上州まったり紀行

群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などの紹介。

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


上州まったり紀行の中から「石仏・宝塔・板碑・塔婆」などに関するものをリスト化したもの。板碑・宝塔(宝篋印塔)・塔婆などは、元々お墓や供養塔の意味合いも強いが、「お墓・供養塔」に分類したものは除く。なお、分類はいい加減。


前橋市(旧郡部を除く)
お花地蔵(福徳寺)
上新田町のお地蔵さま
勘九郎地蔵
総社城南出口の子育て地蔵尊
化粧薬師(縁切り薬師)
片腕地蔵(身代わり地蔵)(林倉寺)
稲荷新田の薬師さま
亀里町・阿内宿の石幢
正法寺の六地蔵石幢
笠薬師塔婆(丁間稲荷神社)
石造阿弥陀如来三尊像(後閑円満寺)
阿弥陀三尊仏(浄土院)
公田の岩舟地蔵
小島田の阿弥陀如来坐像
小島田の供養碑
江木の宝塔
旧普蔵寺供養塔(最善寺)
富田の宝塔
笠欠け三猿塔(熊野神社)
鳥羽の大日如来および笠塔婆
大福寺の宝塔
阿弥陀三尊画像板碑と宝塔(乗明院)
善光寺の石幢
龍興寺の多宝塔


前橋市(旧大胡町、旧宮城村、旧粕川村、旧富士見村)
東方薬師如来(全徳寺)
河原浜町・柊薬師
堀越町・堀越共同墓地の石幢
粕川町・石造馬頭観音立像と笠かぶり地蔵尊
横沢の石塔婆
大前田町・世良田薬師の石造阿弥陀如来坐像
あ・うん石仏と馬頭観音(馬場稲荷神社)
石造薬師如来坐像と宝塔(東昌寺)
大前田の地蔵菩薩石像
龍性寺の石幢
月田の石造仏群
石像六地蔵塔と宝塔(月田近戸神社)
金剛寺の六地蔵石幢
六地蔵石幢と種子十三仏塔(赤城寺)


伊勢崎市、佐波郡(玉村町)
間野谷の石造層塔
新宿の変型板碑
岡屋敷の阿弥陀三尊石仏
大聖寺墓地の宝篋印塔
頼光塚
上植木の建長石仏
上西根の五輪塔
常清寺の変形板碑
上蓮の阿弥陀・地蔵石仏
五輪塔と宝篋印塔(宝存寺)
正観寺・義経馬殿塔
浅間山大噴火の供養地蔵(夜泣き地蔵)
玉村町南玉・文安銘の五輪塔
泉龍寺・延命地蔵と薬師如来石像
観照寺の板碑
徳蔵寺の宝塔
宮子の笠塔婆
西光寺の馬頭観音
長安寺・宝篋印塔
下植木赤城神社の石造美術群
大国神社の石幢
同聚院・文明の石幢
天増寺の宝塔
権現山の宝塔


渋川市、北群馬郡(吉岡町、榛東村)
吉岡町下野田・子育て地蔵尊
清水下の地蔵尊(白井宿)
長尾憲景の護持仏・閻魔大王像(玄棟院)
大日如来坐像(神宮寺)
応永15年の宝篋印塔
永享の五輪塔(千音寺跡)
下郷の子育地蔵
東円山観音堂の石造物群
御堀地蔵堂の板碑
宮昌寺・穴薬師
渋川金井宿の滝不動
真光寺の聖徳太子塔


高崎市(旧郡部を除く)
町屋の宝塔 & 楽間の宝塔
明徳元年銘の宝篋印塔(西福寺跡)
円福寺の宝篋印塔
山ノ上地蔵尊
高崎市山名町・来迎阿弥陀画像板碑
妙典寺の板碑と五輪塔
玄頂寺の五輪塔
光台寺の線刻地蔵菩薩立像石仏
安楽寺の異形板碑
洞窟観音
養報寺の石仏群
永泉寺の幽霊石


高崎市(旧群馬町、旧箕郷町、旧榛名町、旧吉井町、旧新町、旧倉渕村)
高崎市後疋間町・後疋間の宝塔
高崎市西国分町・日光菩薩石像と月光菩薩石像
常安寺の宝篋印塔
大壱寺の宝塔
高崎市菅谷町・石塚の虎薬師
高崎市棟高町・山王猿の石神
松之沢の百観音
上善地の百観音
小棚薬師堂
玄太寺・観音堂の阿弥陀三尊石像
福島金剛寺の顔切り薬師
真福寺の板碑
万福寺の五輪塔
東向八幡宮の石幢
西深沢の石造薬師如来坐像
多比良神社の板碑
吉井町・黒熊山延命寺の宝篋印塔・五輪塔
橋場の地蔵尊
馬庭の薬師如来坐像
安養寺跡の笠塔婆
本庄辻の地蔵尊
岩井堂の石幢
全透院の閻魔大王と奪衣婆
折茂観蔵院の板碑
小暮の穴薬師
天久沢陣城跡の石造地蔵菩薩坐像
地勝寺の薬師如来坐像と一石阿弥陀三尊像
多胡碑


安中市
長徳寺の板碑
安中市・岩井の多層塔
大乗院の石幢
五料の地蔵さん(夜泣き地蔵)
聖不動威怒明王像
観音三尊碑
八城の八塔石紅地蔵
自性寺の宝篋印塔
不動寺の石塔婆
全性寺の悟留譜(ゴルフ)観音


