カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆
あ・うん石仏 -馬場稲荷神社-
前橋市馬場町の稲荷神社。

馬場稲荷神社の由緒は不明。



一の鳥居の扁額には「稲荷大明神」「雷電王」「山神十羅刹」、二の鳥居には「天王宮」。天王宮は後から合祀されたときに、元の鳥居を持ってきたのだろう。



拝殿と本殿。

鳥居の東側にある「あ・うん石仏」。2体で「阿形」「吽形」を表している。風化が進んでいるのとコケが覆っており分かりずらいが、向かって右が阿形、左が吽形と思われる。


馬頭観音。三面六臂で表情は憤怒相で表されている。手には剣や蓮華などを持ち、胸の前で印を結んでいる。台座に寛延4年(1751年)の銘がある。

馬頭観音の台座の脇にも馬頭観音がある。こちらは一面二臂。


お堂の中にはお地蔵さんなど、いくつかの石仏が納められている。前橋市の文化財に指定されているあ・うん石仏は露座なのに。どういうお地蔵さんなのだろう?
馬場稲荷神社の境内東側には多くの石仏・石像があるが、東隣にはかつて(江戸期)観音寺というお寺があったとのことなので、その名残かもしれない。
高崎市最大・最古の板碑 -妙典寺-
高崎市小八木町の慈雲山妙典寺。



妙典寺は久安元年(1145念)の秀存法師の開基と伝わる。

墓地の北側に鎌倉時代中期頃の板碑と五輪塔がある。

板碑は高さ215cm、最大幅58cm、厚さ9cmで緑泥片岩製。阿弥陀三尊を表す3個の梵字(種子)が薬研で彫られ、康元2年(1257年)の銘がある。高崎市に現存する板碑では最大にして最古である。

板碑の隣にある五輪塔は凝灰岩製で、板碑と同年代の造立と推定されるが、紀年銘が見られず不明。
ちなみに、高崎市で銘が残る最古の五輪塔は阿久津町・玄頂寺の康永2年(1343年)銘である。(「高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-」参照)
高崎市吉井町・馬庭の薬師堂
群馬県最古の笠塔婆 -安養寺跡の笠塔婆-
高崎市・本庄辻の地蔵尊
五料の地蔵さん -夜泣き地蔵-
安中市松井田町五料の夜泣き地蔵。

旧中山道沿いに建っているお地蔵さん。このお地蔵さんには逸話があり、夜泣き地蔵と呼ばれている。(写真1番右)
ある日、荷を運んでいた馬子が荷物のバランスを取るため、落ちていたお地蔵さんの首を荷に積み、深谷(埼玉県)まで行ったところで首を捨ててしまった。すると、夜な夜な「五料恋しや」と泣く声が聞こえるようになったので、首を五料まで戻してお地蔵さんに乗せたという。
この物語は「日本昔話」で「五料の地蔵さん」として放送されている。その際は、首だけ持っていったのではなく、お地蔵さんそのものを持っていったことになっている。主に子どもが観る番組なので、首というのはダイレクトすぎるので配慮したってことだね。


夜泣き地蔵の足下には、とれた首が置かれている。これが持っていかれた首なのか不明(お地蔵さんに首はあるので)だが、ちょっと怖い光景である。
光明真言金亀宝篋印塔 -安勝寺-
邑楽郡板倉町籾谷の光応山安勝寺。

安勝寺は昭和27年(1952年)に、光明山安楽寺と正応山最勝寺が合併してできた寺。
安楽寺は正長元年(1428年)僧・光尊の創建。最勝寺は承応年間(1652~54年)僧・光研の創建。
歴代住職の墓地にあった過去碑には、光尊が初代(開基)と記されていたので、寺名は安勝寺になっているが安楽寺の寺歴を引き継いでいるらしい。


安楽寺は慶応元年(1865年)に火災により堂宇を焼失。火災後、無住となっていた最勝寺の本堂と阿弥陀堂を安楽寺の境内に移築している。


最勝寺から移築された阿弥陀堂と阿弥陀如来木像。阿弥陀如来木像は寄木造りで、鎌倉から南北朝初期のものと推定される。群馬県内では数少ない「清涼寺式阿弥陀如来像」である。
「清涼寺式阿弥陀如来像」とは、髪の毛を縄を巻いたように表している如来像を一般的に言う。(何とか撮った写真では、まったく判別できない・・・)


梵鐘は宝暦4年(1754年)佐野の大河太郎兵衛と崎山五左衛門の鋳造。高さ99cm、口径76cmで、光明真言と仏具紋様が刻まれている。この仏具紋様の美術的価値が認められ、戦時中の供出を免れている。



