上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


前橋市富士見町石井の石井山珊瑚寺の4回目。
今回は「珊瑚寺の七不思議」について。
(過去記事は「珊瑚寺」「珊瑚寺2」「珊瑚寺3」参照)

珊瑚寺の七不思議 (1)
臥牛石。この石は人々が願いごとをすると、不思議にも牛に姿を変え、その人に代って信州善光寺にお参りしたという。

珊瑚寺の七不思議 (2)
珊瑚寺の七不思議 (3)
不動の滝。その昔、石井村の三代吉という男が「珊瑚寺境内に池を造るべし」との不動明王のお告げの夢を見た。信仰の篤い三代吉はさっそく工事に取りかかったが、工事は難航し思案にくれていると不動明王が現われ、瞬く間に滝を完成させたという。

珊瑚寺の七不思議 (4)
珊瑚寺の七不思議 (5)
穴薬師。この薬師像は弘法大師作と伝えられる。他所に遷されても、その夜の内に必ずこの穴に中に戻ってしまったことから「穴薬師」と呼ばれるようになった。

珊瑚寺の七不思議 (6)
涙の梅。梶原景時の女(むすめ)が「勝道上人所縁のお寺で、頼朝と景時父子の霊を供養せよ」との言い伝えに従い珊瑚寺にたどり着いた。その時、女が携えていた梅の杖をここに挿し、その梅が根付いたもの。

当時、月の澄んだ晩に和尚が禅定(仏教で言う心が動揺しなくなった一定の状態)に入っていると、その姿に感服した梅の木から露がしたたり落ちた。以後、涙の梅と呼ばれるようになった。念仏を唱えながら、この周りを3回廻ると露がしたたると伝わる。

珊瑚寺の七不思議 (7)
鏡池。この池はどんなに日旱が続いても、長雨で大水が出るようなときでも、水量は増減することなく常に澄んだ水を湛えているという。

珊瑚寺の七不思議 (8)
赤面観音。鏡池の中央に祀られている如意輪観音は、一心に願をかけながらその顔に池の水を掛け続けると、顔が赤く変化し願いが叶えられると伝わる。

珊瑚寺の七不思議 (9)
乳房の銀杏。この大銀杏は乳の不足する産後の婦人が、この木の枝で作った箸で食事をすると乳の出が良くなるといわれている。

珊瑚寺の紹介は以上で終了です。珊瑚寺は「花の寺百ヶ寺」のひとつになっており、桜やつつじ・紫陽花を始めとする四季折々の花が咲くなど、豊かな自然に恵まれたお寺である。


前橋市田口町の赤城山宝林寺。

宝林寺 (1)
宝林寺の由緒は不詳だが、越後国の僧が戦国時代の無常をはかなみ、戦没者供養のため橘山の南麓に草庵を営み観音像を安置したのが始まりとされる。後に現在地に移転する際、松平重良が開基となり林泉寺(新潟県上越市)から鉄山正鎖を招き開山としている。

宝林寺 (2)
宝林寺 (3)
山門の門扉には三つ葉葵紋が施されている。開基の松平重良についてはよく分からないが、本家に近い家系なのかな。庶流・傍流は葵紋を使えないので。

宝林寺 (4)
門前の六地蔵。正徳元年(1711年)の造立。

宝林寺 (5)
宝林寺 (6)
門前には馬頭観音や地蔵などの石仏も並ぶ。その中で特徴的な石仏があった。何かなと思うが、おそらく脱衣婆像。

宝林寺 (7)
宝林寺 (8)
山門からの距離の関係で、本堂の写真の両側が切れてしまった。

宝林寺 (9)
境内にも六地蔵がある。昭和56年(1981年)の造立。

宝林寺 (10)
石造観音菩薩坐像。二重の蓮華座に座り背に舟形の光背を背負っている。安山岩製で高さ48cm。応永20年(1413年)の銘がある。前橋市の重文に指定されている。

観音像は元は観音山古墳(現在は消滅)の墳頂に安置されていたが、平成17年(2005年)に宝林寺に遷されている。

宝林寺 (11)
宝林寺 (12)
大きな柿の木にたくさんの柿が実っていた。訪問時はまだ色づきが薄い感じだった。細長い実なので、干し柿にするタイプの渋柿かな(違っていたらすみません)。


前橋市田口町の薬師如来像と筆子塚

薬師如来と筆子塚 (1)
桃木川の西側に両手で薬つぼを持った薬師如来石像と、それに並んで塩原慎斎の弟子が建てた筆子塚がある。

薬師如来と筆子塚 (2)
薬師如来石像は文化2年(1805年)の造立。土台には「薬師講 新町中・田口村中・関根村中・荒牧村・横室村・真壁村・米野村・中箱田村・下箱田村・川端村」等の銘があり、近郷の村々から広く信仰されていたことが分かる。

