甘楽郡甘楽町白倉の榛名山圓明院。

圓明院 (1)
圓明院は天和2年(1682年)僧・永純の開山とされる。

圓明院 (2)
六地蔵は平成6年(1994年)の造立。

圓明院 (3)
参道の両側は桜並木になっている。季節が合えばきれいな桜が堪能できることだろう。参道は昭和45年(1970年)に整備されている。

圓明院 (4)
本堂までの傾斜地も築山風にきれいに整備されている。

圓明院 (5)
石段を上ると本堂。

圓明院 (6)
圓明院 (7)
本堂は昭和30年(1955年)の建立。

圓明院 (8)
圓明院 (9)
本堂前の六地蔵石幢。元禄12年(1699年)の造立。

圓明院 (10)
天明の絹一揆の指導者・山田清助と清蔵兄弟の墓。清助は清介とも。

天明元年(1781年)江戸幕府が上州・武州の絹市に対し、改所を設置し改料を商人から徴収するとの触書を出した。この改料が実質的な運上金(租税)だとして農民が反発、反対運動を起こした。

結果的に幕府は改所設置を撤回したため、農民側の勝利という結果となった。この騒動を天明の絹一揆、絹運上騒動などと呼ぶ。しかし、当然幕府の施策に反抗したのでただでは済まず、一揆を指導した人々は逮捕・処罰されている。

そのうちの白倉村の山田清助と清蔵兄弟は八丈島への流罪となった。弟・清蔵は島へ流される前に牢死、兄・清助は八丈島で在島41年後の文政6年(1823年)に死去したといわれる。

墓石は嘉永元年(1848年)に建立されている。事件から67年後のこと。これは同様に反対運動に関わった山田家関係者(親戚筋)が「流罪者両人の墓は60年を世に遠慮して、後に建ててくれ」と遺言したことから。

墓の建立者の名前も伝わっているが、墓石からは削られている。地元では義民とされている兄弟だが、罪人でもあるので色々しがらみもあったのだろう。