Tigerdream の上州まったり紀行

上毛かるたと群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


高崎市中室田町大久保の岩井堂。

岩井堂の石幢 (1)
岩井堂は永禄年間(1558~70年)石井讃岐守の発願で、長年寺7世・天産受蓮を招いて開創。上野国観音霊場の第22番札所になっている。

ちなみに石井讃岐守(石井信房)は里見義堯と長野業政の娘との間の子。業政の養子になったとされる。当時は室田鷹留城主で、永禄9年(1566年)の箕輪城落城時、鷹留城も落城。石井讃岐守も討死したとされる(諸説有り)。

岩井堂の石幢 (2)
お堂は後ろの崖をえぐるように建っており、平成5年(1993年)に改修されている。中を覗いてみたけど、観音様は見えなかった。改修の際、仏像や墨書された板などが多数確認され、特に秩父34霊場に関わる観音像が8体発見されている。当時は34体あったと思われる。

岩井堂の石幢 (3)
お堂の石段下には石幢があり、竿石には文明4年(1472年)の銘がある。残念ながら龕部は失われているが、輪廻車のはめ込まれていた穴は残っている。高崎市の重文に指定されている。

岩井堂の創建と石幢の造立年が合わないことから、岩井堂自体の開創がもっと古い可能性もある。

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吾妻郡中之条町上沢渡の北向三十三番観世音。

北向第三十三番観音 (1)
北向第三十三番観音 (2)
北向三十三番観世音は、明治35年(1902年)に赤痢や凍霜害の犠牲者の慰霊と天下泰平、村民安徳、現世利益を祈願して造られた。

北向第三十三番観音 (3)
旧沢田村は明治29年(1896年)に赤痢が蔓延し、多くの犠牲者をだした。また明治34年(1901年)には凍霜害の被害により、作物の実りが悪く村全体が困窮していた。村人は相談の上、沢渡温泉に近い北向の斜面を借り受け、観音像を造立した。

北向第三十三番観音 (4)
馬頭観音の台座には、発願主や世話人、石工の名前が刻まれている。

現在も7月29日には久森前尻地区の方々により草刈りや掃除を行い、供養とお祈りを続けている(「お山刈り」と呼ぶ)。

北向の斜面に観音様が多数造立されているんだけど、全景を撮って来なかったので分かりづらいかも。

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富岡市下丹生の正寿山永隣寺。

永隣寺 (1)
永隣寺 (2)
永隣寺は永禄7年(1564年)、国峰城主・小幡信氏の開基と伝わる。

永隣寺 (3)
永隣寺 (4)
永隣寺 (5)
江戸時代に数度にわたり火災で全焼したが、明治30年(1897年)に再建されている。

永隣寺 (6)
永隣寺 (7)
境内に鳥居がありお堂のようなものがあったので、中を覗いたら何もなかった。何??

永隣寺 (8)
石段下に奪衣婆像があった。奪衣婆は、三途川の渡し賃である六文銭を持たずにやって来た亡者の衣服を剥ぎ取る老婆。亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされる。

生前に死後の裁きを軽くしてもらうよう、また身内で不幸があった時など、良い判決がくだされるよう、墓地の入り口に置いて拝んだといわれる。確かに、山門から境内へと墓地の分かれ道に鎮座している。

この奪衣婆像は帽子や肩掛けを付けており(檀家の方が付けたのかな?)、遠目からは本当にお婆さんが腰かけているように見えた。

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安中市下秋間の聖不動威怒明王(しょうふどういぬみょうおう)。

聖不動威怒明王 (1)
桂昌寺14世・乾海和尚が元禄13年(1700年)に寺領に十三仏を造立。その1番・聖不動威怒明王をこの地と定めた。ここは昔より良水があり、動物・鳥類が傷ついた体を休めるようになり、聖不動威怒明王像を奉安したのが始まりという。