通称「亀の子様」と呼ばれる金亀宝篋印塔。亀の上に宝篋印塔が乗せられている形になっている。
謂われは、寛文11年(1671年)に籾谷村の旱沼に光り輝く石亀が現れたたため、村人は八角形の大石で動けないようにした。その後、宝暦7年(1757年)の大雨の際に金色の光りを放ち石亀が再び動き出したため、光明真言を刻んだ宝篋印塔を石亀の上に置き、2度と動き出さないようにしたもの。
「亀の子様」にお祈りすると、百日咳に良く効くといわれている。
群馬県内最古の十王十仏板碑 -淨蓮院-
邑楽郡板倉町大曲の石水山淨蓮院。

淨蓮院の創建は不詳だが、開山の周應上人の位牌に寛永19年(1642年)とあるため、江戸初期と推定される。

現在の本堂は昭和11年(1936年)の改築。

境内の大日堂は、伝承によると日光東照宮建立に携わっていた宮大工が手がけたものとされている。大日如来像や不動明王像が安置されているらしいが、中は見えなかった。

大日堂前には板碑や石仏が並んでいる。後からここに集めたんだと思う。

十王十仏板碑。嘉暦元年(1326年)の銘がある。蓮台の上に不動明王、観音菩薩などの十仏の種子が刻まれている。群馬県内で最古の十王十仏板碑といわれる。

猿田彦命と天細女命(あめのうずめのみこと)の双体道祖神。両尊が銚子と盃を手にしている祝言像で、寛延2年(1749年)の銘がある。館林・邑楽地区に双体道祖神は少なく、板倉町では唯一のもの。
ちなみに、天細女命は天照大神が天岩戸に隠れてしまった時に、岩戸前で少しエロティックな踊りを踊った女神。一説に、猿田彦命と夫婦になったともいわれている。これが2神の祝言像になっているようだ。

大日堂が少し高いところにあるが、その横に滑り台らしきものがあった。昔から子供たちの遊び場だったんだろうね。(訪問当日は誰もいなかったけど)
建武の板碑 -大林寺-
千代田町・弘安の板碑
榛東村・御堀地蔵堂の板碑
下仁田町最古の宝篋印塔 -清泉寺-
甘楽郡下仁田町下仁田の安養山清泉寺。

清泉寺は、鎌倉時代の有力御家人・畠山重忠の弟である重俊が、兄の菩提を弔うために開山した。重忠の没年は元久2年(1205年)なので、この辺りの創建と思われる。

山門の天井絵。


現在の本堂は文政11年(1828年)の再建。


梵鐘は安永9年(1780年)、地元の鋳物師・太田長左衛門尉藤原順本によって鋳造された。高さ142.5cm、口径75cm。寺の概略と畠山家先祖の追福のために鋳造された旨、銘文が刻まれている。
鋳物師名として「太田長左衛門尉藤原順本」と下仁田町のHPに書かれているのでそのまま書いたが、これはどう解釈すればいいの?左衛門尉って官名(後世は受領名が多い)だと思うが・・・。それとも太田長左衛門と藤原順本の2人?


墓地にある宝篋印塔。この宝篋印塔は、基礎と塔身の間に須弥壇をかたどった軸部と中台を置く形式のもの。富岡・甘楽地域では唯一の須弥壇式宝篋印塔である。造立は明徳2年(1391年)で、下仁田町では最古の宝篋印塔。
ちなみに、明徳は北朝の年号。明徳2年は南朝では元中8年。富岡・甘楽地区に残る石塔は、そのほとんどが北朝の年号を用いている。この地区が北朝側の影響下にあった証拠である。
道元の典座教訓像 -宮昌寺-
北群馬郡榛東村広馬場の医王山宮昌寺。

宮昌寺は伝教大師(最澄)創建の船尾山坊のひとつ。養和元年(1181年)に千葉(平)常将により船尾山系が焼失した際、薬師如来がここの池に飛来したので、寺を建て祀ったのが始まりという。
関連
「空から飛来した観音様 -矢落観音-」
「五重塔がある! -柳沢寺-」
「平(千葉)常将を祀る -常将神社-」
当初は天台宗・真珠山医王寺といい、薬師信仰霊場として栄えたが、戦国期に荒廃。文禄2年(1593年)井伊直政が寺を再興。その後、寛永8年(1631年)に曹洞宗に改宗した際に、宮昌寺と改称している。

