上州まったり紀行

Tigerdream が群馬県内の神社仏閣、遺跡・史跡・古墳、資料館などを紹介するブログ

カテゴリ: 群馬の石仏・宝塔・板碑・塔婆


利根郡昭和村糸井の井宝山長慶寺。

長慶寺 (1)
長慶寺は度々の火災により古記録類が失われておりその由緒は不詳だが、文禄年間(1592~96年)沼田舒林寺9世・独翁祐存和尚の開山と伝わる。

4世・傑千英叟和尚が宝永4年(1707年)に残した記録によると、村の長者が母親の供養のため阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂を建て、尼寺としたのが始まりという(年代不明)。永正年間(1504~21年)に学問・武芸のいずれにも優れていた長慶春悦という僧がおり、その名にちなんで井宝山長慶寺と言うようになったとされる。

長慶寺 (2)
長慶寺 (3)
参道の庚申関係(庚申塔や二十一夜供養塔など)と禁葷酒山門碑。庚申塔は元禄8年(1695年)、二十一夜待供養塔は嘉永2年(1849年)、禁葷酒山門碑は安永4年(1775年)の造立。

長慶寺 (4)
本堂は地区の集会場のような建物。

長慶寺 (5)
長慶寺 (6)
板碑は正応2年(1289年)の建碑。緑泥片岩製で高さ150cm、幅43cmと大型の板碑である。以前は永仁2年(1294年)銘の板碑もあったようだが、現在は失われている。

この板碑を「長者が母親の供養のために建てた」と考え、長慶寺の前身である阿弥陀堂建立の時期を正応・永仁年間(1288~94年)とする説もあるようだ。

長慶寺 (7)
六面地蔵。令和2年(2020年)草むしりを手伝ってくれた子どもたちが、土中から発見したもの。六地蔵宝幢の一部に見える。恐らく宝珠や幢身なども埋まっていると思われる。

長慶寺 (8)
翌令和3年(2021年)には、多くの石仏が同様に発見された。現在は本堂裏に六面地蔵を含め、綺麗に安置されている。


利根郡昭和村貝野瀬の田岸の宝篋印塔。

田岸の宝篋印塔 (1)
田岸の宝篋印塔は宝永4年(1707年)の造立で、高さは1.7m。旧糸之瀬村内に5基あったうちの最古のものだが、原型を留めているのは本基のみである。他の3基は塔身の上下がチグハグ(違う)、もう1基は銅製であったため先の大戦時に供出されている。

この宝篋印塔が建っている場所は個人宅の裏庭(?)のようで、なんとも見学しづらい場所だ。県道沿いなので個人宅へ入り込むことはないが、ちょっと気を遣う必要がある。

田岸の宝篋印塔 (2)
田岸の宝篋印塔は昭和村の重文に指定されている。そのため解説板が隣にあるのだが、読み始めていきなり違和感。「蓬栄四年」って? 「宝永四年」の間違い。原稿作成時の変換ミスだろうが、そのままのようだ。まあ、昔の年号など普通は知らないからね。


甘楽郡甘楽町天引の大日堂の石仏。

大日堂の石仏 (1)
大日堂の由緒は不詳だが、大日如来を祀っているのでその名で呼ばれている(と考えられる)。

大日堂の石仏 (2)
中を見ると、上下に仏像が2体ある。

大日堂の石仏 (3)
棚上の1体は幕が掛かっており像容は分からない。

大日堂の石仏 (4)
壇下には扉があり顔部のみ確認できるが、摩耗した石仏がある。扉はいつも開いているのか知らないが、開いていてよかった。こちらが今回の「大日堂の石仏」となる。

ちなみに、甘楽町のHPでは棚上の木像を大日如来、壇下の石仏を種類不明としている。一方、昭和3年(1928年)刊行の「北甘楽郡史」では棚上を観音菩薩、壇下石仏を大日如来としている。

大日堂の石仏 (5)
石仏は天引石(砂岩)製で、全高(台座から光背上まで)162cm、最大幅104cm。過去に洪水被害に遭ったため全体に破損が認められ、特に顔の損傷が激しい。像は鎌倉時代の製作と推定されている。

この石仏の下半身はお堂の床下にある。北甘楽郡史には「半身土中に埋もれているので、その全身の丈は分からない」とある。現在は全高の数値が出ているので、埋まってはいないみたいだが。なぜこのような状態で安置されている(いた)のだろうか?

大日堂の石仏 (6)
お堂の脇(北側)に大日如来塔があった。安永9年(1780年)の造立。

帰ってきてから地図を確認したら、お堂のすぐ西側を流れているのは三途川だった。ここにお堂が建てられ石仏が祀られているのは、意味があるということ。

関連
 「甘楽町金井・姥子堂


富岡市宮崎の宮崎山薬師寺。

薬師寺 (1)
薬師寺は天正年間(1573~92年)に奥平信昌が開基となり、開山に慈眼大師(天海)の高弟・春圓僧都を招き開山。奥平信昌が宮崎に3万石を領したのは天正18年(1590年)なので、それ以降の創建となる。

薬師寺 (2)
奥平氏の祈願所として郡内屈指の仏堂・伽藍を誇っていたようであるが、奥平氏が慶長6年(1601年)に美濃加納へ国替えとなり、また以降数度の火災により古記録などを焼失。現在はかなりこぢんまりとした本堂があるのみである。

