渋川市赤城町溝呂木の桂峯山大蓮寺跡
大蓮寺の由緒は不詳。かなりの古刹であったとされる。明和8年(1771年)に勝保沢の名工・星野幸右衛門の父・三郎兵衛が本堂を再建した記録が残る。江戸時代末から無住となり、寺運も大きく傾き檀徒との関係も希薄になってしまった。
明治27年(1894年)に三原田の興禅寺に合併され、翌年には山門、本堂、須弥壇、本尊の阿弥陀如来までも興禅寺に移されている。また、庫裏のみ残して地区の公会堂とした。現在は「溝呂木構造改善センター」となっている。他にも消防団分署の詰所などがある。
(興禅寺は「渋川市赤城町三原田・三原田山興禅寺」参照)
旧参道には寺跡であることを思い起こさせるように石仏・仏塔類が並んでいる。この石仏群は廃寺以降、永年草土に埋もれてしまっていたのを昭和56年(1981年)に地元の人々が整理したもの。
延享9年(1752年)造立の信州高遠の石工の手による百番供養塔や、天保12年(1842年)片品村出身の名筆家・萩原賢和(藤賢和)の筆による馬頭観音石塔などがある。
墓地には長井坂城主・狩野隠岐守祐範の墓がある。狩野氏は藤原氏の出とされる。北条早雲以下北条氏に仕え、天正(1573~92年)の始めころ長井坂城主に任じられたようだ。
(長井坂城は「渋川市赤城町棚下・長井坂城跡」参照)
天正18年(1590年)豊臣秀吉の北条攻めで長井坂城は落城。時の城主である狩野隠岐守祐範は当地に土着・帰農している。
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