上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 高崎市(旧多野郡)


高崎市新町の首塚八幡宮。

首塚八幡宮 (1)
首塚八幡宮 (2)
天正10年(1582年)の神流川の合戦で討死した将兵の首実験をした場所と伝わる。そのため「実見塚」とう地名(字名)になったとされる。首は当地に埋葬され、石祠を設け首塚として村人に祀られてきた。

八幡宮がいつ祀られたのかは不明だが、明治以前までは塚の高さは6mほどもあったという。しかし明治・大正のころ、刀剣類を目当てにした「盗掘」が多発し、塚とは名ばかりに崩れてしまった。その後は荒れ地のようになってしまっていたのを、昭和37年(1962年)に地元の方々が整備している。

首塚八幡宮 (3)
八幡宮の社(左)と首塚の石祠。八幡宮の社は昭和37年(1962年)、首塚の石祠は昭和53年(1978年)の建立。

首塚八幡宮 (4)
首塚の旧石祠も残されている。こちらは昭和37年(1962年)の建立。

首を祀っていることから、首塚八幡宮は首から上の病(脳の病、精神病、歯の病など)にご利益があるとされる。お参りは丑三つ時(午前2時~4時)に誰にも知られずに行うのが良いとされる。合戦で討死した武者の霊が悩める人の苦しみを救うからだと言うが、かなり怖い時間帯だ。

ところで、同じ新町の堂場墓地前に「神流川合戦の供養塔」が建っている。実は明治44年(1911年)に「堂場の塚」と呼ばれる場所から多数の頭蓋骨が見つかっている。「堂場の塚」が神流川合戦の首塚との伝承もあり、供養塔が建立されている。
(「高崎市新町・神流川合戦の供養塔」参照)

関連
 「高崎市新町・神流川古戦場跡の碑
 「藤岡市岡之郷・胴塚稲荷神社
 「玉村町角渕・軍配山古墳(御幣山古墳)


高崎市吉井町岩井の稲荷山真光寺。

真光寺 (1)
真光寺は寛永年間(1624~45年)に岩井村の名主・岡野氏が、当地を訪れた深誉上人に帰依し創建したという。創建当初は字古屋敷にあったが、元禄3年(1690年)に現在地に移転している。

真光寺 (2)
境内入口の灯籠は平成8年(1996年)の奉納。

真光寺 (3)
真光寺 (4)
本堂は平成27年(2015年)新築建立。本堂前の灯籠は平成29年(2017年)の奉納。本尊の十一面観音は創建当初から祀られている。

真光寺 (5)
真光寺 (6)
宝篋印塔と石尊大権現塔。

真光寺 (7)
墓地入口の六地蔵。平成7年(1995年)の建立。

真光寺 (8)
普門品(ふもんぼん)供養塔。岡野氏の名が刻まれているので、開基の岡野氏の縁者かな。ちなみに普門品とは、法華経の第25品「観世音菩薩普門品」の略称。

真光寺の宝物として、十一面観音と脇侍・大般若経・宝篋印塔(写真)・石尊大権現塔(写真)・普門品供養塔(写真)・木魚・地蔵菩薩立像・弘法大師坐像・興教大師坐像が、高崎市の重文に指定されている。


高崎市吉井町上奥平の奥平山宝珠院正雲寺。

宝珠院 (1)
宝珠院の創建は不詳だが、治承年間(1177~81年)赤松則景の子・氏行が小幡を領し、その子・吉行(奥平氏の祖)が奥平に住して以来、奥平氏の祈願所としている。

赤松氏は室町時代の有力な守護大名として知られるが、奥平氏は赤松氏の末裔と称している。奥平氏は8代・貞俊の時に三河国作手に移り住んでいる。天授年間(1375~81年)とも応永年間(1394~1428年)ともいわれる。

宝珠院 (2)
宝珠院 (3)
本堂などは元は裏山の中腹にあったが、山崩れや暴風雨(台風)などでたびたび被害を受ける。昭和49年(1974年)にも台風により損壊したため、現在地に再建されている。

宝珠院 (4)
宝珠院 (5)
観音堂も本堂同様、現在地に再建されている。

宝珠院 (6)
安置されている聖観音は天平年間(729~49年)当地に立ち寄った行基の作と伝わる。天和3年(1683年)銘の胎内札がある。

宝珠院 (7)
宝珠院 (8)
本堂裏から旧寺域への石段がある。けっこう急な石段だが、訪れる人もいないためか、途中竹が倒れていて尚更登りづらい。

宝珠院 (9)
旧寺域は奥の院とされ、石祠が建っている。昭和49年(1974年)の建立。

宝珠院に伝わる話として、桂昌院(徳川家光の側室で、綱吉の生母)が信州・善光寺参りの途中に当地で病を得、宝珠院の観快に命じて病魔退散の護摩祈祷を行わせたところ病気が快癒。大いに喜び伽藍を建立したという。


高崎市吉井町本郷の西蓮山弘福寺。

弘福寺 (1)
弘福寺は延宝3年(1675年)覚忍上人の創建。

弘福寺 (2)
弘福寺 (3)
本堂には本尊の五大尊明王を祀る。五大尊明王とは、不動明王・隆三世明王・軍茶利明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の五明王のこと。真言宗の伝承される密教(東密)の形態である。

弘福寺 (4)
庚申塔と甲子塔。井池堂とあるので、応処斎渕臨の書(揮毫)と思われる。
(応処斎渕臨に関しては「高碕藩絵師・応処斎渕臨の墓」参照)

弘福寺 (5)
普門品供養塔と光明真言百万遍供養塔。普門品供養塔は法華経のうちの観音経を、光明真言供養塔は光明真言(梵字23文字)を一定回数読誦した記念に建てた供養塔。光明真言供養塔には寛政(1789~1801年)の銘がある。

弘福寺 (6)
六地蔵は平成16年(2004年)の建立。

弘福寺 (7)
弘福寺 (8)
十三仏巡り。令和元年(2019年)の造立。三途の川(石積み)も模してあった。

弘福寺 (9)
斎藤利安の墓。宝暦10年(1760年)本郷村の生まれ。幼時から学問を好み、農業を営むかたわら私塾を開き門弟を育てる。応処斎渕臨の書の師匠にあたる。天保5年(1834年)74歳で死去。弟子たちが墓石を建立している。