本尊の薬師如来像(石像)は秘仏で、奥平信昌正室・亀姫(徳川家康長女)の祈念仏という。ただ、昭和59年(1984年)刊の富岡市史では薬師寺の本尊は阿弥陀如となっているので、亀姫祈念仏などは散逸しているようだ。

薬師寺 (3)
境内の六地蔵は平成19年(2007年)の造立。

薬師寺 (4)
薬師寺 (5)
奪衣婆像。元は宮崎と一ノ宮の境界あたりにあったようだが、薬師寺に遷されている。富岡市内の奪衣婆像では最大である。地元では「ショウヅカバアサン(正塚婆さん)」と親しまれており、頭をなでると頭痛が治るといわれ信仰されている。


渋川市北橘町上南室の相ノ田地蔵尊。

相ノ田地蔵尊 (1)
相ノ田地蔵尊は木曽義仲四天王のひとり楯六郎親忠の末裔がお堂を建立し、地蔵尊を安置したのが始まりとされる。楯親忠は地蔵尊を厚く信仰していたという。親忠は寿永3年(1184年)の宇治川の戦で討死している。

義仲四天王とは一般に樋口兼光、今井兼平、根井行親、楯親忠を言う。根井行親の6男が楯親忠である。また、樋口兼光と今井兼平は兄弟で、巴御前の兄とされる。

相ノ田地蔵尊 (2)
相ノ田地蔵尊 (3)
地蔵堂は火災で焼失してしまったが、新たに石造地蔵尊を建立し地域の人々が子どもの成長や病気治癒祈願を行なってきた。団子や焼餅をお供えしていたため、いつしか焼餅地蔵尊と呼ばれるようになった。

火災後、長らく露座の状態だったようだが、大正14年(1925年)にお堂が再建されている。地蔵尊は風化したようで、お顔の凹凸などがほぼ無くなっているようだ(かわいい前掛けにばかり目が行ってしまうが)。

楯親忠の末裔と当地との関係はと言うと、義仲や親忠討死後に今井兼平の次男・兼之や根井行親の妻などが、義仲3男・義基を匿い北橘村箱田に落ち延びたとする伝承がある。そのため旧北橘村には木曽義仲やその一族に関する伝説・伝承が多く残っている。

渋川市北橘町箱田の木曽三柱神社境内にあった朝日塚古墳(現在は削平されてしまった)は義基の墓と伝わる。同じく木曽三柱神社の本殿が建っているのが将軍塚古墳で、こちらには義仲の首と遺品が納められていると伝わる。
(「渋川市北橘町箱田・木曽三柱神社」参照)


富岡市妙義町諸戸の霜林山随應寺。

随應寺 (1)
随應寺は慶安2年(1649年)の創建とされる。ただ、それ以前から五香庵と称する草庵があり、それが随應寺になったという。

随應寺 (2)
門前の如意輪観音(二十二夜塔)は弘化5年(1849年)の造立。

随應寺 (3)
山門は明和2年(1765年)年の建立。山門楼上(2階)には不動明王像が祀られている。この不動明王像は当地に住み着いていた一山和尚という行者が、常に背負っていたものという。

この一山和尚は結果的に村から追い出されるような形で出て行くのだが、その際に名主を怨み、呪詛の言葉を残して出て行ったという。その後、名主の家は断絶したといわれる。

随應寺 (4)
山門の石垣は妙義神社の石垣を積んだ余りの石を持ってきて使ったという。けっこう精巧に積まれている。

随應寺 (5)
門前の地蔵像。お地蔵さん自体は新しいが、台座には文化3年(1806年)とあった。

随應寺 (6)
随應寺 (7)
本堂と白壁がきれいな土蔵。いずれも詳細は不明。

随應寺 (8)
随應寺 (9)
境内の観音堂。由緒などは分からない。

随應寺 (10)
墓地入り口のショウヅカノジイサン(右)とバアサンと呼ばれる石像がある。風邪をひいた時に、真綿の帽子を被せると頭痛が治るという。

これは明らかに閻魔大王と奪衣婆である。「ショウヅカノバアサン」は「正塚婆」で、奪衣婆の別名。閻魔大王のことを「ショウヅカノジイサン」とは呼ばないが、奪衣婆とのセットでそう呼ばれるようになったと考えられる。

奪衣婆に関する民間信仰(疫病除けや咳止め、特に子どもの百日咳にご利益がある)が元になっていると考えられる(真綿の帽子を被せるなど)。

随應寺 (11)
本堂裏から裏山にある墓地へ上がるところに「サルに食べ物を与えないでください」との旧妙義町時代の看板があった。確かに野生のサルがいてもおかしくない感じの山あいだけど。


富岡市妙義町行沢の北向観音。

行沢北向観音 (1)
行沢北向観音 (2)
北向き観音の由緒は不詳。厄除け観音として知られる。お堂は「八棟造りの屋根でないと燃えてしまう」と言い伝えられているが、現在のお堂は方形(四角)である。

ちなみに八棟造りとは、複雑な形状に配置された棟を多数配置し、それぞれの棟に破風を備えた豪奢な屋根を重ねて配置する建築様式。「八」は「多数」の意味。神社や江戸期の豪華な民家(豪農など)に多く用いられた形式。費用がかさむので、いつの頃からか方形のお堂を建立したのだと思う。