富岡市、甘楽郡(甘楽町、下仁田町、南牧村)
田篠の石造如来三尊坐像
女神像碑と十一面観音菩薩碑
圓通閣の地蔵菩薩坐像
清泉寺の宝篋印塔
富岡市・仁治の碑
甘楽町・仁治の板碑
甘楽町・建長の板碑
城町下薬師堂の石仏
今宮寺の阿弥陀三尊石仏
宝勝寺の地蔵菩薩と薬師如来
永隣寺の奪衣婆像
額部神社・石造地蔵菩薩像
西方寺・元応の板碑・貞治の板碑
金剛院の名号塔
星田虚空蔵堂の名号塔
天引の笠塔婆 その2
下仁田町安楽地の板碑
天引の笠塔婆と板碑
天引中宿の薬師如来像
小野の塩薬師
長厳寺の磨崖仏
宝泉寺の薬師如来石像


藤岡市、多野郡(神流町、上野村)
実大山養浩院の地蔵菩薩像
藤岡市三波川・子育日切地蔵尊
保美濃山抜鉾神社の板碑
龍田寺の宝篋印塔
藤岡市篠塚・道標付笠石四角塔
福持寺の板碑
藤岡市譲原・文明の板碑
神流町・阿弥陀三尊画像板碑
保美の子育て地蔵尊
応永の板碑
医光寺の板碑
平井七地蔵尊
神流町・閻魔大王像と奪衣婆像
葵八幡宮の板碑


太田市(旧郡部を除く)
富若の名号角塔婆
大円寺の徳本行者名号
矢田堀勘兵衛屋敷の名号角塔婆
永福寺の名号角塔婆
成願寺の石造地蔵菩薩像
教王寺の五輪塔群


太田市(旧新田町、旧尾島町、旧藪塚本町)
新井家の五輪塔
中江田の辻地蔵尊
旧来迎寺の宝篋印塔
旧常楽寺の石塔群
西野の層塔
西福寺・赤子地蔵
木崎宿の色地蔵
清泉寺の宝篋印塔
二体地蔵塚


桐生市
栖松寺の石幢
後閑の五輪塔
久昌寺・金八地蔵
光明寺・「宝珠型仏塔」の弁財天
東禅寺の角塔「建武の碑」
千手寺の石幢
龍真寺の鶏亀地蔵
関の磨崖仏
瀧興寺の虚空蔵菩薩石像
観音寺の石幢
山上多重塔


みどり市
来迎阿弥陀三尊笠塔婆
中島の薬師如来
南光寺の五輪塔群
浅原の百観音(大間々町)
大間々の角地蔵
穴原薬師堂の馬鳴菩薩像
岩穴観音の地蔵菩薩坐像と阿弥陀如来坐像
浅原馬場の大日如来像


館林市、邑楽郡(大泉町、板倉町、邑楽町、千代田町、明和町)
大福山金剛寺の石造馬頭観音像
安勝寺の光明真言金亀宝篋印塔
十王十仏板碑(淨蓮院)
建武の板碑(大林寺)
弘安の板碑(千代田町)
日向義民地蔵
五宝寺の不動まんだら板碑
愛宕神社の青色地蔵板碑
東光寺の馬頭観音
舞木円満寺の元応の板碑


沼田市、利根郡(みなかみ町、片品村、川場村、昭和村)
禅定院の宝篋印塔
岩室神社の石造五重塔


吾妻郡(中之条町、長野原町、草津町、嬬恋村、東吾妻町、高山村)
岩井の背高地蔵
柏原の宝篋印塔
北向三十三番観世音
浅間山大噴火の供養石地蔵(雲林寺)
泉龍寺の閻魔大王像
宗本寺の宝篋印塔
仙人窟の石仏
国定忠治地蔵


北群馬郡吉岡町下野田の子育て地蔵尊。

下野田子育地蔵尊 (1)
下野田子育地蔵尊 (2)
下野田の子育て地蔵尊は享保6年(1721年)の造立。お堂は昭和10年(1935年)ころ、各戸が20銭ほどの寄進をし建立されている。

子育て地蔵尊は幼時の夜泣きや疫病を封じる願を掛け、お礼に赤や白の布地で作ったよだれ掛けを奉納した。現在も多くの参拝があるようだ。


高崎市後疋間町の宝塔。

後疋間の宝塔
後疋間の宝塔は基礎部に随求陀羅尼と光明真言の経文を刻み、生前に供養したことを示す逆修の文字もある。向かって右の宝塔は文安3年(1446年)、左の宝塔は宝徳元年(1449年)の銘がある(中央は江戸時代の石塔)。

県内の宝塔で紀年銘があり完全な形をしているものは少ないので、貴重な存在である。


高崎市西国分町の日光・月光菩薩石像。

日光・月光菩薩石像
日光菩薩石像(向かって左)と月光菩薩石像(右)。日光像は総高50cm、像高41cm。月光像は総高60cm、像高42cm。南北朝期の造立と考えられている。

一般的に日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍仏とされているので、薬師如来像と合わせ薬師三尊像であったと思われる。


高崎市東国分町の国分山常安寺。

常安寺 (1)
常安寺 (2)
常安寺は慶安4年(1651年)法印自賢覚仙の開山、当地の庄屋・盛次の開基と伝わる。文化4年(1807年)隣家の失火により類焼、文化7年(1810年)再建。現在の本堂の様子から無住になって久しいようだ。