弘福寺には円空仏(高崎市の重文)がある。昭和50年(1975年)に位牌堂に安置されているのを発見された。寺伝では近くの民家にあったものを寺に納めたものといわれる。


高崎市吉井町上奥平の百庚申塔。

上奥平の百庚申 (1)
上奥平の百庚申塔は寛政12年(1800年)名主・茂原三郎左衛門が中心となり造立されている。

上奥平の百庚申 (2)
上奥平の百庚申 (3)
上奥平の百庚申 (4)
東西に走る尾根に沿って、様々な形の庚申塔が置かれている。実際にいくつあるかは分からない。山道はきれいに整備されている。

上奥平の百庚申 (5)
尾根最高部にある親庚申塔。高さ2.3m。裏面には願主の茂原三郎左衛門の名が刻まれている。

上奥平の百庚申 (6)
親庚申塔を囲むようにも庚申塔が置かれている。

上奥平の百庚申 (7)
親庚申塔の隣には、御獄大神・三笠大神・八海山大神の塔がある。

明治期に庚申信仰は迷信とされ、多くの庚申塔が撤去されている、また道路脇の庚申塔などは近年開発の影響で、やはり撤去や移転を余儀なくされている。そんな中、失礼ながら田舎の尾根沿いという立地条件から、多くが造立時の状態で残っているのは貴重である。


高崎市吉井町上奥平の茂林山宗伝寺。

宗伝寺 (1)
宗伝寺は延宝2年(1674年)上奥平村名主・茂原氏の開基、高崎下之城・徳昌寺8世芳瑞快喜和尚の開山。開基の茂原氏は関東管領・上杉憲政に仕え黒熊村(現吉井町黒熊)を所領していたとされる。その後、上奥平村に土着・帰農している。

宗伝寺 (2)
門前(と言うか道路沿い)には馬頭観音塔や青面金剛像などが並ぶ。

宗伝寺 (3)
宗伝寺 (4)
本堂の建立年などは不明。

宗伝寺 (5)
一段高いところに六地蔵。

宗伝寺 (6)
宝篋印塔(不完全)と二十二夜塔(如意輪観音)。二十二夜塔には天明6年(1786年)の銘がある。

宗伝寺には明治7年(1874年)奧平学校が開設されている(現、岩平小学校)。また境内に舞台があったが、明治末に奧平小学校建設資材とするために取り壊されている。


高崎市吉井町吉井の愛宕神社。

吉井愛宕神社 (1)
吉井愛宕神社 (2)
吉井愛宕神社の創建は不詳。愛宕神は往古より火防の神として庶民の崇敬が厚い。鳥居は昭和46年(1971年)の建立。

吉井愛宕神社 (3)
吉井愛宕神社 (4)
鳥居は北向だが、社殿は東向き。社殿は昭和24年(1948年)の建立。近年に修復されているようだ。境内が狭く、正面からの写真が撮れなかった。

吉井愛宕神社 (5)
右側が火産霊神と思うが、左側は分からない。

吉井愛宕神社 (6)
社殿前の灯籠には天明6年(1786年)の銘があった。

当社で毎年行われる祇園祭は神輿の渡御と花車の町内巡幸がある。昭和30年(1950年)代までは「吉井のあばれ神輿」と呼ばれ、世良田村(現在太田市世良田)八坂神社の天王祭と並び称された。その後、神輿は子供神輿となり、往時の激しさはなくなっている。まあ、それはそれで時代の流れというもの。
(世良田八坂神社は「太田市世良田・八坂神社」参照)


高崎市吉井町長根の補陀落山常行院長福寺。

常行院 (1)
常行院 (2)
常行院は文保2年(1318年)の開創と伝わる。

常行院 (3)
良源(慈恵大師)を祀る大師堂。良源は一般的に元三大師(がんざんだいし)の名で知られる。平安時代の天台座種(天台宗の最高位)で、比叡山延暦寺の中興の祖とされる。

常行院 (4)
本堂から一段低いところに観音堂がある。観音堂は寛延2年(1749年)の再建との記録が残っている。最近では平成元年(1989年)に修復されている。

本尊は千手観音で「袂(たもと)観音」と呼ばれ、康暦2年(1380年)行基の作とされる。ただ行基は奈良時代の人なので、年代がまったく合わないのはご愛敬。また康暦は南北朝の北朝の年号で、南朝では天授6年となる。

袂観音と呼ばれるのは、ある長者の娘の逸話からのようだ。ある長者の娘が望まぬ結婚を強いられ家を出てしまい、慌てた父母は後を追い多胡郡長根村で娘に追いつき、逃げようとする娘の袂(和服の袖付けから下の袋のように垂れた部分)を引っ張ったが袂は千切れてしまった。千切れた袂が堂内に入ったので調べたが、堂内には千手観音像があるだけで、娘の姿は消えてしまった。それ以来、千手観音は袂観音と呼ばれるようになったという。

また、堂内には狩野法眼が奉納した馬の絵馬がある、この絵馬にも逸話が残っている。絵の中の馬が夜中に抜け出し田畑の麦などを食い荒らし、村人を困らせた。そこで法眼が草を描き添え、馬に鼻綱を付けて杭に止めたら、馬の野荒らしがなくなったという。

常行院 (5)
観音堂前のラカンマキ。目通り2.3m、根元周り2.5mで、樹齢は約600年とされる。

常行院 (6)
観音堂境内の板碑。紀年銘などは分からなかった。観音堂の近くには南北朝期の板碑が多数あったが、今は散逸してその数は減ってしまったという。


高崎市吉井町長根の長根神社。

長根神社 (1)
長根神社 (2)
長根神社は明治45年(1912年)長根村内の5社とその境内社を合併し、新たに長根神社として現在地に創建。長根神社の主祭神は菅原道真なので、合祀したうちの天神社が母体になっているようだ。

長根神社 (3)
長根城の一部(中腹)に位置するため、けっこうな石段を上っていく。
(長根城は「高崎市吉井町長根・長根城址」参照)