行沢北向観音 (3)
堂内には浮き彫りの石仏が3体安置されている。中央が本尊の観音さま。他の2体は風化もしており、よく分からない。


行沢北向観音 (4)
観音さまには文政6年(1823年)の銘が大きく書かれている。墨を入れているのかな。

昔、地区で草競馬をしていたころ(明治期あたりかな)は、この観音さまをモッコに入れて4~5人でかついで運び、競馬場に立てておくとケガがないといわれた。


富岡市妙義町八木連の弘法大師の爪引き地蔵。

弘法大師の爪引き地蔵 (1)
その昔、弘法大師が正法寺に滞在していた時、この像を爪で描いたと伝えられている。厳密には、当時正法寺はまだ創建されていないので、その前身である草庵でのことになる。正法寺の由緒からすると、弘仁7年(816年)のことになる。

弘法大師の爪引き地蔵 (2)
高さ136cm、幅74cmの安山岩自然石に、像高98cm、肩幅51cmの地蔵像を線彫りしたもの。

弘法大師の爪引き地蔵 (3)
富岡市の解説板によると、こんな感じの地蔵像が描かれているらしい。実物ではほとんど分からない。

この地蔵像は、現在地から東側にある小川の石橋として使用されていたといわれる。橋を通行するの際に、馬が倒れたり躓くことが多かったので村人が不思議に思って調べたところ、地蔵菩薩が彫られていたので当地に祀ったという。

弘法大師の爪引き地蔵 (4)
爪引き地蔵の前にある碑は「行人塚」とされる。昔、当地へ来た僧がここへ生きたまま埋めてもらい、錫杖の音がしなくなったら往生したと思ってくれと言い残して入定した場所とされる。

関連
 「富岡市妙義町八木連・弘法の井戸
 「富岡市妙義町八木連・龍池山正法寺


安中市松井田町八城の先倉山吉祥寺。

吉祥寺 (1)
吉祥寺は正保2年(1645年)祐覚法印の開創。すぐ隣の先倉神社の別当寺として先倉山の山号を持つ。文政8年(1825年)に火災により焼失、翌年再建されている。

吉祥寺 (2)
吉祥寺 (3)
本堂は無住のためか老朽化が著しい。中の様子はうかがい知れないが、ご本尊(千手観音)などは大丈夫なのだろうか? この千手観音は新田義貞の念持仏と古くから伝えられている。

吉祥寺 (4)
吉祥寺 (5)
吉祥寺 (6)
境内の八塔石紅地蔵尊。現在の地蔵堂は平成5年(1993年)の建立。

元禄12年(1699年)小幡藩(藩主は織田信久)の税が高いことを14ヶ村の代表8名が江戸幕府へ訴え出た。8名は死罪は免れたが「処払い」となった。この8名の義人の恩を忘れないため、元禄15年(1702年)に建立された。

当時の小幡藩主・織田信久は大和宇陀藩から養子に入っているが、信長次男・信雄の孫にあたる。信久の治世は64年の長きに渡り、この間に新田開発や治水工事に尽力して藩政を安定化させたが、5割もの年貢増徴を行った上に労働課役などによる領民の負担も増やしたため、領民の不満は大きく直訴につながった。

吉祥寺 (7)
紅地蔵と呼ばれる所以は、村の女人が地蔵に紅をつけて病気平癒を祈願したところ、たちまち全快したことから、それ以後紅をつける者が後を絶たず、ついに全身紅粉に染まってしまったことから紅地蔵と呼ばれることになった。

吉祥寺 (8)
墓地の聖観音像。昭和53年(1978年)の造立。

吉祥寺には明治初年の神仏分離以降、蛸薬師如来の石像が安置されていた。この薬師如来石像は、元亀年中(1570~73年)越後国長岡の海中より漁師の網に引っかかったもの。経緯は不明だが、妙義山(神社?)に納められていたという。まだあるのかな?


前橋市下細井町の薬師如来堂。

下細井の薬師堂 (1)
下細井薬師如来堂の由緒は不詳。

下細井の薬師堂 (2)
下細井の薬師堂 (3)
一般的に薬師如来はこの世における衆生の疾病を治癒して寿命を延ばすとされ、無明の病を直す法薬を与える医薬の仏として信仰を集めている。下細井の薬師如来も眼病治癒にご利益があるとされ、薬師像を1体借りて、病気が治ったら2体お返しする風習がある。

下細井の薬師堂 (4)
下細井の薬師堂 (5)
下細井の薬師堂 (6)
境内には虚空蔵堂があり、虚空蔵菩薩が祀られている。由緒などは不明。手前の注連縄で虚空蔵菩薩像がよく写ってないが。

下細井の薬師堂 (7)
境内入口には鳥居がある。薬師如来、虚空蔵菩薩とも仏教系なのだが。

下細井の薬師堂 (8)
下細井の薬師堂 (9)
境内には石宮(水神宮など)や十二社参拝記念碑、三峰神社など、神道系の施設・遺物もある。

もとは寺院だったのか神社だったのか不明だが、神仏混淆の名残なのかな。


前橋市荒牧町2丁目の新田お不動さま。

荒牧新田の不動尊 (1)
新田地区のお不動さまは元文元年(1736年)の創建と伝わる。前橋市都市計画事業により、昭和62年(1987年)現在地へ移転。新たに不動堂を建立している。

荒牧新田の不動尊 (2)
堂内には石塔形1体と石仏形2体が祀られている。中央がご本尊かな。

荒牧新田の不動尊 (3)
中央の石塔形には何も彫られていないように見える(不動明王が線刻されているのかもしれないが)。

新田のお不動さまには次のような逸話が残っている。明治22年(1889年)に発生した火災は新田地区にも燃え広がり大きな被害を出したが、お不動さまに近づいた火は急激に衰え、わら葺き(当時)のお堂と付近の2軒は火災から免れたという。