また、古老の夢に不動明王が現れ、お告げに従い崖崩れで埋まった同不動を見つけ、現在の場所に移したとも伝えられている。

聖不動威怒明王 (2)
聖不動威怒明王 (3)
聖不動威怒明王 (4)
聖不動威怒明王像は秋間石造りで、元禄13年と桂昌寺14世・乾海和尚の銘がある。

近年には参拝すると「病まずにポックリ逝ける」と、お年寄りらの口コミで広まり、参拝に訪れる人が多い。

どういう経緯で「ぽっくり不動」と呼ばれるようになったかは不明。

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安中市鷺宮の聖観音碑。

聖観音碑 (1)
聖観音碑は安山岩の中央に自在観音、右下に勢至観音、左下に普賢観音の観音三尊が半肉彫りされている。造立年や造立者は不明だが、その特徴から鎌倉時代、もしくはそれ以前と考えられている。

聖観音碑 (2)
高さは180cm、下部幅66cm、中央幅75cm。地元では「おびんづる様」とも呼ばれ、崇拝されている。

江戸時代、碑の裏面を上にして近くの川(丸子沢)の橋として使われていたという。しかし馬に乗ったまま渡ろうとすると、必ず馬が暴れ落馬するので、村人が改めると観音三尊が彫られていることが分かったので、洗い清めて現在の場所に祀られたといわれている。

そう言えば、世界遺産への登録を目指している金井沢碑(上野三碑のひとつ)も、江戸時代に農家の洗濯石として使われていたというから、こういうことはよくあったのかもしれない。(「上野三碑 -金井沢碑-」参照)

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富岡市南後箇の額部神社。

額部神社 (1)
額部神社 (2)
額部神社の創建は不明だが、小幡藩歴代藩主の崇敬を受け、祭祀料などの寄付を賜っていた。

明治42年(1909年)に岡本・岩染・南後箇の諸社を合祀し、染箇岡神社となる(地名を一字ずつ取った)。その後、明治45年(1912年)野上の諸社も合祀し、現在の額部神社となる。

額部神社 (3)
額部神社 (4)
額部神社 (5)
額部神社 (6)
ご祭神は学問の神である菅原道真。地元受験生には人気のスポットらしい。とは言え、絵馬などが飾ってあるでもなし。

額部神社 (7)
額部神社 (8)
建治2年(1276年)建立の石造地蔵菩薩像。像の頭光背の上部が斜めに欠けているが、半肉彫の地蔵菩薩は完形で残っている。

鎌倉時代の特徴をよく表しており、また群馬県内最古の半肉彫石造地蔵である。

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富岡市岡本の西方寺。

西方寺 (1)
西方寺 (2)
西方寺 (3)
西方寺 (4)
西方寺の由緒は不明。

西方寺 (5)
元応2年銘と貞治2年銘の板碑。両板碑とも石材は地元の点紋緑泥片岩

西方寺 (6)
鎌倉時代末、元応2年(1320年)の建立。上部が割れて(欠けて)いるが、高さ242cmを誇る。群馬県内で2番目に大きい。

西方寺 (7)
南北朝期、貞治2年(1363年)の建立。大日如来が刻まれている。貞治は北朝の年号。

富岡から甘楽、下仁田にかけて北朝の勢力下にあったのか、意外と北朝方に縁故のものがある。
 富岡・光厳寺(北朝初代・光厳天皇の開基)
 下仁田・貞治6年銘の板碑
 甘楽・観応元年の五輪塔(庭谷の五輪塔)

西方寺 (8)
門前の「力士 桺川子之吉の碑」。地元出身の力士なのか、調べても分からなかった。

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富岡市星田の虚空蔵堂。

星田虚空蔵堂 (1)
星田虚空蔵堂 (2)
星田虚空蔵堂 (3)
虚空蔵堂は岩棚の山の中腹にある「満願窟」に包み込まれるように建っている。本尊が何でも願いをい叶えてくれることから「満願虚空蔵菩薩」と呼ばれているので、「満願窟」と言われている。

