上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


高崎市箕郷町善地の上善地の百観音

上善地の百観音 (1)
上善地の百観音は高台の墓地に、墓石を囲むように十一面観音・馬頭観音・聖観音などが並んでいる。126体あると言う。

上善地の百観音 (2)
上善地の百観音 (3)
上善地の百観音 (4)
観音像はすべて舟形光背の浮彫りで、村名と願主名が刻まれている。先に126体あると書いたが、元は133体あったのではないだろうか。各地の観音霊場(四国・西国・坂東・秩父など)巡りを模しているのだと思う。

上善地の百観音 (5)
この墓地の墓石群はすっごく立派なものが多く、地元有力者の一族のお墓なのかな。写真の宝篋印塔には明和7年(1770年)の銘があった。

安中市安中3丁目の碓氷山長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺 (2)
長徳寺は正中年間(1324~26年)呑海上人の開創。呑海は遊行上人4世。遊行上人とは時宗の指導者に対する敬称。

長徳寺 (3)
山門前の青面金剛塔などの庚申塔。

長徳寺 (4)
本堂は明治39年(1906年)の安中谷津の大火で類焼・焼失。長期に渡り庫裡を兼用本堂としていたが、昭和35年(1960年)に再建している。

長徳寺 (5)
暦応3年(1340年)銘のある板碑。南無阿弥陀仏と彫られている。ちなみに、暦応は南北朝期の北朝の元号で、南朝は延元・興国。

長徳寺 (6)
踊躍念仏供養塔。安政2年(1856年)の造立。「踊躍」というくらいだから、念仏踊りを伴っていたのかな。

ところで、長徳寺には安中草三郎の妻・歌の胴体が葬られているともいわれる。これは噺と現実がごっちゃになっている面もあり、事実かは分からないのだが(噺中では正徳寺となっている)。歌は草三郎に首を切られて殺されてしまい、首は同じく安中の東光院に葬られている(とされる)。

関連
 「安中草三の碑
 「安中草三郎の妻・歌の墓?・十輪山東光院


安中市岩井の多層塔。

岩井の多層塔
岩井の多層塔は、昭和19年(1944年)岩井西の平古墳より出土。形状などから造立は鎌倉時代と推定される。

案内板には「安中市にただ一基だけの貴重な塔」ってあったけど、安中市には他にそれなりの時代の宝塔の類い(五輪塔など)は残ってないの?

岩井大河原の庭園にて保存されていたが、平成14年(2002年)に現在地(岩野谷公民館)に移転されている。ちょっと駐車場の隅で、余り良い場所ではないかな。


高崎市吉井町小棚の薬師堂。

小棚薬師堂 (1)
小棚薬師堂 (2)
小棚薬師堂は昭和3年(1928年)太田市の反町薬師(照明寺)からお札をいただき建立。お堂は平成元年(1989年)に改築されている。

小棚薬師堂 (3)
薬師如来石像が多数並んでいる。いずれも昭和以降の造立かな。願掛け・成就による返納のしきたりがあるのかもしれない。

小棚薬師堂 (4)
小棚薬師堂 (5)
平成元年のお堂改築時、地区内に散在していた地蔵像・馬頭観音像・庚申塔などを集積している。


邑楽郡千代田町福島の大福山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は寛文4年(1664年)慶印和尚の開山。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
本堂は昭和45年(1970年)の建立。

福島金剛寺 (4)
福島金剛寺 (5)
馬頭観音石像。貞享元年(1684年)に当時の福島村の人々が、所願成就の願いを込め造立。像高109cmで頭上に馬頭を乗せ、忿怒の相をしている。

福島金剛寺 (6)
福島金剛寺 (7)
墓地内の大師堂。中央には弘法大師(空海)像。

福島金剛寺 (8)
境内に「賽の河原地蔵和讃」という歌碑があった。平成22年(2010年)建碑。非常に長いのでほとんど読まなかったが、七五調の句を連ねた形式で作られている。