それ以来「火除けのお不動さま」としてより厚い信仰を集めている。

荒牧新田の不動尊 (4)
荒牧新田の不動尊 (5)
荒牧新田の不動尊 (6)
境内の石仏群。風化していて像容がよく分からないが、薬壺を持っているように見えるので薬師如来かな。


前橋市富士見町横室の横室の宝篋印塔。

横室の宝篋印塔 (1)
横室の宝篋印塔 (2)
横室の宝篋印塔は大正年間(1912~26年)に十二山の東南中腹を開墾中に出土したもの。安山岩製で総高95.5cm、相輪の一部(九輪の上部)を欠いている。

横室の宝篋印塔 (3)
塔身の四面には胎蔵界四仏が梵字で刻まれている。基壇部には「奉逆修 善祥禅尼 正長元年」とあり、善祥尼という尼僧が正長元年(1428年)に逆修(生前供養)のため造立したものと分かる。

紀年銘から「正長の宝篋印塔」とも呼ばれている。


前橋市富士見町石井の石井山珊瑚寺の4回目。
今回は「珊瑚寺の七不思議」について。
(過去記事は「珊瑚寺」「珊瑚寺2」「珊瑚寺3」参照)

珊瑚寺の七不思議 (1)
臥牛石。この石は人々が願いごとをすると、不思議にも牛に姿を変え、その人に代って信州善光寺にお参りしたという。

珊瑚寺の七不思議 (2)
珊瑚寺の七不思議 (3)
不動の滝。その昔、石井村の三代吉という男が「珊瑚寺境内に池を造るべし」との不動明王のお告げの夢を見た。信仰の篤い三代吉はさっそく工事に取りかかったが、工事は難航し思案にくれていると不動明王が現われ、瞬く間に滝を完成させたという。

珊瑚寺の七不思議 (4)
珊瑚寺の七不思議 (5)
穴薬師。この薬師像は弘法大師作と伝えられる。他所に遷されても、その夜の内に必ずこの穴に中に戻ってしまったことから「穴薬師」と呼ばれるようになった。

珊瑚寺の七不思議 (6)
涙の梅。梶原景時の女(むすめ)が「勝道上人所縁のお寺で、頼朝と景時父子の霊を供養せよ」との言い伝えに従い珊瑚寺にたどり着いた。その時、女が携えていた梅の杖をここに挿し、その梅が根付いたもの。

当時、月の澄んだ晩に和尚が禅定(仏教で言う心が動揺しなくなった一定の状態)に入っていると、その姿に感服した梅の木から露がしたたり落ちた。以後、涙の梅と呼ばれるようになった。念仏を唱えながら、この周りを3回廻ると露がしたたると伝わる。

珊瑚寺の七不思議 (7)
鏡池。この池はどんなに日旱が続いても、長雨で大水が出るようなときでも、水量は増減することなく常に澄んだ水を湛えているという。

珊瑚寺の七不思議 (8)
赤面観音。鏡池の中央に祀られている如意輪観音は、一心に願をかけながらその顔に池の水を掛け続けると、顔が赤く変化し願いが叶えられると伝わる。

珊瑚寺の七不思議 (9)
乳房の銀杏。この大銀杏は乳の不足する産後の婦人が、この木の枝で作った箸で食事をすると乳の出が良くなるといわれている。

珊瑚寺の紹介は以上で終了です。珊瑚寺は「花の寺百ヶ寺」のひとつになっており、桜やつつじ・紫陽花を始めとする四季折々の花が咲くなど、豊かな自然に恵まれたお寺である。


前橋市田口町の赤城山宝林寺。

宝林寺 (1)
宝林寺の由緒は不詳だが、越後国の僧が戦国時代の無常をはかなみ、戦没者供養のため橘山の南麓に草庵を営み観音像を安置したのが始まりとされる。後に現在地に移転する際、松平重良が開基となり林泉寺(新潟県上越市)から鉄山正鎖を招き開山としている。

宝林寺 (2)
宝林寺 (3)
山門の門扉には三つ葉葵紋が施されている。開基の松平重良についてはよく分からないが、本家に近い家系なのかな。庶流・傍流は葵紋を使えないので。

宝林寺 (4)
門前の六地蔵。正徳元年(1711年)の造立。

宝林寺 (5)
宝林寺 (6)
門前には馬頭観音や地蔵などの石仏も並ぶ。その中で特徴的な石仏があった。何かなと思うが、おそらく脱衣婆像。

宝林寺 (7)
宝林寺 (8)
山門からの距離の関係で、本堂の写真の両側が切れてしまった。

宝林寺 (9)
境内にも六地蔵がある。昭和56年(1981年)の造立。

宝林寺 (10)
石造観音菩薩坐像。二重の蓮華座に座り背に舟形の光背を背負っている。安山岩製で高さ48cm。応永20年(1413年)の銘がある。前橋市の重文に指定されている。

観音像は元は観音山古墳(現在は消滅)の墳頂に安置されていたが、平成17年(2005年)に宝林寺に遷されている。

宝林寺 (11)
宝林寺 (12)
大きな柿の木にたくさんの柿が実っていた。訪問時はまだ色づきが薄い感じだった。細長い実なので、干し柿にするタイプの渋柿かな(違っていたらすみません)。