長根神社 (4)
狛犬は昭和54年(1979年)の奉納。

長根神社 (5)
長根神社 (6)
拝殿は平成23年(2011年)の新築建立。合祀から100年を記念してしてのようだ。拝殿前の灯籠も同年の奉納。

長根神社 (7)
本殿は平成3年(1991年)に改築されている。こちらは合祀から80年を記念しての改築。拝殿も本殿も老朽化したので、合祀の周年記念事業として行ったのだろう。

長根神社 (8)
蚕影山大神塔と己巳塔。己巳塔は弁天さまを主尊として富や福を願い、己巳の日などに集まって供養する巳待講の祈念碑である。

長根神社 (9)
石段脇などに多くの記念植樹がある。「小学校卒業生一同」「卒業生男子一同」「卒業生女子一同」などの名札がかかっている。長根地区にある吉井西小の伝統かな。

長根神社には社宝として鰐口がある。天正17年(1589年)に小林豊後守秀政が熊野神社(長根神社合祀の一社)に子孫繁栄を祈願し奉献したもの。秀政6代の孫・久佐衛門秀音が延享4年(1747年)に補修のうえ再献している。

秀政の末裔・小林家に伝わる小林家系図では、秀政の法名を「天祐院殿仁叟貞訓大居士」と記している。これは仁叟寺の開基とされる奧平氏の法名と同一である。奧平氏と小林氏の関係、仁叟寺と小林氏の関係などは分からない。(「奧平氏の開基 ー仁叟寺ー」参照)


高崎市吉井町本郷の穂積神社。

穂積神社 (1)
穂積神社 (2)
穂積神社はもともとは火蛇神社で、その創建などは不詳。明治42年(1909年)に片山村、小棚村、本郷村の神社を合祀し、新たに穂積神社と改称している。

鳥居は平成8年(1996年)の建立。

穂積神社 (3)
社殿は合祀した片山村の科社神社からの移築。社殿前の狛犬は平成10年(1998年)の奉納。

穂積神社 (4)
穂積神社 (5)
穂積神社 (6)
高床流れ造りの本殿には、龍や鶴の壁画が描かれている(保護用のアクリル板により見づらいが)。

穂積神社 (7)
高崎藩の絵師を務めた応処斎渕臨の神楽「式三番」の奉納額。慶応3年(1867年)の作。すっかり色あせて、何も見えなくなっている。
(応処斎渕臨については「応処斎渕臨の墓」参照)

穂積神社 (8)
穂積神社 (9)
社殿裏の境内社・末社群。どれか分からなかったが、寛永10年(1633年)銘の石祠があるようだ。

穂積神社 (10)
御大典紀念とある。昭和天皇の即位を祝してのものかな。

穂積神社 (11)
ほとんどの灯籠に「キケン さわらないで」の貼り紙が。台座が老朽化し、倒壊の恐れがあるのだろう。写真の灯籠には文政2年(1819年)の銘があった。

穂積神社 (12)
実際にいくつかの灯籠は倒壊している。でも復元するわけでもなく、撤去するわけでもなく。

穂積神社には社宝として、伯耆守信高の刀一振りがある。伯耆守信高は戦国期から江戸前期の刀剣師。3代目は尾張徳川家のお抱え鍛冶となっている。


高崎市吉井町片山の天蓋山金蔵寺。

金蔵寺 (1)
金蔵寺は天正6年(1578年)の創建と伝わる。

金蔵寺 (2)
門前には立派な松がそびえ立つ。目通り2.3m、高さ13mで、樹齢は200年と推定される。枝張りは東西15m、南北17mに及ぶ。

金蔵寺 (3)
金蔵寺 (4)
門前の六地蔵や石仏群。

金蔵寺 (5)
本堂は近年の建立らしく新しい。あまりお寺の本堂っぽくないが、本尊の愛染地蔵を祀る。また、木彫仏像「十王像及び奪衣婆、地蔵」が計12体ある(高崎市の重文)。

金蔵寺 (6)
三界萬霊塔はツタに覆われている。宝塔の姿はまったく見えない状態。

金蔵寺 (7)
本堂西の道路側にカヤの大木がある。目通り6.6m、樹高16m。道路の電線に届く勢いだ。電線側の枝張りが不自然なので、枝の剪定を繰り返しているのだろう。


高崎市吉井町片山の応処斎渕臨の墓。

応処斎渕臨の墓
応処斎渕臨は文化2年(1805年)吉井町片山に生まれる。本名は横尾佐十郎義之。江戸に出て江戸御絵所・狩野探渕守真に学ぶ。第一高弟となり、探渕から一文字を受け「渕臨」と号す。

吉井に帰郷後は高崎藩の絵師となり、多くの門弟を育てる。山水・仏画・鶴亀・人物画を能くし、吉井近隣の寺社に現存している。本郷村(現吉井町本郷)の斎藤利安に学んだ書も優れ、「井池堂」と号している。

明治3年(1870年)66歳で没す、横尾家墓地に葬られる。墓碑は門弟らによって建てられている。


高崎市吉井町小棚の薬師堂。

小棚薬師堂 (1)
小棚薬師堂 (2)
小棚薬師堂は昭和3年(1928年)太田市の反町薬師(照明寺)からお札をいただき建立。お堂は平成元年(1989年)に改築されている。

小棚薬師堂 (3)
薬師如来石像が多数並んでいる。いずれも昭和以降の造立かな。願掛け・成就による返納のしきたりがあるのかもしれない。

小棚薬師堂 (4)
小棚薬師堂 (5)
平成元年のお堂改築時、地区内に散在していた地蔵像・馬頭観音像・庚申塔などを集積している。


高崎市吉井町小暮の士峯山全林寺。

全林寺 (1)
全林寺 (2)
全林寺は文禄年間(1593~96年)宝積寺16世・竇山宝雪の開山とされる(吉井町誌から)。ただし、全林寺歴代住職の過去碑には竇山宝雪の入寂年は正保元年(1645年)とある。すると創建は寛永年間(1624~45年)あたりかな。

