

主体部は8.8mの長大な粘土郭が確認されている。粘土郭中からは小型倣製の内行花文鏡の他、縦櫛、鉄剣、鉄鍬、鉄斧、勾玉などが出土している。


高崎市吉井町東谷の舟石。

舟石 (1)
舟石 (2)
舟石は、多胡碑に刻まれている「羊」と考えられている羊太夫が、天から降りてきた時に乗ってきた船といわれている。

県道沿いの畑(道より少し高い)の端っこ、県道側に(ポツンと言うかデンッて言うか)ある。舟石の周りは同様の巨石はなく、確かに意味深な状況である。

舟石 (3)
舟石 (4)
全長3mくらい、高さ1.5mくらい(いずれも目測)。ただ、上部がえぐれてはいない。羊太夫の時代からは既に約1300年も経っているから、長い年月で土砂などで埋まったとも考えられるけどね。

天から降りてくるのに石の船に乗ってきたら、「降りる」ではなく「落ちる」じゃないか、などと無粋なことを言ってはいけない(笑)。

羊太夫に関してはよく分かっていないのが本当のところ。オレも知識はあまりないので、下記に羊太夫に関係する過去記事を載せておくので、興味があったらどうぞ。

過去記事
 「昔を語る多胡の古碑
 「藤岡市上落合・七輿山古墳
 「高崎市吉井町神保・辛科神社
 「藤岡市上落合・七輿山宗永寺
 「羊太夫を祀る・羊神社
 「前橋市元総社町・鷲霊山釈迦尊寺
 「高崎市吉井町馬庭・疋田山随雲


高崎市吉井町馬庭の御穴塚古墳。

御穴塚古墳 (1)
御穴塚古墳 (2)
御穴塚古墳は径約10m、高さ3.4mの円墳である。馬庭飯玉神社の社殿裏(北側)にあり、その社殿により墳丘はかなり削られている。(「高崎市吉井町馬庭・飯玉神社」参照)

御穴塚古墳 (3)
御穴塚古墳 (4)
南側に横穴式石室が開口しているが、羨道などは失われている。奥壁と天井石は巨石を使用している。

御穴塚古墳 (5)
墳丘もかなり削られていると思われ、天井石が露出している。

石室内には葺き替えた(?)飯玉神社の瓦が置かれていた。ちょっとした物置になっている(笑)。


高崎市吉井町馬庭の疋田山随雲寺。

随雲寺 (1)
随雲寺 (2)
随雲寺は文禄年間(1558~70年)馬庭氏の開基と伝わる。元は中林谷の疋田(現在の自衛隊馬庭駐屯地のあたり)にあったといわれる。山号の疋田山は元地の地名からのようだ。文禄4年(1595年)に馬庭飯玉神社の別当寺となり、当地(馬庭飯玉神社の境内)に移っている。(「高崎市吉井町馬庭・馬庭飯玉神社」参照)

馬庭氏が滅んだ後は荒廃したが、寛永13年(1637年)恵意法印が中興開山している。その際の開基は高麗氏で、馬庭氏の後継氏族とされる。

明治33年(1900年)馬庭の宝蔵院、上の段の正覚院を合併している。山門は正覚院から移したものである。

随雲寺 (3)
本堂は昭和31年(1956年)に火災で焼失、翌年再建されている。写真では見ずらいが、本堂のガラス戸には新田氏の大中黒の家紋が描かれている。

現在は無住のようで本堂前に立ち入れないようになっている。

随雲寺には羊太夫にまつわる伝説がある。羊太夫が毎日奈良まで朝参するのに乗っていた龍馬(権田栗毛)が雲に乗って去った場所といわれる。随雲寺の寺号はここからきているようだ。伝説に従えば、随雲寺の創建は奈良時代ということになるけど・・・。

馬庭地区内には龍馬が倒れた場所に龍馬観音があり、堂内には八束小脛(やつかのこはぎ)の像もあるという。場所を調べて行ってみようかな。


高崎市吉井町馬庭の飯玉神社

飯玉神社 (1)
馬庭飯玉神社の創建は不明だが、神紋が大中黒のため新田氏が栄えた時代に創建されたと推測される。鎌倉時代と考えるのが妥当かな。元禄15年(1702年)火災により焼失、古記録・宝物等を失っているので詳細不明。

飯玉神社 (2)
飯玉神社 (3)
社殿は弘治年間(1555~58年)に馬庭豊前守重直が再建したといわれる。馬庭重直はよく分からないが、総社長尾氏(顕方)に仕えていたようだ。ちなみに、馬庭念流道場付近は馬庭氏の居城跡といわれている。(「高崎市吉井町馬庭・馬庭念流道場」参照)