前橋市田口町の薬師如来像と筆子塚

薬師如来と筆子塚 (1)
桃木川の西側に両手で薬つぼを持った薬師如来石像と、それに並んで塩原慎斎の弟子が建てた筆子塚がある。

薬師如来と筆子塚 (2)
薬師如来石像は文化2年(1805年)の造立。土台には「薬師講 新町中・田口村中・関根村中・荒牧村・横室村・真壁村・米野村・中箱田村・下箱田村・川端村」等の銘があり、近郷の村々から広く信仰されていたことが分かる。

この薬師さまは「やん目」の仏様と呼ばれ、目の病気にかかったときは薬師さまに祈願すると治るとされる。

ある時、この薬師さまを宝林寺に遷すことになり村人が大勢で運ぼうとしたが、土地を離れるのを悲しんでとても重くなり運べなくなってしまった。そこで元の場所に戻そうとしたところ、今度は軽くなり容易に動かすことができたと伝えられている。

薬師如来と筆子塚 (3)
筆子塚は嘉永5年(1852年)に塩原慎斎の弟子たちが慎斎のために建てたものである。一般的に筆子塚とは、寺子屋などの教え子が死んだ師匠の遺徳を偲んで建てる墓(供養塔)のこと。寺子屋の生徒のことを「筆子」と言ったため。

この筆子塚は慎斎の生前に建てられているので、厳密には筆子碑とでも言うのかな。石碑の碑文は慎斎の戒名であるが、慎斎は龍海院の住職から生前に戒名を授けられていた。碑文は慎斎の筆による。(「塩原慎斎の墓」参照)

慎斎は弟子に対して我が子のように深い愛情を持って指導したので、老若を問わず「お師匠さま」の愛称で呼ばれた。弟子の中には北橘村や富士見村から通ってきた者もいたという。


佐波郡玉村町樋越の日吉山花台寺。

花台寺 (1)
花台寺は元亀元年(1570年)阿佐美氏(阿佐見とも)が世良田・総持寺から宥清法印を開山に招き創建したとされる。

阿佐美氏は藤姓足利氏を自称していたが、児玉党を構成する一族。阿佐美氏の祖・庄弘方(しょう ひろかた)の家系は藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能とされる。藤原秀郷が藤原北家魚名流とされるので、藤原北家からみで藤姓足利氏の一族と自称したのだろう(本姓として藤原姓を名乗っていたようだ)。

花台寺 (2)
六地蔵は平成9年(1997年)の造立。

花台寺 (3)
水かけ地蔵。地蔵像自体は新しい。水かけ地蔵の由緒は分からない。

花台寺 (4)
花台寺 (5)
本堂は近年の新規建立と思われる。

花台寺 (6)
旧本堂に乗っていた瓦だと思う。家紋が二つ引(引両紋)だが、これは源氏の足利氏のでは?

花台寺 (7)
五智如来石仏。元禄2年(1689年)の造立。中央の大日如来が胎蔵界の仏で、他の四仏は金剛界という不思議な組み合わせとなっている。五仏揃っているのは非常に貴重なものである。一体の背面には「阿佐美氏重長」の銘があり、施主と推定される。

花台寺 (8)
聖観音坐像。正徳6年(1716年)の造立。

花台寺 (9)
宝篋印塔や庚申塔など。宝篋印塔は安永5年(1776年)、庚申塔は元文年間(1736~41年)、明和年間(1764~72年)の造立。

花台寺 (10)
小坊主さんの石像。「私はしあわせ」ってお顔をしている。

花台寺は阿佐美氏の館跡とされるが、遺構は残っていないようだ。ちなみに、阿佐美氏の祖・庄弘方は源頼朝と木曽義仲との「宇治川の合戦」(永寿3年/1184年)で、先陣争いを行った佐々木高綱や梶原景季に続き川を渡ったと「源平盛衰記」に書かれているほどの武人とされる。


北群馬郡吉岡町下野田の子育て地蔵尊。

下野田子育地蔵尊 (1)
下野田子育地蔵尊 (2)
下野田の子育て地蔵尊は享保6年(1721年)の造立。お堂は昭和10年(1935年)ころ、各戸が20銭ほどの寄進をし建立されている。

子育て地蔵尊は幼時の夜泣きや疫病を封じる願を掛け、お礼に赤や白の布地で作ったよだれ掛けを奉納した。現在も多くの参拝があるようだ。


高崎市後疋間町の宝塔。

後疋間の宝塔
後疋間の宝塔は基礎部に随求陀羅尼と光明真言の経文を刻み、生前に供養したことを示す逆修の文字もある。向かって右の宝塔は文安3年(1446年)、左の宝塔は宝徳元年(1449年)の銘がある(中央は江戸時代の石塔)。

県内の宝塔で紀年銘があり完全な形をしているものは少ないので、貴重な存在である。


高崎市西国分町の日光・月光菩薩石像。

日光・月光菩薩石像
日光菩薩石像(向かって左)と月光菩薩石像(右)。日光像は総高50cm、像高41cm。月光像は総高60cm、像高42cm。南北朝期の造立と考えられている。

一般的に日光・月光菩薩は薬師如来の脇侍仏とされているので、薬師如来像と合わせ薬師三尊像であったと思われる。


高崎市東国分町の国分山常安寺。

常安寺 (1)
常安寺 (2)
常安寺は慶安4年(1651年)法印自賢覚仙の開山、当地の庄屋・盛次の開基と伝わる。文化4年(1807年)隣家の失火により類焼、文化7年(1810年)再建。現在の本堂の様子から無住になって久しいようだ。