その後、2世・斧山大◯(金へんに出)のとき、岩井村北部の全林寺畑から現在地に移転している。

全林寺 (3)
山門前の六地蔵。昭和59年(1984年)の建立。

全林寺 (4)
本堂は昭和47年(1972年)の建立。

全林寺 (5)
境内の聖観音。昭和61年(1986年)の造立。

全林寺 (6)
全林寺 (7)
三界萬霊塔。塔というか地蔵尊。「小暮の地蔵尊」とあった。平成18年(2006年)の造立。

同じく吉井町小暮の「小暮の穴薬師」は、享保6年(1721年)から全林寺が管理している。(穴薬師は「高崎市吉井町小暮・小暮の穴薬師」参照)


高崎市吉井町多比良の阿夫利神社。

阿夫利神社 (1)
阿夫利神社 (2)
阿夫利神社としては昭和61年(1986年)の創建。もともと当地には弘法大師(空海)が彫ったとされる不動明王(磨崖仏)があり、古くから「滝の不動」「谷不動」などと呼ばれ崇拝されてきた。

その後、神仏習合(本地垂迹)の考えから石尊権現が祀られ(年代不詳)、不動尊とともに多比良の谷地区の氏神として信仰されている。

阿夫利神社 (3)
鳥居横に意味ありげな大岩がある。表面に何か文字があるような、ないような。

阿夫利神社 (4)
楼門・社殿は昭和61年(1986年)の新築建立。谷地区に接している藤岡市下日野を中心としてゴルフ場が開発され(谷地区にもかかる)、その関係からゴルフ場開発会社が社殿などすべてを寄進している。この時に、石尊権現を祭神とする阿夫利神社となっている。

楼門は阿夫利神社になる前から存在しており、「石尊権現」と「滝の不動」の神域入口とされてきた。

阿夫利神社 (5)
阿夫利神社 (6)
阿夫利神社 (7)
拝殿前の灯籠は平成2年(1990年)の奉納。

阿夫利神社 (8)
社殿横に落差2mほどの小さな滝があり、「不動の滝」と呼ばれる。

阿夫利神社 (9)
不動の滝横の岩壁に不動明王が彫り込まれている。季節的に草木の関係で見えない(もしかしたら風化してしまっているのかも)。

阿夫利神社 (10)
不動尊と書かれた額のようなものと、不動明王の剣らしきものが見える。

実は不動明王だけでなく、いくつもの像が彫られているという。十三仏とされる。不動明王などの磨崖仏はこの地を訪れた弘法大師が一夜のうちに刻みつけ、最後の一体を彫りきらぬうちに夜が明けてしまったと言い伝えられている。

阿夫利神社 (11)
阿夫利神社 (12)
阿夫利神社と沢の反対側に境内社(?)の古峯社と稲荷社がある。稲荷社内には石仏が鎮座している。

阿夫利神社 (13)
双体道祖神。

阿夫利神社 (14)
阿夫利神社 (15)
境内社などの奥に上る石段があり、石尊権現が祀られている。

不動明王などの磨崖仏は室町期の作と推定されているが、多比良城主・多比良友定が戦勝祈願を行い、それにより命が助かったとの言い伝えも残されている。弘法大師伝説はどこからきたのだろう?

昭和40年(1965年)ころまでは、例祭には獅子舞が奉納され、また露店も並ぶほど賑やかだったという。


高崎市吉井町石神の大武神社。

大武神社 (1)
大武神社 (2)
大武神社は元は稲荷神社で、その由緒は不詳。明治43年(1910年)に近隣各社を合祀し大武神社と改称している。

当地は奈良時代に石神村と中島村は大家郷に属し、深沢村は武美郷に属していたので、その大と武をとり大武神社としたといわれる。

大武神社 (3)
大武神社 (4)
大武神社 (5)
社殿は昭和17年(1942年)の建立。

大武神社 (6)
社殿裏の高いところに境内社が祀られている。

元稲荷神社の社宝として、吉井藩主・松平信平が延宝5年(1677年)に奉納した和歌3首を記した色紙、同藩主・松平信成が天明4年(1784年)に奉納した紙幟があったが、現在は所在不明となっている。残念なことだ。


高崎市吉井町黒熊の浅間神社。

黒熊浅間神社 (1)
黒熊浅間神社 (2)
黒熊浅間神社の由緒は不詳。明治42年(1909年)に黒熊村内6社を、同43年(1910年)に小串村内4社を合祀している。

石鳥居が2基建っているが、前側は享保年間(1716~36年)、後側は明治22年(1889年)の建立。扁額はどちらも浅間神社。

黒熊浅間神社 (3)
当地は浅間山と呼ばれる丘陵地の中腹。少しだが急な石段を上る。

黒熊浅間神社 (4)
社殿前の狛犬は平成20年(2008年)の奉納。

黒熊浅間神社 (5)
黒熊浅間神社 (6)
黒熊浅間神社 (7)
社殿は大正14年(1925年)の建立。建立時には本殿覆屋はなかったようだが、昭和51年(1976年)以降に造られたようだ。

黒熊浅間神社 (8)
浅間神社石宮。浅間山を奥に上って行ったところを奥浅間と言い、そこに鎮座していた石宮。平成7年(1995年)に浅間神社境内に遷されている。

黒熊浅間神社 (9)
黒熊浅間神社 (10)
奥浅間(浅間山山頂)には明治27年(1894年)建立の入野碑がある。山道はきちんと整備されているが、たどり着くまでには相当上る。行かれる場合は、覚悟して行った方がいいです。(「高崎市吉井町黒熊・入野碑」参照)


高崎市吉井町多胡の慈雲山龍源寺。

龍源寺(1)
龍源寺は華應存永が多胡村字元屋敷に創建したが、5世・智眼慶察のときに山崩れで堂宇・墓地ともに埋没した。正保3年(1646年)当地領主の旗本・門奈六左衛門の寄進により(開基)、仁叟寺9世・日州寿朔を招き曹洞宗として当地に中興開山。

龍源寺(2)
龍源寺(3)
山門は平成11年(1999年)の建立。

龍源寺(4)
龍源寺(5)
明治26年(1893年)山門以外を焼失。翌年再建されている。火災時に本尊も焼失してしまったため、廃寺となっていた陽福院(埼玉県賀美村)の三仏像を譲り受け、改めて本尊としている。現在の本堂は令和元年(2019年)の新築建立。