一般的に「和讃」は、仏教(お釈迦さまや諸仏)、祖師・先人の徳、経典・教義などを日本語でほめたたえる歌のこと。


安中市板鼻の釜渕山大乗院如来寺。

大乗院 (1)
大乗院の創建は不詳。慶長年間(1596~1615年)に堀口出羽守貞忠が中興したとされる。堀口貞忠については分からない。

大乗院 (2)
大乗院 (3)
境内は旧18号バイパスで南北に分断されている。南側には薬師堂がある。

大乗院 (4)
境内の聖観音。また新しそうなので、お寺として存続しているようだ。

大乗院 (5)
北側(高台)には歴代住職の墓地と並んで2基の石幢がある。いずれも六地蔵が施されている。どちらか確認出来なかったが、明暦2年(1656年)の銘があるという。

境内の南側はかつて断崖で、直下に碓氷川が流れていた。そこに釜が渕と呼ばれる深淵があったことから、山号が釜渕山となったとされる。


高崎市福島町の永光山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は永享6年(1434年)恵裕上人の開山。永禄9年(1566年)箕輪城落城の際に焼失したが、箕輪城代となった内藤正豊が再建している。当時は字西浦北にあったが、江戸時代半ばに三国街道の整備に伴い現在地に移転。その後荒廃していたが、寛政元年(1789年)法印宗英が中興開山した。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
福島金剛寺 (4)
門前には石祠、庚申塔、二十二夜塔、六地蔵などが整然と並ぶ。

福島金剛寺 (5)
本堂は平成27年(2015年)の新築建立。

福島金剛寺 (6)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。手前左には仏足石、右には不動明王像。山門に「修験道神変加持祈祷道場」と掲げられていることから、護摩行(加持祈祷)などを行っているかな。不動明王像はその関係か。

福島金剛寺 (7)
中興の法印宗英の墓(供養塔)。寛政元年(1789年)の銘がある。

福島金剛寺 (8)
福島金剛寺 (9)
福島金剛寺 (10)
本堂裏にある「顔切り薬師」。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

福島金剛寺 (11)
お堂内には新旧6体の石仏があるが、後方右が「顔切り薬師」像。

福島金剛寺 (12)
福島金剛寺 (13)

「顔切り薬師」像は南北朝末から室町初期の造立と推定されている。この薬師像には次のような伝説が残っている。

江戸時代初期、当地に住み着いた夜盗が村内を荒らし回っていた。夜盗は次々と無理難題を吹っかけ、娘たちに乱暴を働くようにもなった。ある夜、夜盗が弘法ヶ池で沐浴する美女を襲ったところ、はね返されたので太刀で斬りつけた。翌日、池から寺まで血の跡が残っており、薬師像の顔が真横から切られていた。池では夜盗が口に菱を詰め込まれ息絶えていた。美女に姿を変え、顔を切られながらも村人を救ってくれた薬師さまを、村人たちは「顔切り薬師」と呼んで崇敬したという。

福島金剛寺 (14)
「顔き切り薬師」の後方には樫の木の巨木が薬師を見守っている。


みどり市笠懸町西鹿田の来迎阿弥陀三尊笠塔婆。

来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (1)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (2)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩と勢至菩薩)の来迎図を薄肉彫りした笠塔婆である。現在、笠石は失われている。天神山産出の凝灰岩製で、総高105cm(阿弥陀如来像は25cm、観音菩薩像・勢至菩薩像は各17cm)。阿弥陀如来は蓮華座で来迎印を結ぶ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

来迎図は阿弥陀三尊が死者の魂を瑞雲に乗って迎えにくるのを表現したもの。死後に阿弥陀浄土に生まれ変わろうと願う、浄土信仰の高まりを示している。

浄土宗開祖・法然の弟子・智明が、法然から与えられた阿弥陀如来像を桐生まで持ち帰り崇禅寺を開いて以降、現在の東毛地区には早くから浄土信仰が広まっている(鎌倉時代初期)。(「桐生市川内町・萬松山崇禅寺」参照)


みどり市笠懸町西鹿田の中島の薬師如来。

中島の薬師如来 (1)
中島の薬師如来 (2)
中島地区の薬師堂内に2基の薬師如来が祀られている。

中島の薬師如来 (3)
向かって左の薬師如来像は、安山岩製で像高46cmの半肉彫坐像。光背上部は欠損している。右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印を結び、左手には薬壺を持っている。戦国時代の造立と考えられ、みどり市指定の重要文化財となっている。

右側の薬師如来については情報がなく分からない。見た目の感じとして、もう少し造立年代は新しいようだ。

2基の薬師如来は目(眼)の神様として、地域の人々の信仰を受けている。


高崎市箕郷町富岡の道場山真福寺。

真福寺 (1)
真福寺の由緒は不詳。現状を見ると観音堂(写真)以外何もないので、既に廃寺になっている? それとも観音堂以外移転している?

