藤岡市藤岡の龍田山光徳寺。
光徳寺は文明2年(1470年)依田右衛門尉光玄が、父・備前守光徳の菩提を弔うため開山に鷹林伊隼を招き、信濃国佐久郡芦田村に創建。その後、天正18年(1590年)依田康勝(光玄6世)が佐久から藤岡に転封となったのに伴い、天正19年(1591年)に光徳寺も現在地に移されている。
六地蔵。駐車場の入口の鎮座している。昭和4年(1929年)に移転・修繕とあった。
山門の建立年は不明だが、昭和27年(1952年)に改修が行われている。2階には十六羅漢が安置されていたが、大正13年(1924年)に本堂に遷されている。
山門の仁王像。仁王像は平成28(2016年)造立。
山門前には2体のお地蔵さんが向かい合っている。昭和21年(1946年)の造立。
本堂は芦田村からの移転時、すべてを解体して藤岡まで運び、再び藤岡で建てたといわれる。現在の本堂は平成27年(2015年)の建立。
本堂前の子育て地蔵と厄除け猿の麼尼車(まにぐるま)。子育て地蔵は昭和59年(1984年)の造立。麼尼車は平成28年(2016年)の造立。
麼尼車が猿の形をしているのは、光徳寺にある逸話が伝えられているから。それは芦田村から本堂を移築建立の際、本堂が大きかったため人々が難渋していると、一人の旅人が三日三晩かけ猿の形をした滑車を造ってくれた。そのおかげで作業がはかどったとされる。旅人は名も告げず去ったが、名工として名高い左甚五郎であったとされる。
本堂の鬼瓦。側面には「海衆安穏」とある。ここに集まる人々が、みな安らかでありますようにとの意味。
旧本堂の鬼瓦。
観音堂。昭和63年(1988年)の建立。本尊は馬頭観音で、行基の作と伝えられる。
日航機墜落事故慰霊地蔵。昭和63年(1988年)の造立。昭和60年(1985年)の日航機事故の際、光徳寺もご遺体の安置所となったことからの造立。
芦田氏(依田氏)累代の供養塔。比較的新しいようだが、造立年などは見えなかった。
供養塔の奥に石祠があった。大きな供養塔を建てる前の芦田氏供養塔かな。
依田氏は清和源氏(多田源氏)の流れをくむ。依田光徳から芦田氏を名乗ったとされる。以降は嫡流だけが「芦田」、傍系は「依田」を名乗っていたが、信蕃(康勝の父)の代から依田姓を使用したとされるが、はっきりしていない。
光徳寺には保育園が併設されており、墓地脇に遊具がある。ジップラインまである。
【注記】
光徳寺は平成24年(2012年)に訪問し記事を書いているが、その時は本堂の建て替え中(解体されていて更地だった)であったため今回再訪した。また、前回記事に対し追加内容も多くあるので、記事の差し替えを行った。
関連
「算聖 関孝和の墓・龍田山光徳寺 その2」
「松井宗直の墓・龍田山光徳寺 その3」
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