龍源寺(6)
本堂前の開基塔。平成31年(2019年)に開基である門奈六左衛門のご子孫の方が建立している。

龍源寺(7)
龍源寺(8)
ご神橋を渡っていくと魚籃(ぎょらん)観音という観音さまが鎮座している。魚籃(魚を入れる籠)を持っているのが特徴。

龍源寺(9)
境内の隅にカヤの木がある。まだ小さいが、龍源寺の本寺・仁叟寺のカヤの木(群馬県の天然記念物)の子株とのこと。(「仁叟寺の三銘木 ー仁叟寺 その4ー」参照)

龍源寺(10)
蚕影山の縁起碑。養蚕にご利益のある蚕影山大権現が、龍源寺脇の山腹に祀られていたが、平成15年(2003年)に本堂内に遷されている。

龍源寺(11)
義民と讃えられる白田六右衛門の墓。

白田六右衛門は多胡村の名主。元禄元年(1688年)に大干ばつが生じ、六右衛門はこの悲惨なありさまを目にして、意を決して領主より保管を命じられていた年貢米の殻倉を解放し、米をすべての人々に分け与えた。穀倉を許可なく開けることは重大な違法行為であり、六右衛門は捕えられ龍源寺前のキュウリ畑にて斬首された。元禄2年(1689年)のこと。24歳の若さであったという。

罪人として処罰されているため、墓石は非常に小さい。また、六右衛門がキュウリ畑で斬首されて以来、白田家はキュウリを作らない慣わしとなっている。

龍源寺(12)
参道には六右衛門の顕彰碑も建っている。

ちなみに、当地を治めていたのは公家から武士に転身したことで有名な鷹司松平信平。まだ7000石の旗本時代。孫の信清が大名(吉井藩主)になるのは宝永6年(1709年)のことである。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。
仁叟寺」「仁叟寺 その2」「仁叟寺 その3」に引き続き仁叟寺の4回目(最終回)。

仁叟寺 (1)
本堂前のカヤ。群馬県の天然記念物に指定されている。仁叟寺が現在地に移転時の開山・直翁裔正の手植えと伝わり、樹齢は推定500年となる。樹高21.2m、目通り外周が4.8m、根周り外周は10m。

カヤの大木は天狗の宿り木で、榛名山の天狗がよく集まったという。

仁叟寺 (2)
本堂裏の椋(ムク)。この辺りでは「モク」と言うらしい。方言かな。樹高29m、目通り外周が5.5m、根周り外周は7.2m。地上7mのところで幹が2つに別れている。推定樹齢は約350年。

仁叟寺 (3)
本堂裏のコヒガンサクラ。推定樹齢は約100年。地中より幹が5本出ていることから「五輪桜」と呼ばれる。

仁叟寺 (4)
五輪桜の下に桜花観音が鎮座する。平成23年(2011年)の造立。東日本大震災の受難物故者供養仏。

仁叟寺にある諸堂・諸仏・諸施設を紹介しているうちに、4回にわたる長編になってしまった。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。
仁叟寺」「仁叟寺 その2」に引き続き、仁叟寺の3回目。

仁叟寺 (1)
仁叟寺 (2)
欣光閣。欣光閣は昭和63年(1988年)建立の檀信徒会館。宿泊施設も完備している。

仁叟寺 (3)
欣光閣玄関前の狛犬。平成7年(1995年)の奉納。中国四川省五台山顕通寺との友好寺院締結記念。

仁叟寺 (4)
仁叟寺 (5)
五台山顕通寺との友好寺院締結調印記念碑。碑上部には日本・中国の国旗と、その間に文殊菩薩が彫られている。中国・顕通寺は仏教の聖地で文殊菩薩の道場らしい。

仁叟寺 (6)
仁叟寺 (7)
文殊堂。平成6年(1994年)の建立。本尊の文殊菩薩は中国・顕通寺より拝請。顕通寺本尊の文殊菩薩と同じ像を造立。文殊菩薩は学問の菩薩なので、学業成就、開運招福などの霊験があるといわれる。

仁叟寺 (8)
仁叟寺 (9)
座禅堂。

仁叟寺 (10)
座禅堂前には瑩山の銅像がある。曹洞宗開祖・道元の像が置かれているお寺は見かけるが、瑩山像は初めて見た。曹洞宗では一般的に道元を高祖、瑩山を太祖と呼んでいる。

仁叟寺 (11)
仁叟寺 (12)
十三重石塔。平成12年(2000年)の造立。高さ17mは日本一という。隣には石塔最上部の相輪がある。相輪だけでも3m。将来十三重塔が風化などで痛んだ際に補修するためらしい。ただ、これを乗せる予備ではなく、補修の際に整合性を取るためとか。確かに同じ環境に置いておけば、同じに風化するからね。

仁叟寺 (13)
中国仏教四大聖山の霊砂。五台山顕通寺、峨眉山万年寺、久華山化城寺、普陀山普済寺の4寺から霊砂を集めたという。ここで仏に念じれば、功徳は無量だという。砂の入っているお堂は平成9年(1997年)の建立。

仁叟寺 (14)
仁叟寺 (15)
薬師堂。お堂は平成6年(1994年)の建立。本尊の薬師如来は仁叟寺歴代住職の護持仏とされている「黒薬師」。脇侍として日光・月光菩薩も祀られている。

仁叟寺 (16)
寺本欣正氏の銅像。今回紹介した施設・お堂、造形物のほとんどに関し、発揮人や願主(施主)として携わっている。寺本氏は賛光電器産業の創業者でサンコーグループの元会長。平成15年(2003年)に死去(88歳)。仁叟寺の最高顧問檀徒で、再中興開基の称号を受けている。中曽根元首相の後援者としても有名だ。

仁叟寺 (17)
寺本家墓所の全景。巨大な灯籠は平成8年(1996年))の建立。

もう1回仁叟寺です。つづく。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。
前回(「高崎市吉井町神保・天祐山仁叟寺」)に引き続き仁叟寺の2回目。