常安寺 (3)
境内の宝篋印塔。総高6mに及ぶ大きなもので、当地の住谷勝造が寛政元年(1789年)に造立。銘に「石工信州高遠御堂垣外村住、保科増衛門英親」とある。

常安寺 (4)
常安寺 (5)
墓地の小さなお堂には「へそ抜き観音」が安置されている。石宮には寛永7年(1630年)の銘があった。

観音像は石宮内のため見ることは出来ないが、観音像のお腹に穴が開いている。この穴に指を入れるとお腹が痛くなるといわれる。安産の観音さまとされており、お産を軽くするため指を入れる人が多いという。

常安寺 (6)
常安寺 (7)
歴代住職の墓(無縫塔)の中の行人塚。延宝4年(1676年)に即身仏になったという窩啓法印を葬ったもの。無縫塔の台石に開いている穴は空気取り用の穴とされる。


高崎市菅谷町の菅谷山大壱寺。

大壱寺 (1)
大壱寺は大同2年(807年)霊伝上人の開山と伝わる古刹である。

大壱寺 (2)
境内入口脇の六地蔵は平成7年(1995年)の造立。

大壱寺 (3)
大壱寺 (4)
本堂は平成6年(1994年)の建立。明治31年(1898年)建立の前本堂が昭和36年(1961年)に火災で焼失。それ以降、仮本堂で凌いできていた。

大壱寺 (5)
聖観音。平成6年(1994年)の造立。

大壱寺 (6)
大壱寺 (7)
石塔や仏塔・石仏群。

大壱寺 (8)
本堂前に3基の五輪塔がある。康永2年(1343年)、永和9年(1383年)、明徳4年(1393年)の銘がある室町初期(南北朝期)の宝塔。当地の豪族の墓(もしくは供養塔)と考えられている。旧群馬町最古の五輪塔とされている。

ちなみに高崎市の旧市部最古の五輪塔も康永2年の造立で、倉賀野町の玄頂寺にある。
(「高崎最古の五輪塔 -玄頂寺-」参照)

ところで本堂の新築を記した記念碑に、当地に菅谷城があり長野業正の長男・吉業の居館であったと書かれている。また天文5年(1546年)川越夜戦の戦傷により没した吉業は当寺(大壱寺)に葬られたとある。さらに弟で箕輪城主の業盛についても、討死後に首級は井出の原、胴体は当寺に収められたとある。

長野氏に関しては不明な点も多く、いろんな説や伝承があると言うこと。

関連
 「長野業正の長男・吉業の墓 -善龍寺 その2-
 「伝・長野業盛の墓
 「長野業盛伝説 ー落合観音堂ー


高崎市菅谷町の石塚の虎薬師(石塚は旧字名)。

石塚の虎薬師 (1)
虎薬師の由緒は不詳だが、口碑では応仁元年(1467年)祐賢というものが菅谷村に落ち着き、仏門に入り一宇を建立し薬師如来を安置したといわれる。祐賢は浄眼寺の開山とされている。(「高崎市菅谷町・昌徳山浄眼寺」参照)

石塚の虎薬師 (2)
石塚の虎薬師 (3)
虎薬師という名称の由来は、どの方向に向けて据えてもいつの間にか寅の方角(東北東)を向いてしまうからといわれる。現在の薬師如来像は宝暦5年(1755年)の造立。

石塚の虎薬師 (4)
虎薬師は眼病に霊験があるとされる。虎薬師前にはご利益があった方がお礼参り時に奉納したと思われる石仏が多数ある。ほとんど読めない案内板には「お出子」を供える慣習があるとあった。「お出子」って何? 石仏のこと?

ところで、虎薬師が鎮座しているのは石塚古墳(薬師塚古墳、堤ヶ岡5号墳などとも)と呼ばれる円墳上である。ほとんど削られており面影はない。ちなみに、すぐ側を通る高渋線バイパスの交差点の名称は「石塚古墳南」である。


高崎市棟高町の山王猿の石神。

山王猿の石神 (1)
ここは棟高の庚申塚と呼ばれ、青面金剛塔や猿田彦神の石塔、庚申塔などの庚申信仰(講)関連の石塔・石碑が並ぶ。

山王猿の石神 (2)
中央の石宮は日吉(ひえ)宮で、隣にその使いである山王猿がいる。

山王猿の石神 (3)
この山王猿は雌で、子授け・婦人病などに霊験があるとされる。そして大願が成就すると、猿像の陰部に紅(朱)色を入れて供物をあげる風習が残っている。そのため猿像には赤い(色落ちしてピンクになっているが)腰巻きが巻かれている。

山王猿の石神 (4)
山王猿の石神 (5)
庚申塔と青面金剛塔。

庚申信仰は平安時代に日本に入ってきたとされるが、民間信仰として盛んになったのは江戸時代のことである。庚申の「申(サル)」から「猿」が庚申の神使とされた。これは天台宗の総本山・比叡山の地主神・山王(日吉大社)の神使「猿」の影響もあってのことと思われる。

ついでに、神道における庚申の主神は、猿つながりから猿田彦神とされる。地方の道ばたに猿田彦神の石塔(石碑)をよく見かけるが、これも庚申塔の一種である。もちろん、もともとの意味合いである道しるべ・道祖神としての場合も多い(こっちの方が多いかな)。