星田虚空蔵堂 (4)
お堂と岩の隙間から裏側に入ることができる。

星田虚空蔵堂 (5)
堂内に虚空蔵菩薩像は安置されていない。通常は近くの伝宗寺に安置されており、年に1度(例祭:1月第3日曜)お堂に移されご開帳される。

仁寿4年(854年)に慈覚大師が当地を訪れたところ、田んぼの井戸から星が出て、このお堂の場所まで飛び菩薩が現れたと伝えられている。慈覚大師がその菩薩像を彫り、岩窟に安置したという。星田という地名の由来でもある。

ちなみに慈覚大師は入唐八家のひとり。唐に留学した高僧ということ。他には最澄や空海が数えられている。

星田虚空蔵堂 (7)
境内にある名号塔。宝暦13年(1763年)妙善法尼の建立。芝増上寺の大僧正・佑天上人の自筆の名号を刻んでいる。宝暦13年は佑天上人の没後45年目。高さ273cmと大型で、石材は「満願窟」と同じ凝灰岩製。

何でも叶うなら、来年は参拝してみようかな。

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甘楽郡甘楽町天引の笠塔婆。
以前紹介した笠塔婆と同じ天引地区にある。(「甘楽町・天引の笠塔婆と板碑」参照)

笠塔婆 (1)
笠塔婆は地元で産出する天引石(砂岩)で造立されている。総高174cm(基礎高62
cm、塔身高105cm、笠石高7cm)、幅は塔身下部で40.5cm、上部で36.5cm、厚さ21cmの扁平角柱状である。

笠塔婆 (2)
塔身正面を輪郭線で囲み、その中の上部中央の蓮坐上に阿弥陀如来、向かって右下に観音菩薩、左下に勢至菩薩の阿弥陀三尊種子を刻んでいる。その中央下に正安元年(1299年)の銘があり、これは群馬県内で3番目に古い笠塔婆である。

さらに塔身向かって右側面下部に不動明王、左側面に愛染明王の種子が薬研彫りで刻まれている。

平成6年(1994年)に笠塔婆の崩落を防ぐため保存修理等が実施されている。風化を防ぐためには覆屋も付けた方がいいね。

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伊勢崎市上蓮町の阿弥陀・地蔵石仏。

上蓮の阿弥陀・地蔵石仏 (1)
上蓮の阿弥陀・地蔵石仏 (2)
蓮座に座して通肩の法衣をまとい、弥陀の定印を結ぶ阿弥陀如来像。その右上方に同じく蓮座に座して、錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩像。右下方には合掌する男女像の計4体が彫られている。下部を台座として、他の部分は光背としている。

角閃石安山岩製で高さは66cm。室町中期の造立と考えられている。

阿弥陀如来は極楽浄土で来世の利益を授け、地蔵菩薩は六道の衆生を救済する功徳があるとされる。この両方の信仰が融合していたことを示す石仏である。

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前橋市大前田の地蔵菩薩石像。

大前田の地蔵菩薩石像 (1)
大前田の地蔵菩薩石像 (2)
前橋市のHPにも現地にも解説・案内などがなく、由緒も含めて何も分からない。ただ、石像が傾いてるなぁ~との印象。

この地蔵菩薩石像は前橋市の重要有形民俗文化財に指定されているんだから、何か解説板くらい立てて欲しいところだ。大前田町は前橋市と合併する前は勢多郡宮城村なので、宮城村の文化財指定を前橋市が引き継いだと思われるが・・・。

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藤岡市保美の地蔵菩薩石像。

保美地蔵尊 (1)
保美地蔵尊 (2)
地蔵菩薩石像の由緒は不明だが、隣に建っている石塔に天保(1830~44年)の銘が見えたので、同時代あたりか?