この薬師さまは「やん目」の仏様と呼ばれ、目の病気にかかったときは薬師さまに祈願すると治るとされる。

ある時、この薬師さまを宝林寺に遷すことになり村人が大勢で運ぼうとしたが、土地を離れるのを悲しんでとても重くなり運べなくなってしまった。そこで元の場所に戻そうとしたところ、今度は軽くなり容易に動かすことができたと伝えられている。

薬師如来と筆子塚 (3)
筆子塚は嘉永5年(1852年)に塩原慎斎の弟子たちが慎斎のために建てたものである。一般的に筆子塚とは、寺子屋などの教え子が死んだ師匠の遺徳を偲んで建てる墓(供養塔)のこと。寺子屋の生徒のことを「筆子」と言ったため。

この筆子塚は慎斎の生前に建てられているので、厳密には筆子碑とでも言うのかな。石碑の碑文は慎斎の戒名であるが、慎斎は龍海院の住職から生前に戒名を授けられていた。碑文は慎斎の筆による。(「塩原慎斎の墓」参照)

慎斎は弟子に対して我が子のように深い愛情を持って指導したので、老若を問わず「お師匠さま」の愛称で呼ばれた。弟子の中には北橘村や富士見村から通ってきた者もいたという。


佐波郡玉村町樋越の日吉山花台寺。

花台寺 (1)
花台寺は元亀元年(1570年)阿佐美氏(阿佐見とも)が世良田・総持寺から宥清法印を開山に招き創建したとされる。

阿佐美氏は藤姓足利氏を自称していたが、児玉党を構成する一族。阿佐美氏の祖・庄弘方(しょう ひろかた)の家系は藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能とされる。藤原秀郷が藤原北家魚名流とされるので、藤原北家からみで藤姓足利氏の一族と自称したのだろう(本姓として藤原姓を名乗っていたようだ)。

花台寺 (2)
六地蔵は平成9年(1997年)の造立。

花台寺 (3)
水かけ地蔵。地蔵像自体は新しい。水かけ地蔵の由緒は分からない。

花台寺 (4)
花台寺 (5)
本堂は近年の新規建立と思われる。

花台寺 (6)
旧本堂に乗っていた瓦だと思う。家紋が二つ引(引両紋)だが、これは源氏の足利氏のでは?

花台寺 (7)
五智如来石仏。元禄2年(1689年)の造立。中央の大日如来が胎蔵界の仏で、他の四仏は金剛界という不思議な組み合わせとなっている。五仏揃っているのは非常に貴重なものである。一体の背面には「阿佐美氏重長」の銘があり、施主と推定される。

花台寺 (8)
聖観音坐像。正徳6年(1716年)の造立。

花台寺 (9)
宝篋印塔や庚申塔など。宝篋印塔は安永5年(1776年)、庚申塔は元文年間(1736~41年)、明和年間(1764~72年)の造立。

花台寺 (10)
小坊主さんの石像。「私はしあわせ」ってお顔をしている。

花台寺は阿佐美氏の館跡とされるが、遺構は残っていないようだ。ちなみに、阿佐美氏の祖・庄弘方は源頼朝と木曽義仲との「宇治川の合戦」(永寿3年/1184年)で、先陣争いを行った佐々木高綱や梶原景季に続き川を渡ったと「源平盛衰記」に書かれているほどの武人とされる。


北群馬郡吉岡町下野田の子育て地蔵尊。

下野田子育地蔵尊 (1)
下野田子育地蔵尊 (2)
下野田の子育て地蔵尊は享保6年(1721年)の造立。お堂は昭和10年(1935年)ころ、各戸が20銭ほどの寄進をし建立されている。

子育て地蔵尊は幼時の夜泣きや疫病を封じる願を掛け、お礼に赤や白の布地で作ったよだれ掛けを奉納した。現在も多くの参拝があるようだ。


高崎市後疋間町の宝塔。

後疋間の宝塔
後疋間の宝塔は基礎部に随求陀羅尼と光明真言の経文を刻み、生前に供養したことを示す逆修の文字もある。向かって右の宝塔は文安3年(1446年)、左の宝塔は宝徳元年(1449年)の銘がある(中央は江戸時代の石塔)。

県内の宝塔で紀年銘があり完全な形をしているものは少ないので、貴重な存在である。


高崎市西国分町の日光・月光菩薩石像。

日光・月光菩薩石像
日光菩薩石像(向かって左)と月光菩薩石像(右)。日光像は総高50cm、像高41cm。月光像は総高60cm、像高42cm。南北朝期の造立と考えられている。

一般的に日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍仏とされているので、薬師如来像と合わせ薬師三尊像であったと思われる。


