高崎市上小塙町の烏子(すないご)稲荷神社。
桓武天皇の延暦2年(783年)に藤原金善が山城国藤の森稲荷の分霊を勧請したのが始まりという。戦国時代には武田信玄が箕輪城攻略の際に戦勝祈願を行っている。
藤原金善については良く分からないが、当地に伝説が残っている。金善が妻と下向してきた際、当地が気に入り稲荷神を勧請しようと思いついた。そこで妻を残し山城国(京都)へ戻って行った。金善を待つ間、妻は男に欺されその男と夫婦になってしまった。山城国から分霊を勧請して戻ってきた金善を見て、妻は自分の行いを恥じ川に身を投げてしまった。金善は大いに悲しみ、烏子稲荷神社の神職となったという。
烏子と書いて「すないご」と読むのは、古くはこの辺を須苗郷(すなえごう)と言い、これが「すないご」になったようだ。烏子と書くのは烏川と氏子の造語。
寛永年間(1624~45年)に、時の高崎城主・安藤対馬守が植えたもみじ。逆さに植えられたのに、枯れることなく根づいたので、諸願成就の御神木となっている。
でも、対馬守・安藤重信は元和7年(1621年)に死去しており、寛永年間は安藤重長が高崎城主。重長は伊勢守。寛永が元和(1615~24年)の間違い、もしくは対馬守でなく伊勢守の間違いなら話が合うけど・・・。
烏子稲荷神社の社殿は、上小塙稲荷山古墳の墳丘部に建っている。直径50mの円墳で、6世紀前半の造営と推定される。2段築造で、1段目が異常に高く、通常よりも高い位置に横穴式石室があり、しかも北北西に開口している。
北向きの開口は珍しいが、榛名山の方角を向いているんだと思う。この古墳が造営された6世紀前半は、榛名山が2度大噴火しており、その噴火で亡くなった方か、噴火の被害に立ち向かった方が被葬者なのでは?
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