保美地蔵尊 (3)
保美地蔵尊 (4)
この地蔵菩薩石像は、地元では「子育て地蔵尊」と慕われており、毎年1回のお祭り(3月)には多くの方が参拝に訪れる。特に子供が生まれた、孫が生まれたなど、報告がてらお参りにくるようだ。

写真では見えないが、地蔵尊の前掛けや帽子は地元の方の手作りで、奉納者のお名前があった。聞いたところでは、曾孫さんが生まれたお祝いだという。

地蔵菩薩は「最も弱い立場の人々を最優先で救済する菩薩」であることから、日本における民間信仰では「子供の守り神」とされる。

保美地蔵尊 (5)
地蔵尊の隣には庚申塔、二十二夜塔などが建っている。最初に書いた天保の銘がある石塔は、真ん中の二十二夜塔。二十二夜塔には如意輪観音が刻まれている。

二十二夜塔は、二十二日の夜に人々が集まり勤業や飲食を共にし、月の出を待つ行事を行った講で、その供養のために造立するた塔のこと。月を拝みながら経を唱え、悪霊を追い払うという行事。一般的には二十三夜講が多いが、埼玉県北西部から群馬県にかけては二十二夜講が多い。

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前橋市富田町の宝塔。

富田の宝塔 (1)
富田の宝塔は輝石安山岩製で、総高205.9cmの相輪・笠石・塔身・基礎からなり、室町時代初期の特徴を示している。

富田の宝塔 (2)
相輪の請花には蓮弁が陰刻されている。相輪は上から宝珠、竜車、九輪、請花・伏鉢、露盤。塔身は上部が太く、下部に行くにしたがって細くなる亀型となっている。

宝塔は一般的には赤城塔といわれ、県内では赤城南麓(前橋市、旧勢多郡、桐生市方面)に多く分布している。

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高崎市倉渕町三ノ倉の三倉山全透院。

全透院 (1)
全透院 (2)
全透院は延徳元年(1489年)木部新九郎の開基と伝わる。木部氏は応永(1394~1427年)から永正(1504~20年)の始めまで三ノ倉地方を支配していた。

その後、大戸(現、東吾妻町)を拠点とする浦野氏に支配が代わり、大永2年(1522年)に浦野重勝が堂宇を建立し、長年寺5世・紹舜を招き中興開基している。全透院は浦野重勝の法名「青霄院関翁全透居士」にちなんでいる。

全透院 (3)
全透院 (4)
重勝の子・重成、重次は武田氏に従い倉渕地方を支配している。そのためか、本堂の屋根には武田菱が掲げられている。(アップの写真を撮ってくるのを忘れた・・・)

全透院 (5)
本堂隣の地蔵堂。堂内には室町初期の造立と推定される延命地蔵像が安置されている。地蔵堂は全透院の前身の寺であったと考えられる。

全透院 (6)
墓地の入口にある閻魔大王と奪衣婆像。

全透院 (7)
全透院 (8)
全透院 (9)
境内には十三仏霊場があった。十三仏は冥界の審理に関わる13の仏で、13の追善供養を司る仏としても知られている。

ちなみに十三仏は、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来、阿閦如来、大日如来、虚空蔵菩薩。

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伊勢崎市境小此木の小柴山福寿院宝存寺。
院号の福寿院で通っている。

宝存寺 (1)
宝存寺は延長4年(926年)独朗日円の開基、開山は法印宗順と伝えられている。元徳3年(1331年)小此木長光の祈願所となっている。

上記は門前の案内板の内容だが、同じ旧境町にある瑳珂比神社の由緒では、小此木長光が天文15年(1546年)に石動明神の分霊を境城内に勧進したとある。
(「石剱稲荷大明神 -瑳珂比神社-」参照)
小此木長光の年代が200年も違うけど・・・。

宝存寺 (2)
宝存寺 (3)
鐘楼門は徳川時代中期の建造。

宝存寺 (4)
宝存寺 (5)
堂宇は文政年間(1818~30年)に焼失したが、嘉永6年(1853年)に再建されている。嘉永6年と言えば、ペリーが黒船でやってきた年。平成に入り改修されている。

宝存寺 (6)
旧境町最古といわれる宝篋印塔と五輪塔。宝存寺創建時からのものといわれる。ただし案内板がなかったので、違っていたら失礼。

当初は瑠璃久山という山号だったが、明治43年(1910年)に小柴山観音寺と合併し小柴山の山号となっている。

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前橋市千代田町3丁目の熊野神社。

熊野神社 (1)
熊野神社 (2)
熊野神社の創建は不詳だが、出雲の八束熊野からの勧請といわれる。熊野神社に願をかけると必ず成就すると、厚い信仰を集め「恩熊野様」と崇拝されてきた。この「恩熊野様」が子どもたちには「おくまんさま」と聞こえたため、「おくまんさま」と称され親しまれてきた。