高崎市東国分町の国分山常安寺。

常安寺 (1)
常安寺 (2)
常安寺は慶安4年(1651年)法印自賢覚仙の開山、当地の庄屋・盛次の開基と伝わる。文化4年(1807年)隣家の失火により類焼、文化7年(1810年)再建。現在の本堂の様子から無住になって久しいようだ。

常安寺 (3)
境内の宝篋印塔。総高6mに及ぶ大きなもので、当地の住谷勝造が寛政元年(1789年)に造立。銘に「石工信州高遠御堂垣外村住、保科増衛門英親」とある。

常安寺 (4)
常安寺 (5)
墓地の小さなお堂には「へそ抜き観音」が安置されている。石宮には寛永7年(1630年)の銘があった。

観音像は石宮内のため見ることは出来ないが、観音像のお腹に穴が開いている。この穴に指を入れるとお腹が痛くなるといわれる。安産の観音さまとされており、お産を軽くするため指を入れる人が多いという。

常安寺 (6)
常安寺 (7)
歴代住職の墓(無縫塔)の中の行人塚。延宝4年(1676年)に即身仏になったという窩啓法印を葬ったもの。無縫塔の台石に開いている穴は空気取り用の穴とされる。


高崎市菅谷町の菅谷山大壱寺。

大壱寺 (1)
大壱寺は大同2年(807年)霊伝上人の開山と伝わる古刹である。

大壱寺 (2)
境内入口脇の六地蔵は平成7年(1995年)の造立。

大壱寺 (3)
大壱寺 (4)
本堂は平成6年(1994年)の建立。明治31年(1898年)建立の前本堂が昭和36年(1961年)に火災で焼失。それ以降、仮本堂で凌いできていた。

大壱寺 (5)
聖観音。平成6年(1994年)の造立。

大壱寺 (6)
大壱寺 (7)
石塔や仏塔・石仏群。

大壱寺 (8)
本堂前に3基の五輪塔がある。康永2年(1343年)、永和9年(1383年)、明徳4年(1393年)の銘がある室町初期(南北朝期)の宝塔。当地の豪族の墓(もしくは供養塔)と考えられている。旧群馬町最古の五輪塔とされている。

ちなみに高崎市の旧市部最古の五輪塔も康永2年の造立で、倉賀野町の玄頂寺にある。
(「高崎市阿久津町・大翁山玄頂寺」参照)

ところで本堂の新築を記した記念碑に、当地に菅谷城があり長野業正の長男・吉業の居館であったと書かれている。また天文5年(1546年)川越夜戦の戦傷により没した吉業は当寺(大壱寺)に葬られたとある。さらに弟で箕輪城主の業盛についても、討死後に首級は井出の原、胴体は当寺に収められたとある。

長野氏に関しては不明な点も多く、いろんな説や伝承があると言うこと。

関連
 「長野業正の長男 吉業の墓・満行山善龍寺 その2
 「伝・長野業盛の墓
 「高崎市保渡田町・落合観音堂


高崎市菅谷町の石塚の虎薬師(石塚は旧字名)。

石塚の虎薬師 (1)
虎薬師の由緒は不詳だが、口碑では応仁元年(1467年)祐賢というものが菅谷村に落ち着き、仏門に入り一宇を建立し薬師如来を安置したといわれる。祐賢は浄眼寺の開山とされている。(「高崎市菅谷町・昌徳山浄眼寺」参照)

石塚の虎薬師 (2)
石塚の虎薬師 (3)
虎薬師という名称の由来は、どの方向に向けて据えてもいつの間にか寅の方角(東北東)を向いてしまうからといわれる。現在の薬師如来像は宝暦5年(1755年)の造立。

石塚の虎薬師 (4)
虎薬師は眼病に霊験があるとされる。虎薬師前にはご利益があった方がお礼参り時に奉納したと思われる石仏が多数ある。ほとんど読めない案内板には「お出子」を供える慣習があるとあった。「お出子」って何? 石仏のこと?

ところで、虎薬師が鎮座しているのは石塚古墳(薬師塚古墳、堤ヶ岡5号墳などとも)と呼ばれる円墳上である。ほとんど削られており面影はない。ちなみに、すぐ側を通る高渋線バイパスの交差点の名称は「石塚古墳南」である。


高崎市棟高町の山王猿の石神。

山王猿の石神 (1)
ここは棟高の庚申塚と呼ばれ、青面金剛塔や猿田彦神の石塔、庚申塔などの庚申信仰(講)関連の石塔・石碑が並ぶ。

山王猿の石神 (2)
中央の石宮は日吉(ひえ)宮で、隣にその使いである山王猿がいる。

山王猿の石神 (3)
この山王猿は雌で、子授け・婦人病などに霊験があるとされる。そして大願が成就すると、猿像の陰部に紅(朱)色を入れて供物をあげる風習が残っている。そのため猿像には赤い(色落ちしてピンクになっているが)腰巻きが巻かれている。

