太田市新田中江田町の矢抜神社。
矢抜神社の由緒は不詳だが、神亀5年(728年)の創建ともいわれる。下江田村から中江田村が分村する際に、鎮守であった矢抜神社を分社し両村それぞれの鎮守としたという。分社は万治元年(1658年)とされ、その時に現在地に転祀されている。そのため両村(現在の新田中江田町と新田下江田町)に矢抜神社がある。
明治41年(1908年)に中江田村内の諏訪神社・厳島神社・浅間神社・稲荷神社・秋葉神社などを合祀している。
一の鳥居は昭和9年(1934年)の建立。
一の鳥居から200mほど進むと二の鳥居があり、境内となる。鳥居横の灯籠は寛政5年(1793年)、その後ろの比較的新しい灯籠は平成6年(1994年)の奉納。
社殿の建立年などは不詳だが、拝殿向拝には見事な龍の彫刻が施されている。
合祀の碑。矢抜神社のご祭神と明治41年に合祀した各社のことが記されている。大正9年(1920年)の建碑。
神楽殿。
社殿裏には矢抜神社古墳(木崎町2号古墳)がある。北側から見ると木が繁り大きな古墳と見間違うが、実際はわずかな「高まり」があるのみ。形状も不明とされる(円墳のような気もするが)。
墳丘上には境内末社らしき石宮が鎮座している。
当社が矢抜神社と呼ばれるようになったのは、新田義貞とともに鎌倉攻めや南北朝の戦乱で活躍した江田行義が、武運守護の鎮守として鎌倉権五郎景正を勧請したからとされる。確かに矢抜神社のご祭神に「鎌倉権五郎景正」がおられる。
景正は源義家の家臣として後三年の役(1083~87年)に参陣した際、右目を射られながらも奮闘した逸話が残る勇猛な武将。この逸話から矢抜神社としたといわれる。
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