仁叟寺 (1)
千手観音像(中央)。行基の作とされ、羊太夫の守本尊と伝わる。六観音が周りに安置されている。室町時代の作とされ、廃寺となった八束山観音寺の本尊。平成29年(2017年)に修復が完了している。

不思議なもので、なまじ造立時のお姿(具体的には金ピカ)になると、逆にありがたみが薄くなってしまうと感じるのはオレだけかな? (もちろん仏像としての歴史的価値の問題とは別)。

八束山観音寺は仁叟寺8世・天威大佑の開山。天威大佑の入寂が寛永13年(1636年)なので、江戸初期の創建となる。明治初年に火災に遇い、その後再建を計画したが果たせず廃寺となっている。

仁叟寺 (2)
仁叟寺 (3)
仁叟寺 (4)
同じく観音寺から移された石仏や石祠。石祠内には石仏が納められている。

仁叟寺 (5)
仁叟寺 (6)
白山妙理大権現。寺域を守護する龍神。曹洞宗開祖・道元が宋から帰国する際、乗っていた船を守ったとされる。また帰国前夜にこの権現が手伝い、「碧厳録」を一夜のうちに書き写したといわれている。

仁叟寺 (7)
仁叟寺 (8)
古照堂。昭和51年(1976年)の建立。多胡碑が納められている。多胡碑と言っても本物ではないけどレプリカでもない。吉井町塩の向井家に伝わっていたもので、仁叟寺に寄贈されている。「仁叟寺多胡碑」と呼ばれている。

仁叟寺多胡碑は、文字の書体・大小などが世界遺産・多胡碑と寸分違わないもので、両者の拓本を比べても判定に苦しむほどだという。ただ、碑身は薄く板碑のように見える。

製作の経緯などは不明だが、向井家にはこの碑は多胡碑の裏碑(予備)であるので、同材質・同刻で造られていると伝わっている。

仁叟寺 (9)
地蔵菩薩像。元禄13年(1700年)の造立。

仁叟寺 (10)
天宮の井戸。開創以来、寺の水源であった井戸。永きに渡り枯れることなく水脈を保っている。昭和40年代まで使用されていた。

仁叟寺 (11)
銅製の大釜。戦国時代のものと伝えられる。

仁叟寺 (12)
仁叟寺 (13)
願掛け穴不動。昔から竹林の中に洞穴があり、寺の東を護っていた。この洞穴には不動明王が祀られており、お百度参りを行うと大願が成就すると伝えられている。

仁叟寺 (14)
不動滝。もちろん人工の滝だが、不動明王像などが置かれている。穴不動の近くにあるので、それに関連付けたものかな。訪問日は水が流れてなかった。

仁叟寺 (15)
聖観音像。令和元年(2019年)の造立。

仁叟寺 (16)
涅槃釈迦像。中国四川省産の漢白玉大理石製。平成9年(1997年)の造立。自分の身体の悪い場所と同じ場所をさすれば、撫で仏としての功徳が授かれるという。

仁叟寺 (17)
慈母観音像。平成16年(2004年)の造立。

仁叟寺 (18)
ペット供養塔。平成6年(1994年)の建立。

仁叟寺 (19)
村上鬼城の句碑。平成16年(2004年)の建碑。

2回目も長くなったので、以下3回目につづく。


高崎市吉井町神保の天祐山仁叟寺。

仁叟寺 (1)
仁叟寺は応永年間(1394~1428年)に奧平城主・奧平氏が奧平村公田に開創。大永2年(1523年)に奧平貞能が現在地に移している。その際の開基は雙林寺(渋川市中郷)4世・直翁裔正。

開創は奧平貞訓とされるが、これは法名(戒名)の「天祐院殿仁叟貞訓居士」からのもので、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。年代的には奧平貞俊あたりではないだろうか?

仁叟寺 (2)
惣門は寛政3年(1663年)の建立。江戸期の武家門の面影を留める切妻ヒノキ造り。

仁叟寺 (3)
山門前の餓鬼も時節柄マスクを付けていた。

仁叟寺 (4)
仁叟寺 (5)
山門は宝暦11年(1761年)の建立。2階部分に金剛力士像や五百羅漢を安置する。

仁叟寺 (6)
仁叟寺 (7)
本堂は大永2年(1522年)の建立。当然、種々の改修・改築はされているが、現在地に移転・建立された当時の姿を留めている。。

仁叟寺 (8)
本尊の釈迦牟尼仏を祀る。脇侍の迦葉仏、阿難ともども平成24年(2012年)に2年半の修理を終え、往年の輝きを取り戻している。

仁叟寺 (9)
仁叟寺 (10)
鐘楼堂は天和3年(1683年)の建立。最近では昭和53年(1978年)に改築されている。現在の梵鐘は平成13年(2001年)に新しく鋳造されている。

仁叟寺 (11)
旧梵鐘(鐘楼堂と同じ天和3年の鋳造)は、現在は本堂内に安置されている。小型の梵鐘であるが、江戸幕府御用鋳物師・椎名伊豫守吉広の作。吉広は芝・増上寺の巨鐘や上野・寛永寺の宝塔などの作者として知られる。先の大戦時にも、その歴史的な価値から供出を免れている。

仁叟寺 (12)
仁叟寺 (13)
創建時の開基とされる奧平貞訓の墓(中央)。先にも書いたが、貞訓の名は奧平氏の系譜には見えない。

向かって右の宝篋印塔は「応永の塔」と呼ばれ、奧平村(開創地)から移した貞訓の墓と伝えられる。応永32年(1425年)の銘がある。見る限り集成っぽい。

手前の2基の宝篋印塔は、天文5年(1536年)と天文23年(1554年)の銘がある。こちらも集成のようだ。

仁叟寺 (14)
地頭・長谷川氏の墓。長谷川淡路守(向かって右)と長谷川讃岐守(左)。讃岐守が父で淡路守が息子。子孫に「鬼平」こと長谷川平蔵がいる。

仁叟寺 (15)
地頭・溝口豊前守勝信の墓。

仁叟寺 (16)
井伊直勝の側室の墓。直勝は井伊家安中藩2代藩主で、徳川四天王・直政の孫にあたる。

仁叟寺は当地に移転以来500年近く火災に遭っていない希有な寺院である。明治23年(1890年)には全県全宗派の中から世良田・長楽寺と仁叟寺の2寺のみが、明治政府から古社寺保存法の指定を受けている。