山王猿の石神 (4)
山王猿の石神 (5)
庚申塔と青面金剛塔。

庚申信仰は平安時代に日本に入ってきたとされるが、民間信仰として盛んになったのは江戸時代のことである。庚申の「申(サル)」から「猿」が庚申の神使とされた。これは天台宗の総本山・比叡山の地主神・山王(日吉大社)の神使「猿」の影響もあってのことと思われる。

ついでに、神道における庚申の主神は、猿つながりから猿田彦神とされる。地方の道ばたに猿田彦神の石塔(石碑)をよく見かけるが、これも庚申塔の一種である。もちろん、もともとの意味合いである道しるべ・道祖神としての場合も多い(こっちの方が多いかな)。


渋川市白井の白井宿の2回目。
今回は宿内の石造物などの紹介。(歴史や町並みは「渋川市白井・白井宿」参照)

白井宿 (1)
白井宿の北の入口にあたる北木戸口すぐにある「清水下の地蔵尊」。享保元年(1716年)の造立で、総高230cmの大型比丘形。子どもの夜泣きに効くとのことから、願をかける家が多くあった。

白井宿 (2)
同じく北城戸口に鎮座する琴平宮。総高151cmの石宮は、信州・木洗馬の渡辺門司郎の作とされる。

白井宿 (3)
天台宗の学僧・尭恵法印の歌碑。文明13年(1486年)に白井城に立ち寄った尭恵が、歌の会で詠んだ「月と共に神を詠む」と題した歌。

尭恵は諸国を巡り「善光寺紀行」「北国紀行」などの紀行文を著している。白井城に立ち寄ったのは、この「北国紀行」として著された旅の途中である。

白井宿 (4)
白井町の道しるべ。白井堰の傍らに建てられており、高さ170cm・幅38cmである。建立は江戸末の嘉永2年(1849年)。

白井宿 (5)
白井宿 (6)
寛永元年(1624年)薬師の井戸掘削中に、底にまばゆく光る虎にまたがる薬師如来像が見つかった。この薬師如来像を「虎薬師」と名付け、お堂を建てて祀ることとした。以来、薬師の井戸は涸れることなく、現在も多くの家で使われている。

白井宿 (7)
羅漢水の塔(法華経供養塔)。白井宿は水利の便が悪かったため、薬師の井戸・延命水の井戸が掘られていたが、それだけでは宿全体の飲料水としては不足していた。そこで叶屋(金井氏)が私財を投じ、寛政7年(1795年)に掘ったのが羅漢水の井戸。井戸の成功を祈り十六羅漢の供養を行ったことから「羅漢水」と命名された。

また雙林寺37世・玉州大泉が「羅漢井記」を記したことから、それを刻んだ法華経供養塔を寛政11年(1799年)に建立している。

白井宿 (8)
万葉歌碑。「利根川の川瀬も知らず直渡り 波に逢ふのす逢える君かも」。

白井宿 (9)
地蔵尊石堂。北向に建てられているので北向地蔵尊と呼ばれる。建立は延享3年(1746年)。北向きなのは町への入口(木戸口)が、地蔵尊から見て北にあるからといわれる。総高296cm。

江戸末に他所に遷されていたが、明治11年(1878年)の元の場所に再建(再遷座)している。


前橋市上新田町のお地蔵さま。
上新田町の北と南の入口には、それぞれお地蔵さまが鎮座している。

上新田町のお地蔵さん (1)
上新田町のお地蔵さん (2)
南のお地蔵さまは下新田町との境界に近い福徳寺や新田小の近くに鎮座する。かつてのお地蔵さまは昭和10年(1935年)の利根川の洪水により頭部を損傷。修復して崇めてきたが、平成24年(2012年)に新規建立されている。

上新田町のお地蔵さん (3)
北のお地蔵さまは、現在は朝日が丘町となっている前橋長瀞線(旧道)わきに鎮座する。朝日が丘町は昭和38年(1963年)に上新田町の最北部が分離した町。

このお地蔵さまは「京安寺のお地蔵さま」と呼ばれる。上新田町から利根川の対岸(東側)あたる六供町にあった京安寺の西大門のお地蔵さまと伝わる。

京安寺は神亀3年(726年)創建と伝わる古寺だが、戦国時代に兵火にかかり現在では六供町内に地名として残るのみらしい。京安寺に関係する地名(字名)として南大門・北大門・中央門・堂木などもあるようだ。

当時は利根川が変流する前で、上新田と六供は地続きであった。相当長い参道があったことになる(つまりはかなりの大寺院)。

上新田町のお地蔵さん (4)
上新田町のお地蔵さん (5)
上新田雷電神社へ向かう道沿いにもお地蔵さまがいる。詳細は分からない。
(雷電神社は「前橋市上新田町・雷電神社」参照)