門前にある「道元禅師と老典座の出会い」像。道元とは曹洞宗の開祖、典座は食事を作る係(僧)。
道元 「如何ぞ行者、人を使はざる」
(なぜ若い者を使わないのか)
典座 「他は是れ吾にあらず」
(自分が与えられた仕事を他人に任せては、自分の修行にならない)
道元 「天日且つ恁のごとく熱し、如何ぞ恁地にする」
(炎天下でなぜそれほどなさるのか)
典座 「更に何れの時をか待たん」
(今を外して一体いずれの時を待つのか)
中国で修行中の若き道元が、老典座の自己に対する厳しい修行態度に深く感銘を受けたという逸話(だそうだ)。




楼門(仁王門)は平成17年(2005年)の建立。

通用門との表示があったが、旧山門かな。


本尊の釈迦如来を祀る。寺歴からすると薬師如来が本尊のような気もするが、戦国期荒廃した際寺宝は散逸したとされている。ちなみに、飛来した薬師如来像は行基作といわれる。

本堂脇に六角堂がある。位牌堂と思われる。

境内にある「穴薬師」。室町から江戸にかけての像立といわれる(時期が広いな)。丘の中腹にある洞穴内に祀られていたが、昭和57年(1982年)に境内に遷された。
ところで、道元の典座教訓像見て、仏教に詳しい訳ではないが「更に何れの時をか待たん」は真理だと思った。
富岡市最古の板碑 -仁治の碑-
富岡市下高尾の仁治の碑。

仁治の碑は高さ276cm、最大幅96cmの緑泥片岩製。仁治4年(1243年)の銘がある。富岡市最古の板碑で、県内でも3番目に古い。

上部に五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)と薬師如来を表す梵字が刻まれている。天台密教系の信仰に基づいている。
造立者として、「壬生・六人部(むとべ)・小野・藤原・春日・物部・大宅・安部」など20数人の名前が列記されている。これらの人物は当時の有力者と考えられ、当地の歴史を知るうえでも貴重な資料となっている。
甘楽町にある「仁治3年の板碑」と基本的に同一構成だが、こちらは県の重文指定。甘楽町は1年古いが、風化が進んでいるためか、甘楽町の重文とまり。
(「甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-」参照)
ちなみに、群馬県内の板碑では、前橋市・小島田の供養碑が仁治元年(1240年)で1番古い。甘楽町の仁治3年、この仁治4年と続く。
甘楽町最古の板碑 -仁治の板碑-
甘楽郡甘楽町小川の仁治の板碑。

仁治に板碑は、高さ348cm、幅83cm、厚さ9cmの緑泥片岩製で、仁治3年(1242年)の銘がある。甘楽町最古の板碑である。群馬県内でも2番目に古い。
ちなみに、甘楽町で2番目に古い板碑は、養学寺跡にある建長3年(1251年)銘の板碑。(「甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-」参照)

金剛界五智如来(大日如来、阿閦如来、宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来)を表す梵字が刻まれている。碑文から集団・結衆(仏と縁を結ぶ)によって建てられた碑と言える。
しかし風化が進んでおり、ほぼ判読できない。どうやら長い間、付近を通る鎌倉街道の石橋にされていた影響が大きいようだ。
貴重な板碑と認められ、現在地へ移転されたのは明治14年(1881年)になってからである。
なお、富岡市下高尾に「仁治の碑」(仁治4年:1243年)と呼ばれる五智如来と薬師如来を表す梵字を刻んだ板碑があるが、別の板碑なのでお間違えないように。
ちなみに、富岡市の「仁治の碑」は状態も良く(梵字も判読できる)、群馬県の重文になっている。まだ行ってないので、そのうちにでも。
甘楽町で2番目に古い板碑 -建長の板碑-
甘楽町・城町下薬師堂の石仏
甘楽郡甘楽町小幡の下薬師堂の石仏。

織田氏が小幡に陣屋を置いたころから、上薬師・下薬師として城内の信仰を集めていた。ここは下薬師。高さ15cmほどの小さい石仏が多数奉納されている。また、堂内の石仏3体(鎌倉~室末期)が甘楽町の重文に指定されている。