渋川市白井の白井宿の2回目。
今回は宿内の石造物などの紹介。(歴史や町並みは「渋川市白井・白井宿」参照)

白井宿 (1)
白井宿の北の入口にあたる北木戸口すぐにある「清水下の地蔵尊」。享保元年(1716年)の造立で、総高230cmの大型比丘形。子どもの夜泣きに効くとのことから、願をかける家が多くあった。

白井宿 (2)
同じく北城戸口に鎮座する琴平宮。総高151cmの石宮は、信州・木洗馬の渡辺門司郎の作とされる。

白井宿 (3)
天台宗の学僧・尭恵法印の歌碑。文明13年(1486年)に白井城に立ち寄った尭恵が、歌の会で詠んだ「月と共に神を詠む」と題した歌。

尭恵は諸国を巡り「善光寺紀行」「北国紀行」などの紀行文を著している。白井城に立ち寄ったのは、この「北国紀行」として著された旅の途中である。

白井宿 (4)
白井町の道しるべ。白井堰の傍らに建てられており、高さ170cm・幅38cmである。建立は江戸末の嘉永2年(1849年)。

白井宿 (5)
白井宿 (6)
寛永元年(1624年)薬師の井戸掘削中に、底にまばゆく光る虎にまたがる薬師如来像が見つかった。この薬師如来像を「虎薬師」と名付け、お堂を建てて祀ることとした。以来、薬師の井戸は涸れることなく、現在も多くの家で使われている。

白井宿 (7)
羅漢水の塔(法華経供養塔)。白井宿は水利の便が悪かったため、薬師の井戸・延命水の井戸が掘られていたが、それだけでは宿全体の飲料水としては不足していた。そこで叶屋(金井氏)が私財を投じ、寛政7年(1795年)に掘ったのが羅漢水の井戸。井戸の成功を祈り十六羅漢の供養を行ったことから「羅漢水」と命名された。

また雙林寺37世・玉州大泉が「羅漢井記」を記したことから、それを刻んだ法華経供養塔を寛政11年(1799年)に建立している。

白井宿 (8)
万葉歌碑。「利根川の川瀬も知らず直渡り 波に逢ふのす逢える君かも」。

白井宿 (9)
地蔵尊石堂。北向に建てられているので北向地蔵尊と呼ばれる。建立は延享3年(1746年)。北向きなのは町への入口(木戸口)が、地蔵尊から見て北にあるからといわれる。総高296cm。

江戸末に他所に遷されていたが、明治11年(1878年)の元の場所に再建(再遷座)している。


前橋市上新田町のお地蔵さま。
上新田町の北と南の入口には、それぞれお地蔵さまが鎮座している。

上新田町のお地蔵さん (1)
上新田町のお地蔵さん (2)
南のお地蔵さまは下新田町との境界に近い福徳寺や新田小の近くに鎮座する。かつてのお地蔵さまは昭和10年(1935年)の利根川の洪水により頭部を損傷。修復して崇めてきたが、平成24年(2012年)に新規建立されている。

上新田町のお地蔵さん (3)
北のお地蔵さまは、現在は朝日が丘町となっている前橋長瀞線(旧道)わきに鎮座する。朝日が丘町は昭和38年(1963年)に上新田町の最北部が分離した町。

このお地蔵さまは「京安寺のお地蔵さま」と呼ばれる。上新田町から利根川の対岸(東側)あたる六供町にあった京安寺の西大門のお地蔵さまと伝わる。

京安寺は神亀3年(726年)創建と伝わる古寺だが、戦国時代に兵火にかかり現在では六供町内に地名として残るのみらしい。京安寺に関係する地名(字名)として南大門・北大門・中央門・堂木などもあるようだ。

当時は利根川が変流する前で、上新田と六供は地続きであった。相当長い参道があったことになる(つまりはかなりの大寺院)。

上新田町のお地蔵さん (4)
上新田町のお地蔵さん (5)
上新田雷電神社へ向かう道沿いにもお地蔵さまがいる。詳細は分からない。
(雷電神社は「お沓の言い伝え -前橋市・上新田雷電神社-」参照)

お地蔵さまは古来より道祖神としての性格(村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ)を持つとともに、「子供の守り神」として信仰されている。


前橋市総社町総社の勘九郎地蔵。

勘九郎地蔵 (1)
勘九郎地蔵 (2)
江戸時代末、当地には伝授庵という寺があり、そこへ勘九郎という旅の僧侶がやって来て即身仏になるための修行を重ねていた。そして村人が見守る中、立派に即身仏になられたという。この仏を敬い、明治24年(1891年)に町の人たちによって、この地蔵が建立された。現在も交通安全や学業成就などのご利益があるとされる。

ちなみに、即身仏とは生きたまま土中などに入定し(空気穴は通す)、読経や瞑想を続けながらそのままミイラ化すること。主に衆生救済を目的とする。

勘九郎地蔵 (3)
勘九郎地蔵 (4)
お堂内には奉納された地蔵像が多数収められている。多くの願が成就しているようだ。

勘九郎地蔵 (5)
お堂脇の琴平宮石塔。明治25年(1892年)の銘がある。勘九郎地蔵との関連は分からない。


前橋市総社町総社の総社城南出口の子育て地蔵尊。

総社城南出口の子育地蔵 (1)
当地付近は総社城の城下町と旧元総社村との通路として用いられており、ここに木戸を設置し南出口としていた。この付近には五千石用水から分流し小川原堰から南流する用水があり、18世紀初頭に子どもの水難事故が発生したため、その供養として石造地蔵菩薩像が造立されたという。