お地蔵さまは古来より道祖神としての性格(村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ)を持つとともに、「子供の守り神」として信仰されている。


前橋市総社町総社の勘九郎地蔵。

勘九郎地蔵 (1)
勘九郎地蔵 (2)
江戸時代末、当地には伝授庵という寺があり、そこへ勘九郎という旅の僧侶がやって来て即身仏になるための修行を重ねていた。そして村人が見守る中、立派に即身仏になられたという。この仏を敬い、明治24年(1891年)に町の人たちによって、この地蔵が建立された。現在も交通安全や学業成就などのご利益があるとされる。

ちなみに、即身仏とは生きたまま土中などに入定し(空気穴は通す)、読経や瞑想を続けながらそのままミイラ化すること。主に衆生救済を目的とする。

勘九郎地蔵 (3)
勘九郎地蔵 (4)
お堂内には奉納された地蔵像が多数収められている。多くの願が成就しているようだ。

勘九郎地蔵 (5)
お堂脇の琴平宮石塔。明治25年(1892年)の銘がある。勘九郎地蔵との関連は分からない。


前橋市総社町総社の総社城南出口の子育て地蔵尊。

総社城南出口の子育地蔵 (1)
当地付近は総社城の城下町と旧元総社村との通路として用いられており、ここに木戸を設置し南出口としていた。この付近には五千石用水から分流し小川原堰から南流する用水があり、18世紀初頭に子どもの水難事故が発生したため、その供養として石造地蔵菩薩像が造立されたという。

以後、子どもの守護や子育て地蔵尊として地域に根付いている。

総社城南出口の子育地蔵 (2)
お堂内には小さな地蔵像が多数奉納されている。ご利益があった方がお礼参り時に奉納したものだろう。

総社城南出口の子育地蔵 (3)
総社城南出口の子育地蔵 (4)
総社城南出口の子育地蔵 (5)
地蔵堂の周りには双体道祖神、馬頭観音像、庚申塔などが集積されている。双体道祖神には紀年銘は見られないが「十一月吉日 鍛冶町」とある。鍛冶町は総社町内の旧字名らしい。


前橋市元総社町の化粧薬師(縁切り薬師)。

化粧薬師 (1)
化粧薬師 (2)
化粧薬師の謂われには大蛇伝説がある。当地の風呂沼に棲みついた大蛇が若い女性を要求し、里人が従わないと田畑を荒らし回った。里人はその厄を逃れるため、やむを得ず女性を人身御供とした。そこで犠牲になった女性を哀れんで薬師仏を造立、白粉と口紅を施し女性の霊を供養したといわれる。

区画整理事業(道路拡張・河川改修など)により、平成24年(2012年)牛池川(風呂川)に架かる薬師橋の袂から現在地に移転している。

化粧薬師 (3)
化粧薬師は嫁入り前の女性の化身であるため、嫁に行く娘はここを避けて通るようになり、その一方で離縁を願う女性はその望みが叶えられたという。そのため縁切り薬師とも呼ばれる。

お堂内には願掛けの人がお礼参りのときに奉納した(と思われる)小型の石仏も置かれている。薬師如来は衆生の病苦を救うとされ、特に眼病への霊験があると信じられていることからの風習。

化粧薬師 (4)
三大仏様と呼ばれる仏塔。元文4年(1739年)の造立。一万余りの小石に仏典の法華経、華厳経、般若経を墨書し、塔の下に納めたもの。昭和57年(1982年)に再建されている。

化粧薬師同様、区画整理事業のため平成24年(2012年)に現在地へ移転している。

化粧薬師 (5)
化粧薬師 (6)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。女人講塔(如意輪観音)は文政2年(1819年)の造立。

化粧薬師 (7)
道祖神。他の施設同様、平成24(2012年)年に現在地へ移転。

化粧薬師の謂われにある大蛇は、総社町総社の蛇穴山古墳の大蛇とされる。古墳を護った大蛇(被葬者とされる上毛野田道とも)が、当地では田畑を荒らし人身御供を要求している。伝説にも都合があると言うことかな(苦笑)。
(「前橋市総社町・蛇穴山古墳」参照)


前橋市石倉町4丁目の昌林山林倉寺。

林倉寺 (1)
林倉寺は慶長2年(1597年)行海法印の開山。

林倉寺 (2)
山門は平成6年(1994年)の再建。

林倉寺 (3)
山門を入ってすぐ六地蔵が鎮座している。

林倉寺 (4)
林倉寺 (5)
本堂は明治28年(1895年)に火災により焼失。同年、再建されている。火災の原因は猟師の放った弾丸だという。それが発火、強風により延焼。