向かって右側の座像は天引石製のため風化が進んでおり、仏種は不詳(薬師如来?)。高さ40cm、幅32cm、厚さ18cm。この石仏は上薬師から遷されたといわれている。
中央に置かれているのは安政5年(1858年)銘の薬師如来と思われる。(これは重文ではない)
左側は観音菩薩坐像で、天引石製、高さ45cm、幅35cm、厚さ19cn。頭部が欠損しているうえ風化が激しい。
薬師堂内に重文の石仏が3体あると調べて行ったのだが、配置からこの3体を重文の石仏と勘違いしてしまった。実は観音菩薩坐像のさらに左側に重文の地蔵菩薩坐像があったらしい。ちなみに地蔵菩薩坐像は安山岩製で、高さ29cm、幅36cm、厚さ19cm、頭部が欠損してしまっている。
今思えば、観音菩薩の左に頭部が欠損した石仏があったような気もする・・・。
言い訳をすると、薬師堂の前の道が狭く、車を停めて見学していると近所の方の車が来て見学中断・車移動、というのを2回繰り返し、落ち着いて見てられなかったんだよね。
天引石の阿弥陀三尊 -今宮寺-
館林市・日向義民地蔵
館林市日向町の義民地蔵。


徳川綱吉が館林藩主だった時代、役人が「目こぼれ」と称し年貢米一俵が三斗五升のところを一斗余分に徴収するという事件が起こった。これに対し、小沼昌左衛門、森尻右馬上允、栗原四郎兵衛、小沼久四郎、栗原三左衛門ら18名の名主たちが代表となって藩に申し立てを行った。
しかし役人に聞き入れられなかったことから、江戸へ上がり藩主に直訴を行った。これにより農民救済の願いはかなったが、直訴は死罪のため18名は捕えられ、延宝4年(1676年)日向刑場において処刑された。
その後、元禄17年(1704年)農民の犠牲となって処刑された18名への報謝の意を込め、その冥福を祈るため地蔵尊が造られ供養された。以後「義民地蔵」と呼ばれている。
ここは日向刑場跡である。館林藩の刑場が天和・貞享(1681~87年)のころ当地(日向村)から青栁村へ移されたため、刑場跡地に地蔵尊を建てることが可能であった。
館林藩では本事件のすぐ後の享保3年(1718年)にも「館林騒動」と呼ばれる直訴事件が起こっており(当時の藩主は松平清武)、藩としての統治能力がかなり低かったと考えられる。
関連
「館林騒動・三義人の供養塔 -教学院-」
「志士之碑(竹岸武兵衛の顕彰碑) -神光寺-」
旧薮塚本町最古・最大の五輪塔 -新井家の五輪塔-
太田市藪塚町の新井家の五輪塔。

新井家の墓地内にある凝灰岩製の五輪塔。空輪、風輪は欠落しており、他の石材で代用されている。空輪を除いた高さは85cm。火輪、水輪は三分の一ほど欠損していたが、昭和60年(1985年)に風化を防止する化学処理をした際に復元している。
五輪塔は火輪の直線的な稜線、軒端の垂直に近い切り口、水輪の膨らみなどから鎌倉初期のものと考えらる。旧藪塚本町に現存する五輪塔では最古・最大のものである。
新井家は新田義重の曾孫・荒井覚義の末裔と考えられる。ちなみに、荒井覚義の兄・新田政義は鎌倉時代に新田氏が没落するきっかけを作った人物である。
ちょっと話が逸れるが・・・。
政義は寛元2年(1244年)京都大番役時に、幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心し、断られると今度は幕府に無許可で勝手に出家し幕府への出仕を拒否してしまった。妻の実家である足利氏の取り成しがあったから、所領総没収にはならなかったが、これにより新田氏の没落は決定的となってしまった。
まあ、政義の心中を代弁すれば、源氏の本宗家は既になく(実朝は建保7年:1219年に暗殺されている)、「北条ごときが大きな顔しやがって。オレは源氏の本流だ!」って感じだったんだと思う。
4代後の義貞が鎌倉幕府を滅ぼし、新田氏が世に再浮上したのは、これから約90年後のことである。
桐生市・栖松寺の石幢
太田市・中江田の辻地蔵尊
太田市・旧来迎寺の宝篋印塔
太田市新田中江田町の旧来迎寺の宝篋印塔。

安養山来迎寺は明治元年(1868年)の火災により焼失し、寺は800m北へ移転され墓地だけが残っている。
その墓地に応安3年(1370年)の銘がある宝篋印塔が建っている。相輪・塔身は他の石造物の石材を使っているが、他の部分は残り、基礎の4面には銘文が刻まれている。銘文には宝篋印塔を造立した18人の僧侶の名前が刻まれている。
当時(南北朝期)は岩松氏が新田荘を治めていたため、北朝側の年号が刻まれていると思われる。岩松氏は足利氏と新田氏の両方と姻戚関係にあったので、その立場を上手く利用し足利氏から新田荘領有を認めさせ、さらに新田氏の惣領職も奪い栄えていく。
ついでに、戦国時代になると家臣の横瀬氏(後の由良氏)に下剋上され没落している。
太田市新田木崎町・旧常楽寺の石塔群
太田市新田木崎町の旧常楽寺の石塔群。
紫雲山常楽寺はもともと当地にあったが、明治25年(1892年)に連蔵寺、円通寺と合併し上田島町に移転し、墓地だけが元の場所に残っている。
(現在の常楽寺は「花の寺 -常楽寺-」参照)