熊野神社 (3)
熊野神社 (4)
熊野神社 (5)
社殿は太平洋戦争中に焼失したが直後に再建。しかし平成4年(1992年)台風により奥の院が崩壊。それを機に社殿を大修復している。

拝殿の西壁面には、八咫烏御影石がはめ込まれており、触れれば運気が取りこまれるという。古来より「開運の扉」として崇められている。

熊野神社 (6)
境内東側には三つ足八咫烏石がある。八咫烏は幸運を導く太陽の中にいるとされる神の使者である。平成4年(1992年)の台風で奥の院が崩壊し、その再建時に基礎石の中に三つの足跡のある石を発見し、開運の証として祀ったもの。

熊野神社 (7)
そう言われると烏の足跡が三つあるように見えなくもないが・・・。

熊野神社 (8)
熊野神社 (9)
社殿のすぐ右手にある笠欠け三猿塔。奉納時(江戸時代と推定)は笠をかぶっていたが、空襲の爆風により笠を失った。戦果を避け神社境内に避難していた人々の身を守ったと伝えられている。

熊野神社では昭和49年(1974年)から大酉祭が行われている。かつて大酉祭は、現在の前橋スズランの場所にあった小石神社にて行われて、商売繁盛を願う市として糸商人をはじめ商店街が賑わっていた。小石神社は昭和46年(1971年)に敷島公園西に移転し、大酉祭は熊野神社に引き継がれ現在に至っている。

大酉祭は、初市祭り・七夕祭り・前橋祭りと並ぶ前橋4大祭りのひとつといわれる祭りであり、当日は熊手や縁起物などを売るたくさんの露店が並び、多くの参拝客で賑わう。

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前橋市鳥羽町の大日如来像と笠塔婆。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (1)
鳥羽の大日如来および笠塔婆 (2)
前橋市の重文である大日如来坐像と笠塔婆は、鳥羽町の東部公民館の敷地内にある。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (3)
大日如来坐像は一石で彫刻された大日如来の舟形石造坐像で、頭部に宝冠をいただいている。後部の舟形状の光背上部が欠けてしまっている。比較的顔幅が広く、ふくよかな体躯をしている。鎌倉時代中期ごろの造立と推定されている。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (4)
笠塔婆と言うが、笠は失われており塔身のみが残る。角閃石安山岩製で、正面に光背をかたどった薬研彫りの中に阿弥陀三尊坐像を彫刻している。中尊は三日月状の台座に座り、右脇侍は観音菩薩の坐像、左脇侍は合掌する勢至菩薩の坐像。鎌倉時代後期の造立と推定されている。

鳥羽の大日如来および笠塔婆 (5)
鳥羽の大日如来および笠塔婆 (6)
鳥羽の大日如来および笠塔婆 (7)
同所には、淡島様石塔、青面金剛像や石仏などが多数ある。他所からここへ集めたものと思われる。

露天に置かれているため、大日如来坐像も笠塔婆も風化が進んでいる。覆屋を作るなどして、保護した方がいいと思う・・・。

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前橋市鳥羽町の青雲山大福寺。

大福寺 (1)
大福寺 (2)
大福寺は応永元年(1394年)徳海上人の開山。広大壮麗な七堂伽藍を有していたが、兵火などで焼失し一時荒廃した。その後、天文3年(1534年)義照法印により再興された。

大福寺 (3)
大福寺 (4)
参道にある千体地蔵。昭和50年(1975年)の建立。

大福寺 (5)
同じく参道に鎮座する「無限の幸せを招く小僧さん」。この小僧さんは知恵袋小僧と言い、小僧さんの頭を3回なでて、続いて自分の頭を3回なでると、ありがたい後利益を授かるというもの。得られるものが「無限の幸せ」と言うから凄い。