箕郷町誌(昭和50年:1975年)には写真入りで真福寺が載ってるので、それ以降に変化があったようだ。

真福寺 (2)
真福寺 (3)
観音堂は「箕郷三観音」と言われ、旧箕郷町三観音堂のひとつとされる。

真福寺 (4)
観音堂に掲げられている歌の奉納額。明治16年(1883年)に西群馬郡金敷平村の方が奉納。金敷平村は現在の箕郷町金敷平。

真福寺 (5)
観音堂の裏に石仏群が並んでいる。庚申塔が2基あり、1基は寛政12年(1800年)の造立で市川米庵の書。もう1基は安政7年(1860年)の造立で安中藩の儒者・太山融斎の書。

真福寺 (6)
青面金剛像と薬師如来像。薬師如来像には安永9年(1780年)の銘がある。

真福寺 (7)
真福寺 (8)
地蔵菩薩像と並び、阿弥陀三尊の梵字を刻んだ板碑がある。紀年銘はないが、総高95cmは旧箕郷町では唯一の大型板碑。ただ、残念ながら上から28cmのところで折れてしまっている(補修されているけど)。


高崎市箕郷町下芝の下芝山万福寺。

万福寺 (1)
万福寺の創建は数度の火災により古記録が失われたため不詳だが、開山の英伝法印の入寂が永正2年(1505年)とされるので、それ以前の創建と考えられる。

現在の本堂は安永7年(1778年)の再建。

万福寺 (2)
万福寺 (3)
青柳紋右衛門友忠が祖先供養のために百番霊場を巡拝(巡礼)、建立した宝篋印塔。安永4年(1775年)の造立。中には仏像が。青柳家は長野氏家臣の家柄。

万福寺 (4)
百番霊場巡拝供養塔。六角形の多宝塔型で安永5年(1776年)の造立。これも青柳紋右衛門友忠の造立と考えられる。

一般的に西国33札所巡拝などの諸国巡拝達成記念に建てられる供養塔。百番は西国33ヶ所、板東33ヶ所、秩父34ヶ所の100霊場。先の宝篋印塔は祖先のために建て、供養塔は地域の方々のために建てたということかな。

お年寄りや身体の弱い方などが、この供養塔をお参りすることで、100ヶ所巡拝したことと同じご利益が得られるとされるので、江戸時代に全国的の造立されている。

万福寺 (5)
観音菩薩と地蔵菩薩。平成2年(1990年)の造立。

万福寺 (6)
墓地の五輪塔。赤城型といわれるもので高さ145cm。「并諸檀那奉逆修応永廿八年拾月」の銘がある。逆修なので生前造立。また、応永28年は1414年。と言うことは、応永年間には万福寺は創建されていたということかな。


高崎市箕郷町西明屋の東向八幡宮。

東向八幡宮 (1)
東向八幡宮 (2)
東向八幡宮は文明6年(1474年)に箕輪城主・長野尚業が石清八幡宮の分霊を勧請し創建、箕輪城の総鎮守とした。有名な業正は尚業の孫に当たる。

徳川家康の関東移封後、井伊直政が箕輪城主になったが、慶長3年(1598年)に高崎に移ったため社殿は荒廃。元禄5年(1692年)に勝山藩主・酒井安芸守隼人正が社殿を造営している。(当時、安房勝山藩の飛び地領になっていた)

酒井安芸守が重病に罹った際、夢枕に「領内に東向八幡あり。我に祈願すれば必ず平癒する」とのお告げがあり、当社に平癒祈願をしたところ快癒したといわれる。以来、東向八幡宮と呼ばれるようになった。

東向八幡宮 (3)
東向八幡宮 (4)
現在の社殿は寛政元年(1789年)の再造営。最近では昭和42年(1967年)に修復されている。

東向八幡宮 (5)
東向八幡宮 (6)
本殿は昭和29年(1954年)に修復されている。彫刻も施され荘厳な佇まいを醸している。

東向八幡宮 (7)
東向八幡宮 (8)
本殿横に石幢がある。総高222cmで十三仏が浮彫りされている。文明6年(1474年)の銘があり、八幡宮創建時のものとされる。十三仏の彫刻入石幢は珍しい(六地蔵はなどが多い)。