現在の社殿は昭和35年(1960年)の再建であるが、外観は比較的新しいようなので、適宜補修が行われてきたようだ。

文禄4年(1595年)疋田山随雲寺を別当とし同寺を当社の境内に遷しているが、明治初年の神仏分離により現在は境内・社地は区別されている。
(随雲寺は「高崎市吉井町馬庭・疋田山随雲寺」参照)


高崎市吉井町吉井の吉井藩陣屋跡。

吉井藩陣屋跡 (1)
吉井藩陣屋跡 (2)
吉井藩陣屋は宝暦2年(1752年)鷹司松平家3代藩主・信有が矢田から吉井へ移し構えたもの。藩主は代々江戸定府のため、陣屋といっても代官を置く程度の規模であった。

写真は陣屋の西南の隅にあった春日社跡。鷹司松平家の氏神・春日神社を寛政3年(1791年)に京都より勧請したもの。

吉井藩陣屋跡 (3)
吉井藩陣屋跡 (4)
春日社跡には、皇太后、皇后の御駐輦碑(建立大正10年:1921年)と吉井藩治址碑(建立大正4年:1917年)が建っている。

皇太后、皇后の御駐輦碑は、明治6年(1873年)に、昭憲皇后(明治天皇妃)が明治天皇のご生母で孝明天皇妃の英照皇太后と一緒に、官営・富岡製紙へ行啓された際、休憩されたことを記念する碑。

陣屋は明治4年(1871年)の廃藩置県により解体、春日神社も明治末に吉井八幡宮に合祀された。(吉井八幡宮は「高崎市吉井町吉井・八幡宮」参照)

なお、陣屋表門は吉井文化会館脇に移築・復元されている。
(「吉井藩陣屋の表門」参照)


高崎市吉井町吉井の八幡宮。

吉井八幡宮 (1)
吉井八幡宮 (2)
吉井八幡宮は、天正18年(1590年)吉井2万石に封じられた菅沼定利が自らの氏神「乾」八幡を祀ったものといわれる。明治41年(1908年)には吉井藩陣屋内にあった春日社が合祀されている。

吉井八幡宮 (3)
吉井八幡宮 (4)
東向きに社殿が鎮座する。弘化5年(1848年)の再建。

吉井八幡宮 (5)
本殿は高崎鍛冶町の彫り物師・勘蔵の作。総檜造り木組みと彫刻は精緻で、建築構造上きわめて貴重である。本殿を覆屋のガラス越しに覗いて見たが、あまり見えないのがちょっと残念。


高崎市吉井町馬庭の馬庭念流道場。

馬庭念流道場 (1)
馬庭念流道場 (2)
馬庭念流は樋口家17代当主・樋口定次が、友松氏宗より学んだ念流を元に確立した(定次は念流8世)。剣術を中心に長刀(薙刀)術、槍術も伝える古武道の流派。定次が馬庭に道場を開いたため、馬庭念流と呼ばれる。

相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守り主体の流派であるとされ、庶民の護身術として上州を中心に関東各地で広範囲に受け入れられたため、廃れずに今日まで続いている。

現存道場は念流20世定広の代、慶応3年(1867年)門人により建てられたものである。道場の名は傚士館(こうしかん)という。建屋は平屋瓦葺きで、建物は東(写真右側)より土間・門・板張りの道場・上段の間となっている。

太刀割石
山名八幡宮にある「太刀割石」。定次が枇杷(びわ)の木刀で割ったという伝説がある。

慶長5年(1600年)、定次は天真流・村上天流と試合をすることになり、必勝祈願のため山名八幡宮に参籠。21日目の満願の日、枇杷の木刀でこの石を断ち割ったと伝えられている。その後、烏川畔において天流を打ち破っている。

ちなみに、この枇杷の木刀は吉井町東谷・住吉神社境内の枇杷の木から作ったものという。

定次は天流との試合に勝った後、後を弟の頼次(念流9世)に譲り、自身は彦根の友松氏宗のもとに旅立った。その彦根で右京という者と闘い敗死したと樋口家の縁の松本家に伝わっている。