常安寺 (3)
境内の宝篋印塔。総高6mに及ぶ大きなもので、当地の住谷勝造が寛政元年(1789年)に造立。銘に「石工信州高遠御堂垣外村住、保科増衛門英親」とある。

常安寺 (4)
常安寺 (5)
墓地の小さなお堂には「へそ抜き観音」が安置されている。石宮には寛永7年(1630年)の銘があった。

観音像は石宮内のため見ることは出来ないが、観音像のお腹に穴が開いている。この穴に指を入れるとお腹が痛くなるといわれる。安産の観音さまとされており、お産を軽くするため指を入れる人が多いという。

常安寺 (6)
常安寺 (7)
歴代住職の墓(無縫塔)の中の行人塚。延宝4年(1676年)に即身仏になったという窩啓法印を葬ったもの。無縫塔の台石に開いている穴は空気取り用の穴とされる。


高崎市菅谷町の菅谷山大壱寺。

大壱寺 (1)
大壱寺は大同2年(807年)霊伝上人の開山と伝わる古刹である。

大壱寺 (2)
境内入口脇の六地蔵は平成7年(1995年)の造立。

大壱寺 (3)
大壱寺 (4)
本堂は平成6年(1994年)の建立。明治31年(1898年)建立の前本堂が昭和36年(1961年)に火災で焼失。それ以降、仮本堂で凌いできていた。

大壱寺 (5)
聖観音。平成6年(1994年)の造立。

大壱寺 (6)
大壱寺 (7)
石塔や仏塔・石仏群。

大壱寺 (8)
本堂前に3基の五輪塔がある。康永2年(1343年)、永和9年(1383年)、明徳4年(1393年)の銘がある室町初期(南北朝期)の宝塔。当地の豪族の墓(もしくは供養塔)と考えられている。旧群馬町最古の五輪塔とされている。

ちなみに高崎市の旧市部最古の五輪塔も康永2年の造立で、倉賀野町の玄頂寺にある。
(「高崎市阿久津町・大翁山玄頂寺」参照)

ところで本堂の新築を記した記念碑に、当地に菅谷城があり長野業正の長男・吉業の居館であったと書かれている。また天文5年(1546年)川越夜戦の戦傷により没した吉業は当寺(大壱寺)に葬られたとある。さらに弟で箕輪城主の業盛についても、討死後に首級は井出の原、胴体は当寺に収められたとある。

長野氏に関しては不明な点も多く、いろんな説や伝承があると言うこと。

関連
 「長野業正の長男 吉業の墓・満行山善龍寺 その2
 「伝・長野業盛の墓
 「高崎市保渡田町・落合観音堂


高崎市菅谷町の石塚の虎薬師(石塚は旧字名)。

石塚の虎薬師 (1)
虎薬師の由緒は不詳だが、口碑では応仁元年(1467年)祐賢というものが菅谷村に落ち着き、仏門に入り一宇を建立し薬師如来を安置したといわれる。祐賢は浄眼寺の開山とされている。(「高崎市菅谷町・昌徳山浄眼寺」参照)

石塚の虎薬師 (2)
石塚の虎薬師 (3)
虎薬師という名称の由来は、どの方向に向けて据えてもいつの間にか寅の方角(東北東)を向いてしまうからといわれる。現在の薬師如来像は宝暦5年(1755年)の造立。

石塚の虎薬師 (4)
虎薬師は眼病に霊験があるとされる。虎薬師前にはご利益があった方がお礼参り時に奉納したと思われる石仏が多数ある。ほとんど読めない案内板には「お出子」を供える慣習があるとあった。「お出子」って何? 石仏のこと?

ところで、虎薬師が鎮座しているのは石塚古墳(薬師塚古墳、堤ヶ岡5号墳などとも)と呼ばれる円墳上である。ほとんど削られており面影はない。ちなみに、すぐ側を通る高渋線バイパスの交差点の名称は「石塚古墳南」である。


高崎市棟高町の山王猿の石神。

山王猿の石神 (1)
ここは棟高の庚申塚と呼ばれ、青面金剛塔や猿田彦神の石塔、庚申塔などの庚申信仰(講)関連の石塔・石碑が並ぶ。

山王猿の石神 (2)
中央の石宮は日吉(ひえ)宮で、隣にその使いである山王猿がいる。

山王猿の石神 (3)
この山王猿は雌で、子授け・婦人病などに霊験があるとされる。そして大願が成就すると、猿像の陰部に紅(朱)色を入れて供物をあげる風習が残っている。そのため猿像には赤い(色落ちしてピンクになっているが)腰巻きが巻かれている。

山王猿の石神 (4)
山王猿の石神 (5)
庚申塔と青面金剛塔。

庚申信仰は平安時代に日本に入ってきたとされるが、民間信仰として盛んになったのは江戸時代のことである。庚申の「申(サル)」から「猿」が庚申の神使とされた。これは天台宗の総本山・比叡山の地主神・山王(日吉大社)の神使「猿」の影響もあってのことと思われる。

ついでに、神道における庚申の主神は、猿つながりから猿田彦神とされる。地方の道ばたに猿田彦神の石塔(石碑)をよく見かけるが、これも庚申塔の一種である。もちろん、もともとの意味合いである道しるべ・道祖神としての場合も多い(こっちの方が多いかな)。


渋川市白井の白井宿の2回目。
今回は宿内の石造物などの紹介。(歴史や町並みは「渋川市白井・白井宿」参照)