伊勢崎市間野谷(あいのや)町の石造層塔。

間野谷の石造層塔 (1)
間野谷の石造層塔は凝灰岩製で、総高175cmの4重の塔である。造立年代は、その特徴から鎌倉時代と推定される。

間野谷の石造層塔 (2)
一般的に層塔は3重や5重のように奇数の場合が多く、4重という偶数の層塔は珍しい。奇数は割り切れないことから「無限」を表すといわれるため、この層塔も当初は5重であったのではないかと思う。

上部には相輪が乗っていたと思われるが、現在は五輪塔の空輪、風輪が転用されている。なお、基礎部などには格狭間・種子・仏像などは見られない。

石造層塔は、もとは間野谷共同墓地内にあったが、平成28年(2016年)の保存修理事業に伴い現在地へ移転された。

ちなみに、藤原秀郷(俵藤太)の3男・千国が、秀郷の供養のため造立したとのいわれもあるようだ。秀郷の供養塔とされる五輪塔が、同じ旧赤堀町の宝珠寺にある。これも3男・千国の造立とされる。(「藤原秀郷(俵藤太)の供養塔 -宝珠寺-」参照)


伊勢崎市波志江町の新宿(あらじゅく)の変型板碑。

新宿の変形板碑 (1)
新宿の変型板碑は高さ93cm、厚さ30.5cmで、頂部は山形をしており縁部には約4cmの縁取りが施されている。明応2年(1493年)の造立銘がある。周りの石囲いは文政10年(1827年)に造られている。

新宿の変形板碑 (2)
塔身は安山岩製で、中央に大日如来を表す種子(梵字)と円形に近い蓮華座が刻まれている。

地元では大正寺跡と呼ばれている場所なので、もともとは大正寺というお寺があったらしい。板碑の北側には、道を挟んで墓地がある。


伊勢崎市波志江町の岡屋敷の阿弥陀三尊石仏。

岡屋敷の阿弥陀三尊石仏 (1)
岡屋敷の阿弥陀三尊石仏 (2)
岡屋敷の弥陀三尊石仏は、凝灰岩製で総高96cm。舟形光背の正面に阿弥陀如来坐、両側に勢至菩薩、観音菩薩の脇侍を配する。紀年銘はないが、石材や彫刻の手法から鎌倉時代末(14世紀初頭)の造立と推定される。

伊勢崎市内では、上植木本町の建長石仏に次ぐ時期の石仏である。
(建長石仏は「伊勢崎上植木本町・上植木の建長石仏」参照)

造立年代を考えると、原形を非常によくとどめている。このことから古くから屋内(覆屋)に安置されてきたと考えられる。当地での浄土信仰の普及を示すものである。


伊勢崎市大正寺町の大聖寺墓地の宝篋印塔。

大聖寺墓地の宝篋印塔 (1)
大聖寺墓地の宝篋印塔 (2)
明治初年に廃寺となった大聖寺の墓地に宝篋印塔群がある。その内、写真右の2基が伊勢崎市の重文になっている。

2基とも総高190cmで、基礎の輪郭が2区に分けられ、それぞれに格狭間が彫られている関東型と呼ばれる形式。年代を示す銘はないが、その特徴(複弁の反花や隅飾突起など)から南北朝期のものと考えられる。


高崎市吉井町多比良の石造薬師如来坐像。

西深沢の薬師如来坐像 (1)
西深沢の薬師如来坐像 (2)
多比良地区西深沢の墓地内に石造薬師如来坐像が2体安置されている。どちらも牛伏砂岩製で、その特徴から南北朝期の作と考えられている。

向かって左像は、総高78.5cm、像高47.5cm。左手に薬壺を持ち、膝の張りが大きく蓮座は薄い。右像は総高65cm、像高45cm。左像同様、左手に薬壺を持ち膝張りは大きい。光背の一部が欠損している。

