佐波郡玉村町川井の八千矛神社。

八千矛神社 (1)
八千矛神社 (2)
八千矛神社は弘化年間(1844~48年)の創建。武運長久の神として摩利支天を祀っていたが、明治期の神仏分離により大国主神を祭神とし、その別称である八千矛神を社名としている。大国主は永禄年間(1558~70年)から祀られていたとされる。

鳥居扁額は「摩利支天宮」(写真が見づらいが)。現在も「川井の摩利支天」と呼ばれる。

八千矛神社 (3)
石段脇の巨岩。溶岩のようなので、浅間山の噴火(天明の浅間焼け)時に流れ着いたものだろうか(加工はされている)。

八千矛神社 (4)
社殿は平成12年(2000年)に屋根瓦の葺替えを行っている。

八千矛神社 (5)
拝殿破風には昇り龍の彫刻が施されている。

八千矛神社 (6)
奉納額も「摩利支天尊」。昭和47年(1972年)の奉納。この時点では八千矛神社になって約100年経っている。それだけ「摩利支天」として親しまれているということ。

八千矛神社 (7)
八千矛神社の鎮座地は川井城の楼台跡とされる。川井城は金窪城(烏川の対岸、現在の埼玉県上里町)城主・斎藤定盛(定光とも)の築城とされる。築城時期は定盛が金窪城主になってからと考えられているので、天文年間(1532~55年)あたりかな。城を守っていたのは定盛の弟・基盛である。

斎藤定盛は下茂木の法連寺を再興した斎藤盛光の嫡男。斎藤氏は関東管領・山内上杉氏の家臣であったが、上杉憲政が天文21年(1552年)に越後に逃亡すると北条氏に従っている。(斎藤盛光は「玉村町下茂木・妙日山法連寺」参照)

天正10年(1582年)の「本能寺の変」後の神流川の合戦時に、金窪城、川井城とも滝川一益軍に攻略され落城。斎藤氏は没落している。なお、川井城の落城は天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻め時との説もある。

八千矛神社 (8)
八千矛神社 (9)
社殿前の灯籠。この灯籠(2つ)の側面に、箕輪城没城後に和田氏に従っていた清水内記藤原邦正、松本兵右衛門宗炭、松本金左衛門吉勝譲が、慶長12年(1607年)に那波郡川合城に移住した、という趣旨のことが刻まれている(全部読めたわけではない。また表記は刻字を尊重)。

清水内記は斎藤定盛の娘を娶っているが、移住後帰農したと考えられる。摩利支天を祀ったのはその子孫であるという。