太田市脇屋町の脇屋義助館跡。

脇屋義助館跡
脇屋義助館跡といわれる地に建つ「脇屋義助公居館跡」の碑。昭和13年(1938年)の建碑。

脇屋義助は新田義貞の弟で、義貞の挙兵以降副将として奮戦している。義貞討死後は後村上天皇(第97代にして南朝2代)の勅命を受け四国・伊予(愛媛県)に渡ったが、病により興国3年(北朝は康永元年、1342年)36歳で死去している。

平成9年(1997年)刊の「太田市史 通史編 中世」によると、「桑畑中に脇屋義助館跡の碑が建っているが、館の堀跡も土居も片影すら見ることができない」とあり、当時すでに遺構などは確認できなくなっていたようだ。さらに現在では多くが住宅地化されており、逆に農地の方が少なくなっている。時の移ろいは早いものだ。

往時は義助の館に隣接し、正法寺が建っていたとされる。正法寺は万治年間(1658~61年)の火災により現在地(館跡から約1kmほど離れた場所)に移っているが、昭和23年(1948年)の開墾作業中に層塔などが出土している。それらは現在の正法寺に置かれている。

この開墾事業により、館跡の遺構はほぼ消滅したようだ。

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 「太田市脇屋町・脇屋山正法寺