大福寺 (6)
大福寺 (7)
本堂は昭和50年(1975年)の再建。

大福寺 (8)
境内にある宝塔。安山岩製の壺型塔身の宝塔で、応永25年(1418年)の銘がある。塔身のくびれ部が長く、屋蓋の軒きり口の幅がほほ同じであることなど、この時代の特徴をよく示している。ただし相輪(屋蓋の上部)は、この宝塔のものではない。

大福寺 (9)
伝教大師・最澄の東国巡錫の像。平成3年(1991年)の建立。

大福寺は関東百八地蔵尊霊場の第24番札所である。

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藤岡市藤岡の応永の板碑。
山崎神社の社務所脇の阿弥陀堂内に安置されている。
(「藤岡市山崎地区の鎮守様 -山崎神社-」参照)

応永の板碑 (1)
応永の板碑 (2)
この板碑は室町時代初期の応永4年(1397年)の造立。梵字で刻まれた阿弥陀三尊像、緑泥片岩製である。阿弥陀如来を中尊とし、その左右に勢至菩薩、観音菩薩を配する三尊形式。

ちなみに、観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」を表す化身、勢至菩薩は「智慧」を表す化身とされている。

板碑は元々は山崎神社東側の民家の敷地内にあったもので、昔から地元で「薬師様」として信仰されていた。他の板碑(いづれも室町期前後といわれる)と合わせ、平成8年(1996年)に阿弥陀堂を建立し保存・安置している。

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藤岡市牛田の真道山医光寺。

医光寺 (1)
医光寺は元和元年(1615年)僧・真海の開山。山門は昭和55年(1980年)の改築。

医光寺 (2)
医光寺 (3)
医光寺 (4)
本堂は平成12年(2000年)に屋根替えを行っているようだ。替える前の瓦が境内にあった。

医光寺 (4)
医光寺 (5)
医光寺 (6)
薬師堂には、その名の通り薬師如来が祀られている。

医光寺 (7)
医光寺 (8)
この板碑は鎌倉時代末の延慶3年(1310年)の建碑。上部に阿弥陀三尊種子、中央に阿弥陀賛仰の旬があり、16人の発願により建立されたことが記されている。高さ253cm、幅52cm、厚さ6cmで、秩父産の緑泥片岩製。藤岡市に現存する板碑の中で最大である。

明治時代の末に神流川の土中から発見され、医光寺に移されたという。昭和41年(1966年)に台風による倒木のため倒れ、上部90cmのところで折れてしまったが、昭和44年(1969年)に修復されている。

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伊勢崎市上植木本町の長久山正観寺。

正観寺 (1)
正観寺 (2)
正観寺 (3)
正観寺の由緒はよく分からなかった。

正観寺 (4)
門前にある義経馬殿塔。
源義経が奥州へ逃れる途上、赤堀の粕川を渡る際に折からの洪水により義経愛馬が流されてしまった。この愛馬を厚く葬って建てた塔である。江戸時代初期に正観寺門前に移されたという。

ところで、塔の脇にあった手書きの説明板には、この経緯を正安2年と書いてあったが、正安2年は西暦1300年で、明らかな間違いである。正しくは文治2年(1186年)。赤堀辺りに着いたのは文治3年(1187年)と考えられる。とは言え、このエピソード自体が・・・だけど。

正観寺 (5)
正観寺 (6)
正観寺 (7)
境内には七福神、不動明王や慈母観音など、多数の石像が鎮座していた。

伊勢崎市には多くの義経ゆかりの地がある。まあ、伝説の域をでない物ばかりだが、今後行ってみようと思う。

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伊勢崎市戸谷塚町の浅間山大噴火の供養地蔵。

夜泣き地蔵 (1)
天明3年(1783年)の浅間山の噴火時、被災した人々が吾妻川から利根川へ流された。利根川沿いの戸谷塚村にも多くの遺体が打ちあげられた。村の人々は気の毒に思い、遺体を埋葬し霊を弔った。