由緒書きに、本堂には本尊の阿弥陀如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩を祀るとあった。通常の阿弥陀三尊の形式は脇侍が観音菩薩と勢至菩薩なので、珍しい組合わせだ。釈迦如来三尊の場合、文殊菩薩と普賢菩薩が多いけど。

林倉寺 (6)
本堂前の伝教大師(最澄)像。平成13年(2001年)の造立。

林倉寺 (7)
十王堂は昭和63年(1988年)の再建。同時に安置されている十王像も修復を行っているようだ。

林倉寺 (8)
林倉寺 (9)
片腕地蔵。江戸時代中頃、強盗に襲われた主人の身代わりになって右腕を犠牲にしたとされ、災難を一身に引き受ける地蔵として身代わり地蔵とも呼ばれる。江戸時代末から明治期には、近郷近在の人々の信仰を集めたという。

林倉寺 (10)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。一番右の地蔵菩薩像には文化2年(1805年)、隣の女人講塔(如意輪観音)には文政10年(1827年)の銘が読み取れた。

林倉寺 (11)
明治天皇御野立所跡の碑。明治11年(1878年)に明治天皇が前橋町(当時)へ行幸された際、利根川には舟橋しかなかったため万一に備え林倉寺で衣服を着替えるために休息された。舟橋は川に舟を並べ、その上に板などを敷いた仮設の橋のこと。

明治天皇が利根川を渡る際には、旧前橋藩の水練師範が門人10人と共に水中から警護したという。万々が一にも、何かあったら大変だからね。


前橋市粕川町室沢の赤城山全徳寺。

全徳寺 (1)
全徳寺はの由緒は不詳だが、文禄2年(1594年)山上・常広寺の玖山東◯(◯は読めなかった)の中興開山とされる。本堂の建立が天正6年(1578年)との伝承があるので、創建はその頃かもしれない。

全徳寺 (2)
境内の念仏供養塔や馬頭観音。

全徳寺 (3)
全徳寺 (4)
本堂横の薬師堂。「東方薬師如来」との扁額が掛かっていた。薬師堂は昭和50年(1975年)の建立。

全徳寺 (5)
多数の石仏が鎮座している。薬師堂なので、みな薬師如来石像かな。「東方薬師如来」とあるが、由緒などは分からない。


前橋市河原浜町の柊(ひいらぎ)薬師。
前回の応昌寺の境外仏堂となる。(応昌寺は「前橋市河原浜町・慈恵山応昌寺」参照)

柊薬師 (1)
柊薬師 (2)
慈恵大師(元三大師)が当地への巡錫のおり、この地に柊の大木が繁茂しているのを見て霊地・霊場とせんと薬師如来の尊像を刻し安置したのが始まりとされる。

お堂は昭和55年(1980年)に改築されている。

柊薬師 (3)
柊薬師 (4)
中には手前に新しい薬師如来坐像と、後ろ(棚の上)に日光・月光を従えた薬師如来像がある。後ろのものは安山岩製の舟形(上部が破損)で、薬師如来など三尊が半肉刻されている。造立年代は不明。

現在、どちらが本尊扱いになっているのかな分からない。

柊薬師 (5)
柊薬師 (6)
「樹齢300年ほどの柊の古木がある」とのことだが、よく分からなった。一般にイメージする柊はトゲがある葉だが、お堂の周り木々を見る限りトゲは見当たらなかった(ように見えた)。樹齢を重ねていくとトゲが減ってくるといわれるので、そうなのかな。

調べたら葉にトゲのない丸葉柊というのがあるらしいが、園芸用の品種とあったので違うと思うし・・・。


前橋市堀越町の堀越共同墓地の石幢。

堀越共同墓地の石幢 (1)
堀越共同墓地の石幢は総高191cmの石燈籠形。円柱状の幢身に六角形の中台を乗せ、その上に六角柱の1面に1体ずつ6体の地蔵が彫った龕部を乗せている。江戸時代中期のものと推定される。

堀越共同墓地の石幢 (3)
地蔵像が彫りされている。

ちなみに、お寺の内陣の須弥壇を取り囲んで掛けられる細長い布製の旗を幢幡と呼び、幢幡を6枚または8枚組み合わせてかけている様子を、六角・八角の石柱で表わしたものが石幢とされる。


高崎市箕郷町松之沢の百観音。

松之沢の百観音 (1)
松之沢の百観音は長さ30m、奥行き10mの範囲内に、十一面観音・千手観音・聖観音・如意輪観音などの観音像が合計133体並んでいる。

松之沢の百観音 (2)
松之沢の百観音 (3)
入口正面には六地蔵がある。

松之沢の百観音 (5)
松之沢の百観音 (6)
松之沢の百観音 (7)
松之沢の百観音 (8)
観音像の詳細な造立年代は不明だが、一部に安永(1772~81年)、寛政(1789~1801年)、享和(1801~04年)の元号が読みとれる。

