太田市新田上江田町の江田山龍得寺。

龍得寺 (1)
龍得寺は天文元年(1532年)横瀬泰繁の開基、瑞翁建祥の開山。寛永・正保年間(1624~48年)のころ鷽岑天鷟が中興している。漢字が難しいが、1文字目は「獄の下に鳥」(がく)、4文字目は「族の下の鳥」(さく)。読みは恐らく「がくしんてんさく」ではないか。僧侶のお名前は難しい。

龍得寺 (2)
龍得寺 (3)
門前の地蔵像・如意輪漢音像などの石仏と、庚申塔・二十二夜塔など。

龍得寺 (4)
六地蔵。平成3年(1991年)の造立。

龍得寺 (5)
五輪塔塚と名付けられた五輪塔群。平成3年(1991年)に集積したようだ。

龍得寺 (6)
聖観音像。「恩返し観音」とあった。平成5年(1993年)の造立。

龍得寺 (7)
本堂などは天保11年(1840年)火災により焼失。嘉永5年(1852年)の再建。

龍得寺 (8)
石祠が3基あるが、詳細は分からない。

龍得寺 (9)
墓地には立派な宝篋印塔が多数並んでいた。

龍得寺 (10)
龍得寺 (11)
横瀬泰繁の墓。水輪に「龍得寺殿」、地輪に「天文14年(1545年) 前信州大守威岳宗虎大居士 由良信刕守源泰繁」と刻まれている。泰繁は同年の壬生合戦で討死している。

横瀬氏は武蔵七党の横山氏・猪俣氏の一族で、新田郡横瀬郷を本領とし横瀬氏を称した。岩松氏に仕えていたが、次第に実権を握り主家を圧倒していく。泰繁の代には岩松氏は事実上の傀儡と化し、横瀬氏は実質的に戦国大名化を果たした(下剋上)。泰繁の嫡子・成繁の代には岩松氏当主を殺害して金山城を奪い、由良氏と改姓している。

五輪塔に「源泰繁」とあるのは、この時既に横瀬氏(由良氏)が新田氏一族を自称していた証左になる(新田氏の本姓は「源」)。これは新田義貞の3男・義宗の子とされる貞氏が横瀬時清の娘婿となったとするから。