渋川市北橘町上南室の相ノ田地蔵尊。

相ノ田地蔵尊は木曽義仲四天王のひとり楯六郎親忠の末裔がお堂を建立し、地蔵尊を安置したのが始まりとされる。楯親忠は地蔵尊を厚く信仰していたという。親忠は寿永3年(1184年)の宇治川の戦で討死している。
義仲四天王とは一般に樋口兼光、今井兼平、根井行親、楯親忠を言う。根井行親の6男が楯親忠である。また、樋口兼光と今井兼平は兄弟で、巴御前の兄とされる。


地蔵堂は火災で焼失してしまったが、新たに石造地蔵尊を建立し地域の人々が子どもの成長や病気治癒祈願を行なってきた。団子や焼餅をお供えしていたため、いつしか焼餅地蔵尊と呼ばれるようになった。
火災後、長らく露座の状態だったようだが、大正14年(1925年)にお堂が再建されている。地蔵尊は風化したようで、お顔の凹凸などがほぼ無くなっているようだ(かわいい前掛けにばかり目が行ってしまうが)。
楯親忠の末裔と当地との関係はと言うと、義仲や親忠討死後に今井兼平の次男・兼之や根井行親の妻などが、義仲3男・義基を匿い北橘村箱田に落ち延びたとする伝承がある。そのため旧北橘村には木曽義仲やその一族に関する伝説・伝承が多く残っている。
渋川市北橘町箱田の木曽三柱神社境内にあった朝日塚古墳(現在は削平されてしまった)は義基の墓と伝わる。同じく木曽三柱神社の本殿が建っているのが将軍塚古墳で、こちらには義仲の首と遺品が納められていると伝わる。
(「渋川市北橘町箱田・木曽三柱神社」参照)
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