前橋市富士見町石井の石井山珊瑚寺の3回目。
今回は主に源頼朝や梶原景時父子の墓とされる中世の石造物について。
(過去記事は「珊瑚寺」「珊瑚寺2」参照)

地蔵堂の右奥に南北朝期の板碑や多宝塔が集積されている。

板碑が3基並んでおり、前橋市の重文に指定されている。左から正和22年(1315年)建武元年(1334年)、建武2年(1335年)の造立。

右の板碑に「源よりとも」と刻されているため、源頼朝の墓(供養塔)とされている。


南北朝期のものと推定される多宝塔。梶原景時父子の墓(供養塔)とされる。「梶原景時父子墓」と彫られている石は後世のもの。
正治年間(1199~1201年)に梶原景時の女(むすめ)が尼僧となり、源頼朝・景時と景季ら息子たちの菩提を弔うため移り住んだとされる由緒と関連する遺物となる。
源頼朝の没年は建久10年(1199年)。梶原景時は頼朝の死後も2代・頼家の宿老(13人の合議制)として重用されたが、すぐに三浦義村・和田義盛ら御家人66人の連名の弾劾を受けて失脚、鎌倉から追放された。
正治2年(1200年)梶原一族は上洛を企てたが、途中で在地の武士と諍い(戦闘)になり、一族は討死や自害をしている。
梶原景時は石橋山の合戦で、洞に隠れていた頼朝を見逃し助けたというエピソードが有名。また、嫡男の景季は宇治川の合戦で、佐々木高綱と先陣争いをしたことで名を残す。二男・景高、三男・景茂も源平の合戦に参陣している。
梶原景時の女の遺志を後の尼僧が引き継ぎ、約130年ほど経って板碑や多宝塔という形にしたと考えると、歴史は楽しいと感じる。事実は?だが。
以下、つづく。次回は「珊瑚寺の七不思議」について紹介する。
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