観音像が133体あるので、各地の観音霊場巡りを合計したものと考えられる。四国(33ヶ所)、西国(33ヶ所)板東(33ヶ所)、秩父(34ヶ所)の計133ヶ所かな。現地を巡礼できない人々のために観音霊場を模した観音像を建立し、巡礼したのと同じご利益を得ることができるとされた。

松之沢の百観音 (4)
観音像に囲まれて建つ宝篋印塔。享保12年(1727年)の紀年銘とともに、長純寺・狐俊和尚と信州高遠石工の名が記されている。


高崎市箕郷町善地の上善地の百観音

上善地の百観音 (1)
上善地の百観音は高台の墓地に、墓石を囲むように十一面観音・馬頭観音・聖観音などが並んでいる。126体あると言う。

上善地の百観音 (2)
上善地の百観音 (3)
上善地の百観音 (4)
観音像はすべて舟形光背の浮彫りで、村名と願主名が刻まれている。先に126体あると書いたが、元は133体あったのではないだろうか。各地の観音霊場(四国・西国・坂東・秩父など)巡りを模しているのだと思う。

上善地の百観音 (5)
この墓地の墓石群はすっごく立派なものが多く、地元有力者の一族のお墓なのかな。写真の宝篋印塔には明和7年(1770年)の銘があった。

安中市安中3丁目の碓氷山長徳寺。

長徳寺 (1)
長徳寺 (2)
長徳寺は正中年間(1324~26年)呑海上人の開創。呑海は遊行上人4世。遊行上人とは時宗の指導者に対する敬称。

長徳寺 (3)
山門前の青面金剛塔などの庚申塔。

長徳寺 (4)
本堂は明治39年(1906年)の安中谷津の大火で類焼・焼失。長期に渡り庫裡を兼用本堂としていたが、昭和35年(1960年)に再建している。

長徳寺 (5)
暦応3年(1340年)銘のある板碑。南無阿弥陀仏と彫られている。ちなみに、暦応は南北朝期の北朝の元号で、南朝は延元・興国。

長徳寺 (6)
踊躍念仏供養塔。安政2年(1856年)の造立。「踊躍」というくらいだから、念仏踊りを伴っていたのかな。

ところで、長徳寺には安中草三郎の妻・歌の胴体が葬られているともいわれる。これは噺と現実がごっちゃになっている面もあり、事実かは分からないのだが(噺中では正徳寺となっている)。歌は草三郎に首を切られて殺されてしまい、首は同じく安中の東光院に葬られている(とされる)。

関連
 「安中草三の碑
 「安中草三郎の妻・歌の墓?・十輪山東光院


安中市岩井の多層塔。

岩井の多層塔
岩井の多層塔は、昭和19年(1944年)岩井西の平古墳より出土。形状などから造立は鎌倉時代と推定される。

案内板には「安中市にただ一基だけの貴重な塔」ってあったけど、安中市には他にそれなりの時代の宝塔の類い(五輪塔など)は残ってないの?

岩井大河原の庭園にて保存されていたが、平成14年(2002年)に現在地(岩野谷公民館)に移転されている。ちょっと駐車場の隅で、余り良い場所ではないかな。


高崎市吉井町小棚の薬師堂。

小棚薬師堂 (1)
小棚薬師堂 (2)
小棚薬師堂は昭和3年(1928年)太田市の反町薬師(照明寺)からお札をいただき建立。お堂は平成元年(1989年)に改築されている。

小棚薬師堂 (3)
薬師如来石像が多数並んでいる。いずれも昭和以降の造立かな。願掛け・成就による返納のしきたりがあるのかもしれない。

小棚薬師堂 (4)
小棚薬師堂 (5)
平成元年のお堂改築時、地区内に散在していた地蔵像・馬頭観音像・庚申塔などを集積している。


邑楽郡千代田町福島の大福山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は寛文4年(1664年)慶印和尚の開山。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
本堂は昭和45年(1970年)の建立。

福島金剛寺 (4)
福島金剛寺 (5)
馬頭観音石像。貞享元年(1684年)に当時の福島村の人々が、所願成就の願いを込め造立。像高109cmで頭上に馬頭を乗せ、忿怒の相をしている。

福島金剛寺 (6)
福島金剛寺 (7)
墓地内の大師堂。中央には弘法大師(空海)像。

福島金剛寺 (8)
境内に「賽の河原地蔵和讃」という歌碑があった。平成22年(2010年)建碑。非常に長いのでほとんど読まなかったが、七五調の句を連ねた形式で作られている。

