太田市金山町の義重山大光院新田寺。

大光院 (1)
慶長16年(1611年)新田氏の祖・義重に鎮守府将軍が追贈されたことから、徳川家康が義重の追善供養のため開山に呑龍上人を招き慶長18年(1613年)に創建。院号の大光院は義重の法名「大光院殿方山西公大禅定門」、寺号は新田氏(元は郡名)から。

家康は自らを源氏の一族であることにするため、義重の4男・義季の末裔を自称していた。義季の子孫が三河国へ移り松平家に入婿し、その8代目が家康ということになっている。

大光院 (2)
吉祥門は慶長20年(1615年)の建立。三つ葉葵の紋がさんぜんと輝く。平成12年(2000年)に屋根の全面修復を行い、建立当時の瓦と推定される「丸に三葉葵」の家紋が入った瓦屋根が復元されている。

大坂城落城の日に山門完成の報告を受けたので、家康が「大坂落城と山門完成の報が同時とはめでたいことである。これは徳川家にとって吉祥であるから、以後その門を吉祥門と名付け長く保存せよ」と命じたとされる。

大光院 (3)
家康の命令で創建されただけあり境内は広大だ。元は義重の父・義国の城地とされる。また境内地を調査した土井利勝らは、当地を「名山勝水古蹟霊場左右山中に烈在する。まさに『四神相応』の聖地」と家康に報告したという。

大光院 (4)
大光院 (5)
本堂は慶長18年の創建時の建立。江戸時代に6回の改修・修復が行われ、近年では大正14年(1925年)に大改修が行われている。扁額の揮毫は江戸末の有栖川宮家の尊超入道親王。

大光院 (6)
本堂前の灯籠。文政10年(1827年)の奉納。

大光院 (7)
大光院 (8)
本堂前の臥竜の松。巨龍が地に臥し、今まさに天に昇ろうとする勢いを表わすような姿から「臥龍松」と呼ばれている。呑龍上人の手植えと伝わることから「呑龍の松」とも。

臥龍松(樹齢700年といわれる)はかなり樹勢が衰えており、夏にもかかわらず幹枝のみの状況。壊死の心配も出てきている。

大光院 (9)
大光院 (10)
開山堂は昭和9年(1934年)の再建。もとの開山堂は明和8年(1771年)の建立。堂内には呑龍上人の尊像を祀る。尊像は元和8年(1622年)に上人自ら斧を取って彫刻したといわれる。高さ4尺3寸(約130cm)で、像容は上人の生き写しとされる。

大光院 (11)
大光院 (12)
梵鐘は明治42年(1909年)鋳造であったが、先の大戦時の供出。現在の梵鐘は昭和33年(1958年)落慶。

大光院 (15)
大光院 (16)
本堂の左奥にある新田義重の墓。元は金山の東麓菅ノ沢にあったものを大光院創建時に移したと伝わる。墓前の灯籠は延宝2年(1674年)幕府老中・安部正能の奉納と、元禄11年(1698年)伊勢崎藩主・酒井忠寬の奉納。ところが、灯籠が写っている写真がなかった・・・。

義重は武家の棟梁として名高い源義家の孫にあたる(義家3男・義国の長男)。父とともに関東に下向し足利荘を開拓。後に新田荘に移り同様に開拓。義重は新田荘を継承し、足利荘は弟の義康が継承した。後に「建武の新政」時に争った新田義貞と足利尊氏は両家の子孫。

大光院 (13)
大光院 (14)
呑龍上人の墓。上人は弘治2年(1556年)武蔵国埼玉郡一の割村(現春日部市)に生まれ、元和9年(1623年)入寂。世寿68。呑龍上人が捨て子などを弟子として養育したことなどの遺徳から「子育て呑龍」と呼ばれ、篤く信仰を集めている。

元和2年(1616年)孝心のため国禁を犯し保護鳥の鶴を殺してしまった源次兵衛を匿まい幕府から譴責されたが、元和7年(1621年)に赦免された逸話もある。本件に関する古蹟もあるので、その他の施設・遺跡も含めて次回ということで。