墓地内の五輪塔3基、宝篋印塔3基が太田市の重文に指定されている。


五輪塔1基には延文4年(1359年)の銘がある。他の2基も同時代の造立と考えられる。宝篋印塔3基には暦応4年(1341年)、康永3年(1344年)、貞和2年(1346年)の銘がある。
いずれも北朝の年号であり、当時新田荘が足利氏の勢力圏となっていたことを示している。
ところで、上の写真でも分かるように、真ん中の宝篋印塔(貞和2年銘)の塔身上部が欠け落ちてしまっている。自然崩落なのか、いたずらなどによる破壊なのか分からないが・・・。康永3年銘の宝篋印塔もだいぶ傾いている。何か手をうった方がいいと思うぞ。
太田市の文化財課はこのことを知っているのか?
伊勢崎市・上西根の五輪塔
田植え地蔵 -禅定院-
沼田市白沢町尾合の利法山禅定院功徳寺。

禅定院は承和14年(847年)慈覚大師(延暦寺第三代座主)の開創と伝わる古刹である。

参道入り口にある宝篋印塔。銘文に廻国供養の意をなし、明和4年(1767年)佐野村(現在の高崎市)大心によって建てられたとある。高さ3.5mで白沢地区内を代表的する宝篋印塔。

山門は沼田城の東門を移築したと伝わる。大正13年(1913年)落雷により本堂や庫裏を焼失したが、山門は類焼を免れている。


本堂は昭和48年(1973年)に片品村の梁讃寺の本堂を移築したもの。外観が比較的きれいなので、最近改修しているようだ。
ご本尊は延命地蔵。慈覚大師が作った石彫りという。(見てない)別名「田植え地蔵」という。これには謂れがあって、田植え時期に農家の手伝いをする男が現れ、村人が後を付けてみると禅定院の門あたりで消えてしまった。和尚さんに聞くと、田植えの時期にご本尊によく泥が付いているのを不思議に思っていたが、ご本尊の延命地蔵が田植えの手伝いに行っていたのではないかということだった。
これから「田植え地蔵」と呼ばれるようになったとさ。
庚申五重塔 -岩室神社-
沼田市白沢町岩室の岩室神社。



岩室神社の由緒は不明。ご祭神は日本武尊と建御名方命(たけみなかたのかみ)。日本武尊は北毛地区では多くの神社(特に武尊神社)に祀られている。建御名方命は諏訪大社のご祭神として有名。

庚申五重塔は寛文12年(1672年)に、村の中村新兵衛ほか8名により建立されたもの。高さ2.1m。
層塔形式の庚申塔はこの地域特有といわれ、当初供養塔として造立されたが、江戸時代に民俗信仰と結びつき庚申供養塔となったようだ。

写真も撮ったし帰ろうと思ったら、社殿の裏から「ガサッ、ガサッ」という音が。ふと見たら何かいる!! ダッシュで逃げる。離れた所から見ると、何だか分からないが動物がいた(よく撮れてないけど)。
今年は各地で熊の出没が相次いるので、本当にビビった。(訪問は10月末)
石造薬師如来坐像 -東昌寺-
旧普蔵寺供養塔 -最善寺 その2-
前橋市東大室町の赤城山最善寺。
最善寺には大室城主・石川氏の墓があり訪問済みだが、旧普蔵寺から移された供養塔もあり再訪した。(「石川氏の墓 -最善寺-」参照)

旧普蔵寺供養塔は、高さ134cmの輝石安山岩製の板碑型供養塔。この供養塔は、東大室にあった普蔵寺(廃寺)に安置されていたもの。正面を将棋の駒形に彫り込み、その中に阿弥陀三尊の種子と銘文「為之凡四型康生元乙亥十一」(康生元年:1455年)が刻まれている。





前回紹介しなかった境内の石仏群。

阿修羅像。元前橋市長の萩原弥惣治氏が建立したとあった。

松尾芭蕉像。
阿修羅と松尾芭蕉は、はっきり言って位置づけがよく分からない(笑)。