太田市別所町の御室山円福寺。
円福寺は寛元2年(1244年)新田政義の開基、京都仁和寺から招いた静毫阿闍梨の開山。政義は新田氏の4代目(義重の曽孫)に当たる。
政義は京都大番役時(寛元2年)、鎌倉幕府に無許可で朝廷に昇殿と官位を無心したが断られると、今度は勝手に出家し大番役を中止し帰郷してしまった。その出家後の隠居寺として円福寺を創建したということ。
山門の扁額「御室山」は、江戸時代に当地を領していた旗本・筒井政憲の書。政憲は長崎奉行や江戸南町奉行などを歴任している。
本堂の建立年などは不明だが、近年の新築建立だと思われる。本堂には開基の政義以下、政氏、基氏、朝氏の位牌が安置されている。ちなみに、朝氏の子が義貞になる。また、円福寺境内には群馬県で3番目に大きい茶臼山古墳があり、本堂の位置はその後円部の東裾になる。県内に茶臼山と呼ばれる古墳は複数あり、地名から別所茶臼山古墳と呼ばれる。
茶臼山古墳は全長168mの前方後円墳で、後円部径96m・高さ14m、前方部幅65m・高さ8mを誇る。葺石・埴輪を備え、周囲には堀がめぐる。5世紀前半の築造とされる。円福寺や十二所神社の諸堂建立のため、多くが削平されている。
茶臼山古墳の前方部東裾に新田氏累代の墓(五輪塔・石層塔などが20余基)がある。その様式から鎌倉時代中期から南北朝時代のものと推定されている。このうち五輪塔1基に「沙弥道義」「元亨4年(1324年)」との銘文が確認されている。沙弥道義は開基である政義の孫・基氏の法名。基氏は義貞の祖父に当たる。
基氏没時、義貞は23歳で鎌倉攻めの9年前になる。既に父・朝氏(基氏の子)は死去しており、文保2年(1318年)には新田宗家の家督を継いでいる。
観音堂は茶臼山古墳の前方部と後円部のくびれ部に建つ。元禄14年(1701年)の建立。近年では平成18年(2006年)改修されている。
本尊の千手観音像は行基の作とされ、元は河内国(大阪)通法寺にあり源頼信・頼義などの河内源氏一族が崇敬したといわれる。源義家から義国・義重を経て、新田氏の守り本尊になったという。
七地蔵石幢。六地蔵に延命地蔵を加えたもの。茶臼山古墳前方部にある。長享3年(1489年)の紀年銘がある。銘文中にある「宗悦上座」は横瀬国繁、「宝泉禅門」は岩松満国の法名とされている。
こじんまりとした鐘楼。
馬頭観音堂。詳細不明。茶臼山古墳前方部には馬頭観音碑が数基建っており、建碑は明治期のもの。
円福寺開基である新田政義の軽挙妄動(官位無心や無許可出家、大番役の中止・帰郷)により新田氏は没落。足利氏(新田氏の親戚であり、政義妻の実家)の取り成しがあったので所領全没収にはならなかったが、新田宗家は義貞まで無位無官の一地方御家人扱いとなっている。
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