吾妻郡高山村中山の中山城跡。

中山城は天正10年(1582年)北条氏の築城とされる。北条氏は本能寺の変後の神流川の合戦に勝利し、上野国の主要部分を抑えることに成功。真田氏の岩櫃城と沼田城の中間にあたる当地に城を築き、真田攻めの拠点としたとされる。天正18年(1590年)北条氏滅亡により廃城となっている。
国道145号沿いに城跡の碑と解説板がある。


城跡の碑のすぐ後ろ(北側)の山あい一帯が城跡になる。
その構造は本丸を北・西・南の三方から囲むような形で二の丸を設置し、さらに二の丸を囲むように三の丸が造られている。これに付随し、多くの曲輪が配置された要害堅固な城郭となっている。


現在はその大部分が畑や藪林となっており、本丸跡のみが多少整備されている。
夏ということもあり草は伸び放題。本来ならこういう城跡訪問は夏場を外すのだが、今回はちょっと他所に来たついでだったので。本丸跡へ続く道も草に覆われてしまっていた。誤解のないように言っておくが、こういう状況は夏場の一時期だけだと思う。

本丸跡。本丸は一辺約60mの正方形に近く、二の丸との間には深い空堀で隔てられている。

石祠が2基と五輪塔の空輪・風輪部のようなものがある(宝篋印塔の宝珠・請花のようにも見える)。向かって左側の石祠に元禄(1688~1704年)の文字が読み取れたので、廃城後も何かの祭祀場として使われていたのかもしれない。



本丸と二の丸との間の土塁や空堀。空堀は相当深い。
本丸跡にしか足を運んでいないが、中山城は相当大規模な城郭である。北条氏が真田氏攻略に本気だったことが窺える。ただその後、豊臣秀吉の裁定で真田領となっていた名胡桃城をせこい手を使って奪取したことが仇となり、結果的に滅ぼされてしまう。
中山城は廃城となり、当地は逆に真田領となったことは皮肉なことである。
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