実はこの墓地に親戚のお墓がり、子どものころお墓参りに来た記憶がある。上信越自動車道開通時(平成5年:1993年)、一部用地として転用され狭くなっており、昔の記憶と違っている。当然、石仏のことなど子ども心にはまったく残っていない。


高崎市吉井町多比良の多比良神社。

多比良神社 (1)
多比良神社 (2)
多比良神社は永禄年間(1558~70年)に新堀(多比良)城主・多比良豊後守友定が諏訪神社を勧請したことに始まる。大正8年(1919年)に阿夫利神社、粟島神社などを合祀し多比良神社と改称。

新堀城は永禄6年(1563年)の武田信玄の西上州侵攻の際に落城し、多比良友定は自刃したといわれているので、多比良神社の創建は永禄年間前半と思われる。

多比良神社 (3)
多比良神社 (4)
社殿は明治期に建立されたが、平成14年(2002年)に改築されている。

多比良神社 (7)
「忘れん 降雹災害之碑」。平成7年(1995年)の建碑とあったので、最近のものだ。

平成6年(1994年)9月に、多比良・多胡・安坪地区を中心に玉子大の雹と暴風雨により、田畑・桑園だけでなく家屋にも甚大な被害がでた。また、被害総額3億5000万に対し救済費がわずか190万だったことの両方を「忘れん」ということらしい。

多比良神社 (8)
社殿裏の双体道祖神。

多比良神社 (5)
多比良神社 (6)
境内の非板状の塔婆(板碑)。総高101cm、幅41cm、厚さ27cmで、牛伏砂岩製。上部に二条線、碑面に枠線を有し、阿弥陀如来を示す種子が彫られている。鎌倉時代・建治2年(1276年)の銘がある。

吾妻鏡に多比良小次郎の名が見えることなどから、多比良氏が当時からこの地に勢力をはり、板碑の建碑にも関係していると考えることもできる。


高崎市町屋町と高崎市楽間町の宝塔。

町屋の宝塔
町屋の宝塔は高さ230cm、幅62cmと比較的大型の宝塔。安山岩製でその塔身は壺型をしている。一般に赤城塔と呼ばれる宝塔。永享11年(1439年)の銘がある。

町屋の宝塔は宝福寺参道の町屋公民館脇にある。気づかないで境内から墓地まで行ってしまった。

楽間の宝塔
町屋町から烏川を挟んで北東にあたる楽間町の宝塔。3基の宝塔はいずれも高さ160cmほどで、塔身が短く下部が細くなる壺型(半球形)をしている。向かって左から永享9年(1437年)、嘉吉3年(1443年)、正長3年(1430年)の銘がある。

楽間の宝塔は、元々近くの笹藪の中にあったが、現在は井野家の墓地内に移されている。

町屋・楽間の宝塔は、いずれも同年代(室町時代)の造立で、当地一帯(烏川の両岸)に真言密教と結びついた榛名山信仰の影響があったと考えられる。


藤岡市上日野の実大山養浩院。

養浩院 (1)
養浩院は永正年間(1504~21年)酒井氏の開基。埼玉県児玉郡の大興寺・章室祖文の開山。酒井氏は地元の郷氏だったが、現在は絶家している。

養浩院 (2)
山門(鐘楼門)への石段は急すぎて怖い。写真は上から撮ったが、ほぼ垂直(まあ言い過ぎだけど)。それくらいに感じる。

養浩院 (3)
石段横の地蔵菩薩像は文化7年(1810年)の建像。

養浩院 (4)
お地蔵さまの隣には松尾芭蕉の句碑がある。「志ばらくは 花のうえなる 月夜かな」。明治3年(1870年)に当地の俳人たちが芭蕉の墓に参詣し、金2円を寄進して墓土をもらい受け、明治5年(1872年)に俳塚の形式で建立したもの。

養浩院 (5)
養浩院 (6)
享和3年(1803年)鋳造の梵鐘は先の大戦時に供出。近年鋳型の一部が発見され、それを元に昭和49年(1974年)に再鋳造されている。

養浩院 (7)
養浩院 (8)
本堂は天保年間(1831~45年)の建立。明治期に小学校校舎として利用されている。明治42年(1909年)以降、数度の渡り改修が行われている。

