藤岡市牛田の天保ききんの碑。

天保ききんの碑2 (1)
天保ききんの碑2 (2)
碑自体は「積木神社之跡」を示す碑で、昭和20年(1945年)に建立されている。当地は積木神社が鎮座していた旧地で、積木神社は明治42年(1909年)に椿社神社(藤岡市本郷)に合祀されている。

天保ききんの碑2 (3)
石宮が積木神社の名残を残している(石宮以外に常夜灯が1基あった)。

当碑が「天保ききんの碑」と呼ばれる所以は、碑の裏面に天保8年(1837年)の穀類の価格が刻まれていることから。それによると「一両二 コメ二斗、ムキ四斗、小ムキ三ト、マメ5ト」(原文ママ)とある。平年の相場が金一両で米1石とされるので、5倍も高騰価格ということになる(1石=10斗)。

天保の大飢饉は天保4年(1833年)に始まり、天保6~8年にかけて最大規模化している。主な原因は天保4年の大雨による洪水や冷害による大凶作。このような農作物の高騰は各地で一揆や打ちこわしを引き起こした。

有名なのは天保8年(1837年)大坂の大塩平八郎の乱。また、群馬でも国定忠治が私財を投げうち貧民救済にあたったといわれている。

ところで、なぜ昭和20年に建立された碑の裏面に、100年以上前の天保8年の穀類価格が刻まれているかというと、この石は元は付近の橋として使われていた(緑泥片岩製で高さ260cm・幅107cm・厚さ13cm)。

そして天保8年当時、この石橋の下に僧が住み付いていたという(今で言うところのホームレス)。この僧が食糧難による物価高の実情を石橋の裏側に刻んだものとされる。

地元の人たちは「積木神社之跡碑」を建立したのだが、知ってか知らずか「天保ききんの碑」を建立していたということになる。結果的に当時の世情を伝える貴重な資料となっている。