仁叟寺には今回紹介した以外にも多くの施設や諸仏(新旧いろいろ)、名木などがあるので、引き続き紹介していく。と言うことでつづく。


高崎市吉井町吉井の菩提山法林寺。

法林寺 (1)
法林寺は天正8年(1580年)の草創、開院は文禄2年(1593年)で開山は住蓮社安誉上人。

法林寺 (2)
法林寺 (3)
法林寺 (4)
六地蔵と願就地蔵尊。願就地蔵って、名前がいいね。

法林寺 (5)
通称「法れん寺」横丁というところが参道で、本堂は北向きである。本尊の阿弥陀如来像は鋳造で、鎌倉時代の作と推定される。総高42.8cmで、重さが10kg以上ある。

法林寺 (6)
法林寺 (7)
蔵のような建物の中を見たら仏像が多数並んでいた。本堂には「西国、坂東、秩父の併せて百体の観世音菩薩像が掲げられている」とのことなので、それらを移したのではないかな。

法林寺 (8)
鐘楼堂。宝永7年(1694年)鋳造の梵鐘があり大正時代には吉井町の時報に使用されていたが、先の大戦時に供出。

法林寺 (9)
墓地内にあるカヤの木。樹高約38m、目通り周4.2m、根元周り7m。枝張りは東西11m、南北13mなっている。本幹上部は剪定されているようだが、落雷でもあったのか(分からないけど)。

法林寺 (11)
吉井藩の代官を務めた橳島(ぬでじま)家の墓がある。初代・丹斎高堅、2代・丹太夫高茂、3代・丹治高行は、藩政と領内の民政に尽力している。

吉井藩は宝永6年(1709年)松平信清によって再々立藩以降、藩主は代々江戸定府のため、代官は地元でも最高責任者。3代・丹治高行の時に明治維新を迎え、高行は岩鼻県監察を務めている。


高崎市吉井町多比良の粟島神社。

粟島神社 (1)
粟島神社 (2)
多比良粟島神社は寛政年間(1798~1801年)の創建。現在は多比良神社の境内にある。以前は多比良神社から数十mのところにあったが、県道拡張工事に伴い遷座している。
(多比良神社は「高崎市吉井町多比良・多比良神社」参照)

粟島神社 (3)
粟島神社 (4)
木像らしきものが2体あるが、いずれも首がない。老朽化? それとも・・・。

多比良粟島神社の創建には次のような逸話がある。寛政年間に多比良地区に粟島明神の像を背負った巡礼者がやってきた。その巡礼者は2~3年ほど多比良地区で過ごした後、出立することになった。その際「地区の皆さんには世話になったが自分には何もない。あるのはこの粟島明神の像だけだ」と、像を残していった。

像は名主の家の床の間に飾っていたが、これを見た祈祷師(アガタ)が「こんな荒神を置いておくのはよくない。早く社を造ってお祀りする方が良い」というので、早速お社を造り祭祀したといわれる。

天下泰平の石塔
また巡礼者は出立する際に、日本各地を旅して集めたお札を地に埋め、その上に「天下泰平」と刻した石塔を建立したという。この石塔は多比良中組の共同墓地の端に現存している。


高崎市吉井町岩崎の岩崎神社。

岩崎神社 (1)
岩崎神社は大正10年(1921年)に、字馬場にあった菅原神社を中心に旧岩崎村33社を合併し岩崎神社と改称、現在地に移転している。当所は密蔵院に合併した衆福寺の跡地。
(密蔵院は「高崎市吉井町岩崎・岩崎山密蔵院」参照)

岩崎神社 (2)
岩崎神社 (3)
社殿前の高灯籠は享保11年(1726年)の奉納。菅原神社のものを移したのだろうか。

岩崎神社 (4)
岩崎神社 (5)
岩崎神社 (6)
社殿は最近新築建立されたようだ。

岩崎神社 (7)
岩崎神社 (8)
社殿裏の末社群。稲荷社・新宮社・秋葉社の石祠は令和元年(2019年)の建立。

先も書いたように、当所は衆福寺の跡地となる。明治の中期には衆福寺本堂が岩平小の仮校舎として使用されている。ちなみ岩平の村名は明治22年(1889年)の町村制施行の際、岩崎と奥平から一文字づつとったもの。


高崎市吉井町岩崎の岩崎山密蔵院覚性寺。

密蔵院 (1)
密蔵院 (2)
密蔵院は僧・良尊の開創と伝わる。良尊の入寂が永和2年/天授2年(1376年)とされるので、南北朝期の創建となる。江戸時代末、駒形山衆福寺を合併している。衆福寺は当地の郷氏・岩崎氏の祈願所であったとされる。

密蔵院 (3)
山門前の六地蔵。

密蔵院 (4)
本堂には恵心僧都作と伝わる阿弥陀如来を祀る。この阿弥陀像は合併した衆福寺の本尊であったようだ。

密蔵院 (5)
密蔵院 (6)
境内の聖観音像と地蔵菩薩像。お地蔵さまは昭和58年(1983年)の奉納。

密蔵院 (7)
密蔵院 (8)
密蔵院 (9)
境内のお堂。扁額等ないので詳細不明だが、中を見ると愛染明王らしき像が見えた。堂内は少し乱雑だ。

密蔵院 (10)
堂前には新旧取り混ぜた石仏が並んでいる。

密蔵院には岩崎左衛門入道教阿の位牌が残されている。元々は衆福寺にあったが、合併の際に密蔵院に移されている。岩崎左衛門は密蔵院から数百m離れた所にあった岩崎城の城主とされる。

弁天池 (1)
池(弁天池)の向こう側が岩崎城址。単郭式の山城で、本丸は長径30mほど。弁天池は岩崎城の南西麓にある長さ200m、幅50mのため池。

弁天池 (2)
弁天池の中ほどに小島があり、そこに岩崎左衛門の墓とされる宝篋印塔(集成)があるという。小島に渡る手段もなく、草に覆われ宝篋印塔などもまったく見えない。以前は古碑もあり「宝徳元年(1449年)12月14日 岩崎左衛門入道教阿」と刻されていたという。これは密蔵院の位牌と同一文。