鐘楼門から本堂までの距離が短く、どうやっても本堂の全景写真が撮れなかった・・・。

養浩院 (9)
養浩院 (10)
弘法大師石像。

養浩院 (11)
養浩院 (12)
子育て地蔵(左)と水子地蔵(右)。

養浩院 (13)
養浩院 (14)
養浩院は県道71号線から少し山側に入るが、入口に六地蔵がある。県道にかかる小さな橋は「六地蔵橋」というらしい。

養浩院には明治40年(1907年)に陸軍大将・寺内正毅が奉納した砲弾4個(日露戦争紀年)が宝物として遺されている。奉納の経緯は分からない。


伊勢崎市東小保方町の頼光塚。

頼光塚 (1)
頼光塚は鎌倉後期から南北朝期の造立と推定される凝灰岩製の笠塔婆。笠石はなく、形状も後世の改変加えられている部分がある。

頼光塚 (2)
総高70cmで、薄肉彫りの蓮華座に乗る如来が刻まれている。斜めに大きく割れており、これにまつわる伝承が残されている。

「昔、この塚の脇の道に馬に乗った武者が毎晩現れ、通行人を脅かしていた。ある晩、松島利太夫というものがここへ来て武者の現れるのを待った。しばらくすると武者が現れたので、利太夫は太刀をひらめかせて斬りかかり、武者を斬り捨てた。それきり音もなく武者の姿は消えていた。翌朝になると、そこにはひとつの斬られた石だけが残っていた」

少し離れて見ると盛土になっているので、元々「頼光塚」は墓の名称だったのではないかと思う。つまり笠塔婆は墓標的な意味合い。それがいつの頃からか、笠塔婆を頼光塚と呼ぶようになった(勝手な推定)。

個人的には「頼光塚の上に建つ割れた笠塔婆」だと思うが、どうだろう。


伊勢崎市上植木本町の建長石仏。

上植木の建長石仏 (1)
上植木の建長石仏 (2)
凝灰岩製の石仏2体で、写真向かって右側の石仏には鎌倉時代中期の建長3年(1251年)の銘がある。2体とも長年の風雨により摩耗・損傷が激しい。

上植木の建長石仏 (3)
右の石仏は総高75cm、幅45cm、厚さ26cm。舟形の光背に半肉彫りで中尊と4体の脇侍を刻む一光五尊像。と言っても摩耗により合掌坐像の如来(?)と言うことくらいしか分からない。

上植木の建長石仏 (4)
左の石仏は一回り小さいが、右側の石仏と構図が異なる以外は同様の形態である。尊像は頭光を持つ阿弥陀如来像と推定され、右側に俗体と思われる像が彫られている。

当地には11世紀ころまで上植木寺という本格的な古代寺院があったことが判明しており、建長石仏はその寺院との関連性もあるのではと思ってしまう。

ところで、覆屋は風雨が入らないよう完全に覆った方がいいと思う。現状のままだと、風化・劣化がますます進んでしまうと危惧する。

上植木のサカキ (1)
上植木のサカキ (2)
石仏を探してウロウロしていたときに見つけた「上植木のサカキ」。上植木とついているが、住所は本関町。

上植木のサカキは個人宅内にあり、樹高10m、目通り0.8m、根元周り3m、枝張り東西約8m、南北約7mで、樹齢は約300年と推定される。サカキは成育の悪い樹木であり、このように大きくなるのは珍しいといわれる。


藤岡市三波川の子育日切地蔵尊。

三波川 子育日切地蔵 (1)
三波川子育日切地蔵尊の建像年などは不詳だが、古くから子どもを病気などから護り、日限(期限)を切ってお願いすると全快するといわれる。

三波川 子育日切地蔵 (2)
三波川 子育日切地蔵 (3)
地蔵尊は地域の方々が奉納した(と思われる)様々なものを身につけ、石の部分はお顔の一部しか見えない。

三波川 子育日切地蔵 (4)
三波川 子育日切地蔵 (5)
三波川 子育日切地蔵 (6)
庚申塔が多く並んでいる。奥には青面金剛像もあった。

石碑には子どもの夜泣き・かんの虫・夜尿症などから、大人の頭痛・腹痛・肩痛・腰痛などへの効能も書かれていた。さらには、交通安全・無病息災などの諸願が成就するともあり、地域の護り神的な存在のようだ。


