吾妻郡高山村中山の牛の糞岩。

牛の糞岩 (1)
牛の糞岩とは、その見た目が「牛のフン」に似ていることから名付けられている。江戸時代中ころに書かれた書物「加沢記」には、赤根(地区名)のことを「牛の糞」と書かれており、当時は地区名が「牛の糞」と呼ばれていたようだ。

牛の糞岩 (2)
岩自体は往古の赤城山・榛名山の噴火により噴出された溶岩・岩石が、長い年月をかけ、このような形になったもの。同様の形をした岩が複数個並んでいる。

牛の糞岩 (3)
昔はここから清水が湧いており、「三国街道一の清水」と言われるほどの名水であったという。別名「三石の名水」と言われる。確か、牛の糞の形の岩が3つあったと思うので、そこから「三石」なのかな。現在、清水は枯れている。

この名水にはこんな逸話が残っている。参勤交代などで三国街道を往来していた長岡藩主・牧野忠雅は、ここを通るたびに休憩し清水を賞味した。忠雅が死の間際「死ぬ前にもう一度、三石の水が飲みたい」と所望したが、家臣は臨終に間に合うように途中の水を汲んできた。

その水を飲んだ忠雅は三石の水とは違うと見抜き、家臣は急いで汲み直して戻ってきたが忠雅は既に帰らぬ人となっていた。その家臣は責任を感じ、自害したという。

ちなみに、忠雅は天保2年(1831年)に家督を継ぎ、安政5年(1858年)に死去している。生前は幕府の老中も務めている。