利根郡昭和村川額の赤城山雲昌寺。
雲昌寺は慶長13年(1608年)沢翁堯孝和尚の開創。その後、通岩雲達和尚が中興、寛文元年(1661年)沼田舒林寺12世・改愚厳達大和尚を迎え開山としている。覚心宗甫大和尚の時に現在地に移転している。延宝~宝永(1673~1711年)のころ。
鐘楼門側には塀があり、こちらからは境内に入れない。
鐘楼門は天保年間(1804~45年)の建立。延享3年(1747年)鋳造の梵鐘は先の大戦時に供出。現在の梵鐘は昭和28年(1953年)の鋳造。
鐘楼門前には地蔵像や青面金剛像などが並んでいる。青面金剛像は元禄(1688~1704年)の紀年銘があった。
本堂は延享~安永(1744~81年)ころの建立とされる。本堂にはご本尊の釈迦牟尼仏の他、子育延命地蔵尊も祀られている。延命地蔵像は五寸(約15cm)ほどの木彫立像。
薬師堂兼開山堂は天明~文化(1781~1818年)ころの建立。薬師像は八寸(約18cm)の木彫立像で、僧・行基の作とされる。
大ケヤキは樹齢700年と推定され、目通り8.4m、根回り20.6m、樹高(目測)10mの巨木である。樹齢から雲昌寺移転の遙か前から当地に根を張っていることになる。
弘化4年(1847年)の入原大火では、寺を挟んだ両側の集落が焼失したにもかかわらず、寺が焼けなかったのはケヤキのおかげとされる。ケヤキの南面は火を受けたが、ケヤキが火を防ぐ形になり伽藍への延焼は防げたという。そのため南面側は焦げて大きく空洞化している。根元は今も黒く炭化している。
ところで、改愚厳達大和尚が開山とし迎えられたころ、当地の検地代官となっていた岡上景能が寺の建立に協力している。寺領地を免税地とするなど便宜を図ったとされる。そのため景能の位牌が開山堂に安置されている。
岡上景能は「笠掛野御用水」の開削(現みどり市周辺の新田開発)や「榛名山北麓」の原野の開発(現東吾妻町周辺)を行ったことでも知られる。
また、先代住職・中村一雄氏は竹山道雄著「ビルマの竪琴」(市川崑監督で映画化もされた)の主人公・水島上等兵のモデルと言われている。松井田町の出身で永平寺修行中に召集。ビルマ(ミャンマー)などで従軍。復員後、昭和22年(1947年)から雲昌寺の住職を務める傍ら、昭和村の開拓に尽力。教育や文化の発展にも大きく寄与している。
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