藤岡市保美濃山(ほみのやま)の抜鉾神社。

保美濃山抜鉾神社 (1)
保美濃山抜鉾神社 (2)
保美濃山抜鉾神社 (3)
保美濃山抜鉾神社の創建は不詳だが、貫前神社(抜鉾神社)から経津主命の分霊を勧請したものと思う。

保美濃山抜鉾神社 (4)
保美濃山抜鉾神社 (5)
下久保ダムのダム湖・神流湖の岬のような丘上に社殿は建っている。拝殿は正面の軒唐破風の兎の毛通しの裏に、神山和泉守が文政11年(1828年)に建立した旨の墨書銘がある。神山和泉守については分からない。

保美濃山抜鉾神社 (6)
保美濃山抜鉾神社 (7)
拝殿内には絵馬が多数奉納されている。いずれも明治期のもの。

保美濃山抜鉾神社 (8)
保美濃山抜鉾神社 (9)
本殿覆屋の彫刻は、鶴に乗る王子喬仙人と鯉の乗る琴高仙人だろうか。いずれも周(中国)の時代の人とされる。

保美濃山抜鉾神社 (10)
保美濃山抜鉾神社 (11)
境内に敷石住居跡らしき遺構があった。旧鬼石町の文化財を示す標識があった(石棒とある)が、合併後の藤岡市の文化財一覧には見当たらない。石棒自体も見当たらなかった。

ちなみに、御荷鉾山の鬼が投げたという石棒(投石峠のもの)を、村人が担いできて祀ったとの伝説が残っている。「鬼が投げた石」は旧鬼石町(現藤岡市鬼石地区)の名前の由来とされる。(「藤岡市鬼石・鬼石神社」参照)

保美濃山抜鉾神社 (12)
保美濃山抜鉾神社 (13)
保美濃山抜鉾神社 (14)
南側参道に貞治(1362~67年))、康応(1389年のみ)銘の板碑が2基ある。貞治・康応のいずれも南北朝期の北朝側の元号。その他、無銘の板碑も4基ある。

保美濃山抜鉾神社 (15)
保美濃山抜鉾神社 (16)
昭和43年(1968年)建立の「水没の碑」。揮毫は時の首相・佐藤栄作。昭和43年に完成した下久保ダム・神流湖により、保美濃山地区の大半は水没している。境内から水を湛えた神流湖が見通せる。

上記の板碑も水没地域から抜鉾神社参道へ移転されたものである。


高崎市吉井町黒熊の黒熊山延命寺。

延命寺 (1)
延命地は文禄元年(1592年)の創建と伝わる。

延命寺 (2)
慶長元年(1596年)に焼失、翌年順慶法師が再建している。室町時代の作とされる一木彫りの勢至菩薩像(像高37cm)がある。本尊は薬師如来なので、阿弥陀三尊の脇侍と思われる勢至菩薩像は、もともと別寺のものか。

延命寺 (3)
延命寺 (4)
延命寺 (5)
墓地の宝篋印塔と五輪塔。宝篋印塔のひとつには元文3年(1738年)の紀年名が読み取れた。

延命寺 (6)
明治7年(1874年)には黒熊小学校(現入野小)が置かれた。現在も境内にブランコや滑り台などの遊具が設置されている。

延命寺の院号は地蔵院と言い、境内に地蔵菩薩を祀る地蔵堂があるとのことだったが、それらしきお堂は見あたらなかった。見逃したかな。


高崎市西横手町の宝篋印塔。

明徳の宝篋印塔
宝篋印塔は明治5年(1872年)に廃寺となった西福寺跡にあり、明徳元年(1390年)の銘がある。明徳は北朝の元号。

高さ2.9mと県内でも最大級の大きさで、笠が2つある二重式宝篋印塔、あるいは須弥壇式宝篋印塔と呼ばれる形をしている。この形は、群馬県と埼玉県北部にのみ分布する特殊な形式である。


高崎市八幡原町の八幡山円福寺。院号は頼朝院。

円福寺 (1)
円福寺は江戸時代初期に円光寺と長福寺が合併し円福寺となっている。合併開基の乗慶法印の入寂は慶安4年(1651年)。

前回の「八幡原若宮八幡宮」でも書いたが(「高崎市八幡原町・若宮八幡宮」参照)、源頼朝が浅間山麓での巻き狩りからの帰途に病にかかり、当地を鎌倉になぞらえた土地にすれば病は治ると占いで出たため、八幡宮を勧請したら快癒したとされる。病に伏せった頼朝が休んだのが長福寺といわれる。浅間の巻き狩りは建久4年(1193年)なので、長福寺の創建はそれ以前となる。