以後、子どもの守護や子育て地蔵尊として地域に根付いている。

総社城南出口の子育地蔵 (2)
お堂内には小さな地蔵像が多数奉納されている。ご利益があった方がお礼参り時に奉納したものだろう。

総社城南出口の子育地蔵 (3)
総社城南出口の子育地蔵 (4)
総社城南出口の子育地蔵 (5)
地蔵堂の周りには双体道祖神、馬頭観音像、庚申塔などが集積されている。双体道祖神には紀年銘は見られないが「十一月吉日 鍛冶町」とある。鍛冶町は総社町内の旧字名らしい。


前橋市元総社町の化粧薬師(縁切り薬師)。

化粧薬師 (1)
化粧薬師 (2)
化粧薬師の謂われには大蛇伝説がある。当地の風呂沼に棲みついた大蛇が若い女性を要求し、里人が従わないと田畑を荒らし回った。里人はその厄を逃れるため、やむを得ず女性を人身御供とした。そこで犠牲になった女性を哀れんで薬師仏を造立、白粉と口紅を施し女性の霊を供養したといわれる。

区画整理事業(道路拡張・河川改修など)により、平成24年(2012年)牛池川(風呂川)に架かる薬師橋の袂から現在地に移転している。

化粧薬師 (3)
化粧薬師は嫁入り前の女性の化身であるため、嫁に行く娘はここを避けて通るようになり、その一方で離縁を願う女性はその望みが叶えられたという。そのため縁切り薬師とも呼ばれる。

お堂内には願掛けの人がお礼参りのときに奉納した(と思われる)小型の石仏も置かれている。薬師如来は衆生の病苦を救うとされ、特に眼病への霊験があると信じられていることからの風習。

化粧薬師 (4)
三大仏様と呼ばれる仏塔。元文4年(1739年)の造立。一万余りの小石に仏典の法華経、華厳経、般若経を墨書し、塔の下に納めたもの。昭和57年(1982年)に再建されている。

化粧薬師同様、区画整理事業のため平成24年(2012年)に現在地へ移転している。

化粧薬師 (5)
化粧薬師 (6)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。女人講塔(如意輪観音)は文政2年(1819年)の造立。

化粧薬師 (7)
道祖神。他の施設同様、平成24(2012年)年に現在地へ移転。

化粧薬師の謂われにある大蛇は、総社町総社の蛇穴山古墳の大蛇とされる。古墳を護った大蛇(被葬者とされる上毛野田道とも)が、当地では田畑を荒らし人身御供を要求している。伝説にも都合があると言うことかな(苦笑)。
(「上毛野田道の墳墓? -蛇穴山古墳-」参照)


前橋市石倉町4丁目の昌林山林倉寺。

林倉寺 (1)
林倉寺は慶長2年(1597年)行海法印の開山。

林倉寺 (2)
山門は平成6年(1994年)の再建。

林倉寺 (3)
山門を入ってすぐ六地蔵が鎮座している。

林倉寺 (4)
林倉寺 (5)
本堂は明治28年(1895年)に火災により焼失。同年、再建されている。火災の原因は猟師の放った弾丸だという。それが発火、強風により延焼。

由緒書きに、本堂には本尊の阿弥陀如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩を祀るとあった。通常の阿弥陀三尊の形式は脇侍が観音菩薩と勢至菩薩なので、珍しい組合わせだ。釈迦如来三尊の場合、文殊菩薩と普賢菩薩が多いけど。

林倉寺 (6)
本堂前の伝教大師(最澄)像。平成13年(2001年)の造立。

林倉寺 (7)
十王堂は昭和63年(1988年)の再建。同時に安置されている十王像も修復を行っているようだ。

林倉寺 (8)
林倉寺 (9)
片腕地蔵。江戸時代中頃、強盗に襲われた主人の身代わりになって右腕を犠牲にしたとされ、災難を一身に引き受ける地蔵として身代わり地蔵とも呼ばれる。江戸時代末から明治期には、近郷近在の人々の信仰を集めたという。

林倉寺 (10)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。一番右の地蔵菩薩像には文化2年(1805年)、隣の女人講塔(如意輪観音)には文政10年(1827年)の銘が読み取れた。

林倉寺 (11)
明治天皇御野立所跡の碑。明治11年(1878年)に明治天皇が前橋町(当時)へ行幸された際、利根川には舟橋しかなかったため万一に備え林倉寺で衣服を着替えるために休息された。舟橋は川に舟を並べ、その上に板などを敷いた仮設の橋のこと。

明治天皇が利根川を渡る際には、旧前橋藩の水練師範が門人10人と共に水中から警護したという。万々が一にも、何かあったら大変だからね。


前橋市粕川町室沢の赤城山全徳寺。

全徳寺 (1)
全徳寺はの由緒は不詳だが、文禄2年(1594年)山上・常広寺の玖山東◯(◯は読めなかった)の中興開山とされる。本堂の建立が天正6年(1578年)との伝承があるので、創建はその頃かもしれない。