夜泣き地蔵 (2)
しかし、夜な夜な墓からすすり泣く声が聞こえてくるので、無念の死を遂げた人々の霊を慰めようと天明4年(1784年)地蔵を建立した。すると鳴き声はしなくなったという。

それからというもの地蔵の赤いおかけを借りて、泣き癖のある赤ん坊につけると泣き癖が直るという。

夜泣き地蔵 (3)
供養施設の後ろの松は、高松宮殿下の手植えとのこと。昭和37年(1962年)とあった。高松宮宣仁親王は大正天皇の第三皇子。昭和天皇の弟宮である。「手植え」ということは、高松宮殿下が現地までいらっしゃったということ。

戸谷塚町と嬬恋村鎌原地区とは、現在も交流がある。鎌原地区の方々が、この夜泣き地蔵を訪れ「先祖が世話になった」と参拝していくという。

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甘楽郡下仁田町馬山安楽地の板碑。

安楽地の板碑 (1)
安楽地の板碑 (2)
馬山安楽地のお堂の中にある板碑は、碑高125cmで緑泥片岩に薬研彫りしてあり、種子も蓮座の連弁・蓮実もはっきりしていて美しい。下仁田町内の板碑では一番大きく形態的にも整っている。

この板碑の尊守は阿弥陀三尊で、製作年は貞治7年(1368年)とある。下仁田町では最も古い板碑である。

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みどり市笠懸町阿佐美の日輪山南光寺。

南光寺 (1)
南光寺は鎌倉時代に弘法大師がこの地に巡錫され、行基作の白衣観音菩薩を本尊として創建したといわれる。その後、慶長年間(1596~1615年)に赤石永真が中興している。

赤石氏は新田岩松氏の家臣であったが、岩松氏が横瀬氏(由良氏)の下克上により没落した後、当地に土着したものと考えられる。

南光寺 (2)
本堂は明治22年(1889年)に焼失、同26年(1893年)に再建されている。間口六間入母屋造りで瓦葺である。

南光寺 (3)
南光寺 (4)
南光寺 (5)
弘法大師蔵が安置されている大師堂。

南光寺 (6)
門前に五輪塔が3基ある。中央のものは、さんのう塚(古墳)から昭和56年(1981年)に移設。水輪に石仏が彫られており、鎌倉時代の造立と推定される。ちなみに、さんのう塚は現在水田になっている。他の2基も他所からの移設。

建武2年(1335年)護良親王に仕えた南方(みなみのかた)が入山したとされる。南方は護良親王が足利尊氏の弟・直義に殺害された後、新田氏を頼って当地に来、親王の菩提を弔ったといわれる。そのため、南光寺となったと考えられる。

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太田市藪塚町の西野の層塔及び残片。

西野の層塔 (1)
西野の層塔 (2)
2基の層塔が残っているが、残片も含め相輪部2・笠部7・基壇2あるため、実際は2基以上のものが混在しているものと考えられ、正しい組合せは不明のようだ。

製作年代は、凝灰岩を使用していること、屋根部の稜線と軒端の反りが少ないこと等から、鎌倉時代中期のものと考えられてる。

この塔についての由来は一切不明だが、有力氏族の供養塔と考えられている。近くには「伝・藪塚氏の墓」もあることから、藪塚氏との繋がりのある関係者といったところか。

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太田市藪塚町の白髯山西福寺。

西福寺 (1)
西福寺 (2)
西福寺 (3)
西福寺は寛文年間(1661~73年)の創建と伝わる。雰囲気的に現在は無住のようだ。

西福寺 (4)
西福寺 (5)
地蔵堂に安置されている赤子地蔵。台座・光背・本像が一石造りの石造地蔵菩薩像で、高さ71cm、幅51cm。安山岩製で、加工技術から室町期の作と考えられる。旧薮塚本町では最も古い地蔵像である。

赤子地蔵は西福寺の東の丘陵(通称「地蔵が窪」)に埋まっていたのを掘り出し、当寺に祀ったといわれている。

赤子地蔵の名前の由来は、子どもの夜泣きなどを治すといわれていることから、名付けられたという。また地蔵が窪を「赤子山」という伝承もあり、そこにあった(埋まっていた)ことから赤子地蔵という説もあるようだ。