円福寺 (2)
本堂は昭和4年(1929年)に火災で焼失、昭和13年(1938年)に再建されている。

円福寺 (3)
殿鐘には「西上州八幡山頼朝院長福寺願主法印乗舜」の銘がある。長福寺が八幡山頼朝院で、そのまま円福寺に引き継がれたことが分かる。

円福寺 (4)
円福寺 (5)
境内は庭園風に整備されており、一部の木には雪吊が施されている。まあ、この辺では余り雪は降らないと思うけど。

円福寺 (6)
境内の宝塔。享保15年(1718年)の銘があった。

円福寺 (7)
本堂裏には小さい円墳が残されている。

円福寺 (8)
円福寺 (9)
円福寺 (10)
円墳上には観音堂がある。観音様のいわれは分からないようだ。

円福寺 (11)
観音堂への石段脇には、多数の石仏が並んでいた。

明治末までは八幡原に「頼朝塚」と呼ばれる高さ4~5mの丘陵があり、丘上には古碑が建っていたという。その後、開墾され畑になったので碑は円福寺に移されている。と言うことなので探してみたが、見つからなかった。当時、既に碑文は読めないほど風化していたというので、見つけても読めないから分からないか。


渋川市白井の金光山玄棟院春日寺。

玄棟院 (1)
玄棟院は天正3年(1575年)白井城主・長尾憲景が開基、雙林寺10世・操芝英旭禅師の開山。寺名は憲景の法名・梁雄玄棟院殿から。

玄棟院 (2)
玄棟院 (3)
本堂と庫裏が合体したような造りになっている。本堂部分は平成24年(2012年)、庫裏部分は平成16年(2004年)に大改修が行われている。

玄棟院 (4)
玄棟院 (5)
鐘楼は昭和58年(1983年)の建立。

玄棟院 (6)
本堂脇の閻魔大王は、長尾憲景の護持仏と伝えられる。

玄棟院 (7)
玄棟院 (8)
玄棟院 (9)
境内の山水庭園はきれいに整備されており、池には立派な錦鯉がわんさと泳いでいる。ところで、長尾憲景の築園とされる「信玄造り」といわれる枯山水庭園があるということだが、どこにあるのだろう。

玄棟院 (10)
玄棟院 (11)
探してみると、本堂裏にこぢんまりとした枯山水庭園があった。これが長尾憲景築園の庭園なのかは不明。

玄棟院 (12)
玄棟院は高台にあるため、吾妻川や市街地を下に、背景には榛名山という素晴らしい景色が見られる。


吾妻郡東吾妻町岩井の背高地蔵。

岩井の背高地蔵
岩井の背高地蔵は、正徳5年(1715年)岩井村山根の田中八兵衛・十兵衛が中心となって建立された。地蔵尊は高さ2.5mで、台座も含めると4.1m。

田中八兵衛・十兵衛のことはよく分からないが、岩井の分限者とされる。分限者は簡単に言えばお金持ち。

昭和47年(1972年)に県道拡張のため道の反対側から移転している。現在は十字路になっているが、当時は岩井から中之条への渡船場道と、金井・川戸方面へと渋川方面への三本辻であった。昔も現在も往来する人々の安全と住民の安寧を願い見守っている。

地蔵尊が建っているところは道端で、しかも2m位の高台となっており、非常に目立つ。見守っているという表現がぴったりの場所である。


吾妻郡東吾妻町岡崎の柏原の宝篋印塔。

柏原の宝篋印塔 (1)
柏原の宝篋印塔は台座を含めると4mくらいあり、塔部分でも3m以上ある大型の宝塔。ただ、見た目の情報以外は何もない。

当地に解説板もなく、東吾妻町のHPにも解説が載っていない。また、東吾妻町の重文であることを示す標柱も折れていた(悲)。

柏原の宝篋印塔 (2)
横に石仏や仏塔などが並んでいる。

立派な宝塔だけに、由緒などを知りたかったなぁ。

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