全徳寺 (2)
境内の念仏供養塔や馬頭観音。

全徳寺 (3)
全徳寺 (4)
本堂横の薬師堂。「東方薬師如来」との扁額が掛かっていた。薬師堂は昭和50年(1975年)の建立。

全徳寺 (5)
多数の石仏が鎮座している。薬師堂なので、みな薬師如来石像かな。「東方薬師如来」とあるが、由緒などは分からない。


前橋市河原浜町の柊(ひいらぎ)薬師。
前回の応昌寺の境外仏堂となる。(応昌寺は「前橋市河原浜町・慈恵山応昌寺」参照)

柊薬師 (1)
柊薬師 (2)
慈恵大師(元三大師)が当地への巡錫のおり、この地に柊の大木が繁茂しているのを見て霊地・霊場とせんと薬師如来の尊像を刻し安置したのが始まりとされる。

お堂は昭和55年(1980年)に改築されている。

柊薬師 (3)
柊薬師 (4)
中には手前に新しい薬師如来坐像と、後ろ(棚の上)に日光・月光を従えた薬師如来像がある。後ろのものは安山岩製の舟形(上部が破損)で、薬師如来など三尊が半肉刻されている。造立年代は不明。

現在、どちらが本尊扱いになっているのかな分からない。

柊薬師 (5)
柊薬師 (6)
「樹齢300年ほどの柊の古木がある」とのことだが、よく分からなった。一般にイメージする柊はトゲがある葉だが、お堂の周り木々を見る限りトゲは見当たらなかった(ように見えた)。樹齢を重ねていくとトゲが減ってくるといわれるので、そうなのかな。

調べたら葉にトゲのない丸葉柊というのがあるらしいが、園芸用の品種とあったので違うと思うし・・・。


前橋市堀越町の堀越共同墓地の石幢。

堀越共同墓地の石幢 (1)
堀越共同墓地の石幢は総高191cmの石燈籠形。円柱状の幢身に六角形の中台を乗せ、その上に六角柱の1面に1体ずつ6体の地蔵が彫った龕部を乗せている。江戸時代中期のものと推定される。

堀越共同墓地の石幢 (3)
地蔵像が彫りされている。

ちなみに、お寺の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、幢幡を6枚または8枚組み合わせてかけている様子を、六角・八角の石柱で表わしたものが石幢とされる。


高崎市箕郷町松之沢の百観音。

松之沢の百観音 (1)
松之沢の百観音は長さ30m、奥行き10mの範囲内に、十一面観音・千手観音・聖観音・如意輪観音などの観音像が合計133体並んでいる。

松之沢の百観音 (2)
松之沢の百観音 (3)
入口正面には六地蔵がある。

松之沢の百観音 (5)
松之沢の百観音 (6)
松之沢の百観音 (7)
松之沢の百観音 (8)
観音像の詳細な造立年代は不明だが、一部に安永(1772~81年)、寛政(1789~1801年)、享和(1801~04年)の元号が読みとれる。

観音像が133体あるので、各地の観音霊場巡りを合計したものと考えられる。四国(33ヶ所)、西国(33ヶ所)板東(33ヶ所)、秩父(34ヶ所)の計133ヶ所かな。現地を巡礼できない人々のために観音霊場を模した観音像を建立し、巡礼したのと同じご利益を得ることができるとされた。

松之沢の百観音 (4)
観音像に囲まれて建つ宝篋印塔。享保12年(1727年)の紀年銘とともに、長純寺・狐俊和尚と信州高遠石工の名が記されている。


高崎市箕郷町善地の上善地の百観音

上善地の百観音 (1)
上善地の百観音は高台の墓地に、墓石を囲むように十一面観音・馬頭観音・聖観音などが並んでいる。126体あると言う。

上善地の百観音 (2)
上善地の百観音 (3)
上善地の百観音 (4)
観音像はすべて舟形光背の浮彫りで、村名と願主名が刻まれている。先に126体あると書いたが、元は133体あったのではないだろうか。各地の観音霊場(四国・西国・坂東・秩父など)巡りを模しているのだと思う。

上善地の百観音 (5)
この墓地の墓石群はすっごく立派なものが多く、地元有力者の一族のお墓なのかな。写真の宝篋印塔には明和7年(1770年)の銘があった。


安中市安中3丁目の碓氷山長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺 (2)
長徳寺は正中年間(1324~26年)呑海上人の開創。呑海は遊行上人4世。遊行上人とは時宗の指導者に対する敬称。

長徳寺 (3)
山門前の青面金剛塔などの庚申塔。

長徳寺 (4)
本堂は明治39年(1906年)の安中谷津の大火で類焼・焼失。長期に渡り庫裡を兼用本堂としていたが、昭和35年(1960年)に再建している。

長徳寺 (5)
暦応3年(1340年)銘のある板碑。南無阿弥陀仏と彫られている。ちなみに、暦応は南北朝期の北朝の元号で、南朝は延元・興国。

長徳寺 (6)
踊躍念仏供養塔。安政2年(1856年)の造立。「踊躍」というくらいだから、念仏踊りを伴っていたのかな。

ところで、長徳寺には安中草三郎の妻・歌の胴体が葬られているともいわれる。これは噺と現実がごっちゃになっている面もあり、事実かは分からないのだが(噺中では正徳寺となっている)。歌は草三郎に首を切られて殺されてしまい、首は同じく安中の東光院に葬られている(とされる)。

関連
 「安中草三の碑
 「安中草三郎の妻・歌の墓? -東光院-


安中市岩井の多層塔。

岩井の多層塔
岩井の多層塔は、昭和19年(1944年)岩井西の平古墳より出土。形状などから造立は鎌倉時代と推定される。

案内板には「安中市にただ一基だけの貴重な塔」ってあったけど、安中市には他にそれなりの時代の宝塔の類い(五輪塔など)は残ってないの?