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佐波郡玉村町南玉の文安銘の五輪塔。

文安銘の五輪塔
原家の墓地にある五輪塔2基。室町時代の文安の銘がある。夫婦の墓と思われ、夫が文安5年(1448年)、妻が文安6年(1449年)と記されている。妻の五輪塔には「逆修」とあるので、妻が生前に亡夫の五輪塔と一緒に建てたと考えられる。

火輪が反り、軒端が斜めに切られ内に入り、水輪が横に広く、地輪が横長など、室町期の特徴を示している。玉村町内で最も古く、また県内でも珍しい五輪塔。

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甘楽郡甘楽町天引の笠塔婆と板碑。

甘楽町・笠塔婆 (1)
笠塔婆とは上部に笠石を載せた卒塔婆で、板碑と同じ意味を持つ供養塔であると考えられる。県内でも20基程が確認されているが、同所にまとまってあるのは珍しい。

甘楽町・笠塔婆 (2)
笠塔婆と板碑は4基とも地元で産する天引砂岩で造られ、笠塔婆は東向き、板碑は南向きに建立されている。高さはみな110cm前後で、すべてに正安4年(1302年)の銘がある。

笠塔婆・板碑の塔身正面には、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩の阿弥陀三尊種子を表す梵字が薬研彫りで刻まれている。また、向かって左から2番目と3番目の笠塔婆には、塔身左右側面に五輪塔発心門を表す梵字も刻まれており、阿弥陀三尊種子と発心門を示す梵字が刻まれている笠塔婆は、県内ではこの2基のみである。

平成6年(1994年)に笠塔婆の崩落を防ぐために保存修理が行われ、覆屋も構築されている。

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前橋市茂木町の大日山龍性寺。

龍性寺 (1)
龍性寺は承久2年(1220年)に文覚上人が奥羽巡錫のおり当地に立ち寄り、上人自ら刻した大日如来像を本尊とし創建したとされる。

文覚上人は元武士で、19歳で出家し仏門に入っている。ただ、文覚上人は建仁3年(1203年)に死去したとされており、龍性寺創建年とは少し合わない。

龍性寺 (2)
龍性寺 (3)
文久3年(1863年)に火災に遭い堂塔・什器・古記録類を焼失。現在の本堂の建立年は不明だが、近年の再建のようだ。本堂には本尊の阿弥陀如来を祀る。先に書いたように創建時の本尊は大日如来。文久3年の火災後、変わったと推定される。

龍性寺 (4)
龍性寺 (5)
境内にある石幢。総高2mで幢身から宝珠まで完全な形で残っている。円柱状の幢身に六角形の中台を乗せ、その上に六角柱の1面に1体ずつ6体の地蔵が彫った龕部を乗せている。江戸時代中期のものと推定される。

石幢の名称の起こりは、寺の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、ここからきたものといわれている。幢幡を6枚または8枚組み合わせてかけている様子を、石造物で表現したものが石幢である。

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太田市新田木崎町の木崎宿色地蔵。

木崎宿色地蔵 (1)
木崎宿色地蔵 (2)
木崎宿色地蔵は高さ73cmの石地蔵尊で、風邪のはやる季節に亡くなった子ども達の霊を慰め、子ども達の成育を祈願して建立されたといわれている。

台座には施主名などとともに寛延3年(1750年)の銘が刻まれており、平成13年(2001年)に改築された茅葺のお堂に安置されている。

江戸時代の木崎宿には飯盛売女が多数おり、女たちは前借年季奉公で遠出が制限されていたことから、宿はずれのこの地蔵様によく参詣していた。そのため「色地蔵様」と呼ばれるようになったといわれている。

木崎音頭には
「木崎下町の三方の辻に、お立ちなされし石地蔵様は、男通ればニコニコ笑い、女通れば石持て投げる、これがヤー本当の、色地蔵様だがヤー」
と唄われている(らしい)。

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