太田市新田上田中町の田中山長慶寺。

長慶寺2 (1)
長慶寺の由緒は不詳だが、延応元年(1239年)僧・慶弁が当地に小庵を結んだのが始まりとされる。当地は新田義重の庶長子である里見義俊の5男・田中義清(里見系田中氏の祖)の館跡とされる。

元は放(宝)光寺と称したが、第98代にして南朝第3代である長慶天皇の御陵を護る祭主となったことから、寺号を長慶寺に改称したと伝わる。

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境内には仁王像2体が鎮座する。令和元年(2019年)の奉納。

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本堂は明治9年(1876年)と同16年(1883年)の2度にわたり火災に見舞われている。本堂の再建は明治44年(1911年)。本堂前の灯籠は平成18年(2006年)の奉納。ご本尊修復記念とあった。

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境内の庚申塔類(青面金剛塔や二十二夜塔、如意輪観音像など)。

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長慶天皇御陵と伝わる宝篋印塔。

長慶天皇は第98代にして南朝第3代天皇となる。史料の少なさから在位が確認できず、正式に皇統に加えられたのは大正15年(1926年)である。長慶天皇は後亀山天皇に譲位後も、南朝への協力を求めて各地を潜幸したという伝承がある。そのため長慶天皇御陵とされる場所が全国に数多く存在する。

この宝篋印塔は銘文が確認されており、「永和2年」(1376年)「逆修 得阿弥」とある。逆修は供養を生前に自らの手で行うことを言い、得阿弥は長慶天皇が当地で名乗っていた名とされる。つまりは、長慶天皇が永和2年に自ら供養のために建てた塔となる。長慶天皇の崩御年は応永元年(1394年)なので、一応は年代的なつじつまは合っている。

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田中義清の墓とされる宝篋印塔。

こちらも紀年銘が確認されており、「貞治2年」(1363年)「義〇 往生」とある。〇(判読不能)が「清」なら義清となり都合がいい。ただ、貞治2年は明らかに年代が合わない。

田中義清の生没年は不明だが、父親の里見義俊の没年は嘉応2年(1170年)とされる。普通に考えれば、義清は平安末期から鎌倉時代初期(1150年~1210年くらい?)の人物となる。ただ、供養塔と考えればOKかな。

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「茶聖千利休居士之祖」「田中五郎義清館跡也」と刻まれた碑。平成15年(2003年)の建碑。

「田中五郎義清館跡也」は先に書いたように当地が田中義清の館跡とされているから。「茶聖千利休居士之祖」は千利休が里見系田中氏の末裔とされているから。

義清の末裔・田中千阿弥(利休の祖父)は室町幕府8代将軍・足利義政の同朋衆(将軍の近くで雑務や芸能にあたった人々のこと)であったが、故あり堺に隠居。子(利休の父親)の与兵衛が堺の有力町衆になっている。利休の幼名は与四郎で、千は祖父・千阿弥からとったとされる。

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長慶寺入口に大きな「長慶天皇ゆかりの寺 千利休先祖菩提の寺」と書かれた看板が立っている。厳密に言えば長慶天皇御陵も千利休が田中氏の末裔だということも、どちらも具体的な確証はないけど。