関連
 山名八幡宮 「山名義範の創建・山名八幡宮
 住吉神社 「高崎市吉井町東谷・住吉神社


高崎市吉井町東谷の東谷渓谷。

東谷渓谷 (1)
東谷渓谷 (2)
前回の住吉神社の東側に大沢川が流れていて小さな渓谷を形成しており、東谷渓谷と呼ばれている。全長30mくらいの「淵」って感じだけど、遊歩道まで作ってあり意外と整備されている。(住吉神社は「高崎市吉井町東谷・住吉神社 」参照)

東谷渓谷 (3)
東谷渓谷 (4)
対岸に向け橋が架けられており、そこに不動明王が祀られている。

東谷渓谷 (5)
東谷渓谷 (6)
渓谷の途中にゴミ止めがあるので、その下流の水は非常に綺麗だ。川底の小石まではっきり見える。

東谷渓谷は「利根川100景」に数えられているらしい(群馬県のHPに書いてあった)。


高崎市吉井町東谷の住吉神社。

住吉神社 (1)
住吉神社 (2)
当所にはもともと不動明王が祀られており、北向不動尊と称していた。言い伝えでは、奈良時代に多胡郡の郡司であった羊太夫が謀反の疑いで朝廷軍に攻められた際、朝廷軍は八束城の羊太夫を攻めあぐねたので不動明王に祈願したところ、その霊験で攻め落とすことができた。これにより朝廷軍の将が一堂を建立したという。地名から大沢不動尊と呼ばれてきた。

その後、明治初年の神仏分離に際して住吉神社と改めた。明治40年(1907年)に近隣5社を合祀している。

住吉神社 (3)
住吉神社 (4)
現在の社殿も北向である。それにしても田舎の神社(失礼!)にしては立派な社殿。拝殿は切妻で縦長。本殿は千鳥破風。

住吉神社 (5)
住吉神社 (6)
社殿奥に「住吉神社資料館」という建物があった。宝物庫兼祭具置き場といったところか。一般公開しているなら覗いてみたい。

ところで、馬庭念流8世・樋口定次が枇杷の木刀で岩を割ったという伝説があるが、その琵琶の木はこの住吉神社から切り出したといわれている。
(「高崎市吉井町馬庭・馬庭念流道場」参照)


高崎市吉井町長根の友儀山観蔵院地蔵寺。

折茂観蔵院 (1)
観蔵院の創建は不明だが、境内に残る延文年間(1356~60年)の板碑から、鎌倉時代には寺があったと推定される。(延文は北朝の年号、同時期の南朝年号は正平)

折茂観蔵院 (2)
折茂観蔵院 (3)
堂宇は正徳年間(1711~25年)に焼失し、現在は無住となっている。

折茂観蔵院 (4)
観蔵院には地蔵尊が安置されており、地域住民に信仰されていたということで、平成19年(2007年)に地蔵尊が建立されている。

折茂観蔵院 (5)
折茂観蔵院 (6)
板碑は高さ110cm、幅35cm、月輪径29cmの緑泥片岩製で延文3年(1358年)の銘が刻まれている。主尊の梵字金剛界大日如来の種子が月輪の中に力強く刻まれ、1行17字で5行85文字の長い銘文が記されている。

吉井町長根の折茂地区は奈良時代の織裳郷の古名につながる地で、機織部(はたおりべ)が居住した地とされる。機織部は古代日本において機織りの技能を持つ一族や渡来人のことで、観蔵院の近くには新羅系渡来人によって創建されたと伝わる辛科神社がある。
(「高崎市吉井町神保・辛科神社」参照)


高崎市吉井町小暮の穴薬師。

小暮の穴薬師 (1)
小暮の穴薬師 (2)
小暮の穴薬師は、鏑川左岸に切り立った南向き急斜面の中腹に横穴墓が掘られている。横穴墓じたいは7世紀後半から8世紀初頭の掘削と推定される。

小暮の穴薬師 (3)
小暮の穴薬師 (4)
横穴墓の大きさは全長2.5mほどで、平面形態は基本的に隅丸台形である。天井は「かまぼこなり」を呈すド-ム状で、奥壁は半円形である。かつては、横穴中に鎌倉期の作と考えられる薬師如来石像があったという。

小暮の穴薬師 (5)
小暮の穴薬師 (6)
横穴墓の両側には磨崖仏が彫られているが、風化が激しく進んでいる。左側(写真上)はもう石仏に見えない。右側(写真下)はかろうじて石仏には見えるが像種は分からない。それ以上に顔が怖い!

高崎市のHPによると、昭和52年(1977年)の調査で完全な横穴墓3基と崩落した横穴墓5基が確認されたとあるので、もうちょっと奥に進めばあと何基か見られたのかもしれない。

↑このページのトップヘ