一般的に「和讃」は、仏教(お釈迦さまや諸仏)、祖師・先人の徳、経典・教義などを日本語でほめたたえる歌のこと。


安中市板鼻の釜渕山大乗院如来寺。

大乗院 (1)
大乗院の創建は不詳。慶長年間(1596~1615年)に堀口出羽守貞忠が中興したとされる。堀口貞忠については分からない。

大乗院 (2)
大乗院 (3)
境内は旧18号バイパスで南北に分断されている。南側には薬師堂がある。

大乗院 (4)
境内の聖観音。また新しそうなので、お寺として存続しているようだ。

大乗院 (5)
北側(高台)には歴代住職の墓地と並んで2基の石幢がある。いずれも六地蔵が施されている。どちらか確認出来なかったが、明暦2年(1656年)の銘があるという。

境内の南側はかつて断崖で、直下に碓氷川が流れていた。そこに釜が渕と呼ばれる深淵があったことから、山号が釜渕山となったとされる。


高崎市福島町の永光山金剛寺。

福島金剛寺 (1)
金剛寺は永享6年(1434年)恵裕上人の開山。永禄9年(1566年)箕輪城落城の際に焼失したが、箕輪城代となった内藤正豊が再建している。当時は字西浦北にあったが、江戸時代半ばに三国街道の整備に伴い現在地に移転。その後荒廃していたが、寛政元年(1789年)法印宗英が中興開山した。

福島金剛寺 (2)
福島金剛寺 (3)
福島金剛寺 (4)
門前には石祠、庚申塔、二十二夜塔、六地蔵などが整然と並ぶ。

福島金剛寺 (5)
本堂は平成27年(2015年)の新築建立。

福島金剛寺 (6)
弘法大師像。昭和58年(1983年)の造立。手前左には仏足石、右には不動明王像。山門に「修験道神変加持祈祷道場」と掲げられていることから、護摩行(加持祈祷)などを行っているかな。不動明王像はその関係か。

福島金剛寺 (7)
中興の法印宗英の墓(供養塔)。寛政元年(1789年)の銘がある。

福島金剛寺 (8)
福島金剛寺 (9)
福島金剛寺 (10)
本堂裏にある「顔切り薬師」。鳥居は平成3年(1991年)の建立。

福島金剛寺 (11)
お堂内には新旧6体の石仏があるが、後方右が「顔切り薬師」像。

福島金剛寺 (12)
福島金剛寺 (13)

「顔切り薬師」像は南北朝末から室町初期の造立と推定されている。この薬師像には次のような伝説が残っている。

江戸時代初期、当地に住み着いた夜盗が村内を荒らし回っていた。夜盗は次々と無理難題を吹っかけ、娘たちに乱暴を働くようにもなった。ある夜、夜盗が弘法ヶ池で沐浴する美女を襲ったところ、はね返されたので太刀で斬りつけた。翌日、池から寺まで血の跡が残っており、薬師像の顔が真横から切られていた。池では夜盗が口に菱を詰め込まれ息絶えていた。美女に姿を変え、顔を切られながらも村人を救ってくれた薬師さまを、村人たちは「顔切り薬師」と呼んで崇敬したという。

福島金剛寺 (14)
「顔き切り薬師」の後方には樫の木の巨木が薬師を見守っている。


みどり市笠懸町西鹿田の来迎阿弥陀三尊笠塔婆。

来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (1)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆 (2)
来迎阿弥陀三尊笠塔婆は、阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩と勢至菩薩)の来迎図を薄肉彫りした笠塔婆である。現在、笠石は失われている。天神山産出の凝灰岩製で、総高105cm(阿弥陀如来像は25cm、観音菩薩像・勢至菩薩像は各17cm)。阿弥陀如来は蓮華座で来迎印を結ぶ。鎌倉時代後期の造立と推定される。

来迎図は阿弥陀三尊が死者の魂を瑞雲に乗って迎えにくるのを表現したもの。死後に阿弥陀浄土に生まれ変わろうと願う、浄土信仰の高まりを示している。

浄土宗開祖・法然の弟子・智明が、法然から与えられた阿弥陀如来像を桐生まで持ち帰り崇禅寺を開いて以降、現在の東毛地区には早くから浄土信仰が広まっている(鎌倉時代初期)。(「桐生市川内町・萬松山崇禅寺」参照)


みどり市笠懸町西鹿田の中島の薬師如来。

中島の薬師如来 (1)
中島の薬師如来 (2)
中島地区の薬師堂内に2基の薬師如来が祀られている。

中島の薬師如来 (3)
向かって左の薬師如来像は、安山岩製で像高46cmの半肉彫坐像。光背上部は欠損している。右手を上げ掌を外側に向けた施無畏印を結び、左手には薬壺を持っている。戦国時代の造立と考えられ、みどり市指定の重要文化財となっている。

右側の薬師如来については情報がなく分からない。見た目の感じとして、もう少し造立年代は新しいようだ。

2基の薬師如来は目(眼)の神様として、地域の人々の信仰を受けている。

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