白井宿 (1)
白井宿の北の入口にあたる北木戸口すぐにある「清水下の地蔵尊」。享保元年(1716年)の造立で、総高230cmの大型比丘形。子どもの夜泣きに効くとのことから、願をかける家が多くあった。

白井宿 (2)
同じく北城戸口に鎮座する琴平宮。総高151cmの石宮は、信州・木洗馬の渡辺門司郎の作とされる。

白井宿 (3)
天台宗の学僧・尭恵法印の歌碑。文明13年(1486年)に白井城に立ち寄った尭恵が、歌の会で詠んだ「月と共に神を詠む」と題した歌。

尭恵は諸国を巡り「善光寺紀行」「北国紀行」などの紀行文を著している。白井城に立ち寄ったのは、この「北国紀行」として著された旅の途中である。

白井宿 (4)
白井町の道しるべ。白井堰の傍らに建てられており、高さ170cm・幅38cmである。建立は江戸末の嘉永2年(1849年)。

白井宿 (5)
白井宿 (6)
寛永元年(1624年)薬師の井戸掘削中に、底にまばゆく光る虎にまたがる薬師如来像が見つかった。この薬師如来像を「虎薬師」と名付け、お堂を建てて祀ることとした。以来、薬師の井戸は涸れることなく、現在も多くの家で使われている。

白井宿 (7)
羅漢水の塔(法華経供養塔)。白井宿は水利の便が悪かったため、薬師の井戸・延命水の井戸が掘られていたが、それだけでは宿全体の飲料水としては不足していた。そこで叶屋(金井氏)が私財を投じ、寛政7年(1795年)に掘ったのが羅漢水の井戸。井戸の成功を祈り十六羅漢の供養を行ったことから「羅漢水」と命名された。

また雙林寺37世・玉州大泉が「羅漢井記」を記したことから、それを刻んだ法華経供養塔を寛政11年(1799年)に建立している。

白井宿 (8)
万葉歌碑。「利根川の川瀬も知らず直渡り 波に逢ふのす逢える君かも」。

白井宿 (9)
地蔵尊石堂。北向に建てられているので北向地蔵尊と呼ばれる。建立は延享3年(1746年)。北向きなのは町への入口(木戸口)が、地蔵尊から見て北にあるからといわれる。総高296cm。

江戸末に他所に遷されていたが、明治11年(1878年)の元の場所に再建(再遷座)している。


前橋市上新田町のお地蔵さま。
上新田町の北と南の入口には、それぞれお地蔵さまが鎮座している。

上新田町のお地蔵さん (1)
上新田町のお地蔵さん (2)
南のお地蔵さまは下新田町との境界に近い福徳寺や新田小の近くに鎮座する。かつてのお地蔵さまは昭和10年(1935年)の利根川の洪水により頭部を損傷。修復して崇めてきたが、平成24年(2012年)に新規建立されている。

上新田町のお地蔵さん (3)
北のお地蔵さまは、現在は朝日が丘町となっている前橋長瀞線(旧道)わきに鎮座する。朝日が丘町は昭和38年(1963年)に上新田町の最北部が分離した町。

このお地蔵さまは「京安寺のお地蔵さま」と呼ばれる。上新田町から利根川の対岸(東側)あたる六供町にあった京安寺の西大門のお地蔵さまと伝わる。

京安寺は神亀3年(726年)創建と伝わる古寺だが、戦国時代に兵火にかかり現在では六供町内に地名として残るのみらしい。京安寺に関係する地名(字名)として南大門・北大門・中央門・堂木などもあるようだ。

当時は利根川が変流する前で、上新田と六供は地続きであった。相当長い参道があったことになる(つまりはかなりの大寺院)。

上新田町のお地蔵さん (4)
上新田町のお地蔵さん (5)
上新田雷電神社へ向かう道沿いにもお地蔵さまがいる。詳細は分からない。
(雷電神社は「前橋市上新田町・雷電神社」参照)

お地蔵さまは古来より道祖神としての性格(村境、峠などの路傍にあって外来の疫病や悪霊を防ぐ)を持つとともに、「子供の守り神」として信仰されている。


前橋市総社町総社の勘九郎地蔵。

勘九郎地蔵 (1)
勘九郎地蔵 (2)
江戸時代末、当地には伝授庵という寺があり、そこへ勘九郎という旅の僧侶がやって来て即身仏になるための修行を重ねていた。そして村人が見守る中、立派に即身仏になられたという。この仏を敬い、明治24年(1891年)に町の人たちによって、この地蔵が建立された。現在も交通安全や学業成就などのご利益があるとされる。

ちなみに、即身仏とは生きたまま土中などに入定し(空気穴は通す)、読経や瞑想を続けながらそのままミイラ化すること。主に衆生救済を目的とする。

勘九郎地蔵 (3)
勘九郎地蔵 (4)
お堂内には奉納された地蔵像が多数収められている。多くの願が成就しているようだ。

勘九郎地蔵 (5)
お堂脇の琴平宮石塔。明治25年(1892年)の銘がある。勘九郎地蔵との関連は分からない。


前橋市総社町総社の総社城南出口の子育て地蔵尊。

総社城南出口の子育地蔵 (1)
当地付近は総社城の城下町と旧元総社村との通路として用いられており、ここに木戸を設置し南出口としていた。この付近には五千石用水から分流し小川原堰から南流する用水があり、18世紀初頭に子どもの水難事故が発生したため、その供養として石造地蔵菩薩像が造立されたという。

