太田市金山町の義重山大光院新田寺の2回目。
(1回目は「太田市金山町・義重山大光院新田寺」参照)
前回、大光院の主な建物と呑龍上人、新田義重の墓所などを紹介した。大光院には他にも遺物や伝承にちなんだものがあるので紹介する。
弁天堂。「上州太田七福神」の弁財天を祀る。本尊は厨子の中のようだ。
弁天堂のすぐ裏の雨乞いの池(古い資料には舞雲池とある)。その名の通り、干ばつの時などに雨を降らせる霊験があるという。沐浴の後に阿伽として池の水を呑龍上人(の墓前)に供えると雨を降らせる霊験があるという。
これは呑龍上人が林西寺住職の時、龍神に念仏を唱えることで雨を降らせたという伝承があるので、そこから呑龍上人に祈願すれば雨が降るとなったのだろう。
甘露水の井戸。白水がこんこんと湧き出て、干ばつ時にも涸れることがないといわれる。手にすくい取って口を漱げば香気を感じるという。現在、井戸はなく屋根を付けた土管(?)が置かれているだけのように見える(覗き込んだわけではないが)。
口碑では、越後国高田の老僧・順応が不幸にも悪疫に罹ったが百薬の効なく、最後の頼みとして塩穀を絶ち呑龍上人に祈願した。すると夢のお告げで「御廟の下に霊水あり。これを服し、これに浴し、謹んで怪しむことなかれ」と。順応は霊夢に従い霊水を服し、浴したところ3日で病が癒えたという。以後、この水を甘露水というようになった。
源次兵衛の墓。源次兵衛は武州(埼玉)の郷士の息子で、父の難病を治すため国禁を犯して鶴を猟殺(生き血を飲ませたかった)した若者。
元和2年(1616年)役人から追われる身となった源次兵衛は、呑龍上人に救いを求め大光院へ逃げ込む。呑龍上人は「窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず」と源次兵衛を庇い、大光院の住職の地位を捨て、源次兵衛とともに信州小諸の山中に身を隠した。
元和6年(1620年)に芝増上寺・観智国師の取りなし(死に際しての幕府への願い)で許され、大光院住職に復帰している。源次兵衛は形の上では出家していたので、大光院で生涯を終えている(詳細は不明)。
源次兵衛の墓を挟み、鶴塚(猟殺された鶴の供養塔かな)と如意輪観音像がある。
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