岩井大河原の庭園にて保存されていたが、平成14年(2002年)に現在地(岩野谷公民館)に移転されている。ちょっと駐車場の隅で、余り良い場所ではないかな。


高崎市吉井町小棚の薬師堂。

小棚薬師堂 (1)
小棚薬師堂 (2)
小棚薬師堂は昭和3年(1928年)太田市の反町薬師(照明寺)からお札をいただき建立。お堂は平成元年(1989年)に改築されている。

小棚薬師堂 (3)
薬師如来石像が多数並んでいる。いずれも昭和以降の造立かな。願掛け・成就による返納のしきたりがあるのかもしれない。

小棚薬師堂 (4)
小棚薬師堂 (5)
平成元年のお堂改築時、地区内に散在していた地蔵像・馬頭観音像・庚申塔などを集積している。


邑楽郡千代田町福島の大福山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は寛文4年(1664年)慶印和尚の開山。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
本堂は昭和45年(1970年)の建立。

福島金剛寺 (4)
福島金剛寺 (5)
馬頭観音石像。貞享元年(1684年)に当時の福島村の人々が、所願成就の願いを込め造立。像高109cmで頭上に馬頭を乗せ、忿怒の相をしている。

福島金剛寺 (6)
福島金剛寺 (7)
墓地内の大師堂。中央には弘法大師(空海)像。

福島金剛寺 (8)
境内に「賽の河原地蔵和讃」という歌碑があった。平成22年(2010年)建碑。非常に長いのでほとんど読まなかったが、七五調の句を連ねた形式で作られている。

一般的に「和讃」は、仏教(お釈迦さまや諸仏)、祖師・先人の徳、経典・教義などを日本語でほめたたえる歌のこと。


安中市板鼻の釜渕山大乗院如来寺。

大乗院 (1)
大乗院の創建は不詳。慶長年間(1596~1615年)に堀口出羽守貞忠が中興したとされる。堀口貞忠については分からない。

大乗院 (2)
大乗院 (3)
境内は旧18号バイパスで南北に分断されている。南側には薬師堂がある。

大乗院 (4)
境内の聖観音。また新しそうなので、お寺として存続しているようだ。

大乗院 (5)
北側(高台)には歴代住職の墓地と並んで2基の石幢がある。いずれも六地蔵が施されている。どちらか確認出来なかったが、明暦2年(1656年)の銘があるという。

境内の南側はかつて断崖で、直下に碓氷川が流れていた。そこに釜が渕と呼ばれる深淵があったことから、山号が釜渕山となったとされる。


高崎市福島町の永光山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は永享6年(1434年)恵裕上人の開山。永禄9年(1566年)箕輪城落城の際に焼失したが、箕輪城代となった内藤正豊が再建している。当時は字西浦北にあったが、江戸時代半ばに三国街道の整備に伴い現在地に移転。その後荒廃していたが、寛政元年(1789年)法印宗英が中興開山した。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
福島金剛寺 (4)
門前には石祠、庚申塔、二十二夜塔、六地蔵などが整然と並ぶ。

福島金剛寺 (5)
本堂は平成27年(2015年)の新築建立。

福島金剛寺 (6)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。手前左には仏足石、右には不動明王像。山門に「修験道神変加持祈祷道場」と掲げられていることから、護摩行(加持祈祷)などを行っているかな。不動明王像はその関係か。

福島金剛寺 (7)
中興の法印宗英の墓(供養塔)。寛政元年(1789年)の銘がある。

福島金剛寺 (8)
福島金剛寺 (9)
福島金剛寺 (10)
本堂裏にある「顔切り薬師」。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

福島金剛寺 (11)
お堂内には新旧6体の石仏があるが、後方右が「顔切り薬師」像。

福島金剛寺 (12)
福島金剛寺 (13)

「顔切り薬師」像は南北朝末から室町初期の造立と推定されている。この薬師像には次のような伝説が残っている。

江戸時代初期、当地に住み着いた夜盗が村内を荒らし回っていた。夜盗は次々と無理難題を吹っかけ、娘たちに乱暴を働くようにもなった。ある夜、夜盗が弘法ヶ池で沐浴する美女を襲ったところ、はね返されたので太刀で斬りつけた。翌日、池から寺まで血の跡が残っており、薬師像の顔が真横から切られていた。池では夜盗が口に菱を詰め込まれ息絶えていた。美女に姿を変え、顔を切られながらも村人を救ってくれた薬師さまを、村人たちは「顔切り薬師」と呼んで崇敬したという。

福島金剛寺 (14)
「顔き切り薬師」の後方には樫の木の巨木が薬師を見守っている。


みどり市笠懸町西鹿田の来迎阿弥陀三尊笠塔婆。

来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (1)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (2)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩と勢至菩薩)の来迎図を薄肉彫りした笠塔婆である。現在、笠石は失われている。天神山産出の凝灰岩製で、総高105cm(阿弥陀如来像は25cm、観音菩薩像・勢至菩薩像は各17cm)。阿弥陀如来は蓮華座で来迎印を結ぶ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