以後、子どもの守護や子育て地蔵尊として地域に根付いている。

総社城南出口の子育地蔵 (2)
お堂内には小さな地蔵像が多数奉納されている。ご利益があった方がお礼参り時に奉納したものだろう。

総社城南出口の子育地蔵 (3)
総社城南出口の子育地蔵 (4)
総社城南出口の子育地蔵 (5)
地蔵堂の周りには双体道祖神、馬頭観音像、庚申塔などが集積されている。双体道祖神には紀年銘は見られないが「十一月吉日 鍛冶町」とある。鍛冶町は総社町内の旧字名らしい。


前橋市元総社町の化粧薬師(縁切り薬師)。

化粧薬師 (1)
化粧薬師 (2)
化粧薬師の謂われには大蛇伝説がある。当地の風呂沼に棲みついた大蛇が若い女性を要求し、里人が従わないと田畑を荒らし回った。里人はその厄を逃れるため、やむを得ず女性を人身御供とした。そこで犠牲になった女性を哀れんで薬師仏を造立、白粉と口紅を施し女性の霊を供養したといわれる。

区画整理事業(道路拡張・河川改修など)により、平成24年(2012年)牛池川(風呂川)に架かる薬師橋の袂から現在地に移転している。

化粧薬師 (3)
化粧薬師は嫁入り前の女性の化身であるため、嫁に行く娘はここを避けて通るようになり、その一方で離縁を願う女性はその望みが叶えられたという。そのため縁切り薬師とも呼ばれる。

お堂内には願掛けの人がお礼参りのときに奉納した(と思われる)小型の石仏も置かれている。薬師如来は衆生の病苦を救うとされ、特に眼病への霊験があると信じられていることからの風習。

化粧薬師 (4)
三大仏様と呼ばれる仏塔。元文4年(1739年)の造立。一万余りの小石に仏典の法華経、華厳経、般若経を墨書し、塔の下に納めたもの。昭和57年(1982年)に再建されている。

化粧薬師同様、区画整理事業のため平成24年(2012年)に現在地へ移転している。

化粧薬師 (5)
化粧薬師 (6)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。女人講塔(如意輪観音)は文政2年(1819年)の造立。

化粧薬師 (7)
道祖神。他の施設同様、平成24(2012年)年に現在地へ移転。

化粧薬師の謂われにある大蛇は、総社町総社の蛇穴山古墳の大蛇とされる。古墳を護った大蛇(被葬者とされる上毛野田道とも)が、当地では田畑を荒らし人身御供を要求している。伝説にも都合があると言うことかな(苦笑)。
(「前橋市総社町・蛇穴山古墳」参照)


前橋市石倉町4丁目の昌林山林倉寺。

林倉寺 (1)
林倉寺は慶長2年(1597年)行海法印の開山。

林倉寺 (2)
山門は平成6年(1994年)の再建。

林倉寺 (3)
山門を入ってすぐ六地蔵が鎮座している。

林倉寺 (4)
林倉寺 (5)
本堂は明治28年(1895年)に火災により焼失。同年、再建されている。火災の原因は猟師の放った弾丸だという。それが発火、強風により延焼。

由緒書きに、本堂には本尊の阿弥陀如来と脇侍の文殊菩薩と普賢菩薩を祀るとあった。通常の阿弥陀三尊の形式は脇侍が観音菩薩と勢至菩薩なので、珍しい組合わせだ。釈迦如来三尊の場合、文殊菩薩と普賢菩薩が多いけど。

林倉寺 (6)
本堂前の伝教大師(最澄)像。平成13年(2001年)の造立。

林倉寺 (7)
十王堂は昭和63年(1988年)の再建。同時に安置されている十王像も修復を行っているようだ。

林倉寺 (8)
林倉寺 (9)
片腕地蔵。江戸時代中頃、強盗に襲われた主人の身代わりになって右腕を犠牲にしたとされ、災難を一身に引き受ける地蔵として身代わり地蔵とも呼ばれる。江戸時代末から明治期には、近郷近在の人々の信仰を集めたという。

林倉寺 (10)
庚申信仰関係の石仏・仏塔類。一番右の地蔵菩薩像には文化2年(1805年)、隣の女人講塔(如意輪観音)には文政10年(1827年)の銘が読み取れた。

林倉寺 (11)
明治天皇御野立所跡の碑。明治11年(1878年)に明治天皇が前橋町(当時)へ行幸された際、利根川には舟橋しかなかったため万一に備え林倉寺で衣服を着替えるために休息された。舟橋は川に舟を並べ、その上に板などを敷いた仮設の橋のこと。

明治天皇が利根川を渡る際には、旧前橋藩の水練師範が門人10人と共に水中から警護したという。万々が一にも、何かあったら大変だからね。


前橋市粕川町室沢の赤城山全徳寺。

全徳寺 (1)
全徳寺はの由緒は不詳だが、文禄2年(1594年)山上・常広寺の玖山東◯(◯は読めなかった)の中興開山とされる。本堂の建立が天正6年(1578年)との伝承があるので、創建はその頃かもしれない。

全徳寺 (2)
境内の念仏供養塔や馬頭観音。

全徳寺 (3)
全徳寺 (4)
本堂横の薬師堂。「東方薬師如来」との扁額が掛かっていた。薬師堂は昭和50年(1975年)の建立。

全徳寺 (5)
多数の石仏が鎮座している。薬師堂なので、みな薬師如来石像かな。「東方薬師如来」とあるが、由緒などは分からない。

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