太田市新田市野井町の生品神社。

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生品神社の由緒は不詳。上野国神名帳には「従三位 生階明神」と記載されていることから、平安時代には存在していたと思われる。創建に関しては、豊城入彦命が新田地方の開拓に際し大己貴命(大国主命)を祀ったとの伝承がある。また、天喜年間(1053~57年)に源義家が当社で戦勝祈願をしたとも伝わる。

明治36年(1903年)・同42年(1909年)・同44年(1911年)に、市野井・反町・村田の各村内の八幡宮・稲荷社・赤城神社・菅原社など13社を合祀している。

生品神社は「太平記」にも記されている新田義貞が元弘3年(1333年)鎌倉幕府討伐の旗を挙げた地とされ、昭和9年(1934年)に「新田義貞挙兵伝説地」として国の史蹟に指定されている。その後、平成12年(2000年)には「新田荘遺跡生品神社境内」として面積を広げて指定されている。

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新田義貞の顔はめパネル。

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二の鳥居・三の鳥居。

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社殿の建立年などは分からないが、昭和45年(1970年)に修築が行われている。扁額の揮毫は陸軍大将・鈴木孝雄。終戦時の首相・鈴木貫太郎の弟。昭和13年(1938年)から昭和21年(1946年)まで靖国神社の宮司をい務めている。揮毫はその関係かな。

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地元の地酒・太平記の里(山崎酒造)。奉納酒なんだろうが、樽だけだと思われる。

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社殿前のクヌギの古木。新田義貞が挙兵の際、大中黒の新田旗をこのクヌギに掲げ戦勝を祈願したと伝えられている。かつては樹高30m以上、幹周り6mの巨木であったが、明治37年(1904年)に倒れてしまったという。平成11年(1999年)に覆屋を新築、同時に樹脂加工による保存処理を行っている。

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境内末社群。大きな石宮(左端)は白山大権現とあった。その他、八幡宮・稲荷社・赤城神社・菅原社など。

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新田義貞旗挙塚(はたごつか)跡。義貞が旗を挙げた場所と伝えられる。碑は昭和10年(1935年)の建碑。平成11年(1999年)に修復されている。

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新田義貞床几塚(しょうぎつか)跡。義貞が陣を構えたと伝えられる場所。

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皇太子殿下行啓記念碑。明治41年(1908年)とあったので後の大正天皇。

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歴史的な史蹟でもあるため、有名政治家が揮毫した標柱や碑が建っている(良い悪いは別にして)。「新田義貞公挙兵 六百五十年記念」(中曽根康弘元首相、上の写真)、「新田義貞公並一門挙兵之地址」(福田赳夫元首相、下の写真の左の標柱)。

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境内には義貞の銅像があったのだが、平成22年(2010年)2月に盗まれてしまった。この銅像は昭和16年(1941年)に地域の子どもたちなどの勤労奉仕作業、及び廃品回収作業の収益金により建てられたものだった。確か、現在も犯人は捕まっていないと思う。

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銅像の盗難を受け、地元有志らで作る「新田義貞公銅像再建委員会」が発足。太田市内を中心に全国の約1,100の個人・団体から寄付が寄せられ、平成24年(2012年)5月に新像が完成した。

新像は高さ約1.8m、重さ310kgで、盗まれた銅像(0.8m)の2倍強の大きさ。義貞の弟・脇屋義助の24代目子孫に当たる彫刻家・脇谷幸正さんが、1年をかけて制作したものである。

赤御影石で作られた高さ1mの台座上に凜々しく鎮座する姿は、まさしく「源氏の貴公子、総大将としての姿」(脇谷さん談)だ。