来迎図は阿弥陀三尊が死者の魂を瑞雲に乗って迎えにくるのを表現したもの。死後に阿弥陀浄土に生まれ変わろうと願う、浄土信仰の高まりを示している。

浄土宗開祖・法然の弟子・智明が、法然から与えられた阿弥陀如来像を桐生まで持ち帰り崇禅寺を開いて以降、現在の東毛地区には早くから浄土信仰が広まっている(鎌倉時代初期)。(「智明上人の開創 -崇禅寺-」参照)


みどり市笠懸町西鹿田の中島の薬師如来。

中島の薬師如来 (1)
中島の薬師如来 (2)
中島地区の薬師堂内に2基の薬師如来が祀られている。

中島の薬師如来 (3)
向かって左の薬師如来像は、安山岩製で像高46cmの半肉彫坐像。光背上部は欠損している。右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印を結び、左手には薬壺を持っている。戦国時代の造立と考えられ、みどり市指定の重要文化財となっている。

右側の薬師如来については情報がなく分からない。見た目の感じとして、もう少し造立年代は新しいようだ。

2基の薬師如来は目(眼)の神様として、地域の人々の信仰を受けている。


高崎市箕郷町富岡の道場山真福寺。

真福寺 (1)
真福寺の由緒は不詳。現状を見ると観音堂(写真)以外何もないので、既に廃寺になっている? それとも観音堂以外移転している?

箕郷町誌(昭和50年:1975年)には写真入りで真福寺が載ってるので、それ以降に変化があったようだ。

真福寺 (2)
真福寺 (3)
観音堂は「箕郷三観音」と言われ、旧箕郷町三観音堂のひとつとされる。

真福寺 (4)
観音堂に掲げられている歌の奉納額。明治16年(1883年)に西群馬郡金敷平村の方が奉納。金敷平村は現在の箕郷町金敷平。

真福寺 (5)
観音堂の裏に石仏群が並んでいる。庚申塔が2基あり、1基は寛政12年(1800年)の造立で市川米庵の書。もう1基は安政7年(1860年)の造立で安中藩の儒者・太山融斎の書。

真福寺 (6)
青面金剛像と薬師如来像。薬師如来像には安永9年(1780年)の銘がある。

真福寺 (7)
真福寺 (8)
地蔵菩薩像と並び、阿弥陀三尊の梵字を刻んだ板碑がある。紀年銘はないが、総高95cmは旧箕郷町では唯一の大型板碑。ただ、残念ながら上から28cmのところで折れてしまっている(補修されているけど)。


高崎市箕郷町下芝の下芝山万福寺。

万福寺 (1)
万福寺の創建は数度の火災により古記録が失われたため不詳だが、開山の英伝法印の入寂が永正2年(1505年)とされるので、それ以前の創建と考えられる。

現在の本堂は安永7年(1778年)の再建。

万福寺 (2)
万福寺 (3)
青柳紋右衛門友忠が祖先供養のために百番霊場を巡拝(巡礼)、建立した宝篋印塔。安永4年(1775年)の造立。中には仏像が。青柳家は長野氏家臣の家柄。

万福寺 (4)
百番霊場巡拝供養塔。六角形の多宝塔型で安永5年(1776年)の造立。これも青柳紋右衛門友忠の造立と考えられる。

一般的に西国33札所巡拝などの諸国巡拝達成記念に建てられる供養塔。百番は西国33ヶ所、板東33ヶ所、秩父34ヶ所の100霊場。先の宝篋印塔は祖先のために建て、供養塔は地域の方々のために建てたということかな。

お年寄りや身体の弱い方などが、この供養塔をお参りすることで、100ヶ所巡拝したことと同じご利益が得られるとされるので、江戸時代に全国的の造立されている。

万福寺 (5)
観音菩薩と地蔵菩薩。平成2年(1990年)の造立。

万福寺 (6)
墓地の五輪塔。赤城型といわれるもので高さ145cm。「并諸檀那奉逆修応永廿八年拾月」の銘がある。逆修なので生前造立。また、応永28年は1414年。と言うことは、応永年間には万福寺は創建されていたということかな。


高崎市箕郷町西明屋の東向八幡宮。

東向八幡宮 (1)
東向八幡宮 (2)
東向八幡宮は文明6年(1474年)に箕輪城主・長野尚業が石清八幡宮の分霊を勧請し創建、箕輪城の総鎮守とした。有名な業正は尚業の孫に当たる。

徳川家康の関東移封後、井伊直政が箕輪城主になったが、慶長3年(1598年)に高崎に移ったため社殿は荒廃。元禄5年(1692年)に勝山藩主・酒井安芸守隼人正が社殿を造営している。(当時、安房勝山藩の飛び地領になっていた)

酒井安芸守が重病に罹った際、夢枕に「領内に東向八幡あり。我に祈願すれば必ず平癒する」とのお告げがあり、当社に平癒祈願をしたところ快癒したといわれる。以来、東向八幡宮と呼ばれるようになった。

東向八幡宮 (3)
東向八幡宮 (4)
現在の社殿は寛政元年(1789年)の再造営。最近では昭和42年(1967年)に修復されている。

東向八幡宮 (5)
東向八幡宮 (6)
本殿は昭和29年(1954年)に修復されている。彫刻も施され荘厳な佇まいを醸している。

東向八幡宮 (7)
東向八幡宮 (8)
本殿横に石幢がある。総高222cmで十三仏が浮彫りされている。文明6年(1474年)の銘があり、八幡宮創建時のものとされる。十三仏の彫刻入石幢は珍しい(六地蔵はなどが多い)。

↑このページのトップヘ