桐生市菱町の瑞雲山文昌寺。

文昌寺 (1)
文昌寺 (2)
文昌寺 (3)
文昌寺は開山が鳳仙寺第八世・応山牛喚大和尚ということ以外は、開基や創建年も不明である。それは天保14年(1843年)に桐生市を襲った「荒神の大火」により一堂も残さず焼失し、古文書や記録などが残っていないため。

現在の伽藍は昭和48年(1973年)~昭和60年(1985年) にかけて建立されたもの。

文昌寺 (4)
鐘楼脇に縄文時代の物と伝えられる「石棒」がある。当然お寺ができるはるか前の時代だが、男性自身を表しているとの説もある。

文昌寺 (5)
文昌寺 (6)
地蔵堂は度重なる火災により焼失し、現在のお堂は再建されたものたが、石造りのお地蔵さんは当時の姿のままという。

文昌寺 (7)
隣接地には明治5年(1872年)に廃寺となった西善院の跡地があり、そこには西善院開基・細川内膳の墓がある。西善院跡地は文昌寺が合併管理をしている。

細川内膳と言うと一般的には細川忠興(細川ガラシャの旦那)の嫡男・忠隆(ただし廃嫡される)の孫に当たる忠孝が内膳を名乗り、その後代々の当主が内膳を名乗ったことからその家系を指す。

でも、この墓に眠る「細川内膳」とは時代が違う。調べた限りでは、足利氏から下菱村を拝領した細川氏の5代目で、天文13年(1544年)に桐生助綱に滅ぼされている。理由は所持していた名馬を「寄こせ」と言われ、「嫌だ」と言ったら合戦になったらしい。

まあ名馬の件は口実で、助綱は細川氏を滅ぼしにかかっていたというところか。ちなみに、桐生助綱は桐生氏全盛時代の当主である。