弁天池は江戸時代に山麓を流れる足沢の流れを変え、灌漑用水池として作られている。それにより、岩崎左衛門の墓が池の小島になったという。


高崎市吉井町吉井の吉井山玄太寺

玄太寺 (1)
玄太寺は慶長5年(1600年)吉井藩主・菅沼定利の開基、仁叟寺10世・月峯牛雪の開山。菅沼氏の祈願所となった。

玄太寺 (2)
門標横には地蔵菩薩像。

玄太寺 (3)
本堂は昭和30年(1955年)に焼失、同32年(1957年)に再建されている。

旧吉井町役場(吉井支所)の近くにあり、街中のため境内は非常に狭い(昔は広かったんだろうけど)。パッと見、境内中お墓と思えるほど。

玄太寺 (4)
本堂前の菅沼定利の墓。菅沼定利は領内で検地を実施し、六斎市を催すなど治政の安定化に努めた。関ヶ原の戦いでは、徳川秀忠軍の一員として信州上田城の真田昌幸攻めに参加している。ただ、これが原因で秀忠軍は関ヶ原に遅参している。

定利は慶長7年(1602年)に死去すると、同じく吉井町の仁叟寺に葬られたが、宝暦6年(1756年)末裔・菅沼定用により玄太寺に移されている。

玄太寺 (5)
観音堂。観音堂は玄太寺より古く、菅沼定利が関ヶ原出陣時にこの観音さまに戦勝祈願を行い出陣している。定利は戦中に危ういところ難を逃れたので、この観音さまを大いに信仰し玄太寺を創建したとされる。

玄太寺 (6)
玄太寺 (7)
玄太寺 (8)
本尊の聖観音像は弘法大師の御作とされる。弘法大師が修行中のまだ25歳のとき、大病を患い一命が危うい状態となった。その際、観音さまの霊夢を感じ観音像を彫り祈願したところ、たちどころに快癒したという。その観音像を守護し巡国中、当地に堂庵を結び観音像を安置したという。

観音堂は天保5年(1835年)焼失、明治13年(1880年)の再建。扁額はほぼ読めない。

玄太寺 (9)
観音堂境内の弘法大師像。

玄太寺 (10)
宝塔。立派な宝塔である。ただ、紀年銘などは見てこなかった。

玄太寺 (11)
阿弥陀三尊石像。中央の阿弥陀如来像は後背が一部欠損している。他の二尊は観音菩薩坐像、勢至菩薩坐像と思われる。上部が欠損しているが、いずれも阿弥陀如来の脇侍と思われる。鎌倉時代の作と推定されている。

相当風化が進んでおり、屋根だけでなく、覆屋で防護するなりの対策が必要だと思う。


高崎市吉井町下長根の小野小町の休み石。

小野小町の休み石と姫街道安全地蔵尊 (1)
小野小町の休み石
小野小町が故郷の出羽国(現在の秋田県湯沢市)へ帰る途中に、池を見ながら腰を降ろして休んだ石といわれる。

富岡市小野地区にも小野小町の伝承があり、いずれも出羽国へ帰る途中のこと。吉井を経由し富岡方面に向かったということになるのかな。小町は富岡で病を患い、小庵を設け治療と仏道の日々を送ったことになっている。ちなみに小野地区の名称は小野小町から来ているとされる。

小野小町関連
 「小野小町の開基・小町山得成寺
 「富岡市後賀・小野の塩薬師

姫街道安全地蔵尊
隣のお地蔵様は「姫街道安全地蔵尊」。地蔵尊が面している国道254号線は交通量が多く、過去から悲惨な交通事故が度々発生し、その供養と交通安全を祈念し平成23年(2011年)に建立された。

「上州姫街道」とは国道254号線の江戸時代の名称。中山道の裏街道として、藤岡市から吉井町・甘楽町・富岡市・下仁田町を経由し長野県に至る(下仁田道とも呼ばれる)。

確かに、吉井町の中心から西(甘楽町・富岡市方面)へ向かう当地は、道幅も狭く大型車の通行も多い場所。よく通る道だが、常に交通量が多いという印象がある。


高崎市吉井町多比良の石造薬師如来坐像。

西深沢の薬師如来坐像 (1)
西深沢の薬師如来坐像 (2)
多比良地区西深沢の墓地内に石造薬師如来坐像が2体安置されている。どちらも牛伏砂岩製で、その特徴から南北朝期の作と考えられている。

向かって左像は、総高78.5cm、像高47.5cm。左手に薬壺を持ち、膝の張りが大きく蓮座は薄い。右像は総高65cm、像高45cm。左像同様、左手に薬壺を持ち膝張りは大きい。光背の一部が欠損している。

実はこの墓地に親戚のお墓がり、子どものころお墓参りに来た記憶がある。上信越自動車道開通時(平成5年:1993年)、一部用地として転用され狭くなっており、昔の記憶と違っている。当然、石仏のことなど子ども心にはまったく残っていない。


高崎市吉井町多比良の多比良古墳。地元では諏訪前古墳と呼ばれている。

多比良古墳 (1)
多比良古墳は盛土が失われ、横穴式石室の石組だけが露出している。昭和10年(1935年)の調査時には墳丘を有す約12mの円墳だったようだ。

多比良古墳 (2)
多比良古墳 (3)
多比良古墳 (4)
石室の全長は5.54m、玄室の長さ2.7m、羨道の長さ2.8m。石材加工は精巧な切石で、一部切組積み手法をとり入れた高度なものである。石材は牛伏砂岩。

築造年代は、埴輪を所有しないことや切石積み石室などの様相から古墳時代終末の7世紀代と考えられている。

最初に地元では「諏訪前古墳」と呼ばれていると書いたが、これは多比良神社(元は諏訪神社)の前にあるからだと思う。鳥居から約100mくらいの所に、この多比良古墳はあるので。(多比良神社は「高崎市吉井町多比良・多比良神社」参照)

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