藤岡市保美の龍冨山天陽寺。

天陽寺は永禄2年(1559年)武田家家臣で三ッ山城主・長井豊前守正實(まさざね)の開基、永源寺7世・笑山長喜和尚の開山と伝わる。天陽寺の名称は正實の法名「正實院殿天陽光春大居士」から。
慶長年間(1596~1615年)依田信盛の中興。一般的には信守と表記することが多い。この信守(信盛)の祖父も信守なので混同するが、天正18年(1590年)に藤岡を領した康勝の従兄弟(康勝の父・信蕃と信守の父・信幸が兄弟)。
創建年代については、多野藤岡地方誌(昭和51年:1976年刊)では、元亀3年(1572年)と記している(開山・開基などは同じ)。


山門横の小坊主さんは平成8年(1996年)の造立。六地蔵は山門の少し手前にある。


本堂は天保元年(1830年)火災により焼失。明治13年(1880年)に廃寺となった保美村内の富永山清福寺の木材を使い再建。昭和49年(1974年)に改修されている。
本堂に安置されている本尊は薬師如来だが、胎内に子薬師を懐胎している。そのため子持薬師と呼ばれている。

梵鐘は清福寺のものであったが、清福寺廃寺後は地区の防災用の鐘として使用されていた。そのため先の大戦時も供出を免れている。昭和49年(1974年)に天陽寺に移されている。鐘楼堂も同年の建立。

梵鐘は寛政5年(1793年)栃木佐野天明の丸山林八長暉の作。林八長暉は天明の鋳物師の名工とされるが、現存する製品が少ないため本梵鐘は貴重なものと言える。総高97cm、胴上部の乳が108個(煩悩の数)付いている。

長井正實父子のものと推定される墓(祠)。どれが誰のものかは不明という。天陽寺には正實の鎧兜などが残されていたようだが、天保元年の火災により焼失したという。


境内(墓地ではなく)に2m超える大きな宝篋印塔がある。銘が明らかに削り消されている。ご住職によると、この宝篋印塔が正實の墓の可能性もあるという。天陽寺は後に依田氏の菩提寺になっており、その際に銘が消された可能性があるということ。

中興・依田信守(信盛)夫妻の墓(信守の墓は向かって右)。

依田信政の墓。信政は信守(信盛)の弟だが、信守没後は家督を継いでいる。なお、信政の正式な墓所は東京文京区の金龍山大円寺にある。
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